私が暮らしている市は、観光地であります。
したがって、夏休みにコンビニに行くと、他府県のナンバーをつけた車がたくさんある。
そして明らかに観光客だなと思われる服装やスタイルをした人々に出会う。
良いことであります。経営者も張り切っているでしょう。
コンビニだけでなく、大きなスーパーに行ってもそうです。駐車場に大きなキャンピングカーが止まっていました。
中から中学生らしい子が出てきて、慣れた様子で、お母さんと買い物です。遅れて下の子が出てきて、この男の子は、小学校の高学年ぽかったです。教員は見ただけで何年生位だなとまで考えてしまうので、これは職業病ですね。
その男の子がですね、衝撃的な発言をしたわけです。私はたまたま、です。聞く気はないんだけど、たまたま隣に駐車しちまったもんで、耳に入って来ちゃいました。
それが、タイトルのようなセリフだったわけ。
「お母さん、ここって、世界遺産なの?」
これは面白いですね。
もしかしたら、キャンピングカーで移動しているような家族なので、あちこち、世界遺産を訪ね歩いたことがあるのかもしれません。
さらに言うと、観光地でありまして、夏休みには特有の活気を呈しています。他府県から来たと思われる自動車がたくさんあります。関西じゃないのに関西弁をが聞こえてくることも。
そんな雰囲気を敏感に察して、その男の子は、お母さんに聞いてみたくなったんでしょう。
私は最初それを聞いて、世界遺産だから観光するってあるのかなと疑問が湧いた。
世界遺産に登録されようがされまいが、そんなお墨付きのようなものとは無関係に、人類の営みはそれぞれ価値があります。
世界遺産に登録された途端に、価値が跳ね上がるようなものではありません。
私が住んでいる市には、古代から人が住んでいた旧跡が残されております。どうやら縄文時代には人がいたらしい。人が住んでいる以上、そこには必死の営みがあり、生きるための努力があり、人々が協力してきた証が残されております。それらの価値は、世界遺産に登録されようが、ユネスコが何を言おうが、政府が何を言おうが、そんなこととは、無関係に独立してあるわけです。
富士山が文化遺産登録された時、テレビで万歳を叫ぶ政府関係者が映りましたが、はて、妙だなと思いましたね。コレ、なんのバンザイ?
テンションが凄くて、凄みというか、ある種の狂気さえ感じました。
富士山の文化的な価値は、政府が決めたり、ユネスコが決めたりするものではないのですがネ。
まあ、それでも一般的に、世の中の人が、世界遺産として話題になったときに興味を持つ、普通にそういうことってあるんだろうなと思います。世界遺産と書かれたハンドブックも売られていますし、世界遺産に認定されたと言う話を聞いて、興味が湧いて調べたくなったと言う事はあるんでしょう。
ハイ、そこくらいでちょうどいいです。
そこくらいまでで、充分なんです。
しかし、ワタスの高校の同級生が当時のツイートでつぶやいてましたが、日本ほど世界遺産登録を大々的に政府関係者が喜んだりニュース報道したりしてありがたがる国は見たことないと言ってました。他の国ではニュースにすらならないらしい。
今、イタリアと中国が多いそうです。世界遺産の登録数が。まぁ歴史のある国ですから。
で、彼が言うにはその2つに差ができてきているそうです。それは何かと言うと、イタリアは、だんだんともう登録に飽きてきたのか、もう登録なんてしなくていいよと言う自治体が増えてきているそうです。古代の遺跡だから登録はするが、登録をすると、守る義務が生じ、自治体としてはそれはなかなかの負担になるとの事で。
しかし、中国は割と真剣に報道もし、政府関係者が出席するそうです。つまり国威発揚、ですね。世界一を取りに来てるわけです。オリンピックの金メダルの数のように。
モロ、政治なわけ。
政治的に利用価値があるとみなされているわけです。
政治家がやろうとしてるだけなんです。地元はそうでもない。むしろ、傍迷惑だなと感じていたりします。
中国は、「中国すごい」を、言いたい。
イタリアは、別にそんなこと言わなくても良い。
この辺、ちょっとした趣味の違いなんですね。
佐渡の金山が、世界遺産に認定されたとき、岸田首相が首相官邸のホームページでメッセージを出したとニュース報道で知りました。この時岸田首相が、そのメッセージにほとんど意味のないデマを加えていたために、社会科の先生の間では少しだけ話題になりました。
それは、
「江戸時代初期に手工業で純度の高い金を精錬していたわが国の金山は、当時、世界で算出される金の量のうち1割を算出していたと言われています」
という言葉で、アカデミックな大学教授や専門家たちは、「1割って、誰が言うたの?」と、あっけにとられたそうで。
当時の産出量は、なにしろ16、17世紀のことなので、世界の生産産出量を計算している学者が当時はいなかったのです。分母がわからない。それはアカデミックに合理的に考える人たちにとっては常識のこと。
ところが、スピーチの元になった文化庁の資料には「1割」って出てきてしまうわけ。そのわけのわからない、根拠のないデマの数字が。
数字を言うと迫力が出る。日本スゴイ、が言いたくてたまらない当時の岸田首相にとって、世界の1割を算出したんですよ!ということでの【国威発揚】が、欲しかったのでしょう。喉から手が出るほど。
つまり、世界遺産と言うのは、政治的に作られている側面があるということです。
でも、別にユネスコは1割も算出しているから凄いからだから、世界遺産登録したわけではない。そこが1割だろうが、0.5割だろうが、3割だろうが、そんな数字とは無関係に価値があると判断しているわけです。だから岸田首相は言わなくても良いことを言ったわけ。言わなくてもいいのに言いたくてたまらなかったと言うところに、何かしらの狂気を感じるわけです。
日本すごいと言いたくなってしまうのはどうしてでしょう?
事実、実際の人々の営みの価値と言うものは、権威とは無関係に価値があるのです。
国が言及しようがしまいが、人間と言うのには価値があるんですよね。生まれただけで価値があるんです。命ですから。
そして人々が集団になって協力し合うのは誰かがそれに価値を認めたから、急に価値が出てくるわけではなく、誰かがそれはすごいとかすごくないとか立派だとか評価する前から価値があるわけです。評価されて、初めて価値が出てくるわけではなく、評価の前に既に価値があるわけです。
だんだんと教員向けの話になってきましたね。
そうです、通知表は価値をつけますが、あるいはつけたように見えますが、算数の欄に2重丸を記入する前から、すでに価値があるんです。我々教員がそこにを記入した書き入れたその瞬間に、価値が生まれるわけではない。
世界遺産に登録しようが、しまいが、文化的な価値はあるわけです。考えてみたら当たり前ですね。でも、多くの人は、日本すごいと誰かが言ってくれて、初めて日本には価値が出てくるんだと勘違いをしやすいんです。日本すごいと言われようが言われまいが、誰もそんなこと言わなくても価値があるんです。多くの人はそのことを知っているので、別に日本凄いと他国に言われなくても、あるいは自分自身がそれを連呼しなくても価値かあると知ってます。
しかし、中にはこういうタイプの人がいます。
「日本すごいを言わないと価値がなくなっちゃう。日本すごいと言わないのは、自虐なんだ」
いや、別に日本すごいを言わないのは自虐ではありません。
日本すごい、と、誰かに言ってほしい心象とは、何でしょうか?
報われなかった人が「日本すごい」という言葉に惹かれる心理は、いくつかの要因が絡み合って形成されていると考えられます。
人は誰しもこのような気分になる事はあります。誰だって。
そして、このような時、人は「自分自身」ではなく、「自分が所属する大きな集団」に価値を見出すことで、失われた自己肯定感を補おうとします。国家(=日本)という大きな存在を「素晴らしい」と賛美することで、その一員である自分もまた「素晴らしい」という感覚を得られるのです。これは、個人の失敗や不遇を、「日本人全体」の成功や偉大さで覆い隠そうとする心理です。これは誰でも起こり得ることなんです。
報われなかった自分の人生を直接肯定することは難しい。そこで、自分の不満や挫折を、国家という対象に投影し、その国家の偉大さを賛美することで、間接的に自分自身の価値を代償しようとします。
「私個人は成功しなかったが、私が所属する国はこんなにすごい。だから私自身も決して報われなかったわけではない」という心の安定を求めるのです。
「日本すごい」という言説は、しばしば日本の歴史や文化の美点だけを切り取って提示します。これは、現実の厳しい社会や、自分の報われなかった境遇から目をそらすための、一種の「心理的な現実逃避」として機能します。
これらの心理的メカニズムは、報われなかった個人が、失われた自己肯定感を回復させ、社会への不満を解消し、現実から目をそらすために、「日本すごい」という言葉に強く惹かれる理由を説明しています。それは、自分自身を直接肯定することが困難な時に、国家という大きな枠組みを通して自分を肯定しようとする、切実な心の動きだと言えるでしょう。

したがって、夏休みにコンビニに行くと、他府県のナンバーをつけた車がたくさんある。
そして明らかに観光客だなと思われる服装やスタイルをした人々に出会う。
良いことであります。経営者も張り切っているでしょう。
コンビニだけでなく、大きなスーパーに行ってもそうです。駐車場に大きなキャンピングカーが止まっていました。
中から中学生らしい子が出てきて、慣れた様子で、お母さんと買い物です。遅れて下の子が出てきて、この男の子は、小学校の高学年ぽかったです。教員は見ただけで何年生位だなとまで考えてしまうので、これは職業病ですね。
その男の子がですね、衝撃的な発言をしたわけです。私はたまたま、です。聞く気はないんだけど、たまたま隣に駐車しちまったもんで、耳に入って来ちゃいました。
それが、タイトルのようなセリフだったわけ。
「お母さん、ここって、世界遺産なの?」
これは面白いですね。
もしかしたら、キャンピングカーで移動しているような家族なので、あちこち、世界遺産を訪ね歩いたことがあるのかもしれません。
さらに言うと、観光地でありまして、夏休みには特有の活気を呈しています。他府県から来たと思われる自動車がたくさんあります。関西じゃないのに関西弁をが聞こえてくることも。
そんな雰囲気を敏感に察して、その男の子は、お母さんに聞いてみたくなったんでしょう。
私は最初それを聞いて、世界遺産だから観光するってあるのかなと疑問が湧いた。
世界遺産に登録されようがされまいが、そんなお墨付きのようなものとは無関係に、人類の営みはそれぞれ価値があります。
世界遺産に登録された途端に、価値が跳ね上がるようなものではありません。
私が住んでいる市には、古代から人が住んでいた旧跡が残されております。どうやら縄文時代には人がいたらしい。人が住んでいる以上、そこには必死の営みがあり、生きるための努力があり、人々が協力してきた証が残されております。それらの価値は、世界遺産に登録されようが、ユネスコが何を言おうが、政府が何を言おうが、そんなこととは、無関係に独立してあるわけです。
富士山が文化遺産登録された時、テレビで万歳を叫ぶ政府関係者が映りましたが、はて、妙だなと思いましたね。コレ、なんのバンザイ?
テンションが凄くて、凄みというか、ある種の狂気さえ感じました。
富士山の文化的な価値は、政府が決めたり、ユネスコが決めたりするものではないのですがネ。
まあ、それでも一般的に、世の中の人が、世界遺産として話題になったときに興味を持つ、普通にそういうことってあるんだろうなと思います。世界遺産と書かれたハンドブックも売られていますし、世界遺産に認定されたと言う話を聞いて、興味が湧いて調べたくなったと言う事はあるんでしょう。
ハイ、そこくらいでちょうどいいです。
そこくらいまでで、充分なんです。
しかし、ワタスの高校の同級生が当時のツイートでつぶやいてましたが、日本ほど世界遺産登録を大々的に政府関係者が喜んだりニュース報道したりしてありがたがる国は見たことないと言ってました。他の国ではニュースにすらならないらしい。
今、イタリアと中国が多いそうです。世界遺産の登録数が。まぁ歴史のある国ですから。
で、彼が言うにはその2つに差ができてきているそうです。それは何かと言うと、イタリアは、だんだんともう登録に飽きてきたのか、もう登録なんてしなくていいよと言う自治体が増えてきているそうです。古代の遺跡だから登録はするが、登録をすると、守る義務が生じ、自治体としてはそれはなかなかの負担になるとの事で。
しかし、中国は割と真剣に報道もし、政府関係者が出席するそうです。つまり国威発揚、ですね。世界一を取りに来てるわけです。オリンピックの金メダルの数のように。
モロ、政治なわけ。
政治的に利用価値があるとみなされているわけです。
政治家がやろうとしてるだけなんです。地元はそうでもない。むしろ、傍迷惑だなと感じていたりします。
中国は、「中国すごい」を、言いたい。
イタリアは、別にそんなこと言わなくても良い。
この辺、ちょっとした趣味の違いなんですね。
佐渡の金山が、世界遺産に認定されたとき、岸田首相が首相官邸のホームページでメッセージを出したとニュース報道で知りました。この時岸田首相が、そのメッセージにほとんど意味のないデマを加えていたために、社会科の先生の間では少しだけ話題になりました。
それは、
「江戸時代初期に手工業で純度の高い金を精錬していたわが国の金山は、当時、世界で算出される金の量のうち1割を算出していたと言われています」
という言葉で、アカデミックな大学教授や専門家たちは、「1割って、誰が言うたの?」と、あっけにとられたそうで。
当時の産出量は、なにしろ16、17世紀のことなので、世界の生産産出量を計算している学者が当時はいなかったのです。分母がわからない。それはアカデミックに合理的に考える人たちにとっては常識のこと。
ところが、スピーチの元になった文化庁の資料には「1割」って出てきてしまうわけ。そのわけのわからない、根拠のないデマの数字が。
数字を言うと迫力が出る。日本スゴイ、が言いたくてたまらない当時の岸田首相にとって、世界の1割を算出したんですよ!ということでの【国威発揚】が、欲しかったのでしょう。喉から手が出るほど。
つまり、世界遺産と言うのは、政治的に作られている側面があるということです。
でも、別にユネスコは1割も算出しているから凄いからだから、世界遺産登録したわけではない。そこが1割だろうが、0.5割だろうが、3割だろうが、そんな数字とは無関係に価値があると判断しているわけです。だから岸田首相は言わなくても良いことを言ったわけ。言わなくてもいいのに言いたくてたまらなかったと言うところに、何かしらの狂気を感じるわけです。
日本すごいと言いたくなってしまうのはどうしてでしょう?
事実、実際の人々の営みの価値と言うものは、権威とは無関係に価値があるのです。
国が言及しようがしまいが、人間と言うのには価値があるんですよね。生まれただけで価値があるんです。命ですから。
そして人々が集団になって協力し合うのは誰かがそれに価値を認めたから、急に価値が出てくるわけではなく、誰かがそれはすごいとかすごくないとか立派だとか評価する前から価値があるわけです。評価されて、初めて価値が出てくるわけではなく、評価の前に既に価値があるわけです。
だんだんと教員向けの話になってきましたね。
そうです、通知表は価値をつけますが、あるいはつけたように見えますが、算数の欄に2重丸を記入する前から、すでに価値があるんです。我々教員がそこにを記入した書き入れたその瞬間に、価値が生まれるわけではない。
世界遺産に登録しようが、しまいが、文化的な価値はあるわけです。考えてみたら当たり前ですね。でも、多くの人は、日本すごいと誰かが言ってくれて、初めて日本には価値が出てくるんだと勘違いをしやすいんです。日本すごいと言われようが言われまいが、誰もそんなこと言わなくても価値があるんです。多くの人はそのことを知っているので、別に日本凄いと他国に言われなくても、あるいは自分自身がそれを連呼しなくても価値かあると知ってます。
しかし、中にはこういうタイプの人がいます。
「日本すごいを言わないと価値がなくなっちゃう。日本すごいと言わないのは、自虐なんだ」
いや、別に日本すごいを言わないのは自虐ではありません。
日本すごい、と、誰かに言ってほしい心象とは、何でしょうか?
報われなかった人が「日本すごい」という言葉に惹かれる心理は、いくつかの要因が絡み合って形成されていると考えられます。
「自分は価値がない」「社会から認められていない」と感じている点。
人は誰しもこのような気分になる事はあります。誰だって。
そして、このような時、人は「自分自身」ではなく、「自分が所属する大きな集団」に価値を見出すことで、失われた自己肯定感を補おうとします。国家(=日本)という大きな存在を「素晴らしい」と賛美することで、その一員である自分もまた「素晴らしい」という感覚を得られるのです。これは、個人の失敗や不遇を、「日本人全体」の成功や偉大さで覆い隠そうとする心理です。これは誰でも起こり得ることなんです。
報われなかった自分の人生を直接肯定することは難しい。そこで、自分の不満や挫折を、国家という対象に投影し、その国家の偉大さを賛美することで、間接的に自分自身の価値を代償しようとします。
「私個人は成功しなかったが、私が所属する国はこんなにすごい。だから私自身も決して報われなかったわけではない」という心の安定を求めるのです。
「日本すごい」という言説は、しばしば日本の歴史や文化の美点だけを切り取って提示します。これは、現実の厳しい社会や、自分の報われなかった境遇から目をそらすための、一種の「心理的な現実逃避」として機能します。
これらの心理的メカニズムは、報われなかった個人が、失われた自己肯定感を回復させ、社会への不満を解消し、現実から目をそらすために、「日本すごい」という言葉に強く惹かれる理由を説明しています。それは、自分自身を直接肯定することが困難な時に、国家という大きな枠組みを通して自分を肯定しようとする、切実な心の動きだと言えるでしょう。
