30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

非認知能力

「機嫌の良い先生」を保証する

子どもにとって何が1番良いかと考えると、最終的には、機嫌の良い大人がそこにいると言う事のような気がする。

叱らないでもいいですか?

このことの本当の意味の意訳があるならば、それは「機嫌の良い先生でいる」ことの保証、であると思います。

ここまでの話をすると、多くの方は、そんな事は無理だよ、人間だもの機嫌が悪くなるに決まっている、腹を立てないなんて無理な話だ、喜怒哀楽って言うでしょう。怒りっていうのは大事な感情ですよ。

と言うような反応が返ってくる。
最後の一行はとっても大事で、怒りと言うものは本当に大事な感情であります。
その大事な感情を、本当の意味でしっかり捉えていれば、最終的に怒りと言うものは、人間の手から離れるものです。
(この辺のメカニズムについては、本ブログの検索欄で、『怒り』と検索していただければ、数々の記事がご覧になれます)

さて、多くの先生が機嫌が悪くしているのには理由があります。そのほとんどが子どもの状態や子どもの言動に起因しないと言うことが明らかになっています。

なぜなら、多くの先生たちが、体力に余裕があり、気持ちに余裕があり、時間に余裕がある場合には、子どもの言動や反応に対して、上手に対応できるからです。

原因の80%以上は、教師の疲労と言うことになるでしょう。
もちろん、これは、教員だけの問題でなく、日本人の大半の大人の人が、これと同様の状況になっていることでしょう。

疲労と言うのは、休日に少し休めば、あるいは睡眠をしっかりとれば取れると思い込んでいる人が多いと思います。
しかし、これは休養あるいは休憩と呼ばれるものの、ほんの1つの側面にしか過ぎません。
アクティブレストと言う言葉があります。積極的で体を動かしたり、知恵を動かしたり、創造的な活動をすることが、かえって大きな休養になると言うことが、アメリカの心理学会で既に証明されております。

アクティブレストは、疲労困憊した体力を回復させると言う事とは別に、今度は自分の活動に向かうために、心の準備や頭の準備、気持ちの準備と言うものを整えていくための、無理矢理日本語にすれば、休息ではなく「活力活性化」のようなもの。

今このアクティブレストに当たる活力の復帰時間は、小学校の子たちにはほとんどありません。あるとしても、該当する子はほとんど1%にも満たないと思います。100人子どもがいれば、おそらく0.5人以下でしょう。そんな時間が取れるのは。

したがって、政府はこれを子どもたちに保障すべきです。つまり、小学校の授業の時間以外に、子どもたちが自分が学習に向かうための気持ちを準備する上で、やってみたいと思えるような自由な創造的活動の時間、を、与えるのです。これは政府が子どもたちに与えるのです。

そうなると、やはり、土曜日の復活が大切になってきます。あるいは、勉強の時間を削るかですね・・・。え?無理ですか?無理ですね。

では思い切って教員の数を2倍に増やし、土曜日だけの先生を雇ったらどうでしょうか?
やりたい人はたくさんいると思います。現にうちの母親に尋ねてみると、喜んでやりたいそうです。まぁ83歳なので、本気かどうか分かりませんが。
今の日本に豊富に潤沢にある資源としては、老人の活用が社会資本として有効です。そして老人と子どもと言うのは、もともと相性が良いものだと思います。

子どもは優しいので、おばあちゃんにも優しくすると思います。まぁうちの母は少し口うるさいので、どうか分かりませんが・・・

ともかく、子どもたちが疲れていることを、見て見ないふりをすることをやめましょう。不登校の対策はそこからだと思います。子供が疲れていないという幻想にとらわれて、事実を見ないことが原因です。不登校の現象を抜本的に解消するには、学習に向かうための助走時間を作ってあげることです。それを担任がやるのではなく、その地域の優しい大人がやるのです。叱らないで、子どもに接することができる人です。毎朝8時半から10時までは、地元のじいちゃんとばあちゃんが、子どもの自主的、自発的な活動をひたすら見守るわけです。

どなたか、文科省の方が本ブログを見てくださることを祈っています。

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ぬいぐるみを用いたごっこ遊びの価値

私は教室に3つのぬいぐるみを置いている。何のためか。
私が子どもを観察して、その子の個性を見極めるツールにするためだ。

どこかへ無くなったり、雑に扱われたりするのは嫌なので、必ず私の普段いる教卓の近くに置いている。
休み時間は触って良いことになっている。

すると、子どもによっては、そのぬいぐるみを3つ使ってごっこ遊びをする。
3つと言う数字には、訳があって、2つでは、A対Bという関係しか生まれないのに対し、ABCと言う3つの立場があると、ストーリーの展開に幅が出てくる。

赤ずきんの物語でも、赤ずきんと狼だけでは面白くない。そこに子どもが考えたロボットが登場したり、急に森の妖精が現れたり、闇の帝王が出現したりする。
この辺のストーリーの作成能力や、客観的に登場人物の気持ちや行動やその様子を言語化して楽しんだりしている様子を見ると、その子の国語の語彙数や、形容詞の使い方、〇〇みたいだと言う比喩の使い方、普段考えていること、流行に敏感かどうか、多くのことがわかる。

ぬいぐるみの動きがおかしかったりすると、ケラケラと笑って、それだけで楽しい。また、こんなふうにされたら嫌だろうなとか、こんなことを言われたら、焦るだろうなとか、慌てちゃうよねとか、疑問に思うよねとか、「他者の感情」というものを学習することができる。ぬいぐるみで遊ぶと、自分以外の友達が、どんな心的状態にあるかを観察できるし、それを言語化することが可能だ(自分とは異なる心の状態を持っている、という事実は、重いものです)。
ごっこ遊びを通して、子どもたちは第三者の立場から、その時に起きている行動、気持ち、感情の動きなどを追体験することができるのだ。
これは立派な学習である。

道徳の授業で、低学年の先生が、物語に出てくる人物の顔のイラストを黒板に貼っているのを見ることがある。
登場人物の気持ちを、客観的に捉えさせるときに使われる。
これはぬいぐるみに置き換えることもできる。実際に口をパクパク動かせるタイプのパペットのようなぬいぐるみを使って子どもに考えさせ、「自分だったらこういうだろうな」「こう言いたくなるよな」と言うセリフを言わせる授業を見たこともある。

つまり、子どもたちは、楽しんで遊びながら、人間関係のあらゆる事象を勉強するのである。こんな場合、君ならどうする?こんなことを言われた場合、あなたはどんな気持ちになる?と。

教室にパペットやぬいぐるみをいくつか置いておくのはとても効果的だと思う。

お勧めのぬいぐるみのタイプは、やはりパペットだ。口がパカッと開くタイプのパペットだと、それでいかにもおしゃべりをしたような気分になれるし。また、食べちゃうこともできる。相手のキャラクターを頭からガシッと噛むこともできる。

助けてくれえ!

と、食べられた側のキャラが叫び出すと、それを聞いた白魔術師が現れて、ピンチを救うことになる。

チャイムが鳴って休み時間が終わると、どの子の顔も満足そうだ。
これは、理由があって、心理学の立場から言うと、あるストーリーを追体験すると言う行為を行うと、人の心にはカタルシスが生じて、一種の心の洗浄が行われるそうだ。

私は、これを聞いたときに、あることを思いついて、早速、クラスのトラブルメーカーであるやんちゃくんに対し、その子の好きなキャラのぬいぐるみを持ってきて、休み時間に一緒に遊ぶことにした。

そこで発見したのは、トラブルを起こしやすい子どもの場合、家ではあまりこうしたごっこ遊びをしていないということがわかった。これは、この子だけではなく、私の長い教員人生でかなり頻繁に見られる顕著な事例なので、高確率で当たっていると思う。

ぬいぐるみを使って、何度もストーリーを作り替えてたっぷり遊んだ経験のある子は、そう多くはない。
また、一緒に遊ぶ時も、遊び方に特徴が見られる。遊び方が雑であって、ストーリー展開はほぼ固定化していることだ。

強いものが出て、弱いものをやっつけると言うパターンが多い。
つまり、いつも戦っている。
一緒にどこそこを目指して冒険しようと言う、西遊記のようなお話をしようとしても、敵を倒すか、仲間割れをするか、そのどちらかになることが多い。
ストーリーはほぼ展開して行かないのである。

キャラクターに様々な要素をくっつけて、話の幅を広げようとしたり、前回こんなことがあったから、このキャラクターは◯◯が好きだとか、こんなことが苦手だというような情報は、まったく重要視されず、そんな事はどうでもいいから戦おうとなることが多い。

したがって、私の挑戦は、その子と、西遊記のように長い長いお話を続けていくことである。

毎日遊ぶわけにはいかないし、彼は彼でドッジボールもしたいのだから、私と彼がぬいぐるみで遊ぶ時間は限られている。しかし、私はめげずに、その子とぬいぐるみで遊び続けるつもりだ。

ぬいぐるみが、途中で橋から落っこちそうになり、助けてと叫んだときに、その子が後戻りして戻ってきて、大丈夫か?と声をかけて、縄をおろして、私のキャラを救ってくれようとした時、私は何度もありがとうを繰り返した。
その後、彼と私との関係は、良好である。

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部活動の質を変える方法【非認知能力の向上】

勝利と言うのは、やはり、どうしても、誰かに勝つ、あるいは、自分以外の何者かに対して優越すると言うような感じで捉えられることが多い。

簡単な例がじゃんけんで、小学校1年生でも、じゃんけんで勝つとか、負けるとか言うことに理解を示していて、勝つと嬉しそうに興奮するし、負けると残念で悔しそうな顔をする。

買ったら、〇〇がもらえるなどのような、ご褒美形式の状況がある場合、勝たなければその目的のものが手に入らないわけで、負けたら残念に思うに違いない。

だから、勝つということには、価値が置かれているし、これは大人も子供も変わらず、勝つと言うことに対して社会的な意味が与えられているのだと思う。

ところが、人類がこのシステムを採用する場合、一部の人にしか良いことがないので、人類全体から見た場合には、マイナスが生じている。
子供時代の部活動において、トーナメント方式などが採用されていることが多い。これは土曜日か、日曜日などの限られた時間を使って、スタッフを含めて、関係者が試合のスケジュールを効率的に進めるには便利だからであります。

トーナメント方式を採用する場合には、本当に勝つのは、たったの1チームのみで、残りのチームはすべて負けを経験することになり、勝利にのみ価値を置く思考スタイルを採用すると、多くの場合、マイナス面が大きい。

だから、本当に子供の心理的な安全性を最優先に考えるのであれば、トーナメント方式は良い方法とは言えない。

そう考えると、プロ野球のようにシーズンを通してずっと試合があり続けると言うのは面白いシステムだと思う。
どんなに弱小チームでも、強豪チームに今日は勝つことがある、場合によっては、大量得点を奪うこともある。
チームとしての成績もあるが、個人としての成績も、様々な尺度でデータ化される。するとチームは必ずしも強くはなかったし、優勝はしなかったが、今の自分はこのチームに多大な貢献をしているし、チャンスの場面で活躍したことがあるとか、ピンチの場面でうまく切り抜けることができたなど、大きなストーリーの中で自己を捉えることができる。

ところが、高校野球はトーナメント方式で、最後まで、涙を流さないのは、たった1校だけ。残りの参加校はことごとく涙は流すのである。

おそらく、今後、子供の成長、発達や心理的な安全を考えるのであれば、トーナメント方式は採用されなくなっていくだろう。

それよりも、コーチや指導の立場にある人々の考えがうんと変わるので、勝つことに価値を置く指導者は減り、その指導を受ける子供たちも、勝つことに価値を置くと言うよりは、もっと違う面に価値を置くようになっていくと思う。

たとえば、次のように。

・サッカーが好きで楽しんで練習を行っている自分。

・もとは嫌いだったが真剣に取り組むようになった自分。

・自分なりに工夫することができているかどうか。

・うまくいかなくても、相手に負けてもイライラせずに、次に向けて気持ちを整理できる自分。

・まわりの人にアドバイスを聞きながら練習できる自分。

・コーチの話をしっかり聞き、感謝の気持ちを持てる自分。

などのように。

勝てたからよかった、
勝てたから、自分には価値がある
負けたから良くない
負けたので、自分には価値がない

たったこれだけの貧しい価値観で、自分のことを見つめる必要はなくなる。

どんな自分なのか、このスポーツに関わっていることで、自分はどんな成長を得ているのか。
そこに、価値を置けるようになったときに、部活動のあり方は、初めて変わる。

朝から晩まで、土曜日、日曜日も無くして、全てを犠牲にしてやらなければならないという苦しい部活動は、この世から消えていく。少なくとも、怒声や罵声はきかれなくなる。「叱らないでもいいですか」。このブログのタイトルが予言した世界が、近づいている。

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