勝利と言うのは、やはり、どうしても、誰かに勝つ、あるいは、自分以外の何者かに対して優越すると言うような感じで捉えられることが多い。

簡単な例がじゃんけんで、小学校1年生でも、じゃんけんで勝つとか、負けるとか言うことに理解を示していて、勝つと嬉しそうに興奮するし、負けると残念で悔しそうな顔をする。

買ったら、〇〇がもらえるなどのような、ご褒美形式の状況がある場合、勝たなければその目的のものが手に入らないわけで、負けたら残念に思うに違いない。

だから、勝つということには、価値が置かれているし、これは大人も子供も変わらず、勝つと言うことに対して社会的な意味が与えられているのだと思う。

ところが、人類がこのシステムを採用する場合、一部の人にしか良いことがないので、人類全体から見た場合には、マイナスが生じている。
子供時代の部活動において、トーナメント方式などが採用されていることが多い。これは土曜日か、日曜日などの限られた時間を使って、スタッフを含めて、関係者が試合のスケジュールを効率的に進めるには便利だからであります。

トーナメント方式を採用する場合には、本当に勝つのは、たったの1チームのみで、残りのチームはすべて負けを経験することになり、勝利にのみ価値を置く思考スタイルを採用すると、多くの場合、マイナス面が大きい。

だから、本当に子供の心理的な安全性を最優先に考えるのであれば、トーナメント方式は良い方法とは言えない。

そう考えると、プロ野球のようにシーズンを通してずっと試合があり続けると言うのは面白いシステムだと思う。
どんなに弱小チームでも、強豪チームに今日は勝つことがある、場合によっては、大量得点を奪うこともある。
チームとしての成績もあるが、個人としての成績も、様々な尺度でデータ化される。するとチームは必ずしも強くはなかったし、優勝はしなかったが、今の自分はこのチームに多大な貢献をしているし、チャンスの場面で活躍したことがあるとか、ピンチの場面でうまく切り抜けることができたなど、大きなストーリーの中で自己を捉えることができる。

ところが、高校野球はトーナメント方式で、最後まで、涙を流さないのは、たった1校だけ。残りの参加校はことごとく涙は流すのである。

おそらく、今後、子供の成長、発達や心理的な安全を考えるのであれば、トーナメント方式は採用されなくなっていくだろう。

それよりも、コーチや指導の立場にある人々の考えがうんと変わるので、勝つことに価値を置く指導者は減り、その指導を受ける子供たちも、勝つことに価値を置くと言うよりは、もっと違う面に価値を置くようになっていくと思う。

たとえば、次のように。

・サッカーが好きで楽しんで練習を行っている自分。

・もとは嫌いだったが真剣に取り組むようになった自分。

・自分なりに工夫することができているかどうか。

・うまくいかなくても、相手に負けてもイライラせずに、次に向けて気持ちを整理できる自分。

・まわりの人にアドバイスを聞きながら練習できる自分。

・コーチの話をしっかり聞き、感謝の気持ちを持てる自分。

などのように。

勝てたからよかった、
勝てたから、自分には価値がある
負けたから良くない
負けたので、自分には価値がない

たったこれだけの貧しい価値観で、自分のことを見つめる必要はなくなる。

どんな自分なのか、このスポーツに関わっていることで、自分はどんな成長を得ているのか。
そこに、価値を置けるようになったときに、部活動のあり方は、初めて変わる。

朝から晩まで、土曜日、日曜日も無くして、全てを犠牲にしてやらなければならないという苦しい部活動は、この世から消えていく。少なくとも、怒声や罵声はきかれなくなる。「叱らないでもいいですか」。このブログのタイトルが予言した世界が、近づいている。

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