30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

「信じる」について

刃物を持った男が歩いている→畑の草を刈るお爺さんでした

田舎なので、そこら中にいるんです。
でも、それは日本人がおそらく室町時代から続けてきたことですね。

鉄の鎌、鉄の刃物を、持って歩いている!

草刈りをしてるジイサマとバアサマです。

しかし、通報されることがあります。

仕方ありません。

子どもは身の危険を感じたら、子ども110番の家に駆け込んで、大人に伝えろ、と訓練されていますから。

下校中に、同時多発的に電話が鳴り、
「刃物を持った男が出ました!」
職員室に緊張が走ります。
パトロール優先だ、今の仕事はすべてキャンセルし、職員は直ちにパトロールに出動!

同時にもう一件、

「こんどは刃物を持った女です!」

電話を受けた事務室から、さらなる声。

「今度は女か!」
「2件目です!」

バタッと職員室の扉が開いて、慌てて入ってくる刑事、いや、もとい教師たち。

「どうした!事件か」
「刃物持った男と女です」
「場所は!?」
「下校中の子どもからだそうで、その話を聞いた保護者からの電話です」
「保護者が不安で泣いてるそうです」
「保護者が!」

校長は、完全に石原裕次郎の顔で、

「みんな、行ってくれ!」
「はい!」

・・・これが、春は多いんですよ。
いえ、ほんとに不審者ってこともあるのでねえ。

頼むから、一年生の下校の時間だけは、草刈りをやめてくれ。

その時、3件目の電話が!

「刃物を持った男が、歩いてるそうです!」

歩いてる・・・。いったいどこを!?

「校庭の横の畑だそうです!」

いや、不審者ってこともあるのでねえ。

頼むから、草刈りは午前中にしてくれ。

IMG_5962

人を騙す際の言い方・フレーズ

「批判ばかりせず、対案を出してくれ」 
「自分で選んだ道だろう? 自己責任だ」 
「ウチの会社に不満があるなら、辞めればいい! 」 
「騙されたと思ってやってみてよ。体験すればきっとわかる」

こんな言い回しをする人からは、そっと離れた方が良い。

このことを道徳の授業で扱いたいが、なかなか良い指導案を作らないできてしまった。

そもそも、教員になったらやりたかったことがある。
大きくは次の2つだ。

一つ目が、大声で叱るとか叱責するとかをしない、圧迫しないこと。
これは、すでに校長先生に褒めてもらえるまで実現できた。

二つ目が、信じてしまうことの愚かさを学ぶこと。
東洋大の井上円了先生の話を以前書いたが、人間は信じやすい。特に子どもは批判的精神(岩崎武雄)が未成熟で、自分が思ったことは事実だとしやすく、その危うさを学ぶことが必要だからです。

ポイントは3つ。①権威を無批判で信じ込むな。②過信するな。③常識を無批判で受け入れるな。

肯定したいときほど、あえて自身で否定を選び、本当はどうか、と考えなくてはいけない。肯定のための否定、というのが当たり前にあるのです。

これまでも道徳の「決めつけない」という単元学習では、カルト的思考の危うさを題材にして討論したり、自分の見たものや経験したこと、聞いたことは事実と考えやすいことなどを学んだりしてきました。

(以前書いたカルト学習、という記事もどうぞご参照を)


これは、まだ自分では納得するレベルまで、形にできていない。チャレンジは継続しているけど・・・

なんとか、誰にでも実践できる手引書のようなものを作りたいと思う。
しかし、これは宗教を信じる子どもにも少し影響するから、少しデリケートなんだよね。
誤解されないよう、カルトという狭義の固定的単一思考回路が、いかに非生産的で幸福にならないか、ということです。偏執的なナショナリズムもそうですね。

まだやること多い。志半ばの今であります。

IMG_7863

『信じる』を学級ではどう扱うのか

対カルト、との距離の置き方、護り方、つきあい方のコツ。
先生方は、このスキルをどれくらい身につけていらっしゃるでしょうか。

わたしの学年・クラスではありませんでしたが、身近な事例だったので、ここで言及しておきたいと思います。

さて、そもそも、です。
「保護者と子どもを守る」というのが、担任の務めであります。
学校は、保護者を守るのが使命である。また、何よりもそれは、『子どもを一人の人格として護りきる』ためなのです。そのために、保護者も同時に護るし、世間からも護る、あらゆる誤解からも護る、というのが使命です。

そこで大事になってくるのは、「線を引く」ということであります。
Aさんが何を信じても、それは信教の自由。
Bさんが何を信じても、それも信教の自由。
王様や皇帝のいうことを「そうです」と言わなくてはならなかった中世とはちがい、現代は数々の人権獲得の闘いを経ております。人類史を後退させることはありません。「だれもが自身の良心に従って、自由に思考し、自由に発言し、自由に過ごしてよい」のです。

だから、Aさんが〇〇はゼッタイだ、とする思考を、Bさんに「押し付ける」のはちがう。
それは、Bさんの信教の自由を奪うことになります。
それはやってはいけない。学校は、Bさんの『心の自由』を守らなければならない。

このことをどうやって守り切るのか。
先生たちは、非常に難しい「舵取り」をこれからは普通にこなしていかなければならない。
つまり、カルト信教の保護者と、うまくつきあう、ということが大事になってくる。

学校はすべての人にとっての「安全基地」であるべきです。
しかしそれはあくまでも理想論であり、それをすべての学校、学校の人材が引き受けきれるかと言うとむずかしい。なぜなら、たった1人の不安さえ、まともに引き受けるのはたいへんな事だから。


今、カルト信者の親が増えています。
ここで大事なのは、そのカルトを信じる親自身をもまた、学校は護っていくのが使命だ、ということです。カルト信者だからこそ、と言った方が良いかもしれない。
カルトにはまる親、どっぷりと浸かる親、思考の安定しない親、言うことがころころ変わる親をも護る。学校は、その方を守るのが使命なのです。

学校は、そのカルト信者によってダメージを受けた親子を守ると同時に、そのカルトによる強固な「正義」をふりかざして他を責めている親子その人を、また、護るのです。
これは、なかなか難しい。

だが、今後は、学校の担任が身につけていく、大事な素養になっていくでしょう。
もしかすると、担任がそういうスキルを身につけていたとしても、肝心の管理職がそのような素養をもたず、混乱に輪をかけることになるかもしれない。教育委員会そのものが、カルトとの闘い方、付き合い方を知らない場合もあるでしょうし、そうなると地獄ですね。

これからの教育界が実は覚悟して身につけなければならないのが、この
カルトとの距離の置き方、身の護り方、つきあい方のコツ
なのです。

過去には「代理ミュンヒハウゼン症候群」の母親が、担任を陥れるという事件があり、福岡「殺人教師」事件としてマスコミでも大々的に報道されたことがありました。最初は教師が処分を受けましたが、冤罪でした。母親がカルトに染まっていたのです。ただしもうすでに二十年ほど過去の事件。完全に風化しているし、覚えている人も少ないでしょう。裁判長は、教師を無罪としました。

人格障害が疑われるような言動を繰り返す人もいる。その人のせいではなく、その人をそうさせてきた環境があったのだが、それを教育現場の一個人がすべて担い、「安全基地」として機能するのは、荷が重すぎる。
つまり、教育現場が対応する許容量を超える「対応」が求められているのが実態で、それはたしかに痩せた馬に、荷がかちすぎる、のであります。

まずは、誰もが前提としてわきまえることとして、

自分以外の他の親に向かって、あるいは子どもに向かって、

〇〇すべきだ
〇〇しないのはおかしい
〇〇じゃないとダメだ


というようなことを言わないようにする。
これだけでも徹底できれば、仮にカルト的な思考をそれぞれが持っていたとしても(持っていても良いのだ)、それが表面的に出てこず、責める行為が顕在化しないでしょう。顕在化しないことで、どれだけの人が助かるかしれない。腹では何を考えていても良い。それこそ信教の自由だ。しかし、それをもって子どもを責めるのは道理が違う。

1203479
記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ