対カルト、との距離の置き方、護り方、つきあい方のコツ。
先生方は、このスキルをどれくらい身につけていらっしゃるでしょうか。

わたしの学年・クラスではありませんでしたが、身近な事例だったので、ここで言及しておきたいと思います。

さて、そもそも、です。
「保護者と子どもを守る」というのが、担任の務めであります。
学校は、保護者を守るのが使命である。また、何よりもそれは、『子どもを一人の人格として護りきる』ためなのです。そのために、保護者も同時に護るし、世間からも護る、あらゆる誤解からも護る、というのが使命です。

そこで大事になってくるのは、「線を引く」ということであります。
Aさんが何を信じても、それは信教の自由。
Bさんが何を信じても、それも信教の自由。
王様や皇帝のいうことを「そうです」と言わなくてはならなかった中世とはちがい、現代は数々の人権獲得の闘いを経ております。人類史を後退させることはありません。「だれもが自身の良心に従って、自由に思考し、自由に発言し、自由に過ごしてよい」のです。

だから、Aさんが〇〇はゼッタイだ、とする思考を、Bさんに「押し付ける」のはちがう。
それは、Bさんの信教の自由を奪うことになります。
それはやってはいけない。学校は、Bさんの『心の自由』を守らなければならない。

このことをどうやって守り切るのか。
先生たちは、非常に難しい「舵取り」をこれからは普通にこなしていかなければならない。
つまり、カルト信教の保護者と、うまくつきあう、ということが大事になってくる。

学校はすべての人にとっての「安全基地」であるべきです。
しかしそれはあくまでも理想論であり、それをすべての学校、学校の人材が引き受けきれるかと言うとむずかしい。なぜなら、たった1人の不安さえ、まともに引き受けるのはたいへんな事だから。


今、カルト信者の親が増えています。
ここで大事なのは、そのカルトを信じる親自身をもまた、学校は護っていくのが使命だ、ということです。カルト信者だからこそ、と言った方が良いかもしれない。
カルトにはまる親、どっぷりと浸かる親、思考の安定しない親、言うことがころころ変わる親をも護る。学校は、その方を守るのが使命なのです。

学校は、そのカルト信者によってダメージを受けた親子を守ると同時に、そのカルトによる強固な「正義」をふりかざして他を責めている親子その人を、また、護るのです。
これは、なかなか難しい。

だが、今後は、学校の担任が身につけていく、大事な素養になっていくでしょう。
もしかすると、担任がそういうスキルを身につけていたとしても、肝心の管理職がそのような素養をもたず、混乱に輪をかけることになるかもしれない。教育委員会そのものが、カルトとの闘い方、付き合い方を知らない場合もあるでしょうし、そうなると地獄ですね。

これからの教育界が実は覚悟して身につけなければならないのが、この
カルトとの距離の置き方、身の護り方、つきあい方のコツ
なのです。

過去には「代理ミュンヒハウゼン症候群」の母親が、担任を陥れるという事件があり、福岡「殺人教師」事件としてマスコミでも大々的に報道されたことがありました。最初は教師が処分を受けましたが、冤罪でした。母親がカルトに染まっていたのです。ただしもうすでに二十年ほど過去の事件。完全に風化しているし、覚えている人も少ないでしょう。裁判長は、教師を無罪としました。

人格障害が疑われるような言動を繰り返す人もいる。その人のせいではなく、その人をそうさせてきた環境があったのだが、それを教育現場の一個人がすべて担い、「安全基地」として機能するのは、荷が重すぎる。
つまり、教育現場が対応する許容量を超える「対応」が求められているのが実態で、それはたしかに痩せた馬に、荷がかちすぎる、のであります。

まずは、誰もが前提としてわきまえることとして、

自分以外の他の親に向かって、あるいは子どもに向かって、

〇〇すべきだ
〇〇しないのはおかしい
〇〇じゃないとダメだ


というようなことを言わないようにする。
これだけでも徹底できれば、仮にカルト的な思考をそれぞれが持っていたとしても(持っていても良いのだ)、それが表面的に出てこず、責める行為が顕在化しないでしょう。顕在化しないことで、どれだけの人が助かるかしれない。腹では何を考えていても良い。それこそ信教の自由だ。しかし、それをもって子どもを責めるのは道理が違う。

1203479