30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

「信じる」について

サンタクロースとは何者か、と言う問いを立ててはいけない理由

サンタクロースに関しては、1年生を担任した時が一番面白かった。
クラスで2時間くらい討論した。
どこから家に入るのか?

問いの立て方が、具体的だった。
サンタって、何だろう?というような、ふわっとした問いなら、あんなに盛り上がらなかったと思う。

ところが、この時の問いは違った。
「サンタはどこから家に入るのか」
この問いは、とても具体的だった。

私が問いを立てるときに気をつけていることがある。
数学者の岡潔が本で書いていたことだ。
「問いを静かに3回繰り返して唱えろ。その間に複雑化するようであれば良い問いだとは言えない。しかしその間にシンプルに定まるようであれば良い問いだ」

色々と注釈をつけたくなったり、頭の中で解説が始まったり、枝葉の部分が増えるようであれば、それはまだ吟味されていない問いなのだ。
そして、問いと言うのは、自分の中心から発するものであるべきで、よそからの借り物ではまずい。岡潔は数学者だから、思考そのものに美しさを求めた。

さて、「サンタはどこから家に入るのか」という問いは、「サンタは何者か」という問いとは大違いである。それは、whatやwhyを問うような、東洋的な思想ではなく、How toを問う。近代の合理性に基づく、西洋的な科学的な思考であります。

従って、非常に教室の中での討論には向いている。

実際に教室の中で問うべきなのは、こういった西洋的なハウツーを話題にするのが良い。様々なアイディアが出てきても、合理性と言う1点で、全員の納得を得られる【解】が存在するからだ。

ところが、教師側が誤って、東洋的な思想を用いて、「サンタとは何者だろうか?」と言う問いを立ててしまうと、それはどこにも合理性を見出すことができず、全員が合理性と言う1点を指針にすることができなくなり、どんな解でも、それぞれの納得と言うものがあれば、それで良いと言うことになってしまう。つまりこの時の討論は、話題は広がるが、収束はしなくなる。

以前の記事に、小学1年生がこの討論をしたときのことを載せた。反響がずいぶんあり、先生の仲間から、「私もやってみました。面白かったです。」と言ってもらったりして、なるほど。問いの立て方は大事だなぁと勉強になった。


さて、今年は3年生である。
3年生の教室で、給食の時間にふと話題になったのが、サンタのそりは、なぜ飛べるのかと言う点であった。
これは、「サンタのソリは、どのような仕組みで飛んでいるのだろうか」と言う問いにすることができる。これはかなりシンプルである。岡潔のように、静かに3回繰り返しても、心の中で複雑にはならない。

これを言い出した子は、ただの面白いことを言った、ちょっと受けた、と言うだけでおしまいにするつもりだったようだ。話題にして30秒も持てば大丈夫、と言うつもりだったと思う。

ところが、私は、その問いが面白すぎて、次の時間に、15分ぐらい使って、みんなに紙を配ってその理由を書いてもらうことにした。

クラスの半数以上が、西洋的な魔法を信じていることがわかった。サンタが主体的な態度により、ソリとトナカイに、ある魔法をかけているのです。それは、魔法の粉とも言うべきもので、実際にディズニーの映画もしくはアニメの中で、サンタが、魔法の粉をふりかけたのを見ている子が何人もいました。

ここからが大事なんですが、多くの子がその行為によって、「あ!だから、そりは飛ぶことができているのだー」と納得をしたということなんです。彼らは西洋的な理解の仕方をしています。ソリは自分の知っているソリと同じです。しかし、そのソリには、具体的に粉を振りかけられたので、デバイスが、その能力を得たということです。

さらに、3割ほどの子は、理由はないが、なんとなくサンタの存在ってそんなもんなんでしょ、なんか神がかってるんでしょサンタって。
・・・という、東洋的な理解を示していました。天女が飛ぶのと、同じ納得の仕方です。あるいは浦島太郎で亀が喋るのと同じで、なんかそういったもんなんでしょと言う理解です。
ソリというデバイスに、何か具体的な、納得のできるような工夫があるのかどうかは問わないのです。「なんかそうらしい」と言う、曖昧模糊とした納得の仕方でも、大丈夫だと言う層が3割いるわけです。

少数派でしたが、クラスの1割ほどは、よくトレーニングされたトナカイが、生体デバイスとしてグレードを上げるのだと言っていました。

「にんじん食べるでしょ?」

私は古い人間で昭和生まれなので、このことを知らなかったのですが、何か、クリスマス・イブの夜ににんじんを屋外に吊り下げると言う風習があるんですか?

イブの夜、西洋の子どもたちはトナカイのために「ニンジン」を外に置いておきます。これを食べることでトナカイが超人的なパワーを得る、という説明です。

この子たちも、ただ単に、いきなりトナカイが、重たいそりとともに、空中に飛ぶわけがないと信じているわけです。
これを納得させる何かしらの処方が必要となったわけで、そこで西洋の大人社会は、イヴの夜にイベントを仕掛けます。窓の外ににんじんをぶら下げるのです。すると、世界中の子供たちがにんじんをぶら下げることになり、その子供たちの夢の詰まったにんじんを食べることにより、デバイスに変化が生じ、トナカイは空を飛べると言うことです。これは西洋理解です。

そのため、こんなふうには思わないのです。

「トナカイってのは、たまには空を飛ぶんだよ」

サンタとはそういうものだ、と言う理解はしないんですね。というかできないのです。これは西洋の合理的知性が、「そんなわけないだろう」と、否定するからですね。
ところが、東洋の子供たちは納得を先にします。天女は空を飛ぶんです。そして、龍は、風と雲をあやつって、自在に空を飛べるんです。羽がなくても。

今、クラスには、西洋的な理解で納得する子が半分、東洋的な理解で納得する子が半分。
つまり、2025年のクリスマス時点では、日本と言うのは、ちょうどその半々、中間の地点に、国民性としては位置しているんではないかと思います。

西洋の子供たちは、Howを問うことを鍛えます。
東洋の子供たちは、どちらかと言うとそうではなくて、どうしてプレゼントを配るんだろう、というような哲学、サンタの存在意義は何か、という問いをもち、全体的なストーリーとして「理解」しようとすると思います。まずは不思議な存在を受け止め受容しようとする気がします。

昭和の子どもも、TBSで放送していた、まんが日本昔ばなしで、龍の子太郎がでんでん太鼓を持って、龍の背中に乗って飛んで行きますが、あの龍には羽根なんて生えてません。それでも飛ぶことにみんな納得していたわけです。
これは合理性とは言えませんね。龍の持つ精神性と、神通力と、雲や風と言う自然の力と、「気」の流れで、ストーリーとして、龍が飛ぶのは、あり得る、と納得するのが、昔からの日本人の性質です。

「あの龍、羽が無いのに、飛ぶわけねーだろ」

と、騒ぎになった事はありません。
ところが、西洋の子供たちは違います。あくまでも合理性を追求したくなる心理性を持っております。だから、アメリカ合州国の子どもに、あのオープニングの動画を見せると、

「このドラゴン、羽が生えとらんやんけ」

と言うそうです。

確かに、エルマーと龍でも、あのドラゴンには羽根が生えていますもんね。デバイスのほうに、何か仕掛けがない限り、飛ぶわけないだろと思うわけです。だからエルマーとりゅうの挿絵では、龍はしっかりと羽を動かして飛んでおります。

東洋的理解と西洋的合理性、どちらが優れているかは分かりません。
風と気をあやつる龍と、羽を動かすドラゴン。
どこに重点を置くかが異なる国民性なわけです。

ここが、トヨタとテスラの違いです。
Appleは、東洋思想を重視したスティーブ・ジョブズがいましたので、その中間に位置します。

話が長くなったので、トヨタとテスラの違いはまた今度しますね。

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ChatGPTは日本ではまだ浸透しないと思った件

急に富山に行くことになった。
そこで、富山までの道のりを調べてみると、いくつかルートがある。
代表的な3つのルートをここで紹介しておきましょう。
1つ目は、岐阜経由・山の中をくねくねと進んでいく道。
2つ目は、新潟経由・山の中をくねくね進む道。のこりの一つ、3つ目は、新潟経由・オール高速道路(しかしこれがまたかなりの遠回り)
これで3通り、3つのルートがあったと思ってください。

私は病人を運ぶから、できるだけ山道は避けたかった。くねくね道を行くのは、どうしたって体に負担がかかりそうだからだ。
ところが、オール高速道路は道は良さそうだけれど、うんと遠回りで時間もかかるのです。
高速道路なんだけど、ちっとも早くつかない。むしろ1番時間がかかるのでした。したがって、この高速道路案は却下です。

考えられるのは、長野の山の中を抜けて新潟経由で行くか、それとも岐阜の山の中を越えていくかです。どちらも似たような時間で、ほとんどかかる時間に誤差はありません。正直、迷いました。

そこで最近、スマホにインストールしたばかりのChatGPTに聞いてみることにした。
まだ使い方はよくわからないのですが、色々と聞くと、ポンポンと返事を返してくれるようなので、もしかしたら教えてくれるかもしれないと言う期待を込めたのです。

どうなったと思いますか?

そうなんですよ。タイトルに書いた通りで、期待はずれだったんです。このままでは、まだまだ日本人には、あまり浸透はしないだろうなぁと思ったのです。

1番の問題は言葉の強さです。
おそらくChatGPTにとって、日本語はまだ苦手なのではないかと感じました。英語の直訳だと考えれば、非常に納得のいく訳し方だと思います。ChatGPTの返してくれる言葉を見て、これは元は英文だったのだろうなぁと思うと、なるほどよく雰囲気が伝わってきます。

ところが、日本語を使い慣れている我々にとっては、その言葉が、どうにもきつく聞こえてしまう。おそらく昭和世代には人気が出ないのではないかなと思います。もしかしたら今のZ世代の若者たちにとっては、AIの言うことを100%信じる人はほとんどいなさそうなので大丈夫かもしれませんが。

最初私は、時間を調べました。
そうすると、こんな結果でした。
1位 岐阜の山道 2時間53分。
2位 長野・新潟の山道 2時間57分。
3位 オール高速道路 3時間13分。

1位と2の差は4分しかなく、ほとんど誤差でしかありません。つまりかかる時間はほぼ同じと考えて良さそうです。

ここでChatGPTに丁寧に聞いてみました。
【最も曲がり道が少なく、酔いにくい体に負担のかからないルートはどれですか?】

すると、こんな回答です。
1位の岐阜の山道です。この山道は、途中、安房峠にトンネルが建設され、最も時間が少なく済みます。体に負担もかからないでしょう。

どうです。この回答を見たら誰だって、嫌な予感がしますね。私はどの道が酔いやすいか、くねくね曲がり道なのか、そして最もくねくね曲がらずに、体の負担のかからないルートは何かを聞いたのです。しかしChatGPTの回答は、時間が岐阜ルートが1番短いのだから、きっと体にも負担がかからないだろうと言う投げやりな回答でした。

私は距離も聞いてみました。
結果はこうでした。

1位 岐阜の山道 136キロ
2位 長野・新潟の山道 181キロ

賢明な皆さんであれば、この2つに45キロメートルの差があることが見てとれますね。
それにもかかわらず、時間はほとんど大差がないわけです。
皆さんはどちらがくねくね道かわかりますね。

ところが!

ChatGPTの答え→【岐阜の山道経由がお勧めです。このルートが距離も時間も短く、最も効率的なルートだといえます。昔は難所だとも言われましたが、安房峠にトンネルが整備されたおかげで、現在ではとてもスムーズに峠を越えることができます。そのため、岐阜の山道経由が最も効率的であり、体に負担がかからないルートだと言えましょう。どちらも同じ位の時間で、より短い距離を走る岐阜の山道ルートが、車に乗っている時間が短く、乗り物酔いのリスクを下げることができるのです。】

↑ こんなにはっきり言うんですよ。ChatGPTは。
それも自信に満ちて。
おそらく大いにうなずきながら、語っているんでしょう。いいかいわかるかい坊や、と言うような。
少し大人ぶった感じにも聞こえますね。ワタクシはコンピューターで、世の中のありとあらゆる情報を見て、正しく計算をした結果、あなたにこのように進言申し上げているのです。しかしあなたはそのことをしっかりと把握されていないようで、疑心暗鬼になっていますね。それは人間の浅はかさと言うようなものですよ。いいですから信じなさい。私を。

・・・って、聞こえて来ちゃいました。
はい、気のせいですが。


この話を整理してみますと、賢明な皆さんがしっかりと計算された通り、スムーズに通れてくねくね道の少ないのは、完全に長野新潟の山道経由です。逆にChatGPTがお勧めする岐阜の山道経由は、距離は短く、長野新潟の7割ほどしかないのに、それにもかかわらず、時間は同じだけかかると言うわけです。いいですか、距離は短いのに長野新潟の山道経由と同じだけ時間がかかるのですよ!

・・・という事は、きっとその道は、うんとくねくね曲がっているに違いありません。平均時速は遅く、ゆっくりとしか走れない道なのです。

しかし、改めて再度聞いたとき、AIは言い切りました。
お勧めは岐阜の山道ルートです。同じくらいの時間で、より短い距離を走るため、体に負担のかかるリスクを減らすことができるからです。乗り物酔いのリスクも減らすことができます。
私は論破王ひろゆきのような気持ちになり、時間はもう一度聞くがどのくらいなのか、そして距離はどのくらいなのか。さらに、平均時速はどのくらいと考えられるのか。ふつう、平均時速が遅い方が、山道をくねくねとより一層曲がりながら走っていると言えるのではないか。・・・という点を一つ一つChatGPTが理解しやすいように噛み砕くようにして教えていきました。

すると、最後に、ChatGPTはついに負けを認めたのです。

【おっしゃる通りです。以上の点を再度検証した結果、長野新潟経由の山道の方がよりスムーズにカーブをできる限り避けながら、スピードを落とさずに効率よく走れることがわかりました。私の説明に混乱を招く表現があり大変申し訳ありませんでした。】

潔く訂正できるところはChatGPTの良いところです。しかしさっきまでのあの断固として、岐阜の山道が最も優れているのだと断言していたあの強さ、あの自信に満ちた態度はどこから来るのでしょう。

私は日本人向けにもう少しChatGPTの仕様を変える必要があると思います。
少なくとも、言い切らないように。
語尾の最後を次のようにするのを、システムエンジニアの方、設計の方に向けて進言申し上げる次第です。

【今現時点では、〜の方が、ご要望に沿う可能性が高いかと存じます。しかし、私めのこれまでの考察の過程において、本来考慮しなければならない点を見過ごしている可能性もまだございますゆえ、もし気がかりな点がございましたら、今すぐ教えてくださるようにお願い申し上げます】

特に、われわれ昭和世代の人は強く言われると、そうなのかいなーと簡単にころっと信じ込んでしまいますので、ぜひお願いしたいところでございます。

こりゃ、子どもが使うには、まだまだだナ。

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ノストラダムスの大予言と7月5日

朝、教室に行くと子どもが日本が滅亡すると騒いでいた。
最初は冗談かと思っていたが、何人かはかなり本気にしているようで、私に訴えてきた。
私が、

「あ、そうなの!へえ」

という、いつものお決まりの返事しかしないので、その子たちは苛立っているようだった。

「滅亡しちゃうんだよ!なんでそんなに平気なの!」

そのトーンと言い方が、

「もう学校行く時間だよ!なんでそんなにゆっくりしてんの!」

というママの言い方そっくりだなあ、子どもは親をよく見てるなぁ、と思ったので、ソレが表情に出てしまった。

「あー!先生笑ってる!ひどい!」

・・・ということで、私も今回の7月5日大予言騒ぎに、どうやら巻き込まれてしまったらしい。

昭和の時代をくぐり抜けてきた我々50代は、ノストラダムスの大予言やらオウム真理教やら口裂け女等を乗り越えてきている。

大人になって

「ああ、あれは金儲けだったのだな」

とみる視点が加わることで、一気に現実世界が覚めて見えてきてしまった経験を持っている。
不安を煽り→ものを買わせる。
これは、ほとんど商売の基本中の基本で鉄則でありましょう。もちろんやり方の汚なさにはレベルがありますが、ほとんどの広告には、そういった「脅し」が紛れ込んでいる。

ある彗星が地球に近づくと、その彗星によるガスの影響で地球の大気が汚染され、一時的に空気が吸えなくなるらしい。そのためにゴムのチューブを買い求める必要がある。いよいよとなったら、そのゴムのチューブを口に加えて、ゆっくり息をしながら彗星が過ぎ去るのを待つべきだ。

この話は有名です。気になる方は『空気のなくなる日』(岩倉政治・著)を参照してください。1910年にハレー彗星が地球に近づくことがわかり、デマが流れました。当時の騒ぎを実際に映画にしたものもありますね。
私はこの話を教材にして、人はなぜ騙されるのかを学習すべきだと思いますナ。

そして、大体騙すのは、論文で勝負するような本当のアカデミックな人たちではなくて、ちょっと賢いふりをした大人であることも、子どもたちは知るべきです。
ちゃんとした知識は、文字にしてきちんと検証を入れながら読解すべきで、安易な動画で学ぶものではないと言うことも。

大体、騙す人は、身振り手振りを大きくしながら、大声で早口で喋ります。
ヒトラーがそうでした。ヒトラーは『わが闘争』を書きましたが、文章にした途端に、論理のほころびがあっという間に見えたので、それこそ信者たちも驚いたと言うエピソードがあります。
知識と言うのは、文字にした途端にはっきりしてくる。騙そう騙そうとする人の、電話口での早口を全て文字起こししてみると、ツッコミどころ満載なのがばれてしまいます。それに気づかれまいと、早口になってしまうのです。

私がそんなことをつらつら考えていると、7月5日に地球が滅亡すると言う噂を唱える子供たちが、二重にも三重にも私を取り囲みました。

多くの小学校の教員が、多分私と同じように、この7月5日のちょっとへんてこな予言をどう解釈するべきか悩んでいたと思います。もちろん3秒でそんなのは虚言だと断じることもできるのですが、私はどうも頼りなくていけません。

私は、
「ねえ!滅亡するよ!先生どうすんの?!」
と口々に言う子どもたちに対して、以下のように返答しました。

①「えー、滅亡すんの?やだなあ(棒読み)」
続けて
②「先生、来週、ひまわりの長さ測るって言ってたでしよ?どのくらい伸びたか気になってたから、あれを調べないで、死ぬのやだなあ(棒読み)」
さらに
③「そういえば火曜日はプールだったよね、暑い日になりそうだからプール入りたかったんだけど」

そのうちに、子どもたちの質問はやみまして、

「先生、しゅんくんのひまわり、もう先生の背の高さより高くなったよ」
「火曜日のプールって、2組と合同なの?佐久間先生、また平泳ぎで泳ぐ?」

という質問に変わってきたので、ホッとしました。

全国の先生方、あなたはどのように今回の騒ぎに対応しましたか?
コメント欄で教えてね!

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刃物を持った男が歩いている→畑の草を刈るお爺さんでした

田舎なので、そこら中にいるんです。
でも、それは日本人がおそらく室町時代から続けてきたことですね。

鉄の鎌、鉄の刃物を、持って歩いている!

草刈りをしてるジイサマとバアサマです。

しかし、通報されることがあります。

仕方ありません。

子どもは身の危険を感じたら、子ども110番の家に駆け込んで、大人に伝えろ、と訓練されていますから。

下校中に、同時多発的に電話が鳴り、
「刃物を持った男が出ました!」
職員室に緊張が走ります。
パトロール優先だ、今の仕事はすべてキャンセルし、職員は直ちにパトロールに出動!

同時にもう一件、

「こんどは刃物を持った女です!」

電話を受けた事務室から、さらなる声。

「今度は女か!」
「2件目です!」

バタッと職員室の扉が開いて、慌てて入ってくる刑事、いや、もとい教師たち。

「どうした!事件か」
「刃物持った男と女です」
「場所は!?」
「下校中の子どもからだそうで、その話を聞いた保護者からの電話です」
「保護者が不安で泣いてるそうです」
「保護者が!」

校長は、完全に石原裕次郎の顔で、

「みんな、行ってくれ!」
「はい!」

・・・これが、春は多いんですよ。
いえ、ほんとに不審者ってこともあるのでねえ。

頼むから、一年生の下校の時間だけは、草刈りをやめてくれ。

その時、3件目の電話が!

「刃物を持った男が、歩いてるそうです!」

歩いてる・・・。いったいどこを!?

「校庭の横の畑だそうです!」

いや、不審者ってこともあるのでねえ。

頼むから、草刈りは午前中にしてくれ。

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人を騙す際の言い方・フレーズ

「批判ばかりせず、対案を出してくれ」 
「自分で選んだ道だろう? 自己責任だ」 
「ウチの会社に不満があるなら、辞めればいい! 」 
「騙されたと思ってやってみてよ。体験すればきっとわかる」

こんな言い回しをする人からは、そっと離れた方が良い。

このことを道徳の授業で扱いたいが、なかなか良い指導案を作らないできてしまった。

そもそも、教員になったらやりたかったことがある。
大きくは次の2つだ。

一つ目が、大声で叱るとか叱責するとかをしない、圧迫しないこと。
これは、すでに校長先生に褒めてもらえるまで実現できた。

二つ目が、信じてしまうことの愚かさを学ぶこと。
東洋大の井上円了先生の話を以前書いたが、人間は信じやすい。特に子どもは批判的精神(岩崎武雄)が未成熟で、自分が思ったことは事実だとしやすく、その危うさを学ぶことが必要だからです。

ポイントは3つ。①権威を無批判で信じ込むな。②過信するな。③常識を無批判で受け入れるな。

肯定したいときほど、あえて自身で否定を選び、本当はどうか、と考えなくてはいけない。肯定のための否定、というのが当たり前にあるのです。

これまでも道徳の「決めつけない」という単元学習では、カルト的思考の危うさを題材にして討論したり、自分の見たものや経験したこと、聞いたことは事実と考えやすいことなどを学んだりしてきました。

(以前書いたカルト学習、という記事もどうぞご参照を)


これは、まだ自分では納得するレベルまで、形にできていない。チャレンジは継続しているけど・・・

なんとか、誰にでも実践できる手引書のようなものを作りたいと思う。
しかし、これは宗教を信じる子どもにも少し影響するから、少しデリケートなんだよね。
誤解されないよう、カルトという狭義の固定的単一思考回路が、いかに非生産的で幸福にならないか、ということです。偏執的なナショナリズムもそうですね。

まだやること多い。志半ばの今であります。

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『信じる』を学級ではどう扱うのか

対カルト、との距離の置き方、護り方、つきあい方のコツ。
先生方は、このスキルをどれくらい身につけていらっしゃるでしょうか。

わたしの学年・クラスではありませんでしたが、身近な事例だったので、ここで言及しておきたいと思います。

さて、そもそも、です。
「保護者と子どもを守る」というのが、担任の務めであります。
学校は、保護者を守るのが使命である。また、何よりもそれは、『子どもを一人の人格として護りきる』ためなのです。そのために、保護者も同時に護るし、世間からも護る、あらゆる誤解からも護る、というのが使命です。

そこで大事になってくるのは、「線を引く」ということであります。
Aさんが何を信じても、それは信教の自由。
Bさんが何を信じても、それも信教の自由。
王様や皇帝のいうことを「そうです」と言わなくてはならなかった中世とはちがい、現代は数々の人権獲得の闘いを経ております。人類史を後退させることはありません。「だれもが自身の良心に従って、自由に思考し、自由に発言し、自由に過ごしてよい」のです。

だから、Aさんが〇〇はゼッタイだ、とする思考を、Bさんに「押し付ける」のはちがう。
それは、Bさんの信教の自由を奪うことになります。
それはやってはいけない。学校は、Bさんの『心の自由』を守らなければならない。

このことをどうやって守り切るのか。
先生たちは、非常に難しい「舵取り」をこれからは普通にこなしていかなければならない。
つまり、カルト信教の保護者と、うまくつきあう、ということが大事になってくる。

学校はすべての人にとっての「安全基地」であるべきです。
しかしそれはあくまでも理想論であり、それをすべての学校、学校の人材が引き受けきれるかと言うとむずかしい。なぜなら、たった1人の不安さえ、まともに引き受けるのはたいへんな事だから。


今、カルト信者の親が増えています。
ここで大事なのは、そのカルトを信じる親自身をもまた、学校は護っていくのが使命だ、ということです。カルト信者だからこそ、と言った方が良いかもしれない。
カルトにはまる親、どっぷりと浸かる親、思考の安定しない親、言うことがころころ変わる親をも護る。学校は、その方を守るのが使命なのです。

学校は、そのカルト信者によってダメージを受けた親子を守ると同時に、そのカルトによる強固な「正義」をふりかざして他を責めている親子その人を、また、護るのです。
これは、なかなか難しい。

だが、今後は、学校の担任が身につけていく、大事な素養になっていくでしょう。
もしかすると、担任がそういうスキルを身につけていたとしても、肝心の管理職がそのような素養をもたず、混乱に輪をかけることになるかもしれない。教育委員会そのものが、カルトとの闘い方、付き合い方を知らない場合もあるでしょうし、そうなると地獄ですね。

これからの教育界が実は覚悟して身につけなければならないのが、この
カルトとの距離の置き方、身の護り方、つきあい方のコツ
なのです。

過去には「代理ミュンヒハウゼン症候群」の母親が、担任を陥れるという事件があり、福岡「殺人教師」事件としてマスコミでも大々的に報道されたことがありました。最初は教師が処分を受けましたが、冤罪でした。母親がカルトに染まっていたのです。ただしもうすでに二十年ほど過去の事件。完全に風化しているし、覚えている人も少ないでしょう。裁判長は、教師を無罪としました。

人格障害が疑われるような言動を繰り返す人もいる。その人のせいではなく、その人をそうさせてきた環境があったのだが、それを教育現場の一個人がすべて担い、「安全基地」として機能するのは、荷が重すぎる。
つまり、教育現場が対応する許容量を超える「対応」が求められているのが実態で、それはたしかに痩せた馬に、荷がかちすぎる、のであります。

まずは、誰もが前提としてわきまえることとして、

自分以外の他の親に向かって、あるいは子どもに向かって、

〇〇すべきだ
〇〇しないのはおかしい
〇〇じゃないとダメだ


というようなことを言わないようにする。
これだけでも徹底できれば、仮にカルト的な思考をそれぞれが持っていたとしても(持っていても良いのだ)、それが表面的に出てこず、責める行為が顕在化しないでしょう。顕在化しないことで、どれだけの人が助かるかしれない。腹では何を考えていても良い。それこそ信教の自由だ。しかし、それをもって子どもを責めるのは道理が違う。

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