五輪の話くらいしないと、給食すら無言で食べ、隣のクラスは学級閉鎖だというのに、学校が明るい雰囲気にならない。
カーリングは子どもたちもニュースを見ていて、
「メダルははじめてだって」
「途中でおやつを食べるんだってね」
「ルールがわからんね」
などといって、ちょっとおもしろがっている。
そこで、『ものごとというのは上流から学んだ方が効率が良い』というハーバード大学の教授の説にしたがって、五輪の発祥と、オリンピック憲章について学ぶことにした。
これまで総合の時間に学んできたSDGsのまとめにもつながると判断したからだ。
さて、オリンピック憲章には、オリンピックの競技大会の定義が明記されている。
国家同士の競争ではない、というところがミソだ。
これを読んでから、みんなならどう変えるか、アイデアを出し合った。
「がんばれ、ニッポン」⇒「がんばれ、〇〇〇」
当然のように意見がたくさん出てきたが、
・がんばれ、みんな
・がんばれ、にんげん
・がんばれ、おれたち
・がんばれ、アスリート
・がんばれ、スポーツ
などと意見が出た。
その後、オリンピックの目的を考えた。
当然のように、「勝つため」「勝ってテレビにでること」「メダルをゲットする」などが出る。
これは予測される発言であるが、ここからが小学生があれこれと考える場になる。
そこで、
「勝つためならば何をしても良いか」
と問うと、これはみんな黙ってしまい、その後少しずつ意見が出てくる。
・なにをしてもいいわけではない。
・だからといって薬とかドーピングとかはダメ
・身体をこわしてしまうような練習はやめた方がいいと思う など。
SDGsの学習をすすめるとき、最初は、便利さを追求するのは良いことだ、という意見もあった。
しかし、だからといって、なんでも使い捨てで良いのか、というと、それはいやだ、ということになった。つまり、自分の選んだ手段が、本当に本来の目的にたどりつくものなのか、ということをきちんと考えていくべきだ、というのだ。本末転倒でもよい、という考えでは、実際に人間は大きな損をしてきている。SDGsの学習では「本末転倒はやめよう」ということを学んできた。
小学生がSDGsを学ぶ意味というのは、人間が考える、手段と目的との相互関連を学ぶことが主眼なのだろう、と思う。
オリンピックでも、手段はなにか、本来の目的はなにか、ということから考えていく。
そうすると、「国家のためにドーピングをし、無理やりにでもメダルをとる」というのは、価値があるのかどうか、という議論になってくる。
国によっては、メダルさえとれば生涯にわたって報奨金を受け取ることができるなど、選手の「参加動機」を無理やりにねじまげてしまうほどのシステムも存在する。本来のスポーツの目的ははるかどこかへ消えてしまい、メダルをとるのが「大金をもらう」ことに直結するのだし、それが目的になる。選手間にドーピングが流行するのも、無理もない話で、システムからしてそうなるようになっている。
授業の終わりに、もう一度、オリンピックの目的はなにか、ということを問う。
〇他の国の選手と交流し、おたがいにがんばろうと誓う場
〇他の国の選手と知り合ってどうやったらもっとうまくいくか、情報交換する場
子どもたちは、オリンピックの選手たちも、いつもの学校のように、教室でやっているように、知恵を集めて話し合うといい、と考えている。
カーリングの選手たちが、もぐもぐタイムでエネルギー補給をしながら、後半戦の作戦を立てるために話し合っているシーンが、テレビで何度も放映され、有名になった。子どもたちのイメージは、あれである。教室でも同じだ。親近感がわく。みんなで知恵を出すのが、もっとも幸福に至る近道。
「1位になった国の選手に、どうやったら上手になれるのか、あとで、みんながきいてもいいような時間をつくればいいのに」
「そうそう。すぐ帰っちゃもったいない」
まあ、そんなオリンピックの光景があるとしたら、ほのぼのとして面白いかもね。
カーリングは子どもたちもニュースを見ていて、
「メダルははじめてだって」
「途中でおやつを食べるんだってね」
「ルールがわからんね」
などといって、ちょっとおもしろがっている。
そこで、『ものごとというのは上流から学んだ方が効率が良い』というハーバード大学の教授の説にしたがって、五輪の発祥と、オリンピック憲章について学ぶことにした。
これまで総合の時間に学んできたSDGsのまとめにもつながると判断したからだ。
さて、オリンピック憲章には、オリンピックの競技大会の定義が明記されている。
Olympic Games
1. The Olympic Games are competitions between athletes in individual or team events and
not between countries. They bring together the athletes selected by their respective
NOCs, whose entries have been accepted by the IOC. They compete under the technical
direction of the IFs concerned.
オリンピック競技大会とは
1. オリンピック競技大会は、 個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない。 大会には NOC が選抜し、 IOC から参加登録申請を認められた選手が集う。選手は国際競技連盟 の技術面での指導のもとに競技する。
国家同士の競争ではない、というところがミソだ。
これを読んでから、みんなならどう変えるか、アイデアを出し合った。
「がんばれ、ニッポン」⇒「がんばれ、〇〇〇」
当然のように意見がたくさん出てきたが、
・がんばれ、みんな
・がんばれ、にんげん
・がんばれ、おれたち
・がんばれ、アスリート
・がんばれ、スポーツ
などと意見が出た。
その後、オリンピックの目的を考えた。
当然のように、「勝つため」「勝ってテレビにでること」「メダルをゲットする」などが出る。
これは予測される発言であるが、ここからが小学生があれこれと考える場になる。
そこで、
「勝つためならば何をしても良いか」
と問うと、これはみんな黙ってしまい、その後少しずつ意見が出てくる。
・なにをしてもいいわけではない。
・だからといって薬とかドーピングとかはダメ
・身体をこわしてしまうような練習はやめた方がいいと思う など。
SDGsの学習をすすめるとき、最初は、便利さを追求するのは良いことだ、という意見もあった。
しかし、だからといって、なんでも使い捨てで良いのか、というと、それはいやだ、ということになった。つまり、自分の選んだ手段が、本当に本来の目的にたどりつくものなのか、ということをきちんと考えていくべきだ、というのだ。本末転倒でもよい、という考えでは、実際に人間は大きな損をしてきている。SDGsの学習では「本末転倒はやめよう」ということを学んできた。
小学生がSDGsを学ぶ意味というのは、人間が考える、手段と目的との相互関連を学ぶことが主眼なのだろう、と思う。
オリンピックでも、手段はなにか、本来の目的はなにか、ということから考えていく。
そうすると、「国家のためにドーピングをし、無理やりにでもメダルをとる」というのは、価値があるのかどうか、という議論になってくる。
国によっては、メダルさえとれば生涯にわたって報奨金を受け取ることができるなど、選手の「参加動機」を無理やりにねじまげてしまうほどのシステムも存在する。本来のスポーツの目的ははるかどこかへ消えてしまい、メダルをとるのが「大金をもらう」ことに直結するのだし、それが目的になる。選手間にドーピングが流行するのも、無理もない話で、システムからしてそうなるようになっている。
授業の終わりに、もう一度、オリンピックの目的はなにか、ということを問う。
〇他の国の選手と交流し、おたがいにがんばろうと誓う場
〇他の国の選手と知り合ってどうやったらもっとうまくいくか、情報交換する場
子どもたちは、オリンピックの選手たちも、いつもの学校のように、教室でやっているように、知恵を集めて話し合うといい、と考えている。
カーリングの選手たちが、もぐもぐタイムでエネルギー補給をしながら、後半戦の作戦を立てるために話し合っているシーンが、テレビで何度も放映され、有名になった。子どもたちのイメージは、あれである。教室でも同じだ。親近感がわく。みんなで知恵を出すのが、もっとも幸福に至る近道。
「1位になった国の選手に、どうやったら上手になれるのか、あとで、みんながきいてもいいような時間をつくればいいのに」
「そうそう。すぐ帰っちゃもったいない」
まあ、そんなオリンピックの光景があるとしたら、ほのぼのとして面白いかもね。