30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

コロナあれこれ

【心配】修学旅行行けるのか?

9月末に実施予定の修学旅行。
わたしの勤務校では、県内に予定を変更して計画してきた。

ところが、予測に反して、以前よりもコロナ禍の状況はひどくなってきている。
ニュースによれば
国立感染症研究所の推定によると、首都圏の新規感染者に占めるインド由来のデルタ株感染の割合は、4日時点で89%に到達。
だそうである。

なぜこんなに短期間に、デルタ株、というのが拡がってしまったのか。
理由は、その感染力にあるらしい。
デルタ株というのは、水疱瘡並みで、いわゆる感染力が爆発的だそうだ。水疱瘡は一人がかかるとどんどんと広がる。保育園でも小学校でも、油断していると非常に恐ろしい感染力を持つ。


以下は、時事通信社のニュース。
『感染者数は、日本時間5日正午時点で約2億19万人。国別では、米国(約3530万人)が最多で、インド(約3177万人)、ブラジル(約2000万人)、ロシア(約627万人)、フランス(約627万人)が続く。世界の死者は425万人以上。
 世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は7月30日の記者会見で、デルタ株が130カ国以上で検出されたことを明らかにし「なぜこれほど簡単に広がるのか世界の専門家と解明作業を続けている」と語った。』


要するに、これからは、このデルタ株が日本中を席巻するであろう、ということが
科学的・合理的に考えると、予想される、というわけ。

では、デルタ株というのはどんな特徴をもつのか。
1つめは、ワクチンに対しての特徴。

従来型に対しては1回の接種で57%の人に十分な抗体ができたのに対して、デルタ株の場合は1回の接種では37%にとどまっています。そして2回の接種を完了すれば、従来型だと99%、デルタ株でも97%と、9割を超える有効性が分かっています。(日テレEニュースの記事6/24より:抜粋)

ということらしい。
また、さらに新しいmsnニュース(7/28)によると、

ワクチン接種が最も進んでいるイギリスやイスラエルでもデルタ株による新規感染者数はものすごい勢いで増えています(図6)。イギリスでは既に約8割の人が抗体を持っているとのデータがあるにもかかわらず、です。イスラエルではファイザーのワクチンは95%デルタ株の感染を防ぐとされていましたが、その後64%に訂正されました。つまり、ワクチンを接種していてもデルタ株の感染は抑えきれない、ということです。ただ、接種していることで入院や重症化といったリスクは両国で確実に下がっているようです。

だそうだ。
要するに、『1人が8人~9人を感染させるほどの強い感染力を持ち、幼児からお年寄りまで全年齢の人がかかってしまう「かかりやすさ」を誇り、体力のある若い人さえ感染させるデルタ株』ということである。

わたしが小学校の教師として不安に思うのは、若い人にも感染する、ということである。子どもの感染はどうなのだろうか。

もう本音を言うと、修学旅行などやっている場合ではないと思う。
修学旅行の直後になって、クラスに感染者が出たら、と想像すると怖い。
そうなってしまったら、きっと「中止にしたらよかった」と思うことだろう。
悔やんでも悔やみきれないにちがいない。

というか、なにか社会全体としての手を打てないものかといつも思う。
日本中の人が集まって、こうしよう、ああしよう、と話し合うことができないものだろうか。
全員で話し合うのは無理だから、地域から代表者が集まって、コロナの対策の知恵を出し合うということにならないだろうか。

とくに、東京では、感染しても入院できない、ということになっているようだ。
こうなると、外出を控えたくなる。
医療に期待ができなくなっているのは恐ろしい。
呼吸が困難になったとしても、点滴が必要になったとしても、すぐには病院にかかれないのだから。
やがて、みんな、買い物を控え、飲食を控え、旅行を控えることになるだろう。
政府は自粛を呼びかけるが、そのこと自体には、あまり意味がないのかもしれない。
なぜなら、世の中の人は、「怖さ」がわかれば、自分から出歩かないようになるだろうから。つまり、「自粛」というのは、本当に自分の意思で、自粛するようになるのだろう。
自分の意思で、と言う部分が重要である。それは決して、政府が呼びかけたからではない。
みんな、自分を守ろうとして、
「買い物を控え、飲食を控え、旅行を控えることになる」のである。
それをだれもとめることができない。

経済をまわしたのはやまやま。でも、それが不可能になる。
恐ろしい未来予測だが、外れてほしい予測だが、合理的に考えるとそうなってしまう。
なにせ、感染して呼吸が苦しくなったとしても、病院は人を受け入れる余裕が無いのだから・・・
つまり、感染者が増えれば増えるほど、本来であれば救えたような「重症ではない患者」を救えなくなる。コロナで死ぬというよりも、酸素吸入の必要はない軽症のうちに治せないから死ぬ、のでありましょう。これは人災なのかもしれません。

都市圏のデパートではクラスタが発生したところがあり、休業したそうだ。
大阪では阪神百貨店で128人、阪急うめだ本店で34人の感染が確認された。
満員電車では、山手線1両につき、3~4人の感染者が乗っている、と計算できるらしい。
これでは外出も控えたくなるし、経済もまわっていかないだろう。

各県や、各市から、代表者が集まって、コロナのことで日本全国規模の会議を実施してはどうだろう。そして、そこで決まったことを公表し、全員がそのことについて考えたり、討論したりして、専門家の知見も入れながら、方針を定めるのがよいと思う。

あ、それが「政治」か!

こうなったら病院へ

いよいよワクチンか

帰宅したら、ワクチンの案内が届いていた。

周囲の知人を見ると、少しずつワクチンの話題も出ている。
東京の知人はすでに1回目のワクチンを打ったらしい。
接客業なので、「まあ、打たんとな」とのこと。
私の親も1回目を打ったそうだ。
近所の先輩(79歳)も打ったと言っていた。

ワクチン、どうでしたか?と聞くと、
腕が痛くてね、というのが、上記の方たちの共通の説明であった。

教員はちょっとだけ早めに打つのではないか、という話も出ていた。
職場の茶飲み話で、「われわれは夏休み中に打つことになるのでは」と。
しかし、実際はだれも打てていない。

保健の先生がやはり詳しかった。
「熱が出る人もいるので、ワクチンを打った翌日は休む予定にしてください。そのくらい用心していてもいいのでは」
とのこと。

まとめると以下。
・打つ腕は利き手の反対側に
・服装を考えておく(肩がズバッと出せるとよい)
・体温計を枕元に
・解熱剤(用意周到な人)
・水分(ポカリなど)
・食料(胃にやさしいもの、冷凍のおかずなど、手のかからないものを備蓄)
・打った翌日を休みにすること


養護の先生が知り合いの保健士さんに聞いたところによると、注射の後、熱が出てそのまま寝込む人もいるらしい。
準備は、念には念を入れて、ということね。

sick_vaccine


子どもたちの「笑いのセンス」に変化あり

「1時間の授業の中に、一回の大爆笑」というのが、わたしのポリシーだ。
そんなことは学習指導要領には書いてない。
だからまったく私の勝手な取り組みであり、まったく意味はない。
2回は要らない。1回でいい。
しかし、1回の大爆笑が起きる授業は、子どもたちの集中力が増したいい授業になりやすい。
これは長年の経験則だ。

大爆笑が起きるというのは、教師がギャグを放つ程度では起こらない。
子どもがちょっと変なことを言う、ヘンなポーズをとる、というようなことでもダメだ。
つまり、その時に受けを狙った何かというのでは、起こりえないのである。

そうではなく、状況としては、当人たちが真面目に学習の課題に取り組もうとしていなければいけない。
みんなが一生懸命に頑張ろうとしていて、言ってみれば努力しようとしたからこそ起きた偶発的な事件やうまく言おうとしての行為が、大爆笑を誘うのである。前提として、まじめに学習しようという気風がそこにある。そして必ず、大爆笑の中心にいる子は、得意になっていっしょに笑っていなければならない。何かしでかした子が恥ずかしくて下を向いてしまうような状況では、ぜったいに大爆笑にはならない。その子と仲の良い友達が「あの子がかわいそう」と一瞬でも思ってしまうなら、けっして大爆笑にはならないのだ。
つまり、そこにいる全員が安心して、「笑って良いことだ」と思えない限り、小学生というのは大爆笑しないのである。

そういう意味で、テレビの芸人の物まねというのは、大爆笑にはなりにくい。
自分たちが生み出した笑いではないから。
自分たちのクラスだからこそ、この仲間どうしでお互いのことをわかり合っているからこそ生まれてくるようなおおらかな「笑い」が、全員が腹をかかえて笑い合う、大爆笑の笑いなのである。

この稼業をつづけていて、最近感じていることがある。
それは、子どもたちの「お笑い」の質の変化だ。
もしかしたら、コロナの影響もあるかもしれない。

それは、嘲(あざ)笑いの減少である。
だれかのヘマを嗤うのではなく、頓智のような面白い回答で笑う。
ミスを嗤うのではなく、ちょっとした気遣いがバレたときに大笑いする。
慌ててだれかをフォローしたのがしどろもどろになったとき、教室中にこみあげるような笑いが起きるのである。それは、まったく安心感のある笑いであり、ぬくもりのある、おなかが温かくなるような笑いだ。

これは、厳しい世の中を感じ取っているからこそ、少しでもぬくもりを感じようとする「補償行動」のようにも思える。

我々がドリフを見て笑い、欽ちゃんを見て笑い、カラスの勝手でしょ、と歌って笑ったころよりも、今の子どもたちの方が、うんと大人のように思う。
ただ姿や言い方がヘンだから笑うとか、変わってるから、間違えたから、とりちがえたから笑うのではない。

わたしはそこに、手のひらを太陽に、の歌のようなイメージを感じる。
その場に真っ赤な血が通うことを確認し、ようやく子どもたちが笑うような気がする。
こういう雰囲気は、この十年くらいで少しずつ変わってきたようにも思う。

年末に「ガキの使いやあらへんで」の総集編が放映されるが、今年、うちのクラスで見た子は10人もいなかった。
正月早々、訊いた私も驚いた。
紅白よりも、格闘技よりも、子どもというのは「ガキ使(つか)」を見るものだ、とどこかで思っていたから。

まあ、テレビ自体を見ておらず、普段の日と同じようにYoutubeを見たり、家族で別のことをしていた、という子も増えているのだろう。それでも年々、この「年末・ガキ使」の視聴率は、小学生に限っては減っていると思う。

このことについて、日曜日に職員室で仕事をしているとき、なんとなく同僚の数人と話をした。
小学生の神経がひ弱になった、か細くなった、と評する声もあった。同僚の中の一人は、そう言った。「ケツバットとかさ、ああいう刺激に弱くなったんじゃないの」と。
しかし、わたしにはそう思えない。

小学生の志向が変わったのだ。笑わせてやろうは、今は流行らないのだろう。そうではなく、もっとほんのりした、思わず、というか、ふと湧いてくるような親しさの中の笑いが、好まれているのではないか。
「ほうら、こんなに変てこりんだぞ、おもしろいだろう」では、子どもたちは笑わなくなった。ただの「変(ヘン)」には価値がなくなりはじめているというか、動物的な勘というか・・・。その文脈では生きていけないような予感を持っているからではないだろうか。(世の中があまりにもヘンだから、揺り戻しなのか?)

わたしには、今の子どもたちがなにか、感覚のするどさを得てきているような気がする。
安穏とはしていられない、助け合わないと、知恵を出さないと、というような空気を感じる。
本筋からちょっとズレたところを見つけて笑う、というのではない。それはこれまでの余裕があった時代の話。今は本筋が見えず、ズレが本当にズレなのかどうか、危ぶんでいるうちに笑えなくなってしまった。
危機の中で生きようとする子どもたちの本能が、『笑い』というセンサーから変化し始めてきている気がする。

そういえば。
この子たちは東日本大震災の年に、生まれたのだった。

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土門拳の古寺巡礼

今朝、みぞれが少し降った。
雪がふんわりと舞う姿も良いが、みぞれになって、冷たく重く、
弾丸のように降りしきる、というの。
それはそれで、景色としては「ありだな」と思う。いかにも冬らしくて。

高校生のころの私は、はっきり言って人間というのはダメだなと自分のことも含めてかなり悲観していた。そういう心情になると、

人生というのは、苦しいものだなあ
社会というのは、厳しいなあ
人間というのは、愚かだなあ
ということばかりが思えてきて、鬱々とし、
いつの間にか、ふらりと古寺巡礼でもしてみようか、という気持ちになる。

高校2年生が3年生になる春といえば当時は受験勉強のさなかで、
残りが一年を切ったぞ、という緊張感で胃が痛くなるくらい。
周囲を見るとみんな下校前にも図書館にこもり、どんどんと単語帳をめくっている。
わたしは勉強にくたびれると(というか、くたびれてばかりいたけど)図書館の妙な本ばかり探して面白がっていた。

その中に、だれも手をつけていなさそうな写真集があり、わたしはそれを眺めた。
仏像の本であった。ばかでかく、持っていたら重すぎて何度も持ち直すくらいだった。

それが土門拳の『古寺巡礼』だった。
わたしの当時の心情にぴたりと合ったのは、その中の一枚の写真で、ありていに言って私はすっかり心を奪われてしまった。

白黒の大きな写真は、法隆寺の円柱を何本も斜めから撮った構図で、おまけに雪が降っていた。
まだ降り出して間もないころで、急に天候が悪化した感が出ていた。その雰囲気も、当時のわたしの心境に妙にマッチしていたのだろう。また、雪というよりもみぞれのようで、その雪の粒は粗く、スピード感があり、斜めに厳しく降り注いでいた。

ところが、救われることに、そのみぞれの間から、堂々たる柱が見えるのである。
それはあまりにも整然としており、さらには小さな傷までがあちらこちらに目に入るために少しばかり痛々しく、長い風雪に耐えてきたことが一目で、非常によく理解できた。

この柱が、強風にも耐え、雪にもみぞれにも耐えてきたことが、この写真はとてもよくわかるのである。そして、その柱が少しばかり丸みをおびていて、とても人間らしいこと、天井の重い梁をたくさん支えていることなど、当時のわたしは写真の片隅から食い入るように見て、いっぺんに惚れ込んでしまった。

その後、わたしは独りで、高校生にしては一大決心をして大金を払い青春18きっぷを何度か買った。そして京都や奈良にも出かけ、法隆寺を見た。ところが雪の降るころは忙しくてなかなか行けず、写真通りの構図で、みぞれの降るような景色を実際には一度も見ていない。

わたしは大学生になって多くのことがあり、心境がかなり変わったために、なかなか思い出さなかった。でも、なぜか今日のみぞれ、今日の雪は、当時のことをふと、思い出させたな。

近頃は、コロナの大変なニュースばかり見ていたからだろうか。
雪というのは、心をけば立たせるのではなく、心を鎮めてくれる。
人の心も、世の中の不安も、ひとときの間、ふんわりと鎮めてほしいものだ。

mizore2

五輪開催できる根拠を動画で説明してほしい

日本という国は、基本的には絵画を大事にしてきた国だと思う。
平安時代は日本風の絵画が飛躍的に発展した時代だった。
有名な技法である「吹抜屋台」は、絵巻の画面展開が地平を斜め上から見下ろす構図をとって描かれている。そのため、舞台が室内であったとき、その様子を表せないので、建物から天井を取り払って描く。絵画はその後も江戸時代、明治大正昭和平成と、どの時代でも愛されてきた。

ところが武士が活躍する鎌倉時代だけは、様子がちがう。
絵画よりも彫刻が愛されたのだ。
絵画というのは主に屋内にある。一方、当時の武士はもっぱらアウトドア志向である。
武士には家の中でじっとして絵をみるというスタイルは合わなかった。野良仕事の帰りに、あるいは馬を駆って行くところに彫刻があれば見る方が好まれた。

土台、文字が読める武士はほとんどいなかった。室内で絵画をみながらその説明を受けるというほどリテラシーが整っていなかった。説明を受けるよりも、直感的に一目(ひとめ)で見て、すぐに理解できる彫刻の方が、性(しょう)に合っていた。

そのため、仁王像の顔は、怖くなくてはならなかった。
何よりも、わかりやすさを求められたからである。
門番のように立っている仁王像をみて、

「ああ、この人は怖い人だ。いうことを聞かねばなるまい」

と思わせなくてはならない。
だから万が一でも仁王像は、赤子をなだめるような優しい温和な顔つきをしていてはいけなかった。

あるいは空也の像のように、旅の姿をした坊様の口元から、ほとばしるように念仏が放出されているような演出が必要であった。それをみればすぐに誰でも、

「ああ、この坊様は、旅をして歩きながら念仏を唱えられたのだろう」

と理解できたからである。
このように考えると、鎌倉の時代は、なによりもリテラシーの低い民であっても、ひとめで理解できるようにと宗教家や為政者が心をくだいて、わかりやすいように、わかるように、と努力したことがわかる。

現代でもそれは同じである。
書物を読まなくなった我々の目の前に、スマホが登場した。
スマホの動画をみて、直感的に理解したいと思う人が増えた。
社会全体が、文字よりも、説明よりも、言葉よりも、動画、がよりふさわしいと考えるようになった。今の時代にユーチューバーがもてはやされるのは、動画が鎌倉時代の彫刻のように、直感的でわかりやすい、とされているからだ。

さて、東京五輪が開催できるかどうか、で世論が割れている。わたしにとっても他人事ではない。
なぜなら、来年の修学旅行の計画を、もう立て始めているからである。
私と同じような立場で、来年の夏の行動を確定しなければならない人が、世の中には大勢いるだろう。この企画にGOサインを出してよいのかどうか、と気を揉んでいるに違いない。

そこで、動画の出番だ。

五輪は開催できる派の人に、お願いしたいことがある。
それは、五輪が開催できる、という根拠がよく理解できるような動画をぜひ作ってほしい、ということだ。五輪が開催できない、という方にも、それがよくわかる動画を作ってほしい!
というか、本当はそれを政府がやるべきだ。国民が選んだ国民の代表ということになっている人たちが、それをやらないと、国民が迷っております。私のように、ね。

五輪がどんな雰囲気で、みんながどんなマスク姿で、選手がどのタイミングでマスクを外すのかとか、宿舎での食事風景とか、スタッフの手洗いの様子とか、万が一感染した場合はどの病院が受け付けるのかとか、無観客だとどんな雰囲気なのかとか、金メダルをつくる方法とか、税金がどのように使われるのかとか、五輪終了後、競技場がどんなふうに活用されるのかとか、地下鉄がどのくらい込みそうなのかとか。選手は選手村と練習場以外の行き来ができないようにするというが、その様子を、とか。

そういうのが、鎌倉時代の仁王像くらい、わかりやすい動画で説明されるようにしてほしい。
そうでもしないと、鎌倉時代に武士が「死んだら浄土へ行ける」と喜んで戦ったようにはならないと思う。選ばれた少数のアスリートだけでなく、日本の全国民がある意味、戦うことになるのだから、政府はこのくらいの努力をしてほしい。

「わかりやすい」は危険な面もあるが、やはり世論を動かすと思う。
なによりも、丁寧な説明が欲しい、と多くの国民が思っている。
五輪はやれるのか、やれないのか。
ていねいな、説明を。ぜひ、動画で。為政者のみなさん、お願いします。

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なぜシーラカンスは生き延びたか

古代魚といわれるシーラカンス。
これまでに何度も見つかっているし、科学博物館にもはく製があるから、見たことある人も多いだろう。子どもたちもよく知っている。

顔つきもぎょっとするような無愛想な顔つきだし、ひれの付き方も違うから、
「これ、魚(さかな)か?」
と発見者が驚くのも無理はない。
1938 年、南アフリカのイーストロンドンの沖合で、見たこともない魚が漁船の網にかかりました。学者が調べたところ、化石でしか知られていなかったシーラカンスと判明。シーラカンスは、約 3 億 8000 万年前に地球に出現し、約 7000 万年前に絶滅したと考えられていたので、生きたシーラカンスは奇跡の発見でした。

わたしは小さなころに学研のまんがか何かでこの古代魚の存在を知ったが、なんでそんな昔のものが今になって生きているのか本当に不思議だった。

ところがあとから調べたら不思議でもなんでもなく、よく学校に生えている「銀杏(いちょう)」の木なんてのは、大昔からなんら変わることもなく、ただひたすらに生え続け、子孫をそのまんま残し続けている木なのだそうだ。

そのような、大昔からその姿のままで、なんら変わることなく、
時代の空気をまったくよまずに生きている種
を「生きた化石」と呼ぶ。

いちばん身近なのは、Gとよばれるやつでしょう。ごっきー、というやつね。
あれも古代からあのままの姿です。ちっとは時代の空気を読め!と言いたくなりますわね。
あの姿のままで、あの生き方のまま、生き続けている。
しぶといもしぶといも、地球を何度となく襲った『大量絶滅時代』でもほろびずに、何億年前と同じ姿で現在も生きている生き物なわけですね。

あとは、珍獣中の珍獣である、「カモノハシ」でしょうか。
くちばしを見れば鴨のようであり、卵を産むが乳を出し、水かきがあって器用に泳ぐ。
こんなにみょうちきりんな動物はまあ、あんまりいないでしょうねえ。
これも恐竜が絶滅するころにはすでに生きていたらしい。

不思議なのは、
〇シーラカンス
〇いちょう
〇ゴキブリ
〇カモノハシ

などが、極限まで地球上の生物が死滅しかかっていたときにも生き延びた、という点であります。

おそらく、空気を読まなかったせいではあるまいか。
カモノハシが、「まわりの哺乳類はみんな卵をやめた。赤ん坊を産むのがこれからのトレンドだ」と言って態度を変えていたら、おそらくまわりの多くのほとんどの動物たちとともに、大量絶滅時代に同じように絶滅していたでしょう。
あるいは銀杏があのような独特のにおいを持っているのに「こんな匂いの強い植物はほかにない。恥ずかしいからやめておこう」と遠慮した実をつけるようになっていたら、当に虫や菌類によって浸食されて絶滅しただろう。

なんでこんな話をしているかというと、うちのクラスの子が
「らいちょう」
の写真をもってきて、冬休みに調べたのを発表してくれたからであります。

わたしは知らなかったが、雷鳥もまた、生きた化石なんだそうだ。
ライチョウの祖先は3000万年前には地球上に存在し、氷河期で多くの動物が息絶えたあとも、そしらぬ風で生き延びてきたらしい。なにせ寒さには強く、今でもアルプスに住んでいる。

そこから生きている化石の話になり、上記のようなシーラカンスの話が出たわけです。

ところで話はコロナウイルスになるのですが、人類がこれから生き延びるとき、
実はカモノハシやらシーラカンスやら臭いイチョウやとぼけた雷鳥から学んだ方がいいのではないかと思うね。だって、極限の「大量絶滅時代を軽々と生き延びた先輩方」なのですからな。

コロナウイルスがよりつかないほどに寒さに耐えるか
いちょうのように臭くなるか、
深海に潜むか、
時代の空気を読まず、文明から少し離れて生きるか


そこにはなにか、人類全体へのヒントがあるのではないかと思う。

雷鳥の里

コロナで変わる学校

コロナの情勢が厳しい。
かつてない勢いで陽性の人数も増えているし、死者も増えている。
緊急事態宣言についても検討されている。
英国は一日に5万人の陽性が出て、恐怖に陥っているらしい。
なんでもこれまでのウイルスとは違う、変異したモノだとか。
学校も変わらざるを得ない。

以下、おそらくそうはならないとは思う、ならないとは思うんだけど・・・
でも、だ。
もし仮に、実際の感染者やコロナが要因と認められる死者がさらに驚くべきスピードで増加したら。
そう考えて・・・
今から、日本の小学校教師として、思考実験をやってみる。
最悪の事態を想像してみようと思う。

学校は、もしかしたら休校措置がとられるかもしれない。
また、9月入学をふたたび検討することになるかも。
もしくは、どの学年も1年の休眠措置(冬眠のような)がとられるかもしれない。

そうはならなくとも、学校はいつ休校になるやしれない。
あるいは、従来の進度を気にすることなく、大幅にその学習内容が緩和されるかもしれない。
もしくは、小学校6年間が合計8年間のように増えるかもしれない。
その8年の間に、これまでのような6年生までの分を勉強してください、というように、

これまでの8分の6に、スピードが緩和される

などの措置が出るかもしれない。
これは世界的にコロナウイルスの変異種がさらにさらに増加し、休校が繰り返されるなど、あまりにも特殊な場合の予想だ。

で、そうなると、社会が、学校が、法律が、これまでの常識が、すべて、いったん見直し。
0(ゼロ)からみなおしになりますね。ゼロからってすごいです。
家と学校とで、両方で子どもはどう日中を過ごすか、ということが大きな課題になる。
これは大きいです。本人にとっても家族にとっても、学校にとっても。

宿題をバンバンだして、課題をせっせとこなす子どもたち

というようなことでは、もうしのげないのではないか、と思うね。
だって、教えてないことも、どんどん勉強してほしいもの。

要するに、

学校で習わないことも、自分で勉強できる子ども

に育てることが、学校の大きな使命になるかもしれません。

となると、保護者の側も、大きな発想転換を求められます。
だって、子どもが自分で勉強するんですよ。学校で習ったことがないのに。
昭和・平成までの思考なら、考えられないことですな。
「学校で教えてもらってないことを、子どもが分かるはずがないでしょう」
と多くの親も考えるかもしれない。

しかし、コロナの情勢如何では、もうそうするより、他の道がなくなる、ということです。

学校はずっと休校のようになるかもしれない。これまでのようなイメージでは続けられなくなるかもしれない。
オンラインで教えればいい?
たしかにそうするのも必要でしょう。
しかし、今の大学の講義のように、オンラインがいかにやりにくいかということも分かってしまったので、メリットもあるかわりにデメリットの大きさも考えると、オンラインの授業さえできれば大丈夫、というふうにはならないでしょうね。

昨年の春以後、多くの大学がZOOMや録画等でオンラインの授業を行ったようですが、なかなか厳しい意見もあるようです。
調査では、「あなた自身が最も好ましいと考える授業形態はどちらですか」との問いに対し、「対面授業」と答えた学生が54%に上り、「Web授業」の22%を大きく上回った。

「秋学期もWeb授業が継続されるとなれば賛成ですか、反対ですか」との問いには「賛成・どちらかと言えば賛成」が40.1%、「反対・どちらかと言えば反対」が59.9%で、ほぼ6割の学生が対面授業の再開を望んだ。Web授業の継続に反対する声は下級生ほど強く、1回生では7割近くに達している。
朝日新聞Globe+の記事より抜粋


小学生でも、自分で「まなびの計画」をたてて、自分で興味を持ってしらべたり考えたりする、というのがスタンダードな学校のスタイルになってくるかもしれない。

となると、学習の計画ですね。
これを立てられるようにならないと。
そもそも、

興味を持って ⇒ しらべて ⇒ まとめてみる

このことのスタート地点に、小学生が立つこと自体が、難しいのですね。
多くの学校の先生が、いちばん苦労しているのも、そもそも興味をもってもらう、ということです。
国語も算数も社会も理科も、音楽も家庭科も体育も。
いろんな資料や情報を小出しにしながら、子どもの目がちょっときらきらしてきたり、自信をもって意見が出てくるようになってきたところで、大きな課題に向かわせる、というのが定番。

興味を持ってもらうために、子どもに物を見せたり、資料をつかませたり、話してみたり、ということが必要なんだけど、それが個別にできるかというと難しい。

でも、それをしなければ、最悪の事態に備えることができない。
ここらをずっと、この先、われわれは考えていくことになりそう。

小学校の先生の仕事の中心が、教室で知識を注入することではなくなって、
その子なりの学習計画が立てられるように支援するマネジメントが本業になってくる。
学校には、その学習計画をちょっと背中を押すために集まってきてもらう、ということかな。

どう?次の学習はどうする?
こんなのから興味をもてるかな、ちょっと本を読んでみようよ。
どうかな、まずはいろいろ見てみよう。
友だちはこんなレポートを書いて発表しているよ。どう?


こんなやりとりを、ひとりひとりが教師とやって、納得したら家に帰っていく。

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『学びの最適化』に向けて

学びの最適化、ということが叫ばれて久しい。
なぜ最適化する必要があるかというと、人間が「学び続ける」ためでありましょう。
学校を卒業してしまったとたんに、

「あーあ、せいせいした」

というのであっては、まったく学校というのは価値がない。
その後の人生を、生涯にわたって豊かにしていくために学校がある。
そう考えたら、「一人ひとりが、自分が学び続けるための強固なエンジンを身につける」のが学校という装置であります。

学ぶというのは、常に自分の中の情報や価値観や考え方、感じ方をリフレッシュするということであって、それがなければ、ただの奴隷以下。生きる喜びは一切皆無でしょう。

自分が自分として学び続けられるようになるために。
他とともに知恵を分かち合い意見を比べることのできる身近な共同体があればなお豊かだ。
これを具体的に実現させるのが、小学校の責務だ。
現在の小学校の基本方針は、コレでありましょうし、もうすでに長いこと、こうやって学校は成り立ってきた。

さて、ところが学校の現在の実情としては、少々上記から、ずれた部分がある。
たとえば、ある子が急になにかのきっかけで、算数の熱が高まり、算数が異常におもしろく感じちゃったらどうするか。4年生なのに、方程式にめざめてしまい、代数とかに興味が出ちゃったら。
今日はもう、国語じゃなくて、社会じゃなくて、大好きな体育よりも給食よりも、なにをおいても算数、算数、となったら。

現在のカリキュラムでは対応できません。
4年生は4年生の学習をすることになってる。
しかしこれは逆にいうと、ものすごく親切に、その子にだいたい合うように、カリキュラムが組まれている、というわけで、これはこれでたいしたこと。実にすぐれたシステムがすでにできあがっている、というわけ。
しかし、これからもう一歩、頭一つ抜け出そう、というのがSociety5.0だ。

これからの学校は、
1)基本的な学年に応じた従来のカリキュラムでの学習
を基本にして
2)個別の素質や習熟度、要望に応じて組み立てることのできる学習
を付け足し、ハイブリッド型にしていくことになるだろう。

このハイブリッド方式のうちの2)を積み上げていくためには、その子なりのカルテのようなものがあったらいい。個別の学習計画と呼ばれるものだ。これを電算化して、本人や親、そして周囲のクラスメートも、さらには担任も、それを見ながら助言するようにしたらいい。


朝の10分間の活動で、子どもたちが一人一台のタブレットにアクセスし、自分のポートフォリオを見ながら計画する。

本人「よし、今度はこういう学習をしたいな」
クラスの友達「Aくん、それもいいけど、こんなのはどうかな」
親「この間家族でこんな話をしていたから、こんな勉強もつけたしたらどう?」
担任「では、図書館でこんな本があるから、これをまとめてみたらどうだろう」
クラスの友達「いいねえ。じゃあぼくも関連した勉強をするから、終わったら二人で発表会をしようよ」

これをデジタルでやる。
デジタルはこういうことは強い。
一度に情報が共有化される。
デジタルは、分類したり、仲間を見つけたり検索したりが得意だ。
このことが、「デジタルの世界が寄与できる、学びの最適化」だろうと思う。

担任は、教える、というよりも、助言する、という立場に、どんどんとなっていく気がするね。
授業の上手な、快活な先生もいいけど、いつもそっと静かに、近くにいる先生、というのも、渋くてよいでしょう?


二人で1
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