30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

道徳

芸人のノリと学級のノリの違い

ひな壇に芸人がたくさん集まって、ワイワイとおしゃべりするのが楽しいテレビ番組がある。
私も好きで、ごくごくたまに見ることがある。

ただ、この楽しい雰囲気を学級で真似しようと思うのは、注意が必要だ。

私の失敗をあげてみる。

島田紳助さんが、昔の番組でひな壇に芸人を座らせ、おしゃべりトークをしながら軽快に番組を進行していた。
このときの島田紳助さんの狙いは、芸人一人ひとりのキャラを際立たせて、そのキャラを番組の決まりごと(セオリー)として視聴者に周知させ、いわばお約束のように芸人をいじると言うやり方だった。

島田紳助さんは、磯野貴理子さんをいじるのが得意だった。
これは、紳助さんが磯野さんにどんなキャラ設定をするか、そのキャラをからかうことで、どんな笑いが生まれるのか、計算をしてのことだった。

確かに、キャラ設定がはっきりしていればいるほど、そのキャラをいじったり、意外性に持ち込んだりすらことが出来て笑いが生まれる。また、そのキャラ設定の約束事をその場にいる全員が共有していることで生まれる安心感もあるし、仲間意識を演出することができる。島田さんはそれを狙った。

学級では、これは御法度だ。
一旦できた約束事があれば、その約束事を認識している仲間うちでは、共感の笑いに持ち込める。芸人は、からかい、からかわれることでタレントとしての笑いを生み出す。それが仕事だ。

小学校の学級では、その場にいる子ども一人ひとりにキャラ付けをする事は、担任なら容易にできてしまう。
しかし、相手はタレントではなく、生きている成長過程の子供である。

私は、以前、極真空手を習っている子が話題になったときに、失敗をしてしまった。

ある子が、その空手を習っている少年について、
「だって◯◯君がこうしろって言ったから失敗したんだよ、◯◯君のせいだよ」
と言うふうに、言った。
クラスのみんなが、その発言につられて、話題になった空手の少年を見た。

空手を習っている◯◯くんは、そんなことあったっけと言う顔でみんなの方を見ている。
この時、私は
「え?そんなこと言っていいの?◯◯くんは空手習ってるからね。下手なことを言うと怖いぞ〜」
と、少し面白おかしく言った。
言い方が面白かったのもあって、教室は爆笑になった。

話題を振った当人の子は、とっさに
「マジか、◯◯くん、ごめん!」
と、両手を合わせて大げさに謝罪をしたので、さらに大きな爆笑になった。

空手を習ってる◯◯くんも、爆笑の中心にいることが楽しかったようで、ニヤニヤしながら空手の型を作った。さらに爆笑になった。

後日談があって、彼が卒業するときに昔話をしていると、新間先生が、ぼくの空手についていじるのが、嫌な時があった、と言うのでした。
つまり、空手習ってるからあいつは怖いと言うようなことを、後で面白おかしくネタにする子がいたらしい。
そのことの発端は、おそらく私がその子にキャラ付けをしたことだ。空手を習っているから、強い、と笑いにしたことが、子どもたちの間でも、変な見本のようになってしまい、あぁやって友達をキャラ付けすることが面白いと言うふうになってしまった。

それが6年生の後半は嫌な時があったと言うのである。

私は彼にすぐに謝った。
彼は冗談めかして、それを言ったのだが、本音の部分があっただろう。
キャラ付けをされると言うのが、面白おかしいと楽しい間は良いかもしれない。しかしそうやって、固定化されたキャラ付け苦しむ子も出てくる。特に自分が意図したわけではないのに、周囲に勝手にキャラ付けをされてしまう事は、苦しいに違いない。
妙なタグや妙なレッテルを貼られてしまうようで、実際の自分というよりも、面白おかしいキャラ設定を優先しなくてはいけないように感じる子だっているかもしれない。

◯◯ちゃんって、こうだよね
⬜︎⬜︎さんって、ああだよね

こう言ったタグをつけてしまうような言い方そのものを聞いた時、敏感にそのうさん臭さや怪しさを感じ取って、そのキャラ設定と実際の自分は違う、ということを自覚できるような教室空間にしなければいけない。

タレントと子どもは、違うし、学級とテレビ番組は、違うのである。
もしかしたら大人の空間でもあるかもしれない。職場でも同じようにキャラ付けと言うようなテレビタレントの世界のお約束事が浸透してしまっているところがあるかもしれない。学級やクラスにもそうしたムードや空気があるかもしれない。

敏感になるべきだ。

これはタレントや島田紳助さんが悪いと言っているのではないです。くれぐれも。タレントは商売ですから。シナリオがあり、構成作家が台本を書くのですから。虚構と分かっていて、進めていることですから。

実際には、生きている実際の人間には、キャラ付けは不可能、ということです。
キャラをつけた途端に、そのキャラと実際の人間との違いがどんどんと明らかになるからですね。
AとBは同じだとだれかが言った瞬間に、もうAとBは違うのですから。そうです。昨日の自分と今日の自分は違うし、1分前の自分と1分後の自分は違うのです。目の前の石ころも、次の瞬間には、違う石ころだと言うわけです。

同じって何?
違うって何?

こういった話を子供たちとしていく授業は、面白いですし、こどもが哲学的な顔になりますね。

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人を騙す際の言い方・フレーズ

「批判ばかりせず、対案を出してくれ」 
「自分で選んだ道だろう? 自己責任だ」 
「ウチの会社に不満があるなら、辞めればいい! 」 
「騙されたと思ってやってみてよ。体験すればきっとわかる」

こんな言い回しをする人からは、そっと離れた方が良い。

このことを道徳の授業で扱いたいが、なかなか良い指導案を作らないできてしまった。

そもそも、教員になったらやりたかったことがある。
大きくは次の2つだ。

一つ目が、大声で叱るとか叱責するとかをしない、圧迫しないこと。
これは、すでに校長先生に褒めてもらえるまで実現できた。

二つ目が、信じてしまうことの愚かさを学ぶこと。
東洋大の井上円了先生の話を以前書いたが、人間は信じやすい。特に子どもは批判的精神(岩崎武雄)が未成熟で、自分が思ったことは事実だとしやすく、その危うさを学ぶことが必要だからです。

ポイントは3つ。①権威を無批判で信じ込むな。②過信するな。③常識を無批判で受け入れるな。

肯定したいときほど、あえて自身で否定を選び、本当はどうか、と考えなくてはいけない。肯定のための否定、というのが当たり前にあるのです。

これまでも道徳の「決めつけない」という単元学習では、カルト的思考の危うさを題材にして討論したり、自分の見たものや経験したこと、聞いたことは事実と考えやすいことなどを学んだりしてきました。

(以前書いたカルト学習、という記事もどうぞご参照を)


これは、まだ自分では納得するレベルまで、形にできていない。チャレンジは継続しているけど・・・

なんとか、誰にでも実践できる手引書のようなものを作りたいと思う。
しかし、これは宗教を信じる子どもにも少し影響するから、少しデリケートなんだよね。
誤解されないよう、カルトという狭義の固定的単一思考回路が、いかに非生産的で幸福にならないか、ということです。偏執的なナショナリズムもそうですね。

まだやること多い。志半ばの今であります。

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道徳教材 だれとでも


だれとでも

長谷川あおい


3年生になり、クラスがえがありました。
わたしは、ひかりちゃんと、また同じクラスになれたので、うれしくてたまりませんでした。ひかりちゃんとは、それまで保育園のころからずっといっしょだったのです。同じクラスだとわかったときは、ふたりで大よろこびをしました。

1学期がはじまって、すこしたったころのことです。
あたらしい友だちもできました。ゆみちゃんです。
ひかりちゃんとゆみちゃんは同じはんです。さいきん、ひかりちゃんがゆみちゃんとよくしゃべっているので、わたしもしぜんと話をするようになりました。

ある日、わたしが、休み時間にひかりちゃんとあそぼうと思っていたら、ひかりちゃんは、ゆみちゃんと話をしていました。
ひかりちゃんは、とてもたのしそうにわらっています。
ゆみちゃんも、いっしょになってわらっているし、たくさんしゃべっていて、二人はとてもたのしそうでした。

わたしはそのようすをみて、なんとなくすぐにトイレに行ってしまいました。
トイレからもどってくると、まだひかりちゃんとゆみちゃんはしゃべっています。

けっきょく、その休み時間は、わたしはほかのことをしてすごしました。

---------------------------------
○このときの、あおいちゃんのきもちって?
○おなじようなけいけん、ある人?



つぎの休み時間がきました。
ひかりちゃんが、わたしのところにあそびにさそいにきてくれました。
「あおいちゃん!」
ひかりちゃんが、にこにこして言いました。
「ね、ドッジボールやろうよ」
わたしは、ひかりちゃんがこうやってあそびにさそってくれるところがすきなのですが、ドッジボール、ときいて、ちょっと考えてしまいました。本当は、ひかりちゃんと二人きりであそびたい気分だったのです。

「だれと?」
ときくと、
「ゆみちゃんもいっしょだよ」
とひかりちゃんが言いました。

ボールをもっている男の子が、
「はやくいこう!」
と言うと、ひかりちゃんとゆみちゃんは、
「いまいく!」
と言ってから、
「あおいちゃん、先に行くよ!おいでね」
と走って行ってしまいました。

ゆみちゃんが、ひかりちゃんといっしょに走っていきます。
その姿を見ながら、本当はわたしがひかりちゃんとあそぶんだったのに、と思いました。

「2年生のときだったら、こうじゃなかったのに・・・」

ひかりちゃんのすぐそばにいて、いっしょに走っていくのは、ゆみちゃんではなくて、このわたしだったのにな・・・。そう考えると、なんだかすぐには外へ出て行く気持ちになれませんでした。


---------------------------------
○このときの、あおいちゃんのきもちって?
○おなじようなけいけん、ある人?
○このあと、どうなったと思う?予想しよう。




でも、今日は前の休み時間にもあそばなかったのだし、と思いなおして、外へ出ました。ほかにもいっしょにドッジボールをやる子たちがいて、しぶしぶとわたしはみんなのあとについていきました。

地めんにコートをかいて、ドッジボールがはじまりました。わたしはあまり元気がなくて、すぐに当たってしまいました。
すると、ボールをなげた男の子が、

「あっ、いたくなかった?」

と言ってくれたので、わたしは

「ううん、だいじょうぶ」

と言いました。

それを見て、ひかりちゃんが、

「男の子は、左手でなげてよね」

と言って、わたしの方を見て、にっこりとしてくれました。

また、ゆみちゃんも、

「まだはじまったばかりだから!あおいちゃん、パス、おくるね」

と言ってくれたのです。

わたしはすこし、元気が出て、ボールがとんでくると、その近くまで走ってとろうとやってみました。男の子たちが、がんばってボールをとっているとので、なかなかとるチャンスがありません。でも、何回かに一回、ボールをなげることができました。

わたしはひかりちゃんになげたかったのですが、とどきません。それで、近くにいた、同じチームの男の子になげてボールをパスしました。すると、その子が、すぐにあい手をひとり当てました。
それを見ていた、同じチームのさやかちゃんが、

「あおいちゃん、ナイスパス!」

と言ってくれました。
さやかちゃんのとなりにいたけんじくんも、
「おお、ナイスパス!」
と言ってくれました。

そのあと、またなんどかボールがきて、思い切りなげると、同じチームのコートに、とどく回数がふえました。
わたしは思い切りやれて、なんだか、ドッジボールが楽しくなってきました。

チャイムがなって、休み時間は終わりです。
すると、さやかちゃんやけんじくんが、近くにきてあるきながら、

「けっこう、おもしろかったね」

と話しかけてくれました。

「あおいちゃん、よくパスできるよね。わたしなんかこわくて、にげてばかりだけど!」

さやかちゃんがわらって言うと、

「そうだ。またおいでよ。ドッジ。あしたもやろう」

けんじくんたち、男の子たちも、みんなくつをはきかえながら、そう言うのでした。
それまで話をしたことのない子で、
「あおいちゃん、けっこうとおくまでなげるね」
と話しかけてきてくれた子もいました。

ろうかには、春のあたたかい風がふいています。もうすぐ、じゅぎょうがはじまりそうです。


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○このときの、あおいちゃんのきもちって?
○なぜ、あおいちゃんのきもちがかわった?
○あおいちゃんは、なぜたのしくなってきた?
○ある人とだけなかよし、について、どう思う?




○感想。


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文章が、ちょっと長いから、どう削るかを思案中。

みそとマヨネーズと醤油の話

きゅうりにマヨネーズをつけて食べることがある。
「マヨラー」ではないが、基本的にマヨネーズが好きな方だ。
しかしその日は、マヨネーズが切れていた。そこで、みそをつけて食べた。
もろみ味噌とか、金山寺みそではなかったが、ふつうのみそでも十分美味い。

食べながら、みそとマヨネーズは同じようなものだな、と一人で考えた。
となれば、マヨラーがいるくらいだから、みそらーもいるだろう、と思う。
たぶん、検索すればごまんとヒットするだろう。
日本人に限らず、世界中に『みそらー』がいるにちがいない。

マヨネーズとみそが近いという話を、人生街道をあゆむ途中、あちこちで聞いた。
レストランのシェフをしていた人に聞いたことがある。
その人が勤務していた場所は、なんだかたいへんに高級なレストランらしかった。
ひょんなことから私は、その人物と2週間ほど共に話をしたり生活をしたりすることがあった。
いっしょに昼食を食べながら、その人が食卓のみんなに言ったのが、

「うちの店では、マヨネーズに白みそを隠し味にしてましたよ」

というセリフ。つづいて、

「マヨネーズとみそは、基本的に非常に相性が良い」

ということでありました。

もうひとつは、ひとしきり「金山寺みそ」が話題になったあとの

「もともと、しょうゆとみそって、同じものだったんですよ」

という話で、それはみんな、へえ!?という反応だった。

たしかに材料は同じようなものだし、発酵食品であることや、作り方も近似している。
同じようなものといえばそうなのか・・・。

調味料のうち、もっとも原始的なものは「塩」でありましょう。
そもそも人間が肉体的に疲労した場合に塩気を求めるのは、ごく当然で、必要なことですからね。
つぎに、穀類などを発酵させて「麹」をつくり、さらに塩とまぜて「もろみ」がつくられました。

これがまあ、ミソのようなものでもあり・・・
さらにしぼれば、しょうゆになるわけで・・・
たしかに、似ているし、同じようなものか。

これを自作することができれば、さぞかし「食生活」は豊かに感ぜられるだろうと思う。
みそは自作したことがあるが、しょうゆはまだ未・チャレンジである。この世で最も強いといわれる『なっとう菌』にもいつの日か、挑戦してみたいモノだナ・・・。

勝手にイメージするだけですが、自分でしぼった「しょうゆ」で、とれとれの烏賊の刺身など食った日にゃ、さぞかし「贅沢」を感じられるだろうと思うネ。以前、金をかけるぜいたくと、手間をかけるぜいたくと比較した、という心理学の研究があった。結果は、手間をかけた方に、人間は「ぜいたく」を感じるらしい。ただし、これはアメリカ人を対象にした心理実験の結果である。

みそに関することわざは多いが、しょうゆに関するものは案外少ない。
「酢でも醤油でも、くえぬものは食えぬ」
ということわざがあるらしい。
食べられないものは、どんなに味をつけてもダメ、という意味だ。
ふつう日本の食べ物は、だいたいが酢で和えたり、醤油で味をつければ食える。
しかし、その酢でも醤油でもダメ、というのなら、もう何をしてもダメで食えない、ということだろう。逆に言えば、和食のほとんどは「酢か醤油」が大活躍をしている、ということになる。

こう考えてみると、その醤油や味噌の原料である「大豆」は日本人の宝であります。
ところが今や日本人が食べる味噌のほぼ99%が輸入大豆だという。
このことを憂いて、「大豆を霞が関でつくろう」と宣言をした官僚がいて、ビルの屋上で大豆をつくりはじめたが、残業に次ぐ残業で面倒がみれず、計画が挫折したと聞いた。
またこの話を憂いた国会議員がやはり、「大豆こそ日本人が日本の土地で育てるべし」と喝破したが、わたしもそう思う。で、教室のプランターで育てている。若さや(枝豆)ができてもビールと一緒に消費しないように気を付けようと思う。

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【道徳】人間関係を考える授業~事実と感想その1~

机の上にりんごを置く。
おいしいと思う人?(多数挙手)
『このりんごそのものの味と、今自分が感じている味とが同じだと思う人?』

これは挙手が数人で、何人かが妙な顔をし、一人が言った。
「よくわからないから、先生、もう一回言ってください」

そこで私はゆっくりと言う。
『このりんごそのものの味と、今自分が感じている味とが同じだと思う人?』

さきほどと同じ子たちが挙手。今度は勢いよく。
妙な顔をしている子はますます妙な顔をして、近くの子にひそひそ。

「よく分からない」の質問をした子は、「それは同じでしょう」とつぶやきつつ、挙手をした。

人数を数えると、10人。
残りの25人は、手を挙げない。
なにか、考え込んでいる子も多いようだ。
わたしはついで、

『では、味はちがう、と思う人?』

と尋ねた。

これに、頭の回転の速い子が喰いついた。

「ちがうと思う」

すぐになぜ?と問うと、彼はこう言った。

「だって、まずい、と思う人もいるかもしれないから」

なるほど、という空気がすぐに流れ、「じゃあちがうじゃん」なんて小さな声も聞かれた。

もう一度、同じことを問うと、すぐにクラスのほとんどが

「ちがいます」

と答えた。

しかし、最初から妙な顔をしてこちらを見ている子が数人おり、わたしはそれが気になっている。
いつも国語などで、するどい視点から意見を出す、吉川英治が愛読書のNさんも、手を挙げない。
Nさんが手を挙げないことに気づいた子が、そっと手をひっこめるのも見えた。
Nさんがこれまで間違えたことなど、一度もない。それを知っているのだ。

そこで、「まだ手を挙げていない子もいるよ」と聞いてみると、Nさんが意見を言ってくれた。

「だって、わたしがおいしい、と感じている味と、他の人が感じている味はちがうけど、もしかしたらりんごそのものが本来持っている味を、どちらかが感じ取っているのかもしれない。だけど、それを証明する手立てがない。だから、この場合は、ちがう、と言い切るのではなく、わからない、というのが正しいのだと思う」

という。

かしこい子である。

次に、黒板に図を描き、

そのものの味


りんごの持っている味を、☆じるしで表すよ。
それと、
人間の脳の中に感じ取られた味も、☆じるしだとすると、この星どうしは、まったく同じだろうか?

と問うと、すぐにうなずいて「ちがうよ」という子と、まだ分からない、という子に分かれた。

双方があれこれと意見を言い合ったが、これは不思議な授業で、みんな押し黙って沈黙しながら、グーッと考えている。勇気を出して言う子もいたが、全体としては

沈黙の重い雰囲気・・・いやちがうな、この表現は。
「沈黙」
というよりも、
「眉間にしわを寄せる雰囲気」
が教室中に充満する、というのか・・・


チャイムが鳴ると、ふーーーーっと、大きなため息が漏れた。

わたしも、同じように、ふーー、と言った。

【6年・道徳】コンコルド効果を授業する

あなたは、70キロほど離れた街で開催される、バスケットボールの試合を観戦する計画を立てました。あなたはすでに前売りチケットを5000円で購入しています。ところが、試合当日の天候は猛吹雪で試合会場に行くのはとても危険です。さて、あなたはどうしますか。

1:試合会場に行く
2:暖かいあなたの家でテレビ観戦する

みなさん、どちらを選びます?

サンクコスト、という言葉があります。
もしかしたら「コンコルド効果」という言葉の方が知られているかもしれない。

わたしは幼い時に図鑑でコンコルドを見たときから、
「大人になったらこれに絶対乗る!」と決めていた。
そういう少年は多かったと思う。なぜなら、音速以上で飛ぶ唯一の民間飛行機だからだ。
マッハ2で飛ぶコンコルドは、音を置き去りにして飛ぶために、乗客は完全な静寂を体験する。まったく音のしない乗り物、というわけだ。聞いただけでワクワクした。
いつか音速越えを体験してみたい。わたしはそう思ったが、その夢はかなえられない。
なにしろ、もうコンコルドは全機、廃棄されている。

なぜそんな立派な超音速旅客機が廃棄されたかというと、
コストがかかりすぎたからであります。

実は、そのことは、コンコルドの設計段階からわかっていた。
これ、飛ばしたらえらい金がかかるぞ、と。
それに、乗りたいという客は多いだろうが、たかが1時間程度早いだけで10倍の料金を払おう、という客がいるだろうか。チケットはどの席も当時の価格で100万円以上した。

コンコルドは世界一の赤字運営となった。飛ばせば飛ばすほど、会社は倒産に近づくのであります。

なぜ、そんな欠陥だらけの赤字旅客機をつくろうとしたかというと、これはもう、第二次世界大戦中の日本と同じで、設計や実験の段階で相当なお金をかけてしまっていたからで、
もうこれだけお金を使っちゃった以上、
もうこれだけエネルギーをかけちゃった以上、
いまさら、あとにはひけないよ

という感覚があったからであります。
これを、コンコルド感覚、コンコルド効果、というのですね、心理学の世界では。

近頃は、こうしてすでに支払ってしまった資金や労力のことを、「サンクコスト(埋没資金)」とよぶのでありました。くわしく書くと、【埋没費用 とは、事業や行為に投下した資金・労力のうち、事業や行為の撤退・縮小・中止をしても戻って来ない資金や労力のこと】だそうです。(わたしは最近知りました)

合理的に考えると、リスクとペイをしっかりみて、さきほどのバスケの試合でも、事故の危険や生命のリスク等を考えれば「家で安全にテレビで試合を楽しむ」ことができるわけだが、すでにお金を支払ってしまい、それはもう取り返せないのですが、惜しい、という気持ちが湧いてきて、危険だけどバスケの試合に出かける方を選ぶ人が多いのだそうです。

では、次の場合はどうだろうか。
試合当日の天候は、先ほどと同じく危険な吹雪です。ただ、観戦チケットは運よく友人からプレゼントされたものです。さて、あなたはどうしますか。

1:試合会場に行く
2:暖かいあなたの家でテレビ観戦する
コストがかかっていないと考える人がほとんどなので、もうすでに引き返せない、とか、ここまでがんばったんだから、という思考は働きませんね。当然、2を選ぶでしょう。


なぜこういう話を出したかと言うと、こういうのを、小学生も勉強した方がいいのでは?と思うからです。道徳なのか、なんなのかナ・・・


パラリンピックやオリンピックも、サンクコストが惜しい、という気持ちで選んでないかな・・・
ちょっと不安になりますね。
こんだけ準備したんだしとか・・・まさかね。

さて、おまけにもう一つ。
みなさんは、次の事例、どう思いますか?

あなたは、国家資格が必要な、ある職業に憧れ、学生時代に必死に勉強しました。猛勉強の末に国家資格を獲得し、あなたは憧れの職業に就けました。

3年間ほど勤めたものの、その仕事はあなたが思っていたような仕事ではなく、憧れた当初の志も失われてしまいました。働く中で、他に興味のある仕事も見つかり、「他のことに挑戦してみたい」という気持ちも強くなっていきます。こんなとき、あなたならどうしますか。

これ、正解はないと思うのですよ。
自分でとことん考えて、そうするしかないのかな、と。
しかし大事な点がある。これらを判断する際に、くれぐれもサンクコストにとらわれないこと。
できるだけ、コンコルド効果に陥らない、ということが、とても大事だと思うネ。

コンコルド

『ずるさ』の学習~トーンポリシング~

道徳で、『ずるさ』を考えた。
ずるいという意味が人によって異なるため、一応の定義をしなければならない。
基本は「相手を自分の思う通りに操作しようとする」動作を「ずるい」と規定した。
意見を押し付けようとする動作はすべてこれにあたるから、意見の押しつけはすべて「ずるい」ということになる。

これはネットに広がる言論を理解するために必要なリテラシーの一つで、小学生の時代に学んでおくべきネットリテラシーの学習の一つに分類されている。
いわゆる、「思い込み」「きめつけ」に陥らないための相続力スイッチである。
欧米では、相手の意見を封じ込める言い方、対応の仕方を「トーンポリシング」といい、やってはいけない、と指導されている。しかしまだまだ人は思い込みが強く、相手を自分の都合の良いように操作しようとするから、トーンポリシングに対抗する力を得るには訓練が必要だ、ということになっている。大人でもパワハラで苦しんでいるんだから、これからの新しい時代を生き抜いていく子どもたちには絶対に必要な素養だと考えられているのでありましょうな。

このトーンポリシング、という言葉を知ったとき、ポリシング、というのはポリスと同義かなあ、と思って調べてみたら、やはりTone Policingで、Police(いわゆるポリス、警察の原義にあたる言葉で、統治、監視、というような意味)の親戚筋にあたる言葉であった。

授業では、「どっちもどっち」ということを題材にした。
いわゆるネットにはびこる、「DD論」である。
これはリテラシー授業では初歩の学習だけど、たぶんなんとなく子どもたちも日常で耳にしたりであったりしたことがあるからだろうと思う。

〇どっちもどっちじゃないか。別に問題視することはない。あなたが言える立場じゃない。
〇あなたの方にだって問題がある、課題があるじゃないか。指摘する資格がないよ。
〇言い方が悪いんだよ。そんな言い方では伝わらないからダメ。聞き入れてもらえなくて当然。

どれも今苦しんでいる人にどう聞こえるか、という視点で授業を進めます。
ネットでは冷笑系、と呼ばれている『反応の仕方』に分類されているようだけど、その冷たさを十分に味わいます。ロールプレイングをすると、みんな硬直したような表情になる。

「ひでえ」

思わず見ていた子が反応してつぶやいた一言です。
そう。冷笑って、キツイんですね。当事者ならそう思える。


どうして冷笑になるのかというと、過去にうまく伝えられなかったトラウマがあるから。
うまく伝える、という「伝えてよかった」経験値がかなり低く、伝えることに自信がないから、冷笑、という「ひねくれた」表現になってしまって病的になっている。

ところが子どもはまだそのトラウマがないか少ないから、ひねくれてこじれた大人よりもしっかりと物事に向き合えている。子どもの持つパワーですね。

「〇〇くん、〇〇してね、ときちんとお願いしたらいい」

それが授業で子どもたちが見つける答えです。
かんたんです。

「もう少し、机をうしろに下げてほしい」

これが言えるかどうか。

「おかずをもう少し多くよそってほしい」

これが言えるかどうか。

「机をえんぴつでコツコツやるのをやめてほしい」

これが言えるかどうか。

言えない子が、冷笑系に走る。走りやすくなる。あるいはそうなる素地を「抱えてしまう」。


きちんとお願いできる子は、きちんと交渉している。相手を尊重している。

冷笑する子は、孤独に悩んでいる。孤独におびえている。過去のトラウマにおびえている。
それで、お願いの仕方や友達の反応を悲観的に想像して心をこごえさせている。
しかし、友達のあたたかさや血の通ったコミュニケーションを思い出せば、きちんと話してみよう、と相手を尊重することができる。
心が柔軟性を失ったとき、想像力を失ったとき、あまりにも硬直しきったときは、相手を「あなたのそれはトーンポリシングじゃないか!」と(←逆トーンポリシングという)非難することさえ起きる。自分を守ろうとしての精一杯の努力なわけだ。言いたいことを言うことすらできず、相手の言動を封じようとここまでひねくれることがあるのだから、やはり人間は自分の伝えたいことをしっかりと伝える、ということができにくく育っているものらしい。

【発問1】
自分「かばんをここに置かないでよ」
相手「え?もっと早く言ってくれたらよかったのに」

言われたときに感じた気持ちはどうだろうか。
まず自分でノートに書く。できるだけくわしく。
そのあと、みんなで交流。発表しあう。
心が広がり、安心感が増えたかどうかで判断する。
「伝えてみてよかった、と思えたかどうか」

【発問2】
自分「わたしのこと、テリーって呼ばないで」
友人A「伊藤だからそう呼んだんだよ。そこまで傷つくことかなあ」
友人B「悪気はないんだからいいじゃない」

言われた時の気持ちを考える。
「お願いしてみたときの気持ち、お願いしてみてよかったと思えたかどうか」
「そのあとこう言おう、と考えましたか。そのつづきは、どう答えますか?」

【発問3】
(自分の側で考える)
自分が、今、苦しんでいる、という気持ちを伝えることができましたか?

【発問4】
(自分の側で考える)
相手に配慮してもらえる、という安心はありましたか?

【発問5】
(相手の側で考える)
相手を自分の思い通りにさせようとしたかどうか。
こちらの気持ち、自分の思いを伝えることはできたかどうか。

【発問6】
相手の心の状態がよくなったと思いますか。
自分の心の状態がよくなったと思いますか。

【発問7】
このやりとりの良くない点、欠点はなんですか。

【発問8】
トーンポリシングをどう思いますか。

〇わたしとしては、最後の「トーンポリシング」という言葉を、小学生段階で知り、使いこなせる言葉にできる、というのが、この授業の目的のように思う。

「われわれが論争するとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである」(ジョン・スチュアート・ミル)

2

【原因と結果】こたえが2になる式を書きましょう。

国語の時間がとれないので、道徳の授業として【原因と結果の授業】つづきをやることにした。
以下、授業プラン。

学習問題①:こたえが2になる式を書きましょう。

4-2
6-4
1+1
1000-998
【原因】いろいろとある【結果】2

このことからわかること:
〇たとえば、1+1、というのはきっかけの一つ。
〇結果の2が、1+1のこととは限らない。4-2かもしれないし、6-4かもしれない。

学習問題②:
さまざまに起こる目の前の現象。
原因は一つといえるだろうか。
たとえば、『先生がこの服を着ている。原因は奥さんにほめられたからだ』は正しいか。

【原因】いろいろとある 【結果】先生がこの服を着ている。

このことからわかること:
〇奥さんにほめられてその服を選んだということはあるかもしれない
〇しかし、その服を着ているからといって、常に奥さんにほめられたからだとは限らない。
つまり、『原因』というものは、必ずひとつきりではない。

学習問題③:時計の針が3:00を指している。

【原因】いろいろとある【結果】時計の針が3:00を指している。

〇実際の時間とは無関係に、時計は動いている。
〇だから本当の時間はわからない。
〇ともかく結果は目の前の時計の針が3:00をさしているということ。

学習問題:先生が、「おなかがへった」と言った。

【原因】いろいろとある 【結果】先生が「おなかがへった」と言った。

このことからわかること:
〇本当におなかがへったかもしれないが、口で言っているだけかもしれない。
〇先生は、体の状態とは無関係に、口で「へった」と言える。
〇だから原因がおなかがへったせいだ、とは限らない。
〇先生が「おなかがへった」と口でしゃべった、ということだけ。
〇原因はひとつではない。

指示:
①例文)1+1は2になるが、2だからといって、直前の計算式が絶対に1+1だとは言えない。
上の例文のように、〇〇であるが、だからといって〇〇とは言えない、限らない、というような文を作ってみましょう。

②奥さんがほめると先生がその服を着たくなるかもしれないが、その服を着ているのは奥さんがほめたからとは限らない

③実際の時間が3:00のときに、時計の針が3:00をさすかもしれないが、時計の針が3:00をさしているからといって、実際の時間が3:00とは限らない。

④おなかがへったので先生が「おなかがへった」ということはあるかもしれないが、だからといって、「おなかがへった」といったから実際におなかがへっているとは限らない。

⑤雨が降ったら試合が中止になるかもしれないが、試合が中止になったのは雨がふったからだとは限らない。(他にも中止となり得る原因がごまんとある)

⑥雨に濡れると風邪をひくかもしれないが、風邪をひいたのは雨にぬれたからだとは限らない。


このように、実際はある現象についての【原因】は一つではないのですが、原因を一つしかないと考えることを『迷信』と言います。つまり『迷信』とは、原因が一つだとして考え、かならずそうなるとは限らないものをかならずそうなる、と信じることを言います。

迷信と戦った人に、井上円了、という人がいます。

なぜ井上円了は、迷信と戦おうと思ったのでしょうか。

井上円了は「鬼門」とよばれる迷信と戦いました。
昔の日本には、家の中心からみて、北東にあたる方角を鬼門といい、縁起の悪いことやよくないことがその方向からやってくる、という言い伝えがあったのです。そして、家の人が病気になると、北東に神棚を祀ったり、塩を置いたりしたのです。

みなさんは、この話をきいてどう思いますか?

〇なぜ北東なんだろう
〇鬼ってどういうことだろう
〇塩ってどういうことだろう
〇まったくわからないことだらけだが・・・

井上円了は、

【原因】北東から鬼がきたので【結果】熱を出した

とは考えなかったのです。
井上円了は、どう考えたのでしょう。ノートに書きましょう。

〇原因が一つとは考えなかった。
〇鬼が来て熱を出すことはあるかもしれないが、熱を出したのは鬼が来たからとは限らない、と考えた。

そうですね。井上円了は原因を一つと考える迷信をなくし、実際はどうかもっと考えよう、ある現象が起きるための原因というのはたくさんあるという考え方を日本に広めようとしました。

(この後、井上円了のやろうとしたことや経歴にふれ、井上円了のことを感想に書いて終わる予定)

Enryo-tetugaku

【道徳】分かるとは何が分かるということか

A「なあ、きみ。ぼくは気づいたんだ。ツバペッペイさんは本物の悟りの人だと」

B「それはすごい。でも、だれ?その人・・・」

A「とにかく真理を話すんだ。一度講話を聴いたらもう忘れられない」

B「へええ。よかったねえ。面白い話だったんだな」

A「あの目、あの話し方、素晴らしい愛を感じたね」

B「きっと、やさしい人なんだろうねぇ」

A「とにかく、あの人の言うことは絶対の真理だ。人生というものを知っているんだ」

B「ははあ。そんなに感動したの」

A「人生の何たるかをぼくはそこで初めて理解した。真理はシンプルだ」

B「ほー・・・」

ネッシー


A「ぼくもこうやって初めて真理にたどり着いたので、毎日が明るく思えるよ」

B「・・・」

A「あの人の言うことはぜったい正しい!」

B「・・・あそう。しかしまあ、自信がすごい・・・」

A「(かぶせ気味に)いや、あの人こそ、真理にたどり着いて覚醒した方なんだ」

B「あそう。ではあなたも真理にたどり着き、仏陀のように大悟したのか。そりゃおめでとう!さぞ今は心境穏やかなのだろうね」

A「いや、ぼくなんかまだ道半ばだ。永遠に道半ばなのかもしれない」

B「なぜ。・・・あなたも真理を理解したのだろう?」

A「ぼくなどまだ足元にも及ばない。なぜならぼかぁ、間違いの多い人間だからね」

B「えええ?あなたは本物の悟りを得たのだろう?」

A「いや、逆さ。自分は間違いが多い人間だということがわかったのだ。ぼかあ、自分のことをしっかり認めている。間違いの多い人間だということを・・・。そうして反省することができる。これは実は悟りの一部さ」

B「はああ。まあ、自分は正しく判断できる能力があると思い込んで泥沼、ってのは、太平洋戦争をふりかえるまでもなく、よくある話だし・・・人間ってのはそういうものだろうなあ」

A「ところが、ツバペッペイさんはそうでない。あの人は真理をつかんだ人なのだ。あの方の言うことはすべて正しい」

B「・・・あれ、待てよ?・・・しかし、あなたは間違いの多い人間なのだろう?」

A「そうさ。わたしはツバペッペイ氏の足元にも及ばない。間違いを反省するべき人間だ」

B「あなたは間違いが多いのだろう?で、そのあなたが判断したことは・・・」

A「もちろん!大いに間違っているんだ。どうだ。こんなふうに素直に反省するところなんざぁ、ぼくもかなり修行が進んだといっていいだろう」

B「あなたには正確に判断する能力は・・・」

A「もちろん、無い!・・・どう?キミの言いたいことはお見通しだよ。ぼくはそれほど高慢ちきな人間ではない。ぼくにはツバペッペイ氏のような千里眼はとうてい無理なのさ。でもそれを自覚できているところがえらいのだ」

B「なるほど。あなたには、正確に判断する能力もないし、間違いが多いことがわかった」

A「そう。で、世界で唯一の真理の探究者こそツバペッペイ氏だ。キミにも氏の高邁な理論を伝えたいよ」

B「あなたは間違いだらけ」

A「そうぼくは。で、ツバペッペイ氏は最高」

B「ということを言うあなたの話は」

A「そう。間違いだらけ」

B「で、その間違いだらけのあなたの話は間違いだらけ」

A「そう。そしてぼくが確信しているのが、ツバペッペイ氏が正しいということ」

B「その話は、間違い?」

A「そう。ぼくの話はほとんどが間違い」

B「ではツバペッペイ氏は・・・」

A「・・・このぼくが判断したことなので・・・んまー、正しいともいえんな

B「ツバペッペイ氏は正しくないかも、ということでいいのかな」

A「・・・んまー、よかろう」


分かるとは何が分かるということか。

これを小学生のそうだなあ、4年生か5年生くらいで、考えておいた方がいいのかもね。

【道徳】嫌い、ということの誤解をなんとかする

文科省は基本法や指導要領で、とてもいいことを言っている。
わたしは基本的に、文科省のいうことは常識的で、素晴らしいと考えている。
よく読んでみると当然だが、人権的な配慮にあふれている。
というよりも、人権的にまちがったことを書いてある場所は皆無である。
差別をなくし、人を個として尊重すべき、と書いてある。

道徳の教科化については、賛否の両意見があるが、わたしはこの目標はすばらしいと考える。
「自己の生き方を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とする。」

しかし、授業自体は旧態依然としており、あの教科書をいくら読んで意見を出し合ったところで、なにか根本がずれているために、子どもたちは意外にも

他者とよりよく生きる

ことが難しいのである。

これは現場の教師としては苦しいところ。
文科省は
「道徳をしっかりやれば、いじめもなくなるし、子どもたちは他者を思う子に育つ」
と思い込んでいる。
ところが実際はそうならないから、困っている。
いじめが出れば、文科省は
「なぜいじめが出るんだ、道徳をしっかりやっているのか!」
と考える。
でも、その道徳をきめられたように教科書をつかってがんばっていても、いじめが起きるからみな苦しんでいる。
決定的なのは、当の教師自身が、「なんでいじめが起きるのかわからない」と思っていることだ。

〇子どもに原因があるとする考え。
〇親に原因があるとする考え。
〇善悪の判断が理解できていないのだ、とする考え。
〇礼儀を教え込んでいないのだ、とする考え。
〇伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度がたりんのだ、とする考え。

どれも違うし、ズレているから、上記のように考えている限り、決していじめの原因がつかめないし、人間とはなにかも理解できないままだ。

善と悪を分けましょう、というのをいくら学んでも、ちっとも学級の雰囲気は良くならない。
この実態をしったら、この現状をみたら、文科省のえらい人も泣くだろうと思う。
そして、なんでだろう、と疑問をもつと思うネ。

礼儀をいくら教え込んでも、不気味なロボット人間が多数出来上がるだけで、ちっとも子どもらしくない集団ができあがる。これも、文科省の役人がみたら、「こんなはずではないのに」と残念がるだろうと思う。

さらには国や郷土の良さを知って自尊心を高めることに重点をおいても、やはり子どもは決定的に変わることがなく、自分勝手で気分屋で、お母さんを困らせる点は変わらないのであります。

わたしには、文科省の担当者の気苦労がしのばれる。
子どもの学級集団は、1年間、ずっと同じように毎日顔を合わせるのである。
その集団が、安心して心地よい空間にならなければ、子どもは決して成長できない。
そのことに重点をおかず、子どもを律するために、とだけ考えて苦悶したのだろう。
最終的に結論がでず、ともかくあらん限りの指導のポイントをかきなぐった学習指導要領になった。

それが、これである。
A 主として自分自身に関すること
○ 善悪の判断,自律,自由と責任(低、中、高)
○ 正直、誠実(低、中、高)
○ 節度、節制(低、中、高)
○ 個性の伸長(低、中、高)
○ 希望と勇気、努力と強い意志(低、中、高)
○ 真理の探究(高)
B 主として人との関わりに関すること
○ 親切、思いやり(低、中、高)
○ 感謝(低、中、高)
○ 礼儀(低、中、高)
○ 友情、信頼(低、中、高)
○ 相互理解、寛容(中、高)
C 主として集団や社会との関わりに関すること
○ 規則の尊重(低、中、高)
○ 公正、公平、社会正義(低、中、高)
○ 勤労、公共の精神(低、中、高)
○ 家族愛、家庭生活の充実(低、中、高)
○ よりよい学校生活、集団生活の充実(低、中、高)
○ 伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度(低、中、高)
○ 国際理解、国際親善(低、中、高)
D 主として生命や自然、崇高なもの
との関わりに関すること
○ 生命の尊さ(低、中、高)
○ 自然愛護(低、中、高)
○ 感動、畏敬の念(低、中、高)
○ よりよく生きる喜び(高)

これをしっかりと指導すれば、いい子になるだろう、という文科省の願いである。
ところがそうならないから、文科省の担当者は、こういう文書を作成した直後から現在まで、常に苦悶しているのだろうと想像する。

安心して暮らせる、子どもが勉強をやる気になれる教室をつくるのは、たった一つ、これを解決すればいいだけである。

「嫌い」をじっくり考え、「好き」になる。

これだけで、友達が好きになり、授業が好きになり、教室の掃除道具が好きになり、友達の発言が好きになり、自分が好きになり、やる気に満ち溢れ、世界が変わり、地球が好きになり、過去も未来も好きになる子になる。

毎日子どもをみていたら、「単純でシンプルなことを自分を材料にとことんしらべていく」やり方のほうがあっている、と思うネ。

道徳の授業は、やらんならん、という要素を増やさない方がイイと思うがナァ・・・。

道徳

【ヘイト防止授業】「自分は良くて、相手がいけない」の病理

教員がよく遭遇する子どもどうしのトラブルで、こんなのがある。

Aくんが筆箱を投げた。
Aくんが先生に注意された。
A「だって、Bくんだって投げたんだよ」
先生「それは言い訳にはならないよ。ともかく、教室でものを投げたら危険だし、ダメでしょう」
A「なんで先生は、おれだけを注意するの?差別だ!」

わたしは、Aくんに対してというよりも、学級のなかで指導をします。
なぜなら、Aくんのような思考ルートをたどる子は、とても多いからです。
かんじんの、

自分が今、筆箱を投げたこと

からは、自分自身の注意をそらしているわけ。
頭の中で、「筆箱を投げたことに関する評価」をできるだけ封印、考えないようにしている様子。
これは、子どもの自然な、心理的・防御反応だと思います。

叱られる、ということについて、強烈な恐怖や不安を感じる子ほど、こういった防御反応が強いように思います。おそらく二次障害的なものかな?
暴言による圧力、圧迫、脅迫によって「叱られてきた」子にとっては、つらいのです。
そういう「叱り方」をされた体験をもっている子は、つらい。
おそらく、その体験から自身が解放されるまで、時間がかかると思う。

なんで、ぼくばかり注意されるの!
みんな、ぼくのことが嫌いなんだ!
俺に向かって注意するのは、みんな悪いやつらだ!


これが、「憎しみ」というもの。
世の中に対する、あるいは人に対する、憎しみ、というものでしょう。

『憎しみ』を心に抱えた子は、自分への批判や評価を、受け入れません。
受け入れるだけの余裕は、もうすでに心のどこにも、ないのです。肝心のスペースが。
憎しみは、外へ向かいます。
攻撃されたら、攻撃しかえすのが、せめてもの条件反射なのです。

つまり、憎しみによって、こころをほとんど占められてしまった子にとって、
自分が相手を批判するのはOKですが、
でも、相手が自分を批判するのは、許せないのです。

なぜなら、相手が自分のことを言うのは、すべて「攻撃」だから・・・。

しかし、自分が相手について批判するのは、これはもう、さんざん自分が攻撃されたことに対する、ほんのささやかな復讐であり、抵抗。だから、許されるべきだ、と考える。たとえ相手が、実際には自分の不都合とは、一切かかわりのない相手であっても・・・。これが「ヘイト」です。

ターゲットにされた方は、たまったものじゃないですが、憎しみに心を奪われている子にとっては、5歳のころからの憎しみが、貯金のようにたまっている。それを12歳になってようやく吐き出せるようになって吐き出しているだけなので、自然の生理的な現象に近い。
たまたま、偶然にも、目の前にいる子が、ターゲットになってしまう。

学級の中に、その「憎しみ」が連鎖していきます。どんどん、増殖する。
今、ヘイトが世の中で流行していることと、無関係ではないでしょう。
日本の世の中には、これまでの我慢やうっぷん、抑圧からの反撃欲求が、うずまいている。
それが、【ヘイトの欲求】になって表出してきているのでしょう。

ヘイトを出している側は、今の目の前の攻撃対象のことなど、くわしくは知らなくてもよいのです。ただの言いがかりに近いようなことでも、十分に、攻撃する理由になるのですから。
理由はただひとつ、「かつて自分が受けてきた圧迫に対する、ささやかな抵抗をしなければ」という思いです。



さて、こうした子には、どう接していけばよいのでしょうか?
どのような『指導』が、有効なのでしょうか?

淡々と接することです。
ごくふつうに。
しかし、粘り強く、あきらめず。
言うべきことは言いますが、しつこいことはしません。

そして、これまでどんなふうに、多くの人たちから親切を受けてきたか、嬉しかったこと、たのしかったこと、まわりがサポートしてくれたこと、してくれたこと、やってくれたこと、配慮してくれたことを、思い出させることから始めます。
道徳のノートに、たんまり、と書かせます。
最初は、「そんな世話を受けたことなんて、ない!」と言い張ります。そうです、それが特徴。親切など、受けたことはない。そう思う子ほど、人間関係に困っているのでしょう。

実は、ここで最初から、
「周囲から、こんなことをいつもしてもらっているよ」
なんて文章に書ける子は、もうすでに最初から幸福に生きている子であり、友人思いの子です。

書けない、書けない、思い出せない、そんな親切など、生まれてこのかた、受けたことがないんだ、と言い張る子ほど、これをやる価値が出る。

しだいに、書けるようになってきます。たった一行でも。

「給食を〇〇くんがよそってくれた」

だけでも。
このことを、100回ほど繰り返すと、その子の口から、ヘイトが消えていく。
これが、ヘイトの根絶につながります。

わたしの道徳は、ほとんどが、このこと。
これだけでも、1年間、ずっとやり続ける価値がある。
そして、1年くらいずっとこのことをやり続けないと、傷なんて、そう簡単に癒えるものじゃあ、ないですよネ。

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【道徳】「わからなくなる」ための問題とは

対話ができるようになるためには、「わからなくなって頭の中が白くなる」ことが重要です。
その体験を生み出すための、しかけが要ります。

わかりやすい道徳の授業として、下記を紹介します。
道徳の授業プランに、近頃流行しているのが、「どう、解く?」のシリーズである。
ポプラ社から、児童向けの単行本が発刊されている。

良い点は、すべての学習問題を、「比べる」要素で構成しなおすことが可能なことだ。

(※参考:「比べてみよう」の指示の価値)

以下は、比較するために有効な、学習問題の文。

〇ついていい嘘と、ついちゃいけない嘘と、どう違う?
〇人数が多い方が正しいのか、少ない方が正しいのか?
〇殴ってよいのは、正義のヒーローか、悪役か?
〇殺してよいのは、蝶か猫か?

など。
「比較する」作業は、子どもにとっては、とっかかりやすい。
これは授業の仕組みとして、有効な手段だ。

中にはけっこうドギツイ問題もあるから、授業をするのに躊躇するくらいだが・・・。
しかし、子どもは生きている。現代社会に生きている。これからも生きてゆく。
こういう問題を、考えてきた子と考えなかった子では、やはり違いも出てくるだろう。

さて、下記は実際に行った授業展開 ↓ です。
参考になりましたら、これ幸い・・・。

〇発問:嘘をついてもいいかどうか

子「だめ」
子「ときと場合によるんじゃ」
子「やむを得ない場合はOKかも」

〇発問:やむをえない場合とは?

子「誕生日でサプライズのときとか。わたし、知らないよ~ってフリをするでしょう」
子「なにか誘ってもらったとき、その気がなくても、いいよーってついていくときがある」
子「プレゼントもらって、いい色じゃなくても、あ、うれしいー、ありがとうーって言う」

〇発問:ついていい嘘とついちゃだめな嘘とのちがいは?

子「相手のためになる嘘ならOK」
子「相手を傷つける嘘はだめ」
子「周りの人に迷惑をかける嘘はダメ」
子「信頼をうしなっちゃうほどのはだめ」
子「とりかえしのつかない嘘はぜったいダメだと思う」

↑ 上の意見をみていて、ある子が

相手のためになる、と考えている時点で、それはもう、嘘というより本音に近いのでは」
「どういうこと?」
「もう、やさしさが充満しているようだから、相手のことを願ってのことだから、その気持ち自体は、もう嘘とはいえないと思う」
「ふーん」(わかったようなわからんような・・・)


〇発問:では、「相手のためになる嘘は、ついてもいい」の?

子「いいと思う」
子「必要だと思う」
子「でも、本当に相手のためになればいいけど、そうでなかったらイヤだな」
子「あなたのため、と言いながら、逆に迷惑をかけたりして・・・」
子「それは、いやー」
・・・
子「相手のためになる、というの、本当にそうなのかどうか、判断できない」
子「してほしくないことを押し付けられるのもいやだね」
子「相手のためになると思っていても、ちがうかも」


〇発問:相手のためになるかどうか、どうやったらわかるの?

子「聞いてみなくちゃわからない」
子「本人に、確認してみないと」
子「でも、本人も気を使って嘘をいうかもね」
子「お互いに、相手のことを思って、遠慮しあう感じかも」
子「めんどうだなあ」
子「こうしようと思うけど、どう?、と聞いて、本当の気持ちを言ってもらうのがいい」
子「本当の気持ちを言ってくれない場合は、どうなるの?」
子「本当の気持ちを知りたいから、本当の気持ちを言ってね、と最初に言うべき」
子「同じクラスの子なら、本当の気持ちを言えると思うけど。ほかのクラスの男子には言わないかも」
子「日頃のつきあいのレベルによるよねえ」
子「そうそう。日頃のつきあいが大事だ」
子「ふだんから、ちゃんと話したり、会話している子ならOK」
子「初対面の子には、本当の気持ちを言えないと思う」
子「中学で別の学校から来た子には、最初は言えない」
子「お互いにいいな、と思えてから初めて、本当の気持ちを話せる」
子「時間がかかるんだよ。人間関係は・・・(白目)」


結論は、

ふだんからのコミュニケーションが大事

となりました。

授業後、焼き鳥の好きなAくんが、わざわざ私のところへ来て

「先生も、S先生とかといっしょに、飲みに行けば?」

ワタシ、それを聞いて・・・『お、おおう、』と不器用な反応しか返せませんでした。

yakitori

【道徳】対話になるかならないかは〇〇にかかっている

対話するためには、何が必要か。
それは、「あれ?本当に、おれ、わかってないな・・・」という体験だ。
「自分はわかっている、知っている」という意識が少しでもあれば、対話にはならない。

文科省は次代の教育の根幹に、「対話」を掲げた。
対話するためには、本当のことを知ろう、という『超絶謙虚』な姿勢が必要条件となる。
つまり、「知っている」という傲慢さを、子どもたちから奪わなければならないのだ。
それが、われわれ教師の使命・・・。

文科省が掲げたテーマは、正しくは
「主体的・対話的で深い学び」
である。

今、必要なのは、主体的に自ら、
「わからない自分」
に飛び込んでいく勇気なのだ。

それを邪魔するのが、
「正しいことを知っている」
というプライド。
子どもにだって、プライドがある。そして、「対話」の邪魔をしている。
だから、授業がつまらなくなる。お互いに発表をするだけになってしまう。
先生たちも、みんなそれで悩んでいる。
「ちっとも対話にならないんですよね」
授業研究会で、真っ先に話題になるのが、このことだ。
意見をすりあわせ、昇華させていくことがないまま終わってしまうという点。
授業では、これを突き崩すための、手練手管が必要となる。

初心者の先生や若い先生がいちばん取り組みやすいのは「道徳」だろう。
成績の優秀な子や、自信を失った子、自己肯定感の低い子ほど、

正しいという価値

にすがろうとする傾向が強いからだ。
したがって、自己肯定感をはぐくむためには、正しさの正体に出会う授業を仕組むしかない。
「道徳的な正しさ」と向き合う授業を、慎重に仕組むことがこれからの教師には求められる。

ところがある意味、この授業は危険である。
教師の方に、〇〇が正しい、という意識が強ければ、授業は不可能だからである。
教師が「超絶謙虚」でなければ、そもそも、子どもとこんな授業をしてはいけない。
ひどい場合には、けっして許されないような「差別」を子どもに教えることになる場合だって起きる。すでに人類は、そのことで手ひどい失敗をしている。
太平洋戦争に突き進む、昭和初期の軍人教育は、道徳的な正しさを突き詰めた先の、「殺人」を教えているからだ。

『鬼畜米英』という言葉。
この言葉を発明し、米国人・アジア人・オーストラリア人他の殺人を遂行したのが先の戦争でありました。

道徳(的な正しさ)をつきつめたら、殺人になっちゃった。

 ↑ これが、対話のない教育の結果、である。
だからこそ、文科省は、『対話』をすすめているのである。
二度と、戦争の惨禍を繰り返さないために。歴史から学んだのである。

鬼畜米英なんて言葉を発明してしまうのは、「正しさ」に依存していたから。
「正しさ依存」というのは、ほとんど逃れようのない、文明の病である。人間は弱いため、すぐに外部評価で自分の価値をはかってしまう。ただの評判(感想)なのに、その評判こそが自分の実体なのだ、とかんちがいしやすい。
自分自身の心に劣等感を抱え、外部評価に飢えた状態であれば、なおさらだ。
周囲から「あなたが正しい(←感想)」と言ってもらえることに依存するようになる。

自分自身に価値がない、と感じている劣等感の強いパーソナリティの保持者であるほど、声高に保証を欲しがる。いわばのどがかわいた砂漠の旅人のようなもので、「自分の価値」を認めてほしいという強烈な欲求をもつ。
自己肯定感の低い子は、麻薬のように、覚せい剤のように、「正しいと言ってもらえる快感」に酔いしれるのだ。
そして、その快感があれば、あたかも自分の自己肯定感が増すかのように錯覚する。
しかし、そこに一歩、つられてしまえば、足を踏み入れてしまえば、底なし沼が待っている。
正しさに溺れ、呼吸困難になり、もう何も考えられない。つまり、「対話の放棄」である。

「対話」は、常に、「正しさ」に寄りかからない、と決める姿勢のことである。
その姿勢でいられるときにはじめて、

「ああ、こうやってみんなで話し合っていくことで、基準を変えながら、判断を変えながら、徐々に徐々に修正しながら、よりよきを願って、進んでいけるんだ」

という実感とともに、自由さの中、ほんのりとした「自己肯定感」が、胸の底からこみ上げ来るのを知るのだろう。それは、「対話」ができるようになった自分、という最強の自分に出会えたことの、よろこびからくる本当の自信なのでありましょう。

sensou_senjou

【道徳】大好きな人から覚せい剤を勧められたら・・・

田代まさしといえば、わたしは「シャネルズ」を思い出す。
世代が分かるナ。

ともかくデビューが衝撃的だった。
顔を真っ黒に塗って出てきたからだ。
そして、湯川れい子さん作詞の、「ランナウェイ」を歌った。

ボーカル鈴木さんの甘い歌声、そしてメンバーのドゥーワップ。
子どもたちは、すぐにマネをした。5人そろったら、とりあえず

「らんなうぇ~、きみがす、き、さー(らんなうぇーッ、えー!)」

と歌ってみるくらいに。
昭和って、なんでこんなに、すぐになにかが流行したんだろうか。
今、流行のない時代と言われて久しい。あの頃のように、国民みんなが限られたチャンネルで、同じものをみて、同じように反応していた時代は、もう二度とこないでしょう。

田代さんは、抜群の音楽センスがあったから、お笑いのボケやつっこみのタイミングが、どんぴしゃだった。志村けんなどと共にコントもこなしたが、お笑い芸人との絡みが、とても上手かった。
ちょうどいいタイミングでつっこむことができるし、いいフォローを入れたり、タイミングが良かった。

同じタイプにドリフターズの加藤茶がいる。彼の音感、リズム感は抜群で、コントでぼけるタイミングや、くしゃみのタイミング、たらいが当たってよろけるタイミング、すべてが他に抜きんでていた。
いかりや長介が著書の中で、
「ドリフの笑いは、加藤茶のリズム感に支えられていた」
と書いた通りだ。

その田代さんが覚せい剤でつかまった。

ところで、本当に、タイミングが重なったのだが、来週わたしは「薬物濫用防止」について、授業をすることになっている。

そろそろ、その授業の内容を考えなくてはならない、と思っていた矢先に、田代さんがまた、また、逮捕。これで5度目、ということである。


薬物の怖さやおそろしさ、なぜやめられないか、人生が破壊される、ということ。
それを子どもたちに

「おそろしいんだよ、人生が破滅するよ」

と、何度繰り返しても、おそらく効果はない。

なぜなら、問題の本当の難しさは、人間関係のことに起因するからである。



薬物の恐ろしさを、何度聞かされていたって、人間関係のことについて、きちんと考えていなければ、やはり人間は弱いのだ。薬物のこわさよりも、こわいのは、人間の弱さ、人間が人間のことをきちんととらえられないこと、自分と他人との関係をきちんと考えられていないことが、こわいのだ。

ためしに

「大好きな先輩から、これ飲んでみて、と錠剤を渡されたら、断れるか」

ということを子どもに投げかけると、

さんざん時間をかけて、クスリの恐ろしさを学んだ直後であっても、正直に、

「もしかしたら断り切れないかもしれない」

と言う。

正直だ。

これほど、かように、人間というのは小さいのである。弱いのであった。



大切なのは、クスリの恐ろしさ、ではない。
そこを見間違うから、「薬物濫用防止!」と教育しても、ほとんど効果が出ないのである。

〇大好きな人から頼まれて断れるか

それに加えて、

〇怖い先輩から命令されて断れるか

〇一生の大親友と思っている子から一緒にやろうといわれて断れるか

〇お金が本当にたくさんもらえたら、断れるか

〇借金していて返すために、と言われたら断れるか

これが、断れないのである。
だから、けっこうこの問題は、闇が深いのである。


これは、自己形成、についての深い、深いテーマなのである。
自己形成について、十分に考えたり、あるいは人生の意味をとらえなおしたり、いちばん大事なのは、自分自身の人間関係のもちかた、とらえ方を、ちゃんと何度もくりかえし、意味を問い、自分で決定して、つくっていけているか、ということ。

そこにきりこむようなことをしないと、

ただ子どもたちと、人生の表面的な出来事として、「薬物」をテーマに話し合ったり考えたりしているだけでは、

まったく意味はないのでしょう。

シャネルズ


1970年代終わりに心理学者ブルース・アレキサンダーが行った、有名な「ラットパーク実験」だった。それは、一匹ずつスキナーボックスに閉じ込められたネズミと、多数の仲間と一緒に広々として遊具がたくさんある楽園に置かれたネズミとで、どちらの方がよりたくさんのモルヒネを混ぜた水を消費するのか、という実験だった。

 その結果、大量のモルヒネ水を懸命に摂取し消費するのは、檻のなかに閉じ込められた孤独なネズミの方だった。広々とした快適な空間で仲間たちとじゃれ合い、楽しむネズミたち、不思議とモルヒネ水を消費せず、見向きもしなかったのだ。

やり直しのとらえ方

やり直し、ということを、「ありがたいチャンス」と思うかどうか。
社会全体が、「省エネが良く、やり直しはできるだけ避ける子を育てている」という気がするネ。

そのためか、教育現場でも、生産性を上げることが良いことだから、能力の秀でている(とされている)子の言うことをみんなで黙って聞くのが良い、と教えている気がするが、どうだろう。


なんだか途中で、おかしいかも?と思っても、
「そんなわけない。気のせいだ」
と言って前進一路!ということになる。

前進して、景気よく進んでいる時は
「ほらみろ、正しいのだ」
となりやすい。

まだ元気だし、道はきれいだし、みんなで歩いているし、歩きやすいし。
「信じてよかった!新しい時代の幕開けだ!」
「男のロマン、夢、人間の可能性を信じよう」
って、だれかが言うと、みんな感動して、
「やってよかった、進んできてよかったのだ」と応える人も多いだろう。

ここまでは、みんなそう。


ところが、だんだん藪の草が伸びてきて歩きにくくなってくると、あれ、と思う人も出る。
「あれ?この道でよかったんだっけ?」
すると、やり直しを認めない人は、
「草など想定外だ。藪も、本来あるものではないはず。こんなことは千年に一度のことだろう」
と、誰かが言い出すと思うね。

道が無くなり、なんだか戻りたい、という気持ちが出てきた時にさえも、人間は
「いや、これでよかったはずだ。この道しかない。計画はまだ道半ばだ」
と強く言いたくなるものだ。
やっぱり計画を見直し、別の道を選ぶところ、三差路の場所まで戻ろう、という気になる人は少ないようだ。

やり直しをチャンス、ととらえる子と、
やり直しは損なコト、ととらえる子。

どちらが、未来を切りひらくか。
新しい業態を発案し、実験していくのはどちらか。

『チキチキマシン猛レース』でも、最後まで勝負は分からないもの。
ところが、「やり直し」を嫌って、間違った道を勇気果敢にどこまでも突き進もうとしたのが、第二次世界大戦でのインパール作戦だった。

昭和万葉集に、たしかこんな内容の歌があった。

『「あなたはこの戦争に負けるかもしれない、とはお考えにならなかったのですか」と、妻がわたしのうしろでそっと言った』

上記の歌、内容しか覚えていない。
うたを、そのまま正確に、ここに記せないのが残念だ。


この奥さんは、「さっさと降伏してほしかった」
と思ったことがあったのかもしれない。
しかし、時代が『あともどり』というか、「やりなおし」を禁じた。



子どもたちと、「やり直し」ってなんだ、と考える道徳の授業をしてみたら、と思い浮かべている。「引き返す勇気とやり直しは、決して無駄にはならない。むしろ正確な道を歩むチャンス」とまとめる子が出てくるのではないかな。

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「自分がされていやなことは、他人にはしない」

新しく道徳が教科となった。

教科書を読んでいると、この本のいちばん底に流れている思想は、結局はこの「相手の身になってみよう」に尽きてくると思われる。


ところが、これは実は重大な落とし穴がある。

ぼく、平気だもの。

という子。
この子には、これは通用しないのであります。

AがBを蹴る。
Bが痛い、と泣く。
Aに対して、「Bくんの気持ちを考えてごらん。あなただって、蹴られたら痛いし、いやでしょう」
すると、驚くなかれ、Aは、こう言い放つのであります。

「だって、ぼく、蹴られても平気だもん」

教師はいぶかって、再度念を押す。

「本当に?だって、蹴られたらいやでしょう」

Aは、首をふって、「本当に平気だもん」

ここで前提が崩れてしまう。
すべての人が自分と同じ性格であることを前提として話を進めていれば成り立つ話が、実際は成り立たないのであります。つまり、
自分がしてもらいたくないことと、他人がしてもらいたくないこと、
自分がしてもらいたいことと、他人がしてもらいたいことが同じである。
という前提があって初めて、成り立つ話なのだ。ところが、実際の人間は、そうではない。

Aは、まじめ、である。
このくらいの蹴り方で、こんな程度に蹴られることなんて、ぼくは平気だ、と思うのである。本当に、心からそう思っているのである。このくらい、本当に平気だ、と思うのであります。

だから、この場合は、

「Bくんの気持ちを考えてごらん。あなただって、蹴られたら痛いし、いやでしょう」

ということではなく、

「Bくんは、あなたとちがって、痛いかもしれない、と考えよう」

ということを教えるべきである。

つまり、人間はこういう場合はこんなふうに考えるものである、感じるものである、というのは一切ただのキメツケである。実際には「そんなセオリーはどこにも無い」。

そうなると、Aは新たな問いを発見するであろう。
「なぜ、自分Aと、あいつBとでは、考え方や規準、道徳感情や価値観が、異なるのだろうか」
ここを考えるのが、教科としての道徳の、真のあり様ではないだろうか。


たしかに、生活上のルールを考えるのは、簡単だ。

〇たたくのはやめよう
〇けるのはやめよう
〇画鋲を置くのはやめよう
〇相手がいやだと思うことを強要するのはやめよう
〇パワハラはやめよう
・・・
しかし、こんなことは、「道徳の本質」とは異なるものである。


道徳は、「人間関係をスムーズにする方法や手立て、ルールを考える」というレベルを超えていく。
結局は、「人間とはいかなるものか、という研究」に近づいていくのではなかろうか。

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【ヘイト学習】について

民族文学、日本の民話について研究されてきた「松谷みよ子」さんをご存知でしょうか。
児童文学作家でもありますね。「いないいないばあ」とか。
「ちいさいモモちゃん」はベストセラーですし、民話では信州に伝わる小泉小太郎伝説などをもとにして書いた『龍の子太郎』が有名ですね。日本中にファンがいる。

わたしも好きでねえ・・・。
小さい頃から、松谷みよ子が著者だと分かったら、一応読んでみよう、と図書館で借りるような子でしたな。

その松谷みよ子さんが書いた、「私のアンネ・フランク」という本があります。

アンネ・フランクはご存知の通り、ナチスの時代に民族の迫害にあい、ゲットーに送り込まれて亡くなった方です。強制収容所から唯一、父親だけが生還できた。父親は戦後、最後の隠れ場だった家の持ち主から彼女が書いていた日記の紙片を集めたのを、渡してもらうことができた。まあ、お父さん、嬉しかったでしょうね。そんなのがゲシュタポに回収されず、捨てられず、家主に集めてもらえてたなんて。
お父さんは感謝の気持ちから、アンネを知る身近な人々に向けてそれらを複写して渡すことにします。それが、のちに世界的ベストセラーになる、「アンネの日記」というわけです。

そのアンネ・フランクについて、松谷さんがドイツまで出かけて取材して書いています。13歳のゆう子の「アンネ=フランクを知らないで書きつづけてきた、アンネ=フランクへの日記」と、彼女の母親の蕗子が記した手記、という形で書いてあります。現代の日本に住む日本人と、アンネ=フランクを繋げる架け橋のような本です。最初、アンネを「お話の中の人」と捉えていたゆう子は、様々な出来事に遭い、最後「あなたはほんとうにいた人だったんですね」と呼びかけるに至ります。

8月になって戦争のことを考えると、どうしてもこの本が思い出される。
わたしゃ、当時、小学校の高学年だったですかね。暇だったのか、姉の本棚を物色していてこの本を見つけ、「姉が読めたなら、自分にも読めるはず」と、重々しいテーマだわ、と思いながらも真剣に読んだものでした。

さて、そのドイツでは、ナチスは「自由を奪うもの」として認識されています。強圧的に差別をすすめたのですから、そりゃそうでしょう。ドイツ国民はともかく、ヨーロッパの方たちのアンチナチスの徹底ぶりはものすごくて、ナチスはことごとく、忌み嫌われております。松谷みよ子さんがドイツに向かったとき、「アンネの日記」が日本で出版されたことについて、「日本人にはこの悲劇が理解できないでしょう」と言われたそうです。

ところが、ナチスは忌み嫌われて当然だとして、ではいったいナチスの何が嫌なのか、となると、やはりこれは、「ナチスが自由を制限したこと」ではないかと思うのです。

『やつらの自由を奪え!(制限しろ)』

というようなヘイト・プラカードを掲げて、ナチスはユダヤ人を迫害しましたからね。
結局、強制収容施設のようなものをつくり、ユダヤ人の居住する場所まで制限した。
ところが、ユダヤ人であろうがなかろうが、人間ならだれしも、生まれながらにして自由を制限されたくはない、人間とは自由を制限されたくないもの、というのが、ナチス以後の世界の常識になりました。(まあ、黄色人種だろうが白人だろうが、だれだって自由を制限されたくはない)

自由に考える、自由に思う、自由に言う。

これを束縛し、圧迫し、圧力で禁止させようとしてきたのが、ナチスです。
ヘイトスピーチ、ヘイトの親玉のような存在でしょうかね。
当時のナチスを賛美するドイツ人たちの集会が記録ビデオに残っていて、かつてNHKでも放映されていました。「やつらの自由を奪え!発言させるな!自由にさせるな!」って、もうそりゃ、もの凄いヘイト・スピーチです。

こういうテレビ放映をみると、とたんに「これ、授業にできないかな」と、考えてしまうのが教師の悲しい性(さが)でしょうか・・・。


外国語学習、プログラミング学習、人権教育、性教育、どれも大事です。
ヘイト学習も道徳教育も、やっぱり小学校でやった方がいいでしょうな。

ナチスのヘイト動画を見ると、子どもたちは、

「文句を言ってるけど、文句は意見にしないと」

と言うでしょうな。

「ドイツ人もユダヤ人もみんなが良くなるための意見を言えばいい」

当たり前でしょうね。
授業はここから始まります。

では、なぜ、ヘイトになっちゃうのか。

これも、すぐに子どもたちから出てくるでしょう。

「なにかが不安なんだと思う」


やはり、不安、という病を、徹底理解することで、人間社会というのはかなりの程度、楽になっていくのではないでしょうかね。

人はなぜ不安になるのか。

これを子どもたちとつっこんで考えてみたいものです。

直樹とゆう子の物語






道徳の時間が増えて、「悪い子」が減る現象

道徳の時間に、

「正義ってなんだ?」

と、しっかり考えるようになる。

桃太郎の側から見るだけではない、鬼の立場も事情も見てやろう、というのが道徳であり、決して一方的な価値観だけで決めつけてみて相手を断罪しようとしないのが道徳です。

桃太郎の側から見ると、おそろしい形相でわけの分からない言葉をしゃべり、山から下りて来て畑の野菜を勝手に食う者が鬼に見えたようで、その鬼を殺すのが、いかにも正義に聞こえるが、

鬼からすると、故郷の戦火から逃れるために海を渡り、別の地方に来て、追っ手を怖れて山へこもっていただけかもしれない。

道徳をやっていくと、子どもたちに「複眼思考」や、「俯瞰思考」が身につく。

物事を、ただ単純なイメージで片づけるのではない思考が身についていく。

悪い奴をやっつければ、残りの清い者だけが残り、その後に、かならず平和が訪れるはずだ、というのが桃太郎サイドの見方。

しかし、その思考法では、悪い奴というのは、あとからあとから、湧いてくるのでありますネ。

「悪い奴を排除すれば、清い者だけが残るはず」

という論理で、行動した後、おそらくその余韻が残っているわずかな間だけ、安心できる心理・思考法なのでしょう。

半年もすれば、

「またどこかに悪い奴がいるかもしれない」

と疑心暗鬼になり、

「悪い奴はどこだ」

となり、

「悪い奴を削除しないと不安」

になり、

「悪い奴がどこかに隠れているかもしれない」

と怯えて暮らすようになり、

「あいつは悪い奴だ!」

という合図を待つようになる。



ところが、道徳をやっていくことで、不安が解消されるのですな。

鬼を理解する、鬼の立場に身を置く、ということを学ぶ。

学んだ者だけが、「鬼と和解できる道筋」を探すようになり、思わぬ副産物を得る。

それは、「鬼を排除しない、という思考の方が、安心感が大きい」という気付き、でありましょう。

そうなると、今まで、血眼になって鬼を探し、惨殺すべき!と叫んでいた自分を、客観視できるのです。

つまり、道徳が学校に根付くようになると、鬼は消えていくのです。

鬼は姿を変えていないのに、周囲が、鬼を理解するため、ツノや牙をみても、「怖い」と思わなくても済むようになるであります。

したがって、道徳が増えると、悪い子=「鬼」が減っていくことになるのでしょう。

〇〇が怖い!
〇〇は恐ろしい!
〇〇をやっつけろ!

やがて、ヘイトスピーチは、学校教育の道徳によって、減っていく道理になるのでしょうか?

つまり、ヘイトの心理を徹底的に洗って、その「偏り」を自覚するところまで、しっかりと学習する、ということでしょう。







道徳評価で現場は混乱せず

通知表で、道徳を評価する、というので、現場が混乱している、というのが世間の見方らしい。
新聞や、ネットのニュースでも

「通知表!道徳を初の評価!現場は混乱!」

という記事をどっかで見た。

ところが、現場はまったく混乱してないですぜ。
だって、数値化はしない、という指示ですもの。

「〇〇は△△だろうか、という問いを、クラスのみんなで話し合いました。よく考えて意見を出していた。どちらの立場にも身をおいて、真剣に考え、意見を変えることも躊躇せず、正しさを決めつけないで、答えを固定しないで考えようとしていた」

よく考えられたこと、正解がないと思われる問いに、より人間らしく、より科学的に向き合おうとしていたこと。

そこを

「一生懸命に考えたね!」

ということだから、まったく難しいことではない。

なぜ、マスコミが「学校現場はいつも混乱している」というイメージを、世間に売り込んでいきたいのか、その背景やねらいがさっぱり、分からない。

学校で「どの子の意見も真剣に聞いて、自分でももう一度問い直し、なにが正しいとも決めつけないで、あくまでもどこまでも自由に考え続ける」という態度を身につける。そういう素養を身につけた国民に育っていく。

10年もすると、国会が変わるよ。
・・・有権者が育つから。

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〇〇だから嬉しい、悲しい、さみしい

休み時間になると、わーっと子どもに取り囲まれる。

わたしは宿題のノートを見たり、次の授業のことのちょっとした確認をしたいから、さーっと子どもたちから逃れようとする。

すると、わたしの行く方向に、ワーッと、子どもたちが寄ってくる。

これは、4月の学級の姿であります。

それが、5月になり、6月ともなれば、子どもたちは自分たちで遊ぶようになり、担任のところには寄ってきません。自分たちで遊べば満足だからでしょう。

それでも、ちらほら、とわたしのところに寄ってくる子がいます。

わたしは仕事をしながら、ふんふん、と8割くらい、聞きます。

しばらくしゃべって満足するレベルの子は、1,2分話すとどっかへ行っちまいます。

それ以上話したいことがある子の場合。

その場合は、わたしは向き直って、目を見てじっと相手をします。

相談がある場合はちょこっとアドバイスをします。

それで満足する子は、表情を明るくして、

「先生、ありがとうございます」

で、どっかへ行きます。




ところが。

それで、どっかへ行かない子もいる。

これは、わたしはこう思うことにしています。

「アドバイスじゃないんだな」


つまり、子どもはアドバイスが欲しいわけではない。

その場合、わたしは話を聞くことにかなり集中します。

身を乗り出して、聞く。

何も言わずに。

もし言うとしたら、
「ふーん、〇〇だから、〇〇なんだね」

子どもは、自分の状態を、なかなか客観的に言いません。
語彙もないのでしょうが、自分のもやもや、心の状態を的確に言える子は、少ないのです。
だから、なんとか言葉を探して、自分の状態を知ってほしいし、自分でも知りたいから、来るのでしょう。

そこで、あなたは今、こんな状態なのね。

ということを、大人の視点、大人の言葉、語彙をつかって、ちょっと言ってみるわけ。

すると、

「そう。それ」

という表情になる。


このとき、

「〇〇だから、△△なんだねー」

といってあげると、どうやら自分でも納得できるみたい。

もちろん、〇〇、という言葉は、できるだけ子ども自身から発したものである方がいいでしょうね。



△△には、感情を示す言葉が入るのです。ところが、日本人はなかなか、この感情を言いませんナ。この社会には、自分の感情をさらけ出して言うような文化が無いのだと思います。
大人もそうなのですから、小学生も同様です。なかなか△△を、言葉にできません。まるで、言うことを避けるかのように、生きています。

したがって、一度、ぴったりの感情を見つけると、すごい。
それだけでパア――ッ、と表情を変える子までいますよ。

道徳の授業でも、

うれしい、かなしい、さみしい、たのしい、おもしろい、ゆかい、せつない、つまらない、くらい、気に喰わない、気に入った、というような感情を示す言葉を、正直に書かせるようにします。

そこから考えていくと、授業がうわっつらにならないで、自分の正直な気持ちで考えるようになるのではないかと思うネ。

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【道徳】嫉妬するとなぜ、つらい気持ちになるか

.
友達の新品の靴に、じょうろで水をかけた事件が発生しました。

「せんせい、Mくんが、ぼくの靴に水かけた!」

理科係のMくん、本当はキャベツに水をやるのですが、

「掃除しようとして、たまたま、かかっちゃった」

ということのようです。

「くつ箱を掃除しようと?」

「絶対、わざとだ」


かけられた子は、なんだか不信な感じですが、

まあまあ、その場はおさまったような風。



道徳の授業で、

「うらやましい」


をやりました。



うらやましいときのこと。

弟がうらやましい。
姉のことがうらやましい。

「お姉ちゃんだけ、ずるい」

ずるい、という感情。

これは、クラス中、ほぼ全員が手をあげて言いたくなるくらいの話題です。

「だって、先生、聞いてよ。ホント、おねえちゃんだけズルいんだから!!」

・・・

そこで、あれこれとみんなで考えて、45分。



・・・


最後に、
「なんで嫉妬すると、つらくなるのだろう」

子どもたち、ノートに書いたあと、すぐに挙手。

「ハイ。自分のことが情けなくなるから」

「ハイ。相手のことを好きになれなくなるから」

「ハイ。自分のことを大切にしていないから」

ポンポンと、よく出てくるなぁこの子たち、と思う。


最後に、道徳ノートに書くのですが・・・



あとで見てみると。

Mくんのノートに、靴を濡らしてしまったこと、書いてありました。

赤い、かっこいい靴があった。

いいな、と思った。

その後、なにか不思議な力が働いて、

手にじょうろを持っていたので、

ちょっと濡らしちゃったんだって。

「しっとすると、いやな気持ちになりました」

悲しい顔マークが書いてありました。

悲しい顔


消しゴムをひろってくれる人【道徳授業】

.
落ちた消しゴムを、拾う。

自分が落とした消しゴムは、

「あ」

と思って、拾う。

なんでひろうのかな。

「自分が使うから」



となりの子の消しゴムが、落ちた。

それを、自分がひろう場合は・・・。

そのときも、

「あ、ひろおう」

と思って、拾う。

なんでひろうのかな。

「自分は使わないけど、〇〇くんが使うから」

「〇〇くんだと、なんでひろうのかな」

「え?なんで?・・・考えたことない」



なんで、消しゴム、ひろうのかな。

となりの〇〇くんの消しゴム、なんで拾うのかな。



「理由は無いけど、拾いたくなる」

わたしが意地悪く、

「えー、理由はなんか、あるでしょう」

と煽ると、

「えー?」

「理由?ある?」

みんな、口々に言って、混乱する。



「やっぱ、理由ない」

「あ、そうだ。わたしが踏んじゃうかもしれないから」


わたしは、さらにつっこむ。

「踏んじゃうかもしれないと、なんで拾うの?」

「えー??そこまで考えるの?ええーっ??」



なんで拾うのかなあ。

拾ったって、拾わなくったって、どちらでもいいのに。

拾いなさい、と指示されたわけでもなく、

拾わなきゃならん理由もなく、

拾うからトクとか、一切無いのに。



〇〇くんに、どう思われるかが気になるから、拾う?

「えー?ぜーんぜん!!」



じゃあ、いったい、なんで拾うのか??



ぼくら、なんで、ここにいるんだろうか。
こうして、いっしょに、ここにいる理由って、なんだろう?



こういうことを考えた後、とくに結論はでないけど、

教室の中の空気は、かなりしっとりと、いい雰囲気です。

みんな、機嫌がよくなって、満足しています。

道徳の授業をした後は、こんな空気になるから、おもしろい。

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これからの道徳の授業は、『自分をみる』

『普通に生きていても
人の言葉や行動で
理不尽なことってたくさんあって

そのたびにしばらくそのことで
頭がいっぱいになったり
色々なことが手につかなくなったりする

どうしてあんなことするんだろう?
なんであんなにひどいことを言うんだろう?
自分が何をしたのだろう?

いくら考えてもきりがないし
空回りだ。』

https://feely.jp/42323/




けっこう、子どもの日記にも、同じニュアンスの内容を発見することがある。
これって、これからの新しい道徳の授業の中の、いちばん大切なところだろう、と思う。
子どもの切実さ、必要性が、そこにあるのだからネ。


高学年となると、抽象的な概念を、語ることができるようになってくる。

幸福 とか 理不尽 とか、こころ とか。


そこが面白い。

『どうしてあんなことするんだろう?
なんであんなにひどいことを言うんだろう?
自分が何をしたのだろう?』


ここでいう、『あんなこと』 って、なんだろう。

あんな

の中に

なにを見ているか。


あんなこと!!

理不尽な!!

決して許せない!!

不都合きわまる!!

気に入らねえ!!

あんなこと!!!

わたしはアンタを、ぜったいに許さねえからなっ!!!



こういう感じかな。

オブラートに包んでいるし、やさしく書いているし、そこまでイキリタッテないよ!
ということかもしれないけれど、
こころの内情は、こんな感じだろうか。
相手の態度が気に入らなくて、相手に非がある、と決めてかかって、相手を責めようというものが元。



なんで腹が立つのか



これ、6年生で考えていますが、面白くてならない。

最初は、腹が立つことの正当性を、これでもか、とみんなに話す。

しかし、クラスメートがその正当性を、訴えれば訴えるほどに、

「??なんで、それで腹が立つかな・・・」

という感じが、空気として、じわじわと教室に出てくる。

そして、

「腹立ててもべつにいいけど、結局、なにがしたいの?」

と、そのひとのやろうとするところ、あろうとするものを、問おうとする仲間が出てくる。

「いや、だから、〇〇じゃなくて、△△がしてほしかったんだわ」

「あー、なるほど、△△してほしかったのか。・・・・で、それはそうと・・・」

という感じ。



このやりとりが、教室中が、不思議なオーラに包まれて、なんともゆるーく進んでいく。

進んでるのか、わからないくらい、ユックリと。

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【6年道徳】発問集

.
1) 自分の心の目盛りを考えよう

2) 心を落ち着けられるときはどんなときだろうか

3) (自分の)心の目盛りを増やす方法はあるだろうか

4) 友達の心の目盛りって、増やせるのだろうか

5) 嫉妬(しっと)について

6) 遠慮(えんりょ)について

7) 期待(きたい)について

8) 『嫌い』について

9) 見た目 について

10) 事実 について

11) 意見 について

10) 自分と友だち について


今年はもうすでに1学期の今の時点までに、
4) 友達の心の目盛りって、増やせるのだろうか
まで進んでる。

ある子が、日記に、新間先生の道徳授業はなんだか不思議、という感想を書いていました。

なぜかというと、

ぜんぶ、そんなこと、考えたことが無かったから。

だそうです。


(いやいや、毎日ここに焦点をあてていこうぜ、とつぶやいてます。)

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【道徳】修身の詩って難しいな

.
日本ノ国ニ
明カルイタノシイ春ガ来マシタ
日本ハ、春夏秋冬ノナガメノ
美シイ国デス
山ヤ川ヤ海ノ キレイナ国デス
コノヨイ国ニ、私タチハ生マレマシタ

オトウサンモ オカアサンモ、
コノ国ニオ生マレニナリマシタ
オジイサンモ オバアサンモ、
コノ国ニオ生マレニナリマシタ

日本ヨイ国、キヨイ国
世界ニ一ツノ神ノ国
日本ヨイ国、キヨイ国
世界ニカガヤクエライ国


格調高いですね。
修身の教科書に掲載されていた詩です。

小中学校での「道徳」について、文部科学省は4日、教える内容を定めた学習指導要領の改定案を公表しました。

・・・

1)この詩の中で、もっとも多い字はなんですか。(国)
2)国、という字がいくつ使われていますか。(12個)
3)この詩に、題名をつけなさい。(例:美しい国、日本)
4)日本が美しいのは何なのか、作者はどう書いていますか。(眺め)
5)山や川や海が美しいというのは、何が美しいのですか。(眺め)
6)作者はなぜ、日本はヨイ国、と書いたのでしょう。(眺めが素晴らしいから)
7)日本は世界に一つの神の国とありますが、なんの神でしょう。(天之御中主神以後、八百万many)
8)日本以外に、世界で神の国とされている国はいくつあるでしょう。(たくさん)
9)それらの国の神は、なんと呼ばれているでしょう。(それぞれの言語でそれぞれに呼ばれている)
10)この詩の中でリフレインが使われている行はどこでしょう。(第二連の二行目と四行目、第三連の一行目と三行目)
11)世界に輝くとは、具体的にどんなことでしょう。(例:世界平和に貢献する)
12)偉い国ときいてどんな国だと思いますか。(例:品格を保ち、尊敬される国)
13)偉そうな国と、偉い国とでは何がどう違いますか。(すべて逆)
14)日本は偉そうな国か偉い国かどちらだと作者は書いていますか。(偉い国)
15)日本はヨイ国とありますが、なぜヨイ国だと作者は言うのでしょう。(世界に輝く偉い国だから)
16)神の居ない国は、ワルイ国かどうか、討論をしましょう。(例:全てはお釈迦様の手のひらの上のことなのでたいして悪くない)
17)日本に居る神の数と世界中の神の数でどちらが多いでしょう。(例:世界中の神)
18)日本はなぜそんなにも神がいるとされているのでしょう。(例:米一粒にも神が宿るとされているから)
19)この詩は何連でできているでしょう。(三連)
20)この詩に、もし第四連目を付け加えるとしたら、どう書き加えますか。(略)

パッと思いつくだけだけど、こんなくらいの発問。
ベテランなら、たちまちこの5倍は発問をつくるだろう・・・。
まことに精進は大事です。

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道徳の授業中に・・・人生の大切なもの

.
今年になって、初めて、『道徳』の教科書が配布された。(以下、下ネタ注意)

これまでは、道徳というのは教科として教える内容ではなく、人格全般を扱うものだから、子どもの学校生活全般をみとりながら、生活や人間関係を営む中で、その子その子に応じた指導内容を、適時に適切な方法で扱うこと、というふうに理解されてきた。

ところが安倍政権になり、いわゆる道徳を、正しく教えることになりました。(可能かどうかは別として)

わたしは、これについてはどっちでもかまいません。
やることは同じだ。

たとえ、道徳の教科書を使ったとしても、子どもはびくともしないだろう、と思うネ。
逆に、使わなくてもほとんど影響無い、ということを思うし、それよりもはるかに大きく、子ども自身は、近くに居る大人の考えや行動から学び、影響を受けることが大きいと思われる。

教科書を使っても使わなくても、それ以上に、親の影響、教師の影響、身近な大人の影響を受ける、というのが子どもの立ち位置なのでありましょう。
みなさん、どう思われますか?


ところで、その教科書を、使わないといけないので、パラパラと見ていると、いわゆる

尊く、よきこと

がたくさん書いてある。

ようするに、

子どもたちよ、人生は苦しいが、清く正しくガンバレよ!

ということであります。



そこで、わたしが同じように、

「人生は苦しいが、ガンバレ!」

的な発言をしたとしたら、おそらく子どもは目が点になって、

「どした?いきなりどした?」

と、ざわざわするのが落ちだろうネ。



毎日同じ空間で影響しあって生きているのに、道徳の時間だけ、急にちがうトーンで、話をしてみたって、そんなのどうしたって無理が生じるっての。



ま、やることはやらなきゃ。

私はまず、読み物資料をみんなで声を合わせてがんばって読み、最後に、別の資料に掲載されていた<おすすめのワーク>をやった。

そのワークは、

「自分を振り返り、今の自分にとってもっとも大切だと思うものをみつけ、書きましょう」


という取組みでありました。

「人生の宝物、大事にしていきたいというもの」
を発表しあおう、というのです。

なかなかの難題です。小学校5年生が、心から大切だ、というものを、はたして見つけられるのか。
なかには、教師受けしそうなことを書くだけの「いい子」もいるだろう。
生活経験もそれほど豊かでない、たかだか10歳、11歳の子どもにとって、大切なものって言われて、はたしてしっかりと見つけて書くことができるのか。

わたしは、おそらく、みんな

「おかあさん」

とか

「家族」

とか、

「いのち」

と書くのではないか、と思った。

今の自分の人生に、もっとも大事だと思えるもの、なんだからネ。

あるいは、若い自分たちのこと、

「未来」

とか、

「友情」、「友だち」

それとも、この大自然を育んでくれた、母なる大地、

「地球」

とか・・・。

ともかく、そんな、思わず胸がきゅんとしちゃうような。

子どもたちはその純真な気持ちのままに、

心の宝石箱から
『珠玉の言葉の数々』を選びぬいて


書き始めるのではないか、と想像した。






ところが。


厳粛な気持ちで机間巡視をしはじめた私は、すぐに唇がふるえて真っ青になりかけた。

開かれた道徳のノート。
そこに書かれた、

「じばにゃんのシャーペン」

という文字を認めたからだ。


自分の人生をふりかえり、今の自分にもっとも大切だ、と思うもの。

それが、

「じばにゃんのシャーペン」

だと。

わが目を疑うとともに、何の授業をしていたんだか、一瞬頭がショートしかけた。


そして、さらに驚愕したのが、



これ ↓ ↓ ↓ 






「金玉」






・・・。

もっとも大事なもの。

それは、「金玉」




野球の好きな、男の子です。

私は彼の席の横で立ち止まり、震える指先で、彼の書いた「金玉」の字を指さし、

「これ・・・」

と思わず言いかけると、彼はちょっと、人目をはばかった後、こっそり小声でこう言いました。


「あ・・・いちばん大事なものでしょ!?」



・・・。


だまって丸をふたつ、つけておきました。




(写真は、金玉ではなく、金色に色づきはじめた近所の柿の実。)
金色に色づきはじめた近所の柿の実

「哲学教室」みたいな感じで・・・

.
哲学教室・・・らしきことをやってみた。


命題は、

「わたしはロボットではない





これは、自分が精巧なロボットではない、ということを、証明して見せろ、というものである。

結論を言うと、これは、証明はできない。

つまり、


「ない」


ことは、


「証明できない」



という定理に当てはまる。



やくざは、

「それはお前ではないってことを、証明して見せろよ」
「それは嘘ではないってことを、証明して見せろよ」


といって人を脅すのだ、と聞いたことがある。



実は、その証明は無理なのだ。


ある、ことは、証明できる。

しかし、

ない、ということは、証明ができない、のである。




子どもは、そんなことは簡単に、証明することができる、と思っている。
だから、

「ほら、こんなにスムーズに身体が動く」
「目をパチッとやるでしょう。ロボットはできないよ」
「ロボットだったら、おしっこしないよ。でもぼくはする」

などと、次々と、「自分が精巧なロボットではない」ことの証明を言い始める。


いや、でもねえ。
すごく人間っぽい、ロボットも、実はつくられているんだって。


こういうことを言うと、

「知ってる!アンドロイドでしょう!」


きた、きた。
しめ、しめ。

だんだん、と精巧なロボットは、人間そっくりなんだ、という認識が高まっていく。

わたしは詐欺師にでもなった気分がする。



いろいろと議論が進む中で、こういう意見が出てき始める。

「最終的には、家のお母さんに聞いてみれば分かるんじゃないの」
とか、
「いや、最後は、生まれた病院に聞いてみたら分かるんだよ」

などと、言う。

簡単に、
「生まれた時の写真があるから、ロボットじゃないよ」
といって、勝ち誇った表情になる。

ところが、

そうだね。写真があれば、間違いないよね。
といって、私の子ども時代の写真を見せ、

「これは、子ども型ロボットではありません」


と断言して見せる。



しばらくすると、やんちゃ坊主が狙い通りに、

「あ!!でも」


と言い出したらしめたもの。



「もしかしたら・・・それ、ひょっとして、ロボットなのかも」




わたしは、少し困ったように、

先生の子ども時代の写真。これがあるんだから、先生はロボットじゃないよね?

と言うものの、疑いを始めたやんちゃクンは、追及の手を緩めない。


「でも、その赤ちゃんの写真があったってダメだ。だって、そういうロボット、なのかもしれないじゃん!!」




このあたりから、だんだんと教室の空気は異様になってくる。


「もしかしたら、先生はロボットなのかも」


と、冗談のような、冗談でないような、なにか妙な声が出ると、気の弱い女の子は、ひえええと悲鳴をあげたりもする。


「でも、ごはんたべるじゃん!」

「ごはん食べれるロボットなのかもしれないじゃん!」



「あせをかくよ」

「あせをかけるロボットなのかもしれないじゃん!」



こうやって、一つ一つ、反論がつぶされていくと、なんだか、恐怖がしのびよってくるようで、教室は次第にぴんと張りつめたような空気が醸成されてくる。


もうなんだか、心臓がばくばくして、呼吸が荒くなってきちゃったような子がいたら、なんとなくそばへ寄って、



「実は・・・、先生・・・、ロボットなんです~・・・・」

と無表情でいうと、

「ギャーッ!」

ものすごい反応をする。




で、クラス全体が、学校全体が、先生全員が、お母さんもお父さんも、生きている人全員がロボットかもしれない、と恐怖がマックスになったところで、


「では、嘘無しで、正直に言ってね。ロボットじゃない人、手をあげて!」

というと、








全員が、ものすごく真剣に手をあげます。



よかったね、と言って、種明かしをします。




あのね、「ない」は、「証明ができない」んだよね。

証明したいときは、「ある」を言うことになっているからね。





これだけでも、なんだか、とても哲学的です。

子どもも、なんだかしばらくの間、哲学的になるみたい。

面白い問いを考えて、日記に書くこともあります。




「ぼくはどうして、日本に生まれることになったのか、考え始めると止まらなくなりました」
「お母さんとお父さんが日本にいたから、ということは分かるのですが、でもどうして、そのお母さんとお父さんとの間に生まれてきたのか?」
「どうして、その生まれてきた赤ちゃんが、ぼくだったのか?」


・・・・

まったく、なんの哲学的な問いに悩まない子もいますが。
そういう子でも、青年になる入口で、おそらく悩むでしょう。

「なんであの子のこと、好きになっちまったんだ?」

ってね。


まあ、人間、人生長いですから、

たまには、哲学的思考が必要になるときも、あります。


ぼくはロボットではない

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