30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

図工

【図工】コンクールとは

ポスターコンクール。
夏休みの宿題で取り組む子が多い。

7月、夏休みに入る前に、一人の子が相談に来た。
「どんな絵を描けばいいのかわからないから、これまでの入選作品を見せてほしい」
とのこと。

コンクールは、基本的にお題があって、その趣旨に沿った作品を募集している。
だから、防火ポスターだったら火の用心とか、コンロの火を確認しよう、とか。
交通安全だったら「右左を見て渡ろう」とか。

ふつうはわかりやすいものなんだけど、今年の6年生は「人権」のポスターが募集案内で出ていて、その子はそれを描こうと思ったらしい。
たしかに、人権、というのは、アイデアがたくさんあって、しぼりきれないかもしれない。
人権というのは、生活のありとあらゆるところに垣間見えるものだし、人間生活、人間関係、どこを切り取っても、テーマが浮かびあがる。だから、ちょっと迷った、というのもわかる。

そのとき、わたしはこんなのが入選してるみたいだよ、ということで、前年度の入賞作品というのが紹介されているWEBページとか回覧物とかを見せた。
子どもは「ああ、こんな感じか」
と納得し、そのまま夏休みになった。

ところで、わたしはつい最近になって、そのことが思い出されるのであります。
ポスターはたしかにコンクールの募集があり、先方の都合で集めるものです。
だから、向こうがほしい、と期待される作品というものがある、のです。
たしかにそうだ。

ところが、なぜ子どもが迷うかと言うと、

「何を期待されているかがわからない」

ということなんだろうと思う。
期待に応えるために、その子は「ああ、前年度の入選作品をみせてもらえば、より傾向がわかるだろう」と思ったのだと思う。かしこいな。
傾向と対策、という大学入試向けの赤い本があるけど、そんな感じ。彼女なりに傾向を把握し、対策しようとしたんだろう。

ちょっとまてよ、とわたしはそこで思う。

なんだか、最初のスタートが弱くないか、と。
描きたいものがある、という子どもの意欲がまずあって、コンクールがあるのではないのか、と。
入選作品を見て、傾向と対策、というのは、なんだかちょっと違和感が出てきたのであります。

コンクールというと、なんだか子どもたちの意思がちょっとだけ置き去りにされている気がする。
あれこれ、子どもが考えた。あれこれ思った。
それを絵にしてみよう、と思った。
やってみた。
おもしろい絵ができあがった。
なるほど、とうなずけるところがあるし、発想に驚いたり、工夫がみえたりしてくる。
見てるだけで楽しいなあ、とにっこりする。子どもは楽しんで描いただろう、というのが想像される。大人はそれが至上の喜びになる。

順番はあくまでも、
子どもの意思⇒作品⇒大人がみて⇒おもしろがる
ということだろう。

大人のために子どもが描く、というのは、なんだか順番が違う気がする。

なんで順番が異なってくるのかというと、やはりそこに「賞」をつけたからなのでは?
それで釣ったからでしょう。
子どもはいともたやすく、釣られてしまう。子どもだもの、そりゃ釣られるよ、ということなのですが、これはやってはいけない範疇の『大人のパワハラ』なのでは?

賞をとったらすごい、みたいなのがあって、なんだか余計だよ。
もう、コンクールで賞を出すのって、やめたらいいのに。
出すなら、全員とてもがんばって描いてくれてありがとう、という感謝の言葉と参加賞でいいんじゃない?

芸術を振興するのが第一目的なら、絵画芸術を専門とする塾がコンクールをすべきだろう。
ちがうんやから。絵というのは、描きたくて描いて、よく描けたな、と自画自賛し、絵を描くのって楽しいなあ、人生に絵というものがあって、本当にいいものだなあ、良かったなあ。人間に生まれてよかった、というので十分なのでは。少なくとも小学生は。

コンクールを主宰する大人は、それを子どもにお願いして「見せてもらっていいかな」「いいよ」というやりとりをして、「すごく感動したので、ポスターに使わせてもらいたい」「ああいいよ」という流れが必要なのでは。

(学校の図工教育がずっと悩みつづけてしまっているのは、コンクールという大人の事情をすっぱり学校社会から切って捨てていないからなのでは)

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『雑』の側からは『繊細』の側がよく見えない

多くの教育者が
「子どもには、少しずつ与えよ」
と言っている。

これは子どもが自己形成するにあたり、雑(ざつ)な感性を育てるか、繊細(せんさい)な感性を育てるか、という2つの道があり、まあ教育的には、よりも繊細が良い、と考えるからでしょうね。

なぜ繊細が良いかというと、『センサーの感度が鋭い方が良い』、と考えるからでしょう。
たとえば温度計が、1の位を基準にして表示されるとしたら、

18度(℃)

とかになる。
それが10分の1の位を基準にしていたら、

18.8度(℃)

とかの表示ができる。
すると、18度よりも実は19度に近いじゃん、という、
より科学的で合理的な事実のとらえ方ができるようになる。


1の位を基準にする子を育てるか、10分の1の位まで知ろうとして感受できる子を育てるか。
それが、雑な子か、繊細な子か、のちがいでしょう。


しかし、大人の側の都合からいうと、
繊細な子を育てるのは、えらい苦労がかかる
ということが分かっています。
繊細な子を育てるのは、繊細でなければならないのです。
雑ではとうてい、つとまらない。
だからなかなか、そうは問屋が卸さない。


なんて言ったって、学校では、35人から40人ですから。
その大人数ををせまい部屋に入れて、いっせいに給食を食べさせ、いっせいに同じような絵を描かせる。で、クーピーの12色とか、絵の具の24色とか、ドバアーッ、と最初に与えます。
だって、細かくていねいになんて、一人ひとりをみてなんか、いられないですもん。


本当は最初は赤だけで、徐々に青を足し、黄色を足し、少しずつその色の味わいを、子どもとともに味わい、言語化しながら、身体で表現しながら、色を繊細に味わいつつ、・・・というのがやりたくても、とうていそこまで手が回らないから、

入学と同時に、サクラクレパス16色、一気にどーん!

です。

サクラクレパスが悪いのでありません。
社会の仕組みとアイデアが、まだ貧困、ということです。
アイデアと知恵が、足りてない、のですな。

で、1年生なのにもう16色で絵を描かせてしまいますが、
16色で描くのにせいいっぱいがんばった子たちは、だんだんと疲弊して、
たった1色のみの濃淡の味わいには無関心になる。そして、それを味わう感覚を失っていくのですね。

その感覚がもっともマヒしたのが教師ですから、赤と青だけで絵を描いてしまった子の絵を

「この濃淡がいいねえ」

とは思わず、

「なんだこれ、つまんない」

と思ってしまうわけ。
で、余計なことに

「もっと色を使いなさい」

と指示を出す。

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ところが、感性が豊かで育っていてするどくて優秀な子は、もうこの濃淡だけで十分に美しいことを知っており、他の色がくるとそれらをすべて台無しにすることを知っていますから、もう他の色は使いたくないわけ。

これがいわゆる、

「評価基準の雑な先生が、繊細な子をみる際に噴き出す矛盾」

です。

専門用語では、

The contradictions when a loose teacher takes care of a highly sensitive children.

略して、CLSCと言います(嘘)。

『雑』の側からは、『繊細』の側が、よく見えないのです。
逆に、『繊細』の側からは、『雑』の側が、すっごくよく見える。もう丸見えです。
だけど、それを言語化することできない。
「雑だねえ」としか、言いようがない。

雑な方は、自分の側に引っ張ろうとしますので、一生懸命に
雑になろう、雑になろう、と声をかけて誘います。うるさいほどに。

で、それがうるさい、といやがっていると、繊細の側もどんどん疲弊して、雑になってしまう。
結局、雑の側が、勝つのです。世の中というのは。
みんなで雑になり合って、「繊細」の価値をなくしていっている。

HSCからみると、それに付き合うのはタイヘンなことですから、
やはりHSCは、しずかに、できるだけ「雑な人々」を刺激しないように、そこからそっと離れるしかない。

学校に来たくない気持ち、なかなか言葉にしがたいけど、そんな感じなのかな、と想像することがあります。

絵をどう見るか

今週、おくればせながらの参観日があった。
参観日に合わせて各学年の廊下には、ずらりと秋の図工作品が展示された。
いろとりどりの水彩やクレヨン画が、廊下の向こうまで壁面をうめつくす勢いだ。

4年生はソーラン節の絵が飾られた。
人間を描くのだから、とてもむずかしい題材だが、子どもたちはがんばった。

3年生は夏の日のひまわりだ。
理科の観察で育てたひまわりを、見上げているような絵が多かった。
自分の顔を入れているのがいい。

2年生は、これも運動会で踊ったダンスの絵。
そして1年生は、画用紙いっぱいに描かれた朝顔のパレードだ。

どの絵もすばらしいが、とくに1年生と3年生がすばらしい。
それは、なぜか。
実は、子どもの絵は、

「触れることのできるもの」

がいいのである。

これは説明がむずかしいが、子どもはどうやら大人とはちがって、
「さわって感じる」世界の方がリアルであって、
大人のように視覚だけに頼っている感覚ではないらしい。
われわれ大人は、どうもその感覚を失っているから分からないのだろう。
だから、子どもの朝顔は、あっちへ向いてるしこっちへ向いているしひっくり返る。
そしてまた、花びらが極端にでかいのもあれば小さいのもあるし、自分の顔もそこにまぜると本当におどろくような構図になるが、花びらがのびのびと四方八方に展開し、見る人が楽しくなる絵ができあがる。

子どもは、視覚に映ったものを再現しようとしているのではない。
再現したいのでもない。(大人とはこの点が異なる)
子どもは、絵を描くのが楽しい、という一点で、それならと書き始める。
図工の時間に、指示や命令は一切そぐわない。

子どもは見たもの、触れたものをきっかけにする。
そして、イメージを広げたり、想像したりする。
その想像を書き込める題材であれば、子どもはどんな絵を描いても「あーたのしかった、またやりたい」と思うようだ。

土台、子どものやりたいことと大人がやらせたいことがちがうのだから、
大人がそれを評価して「うまい」だの「いまひとつ」だの、評価すること自体が無理である。
大人が子どもの絵をみるときは、子どもが視覚に頼っていないことに注目する必要があるだろう。
われわれはどうしても視覚が優位であり、そこに頼ってしまうのだが。

wawawa

mite! アレナスの鑑賞授業やってみた その1


数年ぶりに、mite! の鑑賞授業をやってみることにした。
行事や勉強に追われて、なかなか時間がとれなかった昨年と一昨年。
でも、6年生の担任となり、2学期の後半、行事が一段落してちょっと余裕が出てきたこの時期だから、思い切ってやってみました。

アレナスの本を引っ張り出して、さらっと読むと、またやりたくなってくる。

ただし、以前からひっかっかっていた、アレナスに対しての批判を、幾分でも昇華してから、やってみたかった。
自分の心のうちでも、いくつかのポイントが未消化で、迷いが生じていたからだ。

<アレナス流対話式美術鑑賞の批判点(これまでに聞かれたもの)>

○会話ばかりでいいのか
○なにが見えますか、だけでいいのか
○最初から最後まで自分の感覚中心に絵画を見ているだけに陥らないか
○ただ自分の感想を友達と交換しあっているだけにならないか
○絵画には、描かれた時代の感性や、その画家の個性や、それが鑑賞されてきた歴史など、様々な文脈があるが、そうしたものを知る、ということがないがしろにされている。
○自分の感想を相対化することができていないのではないか。


とまあ、こうした批判があり、自分でも数年前に奥村さんの講演を聞いた後に授業をやってみたり、研究してみたりしながら、

「うーん、ただ、言い合っているだけなのかもしれないなあ」

と不安を抱いたことが正直、あるのだ。


ただ、今回は、上野先生が書かれた、mite! のまえがきにあった一文が目にとまり、それに励まされてやろう、という気になった。

「子どもを有能な存在として認めること」

「自分とはまったく別の思いもかけない考えを聞いてはオドロキ、自分の考えみんなに受け入れられてはその歓びを知る。そのスリリングな面白さ」



なるほど、シンプルだけど、これは、<自分の感想を相対化する>ができている、ということになるんでないの。

子どもどうしだから、大人の視点は入らないかもしれないが、子どもどうしだって、異なる意見や、まったく別の見方が出てくる。それを、お互いに説明し合い、さらにはそう考えた理由を、題材からさがして理由づけをしたり、討論のようになる場合だってある。

「討論」になりうるのだ。

これは、<自分たちの意見を、ただ肯定的に見て済ましている>、という世界とはまったく別なんじゃないの?

そう思った瞬間、すこしだけ、霧が晴れた気がした。

「よし、討論に近い場が創出されるように、ファシリテートしていこう」

これが、基本方針になった。

(つづく)




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心のエネルギーを育てる水彩画とは

ずっと、谷内六郎さんの絵は、油彩なのだ、と思っていた。
それは、私が子どものころに親が買っていた「週刊新潮」の表紙を見ても、そう思っていたし、その後もどこかで見かけるたびに、油彩だ、と思いながら見ていた。

しかし、それが、水彩だと知って、あらためて衝撃だった。
厚紙に、水彩。
たまにろうけつ染めや、レース布を使ったり、和紙を使う作品もあったようだが、ほとんどは水彩だったそうだ。

谷内六郎
谷内さんの作品集があったので、じっくり見せてもらう機会に恵まれた。

雪。
空。
それも、夜の空。
夕方、夕暮れの空、雨の空。

どれも、油彩のように、厚ぼったく、丁寧に、ていねいに、塗り当てられている。
色が、重ねて、重ねて、置かれている、ように見える。

谷内六郎さんの色づかいは、しんしんと、ふりつもる雪をかくときや、夜の空を描くとき、古い塗り壁の色の変化を描くときなど、とても水彩とは思えない、奥深さや背景を感じさせる。
油彩だろう、と思いこんできたわけだ。


私が、水彩のことを、きちんと知らなかったのだ。
自分の小学生のころからの体験で、水彩というのは薄く、水で溶いて、サーッとうすくぬっていくもんだと思い込んでいた。
NHKの教育テレビで水彩画教室をやっていたが、そこでもまた、絵の先生が山の景色を、木の枝なんかを、淡く淡くサッサッサーと塗っていた。

そういうものだ、と。
水彩は、淡いものだ、油彩のように、あつぼったく、塗りこめていく、色をかさねていくのではない。チューブからひねり出したものを、そのまま塗っていくものでは、決してない、と決めていた。

こうするものだ、と決めていたこと自体が、思い違いだったわけだ。
決めつけられないものを、決めていた。それが、間違いであった。


要するに、私は、こういう絵を、こどもに描かせたい、と思ったのだ。
筆をおくたびに、集中した心が、あらわれてくるような絵。
色が、ガツンと、表示されるような絵。

淡い水彩、ペンキのように、サーッと塗る水彩画は、大人になって趣味でやればよい世界。
この子たちの、心のエネルギーを育てる水彩画は、谷内さんのような、渾身の気持ちが込められるような、絵だ。

まるで油彩のような、絵。
「見つめて描く」絵。

谷内六郎さんは、病気がちで体が弱かった。
呼吸器のことで、何年も、治療に専念したという。

「いつ死ぬかわかりませんでしたから、一枚一枚が遺作になるわけです。ですから、いつ死んでもいいように、遺言みたいなつもりで描いていました」
という意味のことを、あるところでおっしゃったそうである。

一つ一つ、筆をおく。生涯本気で描き続けた渾身の色づくり、である。そのときの、集中度はいかばかりであったことか。

学校でやりたいことは、たくさんある。
図工の授業、じっくりと、やっていきたい。

【図工鑑賞】鳥獣戯画~『倒れた蛙』の謎~

.
図工の製作がひとまず終わり、秋のイベントも一息ついたので、まったりと図工の鑑賞。

図工の鑑賞授業は、何度やっても飽きないくらい好きで、子どもも

「またやろう!」

と必ず言ってくれる。

なぜなら、他の教科(とくに算数)とは違って、完全に

「言ったもの勝ち」

だからだろう。

好きなことを言えるし、そのことを認めるしかない、という構造。
不確定なものを、不確定な脳で、わいわいと言い合うだけ。
他と競争したり、張り合う必要はない。
自分の脳みそが、なんでこう働くのだろうか、と不思議になってくる。

ある種の、セラピーのようなもの、かもしれない。
(まあ、言う人に言わせれば、子どもの遊びはほとんどがセラピーらしいが)


鳥獣戯画、という有名な絵巻物。
これが、小学生にはずいぶん人気で、

「かっわいいいーーーー」

である。

これが平安時代のものだ、というと、しばらくみんな無言になる。
なんでこんなかわいいセンスが当時にあったのか、とみんな驚くが、実は日本人はこの感性を失わないまま、ずっと現代まで生き続けている、というのが実際なんだろう。

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鳥獣戯画のある個所に、『倒れた蛙』がいる。

クラスで鑑賞していくうち、このカエルに焦点が当たった。

「ぼくは、このカエルは猿に殺されたと思います」


という子がいる。

「ぼくも」
と賛成意見が多数。

みんな、この絵のつづき、右側にいる、逃げた猿に注目し、関連を考えたらしい。

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「わたしは、猿が持っていた、するどい茎の先で、ぶすっと蛙のお腹を突き刺して、殺したんだと思う。山から下りてきた猿が、強盗をはたらいたんだと思う」

クラスで一番おとなしい女の子がこういうことを言うので、がぜん盛り上がってくる。

殺し
強盗

こんな単語が、教室の中をやすやすと飛び交うため、ちょっと私は気が咎めるが、仕方がない。

ところが、これを「殺し」だとは思わない子もいる。

「えー、ぼくは殺したんじゃなくて、ただ転ばせたんだと思う。ふざけて足を引っかけたかなにかで・・・。その証拠に、倒れた蛙のまわりにいる狐とか、あんまり驚いてないし、むしろ笑ってるみたいだから」


ふむふむ。

たしかに、殺しだとすれば、もっと状況が殺伐とするか、非常事態だ、という緊迫した雰囲気が出るかも。
絵をみるかぎり、なんともほんわかとした平和な空気が流れている。
これは、『殺し』じゃ、ないかもな。

ここまでくると、そもそも鳥獣戯画の他の場面で、こうした殺伐とした事件を扱っているだろうか、と疑問が出てくるので、せっかくだから、と「甲の巻」をぜんぶ見た。
ところが、ここ以外は、ほとんど、のほほーん、とした空気である。

「殺人の意見を撤回します」

殺された、という刑事ドラマのような見立てをした女の子が、意見を取り消した。



そこで、新たな意見が。

「これ、酔っ払って倒れてるんじゃないの?」

なるほど。
そうかもな。

「だって、烏帽子をかぶったおじいさんの蛙とネコの左側で、蛙が里芋の葉をかぶって田楽踊りをしてる」

どれどれ、とみんなで確認。

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そうだ。
これ、マツリだ。
みんな、お祭りに来てるんだ。
この烏帽子のネコが、人目を忍んできている風なのも、おそらくふだんはこんな場所にはこない位の高い貴族が、お祭りだからと久しぶりに外に出てきたんだろう。

お祭りなら、酔っ払っているのも分かるなあ。


だけど、じゃあ、なんで猿が逃げてるの?



ここで、ふだん、冗談ばかり言っている男の子が、

「カエルが、ひっくりカエルで、サルは、去る、ということじゃないの?」

あ~


だじゃれかよっ!

ゴッホが浮世絵を学んで性格が変わった件

.
社会の授業で、浮世絵師の「歌川広重」について学んだ。

広重の浮世絵は、オランダなどから世界に伝わり、ゴッホが模写をしたことでも知られる。

さて、そのゴッホさん、昔はすごく暗い絵を描いていた。

じゃがいもを食べる人々

とか、

一足の古い靴

・・・なんてのは、ゴッホの初期の絵として有名なものです。


ところが、ゴッホさんに大きな転機が訪れます。
それが、浮世絵との出会い、です。
ゴッホさん、浮世絵を知り、ウキウキとなって模写をつづけていくうち、有名な

ひまわり
これ。
ひまわりとか、

アルルの寝室

・・・と、こんなのを描くようになっていった。


浮世絵を学んでからの表現がかなりちがってきているのですが、子どもがこれらを比較して、

「色が明るくなった」
「パッと見て、あざやかな感じに変わった」


と言っていました。

ある子はじっと見ていて、

「あ、影がなくなってる!」

と見つけていました。

すごいよね。
あれこれと、いろんな感想が出てくる。

「すごいね。ゴッホ。性格が変わっちゃったよ」


浮世絵が世界に広げた衝撃がすごいものだった、ということを学んでいくうちに、
「ひろしげって、すげえ」
という感じになっていきましたね。


あと、ついでに、ドビュッシーの交響詩『海』は、北斎の富嶽三十六景をみて生まれた曲だ、ということを紹介すると、_SX355_

「先生、鎖国してたのになんでみんな、日本のことを知っているの?」
と。

これを待ってました。

こういう疑問が出てくると、歴史はおもしろくなってきます。

表現される中身と、表現されて目に見えるもの

.
国語で宮沢賢治の「やまなし」を教えたことがある。

都合、2年間教えた。
1年目と2年目で、あれこれと指導法を変え、試してみた。

1年目は、「やまなし」の文章を何度も読み込んだ。
音読をしまくった。
そして、表現の一字一句、微細な部分までを検討し、「深読み」させた。

2年目は、本文に入る前に宮沢賢治の人物伝をさまざま読んだ。
音読はあまりせず、さらっと「やまなし」を読んだ。

どちらも、4,5時間の授業の後に、賢治の他の作品を読ませて、自分なりの解説文を書かせた。


さて、予想してみてください。
1年目と2年目、どちらが良く解説文を書いていたと思いますか?



同じ地域の、連続した2年間です。
子どもはほとんど同じような雰囲気で、どちらも落ち着いて過ごす子たちでした。
地域性やその他の学習習得事項がほぼ似通っているため、比較がしやすかったと思われます。


これ、2年目の方が、「やまなし」をぐんぐん深く読んで、討論が盛り上がったのです。
なぜだろう?

1年目は、「書いた人」よりも「作品」に焦点があたっていた。
2年目は、「作品」よりも「書いた人」に焦点があたっていた。

1年目は、微細なところに迷い込み過ぎた、という感じがあります。
ところが2年目は、純粋に
「賢治はなにを伝えたかったのだろうか」
ということが、子どもたちの関心の『芯』になっていた気がする。

作品は、作者が表そうとしたもの。作品を通して、作者が思いをぶつけたもの。
そう考えると、「作品」を理解する、というのか、「作者」を理解する、というのか、そこらへんのちょっとした違いがあったのかもしれない。

学習の入り口にあたるところで、「作品」か「作者」か、隣り合った扉の、どちらを開いたか。
子どもたちには、その差があったのではないか?

「作者」という入り口から、学習をはじめた子は、他の作品にも、「賢治の意識の片りん」を見ようとしていた。



これを経験してから、子どもたちが学習する学習内容には、2通りあると思うようになった。

1 あらわれたもの→どう表現されているか
2 こめられた思い→なにを伝えようとしたか

そして、成績が良いのは、2に重点をおいて学習をした方だ。
これが、なぞだ。
わたしは、これまで、1をとことん吟味することが、学習の能率があがり、核心に迫ることだと思っていたから。



で、同じようなことを、国語の他の教材についても、感じたことを思い出した。

3年生で、説明文「自然のかくし絵」、という単元を学ぶ。
自然のかくし絵、というのは、昆虫の擬態の話であります。

しゃくとり虫は、木の枝に止まってじっとしていると、まるでそこに本物の枝があるように見える。これは、鳥に食べられないように役立っている擬態だ。
また、緑色のかまきりは、草や葉の中にまぎれてじっとしていると、どこにいるのか分からなくなる。これは、えものをとるために役立っている擬態だ。
3年生はこの説明文を通して、文章の構成には、「はじめ」―「なか」―「おわり」という3つの『まとまり』があることを学ぶ。

この説明文を授業するとき、わたしは思った。
「ようし、この単元は、クラス全員、テストの点数を100点にしてやろう」

そこで、文章の構成のしかたについて、「はじめ」―「なか」―「おわり」という3つの段階がある、ということを一生懸命に教えました。いくとおりかの説明文を示し、ほうら、どれも3つに分かれているでしょう、と教えた。3つに分ける訓練もした。文章を一文ごとにバラバラにして、構成に注意しながら再構成する訓練もした。

徹底的にやって、平均点を出すと、82,3点くらいだったと思う。

わたしは、愕然としたのです。
なぜかというと、この単元を、わたしは教師になりたての2年目に授業で教えているからです。
そのとき、単元の平均点は90点を超えていた。
今回は、それ以上いくだろう、と思っていたのにダメだったから。


わたしは2年目の新米教員のとき、ずいぶんいい加減な授業をしたので、自分でも覚えていたのです。
「はじめ」―「なか」―「おわり」という3つの段階があることについては、さらっとしか教えなかった。
そのかわり、わたしは自分が面白かったので、昆虫の擬態の写真ばかりを、子どもたちに見せ、いっしょになって喜んでいたのです。
「すごいねえ、こん虫ってかくれんぼの名人だ!」
といって、すごいすごい、と授業時間を消費してしまい、あわててテストをしたのです。
そして、みんなよくできて、90点以上だったのは、「ああ、テストが簡単なせいだ」と思ったのです。

ツマキシャチホコ


そのことを覚えていて、多少教員としての授業の自覚がでてきた6年目のときは、心を入れ替えて教えたのです。授業書を読み、解説を学んで、単元のねらいに沿って、目当てをもち、きちんと文章構成について、教えるべきことを教えたのです。

それでも、2年目のぐたぐたの授業に負けた。


1 あらわれたもの→どう表現されているか
2 こめられた思い→なにを伝えようとしたか

という例でいえば、2年目の新米教師のとき、わたしは

「擬態」とはなにか、虫はなぜ擬態をし、擬態をすることでどのように生き延びようとしているのか、ということを、擬態の写真をたっくさーん見ることで、子どもと話し合い、学んでいたのだ。

6年目の時は、1の国語・文章技法ばかり学習させていたのだネ。
それで、肝心の「擬態」とはなにか、ということがおろそかになっていた。
子どもたちに、「文章構成ってこんなものだ」という、間違った悪自信をつけさせていた。内容理解よりも文章テクニックだけを教えてしまったのだ。



表現される中身と、表現されて目に見えるもの。
どちらに重点をおいているか。

これが、国語の授業についても、大きな変化をもたらすのだ、ということ。


おもしろいねえ・・・。

「絵」を描こうとすると描けないの。

.
図工の時間、桜の絵を描きました。

ちょっとしたコンテかパスで、小作品を、と考えた。

描き始めたんだけど・・・


しばらくして、あまり進んでいない子がいたので、なんとなく近くで

「どう」

と言ってみると、

冒頭の言葉を言ったわけ。

「わたし、絵を描こうとすると、描けないの」



わたし、それはそうだ、そうだよね、と思った。

で、そのあと、頭の中が真っ白。

そのことに、とてもとても、同意している自分なわけ。

そうだよ、描こうとすると、描けないんだよ。

ところが、一方では、
わたしは教師として、授業を進める者として、

「はい、絵を描きましょう」

というニュアンスで、これまで授業を進めてきている。

どうするか?

その子は、

「描こうとすると、描けない」

と言ってるが・・・。





これ、実は、自分も小さい時、そうだったの。
というか、今でもそうかも。

描こうとすると、描けないんだよね。

だって、描こうとしても、桜が自分の中に、無いんだもの。

桜が自分の中に無けりゃ、描けないよ。





その子は、しばらくして解決法を自ら編み出しまして、

「先生、絵本に出てくるようなので、いい?」


もちろん、イイです。



いくら校庭の桜を見ていたって、なんだか、描けないのよね。
で、しかたなく、教室にもどってきたら、やっぱり、描けないのよね。


自分の中にあるのは、校庭の桜じゃなくて、絵本に出てきた桜だったのだ。

その桜こそ、今の自分の中に、あるのでした。



で、その子は結局、1枚目は途中でなんだか止めにして、2枚目の紙をもらって、校庭に出た。
そして、しばらくがんばって、校庭で桜を見てました。

わたしは、まあ、この時間に彼女が描けなくてもいいか、と思う。
しかし、

「描けなくてもかまわないよ」

ということを、わざわざ言いには、行かない。

そのくらいの距離は、いつも、子どもとの間に、とっているのです。



桜を見ていた彼女は、時間になると、教室にもどってきました。

紙には、でかい幹の、外側のラインだけ、描かれていました。


いいでしょう。こういうの。



桜の外側ライン


「幹だね。ここまでは描けたの?」

とわたし。

「幹は見えたの」

クレパスをしまいながら、彼女が答えます。


ちょっと哲学っぽいやりとりだな、と私は頭のどこかで思っている。

で、これで終わりでなく、彼女は衝撃的なことを続けました。


「ねえ先生、幹はもういいよね」

「?どういうこと?」

「もう幹は、描かなくてもいいよね」


わたしは、意味が分かりません。
なぜなら、幹にしたって、一部が描いてあるだけなんです。
外側のゴツゴツしたラインが、描かれているだけ。
あとの、木の幹の全体というのは、白いんですから。

なんと返しますか?





わたしはこういうときの常として、断定口調では返答しません。

「Nさんは、どうしたいの?」

聞きます。


すると、長いストレートの髪の毛の先を、ちょっとくるくると指で巻いてみながら、

「わたしはもう描かなくていいと思うんだけど。次は、枝とか花を描くから」

「なるほど。白いところがあるけど、もう完成と」

「ううん。完成じゃないけど、もう、幹は見たから」




つまり、見る、という行為を、幹に関してはすでにした、と。
今日の図工の時間にたくさん見た。
それで、おなかがいっぱいである、という感じらしい。

もう、おなかがいっぱいになるくらい、幹を見たので、もう幹は分かった。
だから、もう描く必要が無い、と。

さらに言えば、絵を描く、という行為や行動は、見ることの代用であり、ものがよく見えたんだから、もういいんだ、とでもいうような・・・。


おなかをいっぱいにしたNさんは、結局、同じ週のうちに、3時間くらいかけて、しっかりとした桜を完成させています。

おなかがいっぱいになれば、手が動き出す、ということなんでしょう。




子育てに肝要なのは「待つこと」である、と言われますが、

子どもの中に、いっぱいになっていくもの、FULLになっていくものを、見ていくことかと思います。

枯渇しているのに、ムチで叩かれて、何かを目に見えるように形にしろ、と言われても、できないってこと。

しかしまあ、大人は子どもの「表面・見えているもの」ばかり見ているのだ。

この子の心の中に、今、なにがFULLになっていこうとしているのか、という見方は、していないことが多い。



だから、絵を描いていないと、

「早く描かないと、時間ないです!」(゚Д゚)ノ


なんてね。

きっと、教師は、子どもが学校の予定通りに描かないことが、気に食わないんだろう。

絵が描けないの

変わる美術館・変わる博物館

フランスの美術館には、子どもが毎日のように通ってくる。
日本で言うと、地域に根差した、図書館のように。

美術館なんて、辛気臭い、わけがわからない、静かにしていなきゃならない、というので、子どもからは敬遠される場所だと思う。

しかし、さすがはフランス、そこはかなり、考え方が違う。

日本のように、だまーって、しずかーに、まるで仏像を拝むかのように、一つひとつを、凝視していく「鑑賞スタイル」は、あまり普遍的ではないとのこと。

フランスでは、美術品を見る際に、あれこれと自由に見ることを楽しむために、会場でいろいろと工夫してくれている。

フランスの学芸員さんたちの、思考・志向が、顕著に、日本とは異なるのだという。

フランスの方たちは、

「子どもに味わってもらってなんぼ」

というところがあるのだろう。

たとえば、絵画には、クイズが併記されていて、

「思いつかないときは、近くの誰かと相談してみて!」

とか、まるでおしゃべりを促すような掲示がしてある。

日本のお堅い頭の学芸員さんたちからしたら、まるで戦慄を覚えるような、悪魔のささやきが記されているわけ。

大体、おしゃべりしながら、美術品やら工芸品、博物館の展示物を、見てよいものか。

日本人なら、そう考えるだろう。

こういった場所では、何よりも優先されるのが、「静けさ」である。

この静けさを片時でも揺るがすべきではない。

うるさい子どもは、できるかぎり、美術館から排除するべきだ。

「うるさいガキは、こなくて結構!」

これが、日本の博物館ね。




で、子ども向けに語りかけた、このような美術鑑賞アプローチが、実は、何よりも、

フランスの大人に、受けた。


・・・(笑)


入場者数が増え、市の財政に寄与する美術館が増大したそうであります。
そのようなわけで、フランスでは、美術館が、それなりに、アクティブで、パッシブで、アクロバティックになっているようなのでありました。


※Visual Thinking Strategies (ビジュアル・シンキング・ストラテジー)について

グループで対話をしながら、絵をみていく鑑賞方法。知識に頼らずに、作品をよく見ることからはじめ、「これは何だろう?」と一人ひとりに考えることをうながし、様々な意見を引き出しながら、作品の見方を深めていく。1988年からニューヨーク近代美術館(MOMA)で美術鑑賞法として開発されたVTC(Visual Thinking Curriculum)を当時の教育部長フィリップ・ヤノウィンとアビゲイル・ハウゼン(認知心理学者)がより学校教育を意識して進化させた。アメリカでは約300の学校および約100の美術館・博物館が導入している。
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