夏休みの宿題で取り組む子が多い。
7月、夏休みに入る前に、一人の子が相談に来た。
「どんな絵を描けばいいのかわからないから、これまでの入選作品を見せてほしい」
とのこと。
コンクールは、基本的にお題があって、その趣旨に沿った作品を募集している。
だから、防火ポスターだったら火の用心とか、コンロの火を確認しよう、とか。
交通安全だったら「右左を見て渡ろう」とか。
ふつうはわかりやすいものなんだけど、今年の6年生は「人権」のポスターが募集案内で出ていて、その子はそれを描こうと思ったらしい。
たしかに、人権、というのは、アイデアがたくさんあって、しぼりきれないかもしれない。
人権というのは、生活のありとあらゆるところに垣間見えるものだし、人間生活、人間関係、どこを切り取っても、テーマが浮かびあがる。だから、ちょっと迷った、というのもわかる。
そのとき、わたしはこんなのが入選してるみたいだよ、ということで、前年度の入賞作品というのが紹介されているWEBページとか回覧物とかを見せた。
子どもは「ああ、こんな感じか」
と納得し、そのまま夏休みになった。
ところで、わたしはつい最近になって、そのことが思い出されるのであります。
ポスターはたしかにコンクールの募集があり、先方の都合で集めるものです。
だから、向こうがほしい、と期待される作品というものがある、のです。
たしかにそうだ。
ところが、なぜ子どもが迷うかと言うと、
「何を期待されているかがわからない」
ということなんだろうと思う。
期待に応えるために、その子は「ああ、前年度の入選作品をみせてもらえば、より傾向がわかるだろう」と思ったのだと思う。かしこいな。
傾向と対策、という大学入試向けの赤い本があるけど、そんな感じ。彼女なりに傾向を把握し、対策しようとしたんだろう。
ちょっとまてよ、とわたしはそこで思う。
なんだか、最初のスタートが弱くないか、と。
描きたいものがある、という子どもの意欲がまずあって、コンクールがあるのではないのか、と。
入選作品を見て、傾向と対策、というのは、なんだかちょっと違和感が出てきたのであります。
コンクールというと、なんだか子どもたちの意思がちょっとだけ置き去りにされている気がする。
あれこれ、子どもが考えた。あれこれ思った。
それを絵にしてみよう、と思った。
やってみた。
おもしろい絵ができあがった。
なるほど、とうなずけるところがあるし、発想に驚いたり、工夫がみえたりしてくる。
見てるだけで楽しいなあ、とにっこりする。子どもは楽しんで描いただろう、というのが想像される。大人はそれが至上の喜びになる。
順番はあくまでも、
子どもの意思⇒作品⇒大人がみて⇒おもしろがる
ということだろう。
大人のために子どもが描く、というのは、なんだか順番が違う気がする。
なんで順番が異なってくるのかというと、やはりそこに「賞」をつけたからなのでは?
それで釣ったからでしょう。
子どもはいともたやすく、釣られてしまう。子どもだもの、そりゃ釣られるよ、ということなのですが、これはやってはいけない範疇の『大人のパワハラ』なのでは?
賞をとったらすごい、みたいなのがあって、なんだか余計だよ。
もう、コンクールで賞を出すのって、やめたらいいのに。
出すなら、全員とてもがんばって描いてくれてありがとう、という感謝の言葉と参加賞でいいんじゃない?
芸術を振興するのが第一目的なら、絵画芸術を専門とする塾がコンクールをすべきだろう。
ちがうんやから。絵というのは、描きたくて描いて、よく描けたな、と自画自賛し、絵を描くのって楽しいなあ、人生に絵というものがあって、本当にいいものだなあ、良かったなあ。人間に生まれてよかった、というので十分なのでは。少なくとも小学生は。
コンクールを主宰する大人は、それを子どもにお願いして「見せてもらっていいかな」「いいよ」というやりとりをして、「すごく感動したので、ポスターに使わせてもらいたい」「ああいいよ」という流れが必要なのでは。
(学校の図工教育がずっと悩みつづけてしまっているのは、コンクールという大人の事情をすっぱり学校社会から切って捨てていないからなのでは)