30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

国語

四年生国語・ごんぎつねで恋バナ

ごんぎつねの中で、意見の分かれる箇所がある。
それは、ごんが、本当に優しい狐なのかどうかと言う点だ。
第1場面から第4場面くらいまでを読むと、ごんが、素直で心の優しいキツネだということがよくわかる。
なぜなら、自分がやってしまったいたずらのために、兵十は母親にうなぎを食わせてやれなかった。それを深く反省し、償いを始めているからだ。
それも毎日のように栗や松茸を持っていってやっている。

怪しくなるのは第5場面だ。
栗や松茸が毎日のように家に届く兵十は、それを神様のお恵みだと認識するようになる。実際は、ごんが持っていってやっているのに、だ。

そこで、ごんはこう思う。

へえ、こいつはつまらないな。おれが、くりや松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼を言わないで、神さまにお礼を言うんじゃあ、おれは、ひきあわないなあ。

ある子が言う。
「本当に心が優しいのなら、兵十は栗をもらって喜んでいるのだから、それを見て満足すればいい。兵十を喜ばせることができた、で、良いじゃんか」

しかし、ごんは欲張ってしまう。
自分がうなぎのいたずらをした償いのために、せっせと栗を運んでいるのだと言うことをわかって欲しくなった。兵十にその献身的な振る舞いを認めて欲しいと思った。褒めてもらいたくなってしまった。

この辺が、だんだんと、読み取りを進めるうちにはっきりしてくる。
すると、ごんという狐は心の優しい狐です、という単純なフレーズでは、間に合わなくなってきてしまう。

いや、そもそも第1場面の初めから、ごんは厄介ないたずらギツネだとして、登場してくるではないか。
畑へ入っていもをほりちらしたり、菜種(なたね)がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家(ひゃくしょうや)のうら手につるしてあるとんがらしをむしり取ったりしている。

ここらへんを、再度、しっかりと読み直す。すると、

【ごんは、◯◯なきつねです】

という単純な言い方では、収まりきれないような感じがしてくるから不思議だ。

「本当は心優しいはずなんだけどなぁ。毎日、栗を拾ってくるし、お母さんのことも心配したり、悲しく思ったりしているんだから。でも、ごんはいたずらするんだよなぁ。そして、僕のことを見て欲しい。わかって欲しいと思ってるんだよなぁ」

教室の中に、ごんというキツネが、なんとも生々しい、生きた存在として、あるいは、非常に複雑な心の状態を抱えた登場人物として、くっきりと浮かび上がってくる。

ひとりぼっち、という叙述に焦点を当てる子もいる。兵十のことを見たごんは、
「おれと同じひとりぼっちの兵十か」
とつぶやいている。
そもそも第1場面からそう書いてある!と、改めて見つける子もいる。

ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に穴(あな)をほって住んでいました。


だから、自分と同じようだから、気にしているのだ。そばに行ってあげたくなるのだ。
第4場面で、わざわざ後をつけるのも、そばにいたいのかも・・・。

さて、第6場面まで、つまり最後までを通して読んでのまとめ、を考えよう。

ごんが第6場面で、兵十に対して思っている事は何だろう。
一番の切ない思いは、「わかって欲しい」だろう。わかってくれなくても構わない、兵十が栗を食べてくれたらそれで良いと、忍んで耐えるごんではない。見て欲しい、気づいて欲しい、とさらに兵十に近づいてゆく。そして、近づき過ぎて・・・

最後まで読み終えて、あらためて

【ごんは、◯◯なきつねです】

としてまとめてもらうと、
子どもたちは、
「ごんは、兵十に、僕を見て欲しい!こっち見て!と構って欲しいキツネ」
と書いた。

かまってちゃんだよ。

誰かがそっとつぶやいた。この一言に、教室中が笑い出した。

そうか!

いたずらばかりしていたのも、こっち見て欲しいサイン、かまってちゃんサインだったのかも・・・

ある子が言った。
決まった女の子だけに意地悪を言う男の子っているよね。他の女の子に対しては全然普通の態度なのにさ!特定の子にだけ、ちょっと意地悪するんだよね。

そしたら女の子が、「なんでそんなふうにイジワル言うの?」って、その子が目の前に来て自分に言うもんだから、その時はもう、心臓がドッキンドッキンしてるんだよ!そういう男の子、いるんだよね!

これで一気に教室中が爆発的に沸いた。

ごんは、一人ぼっちだから、友達が欲しかったんだよ。

という意見が出ると、ほとんどの子が自分も同じ意見だと表明した。
寂しいから、友達が欲しいから、かまって欲しいから、自分が優しいってわかって欲しいから、だから、近寄っていくんだけど・・・

別の子が、それに付け足した。

でも、だからこそ、いたずらをしちゃう時があったんだよね。

ははぁ・・・そうか・・・(笑)


ノートに書かれた、最後のまとめを読むと、こう書いてある。

ごんは、相手が困っていたら、助けてあげたくなるくらいに、本当の本当は、友達思いなんだけど、恥ずかしくていたずらをしてしまう、キツネ。

この授業の後、なんとなく教室の中の雰囲気が柔らかくなりました。そして、男子が女子に、女子が男子に、近くなって話をしているのです。
誰かの冗談に、男子も女子も一緒になって笑っている姿がありました。

みんな、一人ぼっちなんだよ、そして、友達が欲しいんだよ・・・

ごんの姿を通して、子供たちの心に響いた何かがあったのでしょう。 あと、このクラスは半年だ。みんな、なんとなくそれを感じ始めている。5年生になったら、クラス替え。今隣にいて話ができている、この友達と、こんなふうに話ができていることの嬉しさ。
新美南吉さんの物語は、直接的ではないからこそ、やはらかいからこそ、心の琴線にふれたのでしょう。

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『ぼくとおじちゃんとハルの森』(山末やすえ)

これがおすすめなんですわ。
ぜひ、読書感想文を書きましょう!

クラスの仲の良い友達が引っ越ししてしまい、心に穴があいたようになって、ちょっとさみしくなっていた小学4年のぼくが、夏休みに田舎で心のエネルギーをとりもどす話です。

田舎のおじちゃんのところに行って、犬とおじちゃんとしばらく一緒に過ごすのですが、これがたのしくて。

子どもが大人を見つめる視線って、こんなふうだよなあ、というのがよく伝わる本です。
で、実は大人も、子どもに助けられるんですよね。どちらかというと、大人が救われるわけです。
しかし、この

「ああ、これは大人がすくわれていく話なんだなあ」

というのは、大人になってからしかわからないようです。
子どもは、その視点をもたないで読みますから、この本を読んでもそういう感想は出てこない。子どもの感想文にはそんなことは書かれないのですが、大人はこれを読むと、「おじちゃんは嬉しかったでしょうし、ぼくに感謝しているだろう」と思う。

つまり、大人が読むと「おじちゃん視点」で読むことになり、
子どもが読むと「ぼく視点」で読むことになる、という不思議な本です。

どうでしょうか。
こんなふうに本の中身がちょっとわかると、「あ、読んでみたい」と思うでしょう?

朗報です。
ここで、読書感想文を子どもに書かせるコツを伝授しますね。

お子さんが図書館の本棚をぐるぐると回りながら、
「いい本がない〜」と言っていたら、です。

まず、本にはジャンル、というものがある、ということを教えてあげてくだされ。

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文学であれば、

1)日本のもの
2)外国のもの


という2つのジャンルがあります。
日本がいい、とか、外国がいい、とかのように、こっちが( ・∀・)イイ!! ということをすぐに言える子もいます。

「そんなのどっちでもいい」

という子が大多数ですが・・・

3)むかしばなし
で書ける!
という子もいます。なんとなくストーリーを知っているので、とっつきやすい、というのがあるからかもしれません。

4)すでに知っている話
なら書ける!という子は、わりと多いです。
もうすでに読んだことがある、とか。
教室の片隅に置いてある学級文庫で、実は少しだけ読んだ、とか。

5)小学生もの

これは、主人公が小学生なので自分にも身近な存在に思えるから、まあ読んでみるか、と思うのでしょうか。たとえば山中恒さんの「あばれはっちゃく」とか「くたばれかあちゃん」とか。

6)事件・サスペンスもの

名探偵◯◯、とかですね。コナンとか。銭天堂もこのジャンルかと思います。

いずれにしても、本が選べない〜、と図書館で泣いている子、あるいはお父さんに泣きついている子、お母さんと口喧嘩を始める子、については、

「どうこれ?こんな感じのおはなしだけど」
とか
「これいいじゃない?主人公は小学生でね、◯◯と出会ってたいへんなことがもちあがって、◯◯してすごいことになるんだけどね。知恵を出して仲間とね、ハカセがハチベエとモーちゃんに・・・」

みたいなことをおうちの方がお子さんにお話なさると良いですね。
すると
1)予備知識ができてくるので

2)ちょっと安心して

3)興味をもって

4)ぼくにも書けるかも

となって、読書感想文が書けるわけですね。

つまり、ちょいとした「誘い水」が、あるかないか。
物事は、意外と単純ですね。

あとは、

ぼくが読んだこの本の主人公って、こんな特技があって、こんなことになっちゃったけど実はこんな工夫をして仲間と相談してすごいんだよね。

というように、その本の良いところを先生に教えるつもりで書くと筆がすすむでしょう。

問いを、ともかくたくさん出してみる【小3・モチモチの木】

問いを、ともかくたくさん出してみる。
これが、トレーニングになる、と多くの先生たちは考えます。

例えば「将来、自分は何がしたいのかな」と、考えることがあるとします。

この問いに対して、

では、考えましょう!

と、いきなり進めるのではない。
その辺が、どうやらポイントになりそうです。

「将来、自分は何がしたいのかな」

これを考えるために、考えやすくなるような作戦を立てよう。
というのが、常套手段です。
この問いに迫るための、いわば、ロードマップを計画します。

何がしたいか、

【の前に・・・】

と考えるわけです。

大きな問題をいきなり考えるのでなく、以下のような中くらいの大きさの問題を、考えてみましょう。

例えばですが、
【問い】ぼくの性格は?
【問い】僕が3歳の頃、夢中になったものは?
【問い】好きで得意なものは?
【問い】好きだけど苦手なものは?
【問い】これから10年後の社会はどうなってると思う?
【問い】自分の中で、誰かの役に立ちたいと思う割合は、10点満点で何点?

など。
いろいろ、考えてみよう、とするわけです。

つまり、大きな問いしかつくれない人と、さまざまな、それに近づいていくための中くらいの問いをつくれる人、さらに細かい問いをたてられる人とでは、得られる情報が、当然ながら違ってくる、ということです。

なので、国語でモチモチの木を学習するとき、大きな問いとして、
【問い】この話が好きか嫌いか

というのを、クラスみんなにアンケートを取りたい、という子がいたら、それを大きな問いと考えて、中くらいの問い、小さな問い、として、どんどん子どもに出させる。

すると、
【問い】この物語はハッピーエンドだと思うかどうか。

というのが、意見として出てくる。
好きか嫌いかをいきなり答えようとする前に、ちょっと待てよ、そもそもこれは良い話なのか?そうでもないのか?・・・。どっちだと思う?ということが、気になるわけです。

豆太が臆病を克服して強くなった、とは書かれていない。
最後はこれで、めでたし、めでたし、だと言えるのかどうか?

豆太はせっかく勇気を出せたのだ。
真夜中に、医者様を呼ぶため、たった1人で半道もある麓の村まで、行くことができた。
であれば、お話の最後は、豆太が自分の力を信じ、勇気を持った少年となり、それからはもう二度と、じさまを夜中にしょんべんで起こす事はなくなりましたとさ、で終わるべきだ。

ここまで考えてようやく、
【問い】このお話が好きか嫌いか
について、意見が言えるのでしょう。

あるいは、こんな問いも出されそうです。

【問い】豆太は本当に臆病なのか
【問い】どうして作者は、最後に再び、じさまぁと豆太に言わせるのか
【問い】モチモチの木をなぜ豆太は一瞬しか見ないのか

のように、子どもがどんどんと謎を見つけていく。

それらを討論してからですと、どの子も自分なりに、この物語を、好き!とか、嫌い!とか言えるようになる。それも、根拠を持って・・・。相手を納得させる理由を、胸を張って言えるわけ。

図工の鑑賞授業の手法と似てます。
というか、おそらく、見方や考え方は、かなり共通点がある。

雪がキラキラ光る、満月の夜のモチモチの木を、ぜひ見てみたい、と子どもが思うようになれば、さらに学習は広がりますね・・・。ワタシ、自分が子どもの頃、ホントにそう思ったもの。
ちょっと理科の方角かもしれんけど。

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漢字の指導の変化

教師になりたての頃は、私は漢字の指導がそれほど好きではなかった。

ところが、漢字と言うのは、人類の大した発明と言うべきものであり、大昔の人々の、具体的な、あるいは、抽象的な思考法が、よく見れば、見るほどに浮かび上がってくる題材なのであります。

そのことに気がついたのは、今から10年以上前に、一緒に学年を組んだ、とある先輩の先生のおかげです。その先生は、私に、白川静氏の漢字の本を見せてくださった。白川氏との出会いが、漢字学習を変えた。

今の漢字の授業は、こうである。
1)電子黒板に漢字をでかでかと映し出す。
2)この字について、何かわかる人?
3)部首やつくり、冠などの字形や意味から、この漢字が持つ意味や、成り立ち、どうしてこんな部品が使われているのかなど、子どもが気がついたことをどんどんと発表していく。
4)見当はずれでも全く構わない。確かに、そんなふうに見えるねぇ、と同意しながら、バンバン言わす。
5)最後に、わたしが知ってる代表的な、成り立ちの学説を説明して、後は書き順・熟語の確認・字の練習、で終わり。

これを繰り返していくうちに、子どもたちは、漢字を見た瞬間、アッわかった!と色々と意見を出すようになってきた。つまりなぜその言葉は、その部品を使い、そのような意味を持つ字になったのか、成り立ちについて説明するのである。

これは、具体的なパーツを見ながら、仲間に分類していくことで、似たような字を思い起こしながら、より抽象度の高いグループに分けたり、意味を類推したりして、たくさんの漢字を頭の中に、だんだんと抽象度の高い分布図へと書き換えていくような作業であります。

小学校3年生ともなれば、もう、人生の間に、300字以上を覚えています。なので、新しい字が出てくると、自分の知っている漢字の大きな地図の中の、一番ぴったりするところに付け足していくようなことをします。

この動作や振り分け作業が、瞬時に迷いなく、できる子は漢字を覚えるのが早いです。
瞬時にできる子は、頭の中の漢字地図が、抽象度が高く、極めて論理的に分布されているのです。だから、新しい漢字も、今までのルールに沿ったような形でピタリとはめることができるし、迷わないのです。

同じ意味、同じへん、同じつくり、同じ音(おと)、付け足し、などですね。
共通点を見つけるのが早い。
次に、なぜそれが共通点だと言えるのか、自分の言葉で説明もできる。
高層ビルに例えれば1階部分なのか2階部分にありそうか。もっと高層階にありそうなのか。平面でなく、立体的に頭の中で思考している子もいます。

ところが、頭の中がごちゃまぜで、どう地図の上で配置すればいいのか、ぴんとこないような状態が続くと、やはりその中途半端で、宙に浮いたような漢字は、いずれ記憶のどこかに紛れ込んで消えてしまうのでしょう。

いわば漢字を覚えるということは、漢字一つ一つと言う非常に具体的なものに、抽象的なルールを当てはめて、抽象度を上げていくことによって、初めてマスターできると言えるのです。

教室の中に、「つまり、先生、それって、こういうことでしよ?」という言い方が、癖になっている子がいます。
その子は、生活の中や学習の中で初めて出会ったものを、自分の思考体系の中に、自分の言葉で言語化することによって抽象度を上げて、組み込んでいるのです。つまり、とか、要するに、とか、そういう言い方を補助的に使って、自分の思考をヨイショと支えながら。

そして、結論です。
このような思考の動かし方をしている子は、漢字のテストもほぼ100点が取れます。

漢字練習帳に体力勝負で同じ字を50個書けば覚えるかと言うと、どうもそうでは無いようです。やはり脳みその中を、『具体から抽象へ』と、整理整頓することに尽きるようです。


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漢字ドリル・漢字スキルは友達といっしょにやる件

わたしはこれまで、学期末の漢字テストは、練習プリントをたくさんさせたり、まあふつうに宿題としてノートにたくさん書かせたり、というようなことをやってきました。多くの先生がごくふつうに実践されているようなことです。これはこれで大事です。

しかし、実際はかなり、子どもの尻を叩くのですよ。やれ、やれ、と。
それに疲れましてネ・・・

で、ふと休日に気休めに読んだ、イヴァン・イリイチの「脱学校」だとか、ロイスホルツマンだとかのせいか、教師の指示が先に来るよりも、やはり社会的な活動と、そのふりかえりが大事なことだと思い至ります。

まずは活動➡ふりかえり➡なにか思うことの言語化(自分なりの内言化)➡自分なりの個別最適化計画➡他者との共同的な課題を含む活動➡ふりかえり➡・・・くりかえし

これを漢字学習に当てはめてみたらどうなるか、という思考実験をした。

そして、最初に漢字学習について思うことを言語化してもらった。
(これはみんなおりこうさんのふりをしていて、がんばります、というようなことが多かった)

つぎに、個別最適化計画を立ててもらった。
どのくらい、1学期の漢字を書けるようになりたいか。
どのような学習を自分で行っていくのか。

すると、それなりに自分で計画をしていく。さすが6年生と思いましたよ。

ただ、その後の実践が、やはり個別であります。
するとね、やはり、ごほうびがないと、できない子が多い。
たった今、漢字の学習をすると、楽しいだとか、ごほうびがないと、なかなか。

それで、これを個別でなく、共同でさせることにした。
お互いに、漢字スキルの1ページ目、2ページ目、というふうに宣言をさせ、宣言をお互いに聞き、それを家で実際に進めてくるとか。

あるいは、1ページのうちから、2つ問題を選んで出し、目の前で指で机の上などに書いてもらうとか。書き順があってるか、正しいか、熟語を2つ言えるか、など、クイズのようにして出してもらう。

うちのクラスは、これが楽しかったみたい。
で、友達だれでもいいから、2問出してすらすら書けたら、次のページに進んでよい、というふうにしたの。

そしたら仲の良い子にずるして教えてもらってパスして、どんどん進める子もいるのね。

しかし、途中で厳しい点検テストをすると、そういう子は本当は覚えていないから、書けないわけ。

そのときに、静かにふりかえる時間をとりまして。

まずはノートに、自分が今、漢字学習について思うことを正直に書く。
これは、しっかりと言語化できる子は、本当にこころの内情を、リアルに言語にできる。
そうすると自然に、自然にですよ、本当にクリアに、

つぎはこうして学ぼうと思う

という展望が、かけるんですよ。これは不思議ね。

ただ、このときに先生に対してかっこつける子は、「次はがんばる」程度で、適当な作業をつづけちゃう。
こういうタイプは、なんだろうか、漢字学習はぜったいに楽しくない、という思い込みで生きているような感じがする。他の子がやってみたら面白かったし、覚えられて書けた、うれしかった、と書いているのとは、対照的でした。

ここでわたしが大事にしたのは、

今回の学習の、なにが良かったのか、を明らかにすることでした。

幸福はいずこにありやと見つけ出し、というところでしょうかネ。

すると、休み時間にクイズのようにして友達と遊んだことや、家でもお姉ちゃんにやってもらったとか、たくさん自分のやり方を、こうやった、ああやった、と言うのです。
苦手な字がなかなか覚えられない。でも何度も書くと疲れるからでっかい字をポスターのようにして壁に貼ったら、すぐ覚えられたとか。
あとは、同じプリントを10枚くらい印刷して、それをテストを10回やったら完璧になったとか、すごい学習法が出てきました。

これ、自分で考えているところがいいでしょう。それも友達の意見を参考にしながら、自分でも考えて開発しているところがいい。

そして、先生、ぼくもやるから、〇〇くんと同じページを10枚プリントしてください、という子が出たり、ふたりで「あしたまでに覚えよう」とか言い合ったりとか。

これは単純に、おもしろいですよ。友達とタッグを組むのは、楽しい。

で、あとはときおり、「どう?」と聞いて、頃合いを見て「点検テストするよ」という感じ。

わたしが注力したのは、自分が活動の後に思うことを、しっかりと言語化できるように声をかけた、というところです。書いたノートを集めて、読んで、中身についてちょっと声をかけてくわしく聞いてみたり、「ああ、今言った、そのことをノートにも書いておくといいよ」とか。

とにかく、自分が漢字学習について、どのようなポジションにいるのか、どのような計画でいるのか、どのような「思い」をもっているのか、言語化させること。

これがないと、やはり個別最適化とはいえないと思う。

個別最適化のスタートは、言語化です。

そして、友達のアイデアと自分のアイデアをぶつけること。かけあわせること。そして具体的に成長させること。決して、ひとりの思い込みで勉強は進めるな、と注意した。

これが、共同的な学び、です。

するとね。抜き打ちのテストで、90点以上がばんばん出た。
これ、以前から書きたかったけど、本当の結果が出てからと思って書かなかった。
でも3学期のまとめのテストがけっこう良かったから、書きました。

いちばんいいのは、「漢字は今年はすごく楽しく覚えられた」と振り返っていた子がほとんどだったことです。たしかに、「まだ苦手です」もいますけどね。

来年も、これやろうっと。

木もれ陽のシーサー

【6年国語】海の命〜なぜクエを殺さない〜


授業の流れについては、上記のような過去記事がいくつかありますので、みていただくことができます。

なぜ殺さなかったか、ということに焦点を絞って、2時間の大討論を繰り広げた。
みんな、言いたい放題。
持論を述べる姿も堂々としてきたが、あいにくそれをまったく聞いていない子もいて、かなりカオスである。このあたりの交通整理が、もっとうまくできたらなあ、というのは私の教師としての反省だ。ずっと以前からの。

つい、教室の真ん中で、腕組みをして黙ってしまうんだよなあ。みんなの話にうなずきながら・・・。しかしそれでは、強力に論を整理することができない。あっちへふらふら、こっちへふらふら、という話し合いだと、子どもが疲れてしまう。

面白いのは、「なぜクエを殺さなかったのか」という問いに対して、
「本当に分からない・・・殺せばいいのに」という子もいたことだ。
その子は、「ぼくは太一の行動に反対だ。殺すべきだった」という説を最後まで曲げなかった。
この意見はかなり討論の場においては有効で、多くの子の考えを深めた。
なぜ、という問いよりも、一時は「太一の行動に賛成か反対か」という討論も出現した。
しかしそのおかげで、
「クエを殺すべきだ、というのは、途中まで本当に太一が心で思っていたことだろう」
ということを、その後、クラスの大半の子が考えるようになった。ぎりぎりまで、太一は本気でクエをねらったのである。

さて、それにしても、太一は最終的に、クエを殺さなかった。
これはなぜだろうか。

多くの子の意見は、
「クエが父親に見えたからだ」
というものだ。

しかし、それだと辻褄が合わない。
太一は、もっと以前に、モリを足の方にどけるのである。
ふっとほほえむ。そのとき、すでに殺意はないのである。
太一がクエを父親だとみる、その行為よりも前から、たしかにあったはずの殺意が消えている。
だから、最初にモリを足の方にどけたのはなぜか、というところに、問題の焦点はうつっているのである。

そこまで考えてから、再度、ノートにまとめてもらった。
言いたいことをすべてノート記述にぶつける気で、とうながすと、みんな猛烈な勢いで書き始めた。
クエ

【Aさんの考え】
太一がクエを殺さなかったのは、「このクエを殺すことは、自分のために殺すのだ」ということに気づいたからだと思う。
 鯛を20匹取るという行動は、漁師としての行動で、太一だけでなく、他の人のためにもなる。だから鯛を20匹取るという行動は、はっきりいえば、人が生きるためだ。
 しかし、太一がクエを殺すことは、太一のお父さんの敵討ちのために殺すため、太一自身のために命を奪うことになる。
 教科書の221ページを見てほしい。与吉じいさが「千匹に一匹でいいんだ。千匹いるうち一匹を釣れば、ずっとこの海で生きていけるよ。」という言葉は、漁師として命を奪うことは仕方ないが、それ以外で無駄に命を奪うことはしてはいけないという教えだ。この言葉が太一に「このクエを殺すことは、自分のためだけに殺す」ということに気づかせたと思う。

【Bさんの考え】
わたしは、本当は太一は、クエを殺したかったのだと思う。それでも太一はクエを殺さなかった。それは、与吉じいさの言葉を思い出したからだと思う。
与吉じいさは、「千匹に一匹でいいんだ。千匹いるうち一匹を釣れば、ずっとこの海で生きていけるよ」といった。与吉じいさは無駄に釣らなくても自分が食べる分と少し売る分だけ釣れば生きていけると考えていたのだ。
それに対して、クエを殺そうとしたときの太一は生きていくために釣るのではなくおとうの敵討ちのためにクエを殺そうとした。そのとき、与吉じいさの言葉を思い出して命を無駄にしてはいけないと殺すのをやめたのだ。

【Cさんの考え】
殺さなかったのは、与吉じいさ(師匠)の教えを破ることになるからだ。
与吉じいさの教えは、「千びきに一ぴきをつる」「海の命をもらって自分たちは生きているから海に感謝して命を無駄にしてはだめ」という教えだ。
太一はクエを見たとき、「仇」としてクエを殺そうとした。それは命を無駄にする行為で、自分の勝手で命を奪う行為になる。それは教えを破ることなのだ。
それに、太一は教えの通り「殺したいから殺す」「自分のために殺す」では殺してはいけないと思っている。だから、最初は「自分のために殺す」をしようとしたけど、クエの目が、殺されたがっているような目に見えてから、教えを思い出して思いとどまった。立松和平さんが、クエの目を「殺されたがっている」ように書いたのは、太一が自分の欲に負けてしまいそうになる誘惑を書いたのだと思う。でも、そんなはずはない。殺されたがっている魚など、この世にはいない。でも、ついそう見えてしまうほどに、人間は欲望に負けやすいのだ。太一はしかしそこで自分のおかしな欲望に気づくことができた。
他の人がクエの目を見たら「睨んでいる」「戦おうとしている」などと見えるのがふつうだろう。でもそれを、「殺されたがっている」と見てしまうくらいの、奇妙な「見え方」。それがあまりにもおかしすぎると、まだ太一は気づくことができた。太一は人として、おかしくなりすぎてはいなかったのだ。
だから、太一はクエを殺さなかった。

【Dさんの考え】
理由は、クエを取ろうとするのは、太一の気持ちだけだったからだと思います。
なぜかというと、与吉じいさは千匹に一匹、飢えないようにとるだけなのに、太一の気持ちは「この魚をとらなければ、本当の一人前の漁師にはなれないのだ」というように、太一だけのためだったので、それで命をとるのは間違っていることだと気づいたからだと考えます。
だから、太一はクエを殺さなかったのだと思います。

【Eさんの考え】
立派な漁師になるため、与吉じいさが教えてくれたように、クエを殺さなかったのだと思う。
与吉じいさの言葉「千匹に一匹でいいんだ、千匹居るうち一匹を釣ればずっとこの海でいきていけるよ」の言葉が鍵になる。与吉じいさは漁が目的、太一はクエを殺す事が目的。太一は与吉じいさと目的が違うのだ。そのことに、太一は気付いたのだと思う。
クエを殺さなくても立派な漁師になれる事、クエを殺すのは与じいさが言う立派な漁師になれない事も、気づいている。だから、私は太一がクエを殺さなかったと考える。

と、ここまでがノート記述である。

わたしが特にするどいと感じたのは、Cさんだ。
魚が自分から殺されたがっているなんて、見えるわけがない。
その奇妙な、病的な、おかしな見え方。
そのことに、太一自身が気づくことができた。
「おれは、なんのためにこの魚を殺そうとしているのか」
そこで、太一はハッとする。

魚を殺すには、理由が要る。
太一はそう考えている。
理由もなく魚を殺すのは、殺人鬼ならぬ『殺魚鬼』だ。
与吉じいさは、鬼にならぬように、太一に語りかける。「千匹に一匹でいいのだ」と。

太一は、「おれが殺したいから殺す」という理由で殺しはしない。
おれが殺したいから殺す、というのも、鬼なのだ。
太一は、鬼になることを、すんでのところで回避できた。
「殺す」と決めてから、今までの長い日々。
高まっていた殺意。
いよいよ、となった瞬間。
まるで電撃のように、太一は「殺すべきでない」という直感に打たれるのだ。
(↑この一文、どうも鬼滅をイメージする。「海の命」は元祖鬼滅!?)

Cさんは、そんなようなことを、自分の文章の解説で、みんなに言ってくれた。
きょとんとして意味がわからない子もいたと思うが、深くうなずいている子も多数いた。

ここまで深く読み取ることができたのも、クラスの子たちの活発な意見が助けになったろう。
Cさんも、単独一人ではここまで追究できなかったにちがいない。

【6年・国語光村】海の命で5年大造じいさん登場

「対比」を使って、海の命の学習を進めている。
「海の命」と何を比較したか。
5年生で学習した「大造じいさんとがん」だ。
既習事項と比較することで、どんな教材にも挑戦していける、という自信を持つためである。
これまでの力を生かすことで、困難に立ち向かえる、という自信は、人生にとって必要だ。

比較

大造じいさんは、残雪が仲間を救ったばかりか、最期のときを感じて威厳を崩さずにいることに感服し、そのまま残雪を殺さず、堂々と戦うことを願った。
だから、直前まで本当に殺そうとしていた。

「もしはやぶさが現れなかったら、殺しただろうか」

そのままきっとオトリを呼び戻して向きを変えさせ、残雪を撃っただろう、というのが児童の大半の見方である。

対して、太一の方はどうか。

残雪をしとめる気でいっぱいだった大造じいさんの情景描写には、真っ赤な太陽が(あかつき)強烈な光をさしてくるイメージが使われている。
これは、いわゆる「大造じいさん目線」である。

〇〇目線、というキーワードについては、5年生のときの「なまえつけてよ」で既習済みだ。



「なまえつけてよ」は、地の文にある表現もみな、主人公の春花の目線で書かれていた。
勇太が、プイッと横を向く、と地の文に書かれているけれども、勇太はものすごくやさしい子で、実際にはそうではなく、春花に迷惑をかけないための所作だったわけで、プイッと見えたのは、あくまでも期待していた春花のざんねんな気持ちが『そういうふうに見た』わけで・・・。

そこから、物語文の地の文にも、主人公の目線がふくまれている、というのを習っていた。

では、太一はどうだったか。
どうみても、クエが戦闘的に見えないのである。
敵に見えない。
おとなしく、じっと「殺されたい」と見えるほどに、やさしい目つきで太一を見るのである。

これは、実際にクエがそうであった、というではなく、太一がクエをそう見ているから、クエがやさしい目つきに思えるのである。

だとすると、大造じいさんと太一は、決定的にちがうことがある。

じいさん⇒戦う意識
太一⇒1000匹に1匹でいい この海でずっと生きていきたい


太一の意識がこうやってどんどんと浮かび上がってきた。
太一には、「敵」「味方」の区別すら、もうすでになかったのである。

1学期の最初の授業【国語】

【発問1】『先生が日曜日の朝に必ずお庭でやっていることは何か』と聞かれて、当てることは可能か不可能か、どちらですか。

可能→25人
不可能→10人

〇可能と思う理由(わけ)
・たくさん意見を出していけばそのうち当たるかもしれないから
・ヒントを出してもらえば当てられると思うから

〇不可能と思う理由(わけ)
・他人の考えていることを正確に当てることはできないから
・他の人の頭の中身が本当かどうか判別ができないから

このあと、意見交換。
「ノーヒントならほぼ無理だと思います」
「最初から正解するのはほぼ無理」


【発問2】
では、それを可能にするための条件は何でしょう。

〇意見をたくさん出す
〇先生のヒントをよく聞く
〇先生の表情をよく見て「こころをよむ」
〇当たるまであきらめない
〇みんなでたくさん相談する



では、
1)意見をたくさん出す
2)そのためにノートに書いた自分の意見はどんどん発表する
3)友達の意見や先生のヒントをよく聞く
4)みんなでどんどんたくさん意見を出して相談する
ということの「すごさ」を実感してみましょう。

【発問3】
田んぼの『田』という漢字の中に、どんな漢字がかくれているのか、さがしてみましょう。
最初は1人だけで考えます。ノートに思いつく漢字をたくさん書きましょう。

いくつかけましたか?
〇3つ
〇7つ
〇10こかけた!

見つけた漢字の数をノートに記録しておきましょう。
「わたし7つ」
「おれ、10こ!」

【指示1】
赤鉛筆で、友達の意見をたくさんもらっていいことにします。
クラス中のアイデアをたくさんあげたりもらったりしてみましょう。
いくつまで増やせるでしょうか。
でははじめ。

【ふりかえり】
いくつに増えましたか。
〇15こになった!


一二三十日
旧上土王干
士山出曰卍
・・・など


【やってみてどうでしたか】
〇みんなで相談すると早い
〇たくさん教えてもらうとうれしい
〇かぶっているのも多かったけど、知らないのがあって教えてもらえた

【6年生の授業の受け方】
〇たくさん意見を出して考える
〇ノートに書いた意見はどんどん発表する
〇ヒントになりそうかどうかはあとで考える。まず出す。
〇男女関係なくどんどん聞くのが早い

raku-umi

【5年国語】大造じいさんとガン・あかつきがなぜ真っ赤になるかとベン図のこと

「東の空が真っ赤に燃えて、朝がきました。」

ここで椋鳩十がなぜ、『真っ赤に燃えて』と書いたのか。
表現の工夫を見つけよう、という課題で、数人の子がこの表現(叙述)に着目した。

「これは、そのあとに大造じいさんがぜったいにしとめてみせるぞ、今日こそはつかまえてみせる」という緊張感のある戦いの場面だから、「赤」という色を使い、「燃えて」という、大造じいさんの気持ちと重なるような情景の描写を入れたと思います。

全員が納得し、筆者は 色のイメージ をうまく使って、大造じいさんの心理まで表現したのだ、ということになった。

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他にも、すがすがしい朝を「青くすんだ空を見上げながら、にっこりとしました」で、青いイメージを使って表現したり、白い羽毛が散る場面では「羽が、白い花弁のように、すんだ空に飛び散りました」
として、戦う赤のイメージを白で終わらせたり、と表現に工夫がみられる。

そこまで話し合ったところで、一人の子が

「なぜ真っ赤に燃えてなのかは、考えてみれば当たり前で、この文が大造じいさん目線だからです」

とノートに書いたのを発表してくれた。

他にも数人、

「大造じいさん目線」という言葉を使って書いた子がいて、賛成してくれた。

これは、1学期に勉強した蜂飼耳さんの「なまえつけてよ」という物語文の中で、〇〇目線というのを学習したため、そのことを覚えていたからだ、という。

「なまえつけてよ」は、地の文にある表現もみな、主人公の春花の目線で書かれていた。
勇太が、プイッと横を向く、と地の文に書かれているけれども、勇太はものすごくやさしい子で、実際にはそうではなく、春花に迷惑をかけないための所作だったわけで、プイッと見えたのは、あくまでも期待していた春花のざんねんな気持ちが『そういうふうに見た』わけで・・・。

そこから、物語文の地の文にも、主人公の目線がふくまれている、というのを習っていた。


だから、『東の空が真っ赤に燃えて』いるように感じ、そう見たのは、たしかに大造じいさんであり、それは大造じいさんの目線からみたわけだから、当然そう見えるわけだ。
作者の椋鳩十さんは、そのときの大造じいさんの心理を、きちんと情景描写とリンクさせている。

表現の魅力を今回はまとめてみたわけだが、多くの子が、
今回の「大造じいさんとガン」と、1学期の「なまえつけてよ」を比較して、

〇作者は情景描写をする地の文に主人公の目線をしのばせることによって、そのときの心理を読者にわかりやすく伝えるとともに、主人公の立場を明らかにすることに成功している。
〇空が青く見えるのも、赤く見えるのも、どちらも主人公の目線と心理(内面の状態)によって見えるもの。

ということを書いた。

また、2学期の「想像力のスイッチを入れよう」と比較して

〇主人公が受けたり持ったりした印象が、情景描写の地の文に書かれている。情景描写は事実を書いているわけではない。事実よりもどちらかというと、「印象」が書かれる。

ということを書いた子もいた。

ここでも、『比較』ということが思考ツールとしてうかびあがってきたわけだ。
2つの物語文、一つは既習のもの、比べるもう一つは現在習っているもの。
これらを比べてみて、ということが、できてくる。
学習とは、つねに、以前ならったことと、今考えていることの『比較』、ともいえるかもしれない。

国語でも、ベン図での学習ができそう、だ。

makka


ちなみに、以下が『黄金の比較原則』だ。

比較ツールの成長段階

戦争とはなにか~やなせたかしの伝記から~

光村図書の国語教科書には、やなせたかしさんの伝記が載せられている。
やなせたかしさんといえば、アンパンマンの作者であり、「手のひらを太陽に」の作詞家としても有名だ。子どもたちにきくと、手塚治虫よりも「やなせたかし」の方が知名度が高い。

「おれ、今でも部屋にでっかいアンパンマンがあるよ」

身体の大きな、背の高い男子が言うと、教室中に笑いが起きた。

「頭にほこりがつもってるけど、本棚からずっとこっち見てる」

本人も笑いながら語っていた。

そのやなせたかしさんの伝記で中心になっているのは戦争のことで、戦争で弟を亡くしたたかしさんは「正義とはなんだろうか」と考え続ける。自分なりの答えを出そうとしてずっと自問して生きている。
たかしさんはあるとき、道で仲良くおにぎりを分け合っている兄と妹を見る。
「おなかが減った妹といっしょに、おにぎりを仲良くわけあって食べている兄を見て、これだ、と思った」
本当の正義とは、おなかがすいている人に、食べ物を分けてあげることだ。
やなせたかしさんは、そこからあんぱんまんの着想を得た。

授業の中では、子どもたちと伝記を読んで、それぞれがそこから自分で考えたこと、生きるヒントをもらったことを文章に書いてみた。すると驚いたことに、こんなふうに書く子がいた。

「やなせさんは戦争で人を殺したと思います」

それがまた、クラスでいちばんよく本を読んでいるような、秀才の女の子だったから、わたしは驚いた。彼女が書いたのであれば、この文面は、よほどよく考えたうえでのものなのだろう。

どういうことか、さらに読み進めて、なるほど、とうなった。

彼女は、教科書の文中の、ある部分が気になったらしい。
それは、戦争について、やなせさんが触れた箇所。
そこには、
「戦争は人を殺すもの」とある。

彼女は、
「あれ?」
と思う。

ふつう、戦争について書く場合、よくあるパターンは、こうじゃないか、と。
「戦争は人がたくさん殺される」

ここがどうしても気になって、考えたようである。
どうしてやなせさんが、殺される、ではなくて、殺す、と書いたか。

さて?どう思われますでしょうか?

あんぱんまんは、顔を食べさせるのが仕事だ。
おなかのへった人に顔を食べさせると、あんぱんまんはもう顔がほとんどなくなってしまい、首から下だけの身体でもって、空を飛んで帰る。
絵本が出版された直後には、苦情がたくさん届いたらしい。
こんなのは偽善でしか無い、と。

ところが、作者のやなせさんは、ひるまなかった。
なぜか。やなせさんが、この主人公に込めた、一途な願いがあったからだ。

たとえば、いじめられている子がいるとする。
その子を救おうと思う。
しかし、そのいじめられた子をかばったことで、逆に今度は自分が標的にされ、攻撃を受けるかもしれない。それでもその攻撃を恐れてはいけない、ひるんではいけない、というのだ。
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なぜ、やなせたかしさんが、あからさまな「自己犠牲」の価値を言うのか。
それは、「いじめられることなんて、たいしたことがない」と心の底から言い切れるからだ。
だれかをかばって本当にだれかを助けようとし、それで誰かが助かるのなら、たとえ自分が、そのとばっちりを受けていじめられてもぜんぜん平気だ。

多くの子は、このことから、

「やなせさんはえらいなあ」

と書く。
立派な人だから、こういうことが書けるのだろう。
ぼくには、わたしには、とてもそんなことはできない、と。


しかし、前述の彼女は、違った。

「やなせさんは人を殺したと思います。戦争で。命令されて」

と書いた。

もうお分かりでしょう。
自分が痛い目に遭うことなんて、人の命を奪うことに比べたら、へっちゃらだ、というのです。
自分が人を殺した。そのことの痛みは、自分がいじめられるなどということよりも、何倍も大きい。
比較にならないくらいの苦しみなんだ。
だれかを救おうと思い、人を殺した。
当時の日本の青年は、みんなこうだったのではないか。
大東亜、アジア共栄圏の繁栄のため。
アジアの友好のため。
悪い欧米諸国をやっつけ、アジアに大きな独立と平和を勝ち取るため。
八紘一宇、本当の世界をここに実現するため。
そのために、やなせさんは、人を殺したのだ、とその子は書いた。
そして実際に、やなせさんは、人を殺したことが、どれだけ深い傷と闇をもたらすか、ということに苦しんだ。「殺すよりも殺された方が、何倍もマシだったと考えた」

彼女は戦後、やなせさんが苦しみぬいた、加害者としての自責の念をあばいた。
そして、あんぱんまんが自己犠牲に立ち、ぜったいに敵を倒さない、ぜったいに命を奪わない、といういかにもクリーンな主人公になった背景に気づいた。

やなせさんの苦しみを知らない人が、かんたんに言うかもしれない。
「あんぱんまんなんて、うすっぺらいヒーローで、あんなきれいごとばかりで成り立つわけがない。この世はきれいごとばかりじゃないんだぜ」

しかし、やなせさんは地獄を見た。地獄を知ったからこそ、あんぱんまんを生み出した。
うすっぺらい、きれいごと、とみるのは、地獄を知らないから、無知だからこその見方だろう。
人の命をうばった者の、そのつらさ、地獄を知ったものが、ようやく呻吟と苦しみの果てに、腹の底から絞り出すように生み出したのが、あんぱんまんなのだ。

・・・とまあ、そんなことを小学生が自分で気づいて、「感想文」に書くなんて、すごいと思いますね。

教科書の文中には「戦争は人を殺すもの」という文があるけど、「戦争は人に殺されるもの」という文は、この伝記には載っていない。彼女はそこに気づいた。そして、やなせさんがなぜ、人を殺すのが戦争と書いたのかを考え、戦争は殺されるから恐ろしいとは書かなかった理由に思い当たった、これがヒントだった、と、教えてくれました。

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【国語科の宿命】5年生の国語もえぐい

教科書に、広島の原爆をテーマにした作品が掲載されている。
8月6日、8月9日、8月15日には国民がみな戦争の悲惨さを思い返し、不戦の誓いを立てる我が国のことである。教科書に、これが掲載されても不思議はない。

ちなみに、今の小学生はおどろくほど、そのあたりの知識がない。
戦争をしていた事実も、5年生になってようやっとのみこめた、という子が多い。
昔にくらべて、戦争を話題にしたドキュメンタリーが放映されなくなった。
そういえば「はだしのゲン」は戦争の醜さを際立たせているというクレームがつき、公共の図書館には置かれなくなってきているらしい。

戦争をテーマにした文芸作品というのはこの世にごまんとある。
ヨーロッパもそうだし、アメリカもそういう作品をたくさん生み出してきた。
わたしが若いころに見た西洋の映画はほとんどが、戦争をテーマにしていたように思う。

『ディア・ハンター』(1978)
『地獄の黙示録』(1979)
『プラトーン』(1986)
『フルメタル・ジャケット』(1987)
『プライベート・ライアン』(1998)

『風と共に去りぬ』だってそうだし、
コッポラも、チャップリンも、
大脱走だって、シンドラーのリストだって、戦争がテーマだ。

今はそういうのを、子どもが見ることがないのかもしれない。
5年生が、本当に、戦争を知らない。

ところで、わたしが戦争を子どもたちに考えさせるために使う写真が、これである。

称名寺


子どもたちは、本当に悩む。
寺の梵鐘が、石である。
これがいったいなぜ戦争と結びつくのか。

石に神が宿っていると考えて、その石をつくと戦争に勝つと思ったのだ、とか。
すごいご利益のある石なんだとか。
戦争に行く人が石に祈ったからだとか。
子どもたちは真剣に考えるが、鐘が金属として回収されたとは思いつかない。

「みんな、たくさん考えを出してもらいましたね。でも、ぜんぶ違います」

ここから、戦争の狂気を考えていく。
ちなみに当時の近衛内閣が命令した「金属類回収令」に厳格にしたがった市町村は、子どものアルミの弁当箱まで回収した。一方で、時の内閣の指示命令にそれほど従わなかった市町村は、大事にしていた『鐘』を隠して出さなかったりもした。

市町村の判断で
〇時の政府の命令が、人々の生活にくいこむように響くか、そうでないか
が決まったようだ。
各市町村の、『自治の気風』が、そうさせたのだろう。

したがって、これは、
自治とは何か、を考えさせる教材にもなっている。

それにしても、この教材もやがて、消え行く運命なのかもしれない。
教科書を変えよう、変えよう、という空気は日増しに増えている。
戦争を忘れよう、忘れよう、という空気も。

しかし、今回の教科書の改訂で、なくなっちゃうかなーと心配していたら、ちゃんと残ったから、文科省もなかなかやるなーと思いました。

【ついに】『ごはん論法』が教室でも!

ごはん論法、という言葉はどれほど一般的か、分からない。
わたしもたまたま姉との会話で教えてもらっただけで、ふだんからニュースもテレビも見ていないから、ちょっと知らなかった。

ちょっと調べると、こんなふうに紹介されている。

ある言葉にAB二通りの意味がある場合、どちらの意味であるかを明らかにせずに、その言葉を使い、Aだと思わせておいて、あとで、都合が悪くなると、AではなくBの意味で使ったのだと居直る論法を「ご飯論法」という。【文春オンライン 池上彰「WEB 悪魔の辞典」】

以下が、いわゆる「ごはん論法」である。
Q「朝ごはんは食べなかったんですか?」
A「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」

Q「何も食べなかったんですね?」
A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので・・」

Q「では、何か食べたんですか?」
A「お尋ねの趣旨が必ずしもわかりませんが、一般論で申し上げますと、朝食を摂る、というのは健康のために大切であります」

Q「いや、一般論を伺っているんじゃないんです。あなたが昨日、朝ごはんを食べたかどうかが、問題なんですよ」
A「ですから・・」

Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。ご飯、白米ですね、それは食べましたか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私の食生活をすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、大臣としての業務に支障をきたしますので」

これをこのまま教材にしたら、子どもにとってはとても学習しやすいと思うが、ときの大臣の答弁のひどさを指摘して作ったものだから、ちょっとまずいかもしれない。

ごはん論法には、2通りの種類がある。
1)意味の縮小ではぐらかす
2)意味の拡大ではぐらかす

実際に起きた国会での答弁がきっかけで作られた『ごはん論法』は、上記のタイプでいえば、縮小タイプである。
ごはん、というキーワードが(白米)も(パン)も含むのに対し、わざと(白米だけということに縮小)して答弁しているのだ。
これは、悪いことをして、それをなんとか隠さなければならないという場合に使用する。

2つめの拡大タイプとしては、こんなのが考えられる。

Q「昨日、ちゃんと診察してもらってきたの?」
A「ああ、病院ね、昨日ちゃんと行ったよ(友達のお見舞いをしただけだけどね)」

Q「悪いところや気になるところ、全部お医者さんに診てもらってきたのね?」
A「全部といわれても、身体のことだから全部ってどこからどこまでか」

Q「診断はなんて言われたの?」
A「診断っていうかどうかちょっと分からないが、お医者さんとは話をしたから(あいさつしただけだけどね)」

Q「いや、きちんと病名を教えてほしいのよ。おじいちゃんが昨日、病院でなんといわれたかが、問題なんですよ」
A「だから、お医者さんの顔をしっかりとみて、ちゃんと話はしてきたって(偶然そこにいた医者にあいさつしただけ)」

Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。お医者さんとはどんな話をしたのですか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私のその時のセリフをすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、もう記憶が定かではありませんので」

これは、病院へ行く、という言葉が、ほぼ「診察を受ける」という意味だとして話をしているのに対し、わざと「お見舞い」もその意味に含めるようにして意味を拡大している。

この「意味の拡大は、ごはん論法の用法としては第二用法ともいうべきものである。
先に述べた縮小タイプなにか悪いことをしちゃったという場合に使われるのに対し、
拡大タイプは、やらねばならない重要なことをしていないという場合に使われることが多い。


なぜこんなことを考えているのかというと、もうすでに、小学校の教室に、この『ごはん論法』(主に第二用法【拡大】)が姿を見せ始めているからだ。

それは、『宿題をしました論法』である!!

Q「宿題をしましたか」
A「宿題はしたよ(算数はしていないけど、音読はやったもんね)」

Q「全部したのですか」
A「全部といわれても、ちゃんと正解したかどうかまでは分からないし、中には分からないものもあったから・・・」

Q「では、なにかやれなかった宿題があったのですか」
A「なんで先生がそれを聞くのかちょっと分からないけど、ぼくは勉強はやっぱり大事だと思っています」

Q「いや、一般論をきいているのではないんです。あなたが昨日、宿題をやったかどうかが問題なんですよ」
A「だから、宿題は大事だし、勉強も大事だということは重々承知をしております」

Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。放課後、うちに帰ってからの学習ですね、それは何と何をやりましたか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私の家での生活ぶりをすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、生徒としてのプライバシーに支障をきたしますので」

これは隠ぺいのタイプとしては、
〇しなければならないことをしていない場合
だから、【第二用法】である。

全国の小学校の先生がた!!
事件ですぞ!!

わたしの勤務校では、
ほぼ、これに近いことが起きたらしいです!
(隣のクラスの先生談)


そのうち、
〇悪いことをして隠ぺいしたい場合
の【第一用法】も出現するかもしれない。


ごはん論法

【漢字の学習】1学期末テストの反省

漢字テストの出来が良くなかったので、振り返り。

①漢字を読めるようにしたい
この1学期、4月当初のテストで前年度からの学習不足がみえている子たちをみてきました。
すると、まず、読めない、ということがある。
漢字を読めなければ、ぜったいに書けませんわね。
なので、漢字を読めるようにしなければならない。

②小テストの言葉だけでなく、さまざまな熟語を覚えさせたい。
小テストは100点を連発していても、大きなテストを抜き打ちでやるとダメ、という子が多い。
なぜかと考えてみたら、小テストと大テストは決定的にちがうことがあった。
小テストは、なにが出るのか事前に知っているのである。
つまり、小テストで100点をとろうとして、小テストに出てくる熟語(のみ)を覚えようとしてしまうのである。結果、その言葉なら書けるが、ちがう熟語になって問題が出てくると、書けない子が多くなってしまう。

③宿題を一律にしたくない
もともと宿題なんて出したくないのがわたしの教師人生のスタートでした。
教師になって最初の2年間は、すっとぼけて本当に宿題を出さなかった。
親からも非難され、まわりの先生たちからも文句を言われたので出すようになってしまった。
そこで出すようになって考えるのは、要するにわたしは、「一律」がいやだったのだ。
だから、一律でなく、子どもたちが自分で考えて、自分で必要だと思えるような学習であれば、それはまったく自由にどんどん進めてほしい。そこで、できるだけ早く、一人ひとりが個別の宿題をするようなシステムを考えた。

まず、大目標を立てた。
学期末に、習得すべき課題の漢字をすらすら書けるようになろう、というのだ。
子どもたちも大賛成である。

つぎに、どんどんやろう、ということにした。
漢字ドリルをやりたい子はどんどんと進めることにした。
小テストはあとまわしで、とにかくどんどん書いて終わらせてしまおう。
終わらせたら、どんどんとテスト、同時に自己チェック。ここで書けない漢字をピックアップ。すると・・・

自分が書けない漢字のみを、漢字練習帳にすることになる。

↑ ↑ ↑ ここが、革命的!はやくこの状態にしたい!


漢字スキルを1冊終わらせるのに、早い子は1か月ほどで仕上げてしまうのではないかな。
そうなると、冬休みまで、残りの3か月は、
『書けない漢字を探して、その字だけをいろんな熟語で書けるように練習する』
という、理想の漢字練習ができるようになる。

甘いだろうか?

でもまあ、やってみよう。試行錯誤が大事だ。

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【第1ステージ】
~8月後半~10月後半くらいまで(2か月くらい)
月曜日と木曜日は先生チェックの日として、授業時間にチェックの時間をつくる。
友達がチェックを受けている間は、下記をどんどんと進めることができる。(もちろんチェックをくぐらないと、次へは進めない)

ドリルの基本の進め方
①音読(漢字の読み、文例の読み、熟語の読み)
②書き順の声を出しながら「大きな文字」を指でなぞる。3回。「指なぞり」
③書き順の声を出しながら「1,1,2,1,2,3,1,2,3,4・・・」と1画目にもどりながら「大きな文字」を指でなぞる。「書き順練習指なぞり」
④書き順の声を出しながら、机の上に書く。3回。
⑤1ミリもはみ出さずに、鉛筆でなぞる。
⑥ていねいに鉛筆ですべてのマスを埋める。
⑦必ず先生のチェックを受ける。
⑧自分のペースで進める。


先生のチェックの方法

なぞりのずれ がなければ合格
とめ、はね、はらい が正確であれば合格
字の小さいものはダメ
字のうすいものはダメ
書き順チェック(ひとつお題を出す⇒目の前で空書きする)
熟語チェック(その漢字のつく熟語を2つ言う)


学習のペースを考えよう

スキルの学習が進んできたら、途中で自分で見直しをさせます。
PDFファイル(印刷用)

声かけ

〇〇くん、漢字できるようになりたい?
じゃあ、家でも進めていかないとね。一気にやろうとすると忘れるのも一瞬だよ。今日はどのくらいやれそう?
すごいなあ。そんなにやれたらたいしたものだ。明日、見せてね!

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【第2ステージ】
10月~12月末まで

ドリルを一通り終了した子から、どんどんと小テストに移る。
(もちろん、これまでのところが終わらない子は第1ステージに取り組む)

★第2ステージの1周目
小テストは5問ずつ行う。上下段、どちらも書いて先生に見せる。
全部正解したら、次に進む。
もし間違えてしまったら、空書きや指書きで覚えなおし、覚えてから直しておく。(赤で書いて直す)
つぎへ進む。

ドリルが1冊分(1周分)終わったら、2周目に入る。
担任はそのために、小テストを印刷しておかねばならない。

★第2ステージの2周目
上段はていねいに書く。
下段は熟語を書く。辞書を使う。
10問すべてやって見せる。
先生の熟語クイズに何も見ないですばやく答える。
指定された熟語が3つ言えなかったら、もう一枚やる。
もし3つともすぐに答えられたら、次へ進む。

★第2ステージの3周目
漢字ドリルの熟語を使ったテストをつくる。(教師はそれを印刷する)
自分のためでもあり、さらには友達のためでもある。
同じように3周目に入った子どうしで、お互いに解きあう。


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さて、漢字が読めないという点をどう克服するか。
国語の授業の開始時刻になったら、最初の5分間で音読を行うことにする。

音読システム

①漢字の音訓のみを1冊まるごと読む⇒時間を計って合格するとつぎへ
②音訓ぬりつぶし音読⇒時間を計って合格するとつぎへ
③熟語音読⇒時間を計って合格するとつぎへ
④熟語読み方ぬりつぶし音読⇒時間を計って合格するとつぎへ
⑤例文音読⇒時間を計って合格するとつぎへ
⑥例文読み方ぬりつぶし音読⇒時間を計って合格するとつぎへ

漢字スキル音読タイム記録用紙

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宿題はどうするか

宿題は基本的には、毎回指示しません。
しかし、大目標に向かってすすんでいますから、時期によって宿題を自分で進めます。
ステージ1の時代は、全員が漢字ドリル本体を進めることです。
宿題帳に書くのではなく、指で書いて、空書きができるように準備をします。それが宿題。

ステージ2の時代が近づいてきたら、授業でチェックをする時間をつくります。
全員が、漢字ドリルをどんどんと空書きし、自己チェックします。
書けた字には、大きな字の上にチェックを付けていきます。
最終的に、すべての漢字の上に、チェックがついているのをめざします。

このころから、宿題を出します。
さて、ようやく、いわゆる漢字ノートの出番です。


自己チェック問題の宿題のやり方

自己チェック問題とは、まだチェックのつけられない、空書きで書けなかった字です。
自己チェックで、書けなかった字だけを、ノートに書いていくのです。
そのノートは、毎週火曜日と金曜日の国語の授業の最初に、先生がチェックをします。
つまり、この漢字の宿題は、火曜日と金曜日だけ提出するのです。
そのかわり、火曜日も3ページ分、金曜日も3ページ分です。
1ページで5文字分。熟語も書きます。

これと同時並行で、2週間に一度、漢字の自己チェックをして、チェックのできる字、つまり空書きで書けた字を増やしていきます。
チェックが増えていくと、だんだんと、全部かけるようになった、という子が出てきます。
そしたら、宿題に書くスタイルを変更します。

熟語宿題のやり方

これまでは、書けなかった字を書いていましたが、つぎの段階では、熟語をたくさん書きだすのです。右ページには熟語を書いて、その下におおきなかっこを書き、そのかっこの中に、熟語の意味を書きます。
さらに、左ページには、右ページにしらべた熟語の例文を書きます。
大人用の漢字辞典を使って学習するとはかどると思います。

最終的には、この 熟語の宿題 ができるステージにくることができれば、かなり漢字に親しんだということがいえるのではないかと思います。

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【5年国語】俳句で日常を~短縮バージョン~

コロナで詰め込みになってるが、仕方がない。
年度内に遅れた分を取り戻す、というのが教員の間では強迫的に義務化している。
でなければ、どんなに叱られるか・・・

通常の仕事は世の中を豊かにするために実行されるものだが、本来の目的を失う場合がある。
叱られないために、苦情を言われないために、というのが第一の目的となってしまうことを、

「文句対抗作業」

という。仕事、という言葉が、作業、という語に成り下がるところがミソだろうか。

で、市教委や保護者、世間一般から叱られないための自衛策として、通常3時間扱いの「俳句」の授業を1時間でやり切るプランを。

1)俳句をいくつか鑑賞する。
2)気が付いたことを見つけて言い合う。

*言葉の順番が入れ替わっている
*季節を感じさせる言葉がある
*擬音や擬声語が使われる
*漢字・片かな・ひらがな をうまく使い分ける

3)生活の中から俳句をつくるための作戦をたてる

*学校生活
*登下校の様子
*家でのくらし
*勉強中、休み時間、給食、そうじ・・・
*自分のこと、友だちのこと、先生のこと、家族のこと、ペットのこと

4)つくりはじめる

5)友達の俳句をきき、「グレードアップ意見」を出しましょう

6)友達から「グレードアップ意見」を聞いて、さらに変えてみましょう

7)クラスでの発表

8)自分の俳句を短冊に書いて掲示する

ここまでで1時間ぎりぎり。

haiku



【5年国語】和語・漢語・外来語

教科書の例文から、和語、漢語、外来語を知る。
どのような語があるか、みる。
それらの区別をしてみる。由来など。
それぞれの語から、受ける感じなどを確認する。

1)教科書の題材から、和語、漢語、外来語をそれぞれ2つずつ見つける。

2)それぞれどんな言葉を見つけたか、友達と比べてみよう。
  同じ語をみつけた場合は、その語に〇をつけよう。

3)気が付いたことを出し合おう。

*和語がたくさんある
*漢語は熟語になっていることが多い。
*外来語はカタカナで書いてあることが多い。

4)班で1つずつ、「和語」「漢語」「外来語」の表に書きましょう(黒板へ)
  みんなで見て、確かめましょう。あっているかな?

*和語と漢語が迷うよ
*あれちがうんじゃないの

5)新聞記事を配る・・・和語以外の言葉、漢語と外来語をみつけよう。

*すごいたくさんある

6)漢語の特徴はなんだろう

*ふだんしゃべる言葉というよりも、書いてあることが多いかな。
*そうだな、読んだり書いたりするときに使う語が多いよね

「和語」は、話す聞く
「漢語」は、読む書く
が得意なのかもしれない。

7)「完成」はどちらだろうか。

*漢語。
*和語だと、「できあがる」。
*漢語よりも和語の方が読みやすいかも。
*そうだね。あまり漢語ばかりだと逆につらくなる。和語もおりまぜたいね。
*だけど和語ばっかりだと、長くなるよ。
*そうか。両方のバランスが読みやすさにつながるのだね。

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【5年生・国語】「満員電車に乗ったので、コロナに感染した」

国語の説明文の学習。
原因と結果とを結び付けて書く課題がある。
たとえば、「前日に雨が降ったので、野球の試合が中止になった」という風な。

5年生ともなると、説明文がだんだんと難しくなってくる。
つまり、筆者が具体例を挙げて説明し、結論を述べるくだりを、『なぜその結論が導かれたのか』と、ていねいに理解できるようになることが求められる。
その「説明文」を論理的に読めるようになるために、5年生のこの時期に、「原因と結果」をむすびつけて説明できるかを確認しよう、というのである。

そこで、いくつかの事例を子どもたちにノートに書いてもらい、発表しあった。

すると、

「満員電車に乗ったので、コロナに感染した」

というふうに発表した子がいた。

毎日テレビを見ていたら、否応なく感染症のことが頭に浮かんでくるのだろう。
また、スーパーに入れば店内放送で「新型コロナ、感染症予防のため、店内の従業員が、マスクを着用しております・・・。お客様におかれましても、予防のため、マスクを着用してのご来店を、できるだけお願いしております。」と流れてくる。
コロナ、コロナ、と毎日耳にタコができるほど聞かされ、脳内にインプットを強いられているのだから、どうしたって浮かんでくるのだろう。

さて、この文章を見て、ある子が

「え、でもそれは原因じゃないでしょ」

と言い出した。その子は、

「免疫が下がったのが原因でしょう」

と言う。

それはなぜかというと、直前に、保健室の養護の先生による感染症の授業があったからで、そのときの説明によれば、感染症にかかるのは、体内の免疫機構が十分に働かないからだと。生活習慣の乱れや疲労、ストレスなどの原因で免疫が下がり、そのためにウイルスに対する防御反応がはたらかなくなるからだ、と習った。

「さっき、木下先生が言ってたじゃん」

そうだ、そうだ、という声があがる。

いや、この文章の中でみれば、原因と結果がすっきりと並んでいるのだし、これはこれでいいのでしょう、という子もいる。

しかし、なにか直前の保健の授業との整合性がとれず、なんだかクラス内がもやもやした空気に包まれてしまった。
もっとも「先生!もやもや!」と手を挙げた子は、(ちなみにうちの教室では今、「もやもや!」を叫ぶのが流行中)

免疫が下がる⇒感染しやすくなる

という情報ならまっすぐに自分の頭にささってきた。
ところが、

満員電車に乗ったので、コロナに感染した。
<原因>--------------------------<結果>

という板書が、どうも気に食わない、というのだ。

だって、満員電車にのったからといって全員かかるわけでもなし、乗ったからかかった、というのは、いささか雑すぎるのではないか、というのだ。

「じゃあさ」

その彼は、口をとがらして言う。

「レストランで感染した人がいたらさ、その人はこういってもいいことになっちゃうよ。たとえば、<ラーメンを食べたので、コロナに感染した>って」

えー・・・?!

もやもやした空気が、教室全体をおおっていく。
わたしは狼狽し、国語の授業がこのあとどうなってしまうのか、と案ずるが、仕方がない。
というよりも、私はいつも狼狽し、どうなってしまうのだろう、とハラハラするのが毎日の日常で、本当を言うと、教室にはいてもいなくてもどっちでもいいのかもしれない。ほとんど、わたしが教師を名乗るのは詐欺である。まったく授業をコントロールできていないからだ。ほぼ毎日。

さて、わたしも混乱しはじめた。

<ラーメンを食べたので、コロナに感染した>は、はたして妥当なのか?

<満員電車に乗ったので、コロナに感染した>という文章は、教室内の8割が納得できる、と答えた。一方、<ラーメンを食べたので、コロナに感染した>という文章は、当初、3割しか納得しなかった。

ところが・・・
この後、情勢が変わっていく。
もやもやを叫ぶ彼の運動が徐々に功を奏して、次第にラーメン派が増えだしたのだ。

「だってさ、両方ともたまたま、じゃん。電車に乗ったのも、レストランに入ったのも」
「ああ、そうかー」

たまたま乗った客車内に感染した人がいて、咳をしたかもしれないので、その満員電車に乗って呼吸をしているうちにウイルスを吸い込んで感染した、ということと、
たまたま入ったレストランに感染した人がいて、咳をしたかもしれなくて、そのレストランでラーメンを食べているうちにウイルスを吸い込んで感染した、ということと、
それほどちがいがなかろう、というのだ。

「そうだなあ。ラーメンを食べたのでコロナに感染もあり、だな」

徐々にみんなが納得して、この文章は正しいことになってしまった。わたしだけ、狼狽している。

最後まで発表したい、というので一応班の全員が発表するまで聞いてみると、その後も論理的に破綻したような文例が次々に子どもの手によって黒板に書かれてしまった。

「ダンスをしたので、コロナに感染した」
「猫を飼ったので、コロナに感染した」
「逆立ちをしたので、コロナに感染した」
「おなかがすいたので、コロナに感染した」

さすがに論理の飛躍だろう、と私が介入したら、

「え、だって<満員電車に乗ったので、コロナに感染した>はいいんでしょう」

と逆襲にあう。

ダンスをして息が荒くなって思わずマスクを外したときに感染したとか、
ネコもコロナに感染する、という新聞記事の切り抜きがあったので可能性があるとか、
逆立ちをして床すれすれに顔を近づけたために埃を吸って感染したとか、
おなかがすいたのでふと立ち寄ってコンビニでおにぎりを買って食べたところ、おそらくその前の客がどうも咳をしていたらしく、レジでおつりのやりとりをしたときに感染したのではないかとか、

そういう説明を立て板に水をながすごとくに流ちょうにぺらぺらと。

わかった、と私はついに叫んだ。

「満員電車に乗ったので、コロナに感染した」というのは、論理飛躍ということにします。だからこれは撤回です!

それでもわたしは許してもらえなかった。

どうもおかしいな、と最初に発言した子が言いはじめると、次々にその賛同者が増えていった。

「前日に雨が降ったので、野球の試合が中止になった」はおかしい、というのだ。

前日に雨が降ったからではない。
もっとていねいに言わなければならない。
みんなで順序を確認していくと、

①前日に雨が降り
②その降雨量がある量を越え
③あいにく水はけの悪いグラウンドで
④あちこちに水たまりがのこり、
⑤その水たまりが前夜のうちに地面に吸い込まれないままであり
⑥親たちがこの状態ではユニフォームが汚れるとクレームをつけ
⑦そのクレームを聞いた主催者も「子どもが風邪をひいてはいけない」と心配をし、
⑧中止をして翌週に試合を延期することも可能だという判断があり
⑨遠征にやってくるはずの他県の選手団にも無事に連絡がとれ
⑩他県の選手団が乗るはずのバスの会社もキャンセル料をとることなく延期を受け入れ
⑪翌週のバスの手配も無事に済み、
⑫予約していた弁当の手配もキャンセルができ、
⑬主催者、選手、バス会社、グラウンドの運営会社いずれにも支障がないことが確認され
⑭翌週の天気予報を確認したところおそらくやれそうだ、という判断をしたために

その結果、野球の試合が中止になっただろう。

ということになった。

「だから、雨が降ったから、というのは、かなり雑な言い方です」

これは、わたしの授業の進め方が悪いのだろう。
原因と結果、ということについて、わたしはもう授業をしたくない。

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【小5国語】なまえつけてよ~認知理論哲学になっていく文学教材~

蜂飼耳さんの「なまえつけてよ」という物語。
授業のねらいは「登場人物どうしの関わりをとらえ、感想を伝え合おう」だ。

以下、授業プラン。

【第1時間目】
かんたんに全体の把握をめあてに音読をした。
その後、
登場人物をおさえて⇒あらすじ確認⇒場面分け

【第2時間目】
主人公「春花」の心情が表れたと思われる叙述に各自で線を引く。
「どこに線を引いたか」+「そこには、どんな心情が現れているといえるか」を合わせて発表。

この時間では、まず第一場面と第二場面の前半まで。
春花がなまえをつける、ということにワクワクしていること、
生まれて初めての体験に、不安も感じながら、それでも嬉しい気持ちでいっぱいなことを把握。

【第3時間目】
前時同様のことを、第二場面の後半で実施。
ここでは、春花以外の主要な人物『勇太』が登場する。
まずは、春花の心情をしらべる。

〇勇太に「すごいね」と言ってほしい。
〇一生懸命に考えている

つぎに、勇太の心情をしらべる。すると、
勇太は顔を上げて、ちらっと春花の方を見た。でも、すぐに目をそらした。
という箇所がある。

これを、多くの子が、「勇太の心情があらわれた」個所として考えた。

〇勇太は、ちょっと興味があったけど、でもてれくさかった。
〇勇太は、ちらっとしか見ていないから、まだ春花さんに対して心を開いていない。

また、こんな箇所もある。
「もう行こう」勇太はぷいっと向きを変えて、歩き出した。

これも、学級の子どもたちはほとんどが、勇太の心情が現れている、と考えて線を引いた。
そして
〇勇太は、まだ慣れていない春花に話しかける勇気がない。
〇勇太は正直、こんな話には興味がない。
〇勇太は人のことなんか気にしないわが道を行くタイプで、おまけに春花に関心なし。

などと感想が出た。
それらをすべて板書すると、勇太の心情が非常に冷酷なものに思えてくる。
勇太は春花を、ちらっとしか見ないし、
話しかけたのに、ぷいっとしてしまうし、
『勇太は空気も何も読めない、イカれた男子だ』(ノート原文ママ)、ということになった。

ところが、ある子が、
「最後に折り紙を渡してくれる勇太が、こんなに冷たいわけがない」
と疑問を呈したのである。

その疑問がでると、クラスのほとんどの子が、迷ってしまった。
たしかに、最後の第四場面でみせる勇太の、ちょっと小粋で乙女心をくすぐる行動は、ちょいとそこらのプレイボーイ顔負けの女殺しテクである。乱暴でガサツかと思った男子が、丁寧に折り紙を折り、名前を付けられず傷心している春花に「なまえつけてよ」。
これは、相当な手練手管であろう。春花が校舎の窓から彼をさがし、グランドでサッカーに興じる勇太をそっと見守る心境になるのも無理はない。

そのことと、イメージがちがいすぎるのですよ。
最初にみせた、いけずでちょっとツンツンした態度と
女の子の気持ちをやさしく汲んであげ、さらに気持ちに寄り添ってアクションを起こした彼の姿と。
整合性がとれない。
どちらが、彼の「真の姿」なのでしょうか。

・・・

まったく、学級が混乱してしまった。

わたし「どうする?わかんなくなったね」
みんな「読み直そう」

もう一度、そのあたりの文章を読み直してみる。
やはり、音読が大事だ。
ゆっくりと読んでいくと、重要な叙述が見つかった。
これで、なにもかもがハッキリする。

「今教えてよ、今知りたい」と陸が早口で言った。
この早口(はやくち)。
作者の蜂飼耳さんが、しっかりとひそませているこの叙述。ここに気づけるかどうか・・・。

この決定的なキーワードに、クラスのある女子が目を付けた。
なぜ、蜂飼さんは、陸に「はやくちで」そういわせたのだろう・・・。
灰色の脳細胞がすばやく点滅し、脳内のシナプスに電気信号を送り始める・・・

教室の中央付近、とある女子の目が光り、姿勢が動いた。
その姿勢の動きと、目の輝きの一瞬を、わたしは見逃さなかった。

「はい、Mさん!なにかひらめいた?」

Mさんがはじかれたように席をたち、堂々と述べた。

「これ、春花を救ってるんだと思います!」

え~・・・ざわざわ・・・

Mさんが説明する。
「勇太は、空気を読んだのだと思います」
シーンとする教室。みんなが固唾をのんで、Mさんの言葉を聴いている。

勇太は、だだをこねるような弟の要求に、春花が困ってしまうのではないかと空気を読んだ。
そして、若い母親が幼児の手をひいて、スーパーのお菓子売り場を去るときのように、
「ほら、いくよ、いくよ、そらそら」とその場を離れようとしたのである。
これは、周囲に機敏に目を配り、心を配っているからこそできる芸当であろう。
Mさんは、だいたい次のようなことを、一生懸命に説明した。

弟が春花に迷惑をかけないように・・・と思った、だからこその、もう行こう、だったと。それから、そのぷいっとというのは、あくまでも春花の目線で言っていること。そういう印象を受けたのはあくまでも春花であって、事実、勇太がぷいっとしたというよりも、勇太に対する期待が大きかった春花の側の、ざんねんな気持ちがそう見させた、ということかと・・・

〇〇目線。

でました。国語の研究授業で何度もお目にかかる、超有名な国語文章読解技法のキーワードです。
つまり、

ぷいっと
ちらっと


これらはすべて、春花の気持ちなのでした。
実際、人間が、ぷいっと横を向く、ということはできません。もし顔を向けた瞬間に、首のあたりから「プイっ」というような、そんなような音がしたら、事実そう書けるかもしれませんが・・・。


なーんだ。
だったら、この表現、勇太の心情を示すところだと思って線をひいちゃったけど、結局は春花の心情だったんだね。

子どもたちの出した結論:(人物の心情をとらえよう)
〇春花は勇太のことを、ガン見しすぎ。(原文ママ)
〇春花は勇太に過大な期待をよせすぎ。(原文ママ)
〇春花目線は強烈すぎて思い込み強すぎ。(原文ママ)
〇春花は自分の目線におぼれてしまって、勇太の本当の心の動きには気づけていない。(原文ママ)

すごいですねえ。
目線に溺れる。
大人でもできないようなブンガク表現を、平気で小学校5年生がノートに書いています。
認知とはなにか。哲学だな、こりゃ。

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「神話」教育、その後。

今の6年生は、1年生で入学したときにすでに「神話」教育を受けた子どもたちです。
だから、いちおう、日本の神話を知っている。
いなばの白うさぎも知っているし、大黒様も知ってる。
大国主命(おおくにぬしのみこと)も知ってる。
教科書に載っているため、みんないちおう、平等に知っている。

で、6年生で科学的に今度は歴史を学んだわけだ。
実は、6年生の2学期でほぼ歴史学習を終える今の時期、もう一度、歴史学習をおさらいする。
「縄文時代」からずーっと、日本の国の歴史を見通してみる学習をする。

その際、日本のいちばん古い状態はどういう状態だったかというのを出し合うと、急に思い出したかのように、「なんか、神さまがぐるぐるかき回して、ぼとっと落ちた土からくにができた」ということを言う子がいる。

これは、学習の成果がきちんと出てきているので、いわゆる日本はイザナギとイザナミの2人の神が天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜて島を造る。『古事記』などでは、その後、さらに多くの島を産むことになっている。

「よく覚えているねえ」

もう忘れている子もほとんどいるなかで、何人かの子は、きちんとこういう大事なことを覚えている。
izanagi
「この漂っている国を修めよ」と命じられた、イザナギ・イザナミの命は天空に架かっている天の浮橋に立って、矛を下ろして、海をかき混ぜてから引き上げました。すると、矛の先から海水がしたたり落ち、島ができました。最初にできたのが淡路島。続けて伊予・讃岐・阿波・土左の四つの顔を持った四国。次に、隠岐。筑紫・豊国・肥国・熊曾の四つの顔を持った九州。壱岐。対馬。佐渡。近畿の大八島。次いで児島半島。小豆島。周防大島。女島。五島列島。男女群島の男島・女島の六島をお生みになりました。これで日本の国土が完成しました。

神武天皇が紀元前700年くらいの人。
それから5代前が、天照大神。
当時の平均年齢は20歳前後と言われているから、おそらくアマテラスの女神は、紀元前800年ごろだろうと推測される。
さらに、その父母である、イザナギ、イザナミのそれぞれの神に関しては、紀元前850年~900年ごろに生きた人物だろうと予想されている。

世界に目を向けると、アーリア人がガンジス川流域に移動し、バラモン教が成立するのが、ちょうどこのころだ。中国では、周、という王朝が幅をきかせていた。
日本では、イザナギ、イザナミのふたりが、いっしょうけんめいにかき混ぜ、かきまわして国をつくっていたが、それより先に実は縄文人が1万年近くも、日本に住んでいたのだから、縄文人は驚いただろうと思う。いきなり社会の共通的な資本である「公益の土地」を、勝手にだれかがかき回し始めたのだから。
縄文人たちも、おちおちクリなど拾っている場合ではなかったろう。

「おおおおお、!地面がゆれる、ゆれるぞォォォ!!気を付けろーー」

縄文人の文化や黒曜石の交易のはなし、あるいはクリなどの栽培痕跡や、大規模集落での祭りのあと、手厚い埋葬のすがた、そして春秋の暦をみわけるための砦や石の塔。
科学的にも進んでいた縄文人の学習をしてきた6年生は、頭の中で、この「神話」との整合性に、どうにも無理を感じてきてしまう。

わたしが、
「いちおう、このころ縄文人が暮らしていたけど、イザナギとイザナミのおふたりの神さまもちょうどこのころ、土地や山なんかをぐーるぐる、かき回しになられたということになるね」
と、解説を入れた。

縄文人たちがお互いの共通的な社会資本である土や水、森、山、空気などとともに暮らしていたところへ、イザナギとイザナミが現れ、土地をかきまわしはじめられた、ということをクラス全体で確認したところ、くすくす、笑いが起きた。

なにごとならんと思っていると、

「いきなりすぎやん。急(きゅう)だって」
「イザナギ、勝手やなぁ」
「やっちゃった感が」
「最初に、かきまぜますよ、がほしい」

と、子どもたちはイザナギとイザナミへ非難の目を向けだしたのだ。

わたしは慌てて神をフォロー。
「でも、やっぱり、神だということになってるわけだし・・・」

・・・ちゅうことになっておる。
どんな話も、この「・・・ちゅうことになっておる」というのをつけて、聞いたほうが良い。

・・・

その先は、もう、宗教の世界。
「信じる」ということだけだ。

事実はなくとも、そう、信じる、ということ。
無神論者の多い日本人にとってみると、かなり難易度が高い取り組みだが・・・。

司馬遼太郎さんの講演で、日本人の苦手な思考として、「信じる」を挙げていた。
「日本人にとっては、神というのは、糸巻のようなものなんです」と、説明していた。

『糸巻のなかの芯は、空洞です。その空洞に、信じるための論理付けとして、神々の説明という糸をずんずんと巻いていく。神というのはこうだ、こんなことをしたんだと、ぐるぐると巻き付けていくと、形ができてくる。中身がなくても、外側からみると、形があるような感じにはなるんです。しかし、肝心の中身はからっぽです。事実ではないのですから』

というようなことで、説明していた。
善悪を離れたうまい説明だな、と当時、感心したことを思い出す。

カレーライスを食べる→敬語だと?

6年生で、「敬語」を学習します。
いわゆる、『尊敬語』とか『けんじょう語』とか、とよばれているものです。

ていねい語とは、「です」「ます」などをつけてていねいにする言葉。
けんじょう語は、自分の方がへりくだることで、相手を尊敬するようにする言葉。
尊敬語は、相手の存在や行動を立派だと尊敬するようにする言葉、です。

よくあるプリントの問題で、次の言葉を敬語にしなさい、というのが出た。

クラスでいっせいに取り組み、みんなで検討する。

問題に、

「おいしいカレーライスを食べる」

というのが出た。

一人の男子が、手をあげて、

「カレーライスを食べた」

と言った。


みんな、シーンとした。
もう一度言ってみて、というと、

「カレーライスを、食・べ・た・・・」

という。

ふだん、やんちゃで口の悪い男の子。
乱暴で、校長先生や教頭先生にもタメぐちだし、口癖は、「やりたくねェ!」であります。
この冬だというのに半ズボンで、いつも靴下をはかず、靴のかかとの部分を、ずっとつぶして履いている。

その彼が、

「食べた」

というので、女子が手を挙げて、

「食べます」

と別の言い方で言ってくれた。
です、ます、をつけているので、これが正解。ていねい語であります。

ところが、やんちゃくんは不服のようで、

「え?食べた、というのは、ていねいだと思う」

と言い張る。

つまり、彼によると、「食べた」は、オレの中では、十分すぎるほどていねいだ、というのです。
ふだんは、「喰った(くった)」だから、食ったを、ていねいにして、食べた、と。これは自分としては、最大に譲歩した形の、ていねいな言葉だ、というわけ。

「おれにとってみれば、最大級にていねいなんだけど。ダメなんか?」

女子は大笑い。

「ダメです。です、とか、ます、をつけたら、ていねい語になるからね。次からそうして」

わたしがいうと、やはりやんちゃくんはまだ不服。

「いやあ、ていねいなんだけどナァ。はらへった、は、おなかがすいた、でしょう? だったら、くった、を、食べた、というのは、ていねいなんだけど」

個人的な感想を認めれば、これは正しい。
ともかく、女子が笑っているので、やんちゃくんもなにかつられて笑いながら、席に座った。

すると、直後に、おずおずと一人の女子が、

「あー、わたし、カレーを食べたいです、にしちゃった」

と白状した。

「だって、おいしいカレーライスでしょ」

いや、これ、アンケートじゃないから。
あなたの正直な気持ちをきいているわけでは・・・。
だってこれ、・・・「敬語」の学習プリントですよ?

女子「だって、4時間目だったしさー。おなかへったから、つい食べたいですって書いちゃった」
男子「いや、敬語なら、へったじゃなくて、おなかがすいた、だろ!」
女子「食べたい・です、って、ちゃんと、です、がついてるからいいじゃん」

給食前の4時間目、学習プリントで、
「おいしいカレーライスを食べる」
という言葉を敬語に直す問題は、してはいかんですネ。

カレー

5年国語光村図書 『なまえつけてよ』その2

★2020年バージョンの記事を追加しました。こちらです。

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★第三場面★
勇太って、こんなところがあるんだ。

Dくん。「こんなところって、どんなところか」

シャイなだけじゃなくて、人にプレゼントするくらい勇気のあるところ。
春花の気持ちを想像して、なぐさめてくれようとしてくれるところ。
ちょっと面白い行動をするところ。

ついでに、わたしから発問した。
春花は、この紙で折った小さな馬に、なんていう名前をつけるだろうか。

アルプス。
岳。
春馬。
春太。
勇太。

今は、子馬のことよりも、すでに勇太のことの方が、春花にとっての大きな関心事に変わってきている。そんな予感をさせながら、物語は終わっている。

最後に、一番大事だと思われる発問をした。
勇太は、この出来事(紙で折った馬を渡す)のあと、春花への関わり方を変えるだろうか。

どちからというと、この話は春花の視点から、語られているから、子どもたちも自然と春花の心境を想像しながら、読み進めていくだろう。ところが、最後に、勇太視点で、再度考え直すことにする。
勇太の視点で書かれた描写は少ないから、その少ない材料をもとにして、勇太の考えを子どもたちに想像してもらうことにした。

子どもたちは、少ない描写を手掛かりに、理由をつけて意見を出した。

〇やはり恥ずかしい気持ちがあるから、変わっていったとしても微妙だと思う。
〇これをきっかけに、春花に対してやさしいことをしてくれる機会が増えると思う。

どちらにしても、子どもたちはこれまでの叙述をもとにして、考えを出し合っていた。

紙の馬

5年国語光村図書 『なまえつけてよ』その1

★2020年バージョンの記事を追加しました。こちらです。

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★第一場面★
「Aくんが、ちょっと不思議な感じと言ったけど、どこかわかる?」
  最初の場面に限定して、問う。
  おばさんと子馬に手をふると、春花は歩きだした。歩きなれた通学路だ。けれど、まるで知らない道を歩いているような気がしてくる。


ここ、気になるよね。
歩きなれた通学路なのに、はじめての気がしてる。
なんでだろう?

発問。(春花の感じた)知らない気がしてくる、というのはどういう感じか。

人生でも初めてのこと。
これまでやったことがない。
どうしたらいいか、わからない感じ。

★第二場面★
次の日の放課後、牧場のさくのそばへ行くと、前の日と同じところに子馬がいた。春花は、子馬をながめながら待った。もしかして、勇太は来ないかもしれないな。
なめらかなたてがみ。真っ黒な目。時間がいつもよりゆっくりと流れていく。

Bくん。「なんで時間がゆっくりなのか」

時間がゆっくり、と作者が書いているけど、本当はどういうことを読者に伝えたいんだろうね。
主人公春花の心の中は、今、どういう状態なんだろう?

目の前の馬に、夢中な感じ。
馬をずっと見ていたい気持ち。
馬ってなんでこんなに目がきれいなんだろう、って思ってる。
馬の気持ちを想像しているところ。

「いいんですー。それなら、しかたないですね。」
春花は、子馬の鼻にふれたまま、明るい声でそう答えた。勇太と陸は、何も言わない。二人とも、こまったような顔をして、春花の方をじっと見ていた。

Cさん。「春花にとっては、すごくざんねんなことなのに、なんで明るい声で答えたのだろう」

もうつけても仕方がない名前を言いたくなかったから。
明るく言わないとなぐさめられてしまうと思ったから。
迷惑をかけたな悪いな、とおばさんに思ってほしくなかったから。
おばさんを責める感じになっちゃいけないと思ったから。
勇太と陸に、落ち込んでいると思われたくなかったから。


ここは、さすが高学年ならでは、の意見がたくさん出てきた。
本当はショックもあるし、なんだ、残念、という感情もあるだろうに、
せめて明るく振舞う、そう見られるようにふるまう、ということが、
高学年のこの子たちにも、ふだんあるのだろう。
同じような体験を持っていたり、想像できたり、するんだろう。

この発問は、かなり子どもたちの発言があった。
ここに、春花と勇太の関係の移り変わりを予感させるテーマが潜んでいると思う。




【4年国語】オノマトペの授業

ガリガリくんのアイスの写真
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ポッキーの写真
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ぷっちんプリンの写真
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この中に、オノマトペが隠れています。
【発問1】どんなオノマトペでしょう。
また、それは何を表したかったのでしょう。
お菓子メーカーの人は、なぜ商品名にオノマトペを使うのでしょうか。




これは、漫画に出てくるオノマトペです。
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【発問2】いったい、何を表したかったのでしょう。
なぜ、漫画では、オノマトペをたくさん使うのでしょうか。

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【発問3】日常生活でどんなときにオノマトペを使いますか。
1)保健室でこんな会話がありました。
自分「おなかが痛いです。」
先生『どんなふうに痛いの?』
自分「       と痛い」

(しくしく、ズキンズキン、ちくちく、ズーン等)

なぜ、どんなふうに、と聞かれたときに、
オノマトペを使ったのでしょう。


2)こんな会話がありました。
料理のおいしさを伝えたい時。
この店のフライドチキンは、ころもが「   」しておいしい。
だけど、あっちの店のはころもが「    」としてまずい。

(さくさく ベターッ、等)

なぜ、料理のおいしさを伝える時に、オノマトペを使ったのでしょう。



【発問4】この写真を見て、漫画のようにオノマトペを入れましょう。

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ノートに自分の考えたオノマトペを入れてみましょう。
また、そのわけを話してみましょう。

『ドキドキ』
演技をする男の人が緊張している様子。

『ハラハラ』
観客が緊張している様子。

オノマトペは、心の状態をあらわすときにも、使います。
日本人に限らず、世界中の言語でオノマトペは使われています。
ほかにもどんなオノマトペがあるのか、探してみましょう。

【5年・国語】大造じいさんで、女子が変わる話

ともかく討論にしたい。
脳が活性化するからだ。
それも、「AかBか」くらいの簡単な。
簡単にするワケは、だれもが議論に参加できるから。

ラーメンかうどんか、どっちが好き?

こういう類の質問になると、子どもたちはどうにも止まらないほど、意見を言おうとする。
「聞いて!聞いて!」という感じ。
これを、授業中にやりたい、と、こういうワケ。


①学習課題はシンプルに
②登場人物と自分との比較をしながら「課題」を見つける

とくに②が大事で、自分たちが考えたくなった問題であればあるほど、意欲が増す。
先生が「考えてみよう」と投げかけたものでも大丈夫だけど、自分たちで
「なんでだ?」となった問題は、とことん考えようとする。


〇ランキングを考える方法

6年生の歴史の授業で、
縄文から弥生への変化ランキングを考える
という授業
をしたことがある。

縄文から弥生への、一番大きな変化といえば、多くの子からは「稲作」が最初に出てくる。
ところがあれこれ討論するうち、一番大きな変化、というところにこだわると、
「うーん、渡来人が来た事、そのこと自体が大きいんじゃないの?」
という子も出てくる。

結局、
・金属器の伝来
・縄文式土器から弥生土器になったこと
・新しいタイプの墓
・集落の設計

たーくさん、意見が出て来て、決めきれない。

しかし、決めきれなくても、その過程の討論がすこぶる面白くて、ためになる。
子どもが「あーあ、おもしろかった」と言う授業になるのでありました。


「大造じいさん」でも、ランキングを決められないかな・・・。
うん、できますね。みなさんご想像の通りです。
「作戦のランキング」が思い浮かびました。
例の作戦について、です。

①ウナギつりばり作戦
②タニシばらまき作戦
③おとり作戦
これで、
「準備がたいへんだった作戦のランキング」を考えましょう。

やってみました。

第一位は、これもまあ大半の子が手を挙げたのですが、やはりタニシばらまき、これでしょう。
なにせ、タニシをどっさりと、つかまえなければならない。
つかまえた大量のタニシを、蓆を編んだ米俵とか何かにぶちこんで保管しておくだけでもそうとう大変だろう、と。
そしてそれを、沼地に運び込んで、どっさりとばらまいておかねばならない。それも数か所に。

第二位は、ウナギつりばり、でした。これも、タニシの中に、ごく少数の罠をしかけるのが、大変そうであります。それも、「釣り針」を仕掛けるのですから。うっかり手に刺してしまいそうです。
おとり作戦は、それほどでもなかろう、と。第三位です。

クラスの38人のネームプレートを黒板にびっしりと貼り付けて、
だれが、どのランキングを支持しているか、明確にします。
これは、明確にすべきです。

「わたしはぜったいに、こう思う!」

と言い切ることに、人間はどうやら興奮を覚えるようであります。
だから、幾種類かのランキングのタイプを黒板に明示して、子どもの名前を全員、貼ります。
すると、がぜん、教室の空気が、いっきに活性化してきます。
おどろくほどの変化です。ふだん仲の良い女の子どうしも、ここはゆずれませんで!という感じで、AちゃんもBちゃんも、同じ意見になりません。

「ええ??Bさん、Aさんと、意見が違うじゃん?」

だって、BさんとAさんは、いつだっていっしょ、トイレもいっしょ、服もおそろい、音楽会で選んだ楽器もいっしょ、ダンス教室もいっしょ、英会話教室もいっしょ、なんでもいっしょなのに。

わたしが心配して聞きますと、

「はい。ちがってもいいでしょう」

と涼しい顔。

「Aさんとわたしは、別の人間ですから。意見がちがって当然です」



こうなってくると、教室のみんながびびるほどの迫力が出てきます。

「わたしは、おとり作戦が1位です。だって、ピューッと口笛ふいたら、大造じいさんの肩に、とまるんですよっ!!あの重そうなガンが、肩にとまるんです。それほどに手なずけるまでに、どれだけのじいさんの涙ぐましい努力があったか・・・」

Bさんの声が、心なしか、ふるえています。

「だから、わたしは、おとりが1位です!鳥さんを手なずけるまでの苦労、これが一番!じいさん、めっちゃ大変だったと思う。なにか文句あります?」

ふだんはBさんとAさんのコンビぶりをからかっている男子たちも、この剣幕の前に、ホワイトのうさぎのようにぷるぷる震えて小さくなっています。

キーン、コーン、カーン、コーン・・・

男子がうさぎになったところで、授業が終わりです。
さあ、明日が楽しみです!

kamo

5年国語光村 なまえつけてよ 授業プラン

★2020年バージョンの記事を追加しました。こちらです。

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あめ玉で時間を取り過ぎたので、この単元は短くやることにした。

小さな、微細な表現から、登場人物の心情を想像する力をつけたい。

本文を一読し、この文章には、次のような表現(印象を示す言葉)が多い事に気が付いた。

〇じっと
〇ぱちりと
〇ふらりと
〇ちらっと
〇ぷいっと
〇ゆらりと
〇さあっと
〇じっと(2回目)
〇そっと

これだ、これだ。
この微細な、ちっぽけな言葉の意味するところを、さぐることにしよう。
春花が勇太をみたときの、『印象を示す言葉』。
この小さな、春花の勝手な思い込みにも等しいような、勇太のしぐさを表す表現をさぐることで、春花の勇太への思いを読み取れるかもしれない。


もう一度、この表現を分類してみると、

〇じっと⇒茶色の子馬が
〇ぱちりと⇒茶色の子馬が
〇ふらりと⇒勇太が
〇ちらっと⇒勇太が
〇ぷいっと⇒勇太が

〇ゆらりと⇒ねこのぽんすけが
〇さあっと⇒風が
〇じっと⇒勇太と陸が

この中でとくに、「勇太」のしぐさ(春花視点によるもの)に焦点を合わせる。


ふらりと
そのときだ。道の角から、ふらりと勇太が現れた。弟の陸を連れている。

これは、地の文であるけれど、ほぼ春花の視点による表現である。
ではなぜ、春花は、「勇太がふらりと現れた」と、感じとったのか。【ふらり】を無くし、「勇太が現れた」という文に直してから比較した。

「道の角から、ふらりと勇太が現れた」を、
「道の角から、勇太が現れた」にすると、勇太はまるで、春花がそこにいることを知っていて、わざわざ、そこに会いに来たようにも見える。

ふらりと、という表現があることで、春花は、勇太が自分のことを意識して来たのではない、と考えていることが分かる。
「勇太が自分を意識しているはずがない」と思うから、【ふらりと】と春花は感じるのだ。


ちらっと
勇太は顔を上げて、ちらっと春花の方を見た。でも、すぐに目をそらした。

これも、地の文である。しかし、内容はほぼ、春花からの視点で書かれている。「ちらっと見たな」と受け取ったのは、春花である。
この、『ちらっと』を、仮に無くして読んでみると・・・

勇太は顔を上げて、春花の方を見た。

となる。

こうなると、勇太が春花の言動を気にして見ていたような雰囲気になる。ちらっとがあることで、「一瞬だけ」という感じがする。
つまり春花はまだこの時点でも、
「勇太は私のことを特に意識していない」
と考えているわけだ。


物語中、春花の勇太に対する心情が、直接どこかに書かれていることはない。だから、こういう微細な表現をのがさず見ることによって、春花の心情を推し量っていこう、というのが、初回の授業であった。


実際、この方法で取り組んでみると、比較的意見を書きやすい。
物語文に苦手意識のある子も、ノートに意見を書くことができていた。





次の時間、物語を3つの場面に分け、それぞれに春花の心情をまとめていった。

微細な表現に着目させ、
〇〇と と書いてあるけど、もしそれがなかったら、△△△・・・っていう感じに聞こえるから、わざと〇〇と、という表現で、春花の勇太に対しての気持ちをくわしく表現したのだと思う。

と、意見が言えるようにしていく。


その後、うちのクラスで出た【印象言葉】の解釈は以下の通りである。

★第二場面★
〇(勇太は)後ろから→わたしのやること(名前つけ)にはあまり興味がないんだな
〇(勇太は)じっと(2回目)見ていた→わたし(春花)のことで、心配をかけたかも。

★第三場面★
〇(勇太が)そっと→内緒でくれた。大事そうに。うれしい。
〇(勇太は)急いで→急がなくてもいいのに。話をしたかったな。

どれも、春花の心情を表すために、必要な表現である。
これらがもし仮に無かったら。
春花にとっての勇太の行動の意味は、まったくちがったものへと変わってしまう。

春花が期待するもの。そして、勇太の実際の行動。

これらの相互関係を、微細な『春花にとっての印象言葉』から、読み解いていく教材だ。

紙の馬

5年国語光村『あめ玉』の授業 終わり

.
さむらいは、なんで寝たふりをしたのか

さむらいは、子どものだだをこねる声で目を覚ました。
そういう解釈が成り立つにも関わらず、クラスの中には、

「もしかしたら、このさむらい、最初から寝たふりしてたんじゃないの」

という懐疑派がいる。

またその一方で、寝たふりという解釈は自然じゃない、と主張する子たちもいる。

「だって、なんでわざわざ、寝たふりするのさ」

というわけだ。


寝たふり派は、そのもっともらしい理由を、どこからか見つけてこなければならない。

読み込んでいくと、冒頭のシーンが浮かび上がる。
舟が出ようとすると、
「おオい、ちょっとまってくれ。」
と、どての向こうから手をふりながら、さむらいがひとり走ってきて、舟にとびこみました。

走ってきたのだから、ぜいぜいと、息を切らしているはず、である。

そこから、急に、寝に入るのはおかしい、というわけだ。

「だから、寝てません」



しかし、これは逆襲されてつぶされた。

「だって、疲れて、逆に眠たくなると思います」

起こされた派は、もういい加減、ねばるのはやめにしなさい、という雰囲気。

「走ってきて疲れて、眠りたくなった。でも子どもに起こされた。これ、子どもたち、言うことを聞きなさい。・・・というわけで、刀ですらり。意味が通る」

たしかに。


ここで討論は終わりかけになった。

私は、教室全体に、「もうおしまいにしようか?」と水を向けた。




その瞬間。



「いや、だからこその寝たふり、なんですよ・・・」




と、低い声がした。

教室の全員が振り返ると、一番後ろの席の、前髪の長いMくんが、久しぶりに挙手している。

そういえば、Mくんも【寝たふり派】だった。

Mくんは、前髪をたくしあげながら、えーーーーっと、と大きな声で言いながら立ち上がった。

さむらいの気持ちになってみます。
あわてて船に飛び込んだ。
間にあって良かった、という気持ちと同時に、子どもの目線が気になったはず。
子ども目線だと、「あのおじちゃん、慌てて来てらぁ。ハァハァ息をして、おかしいの」と、そこですでに侍としてのカッコ良さが消えちゃってる。威厳も無くなってる。恥ずかしい。その母子に合わす顔がない。

『だから、寝たふり、です』

新美南吉は、ちゃんと寝たふりの原因から、物語を書き始めている、というわけだ。
おうい、まってくれ、のくだりは、たしかに物語のはじまりにとって、特に必要な場面でもない。しかしなぜか、さむらいが遅れてくるところから、描かれている。

「船に母子とさむらいが乗っていました。さむらいはうとうとしはじめました。」

で始まればいいものを、わざわざ、新美南吉は、さむらいを滑稽に描いている。息をきらして、

「おうい、まってくれ」

と言わせている。
そう書かねばならなかった理由がある、というわけだ。



まとめ

物語に無駄は無い。





学級としての、最終結論は、なし、である。

起こされた派も、寝たふり派も、共にちがう論があったからこそ、お互いによくよく文章を読み深めることができた。どちらも不正解というわけではない。だからこそ、さらに深く読み込んでいける。もっと奥があるかもしれない。

そこが文学の面白さ、楽しさなのだろう。



授業の振り返りを日記に記した子。

「さいしょは、やさしいサムライだな、というイメージでしかありませんでした。でも、深くみんなで読んでいくうちに、なんだかとても面白いサムライだな、子どもを驚かそうとしたり、恥ずかしくて寝たふりをしたり・・・。偉そうなサムライも、みんなと同じ、ただの人間だと思いました」


林の中の貝の仲間

5年国語光村『あめ玉』の授業 その4

さむらいが起きたとしたら、どこか。

この発問に、あれこれと意見が出る。


しばらくするとひとりの子どもが、
「かあちゃん、飴だまちょうだい。」
と手をさしだしました。


すると、もうひとりの子どもも、
「かあちゃん、あたしにも。」
といいました。


「あたしにちょうだい。」
「あたしにちょうだい。」
 ふたりの子どもは、りょうほうからせがみました。


子どもたちは、ちょうだいよオ、ちょうだいよオ、とだだをこねました。


このいずれか、に落ち着く。
これはどこであっても、間違いということはないから、
どの子も安心して自分の意見を言う。
㋓の意見が多い。何よりも、「だだをこねた」というところが、侍の耳には【五月蠅く】聞こえそうだから。

しかし、ここでまったく別の意見が出る。


最初から、ずーっと寝ていない。つまり、寝たふり。

という意見だ。


㋓派は、「だだをこねた声で起きて、ちょっと不機嫌な感じのところに、さらに子どもがだだをこねているので、こら、だだをこねるんじゃない、という意味で、ちょっと子どもをこらしめてやろう、と思い、すらりと刀を抜いたと思う」

なるほど、つじつまが合う。論理的にも、納得できそうな感じがある。

㋔派は、「そもそも、この船には、ほかに客が乗っていそうな気配が無い。つまり、乗客はこのさむらいと、母子だけであろう。だから、ちょっとさむらいとしては、寝るふりをしてるほか、所在なかったのではないか」
そしてプリントに、
『あれ、客はこの親子だけか。子どもといっしょになっちゃったな。まあ寝たふりでもしていようかな、グーグーグー』
と、さむらいの心境を書いている。


㋓派と㋔派が拮抗したので、それぞれで俳優を決めて、その場面を演じてもらうことにした。

㋓派は、子ども役が上手にだだをこねてうるさくなり、そこでイライラしながらさむらいが「なんだうるさいなあ」と起きるところを演じてくれた。
そこで、刀をすらり、と出す。うまく演じることができて、みんな納得。

㋔派は、船に乗ったときから、「あれ、親子連れか。まあいい。わしは寝たふりでもしていよう」と寝たふりをし、そのままだだをこねるシーンで目を開けて、うむ、わしの出番じゃ」と演じた。
これも刀をすらりと出すまで、うまく演じた。これも納得。

しかし、一点、㋔派に【物言い】がついた。


なんで親子連れだと、寝たふりをしようと思うの?


さきほど、「なんだ、子どもがいる船に乗っちゃったな」と演じた子が、懸命に説明した。
黒ひげの大男。ひげづらのおさむらいが、母と子だけの船に乗る。
そうした場合、すぐそばに同行するような形になったとしても、なかなか打ち解けて話しかける風にはならないだろう、という。
「すぐそばに座っていて、目が合ってもなんか話す雰囲気じゃないと思う。だから寝た」

ところが、このあたりの細かいニュアンスが、女子の数人にツタワラナイ。
「なんで寝たふりなのか、まだ分かんない」


ここで、時間切れ。
子どもたちに聞くと、次回の授業の発問は、
「さむらいは、なんで寝たふりをしたのか」

をするのだそうである。

ヤマブキのつぼみ2


5年国語光村『あめ玉』の授業 その3

.
さむらいは、いねむりをしていたか、していなかったか

これは、立場をはっきりさせる発問だ。

起きていたのなら、子どもが笑ったことも分かっただろう。
寝ていたのなら、子どもが笑ったことは分からないはず。
さむらいが、子どもたちに笑われたかどうか。そのことを、さむらい自身がどう感じているか。
どちらでもない、という答えが出にくい。

子どもたちは、きれいに半分程度に分かれた。

「いねむりをしていた」派の根拠は、
ぽかぽかあたたかいので、そのうちにいねむりをはじめました。
という叙述にある。

だって、いねむりをはじめました、と、明記してあるじゃないか、というのだ。

いねむりをはじめた、と書いた以上、実際に寝たのだろう。
そうとしか考えられない、と主張する。


かたや、「いねむりしていなかった」派は、少し押され気味になりながらも、
いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、

という叙述部分をあげる。

・・・はずの、というところが、ミソだ。

〇〇していたはず、というのは、ほぼ確定していたと思われている事実が、実はそうではなかった、という場合に使われる。
だから、作者である新美南吉自身も、「さむらいはいねむりをはじめた」とつい書いてしまった。だがしかし、そうであった「はず」のさむらいは、実は親子の様子をしっかりと分かっていて、大事な場面ではきちんと目をあけて、観察している。これは、「眠っていたはず」であろうが、実は「眠ってなどいなかった」ということなのだ、という。

いや、子どもが騒いだから起きたんじゃないの、という意見も出た。

なるほど、じゃあ、次に考える【学習問題】は・・・
さむらいが起きたとしたら、いつ起きたのか。

だね。

みんな、自分たちが発案した問題だから、意気揚々と取り組んでいきます。

あめ玉の表紙



5年国語光村『あめ玉』の授業 その2

主発問:『このおさむらいは、やさしいといえるだろうか』

やさしい派は、結局、このおさむらいは、親切を働いたのだから、という。
やさしくない派は、それにしてもやり方があるだろう、という。

結論は、

「このさむらい、本当は優しい人なんだけど、ちょっと馬鹿」

ということになった。


そこで、私が介入する。

「まあ、馬鹿、という即断しないで、もうちょっと深く考えよう」


子どもがいたら、ふつうは刀を抜く前に、声をかけるだろう。
ところが、このさむらいは、かけない。
わざとしたように、無言で刀を抜いて、近づいてくる。
子どもはこわがる。母親もこわがる。
さむらいは、この家族に、命の危険を感じさせる。すぐにも、斬られる、と思わせる。

どうしてか。


うーむ。
考え込む子どもたち。
なぜ、一見、いじわるにも思えるような態度を、さむらいはとったのか。
どうして、子どもをビビらせるような、行動に出たのか?
なぜなんだ・・・。


教科書の最初からずっと見直して、なにかヒントはないか、叙述から探していく。

すると、そもそも、このおさむらいのことを、子どもたちが最初、馬鹿にしていたシーンが浮かび上がる。
黒いひげをはやして、つよそうなさむらいが、こっくりこっくりするので、子どもたちはおかしくて、ふふふと笑いました。
 お母さんは口に指をあてて、
「だまっておいで。」
といいました。さむらいがおこってはたいへんだからです。
 子どもたちはだまりました。

ここが、さむらいと、子どもの関係を物語っている部分です。

ここに、なにか重大なヒントがあるかもしれない、と注目させます。
おさむらいと、子どもの関係・・・。

イラスト図を配ります。
おさむらいは、こっくりこっくり。(ところが片目は半分開いている)
子どもは、笑ってる。
そういう図を配ります。
吹き出しをつくり、そこに子どもたちが登場人物の心中の声を書き入れられるようにしておきます。

つぶやきを書かせると、
子ども「うはは。強そうなのに、寝ちゃったよ」「すごいひげだな。だけど寝ちゃったな」
さむらい「せっかく寝たいのに、なんだか笑い声がするぞ」「おれのひげを笑っているようだな」

と書く。

そこから、このさむらいの性格が見えてくる。

まとめ。
「このさむらいは、ひげのことを笑われたので、子どもをちょっとこわがらせてやろうかな、と思ったかもしれない」

もう一度、さむらいの性格を考えながら、物語を音読してみる。

最初に音読したときと、今読んだときと、読み方が変わったところがある?

「飴玉をだせ、のセリフを、前よりもこわそうに読みました」
「いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、のところで、あれ?いねむりしてたはずなのにな・・・という感じで、意外な感じがするように読みました」

ん?どういうこと?

「このさむらいは、本当は、いねむりはしていなかったかもな、と思ったから」

さあ、二つ目の主発問。
「さむらいは、いねむりをしていたか、していなかったか」

討論開始、です。

amedama

5年国語光村『あめ玉』の授業 その1

.
新美南吉の『あめ玉』を読む。

まずは音読。
 お母さんはおどろきました。いねむりをじゃまされたので、このおさむらいはおこっているのにちがいない、と思いました。
「おとなしくしておいで。」
と、お母さんは子どもたちをなだめました。

全員で呼んでいる時、工夫している子を見つけて

「あ、工夫している子がいる」
と読ませる。
「おとなしくしておいで。」

全員が、お母さんの声になって、さむらいを起こさないような声に変わる。

「いいですねえ!お母さんの雰囲気が出てきました!」と全員をほめる。

つぎ、さむらいの飴玉を出せ、のあと。

お母さんがおそるおそる、飴玉を出す場面を、だれかに実演してもらう。
うまい子にやってもらった後、みんなでやってみる。
恐る恐る、飴玉を出す感じをみんなで味わう。
その後、

 するとさむらいが、すらりと刀をぬいて、お母さんと子どもたちのまえにやってきました。
 お母さんはまっさおになって、子どもたちをかばいました。

のところを、何度か繰り返し、読む。
できるだけ、雰囲気を味わいながら、声の変化を出している子を褒めながら。

そして、

「ちょっと、先生はこのあたりが、納得できないんだけど、どこだか分かりますか?」

と軽く聞いてみる。

これが、ボクシングで言うところの、ジャブ、である。

この後、主となる発問をしたいのだけど、その発問を考える必然性をつくりたいので、ジャブをかましておくわけだ。

すると、子どもから、刀を抜くのが早すぎるわ、と意見が出てくる。

ちっちゃい子が目の前にいるんだから、刀なんて抜いたら怖いだろう。
だから、飴玉をお母さんに声をかけてまず受け取り、子どものいる場所から離れた反対側のへりに持って行って、それから刀を抜けばいいのに、と。
大人なんだから、周囲の安全確認をしろ、というわけだ。

「このおさむらいは、アホです。ちっちゃい子のことをもっと考えなきゃ」

お母さんだって、すっごく怖がっている。そのくらい分かるだろうに・・・。


そこまで引き出しておいてから、ようやく、じゃあ、みんなでこれを考えるか?といって、
主発問:『このおさむらいは、やさしいといえるだろうか』
するとやはり、やさしいはず、という意見の子が多くて、30人いる。
そんなにやさしくない、という意見の子が5人だ。

さて、いよいよここから、討論になる。

あめ玉

【小学校4年国語】ごんぎつね発問一覧

.
1)ごんぎつねを読むとかなしくなるのは、ごんが最後に殺されるから、という理由だろうか。

2)いわしは「投げ込んで」いるのに、栗は「入り口に置いた」のは、なぜだろうか。(見つかると危険なのに、へんだよ?)

2)ごんは盗人狐と思われているのに、それにもかかわらず、何日もの間、兵十に山の栗などを届けたのは、なぜだろうか。(償うとしても、2,3回で十分では?)

3)ごんは盗人狐と思われているのに、それにもかかわらず、かげをふみふみ、兵十の後をつけたのは、なぜだろうか。(ただついていくだけでも危険なのに、かげを踏むくらいまで近寄ったのは何故?)

4)ごんが最後に栗をかためて置いたのは、何を分かってほしかったのだろうか。(ごんがくりを届けたのだとわかってほしいのだとしても、ごんはなんでそれを分かってほしかったのだろう?)

5)ごんぎつねを読むと悲しく感じるのは、読者が何を思うからだろうか。(ごんが殺されたからかわいそう、というだけでなく・・・)



国語だけでなく、社会でも理科でも算数でも、

「〇〇であるのにもかかわらず、△△なのは、どうしてか」

という、特定の条件での常識をくつがえす発問は、

子どもたちが深く考えることを促すと思う。



「授業」は課題をきちんと、「課題であるとして」、「どんな課題かをきちんと明らかにして」見せることを通して、みんなが議論するプラットフォームを作ろうとする営みであろう。

だから、ただの質問ではなく、

「え・・・なんでだろう?そう言われると、不思議だな・・・ここはひとつ、頭をひねってみるか」

と思わせるようなのが、いいと思う。

すっきりとしないものが胸に残るからこそ、もっとこの問題について考えてみよう、と人は思うようになるはずだから。

omijika

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