昔、文科省で教科書何か作っていた、という大学のとある先生が、面白いこと言っていました。
それは、「正解にする力」という言葉で、ちょっと面白いなと思ったのです。
教科書を作ってた位の人だから、これが正解だというのを書いてたわけです。
しかし、正解がこれだと言うのではなく、あることを、自分で環境や条件を整えて、正解にする、と言うわけです。
講演会でその言葉を聞いたとき、面白くて印象に残りました。ちょっと面白いでしょ?
最近、「正しい選択ってなんだろう」と考えることがよくあります。
仕事でも暮らしでも、後から振り返って「あっちを選んでいれば……」と頭によぎる事は、大小はあれど、誰にでもあることだと思います。
そんな時にふと思い出す言葉があります。
「電柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」
昭和の人には何か懐かしい響きに感じるかもしれませんね。
私は最初この言葉を聞いたとき、どちらかと言うと、世の中を呪うような、本当は自分だって誰か人のせいにしたいのにと言うような少し苦しい言葉なのかと思っていました。
しかし、大人になると、このことの見方が変わり、これこそ自由を謳歌するための言葉だと思うようになりました。
このことを、人生で1番深く考えたのは、25 26歳位の時でしょうか。
求めないと言うのは何なんだろうかとずっと考え続けていた時期がありました。
全て自分の責任と言う言葉がきつく感じます。確かにずいぶん極端な言い方です。
私はこの言葉を「全部を自分が背負わなければならないのだ」と言う意味ではなく、「自分で決めたと思える方が、全て解決策が見つかりやすく、次に進みやすい」と解釈して受け取るようになりました。
確かに他の何かのせいや条件のせい環境のせいだと言うふうに思うのはとても簡単なことなのですが、そう思うと何か石🪨につまずくようにして前に体重がかけられないのですね。最初の一歩が踏み出せないことがよくあります。
授業も同じ。指導も同じ。
どんな指導が正解か、どんな授業の流れ方が正解だったのか。
それは人それぞれまたその時次第です。
どんな授業でも「これ子どもの心にきっと響いた」と思えた瞬間があれば、それはもう、その時の子どもたちにとって正解だったのだと思います。
仕方なく、そうさせられたとか、世の流れ、人の流れに、巻き込まれた、というのではないのです。
自分で選んだと考える。
正解を探し続けるよりも、その時自分の目の前にあったものや自分が選んだものを少しずつ本当の意味での正解にしていく。
そんな感覚で授業も楽しめたらいいなと思っています。
ふと、通勤途中の車の窓の外を見ると、既に畑から何か緑色のものが覗いていました。
あぜ道に注意深く見ると、小さなモヤモヤとした緑色の葉っぱらしきものがたくさん伸びていました。
季節はすっかり春の気配なのですね。
植物はきっとここに生えてきたこと、ここに根を下ろしたことについて、色々と言いたい事はあるのかもしれませんが、今から時間をじっくりとかけて、しっかりと根を伸ばして、しっかりと茎を伸ばして、葉を伸ばし、自力でその場に咲いたことの正解を作っていくのだと思いました。
これは人にも言えますね。
私の息子が今年専門学校を卒業して就職しますが、自分らしくこの道を選んだこと、人生の側から自分自身に問われたことに真剣に向き合って、正解を作っていってほしいと思います。

それは、「正解にする力」という言葉で、ちょっと面白いなと思ったのです。
教科書を作ってた位の人だから、これが正解だというのを書いてたわけです。
しかし、正解がこれだと言うのではなく、あることを、自分で環境や条件を整えて、正解にする、と言うわけです。
講演会でその言葉を聞いたとき、面白くて印象に残りました。ちょっと面白いでしょ?
最近、「正しい選択ってなんだろう」と考えることがよくあります。
仕事でも暮らしでも、後から振り返って「あっちを選んでいれば……」と頭によぎる事は、大小はあれど、誰にでもあることだと思います。
そんな時にふと思い出す言葉があります。
「電柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」
昭和の人には何か懐かしい響きに感じるかもしれませんね。
私は最初この言葉を聞いたとき、どちらかと言うと、世の中を呪うような、本当は自分だって誰か人のせいにしたいのにと言うような少し苦しい言葉なのかと思っていました。
しかし、大人になると、このことの見方が変わり、これこそ自由を謳歌するための言葉だと思うようになりました。
このことを、人生で1番深く考えたのは、25 26歳位の時でしょうか。
求めないと言うのは何なんだろうかとずっと考え続けていた時期がありました。
全て自分の責任と言う言葉がきつく感じます。確かにずいぶん極端な言い方です。
私はこの言葉を「全部を自分が背負わなければならないのだ」と言う意味ではなく、「自分で決めたと思える方が、全て解決策が見つかりやすく、次に進みやすい」と解釈して受け取るようになりました。
確かに他の何かのせいや条件のせい環境のせいだと言うふうに思うのはとても簡単なことなのですが、そう思うと何か石🪨につまずくようにして前に体重がかけられないのですね。最初の一歩が踏み出せないことがよくあります。
授業も同じ。指導も同じ。
どんな指導が正解か、どんな授業の流れ方が正解だったのか。
それは人それぞれまたその時次第です。
どんな授業でも「これ子どもの心にきっと響いた」と思えた瞬間があれば、それはもう、その時の子どもたちにとって正解だったのだと思います。
仕方なく、そうさせられたとか、世の流れ、人の流れに、巻き込まれた、というのではないのです。
自分で選んだと考える。
正解を探し続けるよりも、その時自分の目の前にあったものや自分が選んだものを少しずつ本当の意味での正解にしていく。
そんな感覚で授業も楽しめたらいいなと思っています。
ふと、通勤途中の車の窓の外を見ると、既に畑から何か緑色のものが覗いていました。
あぜ道に注意深く見ると、小さなモヤモヤとした緑色の葉っぱらしきものがたくさん伸びていました。
季節はすっかり春の気配なのですね。
植物はきっとここに生えてきたこと、ここに根を下ろしたことについて、色々と言いたい事はあるのかもしれませんが、今から時間をじっくりとかけて、しっかりと根を伸ばして、しっかりと茎を伸ばして、葉を伸ばし、自力でその場に咲いたことの正解を作っていくのだと思いました。
これは人にも言えますね。
私の息子が今年専門学校を卒業して就職しますが、自分らしくこの道を選んだこと、人生の側から自分自身に問われたことに真剣に向き合って、正解を作っていってほしいと思います。














