30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

これからの、新しい概念について

教室にぬいぐるみがあるかどうか

教室にぬいぐるみを置いています。
教室にぬいぐるみを置いていていいのかどうか?
コレ、ずっと実は悩んでるんですよ。

ほんとにこんなの置いていいのってね。
教室はロンパールームじゃないんだから!
・・・と、いつか、誰かの保護者に言われないかな!ってね。不安なんですよ。

実はこれ私の恩師の真似なんです。
私の小学校4年生の時の担任の先生。ずっと教室にくまのぬいぐるみがありました。そしてそれがなぜか多くの子供たちの心の拠り所だったんですよ。
何かあると熊に話しかけたりしてね。
誰かの誕生日になると、そのクマがちゃんと祝ってくれたり。先生の声でしたけどね。


でも、多分これ保護者には受けが悪いです。教室にそんなもの置いといていいわけがないと多くの保護者が思っていると思います。
子供の気持ちが、たるむんじゃないかと言うことで。

くまなんかと遊んでないで、さっさと算数をやるべきだ!

と、誰かのおじいちゃんに怒られそうな気がしています。

私はこれを文科省に手紙を出して、ぬいぐるみ教育はやって良いかどうか聞こうと思ったんですが、正式にダメですって言われたらやめなきゃいけないので手紙を出すのはやめました。

このぬいぐるみの導入には3時間かけてます。
単発で、ぬいぐるみがあるわけではなく、マインドフルネスと言う長い授業プランの中の1つの材料として存在しているのですね。最終的には、自分自身をマネージメントしていくと言う大きな総合発表につながると言う気の長いプランです。これをしないといわゆるキャリアパスポートも書けないですからね。

キャリアパスポートを本気でやろうと思うと、自己マネジメントと言う世界に踏み込まざるを得ず、そのためにぬいぐるみがその最初の段階で必要となるわけです。まぁ、ライナスの毛布、ということです。自分のことをじっと見つめる時に、ライナスは毛布を必要とするのですが、それを日本の小学生だって必要とするわけです。

今度の学習指導要領の改定に見られるように、子供自身が自分の学びを形成していくと言う流れは、この私の提唱する「自己マネジメントぬいぐるみ教育」を推進するものなので、私は非常に安心をしました。

そのうちに、発表する機会もあろうかと思いますが、実は前からこのブログにおいて、かなりその実態について詳細に書いてきました。
ただ、系統的になってないんです。このブログは、その日、その日思いついたことを書いただけなので。

自己マネジメントぬいぐるみ教育と言うのは何者か・・・!

また夏休み位にまとめてみたいと思います。

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学校は時代遅れ

学校に届くクレームの中には、
「学校は時代遅れでアップデートできていない」というのが多いです。

私はクレームと言う言い方は、あまり好きではない。その意見の中には、学校を、より良くしたいんだ。もっとみんなで幸せになりたいと言う根本の思いがあるはずです。

昔のことを否定するのは、案外と気持ちが良かったりします。
これは「逆張りの快感」とも通じる。
論破王とネット界隈で一時期もてはやされたことのあるひろゆき氏が、いよいよ逆張りをしよう、というときにうっすらと笑みを浮かべるのは、この「逆張りの快感」が働いているのでしょう。
これは100人以上人々が集まる集会場で、たった1人で逆張りをするときに、異常な位アドレナリンが出てくるのと同じ原理です。
つまり、昔から大切にされてきた習慣や、常識と呼ばれるものに対して、「実は違うんだ」と、コペルニクス的新発想を持ち込むのは、脳内物質の中にアドレナリンやドーパミンが大量に溢れる行為だと言うことです。まるでプロレスのリングにアントニオ猪木が颯爽と現れ、気分を盛り立てるバックミュージックと観客の大歓声の中で、大きな咆哮を響かせるのと同じだと思います。

なんせ、昔からあったものと言うのは、以前の世代の人たちがそれを大多数認め推進してきたということですから。

「実は太陽が動いてたんじゃなくて、僕たち地球の方が太陽の周りを回ってたんですよ」

とっくの昔のギリシャ人たちは知っていたけど、いつの間にか忘れ去られていた事実を再度このように蒸し返したとき、コペルニクスの脳内にも、とんでもない量のアドレナリンが分泌されたと思います。

学校に寄せられるこうしたコペルニクス的クレームのうちの1つが、

・和式トイレはもう古いから改築せよ

ですね。
実際にほとんど使われていませんから。お金があれば解決します。

さらに、槍玉に挙げられるのが、
・体育館の肋木(ろくぼく)

です。
この不思議な体操用具は、肌触りの良い木の棒がたくさん体育館の壁に沿って並べられているので、よく子どもがよじ登って遊んでいます。
これは、利権がらみでも何でもなく、スウェーデン体操と言う身体発達のための優れた運動用具でありまして、うまく使えば体のほとんどの筋肉を発達させることができます。ただそれをする時間は今の学校には残されていません。それをする時間は皆無だけど、一応道具だけ残ってますと言うのが、学校には割と多いです。私はこの話を聞いて癪に触ったので、体育館に行くとよくこれを使って子どもと遊んでいます。体育の授業の最初の5分とかで。

・黒板はもう古い、電子黒板でデータを残すべき

電子黒板って字が汚くなるんですよね。チョークだとあんなにきれいに書けるのに・・・。そう思っている先生たちが多いような気がします。でもこれもちょっとずつ変わっていってるように思います。

・プールはもう古い。

確かに、プールは命がけの授業で、今の若い先生たちは、プールの授業なんてできたらしたくないと思っていると思います。実際に教師志望でしたが諦めましたと言う若者の中に、もし自分がプールの授業中に子どもを死なせてしまったら取り返しがつかないと語った大学生がいました。教師にならなかった理由は、それだけ、彼はプールの不安だけが理由で教師になるのをやめたのです。


・防犯体制が古い

これもよく聞きますね。
狂った人間が刃物を持って入ってきたらどうするんだと。先生たちがうちの子を守ってくれるのかと。
これについては、教室に【さすまた】があります。
お金があれば解決できるのかなあ?
そうとも思えないですね。究極の対応としたら、時間がかかるけど、世の中の人々がみんな幸せになるしかないかな。

特に食べるのに困るとか、仕事に充実感がないとか、多くの人が幸せだと感じる要素をつぶしてしまうと、自殺率が増えたり、狂ったり自暴自棄になる人が増える気がします。社会全体のシステムの問題ですね。

・PTA活動のあり方

これはもう今、現在進行形で劇的に変わりつつあります。やりたい人が自分で手を挙げてできることだけをやっていこうとする現実的な路線に転換してます。いくら良いことでも、多くの人がそれによって苦しむのであればやらない方がマシということがたくさんあることがわかります。

・掃除のやり方が古い

つまり、電気を使え、ということです。電気掃除機でいいじゃないか、モップでいいじゃないか、なぜ雑巾がけなどさせるのだと言うことのようです。特におうちの方が日本出身でない保護者の場合、なんで子どもにこんな屈辱的なことをさせるのかとお怒りであると聞きました。つまり祖国では掃除と言うのは、身分の低い人がやることのようだったようです。

・宿題が古い

みんなが同じようなプリントを一斉にするというのが、一人ひとりの子どもにマッチしていないのではないかと感じる保護者がいるようです。

さて、クレームを列挙してきました。
いかがでしたか?
私は、どの意見を聞いても、なるほど、どれも一理はあるのだなぁと思えてなりません。やはりコペルニクス的発想と言うのは聞いていても気持ちが良いですね。歴史に対して人類に対して逆張りをしている、このことの【快感】は計り知れません。

こんな話を、とある先生たちとしていたら、かなり盛り上がりました。そこにいた5人の先生のうち、4人の先生は、大賛成。
いや、そりゃそうだよ。そのクレームは正しい。確かにその発想はなかったナ・・・。これまで間違っていたよね。もう今の時代にマッチしていないよ、学校は古いからね、もう古い事はやめなきゃいけないよ、と賛同していたのです。

ところが、たった1人、私と仲の良い若い男性の先生が、不気味に笑ってこういったのですヨ。

「いや、本当にそうなのかなぁ。そう思い込まされているだけかもしれないよ?」

それから、こうも言いました。

「あのう、それって、エビデンスがあるんすか?」

と、言ったのです!


私はそれを聞いて、まさかのアドレナリンが爆発しそうになりました。

な、なんと!
逆張りの逆張り!

これはさらなる過剰なエンドルフィン、アドレナリン、の分泌をもたらします。
逆張りの→逆張りの→逆張りの→逆張りの→・・・と、つづけば続くほど・・・

逆張りが、つながればつながるほど、アドレナリンの量は指数関数的に増えるようです。

・和式のトイレには、実は多数のメリットが存在する
・昔ながらの黒板には、電子黒板にはないメリットが存在する
・肋木は上手に使えば、子どもの身体的機能も超絶高める
・プールの授業は、子供たちの特権であり、最高のリラックスタイム

たったひとつ、その若い先生が、やはりこれは正解だ、と言ったものがありました。それがPTA活動の運営の仕方が改善されたと言う点です。

「やりたい気持ちの人がやりたいと言う気持ちで、やれる時間に集まって、やれることだけを現実的に運営できる方法で支障なく進めていく」

まぁおそらくこれが最も人間的な行為なんでしょうね。持続可能と言う4文字を大事にする、今の時代感に、「やりたい人がやろうとする気持ちでやれるだけやってみる」という考えはマッチしていると思います。




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1・2年生の通知表【廃止】へ

日本のどこかの自治体で、廃止することに決めたそうです。
朗報と思います。
全員に、【頑張ったね】と言ってあげるのが必要で、それ以外に必要な言葉ってあるの?と思うからです。

不登校であっても、ウチで頑張っていたことがあるわけで、朝、新聞を取ってくるだけでも、机の上を片付けただけでも、その子の頑張りがあるわけで、それを認めるのが母性だと思います。
で、低学年は母性が十分に与えられる時代ですわね。

母性と言うのは、かなり誤解を受ける言葉で、今の時代に使うのはなかなか注意が必要です。
母性と言うのは、女性とは違います。性とは異なる概念で、女性にしかないと言うものではありません。男性にももちろんあります。
また逆に父性は女性にもあります。

母性とは何でしょうかね。母なるもの、命を産む者、産み育てるもの、というイメージで、泣いている赤子の全てを受けとめる、と言うイメージでしょう。
受け止めると言うのは受け流すのではなく、しっかりと受容する認めるという意味です。

大丈夫ですよ。あなたに必要なものを与えてあげましょう、安心してこの世に生まれてきてください、安心して育ってください、あなたは何が欲しいのでしょうか?欲しいものが与えられるのですよ。

と赤ちゃんにとっては必要なものが与えられていくのです。

良い声で泣かないと、ミルクがもらえませんよ?そんな泣き方でいいと思ってるんですか?おしっこはちゃんと3時間おきにしましょう。そうでなければ面倒は見ませんよ。
・・・これは母性とは言わないのです。

低学年は母性が必要な時代です。
だから、私は通知表の低学年廃止には大賛成です。
そして、低学年の子は、通知表を誤解しがちです。三角がついていたら、あなたにはそもそもその素質や能力見込みが全くないので完全にアウトです、と宣告されてしまったと言うふうに受け取る親もいます。そして子どもはその三角を親に指差されて叱られるわけです。隣のななちゃんは2重マル◎だったらしいよ?なんであんたは三角なの!

通知表と言うのは、ガンライそういうことをするためのものではないのですが、親や子供自身が誤解してしまうようなツールになり下がってしまっています。なので、いっそのこと廃止するのが正しいのです。

現代の若い人は、評価に弱くなった、と嘆くビジネスパーソンがいます。評価されることを嫌がる、怖がる。
最近、そんな若い人が増えて大変だよと言う記事が、プレジデントとか、軽めのタッチのビジネス雑誌によく掲載されていますよね。

私は若い人だけではないと思う。
世の中、全体が、評価と言うものを取り違えて捉えていると思います。
そのことをここに書くと長くなってしまうので、たった一言で言うのであれば、その子供と共に自己評価をその子がまずは判断し、その自己判断する際のお手伝いをしっかりサポートするのが教師になるべきです。

現状よくあるタイプの通知表は、国語の知識理解が◎とか、算数の思考表現が
とか書いてあり、とても自己評価とは言い難い。

これからの世の中を生きていく時に、必要なのは、自己評価と他者評価との違いを切り分けるリテラシーで、例えばパワハラとか各種ハラスメントや社会的なデマに対して強くなるには、他者評価に対するリテラシーは強くならなければなりません。暴言やデマに対して、あるいはカルト教団の狂った言説に対しては、リテラシーを持たないといけないのです。

その一方で、自己評価に対して各種データを提供し、その自己評価について自信を深めるようにアドバイスサポートすることができれば、それはその他者評価をうまく活用できたと言うリテラシーに発展します。

つまり、この今の現代の世の中を生きていくには、相当の覚悟とスキルとリテラシーが必要になってきたということです。昭和の比では無いのです。せやから、ネット上で噂される伝説も、真偽を見破る能力がなければならんやで。

こんな時代に、昭和の通知表と同じく、◎や◯やだけで、子供や親にその内容を深く伝えられるわけがありません。

誤解をされて当然なのです。

ちなみに、通知表を自分で作っていく自己評価支援スタイルに変えていくならば、低学年からでも、通知表の存在はあると良いと考えます。今の通知表や今の評価スタイルでは、まず低学年からなくしていくのが良いと思います。
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モンシロチョウなんて呼ぶな!

「それ、モンシロチョウだよ」

わかってるって。
図鑑とか、世間一般にはそうなんでしょうよ。

「じゃ、この生き物に名前をつけようよ」

私がそう言うと、教室中に不思議な空気が流れました。
名前をつける?

いや、ゲド戦記ではないです。
影との戦いではないですよ。
千と千尋の物語でもないです。
ただ、子どもは名前をつける権利があると思って・・・。

だって、せっかく、この世に生まれてきたんですから。
そして、この世は不思議なものに、満ちているんですから。

生まれたら、この世の全てに、もうすでに名前がつけられてた、なんてのは、楽しくないですからねえ。

いいんです。モンシロチョウで。
それは、否定しません。
日本では「一般的にモンシロチョウという」で、それはそれとして理解すれば良い。

でも、せっかくこの世に生まれた自分として、この生き物と、真摯に向き合った時に、自分としてはこの子を何と呼ぶか、自分のオリジナルな感性で、決める行為をしたい。

これを、子どもに保障するのは、大人の義務だと思うね。

で、みんなで勝手に名付けました。

ふわふわちょう、ひらひらちょう・・・

「なるほど、最後にやっぱり、ちょうってついた方が良さそう?」

「だって、ちょうだもん」

「そこも変えていいのだとしたら?」

「え?そこも変えて良いの?」

ここからが、面白かったですな。
え?保育園で、そんなのは卒業するべきだって?

その通りです。
保育園で、ちゃんと「この初めて見る生き物に名前をつけよう」が、行われ、保証されてるならね。
横から誰かが、「それはモンシロチョウです!」というのはナシで。

もし、やってないなら、仕方ない、小学校でやるべきでしょうなあ。1人の人間として、尊重されるために。

ちなみに、下の写真は、モンシロチョウではなく、スジグロシロチョウ。

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「人を育てる努力は、結果と比例しない」

先日の日曜日に書いた記事は、「学級経営と言う言葉から離れる」という記事でした。


この記事を読んだ嫁さんが言うには、

「なんか分かったような分からない文」

だと。

「結局、どっちなの?」と尋ねると、

「うん、分からんね」と。

そしたら、今日火曜日になってAERA.netに掲載されたホヤホヤの、鴻上尚史さんの文書が非常によく言ってくれてるのを見つけた。

さすが鴻上尚史さんで、言いたかったことをズバリ書いてくれている。

まとめると、「人を育てる努力は、結果と比例しない」ということです。



鴻上さんは、ある教員の悩みに答えるようにして、アンサーを書いてくれています。やはり劇団を経営してきた人だなあ、と感心しますね。学級経営と同じで、劇団員の生活や恋愛、経済状態までどんなこともひっくるめて、世話をし、相談にのるのが鴻上さんの仕事です。担任も、ほぼ子どもをとりまく全部の世界に関わって世話をします。
悩みを打ち明けた、この先生も、子どもの全てを世話することの意味と価値を問うたのですね。

鴻上さんは、こうも書いてる。

「全てがコントロールできるのなら、全ての責任は自分にある。でも、相手は人間だから、全てをコントロールできないし、コントロールしようとしてはいけない」

私は、鴻上さんのアンサーにとても近いのですが、ほとんど先生には力など無いのでは、というように思ってます。

しかし、この30代の先生を励ますために、このように書かれたのでしょう。
私はそんな鴻上さんの気持ちに、全面的に賛成しますね。

ただ、私は歳をとって、すでにお爺さんの目線で子どもを見ているために、自分に力がなくても、まったく大丈夫だと思うようになりました。なぜなら、子ども自体に力があるからですね。

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「機嫌の良い先生」を保証する

子どもにとって何が1番良いかと考えると、最終的には、機嫌の良い大人がそこにいると言う事のような気がする。

叱らないでもいいですか?

このことの本当の意味の意訳があるならば、それは「機嫌の良い先生でいる」ことの保証、であると思います。

ここまでの話をすると、多くの方は、そんな事は無理だよ、人間だもの機嫌が悪くなるに決まっている、腹を立てないなんて無理な話だ、喜怒哀楽って言うでしょう。怒りっていうのは大事な感情ですよ。

と言うような反応が返ってくる。
最後の一行はとっても大事で、怒りと言うものは本当に大事な感情であります。
その大事な感情を、本当の意味でしっかり捉えていれば、最終的に怒りと言うものは、人間の手から離れるものです。
(この辺のメカニズムについては、本ブログの検索欄で、『怒り』と検索していただければ、数々の記事がご覧になれます)

さて、多くの先生が機嫌が悪くしているのには理由があります。そのほとんどが子どもの状態や子どもの言動に起因しないと言うことが明らかになっています。

なぜなら、多くの先生たちが、体力に余裕があり、気持ちに余裕があり、時間に余裕がある場合には、子どもの言動や反応に対して、上手に対応できるからです。

原因の80%以上は、教師の疲労と言うことになるでしょう。
もちろん、これは、教員だけの問題でなく、日本人の大半の大人の人が、これと同様の状況になっていることでしょう。

疲労と言うのは、休日に少し休めば、あるいは睡眠をしっかりとれば取れると思い込んでいる人が多いと思います。
しかし、これは休養あるいは休憩と呼ばれるものの、ほんの1つの側面にしか過ぎません。
アクティブレストと言う言葉があります。積極的で体を動かしたり、知恵を動かしたり、創造的な活動をすることが、かえって大きな休養になると言うことが、アメリカの心理学会で既に証明されております。

アクティブレストは、疲労困憊した体力を回復させると言う事とは別に、今度は自分の活動に向かうために、心の準備や頭の準備、気持ちの準備と言うものを整えていくための、無理矢理日本語にすれば、休息ではなく「活力活性化」のようなもの。

今このアクティブレストに当たる活力の復帰時間は、小学校の子たちにはほとんどありません。あるとしても、該当する子はほとんど1%にも満たないと思います。100人子どもがいれば、おそらく0.5人以下でしょう。そんな時間が取れるのは。

したがって、政府はこれを子どもたちに保障すべきです。つまり、小学校の授業の時間以外に、子どもたちが自分が学習に向かうための気持ちを準備する上で、やってみたいと思えるような自由な創造的活動の時間、を、与えるのです。これは政府が子どもたちに与えるのです。

そうなると、やはり、土曜日の復活が大切になってきます。あるいは、勉強の時間を削るかですね・・・。え?無理ですか?無理ですね。

では思い切って教員の数を2倍に増やし、土曜日だけの先生を雇ったらどうでしょうか?
やりたい人はたくさんいると思います。現にうちの母親に尋ねてみると、喜んでやりたいそうです。まぁ83歳なので、本気かどうか分かりませんが。
今の日本に豊富に潤沢にある資源としては、老人の活用が社会資本として有効です。そして老人と子どもと言うのは、もともと相性が良いものだと思います。

子どもは優しいので、おばあちゃんにも優しくすると思います。まぁうちの母は少し口うるさいので、どうか分かりませんが・・・

ともかく、子どもたちが疲れていることを、見て見ないふりをすることをやめましょう。不登校の対策はそこからだと思います。子供が疲れていないという幻想にとらわれて、事実を見ないことが原因です。不登校の現象を抜本的に解消するには、学習に向かうための助走時間を作ってあげることです。それを担任がやるのではなく、その地域の優しい大人がやるのです。叱らないで、子どもに接することができる人です。毎朝8時半から10時までは、地元のじいちゃんとばあちゃんが、子どもの自主的、自発的な活動をひたすら見守るわけです。

どなたか、文科省の方が本ブログを見てくださることを祈っています。

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やさしいことをふかく・・・

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

これは、井上ひさしさんの言葉です。

小学校や中学校の、すべての営みがこうあると良いなあ、と思わせる言葉です。
もしかしたら、高校もそうかも。

とくに良いなと思うのは、

やさしいことをふかく

という部分ですな。
易しいことを深く、というのは、思いのほか難しいことです。易しいと一見思われることも、それを本当に真正面に据えて、取り組もうと思えば、なんにしてもなかなかに難しいことであることが多いからで、

すべての授業がこうであるべきだと思いますな。

そんなの簡単!
と、子どもに言わせるようでなければいけないと算数をしていると思いますし、国語の物語を読んでいるときは、あれ?意外と裏の解釈もあるぞ、そっちの方がさらにおもしろそうだ、と言わせたいです。

今、4年生ではごんぎつねを習っておりますが、ただ、狐が死んじゃう話、というだけではなく、作者の新海南吉(『あめ玉』の作者)が、なぜ物語の最後で、兵十にぱったりと火縄銃を落とさせたのか、その心の深い動きまで読み込ませたいと思いますね。

本当なら、昔の国語の教科書5年生に掲載されていた、あめ玉を続けて読ませることで、新美南吉と言う作者が、世の中をどう見ていたのか、考えるきっかけにもできると思いました。

あめ玉では、威厳のあるはずのお侍さんが、実は、普通の人と変わらなく、世間体や体裁、恥ずかしさを感じることがあり、強そうに見えるかもしれないが、実際にはただの弱い普通の人間だ、と言うことになっておりました。

ごんぎつねでも、兵十のことが、狐から見ると、大きな力を持つ存在に書かれていますが、実際にはそうではなく、仲間に神様のおかげだとさとされたら、そうかなぁと半分信じたり、火縄銃を持てば、狐を撃つのですが、すぐにしまった。やるべきではなかったと思うことのできるただの普通の人なのです。


それにしても、井上ひさしさんを、久しぶりに思い出すことができました。
あの、くだらない長編、吉里吉里人の作者だと思うと、あのくだらなさと、今回紹介したこの文章との乖離がすごく印象深いです。しかしまた、井上ひさしが、若い頃に、ひょっこりひょうたん島を書いていたのを知ると、この方の才能の豊かさに、改めてリスペクトの気持ちが湧きます。

もう一度文章を掲載します。

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

何度も味わいたい言葉です。

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いよいよ「叱らない」時代へ

このブログを始めた時、タイトルをどうしようかと思って
「叱らないでもいいですか」とつけた。
これは、初任者としてやはりどうしても遠慮がちにならざるを得ない、という正直な感想をもったためでありました。
「叱る」が前提になっている教育現場。そこで何も知らない初任者が、迂闊にも「叱らないで教師をやります」なーんて口走ったら、校長先生にたっぷりと指導を受けそうだったからであります。

しかし、私は妙な人生遍歴から、人に対して「教える」とか「叱る」とか、「相手をコントロールする」という行為がどうしてもできない精神構造になってしまっておりました。
子どもにも、「ふうん、そう思うんだね。そうかなるほど」というスタンスが基本であり、「早くしなさい」というありふれた声がけすら、どうしても違和感があってできなかったのですね。

いやあ、本当に変な精神状態でした。今から思えば。20代に過ごした環境が浮世離れしてたせいで、「早くしなさい」すら、言えない状態でしたね。
そんな状態ですから、叱る、なんてできそうも無い。また一方で、

「叱らないでもやれるんちゃうか」

という思いがありましたから、思い切ってタイトルを、「叱らないでもいいですか」とした。

そしたら、どうも時代がそうなってきてるみたいで、こんな記事を見つけた。



まさに。
学者の方が文章にすると、こうなるんやなあ、と感心しましたね。私の言いたいことが、ドンピシャに書いてある。

私が叱る、叱らない、ということについてこのブログで書いた記事を探すと、たとえはこんな記事がありました。

すべて、叱らない、という教師の思いに関しての、記事、投稿であります。

もし、「叱らない」に興味を持った先生で、このページをご覧になった先生は、ぜひリンク先の記事も見てみてくださいね。

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怒りの感情は究極の愛

なぜ、怒りの感情が究極の愛と呼べるのかと言うのは、なかなか簡単に説明はできません。
このことを理解するには、まず、人のせいで、というのが、ない、ということを納得する必要があるからです。

誤解しないように釘を刺して書いておくならば、相手に何か伝える場合は、〇〇さん、私はこれがイヤだからこうして欲しい、というのは伝えるのが良いです。〇〇さん、私はこうしたい、こうして欲しい、これはやめて欲しい、約束して欲しいも、アリです。相手には、とことん伝えて要求します。要求しても大丈夫です。また断るのも大切です。

そういうことをふまえた上で、どんなことも、〇〇さんのせい、と言うものは、実際にはないのだ、ありえない、と言うことを理解すると、だんだんに怒りの感情が愛なのだということが理解できてくるとおもいます。

腹が立ったら、感謝することすらあり得る。
宇宙と言うのはそういう風にできている、ということです。

あなたが作り出す宇宙と言うのは、あなたのためだけにあるのですから、宇宙はあなたに対してメッセージを送っていると言うことです。
怒りの感情も、自然界がそれを知らせたいのは、あなた自身に対して、です。

その怒りの感情を、誰かよくわからない第三者に関係があると思うこと自体がおかしいと言うわけです。第三者は全く無関係です。怒りの感情が関係するのは、あなた自身に対してのみです。

〇〇さんのせいでといった瞬間に、第三者がこのストーリーに登場してきてしまいます。でも、本当は無関係なのです。第三者の事なんて、あなたにも宇宙にも関係がありません。怒りの感情は、あなたの内側にだけ存在しています。怒りの感情は、あなただけの大切なものなのです。あなたが心の内で、しっかりと大事に大事に持っていて、心の中で育んだものなのです。それがあなただけの大事な怒りの感情と言うわけです。

もし関係があるとしたら、あなた以外には、宇宙自然界の真理と言うようなものだけでしょう。あなたとこの世界を形作る、この宇宙の成り立ちそのものが、あなたの心の内に生まれたその怒りの感情に関係しているのです。

はっきり言って、他の人には一切無関係です。

でも、普段から人のせいにしている人は、このことを理解できないのです。

このようなことを教室で子供たちと話すと、子供たちはしっかりと理解をします。というか、最初から雰囲気で知っています。怒りの感情の本当の役割や機能に関しては、大人よりも、子供の方が、よく理解しています。だから、幼い子どもに教える必要はありません。アイツのせいで腹が立った、などという虚偽を教える必要はありません。

「悲しいんだね」「うん」で、終わりです。(くれぐれも、コレ、泣き寝入りとかじゃ、無いからね!)

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スポーツの勝敗・序列について

サッカーのコーチが、「今の子どもは、勝利に対する熱が足りない」と言った件についての続きです。 15年ほど前でしょうか。 マスコミにこんな言説が広まりました。
小学校では手をつないでゴールをする運動会が行われている。
これは由々しき問題だとして、大きなパッシングを受けました。特にゆとり教育を批判する意味合いでよく使われました。 この社会は、競争が当然で、全て序列と競争で成り立っているのだから、こんなごまかしで子供に嘘を教えてはいけない。 という批判が殺到しました。

 後に、これはあるライターがゆとり教育とはこういうもの、という批判の意味を込めて書いた創作、いわば都市伝説だったことがわかったのですが、あたかも事実であるかのように広まりました。そして同時に、やはり今の子供には、気力がないということが、手つなぎゴールへの批判とともに、問題視されたのです。

 ゆとり教育のイメージが手つなぎゴールであるというのは、非常に示唆的で、多くの意味を含んでいます。
 ゆとり教育に対して、ガツガツと勝利を目指さない、のんびりとしている、他を打ち負かそうとする意欲が育たない、というようなイメージを持っている人がいたのだと思います。そこから運動会の手つなぎゴール、という神話が生まれたのでしょう。

 しかし、いわゆるゆとり教育は、もう何年も前に終了しています。もし、先日の少年サッカーのコーチが言うように、気力がない、ということが、ゆとり教育の問題なのだとしたら、辻褄が合いません。とっくのとうにゆとり教育を脱した今の日本の子どもたちは、勝利に貪欲であるはずです。

 また、ゆとり教育の本質は、いわゆる競争を諦めたと言うようなものとは全く違います。どちらかと言うと、人は千差万別なのですから、勝てない競技に無理に参加するのではなく、その子の強みをよりよく生かそうとするのが、ゆとり教育の本質でした。

 したがって、子どもたちが今、ガツガツと勝利を目指さないことは、別にゆとり教育とは一切関係がないのです。これが原因だったのか!と、ゆとり教育を批判したところで、現状は変わらないわけです。ガツガツと勝利を目指す感じが薄くなってしまった子どもたち。彼らのの世界観は、もう変わらないわけです。

 では、なぜ、子供たちは、ガツガツとしなくなってしまったのでしょう。 私はおそらく、スポーツと言うものは、もともと適度な遊び感覚であったものだろうと思います。だから、そこでどんなふうに工夫すれば、どんなふうに体を使えば、作戦を立てれば、点数が取れるのか、勝利できるのか、そのこと自体が遊びであり、楽しいものであったのだろうと思います。

 ところが、努力の好きな人が、勝利だけを目的にするようになってしまいました。いかに努力し、勝利したか。そのこと自体が目的化してしまったのです。もともと、遊びの領域に近かったスポーツは、その性格を変質させ、努力して、勝利を得ると言う仕事に近いような感覚のものになってしまったのでしょう。その結果、勝利しなければ意味がない、勝利以外に、価値は一切ないとする極端な考えが生まれました。 おそらく現代社会は、そのことに対してかなり疲れてしまったのではないでしょうか。

 大谷選手や藤井名人を見ていると、遊びの領域に入っているかのようです。もう既に芸術だと言うわけです。一切の手抜きがない見事な芸術に昇華しています。だから、多くの人に感動を与えるのでしょう。 大谷選手や藤井名人が、もし勝利だけを目的にしているのだとしたら、自分が強いことをもっともっと誇示するでしょうし、逆に、自分のように好成績を残せない選手のことを馬鹿にしたり、チームの同僚を責めたり、あるいはタイトルを取った途端、燃え尽きたりする可能性もあったでしょう。ところがそうはなりません。彼らは遊びや芸術の領域で生きているからです。

 ゆとり教育も、本質的には、遊びや芸術の世界観に近いと思います。資質や能力の違いを認めるのです。人は、個々にその能力や資質が異なります。そこを無視して、到底勝てない競争を無理強いする世界観とは違います。
これは、もともとは、日本人が伝統的に得意としてきた分野です。
日本人は、昔から、伝統的に、ガツガツと努力をして勝利を得ようと言う雰囲気を持ってはいませんでした。
こう考えると、今の子供たちは、もともとの日本人の気質に還ってきている気がします。

江戸時代は、努力が尊ばれる雰囲気はなく、むしろ人々は「遊ぶ」ことを尊びました。遊びこそ、教養のある人や余裕のある人にしかできない、高尚で粋なものとされていました。庶民の識字率も高く、浮世絵を買ったり、お芝居に行ったりするなど、文化的に非常に豊かな時代を享受していたのです。
ガツガツと勝利を目指すことの少ない今の子どもたち。無駄な努力を繰り返して、人生を浪費してしまうのではなく、より良くより豊かな生き方を志向しているという見方もできるでしょう。 遊びは脳の栄養源であり、ヒトは努力よりずっと遊びを必要とする生き物だそうです。
生きるために必要でないことをきちんとやれるかどうか、ということが教養の深さや精神の豊かさを示しているのだとすれば、勝利至上主義のような、勝利という結果をことさら注目する文化は、今の子どもたちが徐々に変えていくことになるでしょう。
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スポーツに対する姿勢の変化

とある知人。休日は少年サッカーのコーチをしている。時折、お話しすることがあり、先日はちょっとボヤいていらしたので、そのことを書く。

彼は、「今の子は気力が無い」と言う。
勝っても負けても、サバサバしている、と。
コーチとしては、少しでも技量が身につけばやる気になるかと思って、奮戦努力している。どんな子でもレギュラーになれる、目指せる、と常日頃から語りかけ、未熟な子には特別にフェイントのコツや、パスコースのこと、ボールのタッチの仕方など、熱心に教えているらしい。
しかし、なんとなく、今の子は勝利に対する情熱や飢えが無いのだそうだ。

「勝利をあまり喜ばないんですわ。こっちはガッツポーズで喜びを噛み締めているのに・・・。なんででしょうね?」

私は、そうですか、と聞く。
学校では、休み時間のドッチボールとか結構燃えているけど・・・。どうなんだろう?

確かに、今の子は気力が無いと、よく言われる。しかしふだん接している子どもをみても、充分に気力はあると思うし、それがスポーツに限ってのことなのか?・・・よく分からない。

ただ、予感でしか無いけれど、あまり子どもたちが「勝利」を目標にしていない、と思うときがある。
目標というか、勝利を得ようとはあまり思っていなさそうである。
社会的に活躍できたか、トーナメントで何位になったとか、なんかそういうモノを目指す世界とは違う、目標意識が少し、これまでとはズレ始めた時代がきているのかもしれない。

つまり、傍目から見てわかるものでなく、外見でどうというものでなく、もしかしたら、いわゆる「内発的動機」と呼ばれるような、自身の中の目標を重視するようになってきたのかも。

ドジャースの大谷選手は、賞やトロフィーや称号や年俸の額が動機ではない、という感じがする。彼などは、ズバリ、内発的動機によって、高みを目指している。だから、マスコミの評判も気にしないし、チームのせいにもしないし、他人の考えの及ばない動機で動いているように見える。

将棋の藤井聡太さんも同じ匂いがする。勝つとか負けるとかよりも、美しい手を打ちたい、とこだわって、詰みを勝ち取るまでの手順をとことん考え抜く。
もう勝利したも同然なのに、あえて苦しいほどに頭脳を使う。常人のレベルを超えた芸術を目標にしてるから、最後まで徹底してこだわる。とうていワレワレには理解できない世界だ。

どうやらここ最近、勝負、という世界で、新しい価値観が生まれているらしい。大谷選手しかり、藤井聡太さんしかり。
これは、子どもたちのスポーツの世界についても言える。子どもが変わったと言うよりも、社会の全体の雰囲気が変わってきているらしい。その価値観の変化が、どうやら最近になって、子どもたちの世界にも及んでいるのではないかと思われる。

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アナ雪を50回見た子の抽象思考とは

時間の無駄を重視する、というのが、Z世代の特質らしいです。
コストパフォーマンス、という言葉は、資本主義社会の中で、よく言われたり使われたりしますね。
かけたエネルギーに見合うだけのリターンが得られたのか、資本主義は常に考えるのです。
今は、どちらかというと、タイパ、らしいですね。タイムパフォーマンス。略して、タイパ、です。
時間を節約したい、というのが、あらゆる行動指針の先に来る、とのこと。
余計なことは時短で切り抜けて、自分が自由になる時間をいかに生み出すか。

それで、今の若い世代は、動画を早送りして見るそうです。
これを、「そんなの、作品を味わえないじゃんか」と捉えるのは、古い世代だからで、若い世代は、それを見るのが目的ではないため、早送りでまったく問題ない。

何のために時短するのかというと、他の目的に時間を使うため。

Z世代は、とにかく、誰かのために、犠牲にはなりたくない。誰かの計算で、動くのはイヤなのですね。
あくまでも、自身の主体的な意図や計画のもと行動したい。だから、見たくもない動画など、早送りするのに限るのです。友達と会話を合わせるために見る動画なんて意味ない。本心で見たいわけではない動画の視聴であれば、早送りで充分。

そうではなく、本当に自分が見たいと思う作品については、ぜったいに早送りはしないそうですよ。

あくまでも、主体性を持つことに、こだわりたい。これが、Z世代の真骨頂!

いつも動画を早送りするという、我がクラスのSくん。
彼は、アナ雪を、一秒たりとも早送りせずに、姉と共に50回以上見たそうです。

そして、なんでそんなに、50回も見たの?

と聞かれ、

「面白いから」
「いろいろ見てなかった部分とか、気がついてなくて知らなかった部分もあるから」

と言ってました。
50回、早送り無しで見ても、まだ分からない、というのです。
どうでしょうか。
この子は、作品の本当の味わい方を、知っているような気がします。

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○○のせい?

昔、SMAPが解散するときに、子ども(当時は6年制の担任をしていた)が聞いてきた。

「ねえ先生、SMAPって香取慎吾のせいで解散するんでしょ?」

わたしは、

「だけじゃないでしょ」

と言って、忙しくプリントの整理などしていました。

彼女はジャニーズ大好き少女でありまして、どちらかというとSMAPが解散したり、いろいろと大人が要らんもめごとをしていたりするのを否定的に感じているようでした。

大体、大人がなにか問題を起こすことが多いのであって、わたしたちが楽しんでいる現状を壊さないでほしい、というように子どもは考えるものですから。

香取慎吾のせい、というように、だれかのせいにしたくなりますよね。
みんな、信じられない現象を目にすると、いったいなんのせいなのか、
だれのせいなのか、と、

〇〇のせい

というふうにしたくなります。

ところが、SMAPの解散については、理由がたくさんありまして・・・。

これだ、というふうに、一つに決めきれないのです。
香取君のせいだ、というふうなことを書いた芸能誌やWEBの記事があり、それで多くの人がそう思うのかもしれませんが、木村君のせいだ、というふうに書くライターさんもいるし、事務所のせいだ、と書くライターもいます。

ライターさんは、それぞれの芸能誌やゴシップ誌へ記事を取り上げてもらうのですが、ありきたりの記事では受けません。ですから、できるだけ新しい観方で書きますし、それが多少なりとも筋が通っているようにさえ見えればよいのです。
ライターさんも商売ですから、〇〇のせい、というふうにスッキリ書きたくなります。でも、それは書いた記事であり、見せるための記事ですし、記事として書いていますから、事実とは次元の違うものですよね。

事実は、SMAPさんしか分かりませんし、実はSMAPさんの中でも意見が分かれます。100のうち、10くらいはおれのせいかな、と各自で思うかもしれませんし、事務所だって100のうちのいくらかは責任あるかな、と思っているかもしれません。

「太陽があまりにも黄色かったから」

という有名なセリフがありますが、なんと人を殺したのは、太陽の色のせいだ、という人もいるのですからね。
〇〇のせいだ、というふうな言質は、実はあまり、意味が無いのです。

しかし、わたしは、香取君のせいだ、という意見に賛成です。100のうち、たったの2か3くらいですが。
のこりの97,8は、マスコミのせい、あるいは視聴者のせいなのかもしれないし、もっというと、説得できなかった和田アキ子さんのせいなのかもしれません。アッコさんが、きちんと説得さえできていたら、解散にはならなかったのですからナ。

しかしアッコさんのせいだ、というライターは一人もいません。理由は明らかで、その記事をデスクがはじくだろうからネ。
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都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう認知バイアス

その日はたまたまいろいろな偶然が重なってわたしは空き時間をGETした。
半分浮かれながら、トイレの

個室に入った

と想像してください。

まだ、あれやこれやが終わっていない状態です。
そのとき、ふいに、職員用のトイレの入り口の扉がひらく音がしました。
わたしは、おかしい、とまゆをひそめた。
だって、今の時間、空いているのは校内には、わたし一人しかいないはず。
校長は1年生の教室へ、教頭は2年生の教室に行っているはずで、それらは別の棟だ。
わざわざこんなところに来る先生はいない・・・。事務の先生は女性だし。

すると、甲高い子どもの声で、
「あ、だれかいますか?」
と声がしたのだ。

わたしは意外に思いながら、なにか子どもが間違って入っちゃったのかな、と思った。
子どもは入らないようになっている職員用トイレだ。子どもたちはふつう、入らない。しかし、たまにどうしても、という子がいて緊急の場合に入るのかもしれない。
「それにしても」
とわたしはなお、不思議に思う。
この職員室のトイレは、子どもたちの教室からはちょっと離れている。
わざわざ、こっちまで来ないだろう・・・おかしいな・・・。

わたしの勤務校の職員用男子トイレは申し訳ないほどのスペースしかなく、個室は1つのみ。
幼い声がつづいた。
「あの、ぼく、うんちしたいんですけど」

それは非常に幼い感じの、まだあどけなく、かわいらしい声だった。
要するに、1年生か、2年生の子の雰囲気である。

「入っている方、どうですか?出てこれますか?」

わたしはさらに不思議になり、同時に緊張してきた。
なぜなら、通常、1年生とか2年生とかの子が、一人きりで、こんなところに来るケースは無いと思われたからだ。なにか、わたしの想像を超える出来事が発生している!
いったい、なにが起きているのか・・・!!!

扉の向こう側から、かわいらしいひよこのような声がつづく。

「あの、すみません。ぼくの方ですが、うんちが出るまで、もうあまり我慢できないです」

わたしは依然、便座に座りながら、もはや事情は分からないが、なにかの危機が迫っていることをここでようやく察した。この子がなぜここにきたかを推測している場合ではない!
のんきに「なんでこんな子が?・・・いったなぜ、ここにいるんだろう?」などと、明智小五郎のように推理なんかしてる場合じゃなかった!

それよりも、この子は、うんちをしたがっている!

個室の外で、声がつづく。
「我慢はしているのですが、限界が近いです」

頭の中に、レッドの回転灯が光り始めた。

「この子、もらすかもしれぬ!」

もはや猶予はない。
わたしはおそらく本能から、扉越しにその子に話しかけた。

「え、ええっと、うんちをしにきたのね?」
「はい。そうです。うんちです」

わたしはなぜか危機に瀕した場合に、急に冷静になる、あの例の『正常性バイアス』にかかっていたのだろう。頭の中で、別のことを考え始めた。
それは、

「ほお、1年生のようであるが、敬語の使い方が合っているじゃないか。国語の力はありそうだ」

という、教員のくだらない評価癖です。
正常性バイアスとは、何らかの異常事態に直面した際に、
「自分だけは大丈夫」
「なんとかなるだろう」
「そんなこと起こるわけがない」
「いまの状況は正常な範囲内のことだ」

と判断して、都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう認知バイアスのことであります。
わたしは、扉の向こう側に、敬語でていねいに「自分の便意」を伝えてくれる少年がいることを、「いまの状況は正常な範囲内のことだ」と、正常性バイアスにかかって思ってしまったのです。

おまけに、その子は、こうも言ってくれた。

「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます」

そのとたん、わたしは非常に愉快な気分になることができた。
ちゃんと、こちらの事情を汲んでくれたではないか。
そして、1分あれば、これからわたしは紙で拭いてズボンをたくしあげ、タンクの横のレバーで流し、立ち上がることができるだろう。
そう思ったからである。

「おお、いい子じゃあないか! ちゃんと、時間を教えてくれるところも気が利いている。そして、最後まで敬語を忘れないところをみると、なかなかのしつけを受けた子らしいな。ふむふむ。出たら、よく我慢してくれたね、と頭をなでてあげよう」(←やめろ)

しかしそれは一瞬でありました。
その子は、セリフをこう続けたからである。

「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます・・・(5秒の間)・・・ああ、でもやっぱり、のっぴきならないようです・・・だめかも。もう出ちゃう」

しかし、わたしはまだ、正常性バイアスにとらわれていたようだ。
その言葉、そのセリフを聴いたとき、わたしは
尻を拭く以前に、あごに手をあてて考え込み、
「のっぴきならない、という言葉は1年生で果たして使えるものだろうか・・・彼は、1年生でこの言葉の使い方をしっかり理解してスキルとして身につけている。まったく、たいしたものだ・・・。果たして同学年で調査した場合、何人の児童が『のっぴきならない』の意味を理解しているだろうか。おそらくクラスに2人もいまい。この子の国語のセンス、そして語彙の豊富さを、担任にぜひ伝えてあげたい」
と、しばらくの間、ぼうっとしながら考えたからであります。

最後にその子が「いいんですか、もう、出ちゃいますよ」と言った瞬間と、わたしが大急ぎでズボンをたくしあげて個室の扉を開けたタイミングはほぼ同時でありました。

その子は苦しそうな息のもとでわたしを見上げ、

「ああ、6年生の先生でしたか」

と最後まで丁寧語を忘れないのでありました。

そして彼はわたしと入れちがいに個室に入り、どうやらちゃんと無事にコトを済ませたようで、わたしはようやくホッとして廊下に出ました。

廊下に出てしばらく進むと、体育館へのびる通路の手前に養護教諭の女性の先生がいらした。

女の先生「あ、Sくんがトイレに入るの見ましたか?」

これでようやく合点した。
彼は校内を自由に闊歩して回っているSくんで、たまたまこちらに来たので、ついでにトイレに入ったようだった。

それにしても、こうやって扉の外から、「いいですか。もれそうなんですが」と、家族以外の他人から、何度もくりかえし話しかけられる経験も、人生に何度もない気がする。
貴重な体験であった、としめくくりたい。
わたしが正常性バイアスにとらわれて、その子の便意を限界に追い込んだことについては、大いに反省している。二度とこのようなことがないようにしたい。今回のことは、なんとか水に流してほしい。

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『叱らないでもいいですか2022』スタート!

『叱らない』を始め、はや13年目に突入しました。
はっきりと「あ、叱らないでもよさそうやな。よし、それでやってみよう」と思ったのが3年目でしたから、そこから数えて、ということです。

調べてみたら、

2010年05月10日に、

「叱らないですね、先生は」
という記事がありました。

どうも、そのころから、のようです。
自分の中で、自分として大切にしたいことだったのでしょう。
そこから、基本的にわたしは、「叱らない」先生になりました。


今年、学年主任になりまして。
4月1日に、学年のチームになった先生たち4人とともに、最初の会合を開きました。
学年会ですね。
そこでわたしは、

「どうだろうか。基本的には叱らないでいきたいんだけど」

と、丁寧にちょっと自分の意図を話しました。

そうすると、やはりまじめな先生たちなので、
「いやでも、やはり叱る場面はあろうかと思いますが」
と言います。
当然でしょうね。これまで、これ以外の反応を返した先生は1人しかいません。

わたしは
「そうですね、なので、『基本的に』ということなら、どうでしょうか」
というと、

これがびっくりなんですが、そこにいた全員が、

「はい。そうしましょう」
というのですよ!!!!



これはわたしにとっては革命的な日でしたね。
もっと叩かれるか、意見が出てきて紛糾するかと思った。

もちろん、人を傷つけたり、いじめが起きたりすれば、これは「厳しく」話をするし、子どもにも話をさせ、詰めていくときもあります。決して人の道は踏み外すな!という感じでしょうか。

しかし、
〇宿題を忘れた
〇掃除なのに適当にやっていた
〇授業中に関係のない会話をした

くらいで、叱ることはしません。

学校教育は大きく2つのやり方があります。
「叱る」教育と、「叱らない」教育です。
そのうち、わたしがとるのは、「叱らない」教育だ、ということです。

「・・・↑という感じで進めたいんだけどね。どうでしょうか。先生方の忌憚のない意見を聞かせてください。年度の初めだからこそ、もとのところを確認して進めたいのです」

みなさん

「基本、叱らないでいきましょう」

だって。

どうなってんの?


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修学旅行ですれ違う高校生との距離感に悩む

先日、修学旅行に行った。
東京に行けなかったので、愛知県内だ。
ちょこっと足を延ばして犬山城とか、岐阜の長良川とか、静岡の浜名湖、なんていう案も出た。
コロナがいちばん猛威を振るっていた夏の間に決めなくてはならなかったため、おとなしく県内旅行になった。

ところで、修学旅行で訪れた、とある観光地での出来事。
わたしたち小学生が、お行儀よく2列にならんで、参道を歩いていたと想像してください。

そこにですな、男女の高校生が大勢、たむろしていたのですよ。
わたしは20代の頃にしみついたものがあって、高校生くらいの子たちをみると、いっしょに肩でも組んで車座になり、陽気にギターで歌いたくなる病気を持っている。もちろん、50代の教員ですからそんなことしませんよ。もうすでに常識をわきまえる年ごろになったので。(ああ、ずいぶん遅いですが)

さて、その高校生たちが、なんとも活気がない。
しずかーにしているのです。
小さな声で、ひそひそしている。
おそらく、「他にも一般の人たちがいるんだから、大きな会話はしないこと!」なんて
注意を受けているのでしょうナ。

また、もちろん、いい若いモンなんですから、こんな古びた神社仏閣なんぞに来たくなかったのだろうというのも想像できる。つまらないよ、こんな古い場所・・・。
しかし、景色はよいし、空は晴れているし、友達どうしなのだし、仁王像は見上げれば感心するくらいにこちらをむいて「あ、うん」なんて言ってるわけだから、もっと楽しそうになるはずだ、とわたしは勝手に思いながら、その子たちを見ていました。偏見ですがね。

するとですね。
私たちの行列が通りすがって、その子たちの前を通った時、なんだかすごくこっちを見るのがわかったのですね。こっちはがやがややっています。そんなにうるさくはないけど、「おお仁王像すげえ」とか「先生、のど乾いたー」とか「先生、おさいせんあるの?」とか。
高校生はお行儀良く、わりと物静かにしていました。
で、私たちが通り過ぎるのを待ちながら、こっちを面白そうに見ているわけね。

わたしはそのときになにか、こう、すごく高校生に話したくなった。

だって、ふだんは小学校の教室の中に、まあいい方が悪いけど、
「閉じこもって勉強してる」
わけですよ、こっちは。

それを、生きた勉強ができるっていうんで、バスに乗って外へ出てきた。
いわばシャバに出たわけだ。
教室以外のところでこそ、学べることも多いだろうし、本当はそっちの方が多いんだろうと思うね。人生経験を積んでくると、そういうことも実感されてくる。
だから、こういうところへ来た小学生と、高校生とが、こんなふうに時間を同じくして過ごすんだったら、お互いに交流したらいいのに、と

教師の直感でぴんときた

状態になりました。
わたしの頭の中にはさまざまな発問が湧いてきて、授業のシナリオがぐるぐる頭の回転とその遠心力によって、ふわふわ浮かんできた。

たとえば、小学生と高校生と2人ずつグループになって、お互いに神社仏閣についての感想を言い合うとか、この寺についての印象、知識を一つずつ教えあうとか、もっともインスタ映えする場所と角度を見つけ、お互いに意見を交わしながら紅葉の写真を撮るとか、一緒にこの寺の『ゆるキャラ』を考案してみるとか。

小学生は高校生の知識の量と、気の利いたアイデアに驚くだろうし、
高校生も小学生にわかりやすいように自分のアイデアについて説明をしなければならないから苦労しそうだけど、それを乗り越えたところに、大きな満足もありそうに思う。
ただ時間をつぶしている、というような状態とはちがって、「学びの場」になろうと思う。

そういうことをすれちがっている20秒くらいの間に、脳内のシナプスがパパパパとスパークしました。

でも、勇気がないし、時間もないし、という言い訳を心の中でしてました。
で、最後に、向こうの担任とおぼしき同世代の男の方とすれちがって、そのまま小学生の列の先頭に立って、ご本尊のお近くへ行き参拝しました。「ああちくしょう、いいアイデアなんだけどなあ」と思いながら。

わたしはいろいろとこれまで多数の予言をしており、このブログでも公表しているのですが、
これでちょっとひらめきました。
おそらく、5年後、10年後の修学旅行って、たぶん小学校単体とか、高校単体とかではやってないと思います。

小学校はできるだけ他の学校と交流する、他の団体と交流する、
できるだけ異年齢と交流する、なんてのがスタンダードになっていく気がする。(予言)

また、同じ中身を市内のどの学校でも、ほぼその通りになぞる、という修学旅行は、もう無くなっていくのではないか。
隣の小学校はこうしたから、うちもこうする、というのが消滅していくのだろうと思います。

もっと発展すると、去年こうしたから今年も同様に、というのも無くなっていくだろう。

それからもっと進むと、隣のクラスがこうしたからこっちも同じようにこうする、というのも無くなるだろう。

さらに一歩進めると、クラスのこの子が課題にするものと、あの子が課題にするものと、ちがってくるかもしれない。

そうなると、いよいよ文科省が提唱する『個別最適化』が本格的にスタートするんだろうと思う。

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『個別最適化』を読み解く

文科省が出している答申ではこう述べられている。

『全ての子供に基礎的・基本的な知識・技能を確実に習得させ、思考力・判断力・表現力等や、自ら学習を調整しながら粘り強く学習に取り組む態度等を育成するためには、教師が支援の必要な子供により重点的な指導を行うことなどで効果的な指導を実現することや、子供一人一人の特性や学習進度、学習到達度等に応じ、指導方法・教材や学習時間等の柔軟な提供・設定を行うことなどの「指導の個別化」が必要である。
基礎的・基本的な知識・技能等や、言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力等を土台として、幼児期からの様々な場を通じての体験活動から得た子供の興味・関心・キャリア形成の方向性等に応じ、探究において課題の設定、情報の収集、整理・分析、まとめ・表現を行う等、教師が子供一人一人に応じた学習活動や学習課題に取り組む機会を提供することで、子供自身が学習が最適となるよう調整する「学習の個性化」も必要である。

 「指導の個別化」は一定の目標を全ての児童生徒が達成することを目指し、個々の児童生徒に応じて異なる方法等で学習を進めることであり、その中で児童生徒自身が自らの特徴やどのように学習を進めることが効果的であるかを学んでいくことなども含みます。ICTを活用することで得られる新たなデータも活用し、きめ細かく学習の状況を把握・分析したり、個々の児童生徒に合った多様な方法で学んだりしていくことで、確実な資質・能力の育成につながっていくことが期待されます。また、学習履歴(スタディ・ログ)、生活・健康面の記録(ライフログ)等、児童生徒に関する様々なデータを可視化し、学習方法等を提案するツールなど、新たな情報手段の活用も考えられますが、そのような新たな情報手段の活用も含め、児童生徒が自らの状態を様々なデータも活用しながら把握し、自らに合った学習の進め方を考えることができるよう、教師による指導を工夫していくことが重要です。

 「学習の個性化」は個々の児童生徒の興味・関心等に応じた異なる目標に向けて、学習を深め、広げることを意味し、その中で児童生徒自身が自らどのような方向性で学習を進めていったら良いかを考えていくことなども含みます。例えば、情報の探索、データの処理や視覚化、レポートの作成や情報発信といった活動にICTを効果的に使うことで、学びの質が高まり、深い学びにつながっていくことが期待されます。また、児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、取り組んでいけるよう、教師による指導を工夫していくことが重要です。

 この点に関連し、平成28年答申でも、子供たちが自分のキャリア形成の見通しの中で、個性や能力を生かして学びを深め将来の活躍につなげることができるよう、学校教育で学んだことをきっかけとして、興味や関心に応じた多様な学習機会につなげていけるようにすることも期待されている、とされています。[脚注3] 主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善の中でも、児童生徒が自ら学習課題や学習活動を選択する機会を設けるなど、児童生徒の興味・関心を生かした自主的、自発的な学習が促されるよう工夫することが求められています。

「指導の個別化」「学習の個性化」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」ですが、これを教師視点から整理した概念が「個に応じた指導」です。学習指導要領の総則では「児童(生徒)の発達の支援」の項目において、「個に応じた指導」の充実を図ることについて示しています。[脚注4] 「個に応じた指導」に当たっては、「指導の個別化」と「学習の個性化」という二つの側面を踏まえるとともに、ICTの活用も含め、児童生徒が主体的に学習を進められるよう、それぞれの児童生徒が自分にふさわしい学習方法を模索するような態度を育てることが大切です。』


これを読み解いていかなければならない。
いったいどういうことなのか?
100人の先生がいたら、100通りの解釈のできるものなのか?
それとも、100人の先生が、この文章の意味を、きっちり1つに解釈できるものなのか?

上の文章の中で、「児童」が主語になっている部分を列挙してみた。
これからの時代に児童生徒が自ら学ぶ内容について】

1〇児童生徒自身が自らの特徴やどのように学習を進めることが効果的であるかを学んでいくこと
2〇一定の目標を全ての児童生徒が達成することを目指し
3〇個々の児童生徒に合った多様な方法で学んだりしていくこと
4〇児童生徒が自らの状態を様々なデータも活用しながら把握し、自らに合った学習の進め方を考えることができるよう
5〇個々の児童生徒の興味・関心等に応じた異なる目標に向けて、学習を深め、広げること
6〇児童生徒自身が自らどのような方向性で学習を進めていったら良いかを考えていくこと
7〇児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、取り組んでいけるよう
8〇児童生徒が自ら学習課題や学習活動を選択する機会を設ける
児童生徒がこうなるように、上記のような学びができるように、教師は指導をせよ、というのである。

肝心なのは、これを学校生活のどの時間にするべきなのか、というテーマだ。
時間を指定しないと、先生たちは日ごろの行事や授業推進日程に忙殺されてしまい、具体的に実行しないまま時が過ぎる、ということにもなりかねない。時間をいつ、と断定することが大切だ。

1)すべての学校生活を通して上記を実現する
2)総合的な学習の時間内に上記を実現する
3)特別活動や学活の時間に上記を実現する


さて、どの時間帯なのだろうか?

とくに、7番目の
児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、というのは、具体的にどのタイミングで行うことなのだろうか?

これが、いわゆる「個別最適化の時間不明問題」である。

いつやるの?

学習指導要領には言及されていない。

だれか、文科省に聞きに行ってくれる第三者はいないだろうか?

というのも、教員がこれを文科省に尋ねると、すぐに県教委や市教委に電話がいき、担当者から

「なんでいきなり文科省にきくんですか」

と叱られてしまうからである。

だって、市教委に聞いても、県教委に聞いても、よくわからないんだからしょうがない。

このブログを見た文科省の先生、ぜひ教えてください!
コメント欄からでだいじょうぶです。
よろしくお願いします。

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麻痺していく言語感覚と価値観のゆらぎ

1949年に刊行したイギリスの作家ジョージ・オーウェルのディストピアSF小説。
それが「1984年」だ。
これを教材にできないかと考えている。
SDGsを学んでいくうえでの大切な視点を、子どもたちが学べると思うからだ。

物語の中は、特別な世界だ。
この世界の市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

これは子どもたち自身が感じ始めていることと、非常にリンクする。
たとえば、学校で使うipadは、すべて検索の履歴や表示の履歴が教育委員会のサーバーに残っている、と聞いて、
「え?これみんな親にばれるの?」とTくんが不安な顔つきになったのもつい最近ことだ。
Tくんはそれ以後、ipadでゲームの検索をするのをあきらめた。
いわば、実体験があるから、「当局によって監視」されているというのは、よくわかる。いや、これまでのどの時代の子どもたちよりも、このことの意味はものすごく肌で実感できるのだと思う。
つまり、ようやく、時代が追い付いてきたのだ。この「1984年」というSF小説を教材とする、もっともふさわしい時代になったというわけ。

1984-Big-Brother
小説では、主人公ウィンストン・スミスは、真理省の下級役人として日々歴史記録の改竄(かいざん)作業を行う。それが彼の仕事業務なのだ。
改ざん、ということの意味について、小学生の子には今一つぴんとこないだろうが、中学生以上なら理解できるだろう。
つまり、1984年は「・・・ということになっている」という建前が唯一の判断のもとになる世界であり、けっして【合理的な事実】によって何かを判断するのではないのである。

さて、この1984年の世界については、もっとも大切な「嘘とはなにか」が、SDGsにはもっとも大事になってくる。具体的には、SDGsの数々の目標を達成するために、どうすれば良いのか、という点について様々な考えや視点があるが、なかには合理的で実際のものではなく、虚構や偽りがまぎれこんでいるかもしれない。ここは重要なポイントだ。

たとえば、プラスチックではない、紙ののストローを使っているからわたしの消費行動は善である、という論理はどうだろう。ストローを植物繊維でつくる紙製のものに替えたら、その人の行動は残りも含めてすべて〇(まる)かというと、そうとは限らない。しかし、「わたしはこんなに気を付けている」(だから他のことは多少どうだっていい)という免罪符になってしまうのではないか、という点だ。
これが企業規模になると、もっと大きな話になる。庭に草木を植え、社員がマイカー通勤をしないからエコに取り組んでいるのだとしても、当の企業が地下水を汚染したり必要以上に汲み上げたりしているのなら、SDGsに資しているとはいいがたい。

そういう意味で、SDGsには厳しい「内省の目線」が必要であり、大きくは前進することが難しくても、一人ひとりが自然や社会に対して真摯に向きあうことが大事なのだ。そして、人として『お天道さま』に恥じない行動をとろうとするることが重要なのである。それは決して、「見た目」をとりつくろう精神では達成できない。周囲にうしろ指をさされるからやるとか、悪い評判がたつのを防ぐため、というのではだめだ。「わたしはとりくんでいる」ということにしておこう、というのでは不純である。形や見た目、体裁をととのえる目的ではSDGsは成り立たないのだ。「ということにしておく」という建前では、意味がない。あくまでも、合理的・実際的に、事実として目標達成に近づくのでなければ。

そのことを小学生が学ぶために、SF小説を授業の教材に持ってくるのは、いささか飛躍しすぎだという人もいるだろう。しかし、事実よりも「・・・ということになっている」ということにする、という欺瞞が、この小説ほどにわかりやすく示されているものもないと思われるため、これを選ぶしかないのが現実だ。

他に、身近な事例があればそれを教材にしてもいいのだが・・・。

最期に、1984年の世界でもっとも有名な言葉を紹介しよう。
この小説の中では、町中に党のスローガンが掲示されている。
戦争は平和である (WAR IS PEACE)
自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
無知は力である (IGNORANCE IS STRENGTH)

人々は、この矛盾した言葉を何度も頭に叩き込むことで、違和感をなくしていく。
当初はふつうに「おかしいな?」とか「それは筋が通らない」などと思っていても、どんどんと教育されていき、しだいに「感覚がマヒしていく」のだ。

「WAR IS PEACE」を連呼するうちに、麻痺していく言語感覚。
これらは、二重思考、と呼ばれる、思考コントロールの技術だ。
アクセルとブレーキを同時に踏むかのような、本来は矛盾した言葉を繰り返すことで、人の感覚は麻痺していく。
つじつまがあわなくても、しだいに平気になっていく、困惑した心理。
筋を通すのが本当だ、という感覚がなくなっていき、「どうでもいいや」となっていく思考放棄。

1984年の世界では、この「言語感覚の麻痺」こそが、みんなが落ち着いて暮らせるすばらしい社会にするための、最初の政策だ、ということになっている。

政府が、人々の「まっとうな言語感覚」を放棄させるため、あえて意図的に仕組んだ言葉とロジックの破綻(はたん)この作戦がじわじわと人々の心に作用し、ついに1984年には、主人公のスミスは、心を破壊させてしまう。スミスは愛情省の「101号室」で自分の信念を放棄し、党の思想を受け入れ、処刑される日を想って心から党を愛するのであった。

きちんと筋を通したい、と思う子どもが育つか、あるいは
筋など通さなくても、どうでもいい、と考える子が将来の日本をつくるか。
この「1984年」こそが、教科書に載るべきだと思うネ。なんたって、今年の大学共通テストの世界史Bにこの小説が出題されてるんすからナ・・・。

世界史B
1984年

侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!

『侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!』
という記事が、スマホの画面を派手に飾る。
どの記事も、選手ががんばった様子やうれしがっているコメントを載せている。
識者が「感動した!」と興奮する様子が、だいたいその記事の後半にくっついている。

オリンピックのこの報道。
スポーツをさらに面白くするためには、この報道のスタイルをほんの少し変えることだ。

野球は世界的にみると非常にマイナーで、人口の少ない競技であります。
だからなかなか参加する国も少ないし、これまでも五輪の公式な競技にはならない場合があった。

私自身はそのことをとても惜しいと思うし、クリケットと比較してもそん色ないほど、ベースボールはショーとして見ごたえのあるスポーツだと思う。

五輪での日本の金メダルは、「野球がこんなに面白い」というのをアピールする良い機会だ。しかし、金メダルをとった、というだけの報道しかないのは惜しいことだと思う。

多くの人にとって、野球のルールや面白さは、あまりよくわからないと思います。
それは言語化されないし、記事にもならないから。
ところが、野球というのは、たった一球にドラマが詰まっているのです。
その1球を、解説してくれたら、もっともっと、野球の楽しさが伝わるのに、と思うのです。

たとえば大昔のことですが、「江夏」という大投手がいました。
この江夏の話で、ノンフィクションの小説が出ているのをご存じでしょうか。
1979年の11月4日に大阪球場で行われた、プロ野球の日本シリーズの第7戦の近鉄バファローズ対広島カープの試合で広島のリリーフエースである江夏豊が9回裏に投球した全21球のことを、小説にしたのです。あるいはこの話は、NHK特集で1時間の番組にもなりました。
なぜこんなに注目されたのでしょう。

それは、「投球内容が詳細に説明された」からです。

実は、毎試合ごとに、野球と言うスポーツには壮大な物語が生まれているわけですが、だれもそんなの気にしていないために、記者は記事に書いたりはしないのです。
これは逆なんだと思います。
記者が、そこを記事にするようにしていくと、多くの人が野球の本当の醍醐味を知り、

おもしれえなー

と興奮するようになるのです。

ふつうの人にとっては、解説がなければわからないのです。
なにも見ないで聞かないで、試合を見ているだけでそこまで到達できる人は、ほんの一握りのマニア、というわけです。

江夏の21球とは、具体的にどんな内容だったのでしょうか。
両チーム初の日本一をかけた日本シリーズ。
近鉄も広島も、両チームが譲らず、3勝3敗で迎えた第7戦のことでした。
7回表が終わった時点で4対3と広島カープがリードしていました。

広島が1点リードで迎えた9回裏。
日本一をかけ、江夏豊がマウンドに上がります。
江夏の投じた1球目は、6番羽田耕一にセンター前ヒットを打たれ、広島に暗雲が立ちこめます。
近鉄は1塁に代走を送ります。羽田に代わり、シーズン代走盗塁記録をもつ藤瀬史朗を送ります。

ここで、球場は割れんばかりの歓声につつまれます。
藤瀬選手は、ものすごい足が速く、この年には盗塁をばんばん決めていたからです。
江夏はピンチを迎えます。

ノーアウト1塁。
迎えた7番クリスアーノルドに対して、江夏はボールを2つ続けて出してしまいます。
この時、もちろん江夏バッテリーは盗塁を警戒するわけですから、こうなるのも無理はない。

4球目に見逃しのストライク。

さらにこの後です。

5球目にボールとなるのですが、藤瀬がスタートして盗塁を決めます。おまけにキャッチャーの送球がそれてしまい、ノーアウト3塁という決定的なピンチを迎えるのです。

やばいですよね。
心臓がバクバクする展開です。
ノーアウトですよ。
同点のランナーが3塁にいるんですよ、それも足の速いやつが。
そして、カウントは1ストライク3ボール。

決定的に不利じゃないですか!

このあと、21球まで江夏は投げるのですが、結局0点に抑えて、広島が優勝するのです。

1球ごとに、江夏と水沼捕手との間に、あるいはベンチとの間に、言葉ではない、水面下の作戦が展開されるわけですが・・・

こんなもの、球場で見ている人にもわからない。説明されないと。
しかし、説明されると、すげえなあ、となる。

そうなのです。
野球は小さな活動が一つ一つ、積み重なってゲームを構成する。極端に言えば、投手の投げる一球ごとにドラマが枝分かれしていく。
だから、そのドラマの行方や可能性をさまざまに考え、実際の投手と捕手がどう判断するか、それらを野手が理解して動けるのか、そこがみどころなのだ。

しかし、それを選手と同じように感じたいと願うなら、さまざまなデータや意味の把握に長けた解説が必要になる。

うまく解説し、どうして選手がそこで悩んだのか、なせその行動を選んだのか、教えてくれる人が必要なのだ。

前の打席でこの球をファールにされているから、組み立ては似ているけれど最後の1球だけ全くちがう球種にして裏をかこう、と捕手が考えたとする。

しかし、投手は自分の制球が今一つ調子が良くなく、最後のスライダーがすっぽぬけたら『まずい』と考える。

投手が首を振ると、捕手はその意味をすぐに理解し、ではちがう作戦に出よう、とまた新たな提案をする。

たった数秒間にこれだけの情報のやり取りを行うわけです。球場でもテレビ中継でも、それらをぼーっと見ているわれわれのような大多数の観客には、その意味がなかなかつかめない。やはりマスコミがそれを解説してくれることが必要だ。

今回の五輪報道でも、江夏の21球のように、この回のこの投球の組み立てはどうだったのか、と細かく教えてくれるといいのだが。

野球ファンが新たに増えるチャンス。
ぜひNHK特集で、今回の五輪のこまかなドラマの内実を、詳細に伝えてほしい。

きっと、江夏の21球、魔術のような「スクイズ外し」に負けないようなドラマがあっただろうと思うね。

スクイズ外し

【悲願の金】←変わるかも

子どもたちと15年間ほど、毎日いっしょに暮している生活が続いている。
なんとなく感じているのは、これまでとは常識がちがってきている、ということ。
マスコミがつくってきたストーリー、映画でつくられてきたストーリー、世間でよく語られてきているストーリーとは、またちがった個人のストーリーをたくさん見てきた。
そして、人々が求めているものは、必ずしも、世間で語られる価値観とは一致するわけではない、ということに、遅ればせながら私も気付くことになった。

「みんながみんな、〇〇がほしい、というわけでもないよね」

こういう話をすると、多くの人が、「そりゃそうさ」と言う。
みんながみんな、ポルシェに乗りたいわけではない。
場所や用途によってはポルシェは不要。
ポルシェはかっこいいけど、堆肥を積むのは軽トラが良い。
そんなことはみんなわかっている。

実はそんなことをねがっているのではない、というのはよくある話だし、自分のことをふりかえると、たしかに実感できる。

そこで、以下を考えてみてもらいたい。
金メダルがほしいか、といわれると、「そうでもない」という人がいることに、あなたは驚く?それとも、それはそうだろうな、と思う?

これを子どもに聞いてみる授業を、2学期になったらやってみようと計画している。

なぜこんな授業を思いついたかと言うと、日刊スポーツの以下の記事を読んだからである。
https://www.nikkansports.com/sports/column/ogishima/news/202108040001225.html
2021年8月5日1時48分:
「国も順位もなし」がスケボーの常識 このカルチャーで「五輪が変わる」

スケボーの世界には、より難易度の高い技に挑戦することにリスペクトがある。
それを尊重しあい、お互いに励ましあう。成功すればみんなで喜び合う。
「いっしょに競技をする相手を応援する」「相手の成功を願う」
そこには『個人』はあるが、国の別や政治の力は働かない。政治を寄せ付けない、と言うべきだろうか。

また、結果よりも過程を重視する、という感じがある。
結果がどうあれ、どう挑むか、挑む気持ちがあるか、挑戦しているか、ということに最大の注視がある。だからなのか、金メダルだった、銀メダルだった、などに興味関心がそれほどいかない。もっというと、どこの国の選手がメダルをとったかなどは、話題にすらならない。そもそも、自分の国籍に頓着していない。人気にあやかりたい政治家にとっては、もっとも扱いにくい選手たちになっている。

マスコミも、どう報道してよいか悩んでいるふしがある。
よく記事のタイトルに「悲願の金」という言葉が使われる。
「金にしか意味がない」とメダルの色にこだわるのは、よく聞く話だ。
それは間違ってはいない。柔道でもレスリングでも他の競技でも、間違ってはいない。

しかし、スケボーには「悲願の金」という使い古した定番の文句が書けない、使えない。
記事を書く人間は、スケボーにだけは、苦心してタイトルをつくらねばならない。

金メダルが悲願ではないと?
では、選手はなにを願って、人一倍つらい練習をこれまでしてきたのか?

スケボーに出場する個人は、一人ひとり、ちがう人格をもつ。
その一人ひとりが、いったい、何を願っているのか。
それが国威発揚のためでもなく、親や恩人・コーチのためでもないのなら、いったい何を願っているのか?
金メダルを取ることが、目的ではないのだとしたら?

これを授業の核に据えたらどうか。

スケボーの選手たちは、なにを願っているのだろうか?


子どもたちは、いったい何を感じ取り、どう考えるだろうか。

スケボー

【驚愕!】サンデーモーニングで【Z世代の紹介】が!

若いころから『Z』というアルファベットには、人しれず情熱を覚える質(たち)である。
なんといっても、アルファベット26文字の最終段階。
これ以上はあとがない、という文字。
おそるべき宿命を負った、最終的な字なのだ。

さて、そんな怪しい興奮はそっちに置いておいて、昨日のTBS番組『サンデーモーニング』をご覧になっただろうか。そこで、なんと『Z世代』と呼ばれる若者たちのことが紹介されていた!『Z世代』・・・もうすでにご案内の方も多かろう。

わたしはサンモニの放映を直接は見てはいない。嫁様の号令のもと、庭の草むしりに夢中になっており、見逃したのだ。しかし、夜になって知人(先輩)のフェイスブックに投稿があり、それを知った。

動画を見てびっくり!

まず、ドイツのアンゲラ・ドロテア・メルケル首相がなんとも慈愛に満ちた聖母のごとき表情で
「アメリカ国民ありがとう」と言っていたので、まず最初のびっくり。
これは2017年にパリ協定を離脱した前トランプ大統領の方針から180度ひっくりかえって、今のバイデン氏が「また気候変動に備えて削減します」と宣言したのを受けて、だ。
メルケルさんも齢をくい、お顔のしわは確実に増えているものの、こんなふうにはっきりと【希望】と【道しるべ】を語れるのはすごいと思う。

気候変動サミット

さて、気候変動はおそろしいスピードで環境を壊そうとしている。
これまでも人類は「自然と調和してる」と思っていたはず。
ところが実際は、かなり人類側のわがままと暴力だったみたい。
20世紀にかなり自然をいためつけてきたらしく、どうやらこのままではまずい、ということになってきた。21世紀は人類という大きなくくりで協力せねばならず、これはなかなか「難しい」。

人間は業が深く、どうしても自然を痛めつけないではいられない。
原発だってやらないではいられないし、核を制御できる、何万年も地下に埋めて安全に管理できる、と思いたいのが人類である。

ところがZ世代は、なかなか現実派だ。どうしても理想論に傾きやすいバブル世代と違い、現実に足元をみつめて少しずつ毎日の暮らしを現実的につくっていきたい、と考えるらしい。

考えてみれば、原発、という幻想も、ただの楽観論に基づいた「理想」にすぎない。
原発推進する方の心情は、5歳の男の子と同じだ。
5歳の元気な少年が、「ぼくだって、スキーできるよ」と言いたい気持ちと同じだろうか。たしかに最初ちょっとすべって、「ぼくスキーできる」と言いたくなるのはわかる。
ところが、そのあと、道なき道を、予測できない道を、ぜったいに安全に、ぜったいに失敗せず、はるか遠方のゴール?をめざして進み続けることができるとは、なかなか思えないのがふつうではないだろうか。
自分はけっしてケガをせず正確な道を決して間違えることなく進んでいける、というその自信はどこからくるかというと、おそらくただの、「認知のゆがみ」でしかない。

その20世紀風の認知の仕方を訂正し、21世紀風の現実路線でいく、というのがZ世代の特徴だろうか。もうリニアモーターカーや原発に、空想的な幻想をいだくという姿勢そのものが、老いた世代の「認知のゆがみ」なのだろう。

わたしも50代。バブルも経験し、あの頃の熱狂的な軽薄ブームの享楽さも、ちゃんと覚えている。しかし、楽しかった気分は、やはり引き締めなければならない。現実に目覚める必要がある。
「おじいちゃんたち、いつまで夢を見ているの?現実を見て」
それが、Z世代の声であろう。実際にサンモニを見た多くの若者が、そういいたいのではないかと思う。

さっそく、GW明けに教室でこの動画を見てみようと思う。
そして、ベン図で比較する。
左が「20世紀」、右が「21世紀」だ。
左が「理想論で動いた時代」で、右が「現実を見て動く時代」だ。
左は「人間が自然を制御できると信じた時代」で、右は「自然と人為の調和をさぐる時代」。
左は「ぼくたちはまだ生まれていない時代」で、右は「これからぼくたちが現実に生きる時代」だ。
ベン図旧世代とZ世代比較

考えてみれば、五輪というのも、たぶんに幻想的なものだ。
気分はたしかに消費できる。いっときの興奮も得られるだろう。
しかしそのあとに、医療のリソースを東京に割いてよかったのだろうか、多額の税金を他に使えなかったのか、というとても切ない反省会が国会で開かれることになり、これはたしかに現実的に厳しくつらい時間になりそうだ。
つまり、五輪を「幻想的・理想的・一時的・ムード的」にとらえるのが20世紀だとしたら、
Z世代は五輪を「現実的・事務的・継続的・ロジック的」にとらえるのだろう。

旧世代は焼き鳥屋で酔っ払ってくだを巻く客のようなものだ。
「原発作ってモーターカーを走らせれば理想と夢の世界が広がって便利に・・・くどくど・・・」
たいしてZ世代はそんな客を軽くいなして帰宅させる店のお女将さんのような存在で、
「まあまあそんな理想ばかり言ってないで、ささ、召し上がったらもうええ加減終わりにしないと終電も出てしまいますよ。さあさ、お勘定にしなはれ」
居酒屋でも気候変動サミットでも、実際には現実派の方がどうやら優勢のようで・・・


焼き鳥屋の客と
教室の子どもたちは、2010年生まれなので、Z世代よりもさらに下、ZZ世代と呼ばれるようになるのかも。

あなたは悲観的な未来を描くかそれとも・・・

小学生こそ、今の世の中について意見を言わなければならない。
なぜなら、「当事者だから」。
あきらめ気分の大人を叱咤激励するか、あるいはお疲れ様、と大人の肩をやさしくたたくか。
いずれにしても、

「当人たちが生きて働き、夢を持ち希望をたずさえて、子どもを産み育て、育つ社会」

なのだ。
それを、無関心にさせておいていいはずがない。
今の教師が子どもたちにこそ、

「大いに意見を言おう、まちがっていたとしてもいい」

と言わねば。
そして、子どもたちの意見に「それはまちがっている」といえる大人はほとんどいない。
なぜかというと、こんなに問題が山積みなのに、子どもの知恵や意見を借りないわけにはいかないし、大人が全部課題を解決できるという保証もない。

大人が言えるのは、

「まちがっているかどうかはわたしたちにもわからない。やってみよう。ともに」

ということだけだ。

先日書いた記事
にも書いたが、
いつの時代も、課題は山積みだが、それにむけて希望も同時に見えてきているはず。
わたしたちが子どものころもそうだった。携帯電話をみんなが持つようになる、という夢物語をきいて、「そうなったらどこにいても連絡が取れるから、どんなに便利だろう」と思った。

実際に、便利になりましたね。
たしかに、みんながスマホで写真や動画やテキストをやり取りするようになり、一層理解しあえるようになった部分もある。
しかしその一方で、それ以上に世界が広がりすぎて、やはりまだ「知らない、よくわからない」ということも爆発的に増えたようだ。ヘイトなどを安易に信じ込む人が増えたのも、逆にこうして「近くに見えてきた(ように感じる)」という感覚、とらえ方に影響を受けていると思う。断片的な情報ばかり増えたからね。人が一生のうちに口にする断片的なうわさ話の量は、江戸時代に比べて数億倍に増えているらしいから。

私の嫁さまは、モスクワの天気を見て、本日の愛知県の気温と比べて

「モスクワって寒いと思ったら意外とあったかい日もあるね」

としゃべっていたが、モスクワの天気など気にならない暮らしを何十年もつづけてきたからか、毎日のようにこうしてモスクワの気温と自分の住んでいる町の気温を比べることの良さが、今ひとつわからない。しかし嫁様はとてもこの行動を楽しんでいるらしく、

「だって、世界中の人の様子を想像できるし、おもしろい」

という。
モスクワ

モスクワの人が今日はセーターを脱いで、軽めのカーディガンとか薄めのジャケットで過ごしているのを空想し、

「ふふふ、モスクワの人も春がきてうれしいねえ」

と毎日5秒くらい、考えるのだそうだ。
あほか、と思うが、今はそういう楽しみ方もできる、ということ。

1980年代も2020年代も、そういう意味では変わらない。
できることもあるし、困ったこともある。
また、今後できそうでクリアになる課題もありそうだし、
逆に、さらにリスクの増す課題もありそうだ。

そんな中で、子どもたちが国連に働きかけたり、企業に働きかけたり、新聞社に手紙を書いたりするということには、非常に意味がある。
で、どうやってプラスチックを減らし、どうやって水源を守るかを大人を巻き込んで運動していくことについては、大人が勇気をもって、彼らを勇気づけねばなるまい。大人もまだまだ力不足なんだと認めて。

子どもを勇気づけるのに、大人の勇気がまずは必要だというオチ、ね。

加速する未来への『心の準備』を小学生とともに

〇空飛ぶ車
〇量子コンピュータ
〇3万2000の遺伝的疾患
〇寿命脱出速度の加速
〇培養肉
〇量子ドット
〇脳が直接インターネットに繋がる
〇メタ知能
〇学歴の意味はなくなる
〇水がもっとも希少な資源となる

漫画<アキラ>の中で、大友克洋氏はオリンピックの中止を予言した。
予言というものの中には、たまには当たるものが、混じっているようだ。

上記の予測は、予言というよりはもうすでに実際に進みつつある現状だ。
したがって、ほぼ100%、世の中はこんなふうに進んでいくらしい。
水の問題は深刻で、水源を確保した企業は最高に儲かるが、水源を確保できなかった自治体は生命のカギをにぎられ、弱体化するとのこと。(日本の山のふもと、水源になる土地は、これから世界中の多国籍企業が買い占めていくだろう)

固定電話の権利というものが、ずいぶん昔は売られていたものだが、今はそれを買う人はほとんどいない。「固定電話には価値があるだろう」と信じる人が多い場合は、それが売買され、利用する人も出る。学歴も同様。固定電話と同様に、「うーん、要らないかな。なくても平気かも」という人が徐々に増えていくだろう。そうなればなるほど、学歴を信じてもらえる世界はほとんどなくなり、信用する人もいなくなる。企業も学歴を信じるのではなく、実際のその人物のアビリティを見極めるようになる。

さて、現時点で小学生の子どもたちは、なにをどうすればいいのか。
わたしは、子どもたちが「未来予測」をすればいいと思う。
未来がこうなる、という予測をするには、そうなる証拠を集めなければならない。
また、それが単なる雑な情報なのでなく、論理的に推理できるための有力なデータでなければならない。ごみのような情報か、有力なデータか、見極めるのがむずかしいのである。しかし、そこを小学生なりに真剣に考えていくのが楽しいのではないだろうか。

国語算数理科社会も、もちろん大事だ。
音楽体育道徳家庭科も、むろんだ。

しかし、「未来予測」ほど、楽しい学びは、他に見当たらないくらいではないかと思う。
人間は、未来を考えるのが、基本的には楽しいのではないかと思う。特に子ども時代は。
(わたしはもう若くなく、日曜日にちょっと畑を耕した程度ですでに腰が痛い。人生も折り返し地点を過ぎたようだと、未来はあまりどうでもよくなってくる気がする。しかし、死ぬまでになにができるかを考えるのは、基本的には楽しいことにちがいない)

空飛ぶ車

宿題をマインドマップで考えさせると・・・【思考ツール】

どうして小学校で思考ツールが流行し始めたのだろう。
文部科学省初等中等教育局視学官としてご活躍されている田村学という先生がいる。
その先生が以前、中学校の授業で思考ツールを使ってみた。
「深い学び」っていうのが、これじゃないか、ということになり、タブレット端末とも相性がよいことから、徐々に広がってきたようだ。
文科省の中でも話題になり、全国で講師になって招かれる主事の先生たちがこれを取り上げているようで、現場の先生たちにこれらを紹介したことで、全国的な流行がきているようだ。

思考ツールの原点は、古代インドの曼陀羅だ、という人もいるし、いや、イギリスのトニー・ブザン氏のマインドマップだ、という人もいる。
また、いやいや、カードを使ったデータ整理法「KJ法」で有名な川喜田二郎教授だろう、という人もいる。トニー・ブザン氏と川喜田二郎氏はお互いに仲が良く、ともに「頭脳の取扱説明書」を探し当てようとして研究をすすめた同志であったようだ。

わたしは大学生の頃に「KJ法」に出会ったが、それはとある講習会で、答えがあるようなないような、禅の問答のような思考実験をくりかえしていたさなかに、
「この講習会でこうやってあれこれと考えていた川喜田先生が、ここからヒントを得てKJ法を提唱された」
と聞き、なんじゃそれは、と思ったことがきっかけだった。

たしかに人間の思考というのはとらえどころもなく、拡散すると思えば収束し、結論を導いたと思った瞬間にまたわからなくなり、まことに思考というのは妙なものである。
また、一人の頭脳があるキーを探し当てて夢中になっていると、その人のつぶやきを聞いた別のある一人が、あたかもパスボールを受け取るようにして思考を進め、それを聞いてさらに新しいひらめきを得る、ということが起きる。
思考とかひらめき、脳のインスピレーションというのは、キーとなる要素が複雑にからみあい、遠くのものが一瞬にして結合し、どんどんともつれあい刺激されあいながら、汲めども尽きぬ知恵の鉱脈のように再生産を繰りかえす。

小学校で「学ぶ」ということが、これまでは知識中心であったが、そういう時代が今こそ本当に終焉するらしい。国語辞書、百科事典、新聞記事、研究者ネットワーク、ぜんぶインターネットにまかせる。それでよい、ということのようだ。いまやスマホで簡単に、学会・学術ネットワークにもアクセスできる。
これまでは、「そうはいってもな」という雰囲気があった。そうはいっても、知識は必要だし、その情報を蓄積するのは、授業でさまざまなことを学びながら少しずつ、ということであった。

でも、どうやら文科省は、本気らしい。今度こそ。

人間は、知識の量がどうこうというより、「思考する」のだ、という感じ。
わたしだって、小学生が思考ツールを使いこなす、ということに、大きく違和感を持つ世代なのだが、どうやら時代はそういうことになってきているようだ。

で、そもそも大きな目的が、

「自分で自分の学びを計画できるようにさせる」

ということのようなので、

わたしはそれこそ、「宿題を自分で思考して計画し、決めていく」というのを、子どもがやったらいいのでは、と思いついたというわけ。

では具体的に、なんだろう。どんなツールで?

昨日からずっとそれを考えていて、

トニー・ブザン氏の マインドマップか。
あるいは川喜田二郎氏の KJ法か。
それとも、古代インドに源流を置く、マンダラートか。


この3つのうちのどれかで、いちばん小学生向きなのが、トニー・ブザンかな、と思った次第。

KJ
写真は、川喜田次郎氏。

『ずるさ』の学習~トーンポリシング~

道徳で、『ずるさ』を考えた。
ずるいという意味が人によって異なるため、一応の定義をしなければならない。
基本は「相手を自分の思う通りに操作しようとする」動作を「ずるい」と規定した。
意見を押し付けようとする動作はすべてこれにあたるから、意見の押しつけはすべて「ずるい」ということになる。

これはネットに広がる言論を理解するために必要なリテラシーの一つで、小学生の時代に学んでおくべきネットリテラシーの学習の一つに分類されている。
いわゆる、「思い込み」「きめつけ」に陥らないための相続力スイッチである。
欧米では、相手の意見を封じ込める言い方、対応の仕方を「トーンポリシング」といい、やってはいけない、と指導されている。しかしまだまだ人は思い込みが強く、相手を自分の都合の良いように操作しようとするから、トーンポリシングに対抗する力を得るには訓練が必要だ、ということになっている。大人でもパワハラで苦しんでいるんだから、これからの新しい時代を生き抜いていく子どもたちには絶対に必要な素養だと考えられているのでありましょうな。

このトーンポリシング、という言葉を知ったとき、ポリシング、というのはポリスと同義かなあ、と思って調べてみたら、やはりTone Policingで、Police(いわゆるポリス、警察の原義にあたる言葉で、統治、監視、というような意味)の親戚筋にあたる言葉であった。

授業では、「どっちもどっち」ということを題材にした。
いわゆるネットにはびこる、「DD論」である。
これはリテラシー授業では初歩の学習だけど、たぶんなんとなく子どもたちも日常で耳にしたりであったりしたことがあるからだろうと思う。

〇どっちもどっちじゃないか。別に問題視することはない。あなたが言える立場じゃない。
〇あなたの方にだって問題がある、課題があるじゃないか。指摘する資格がないよ。
〇言い方が悪いんだよ。そんな言い方では伝わらないからダメ。聞き入れてもらえなくて当然。

どれも今苦しんでいる人にどう聞こえるか、という視点で授業を進めます。
ネットでは冷笑系、と呼ばれている『反応の仕方』に分類されているようだけど、その冷たさを十分に味わいます。ロールプレイングをすると、みんな硬直したような表情になる。

「ひでえ」

思わず見ていた子が反応してつぶやいた一言です。
そう。冷笑って、キツイんですね。当事者ならそう思える。


どうして冷笑になるのかというと、過去にうまく伝えられなかったトラウマがあるから。
うまく伝える、という「伝えてよかった」経験値がかなり低く、伝えることに自信がないから、冷笑、という「ひねくれた」表現になってしまって病的になっている。

ところが子どもはまだそのトラウマがないか少ないから、ひねくれてこじれた大人よりもしっかりと物事に向き合えている。子どもの持つパワーですね。

「〇〇くん、〇〇してね、ときちんとお願いしたらいい」

それが授業で子どもたちが見つける答えです。
かんたんです。

「もう少し、机をうしろに下げてほしい」

これが言えるかどうか。

「おかずをもう少し多くよそってほしい」

これが言えるかどうか。

「机をえんぴつでコツコツやるのをやめてほしい」

これが言えるかどうか。

言えない子が、冷笑系に走る。走りやすくなる。あるいはそうなる素地を「抱えてしまう」。


きちんとお願いできる子は、きちんと交渉している。相手を尊重している。

冷笑する子は、孤独に悩んでいる。孤独におびえている。過去のトラウマにおびえている。
それで、お願いの仕方や友達の反応を悲観的に想像して心をこごえさせている。
しかし、友達のあたたかさや血の通ったコミュニケーションを思い出せば、きちんと話してみよう、と相手を尊重することができる。
心が柔軟性を失ったとき、想像力を失ったとき、あまりにも硬直しきったときは、相手を「あなたのそれはトーンポリシングじゃないか!」と(←逆トーンポリシングという)非難することさえ起きる。自分を守ろうとしての精一杯の努力なわけだ。言いたいことを言うことすらできず、相手の言動を封じようとここまでひねくれることがあるのだから、やはり人間は自分の伝えたいことをしっかりと伝える、ということができにくく育っているものらしい。

【発問1】
自分「かばんをここに置かないでよ」
相手「え?もっと早く言ってくれたらよかったのに」

言われたときに感じた気持ちはどうだろうか。
まず自分でノートに書く。できるだけくわしく。
そのあと、みんなで交流。発表しあう。
心が広がり、安心感が増えたかどうかで判断する。
「伝えてみてよかった、と思えたかどうか」

【発問2】
自分「わたしのこと、テリーって呼ばないで」
友人A「伊藤だからそう呼んだんだよ。そこまで傷つくことかなあ」
友人B「悪気はないんだからいいじゃない」

言われた時の気持ちを考える。
「お願いしてみたときの気持ち、お願いしてみてよかったと思えたかどうか」
「そのあとこう言おう、と考えましたか。そのつづきは、どう答えますか?」

【発問3】
(自分の側で考える)
自分が、今、苦しんでいる、という気持ちを伝えることができましたか?

【発問4】
(自分の側で考える)
相手に配慮してもらえる、という安心はありましたか?

【発問5】
(相手の側で考える)
相手を自分の思い通りにさせようとしたかどうか。
こちらの気持ち、自分の思いを伝えることはできたかどうか。

【発問6】
相手の心の状態がよくなったと思いますか。
自分の心の状態がよくなったと思いますか。

【発問7】
このやりとりの良くない点、欠点はなんですか。

【発問8】
トーンポリシングをどう思いますか。

〇わたしとしては、最後の「トーンポリシング」という言葉を、小学生段階で知り、使いこなせる言葉にできる、というのが、この授業の目的のように思う。

「われわれが論争するとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである」(ジョン・スチュアート・ミル)

2

「タブレット端末を家に持ち帰る」で職員室大論争

卒業式が終わり、いよいよ職員室は戦闘モードに突入した。
これから学校の公的文書の中では最後の砦と言われてきた、「要録」づくりが始まる。
それと同時並行で、
〇どの先生が異動になるか
〇その先生の仕事をだれがどのように引き継ぐか
〇そもそも次年度の校務の分掌はどのようにするのか
〇備品の紛失はないか
〇教科書をどの部屋において、チェックするのはいつか
〇教室は来年度どの先生がどのクラスがどのように使うか
など、多岐にわたるチェックと大引っ越し作業がはじまるからだ。
なんせ、異動だけで十名を超える。
小規模な学校だと約3分の1が異動である。学校が変わる先生も大変だが、残る先生も引っ越しだ。2階から3階へ、というだけならまだしも、別の棟や建物に引っ越すとなると、なかなか大変だ。

愛知県内を東西南北くまなく異動した経験から、引っ越し大名、と言われるS先生が、途方に暮れたような声で
「あの荷物、どうやって引っ越そう」とぶつぶつつぶやいており、周囲の先生たちから失笑を買っている。
S先生は独自に作成する教材教具づくりのプロであり、その教室内での実践は子どもたちからも人気があってすばらしい。ところがいざ今日になってみると、それらは宝物ではなく、ただ単に引っ越しをしにくくさせる厄介な荷物に見えているようだ。

さて、そのさなかに「職員会議」と呼ばれる御前会議が10くらい計画されており、そのつど、次年度のための非常に重要な決定がされていく。次年度は、ほぼここで出された線で、実行されていくのだ。
「3月の時点で、方向が決まっておりました」
というのは、どの先生も使う、いわば伝家の宝刀だ。年度途中でさまざまな意見が出てきても、最終的には担当の先生がこの時期に出した「この方向」と呼ばれる答申が職員会議で承認されていたら、どの先生もそれに従わざるを得ない。

頭の中は、しっちゃかめっちゃかである。

目線の先には引っ越しの荷物が見えており、頭の中は次年度の運動会のことを考えており、ところが参加している職員会議ではGIGAスクール構想について議論している、というのが、今、全国の多くの小学校でもくりひろげられている実態だろう。小学校は全国に2万校ある、といわれており、教員は40万人いるらしいから、その40万人の中の半分は、こうして目線と頭と会議が乖離していると思う。(個人の印象にすぎません)

さて、今日はひさびさに血沸き肉躍る大論争がもちあがった。
GIGAスクール担当の私と、職務上それを進めざるを得ない教頭が矢面に立ち、一斉攻撃を受けた。

実は、市から、

「今度くばられるタブレット端末を、家庭に持ち帰って自主学習などに使え」

という指針が出されている。

ところが、これが職員室に火をつけた。

「1年生が無事に持ち帰れるとは到底思えません!」
「1年生の中には、ランドセルのふたをしめないでひっくり返している子が日常的にいます!」
「田んぼの中に落としても無事なんですか?防水とか?」

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わたしはおどおどしながら体を揺らし、前かがみになって手をもみ、

「いえ、防水ではありません。田んぼに落としたら、その時点で故障確定、電源は今後いっさい入りません」

というしかない。
そのあまりに無責任な回答に対し、おおー、というどよめきが起きる。
あちこちの島で「無理よねえ」「こんなの許せない」というつぶやきまではっきりと聞こえてくる。
わたしは追い打ちをかけるように、

「ええ、持ち帰ってもし使ったとしても、充電ができない、という問題があります」

教頭がうらめしそうに私を見る。

「なぜなら、家庭には充電ケーブルは配られないし、電気代がかかることに嫌悪感を示すご家庭もあるだろうと思います。また、無線LANで接続できるはずですが、おうちでその設定をしなければならず、無線LAN機器のSSIDと呼ばれるパスワードを入れたりとか、一定のご負担をご家族にお願いすることになります」

「それを、児童全員に強制する、ということでしょうか!」

定年近い年配の先生は、ほとんど怒声に近い声でそれを言う。

「そんなことを、勝手にこっちで決めてしまっていいんですか?第一、保護者にはなにひとつこういった説明をしていないじゃないですか!」
「無線LANがある前提のようですけど、みんながみんな、そうじゃないですよ!」
「そうですよ、保護者の中には、そんなこと聞いてないよ、という人も多いと思いますが!」

わたしは目線を下げ、ほとんど腰を曲げて、その怒声をうやまうようにして聞く。

担当者というのは、こういうものだ。
ちらっと、テレビでこういうの、見たことあるな、と思う。
政治のしりぬぐいをさせられる官僚が、こうやって頭をさげているのを見たことがある。

「とにかく、タブレットを家に持ち帰る、なんていうのは、現段階では保護者の同意がない限り、学校側で勝手に決めてしまうことではないと思います!」

ほとんどの先生がそれに賛成だった。
わたしと教頭は、引き下がった。

さて、どうなるのだろうか。

鄧小平が「富める者から豊かになれ」と指示したのが先富論であった。
しかしそれは巨大な格差を生み、中国はいまだに人口の半分以上が貧困に悩んでいる。
李克強首相が掲げる経済政策で、貧困層を救う「リコノミクス」が提唱されるが、それも遅々として進んでいない。おそらく、富んだ者が社会全体を親愛の情で見つめる、というのは理想に過ぎない。富んだ者は自身がつかんだ経済的な富は、競争の中で勝ち取ったと理解する。それは、弱者を切り捨てる、ということと同義だからだ。

写真は、リコノミクスを掲げる李 克強(り こっきょう、り こくきょう)首相。
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タブレットを学校に配備し、児童が使えるようにする、というのは、必要なことだと思う。
しかし、あまりにも、そのことを進めるための、地盤整備が遅れている。

「えっと、新間先生、その場合、家庭に『充電ケーブル』を配るんですか?」

わたしは、それを聞いたとき、とっさに充電ケーブルをアマゾンでポチりたくなった。購入数のところを、「500」にして。

ブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・USA』

中学生のころ、洋楽が流行した。
わたしもご多分にもれず、友達といっしょにレコードショップでLPを探したり、ビルボートのチャートを毎週チェックしたりしていた。
懐かしすぎる話題なので、LPが分からない方は「LP(エルピー)レコード」をググってください。

友だちはお小遣いをはたいてLPプレーヤーを買ったところ、ものの数年で販売される新曲がことごとくCDばかりになり、唇をかんで悔しがっておりました。わたしは貧乏でしたらかどちらも買えず、ずっとカセットデッキでしたね。東芝のちっちゃい奴。宝物でした。

友だちがレコードをレンタルすると、その話を聞きながら、同時にカセットを仲間内で貸してまわしていき、一通りなかまの間をカセットが回ると、みんなで音楽の評価を語り合うのがルールになっておりました。

その中に、「Born in the USA」がありまして、狂ったように繰り返すフレーズが耳にこびりつき、癖になるような感覚を覚えました。
歌詞を知らずに聞いていると、なんとなく元気が出てくる。
テンポもいいし、大声で叫ぶ感じもすごく明るい。
わたしは最初、すごく人々の元気を鼓舞する歌だと思った。

ところが・・・のちに自衛隊に入隊した友人のKくんがこれを大のお気に入りにして、何度もこの歌に関する様々な話をしていたのですが、歌詞が絶望的に暗いのです。
体制側への強烈な皮肉を込めた歌詞で、聴くだけで陰鬱な気分に囚(とら)われること間違いなし。
『俺はアメリカに生まれたけれど、この自分の悲惨な運命はどうしても国家の判断ミスからそうなった』といわんばかり。「Born in the USA」は強烈な国家への皮肉を込めた、愛国反戦歌なのでした。

この愛国反戦歌の大好きなKくんは、その後無事に入隊し、今ではけっこうえらい人になっているらしい。いいよね。強烈な国家への皮肉と哀しみを、いつも好んで口ずさんでいた彼が、自衛隊のおえらい人になってるって。・・・なんか、いいでしょう?

ところで、星野源くん。
みなさんは、彼が大みそか、紅白歌合戦で歌った曲を覚えておいででしょうか。
彼の歌もまた、歌詞にとらわれずに聞くと、とても元気が出てくる。メロディやリズムに癒されながら、最後には元気が鼓舞される雰囲気がある。
紅白で熱唱したのは、「うちで踊ろう」の紅白バージョンなのですが、歌詞の中に

「僕らずっと独りだと 諦(あきら)め進もう」

というような言葉がありました。

孤独だと諦(あきら)めよ、というのですから、なかなかの言葉です。
諦める、という言葉の意味はいったいなんだろうか、と深読みしたくなる。
ともすると、なんだか鬱になりそうなほどの、暗いイメージがします。
曲は明るいのに、歌詞は暗い。このあたり、ブルーススプリングスティーンとかぶります。

しかし。

あきらめる、というのは、元は、明らめる、ということ。
あきらかにする、という意味だったそうですね。
だとすると、そんなに暗い言葉では、ない。

独り、という言葉にも、否定的なイメージを持つ人が多い?・・・かもしれないが、結局、自分が自分をお世話することを最高に楽しくやろう、という意味ですから、それがやれるのがまずは第一だというわけ。独りでもかまわないし、独りでいい。むしろ、独りでこそ、まずは自分自身を最高にお世話しようとするだろう、という。

他のためになにかしなければ、という余計な道徳観念でなにかをするわけではなく、わかりもしないのに、おせっかいな不都合を相手におしつけるわけでもない。頼まれもしない圧力ほど厄介に感じるものもないのですからな。だいたい、自分がしてほしいことを、相手が本当に理解しているはずがない。自分がしてほしいことを、一番細かく丁寧にキャッチできているのは、自分。

星野源くんの歌詞の本当の意味は、本人に直接尋ねていないから分からないけれど、緊急事態宣言が出されるかという瀬戸際で、なかなかの歌詞だったな、と思います。
ブルース・スプリングスティーンも、ときの政権や体制に向けて強烈なパンチをくらわせた歌をうたったのですが、源くんもある意味、世の中に対して強烈なパンチを見舞った感がありますね。

「僕らずっと独りだと 諦(あきら)め進もう」

まさに原点。
「自分を世話する」を全世界の人間が真剣にやる、という時代です。
まずは自分をかわいがろう。それも、とことん。

星野源

コロナで変わる学校

コロナの情勢が厳しい。
かつてない勢いで陽性の人数も増えているし、死者も増えている。
緊急事態宣言についても検討されている。
英国は一日に5万人の陽性が出て、恐怖に陥っているらしい。
なんでもこれまでのウイルスとは違う、変異したモノだとか。
学校も変わらざるを得ない。

以下、おそらくそうはならないとは思う、ならないとは思うんだけど・・・
でも、だ。
もし仮に、実際の感染者やコロナが要因と認められる死者がさらに驚くべきスピードで増加したら。
そう考えて・・・
今から、日本の小学校教師として、思考実験をやってみる。
最悪の事態を想像してみようと思う。

学校は、もしかしたら休校措置がとられるかもしれない。
また、9月入学をふたたび検討することになるかも。
もしくは、どの学年も1年の休眠措置(冬眠のような)がとられるかもしれない。

そうはならなくとも、学校はいつ休校になるやしれない。
あるいは、従来の進度を気にすることなく、大幅にその学習内容が緩和されるかもしれない。
もしくは、小学校6年間が合計8年間のように増えるかもしれない。
その8年の間に、これまでのような6年生までの分を勉強してください、というように、

これまでの8分の6に、スピードが緩和される

などの措置が出るかもしれない。
これは世界的にコロナウイルスの変異種がさらにさらに増加し、休校が繰り返されるなど、あまりにも特殊な場合の予想だ。

で、そうなると、社会が、学校が、法律が、これまでの常識が、すべて、いったん見直し。
0(ゼロ)からみなおしになりますね。ゼロからってすごいです。
家と学校とで、両方で子どもはどう日中を過ごすか、ということが大きな課題になる。
これは大きいです。本人にとっても家族にとっても、学校にとっても。

宿題をバンバンだして、課題をせっせとこなす子どもたち

というようなことでは、もうしのげないのではないか、と思うね。
だって、教えてないことも、どんどん勉強してほしいもの。

要するに、

学校で習わないことも、自分で勉強できる子ども

に育てることが、学校の大きな使命になるかもしれません。

となると、保護者の側も、大きな発想転換を求められます。
だって、子どもが自分で勉強するんですよ。学校で習ったことがないのに。
昭和・平成までの思考なら、考えられないことですな。
「学校で教えてもらってないことを、子どもが分かるはずがないでしょう」
と多くの親も考えるかもしれない。

しかし、コロナの情勢如何では、もうそうするより、他の道がなくなる、ということです。

学校はずっと休校のようになるかもしれない。これまでのようなイメージでは続けられなくなるかもしれない。
オンラインで教えればいい?
たしかにそうするのも必要でしょう。
しかし、今の大学の講義のように、オンラインがいかにやりにくいかということも分かってしまったので、メリットもあるかわりにデメリットの大きさも考えると、オンラインの授業さえできれば大丈夫、というふうにはならないでしょうね。

昨年の春以後、多くの大学がZOOMや録画等でオンラインの授業を行ったようですが、なかなか厳しい意見もあるようです。
調査では、「あなた自身が最も好ましいと考える授業形態はどちらですか」との問いに対し、「対面授業」と答えた学生が54%に上り、「Web授業」の22%を大きく上回った。

「秋学期もWeb授業が継続されるとなれば賛成ですか、反対ですか」との問いには「賛成・どちらかと言えば賛成」が40.1%、「反対・どちらかと言えば反対」が59.9%で、ほぼ6割の学生が対面授業の再開を望んだ。Web授業の継続に反対する声は下級生ほど強く、1回生では7割近くに達している。
朝日新聞Globe+の記事より抜粋


小学生でも、自分で「まなびの計画」をたてて、自分で興味を持ってしらべたり考えたりする、というのがスタンダードな学校のスタイルになってくるかもしれない。

となると、学習の計画ですね。
これを立てられるようにならないと。
そもそも、

興味を持って ⇒ しらべて ⇒ まとめてみる

このことのスタート地点に、小学生が立つこと自体が、難しいのですね。
多くの学校の先生が、いちばん苦労しているのも、そもそも興味をもってもらう、ということです。
国語も算数も社会も理科も、音楽も家庭科も体育も。
いろんな資料や情報を小出しにしながら、子どもの目がちょっときらきらしてきたり、自信をもって意見が出てくるようになってきたところで、大きな課題に向かわせる、というのが定番。

興味を持ってもらうために、子どもに物を見せたり、資料をつかませたり、話してみたり、ということが必要なんだけど、それが個別にできるかというと難しい。

でも、それをしなければ、最悪の事態に備えることができない。
ここらをずっと、この先、われわれは考えていくことになりそう。

小学校の先生の仕事の中心が、教室で知識を注入することではなくなって、
その子なりの学習計画が立てられるように支援するマネジメントが本業になってくる。
学校には、その学習計画をちょっと背中を押すために集まってきてもらう、ということかな。

どう?次の学習はどうする?
こんなのから興味をもてるかな、ちょっと本を読んでみようよ。
どうかな、まずはいろいろ見てみよう。
友だちはこんなレポートを書いて発表しているよ。どう?


こんなやりとりを、ひとりひとりが教師とやって、納得したら家に帰っていく。

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ピンチをチャンスに

世界中がピンチだ。
ピンチをチャンスにする。

どうしてそう思うかというと、無理がでてきた、ということは、
「変えろ」のサインだと思うから。

なにを変えるかというのが難しい。
「変えなきゃいかん」
と気負ってがんばったら、さらに悪くなる、ということもある。
これまでの日本はそういうことが多かった。
ひとつの答えらしきものを求めて、それがわかったと思ったら突進する。

民営化が正解だと頑張ってみたらそうでもなかった。
JRは民営化で成功した!民営化しかない!と思っていた時期が長い。
給食も民営化するとサービスが向上するはずだと思ったら、ちがっていた。
給食が民営化されたとたんにコストカットで悲惨な給食になっちゃったとか。だれも食べない給食の残飯を捨てるのにすごいコストがかかってるとか。企業はその処理費用もまた給食費に寄せるから、ますますコストカットされて・・・
ほかにも、民営化が正しいと思って突き進んだら、市民病院がつぶれて医療が崩壊とか。
つまり、「勤勉なバカほどはためいわくなものはない」という格言通りになることも多かった。

大事なのは、ひとつの答えをみつけた、と思うな、ということだ。
それが答えだと思っても、考えることをやめてはいけない。
教科書に書いてあるからとか、えらい先生が言ってるからで「正解」と決めてはいけない。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
考えることをやめると、人間社会というのはとたんに停滞する。

ソ連が崩壊したのも、マルクスレーニン主義だけが正しいとしたからだし、
江戸幕府も朱子学が国学であり、唯一の正しい学問だとしたとたんに停滞した。
蘭学が入ってこなかったら、さらに何十年も停滞しただろう。
同じように儒教だけが正解と思えば停滞するし、そんなのは歴史の枚挙にいとまがない。
人間というのは、たった一つのドグマに依存するということを、してはいけない存在らしい。

コロナで学校も毎日消毒している。
机も水道の蛇口も。
教室には常にアルコール消毒液がおかれているし、給食中はだれもしゃべらないことになっている。
子どもたちもけなげに頑張っている。

これまでのことを思い出すと、大きな声でおかわりのじゃんけんなどしていた。
それが今はできないが、おかわりじゃんけんをしていた時代がなつかしいとさえ、感じる。
もう、そのころには戻れないだろう。
学校は完全に変わった。

これからは、学校がひとを集められなくなるかもしれない。
そうなる前に、児童が自分で追究していく学習スタイルをとるしかない。
学校主導ではなく、個が確立して学ぶスタイルだ。
まだ個が確立しているとはいえない児童だからこそ、そこを支える。
もう、教科書は半分でいいのかも。
コロナに合わせて、教科書の改訂も必要かもしれない。
あるいは、教科書を全部やらんならん、という思い込みを外すか。
そのどちらかが、すでに必要になってきているのかも。

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『学びの最適化』に向けて

学びの最適化、ということが叫ばれて久しい。
なぜ最適化する必要があるかというと、人間が「学び続ける」ためでありましょう。
学校を卒業してしまったとたんに、

「あーあ、せいせいした」

というのであっては、まったく学校というのは価値がない。
その後の人生を、生涯にわたって豊かにしていくために学校がある。
そう考えたら、「一人ひとりが、自分が学び続けるための強固なエンジンを身につける」のが学校という装置であります。

学ぶというのは、常に自分の中の情報や価値観や考え方、感じ方をリフレッシュするということであって、それがなければ、ただの奴隷以下。生きる喜びは一切皆無でしょう。

自分が自分として学び続けられるようになるために。
他とともに知恵を分かち合い意見を比べることのできる身近な共同体があればなお豊かだ。
これを具体的に実現させるのが、小学校の責務だ。
現在の小学校の基本方針は、コレでありましょうし、もうすでに長いこと、こうやって学校は成り立ってきた。

さて、ところが学校の現在の実情としては、少々上記から、ずれた部分がある。
たとえば、ある子が急になにかのきっかけで、算数の熱が高まり、算数が異常におもしろく感じちゃったらどうするか。4年生なのに、方程式にめざめてしまい、代数とかに興味が出ちゃったら。
今日はもう、国語じゃなくて、社会じゃなくて、大好きな体育よりも給食よりも、なにをおいても算数、算数、となったら。

現在のカリキュラムでは対応できません。
4年生は4年生の学習をすることになってる。
しかしこれは逆にいうと、ものすごく親切に、その子にだいたい合うように、カリキュラムが組まれている、というわけで、これはこれでたいしたこと。実にすぐれたシステムがすでにできあがっている、というわけ。
しかし、これからもう一歩、頭一つ抜け出そう、というのがSociety5.0だ。

これからの学校は、
1)基本的な学年に応じた従来のカリキュラムでの学習
を基本にして
2)個別の素質や習熟度、要望に応じて組み立てることのできる学習
を付け足し、ハイブリッド型にしていくことになるだろう。

このハイブリッド方式のうちの2)を積み上げていくためには、その子なりのカルテのようなものがあったらいい。個別の学習計画と呼ばれるものだ。これを電算化して、本人や親、そして周囲のクラスメートも、さらには担任も、それを見ながら助言するようにしたらいい。


朝の10分間の活動で、子どもたちが一人一台のタブレットにアクセスし、自分のポートフォリオを見ながら計画する。

本人「よし、今度はこういう学習をしたいな」
クラスの友達「Aくん、それもいいけど、こんなのはどうかな」
親「この間家族でこんな話をしていたから、こんな勉強もつけたしたらどう?」
担任「では、図書館でこんな本があるから、これをまとめてみたらどうだろう」
クラスの友達「いいねえ。じゃあぼくも関連した勉強をするから、終わったら二人で発表会をしようよ」

これをデジタルでやる。
デジタルはこういうことは強い。
一度に情報が共有化される。
デジタルは、分類したり、仲間を見つけたり検索したりが得意だ。
このことが、「デジタルの世界が寄与できる、学びの最適化」だろうと思う。

担任は、教える、というよりも、助言する、という立場に、どんどんとなっていく気がするね。
授業の上手な、快活な先生もいいけど、いつもそっと静かに、近くにいる先生、というのも、渋くてよいでしょう?


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