人生をゲームと捉える見方がある。
自分が若い頃に寮の先輩だった人が、コンビニでバイトしていた。
廃棄寸前の弁当を激安で店長に売ってもらい、生活をしのいでいた。
その先輩は、「こうすれば家計が助かる、生活費が助かるんだ」と、生活のライフハックとして私に教えてくれた。それは、確かに重要なライフハックだったのだ。
その先輩は、他にも様々なライフハックを実行しており、とあるチェーン飲食店の株を購入して、株主優待券を使って安く外食をすることに成功し、そのこともライフハックの1つとして紹介していた。
これがいいとか悪いとかではなく、人生をゲームのようにして捉えると言う事はある意味、生活のスキルを伸ばすのに必要なことかもしれない。
生活しやすさを手に入れるにはゲームのように捉えると言う感覚はとても役立っていると思う。
しかし、人生と言う長い物語を考える場合は、ちがう。
ライフハック、というスキルだけですべてを乗り越えられるわけではない。
ライフハックを次々と攻略していくことで、この長い人生という物語に対して納得感を持って進んでいけるかと言うと、そうはいかない。
何か人生の底深いところでの納得は、ライフハックでは得られないものだ。つまりライフハックの技術をいかに手に入れたとしても、例えば恋愛や結婚とか、友達と言うようなことについては、ライフハックの出番は無い。
百歩譲って、ライフハックで、彼女を手に入れると言う事はあるかもしれない。
たしかに、会話の弾むカフェとか、相手の気に入るファッションセンスとか、そういった様々な知識がその場を楽しくすることにもなろうし、それはライフハックの1つだろう。
しかし、ここは違う。
つまり、その出会いそのものや、自分がその人を人として尊重すると言う事について、自分がなぜ彼女を愛するのかと言うことについて、自分なりの納得感を得られるか、どうか。
この「納得」ということについては、それはライフハックのスキルによって得ることでは無い。
納得は、ライフハックでは得られない。自分がなぜこの人と一緒にいたいと思うのか、この人のためになりたいと思うのか。
なぜ、自分はこの人が喜ぶ姿が見たいと思うのか。そのことについてはライフハックとは別の次元であり、自分の心がそのことに大いに反応して素直に納得がいくかどうかと言う世界であって、ライフハックスキルによるものではない。
ライフハックの技術に長けていたとしても、完全にそのことを受け入れたり、納得したりということが、できるかどうかとは無関係なのだ。
繰り返しになりますが、ライフハックの技術をいくつか知っていて、それをうまく活用できたということが悪いわけではありません。しかしそのことと、人生に起きてくる様々な物語やストーリー登場人物との関わり合いについて、自分が自分として、自分の気持ちや自分の本心自体に納得する、あるいは納得できる、ということは、何かをうまくしてやろうと言う気持ちと意欲では何とも得られないことなのです。
ヨシタケ・シンスケさんの「そういうゲーム」という本。
人生をゲーム感覚で捉えると言うことは、同時に、到達すべき目標やゴールを持ち、自分のスキルを磨いて、ゲームに勝つのだ、と言う前提を受け入れることになる。











