30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

人間あれこれ

「怒り」は強さ・・・という思い込み

怒鳴ることが強さの表明だ、と、勘違いしている文化について。

相手に共感する事は、弱さの表明だと思っている人が、います。

逆ですよね。

相手の気持ちに寄り添う事は、自分の感情を大切に保持しながらも、相手を受け止めようとするわけで、強いわけです。

これはちょっと、人によってはキツイ話ですが、相手に共感したら負けなのだ、という心的状態である方もあります。
ずっと感情的になって、子供を叱り続けてきた経験を持つ親にとっては、これを受け入れるのはかなりきつい。

共感する
→ 子どもの痛みが見える
→ その痛みの原因が自分だとわかる
→ 自分が「加害者」だったという事実
→ 自己像が崩壊する
→ 耐えられない
→ だから共感しない

体罰と怒声罵声で後輩をしごき上げる有名なスポーツクラブがあったとしましょう。これはなかなか変わらないと思います。残念ですが。

それは何故かと言うと、後輩の気持ちに共感したら、自分が加害者だと言うことがわかってしまうわけですから、耐えられないわけです。だから決して共感はできないんじゃないかなと思います。

元巨人軍の、桑田真澄さんがいますが、桑田さんは、この状況をなんとか変えようとしていろいろ発言されておりますね。

最近の教育心理学研究によれば、結局共感能力が育たないのは、以下の図式のようです。

自分が共感されなかった(幼少期の欠損)
→ 感情を識別する能力が育たなかった
→ 感情=排除すべき問題、と学習した
→ 共感=弱さ、と信じるようになった
→ 共感しないことが自己防衛になった
→ 子どもに対しても共感できない
→ 子どもも共感を学べない

ということのようです。


柔らかい感情は、どうも、「弱い」と勘違いされやすいのかも?

相手の気持ちをしなやかに受け止め、相手の感情に共感する行為は、決して、「弱さ」では無いのですがね。


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正解にする力 By 文科省

昔、文科省で教科書何か作っていた、という大学のとある先生が、面白いこと言っていました。
それは、「正解にする力」という言葉で、ちょっと面白いなと思ったのです。

教科書を作ってた位の人だから、これが正解だというのを書いてたわけです。
しかし、正解がこれだと言うのではなく、あることを、自分で環境や条件を整えて、正解にする、と言うわけです。

講演会でその言葉を聞いたとき、面白くて印象に残りました。ちょっと面白いでしょ?

最近、「正しい選択ってなんだろう」と考えることがよくあります。
仕事でも暮らしでも、後から振り返って「あっちを選んでいれば……」と頭によぎる事は、大小はあれど、誰にでもあることだと思います。

そんな時にふと思い出す言葉があります。
「電柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」

昭和の人には何か懐かしい響きに感じるかもしれませんね。

私は最初この言葉を聞いたとき、どちらかと言うと、世の中を呪うような、本当は自分だって誰か人のせいにしたいのにと言うような少し苦しい言葉なのかと思っていました。

しかし、大人になると、このことの見方が変わり、これこそ自由を謳歌するための言葉だと思うようになりました。
このことを、人生で1番深く考えたのは、25 26歳位の時でしょうか。

求めないと言うのは何なんだろうかとずっと考え続けていた時期がありました。

全て自分の責任と言う言葉がきつく感じます。確かにずいぶん極端な言い方です。

私はこの言葉を「全部を自分が背負わなければならないのだ」と言う意味ではなく、「自分で決めたと思える方が、全て解決策が見つかりやすく、次に進みやすい」と解釈して受け取るようになりました。

確かに他の何かのせいや条件のせい環境のせいだと言うふうに思うのはとても簡単なことなのですが、そう思うと何か石🪨につまずくようにして前に体重がかけられないのですね。最初の一歩が踏み出せないことがよくあります。

授業も同じ。指導も同じ。

どんな指導が正解か、どんな授業の流れ方が正解だったのか。
それは人それぞれまたその時次第です。

どんな授業でも「これ子どもの心にきっと響いた」と思えた瞬間があれば、それはもう、その時の子どもたちにとって正解だったのだと思います。

仕方なく、そうさせられたとか、世の流れ、人の流れに、巻き込まれた、というのではないのです。

自分で選んだと考える。
正解を探し続けるよりも、その時自分の目の前にあったものや自分が選んだものを少しずつ本当の意味での正解にしていく。
そんな感覚で授業も楽しめたらいいなと思っています。

ふと、通勤途中の車の窓の外を見ると、既に畑から何か緑色のものが覗いていました。
あぜ道に注意深く見ると、小さなモヤモヤとした緑色の葉っぱらしきものがたくさん伸びていました。
季節はすっかり春の気配なのですね。
植物はきっとここに生えてきたこと、ここに根を下ろしたことについて、色々と言いたい事はあるのかもしれませんが、今から時間をじっくりとかけて、しっかりと根を伸ばして、しっかりと茎を伸ばして、葉を伸ばし、自力でその場に咲いたことの正解を作っていくのだと思いました。

これは人にも言えますね。
私の息子が今年専門学校を卒業して就職しますが、自分らしくこの道を選んだこと、人生の側から自分自身に問われたことに真剣に向き合って、正解を作っていってほしいと思います。

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絶対に反省しない、謝らない、というスタイル

絶対に謝ってはいけない。謝ったらおしまいだ。

こう考える人は、割と欧米には多いと思う。
欧米の「欧」はあんまりよくわからないが、「米」の方にはなんだかやっぱり多い気がする。
とは言え、これは私の勝手な思い込みで、マスコミやその他の一般的な情報で推測しているだけ。バイアスは大きい。

有名なところでは、トランプ大統領、そして、テスラのイーロンマスク氏。自分が絶対に間違っていない、謝る必要なんて、これっぽっちもない。それが強さを示す男のあり様だ、という感じか。

それに比べると、日本人はすぐに謝ってばかりで、アメリカと日本の文化の違いをまざまざと感じる。MLBと日本のプロ野球でもそうだ。
大谷翔平選手が投手のとき、ボールを投げる際にデッドボールを投げてしまった。すると、大谷選手は相手の打者に対して謝った。この様子はニュースになった。MLBでは、投手は絶対に謝らない。いかにも日本人らしい態度だと言うので、様々な番組やPodcastニュースで取り上げられた。

おそらくこういう態度と言うのは伝染するようだ。
ゲームの世界でもそうらしい。ネットで通信しながら、世界中のプレイヤーが戦うゲームがある。日本人のプレイヤーは、ミスをすると謝るらしい。ところが、他の国の選手は絶対に自分が悪くないと言い張るそうだ。逆にお前が悪いと責める。

しかし、こう書いていたら、やっぱり日本人でも謝らない人は謝らないなと思い出してきた。私は絶対悪くないと言い張ると言うのは、世界的に見てよくあることなのだ。年配の男性のほとんどが謝らないと思います。スーパーの駐車場でドアを開いて、隣の車に当てた人が、やっぱり謝りませんでしたね。私の車ではなかったですが、通りすがりに大きな声だったので目立ちました。

逆に、気を遣って、相手のことを大丈夫かと心配する人もたくさんいます。日本人ではなくとも。つまり、その人の生い立ちなわけです。人種は関係ないですね。

保護者にも、謝らない人はいます。
しかし、つい5、6年前までにはこんな事はなかったと思うから、だんだんと人間はこのことに対しての耐性が薄れてきているのかもしれません。やはり世の中は5年10年がするとずいぶん変わるものだと思う。

「私が悪いと言うわけではないですよね?」

と、確認する保護者。
教師が保護者を責める事はほぼないと思う。
それでも、誰も自分のことを責めていないと言うことについて確認をしたいのだ。

これは、やはり幼い頃か若い頃から常に責められてきたから、こういう反応するのではないかと思う。お前のせいだと何度も何度も言い続けられてきた人は、やはり心の底で自分は悪くないと言いたかったのではあるまいか。

大人の世界に入ると、相手を責めると言う事はずいぶん少なくなる。それよりもフォローしたり、カバーしたりして状況を改善しようとしたり、その人の手の届かないところをどうやったらみんなで手が届くことにするか、と、一緒に考えようとする。

ところが、そういう話を私がしたら、

「そんなことない」

と、知り合いに否定された。
大人の世界でも、相手を責めることがよくあると言うのだ。フォローされるなんて事はなく、あんたどうするの?とずっと執拗に責められたことがあると言う。

そういう状況に置かれたら、誰だって自分が悪くないはずだと声を大にして言いたくなるに決まっている。

これまであまり責められたことがなく、幸運な人生を歩んできた人は、相手を攻めたところで、状況が変わらない事は重々承知である。
というか、仲間であるはずの身近な人間を責めたら、その人は弱ってしまい、トータルに考えると、自分のチームは弱くなる。

自分の仲間だと思えば、励まし、その人の本来の力を出せるようにフォローし、励ます。その方が、結局は自分にとって得である。

トランプさんがなぜそんなに周囲を圧迫しようとするのかを、社会学的なアプローチや心理学的なアプローチ、あるいは経営者としてのマネジメント的な立場から分析する人たちがたくさんいる。
アメリカ本国の中にも、自分の国の大統領は、一体どうしてそういう風な態度を取るのかといぶかって、その正体を知りたくなり、分析を始める人たちがたくさんいる。

そこで、話題になっているのが、次の人だ。

ロイ・コーン。

政治の勉強している人は知っているらしいです。私は知りませんでしたが。有名な人のようですね。


マッカーシズム時代に「赤狩り」の急先鋒として知られた悪名高い弁護士です。若き日のトランプ氏に、メディア対応、攻撃的な交渉術、絶対に謝罪しない姿勢など、現在のトランプ氏のスタイルに通じる多くの影響を与えたとされています。

ダイヤモンド・オンライン
映画『アプレンティス』は、トランプの台頭と彼のリーダーシップスタイルの起源に焦点を当てています。この映画は、トランプの成功の裏にある複雑な人物像と、ロイ・コーンとの師弟関係を掘り下げています。映画が描くトランプの成長物語は、彼のビジネスマンとしての側面と政治家としての手腕を理解する鍵になります。トランプのスタイル、「攻撃・攻撃・攻撃、否定・否定・否定、勝利をつかみ、決して敗北を認めるな」の元はロイ・コーンでした。

ロイさんだって、本当は人を責めたくはなかったのかもしれませんね。ロイさんにはロイさんの、生い立ちやら、師匠やら学習してきた内容やら、いろんな影響受けて、その思想を持たざるを得なかったのかもしれません。

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メキシコ国境と、麻薬の罠

私が中学校の頃、最も驚いた事件が、「アヘン戦争」でした。
こんなひどいことを、人間がやるのかと驚きました。
トランプ大統領がメキシコ国境に地上軍を派遣するというニュースがあったとき、また、その大義名分が「麻薬対策」と聞いた時、思い浮かんだのが「アヘン戦争」でした。

私は、中学校の頃に、このアヘン戦争について調べたことがあります。中学校の時の社会科の教師が偉かったですね。おそらく少ない時間数をやりくりして、時間を生み出していたのでしょう。このことだけでかなり時間を使ったと思うんです。
しかし、私には今でも印象に残っている、大切な授業体験になりました。

19世紀に起きたアヘン戦争と、いま現在アメリカを苦しめている「オピオイド危機(フェンタニル危機)」は、時代も場所もまったく違います。しかし、その中身をよく見てみると、驚くほど似た「闇の仕組み」が隠されていることがわかります。

どちらの事件も、「人々に薬物の依存症を植え付けることで莫大な利益を得る」、そして「自分たちが儲けるためなら、他人の国や社会がボロボロになってもかまわない」という冷酷なビジネスの論理で動いているからです。

私が子どもの頃に驚いたのも、この冷酷なビジネス論理と言うものに対して、でした。

かつてのアヘン戦争では、イギリスが中国(清)との貿易で大赤字になったことがきっかけでした。イギリスはその損を取り戻すために、植民地のインドで作らせた麻薬の「アヘン」を、中国へこっそり運び込んで売りつけました。
すると、瞬く間に中国中で中毒者が増え、真面目な役人や農民、さらには国を守るはずの兵士までもが仕事ができなくなってしまったのです。

国のお金は薬代としてイギリスへ流れ、清の社会は内側から崩壊していきました。これはまさに、「他国の人を病気にして支配し、富を奪い取る」という、国が主導した恐ろしい麻薬ビジネスだったと言えます。

いま、この悲劇が形を変えてアメリカで繰り返されています。きっかけは、数十年前に製薬会社が「痛みに効く魔法の安全な薬」として、強力な鎮痛薬(オピオイド)を大量に売り出したことでした。

アメリカは日本のように誰でも安く病院に行ける制度が整っていないため、怪我をした労働者などは、高い治療を受ける代わりに安価な痛み止めに頼らざるを得ませんでした。

こうして「合法的な薬」から始まった依存の連鎖は、やがてより安くて強力な、アヘンの数百倍も強い「フェンタニル」という合成麻薬に取って代わられました。現在では、毎年10万人を超える人々がこの薬物で命を落とすという、戦争以上の被害が出ているのです。

トランプ大統領は、この現状を止めるために「メキシコ国境に軍隊を送り、密輸組織(カルテル)を直接壊滅させる」という非常に強硬な姿勢を見せています。

しかし、歴史を振り返れば、力ずくで押さえ込むだけでは解決しないことがわかります。国内に「薬を欲しがる人(需要)」が大量にいる限り、一つの組織を潰しても、すぐに新しい組織がさらに強力で隠しやすい新種の薬を持って現れるからです。
実際に、フェンタニルよりもさらに数十倍も強い「ニタゼン系」という新型の合成麻薬もすでに広まり始めており、取り締まりとの「いたちごっこ」が続いています。

さらに、こうした混乱の中でトランプ大統領が見せているのは、麻薬対策だけではない大きな野心です。彼は北極圏にある巨大な島「グリーンランド」をアメリカが統治したいという意欲を隠していません。

そこには電気自動車やスマホの製造に欠かせない貴重な天然資源が眠っており、北極を通る新しい航路をコントロールする軍事拠点としても非常に重要だからです。

また、南アメリカ全体に対しても、アメリカが絶対的な主導権を握る「覇権」を広げようとしています。トランプ大統領自身が、【モンロー主義】という、これまた中学校の社会科の教科書に載っていそうな言葉を使ってスピーチしています。これは、ライバルである中国などの影響を南米から追い出し、アメリカの周辺地域を自分のルールで管理しようとする動きです。

結局、アヘン戦争から200年が経った今も、根本にある「支配と利益」の構図は変わっていません。
このことを日本人はどう受け止めていけばいいでしょうか。こういう時に、人間のふだんの思考クセが、表面に出ます。

パワハラ体質の人は、「パワーこそ正義だ」という論展開に賛同しやすい傾向があるそうです。
また、普段の暮らしの中で、あるいは生活の中で、「弱者の立場」を経験している層は、そういった覇権主義を嫌う傾向にあるようです。自分自身のトラウマが影響するんですね。自分自身の価値観をそこに投影してみるのが人間の心理ですから。

50代60代70代の男性の多くが、トランプを応援しているそうです。
また、男性だけでなく、自力でビジネスを展開したり、ある団体の長に登り詰めたような女性も同じ傾向があるようです。

逆に、自分では何もできないことがわかっていて、周囲の人の助けや支援に感謝しながら、何とか生きている、という実感を持っている人たちは、トランプ大統領のような頑固で、周囲の迷惑を顧みない強引な政策は、見ていられないものに映るようです。

この両者は、共通の言語を持ちませんから、いつまでたっても理解し合うことがありません。


日本人や米国人を問わず、ある一定の、彼を支持する層の人々には、トランプ大統領の頑固で意地を張っている姿は、「凜としたリーダーのとるべき姿」として見えているのかもしれません。

「強さを経験し、それを正義としてきた人たち」が、自分たちの価値観を守るために大統領を支持している……。
そう考えると、この騒動は単なる政治問題ではなく、「アメリカンドリームによる成功哲学」と「アンクルトムの小屋から続く差別を嫌う人権意識」の最終戦争のような様相を呈していると思えてきます。


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テスラとトヨタが、サンタのソリを設計したら

前回の話の続きです。

テスラがサンタのソリを開発するなら、超強引なそれが出来上がるでしょう。まさにモンスター・マシンの出来上がりです。

テスラの挑戦は「物理法則への挑戦」と「破壊的イノベーション」を剥き出しにした、極めて西洋的・野心的なプロダクトになるはずです。

テスラ版サンタ・システム:『The Sleigh-X(スレイ・エックス)』

1. トナカイは「完全解雇」

テスラ(イーロン・マスク)の合理性において、トナカイは真っ先に「非効率な旧時代の遺物」として切り捨てられます。

「トナカイはバイオ燃料(草)を消費し、メタンガスを排出し、睡眠を必要とする。何より時速何万キロという配送スピードに耐えられない」。テスラは迷わず、トナカイを「超高出力・電気駆動プラズマモーター」に置き換えます。
その理由は、西洋的合理性の極致として、「目的地に最短で着く」というHow(機能)を追求した結果です。トナカイはエンジニアリング上の「ボトルネック」と判断されるのです。

2. デバイス:剥き出しの「物理的パワー」

ソリの外観は、伝統的な曲線美を捨て、ステンレス鋼の多角形(サイバートラック的)なデザインになります。

自動運転(FSD: Full Self-Delivering)により、 サンタはもはや手綱を握る必要すらありません。
数億枚の屋根の画像を学習したAIが、ミリ秒単位で着陸ポイントを特定します。「サンタが操作する」という東洋的な人馬一体感よりも、「機械が人間を超越する」という西洋的進化を提示します。

あとは、ソリが常時、スターリンク接続をします。世界中の子供たちの「良い子ランク」をリアルタイムでクラウドから同期。プレゼントの在庫管理と配送ルートを0.1秒ごとに最適化します。
以上のように、電力をたくさん使いますから、12月のクリスマスイブのために、イーロンマスクは電力会社ごと支配下におこうとするでしょう。もしかしたら原発まるごと購入しようとするかもしれません。

3. AI:合理的かつ「挑戦的」なパーソナリティ

X(旧Twitter)との連動をするでしょうな。配送の様子をライブストリーミングし、それぞれのサンタの「仕事の効率」を全世界のユーザーがスコア化して競わせるでしょう。賭けの対象になるこもしれません。競馬的な・・・?もう、子どもの世界のものではなくなりますね。大人が、目を血走らせてギャンブルを始めますから。

さて、テスラに任せていたら、弱肉強食の恐ろしいサンタストーリーが始まってしまいますが、我らがトヨタだったらどうでしょうか?

トヨタ版サンタ・ソリ
『八百万(やおよろず)ハイブリッド・システム』

1. 自然の「気(エネルギー)」を乗りこなす

トヨタのソリは、テスラのように自らのエンジンパワーで空を「こじ開ける」ことはしません。
• 環境調和型・流体制御: 日本の龍が雲を呼び、風に乗るように、ソリの表面に巡らされたナノ・デバイスが周囲の「雨、雲、風、水蒸気」とダイレクトに対話します。
• 現象: 水蒸気の密度を調整して浮力を生み、風の乱れを推進力に変える。つまり、ソリそのものがパワーを持つのではなく、「自然界に満ちている力を、知能(AI)によって最適な流れ(フロー)へ変換する」ことで浮上します。

2. 動力源は、『スピリット・ハイブリッド』

ここでトヨタの代名詞である「ハイブリッド」が、物理を超えた次元で実装されます。

1)「デバイスの精密な計算」(西洋的・分析的合理性)
2)「サンタと自然との共鳴」(東洋的・神通力的な全体論)
この二つをリアルタイムで調和させる「ハイブリッド・トランスミッション」こそが、トヨタ製ソリの心臓部です。天候が荒れれば自然の力を借り、急ぎの場面ではデバイスが補佐する。この「補い合い」こそが、最も効率的で安定した飛行を実現します。

3. ドラえもん的な「自働化」デバイス

• 自働化(知能化): ソリに搭載されたAIは、単に自動で飛ぶのではなく、サンタが手綱を引く「感覚」を尊重します。
• 人馬(龍)一体: サンタの微細な精神状態を読み取り、まるでドラえもんがのび太の成長を見守るように、必要な時だけ「自然の力を操るサポート」を差し込みます。サンタは、自分が龍の背に乗って風を操っているかのような一体感を得るのです。

4. トヨタの弱点: 「ハイブリッドゆえの複雑さ」

• 弱点: すべてを調和させようとするため、システムの「深み」が無限に増していきます。
• 現象: 自然界の全ての水蒸気や風と対話しすぎるあまり、時として「今は風と対話中なので、少し待ってください」と、ソリが瞑想のような状態に入ってしまう(高度な環境最適化による一時停止)。とくにハイブリッドの場合、冬場の暖房が入りにくく、それがあったまるのに時間がかかります。また冬場は燃費が悪くなる傾向があります。
「バッテリー保護のために飛行速度を制限します(カメさんマーク点灯)」と表示され、配送スケジュールが遅延するリスクがあります。

このように、企業風土や文化が違うと設計思想が異なるために、やっぱりそこから生まれてくる製品もかなり違ったものになると思います。
トヨタは、トナカイを解雇しませんが、テスラは即刻クビと言うのも、企業風土のなせる技でしょう。

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「たくろう」本当は喋りたくない

M1で優勝した「たくろう」。
あれ以来、各局で引っ張りだこだ。

テレビで漫才を見ながら、ふと思った。
彼らは、
『本当は喋りたくない』という漫才をしてるのではないか。

話題を設定する側のきむらバンドさん。
対する赤木さんは、基本的に「ノーガード」に思える。
きむらバンドさんの振ってくる話題やワードを、慌てながらも必死になって受けて反応する。
観客はその必死さと、とっさにでてくるとっぴでウィットに富んだ返しに笑う。

私が気になったのは、赤木さんだ。
赤木さんは、何かを言いたくて、この場に出てきたのではない。
何故かわからないが、連れてこられたという感じがする。相方から言われるがまま、とりあえず来てみましたけど、という雰囲気がある。
赤木さんは、本来なら、何も話す事は無い、と言う立ち位置だ。

しかし、私たちは、赤木さんの立ち振る舞いに妙に惹きつけられてしまう。
今年のM-1は、この赤木さんが、
「すべて持って行った」
と最高の評価を得ている。

なぜ、私たちは、ここまで赤木イズムに魅力を感じるのだろうか?

ここで私が思い出すのは、竹内敏晴さんだ。

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竹内敏晴(たけうち としはる、1925年 - 2009年)さんは、日本の演出家であり、「竹内レッスン」と呼ばれる独自の身体表現・コミュニケーション論を確立した、戦後演劇界の非常に重要な人物です。

彼は「啞(あ)者は最も雄弁に語る」という言葉を残しました。彼の思想の核である「からだ」と「言葉」の関わりを象徴しています。
竹内さんの思想を紐解くと、なぜ赤木さんの姿に私たちが強く惹きつけられるのか、その理由がさらに鮮明に見えてきます。

竹内さんは、プロの役者から、重度の障害を持つ方、不登校の子どもまで、幅広い人々を対象に「レッスン」を行いました。
彼が求めたのは、あらかじめ用意された「上手な演技」ではなく、その人の「からだ」が今、この瞬間に何を感じ、どう反応しているかという生々しい事実でした。

「たくろう」の赤木さんには、「笑わせてやるぞ」というのを一切感じないでしょう?
普通の漫才は、ボケが能動的にボケて、ツッコミがそれを正します。しかし赤木さんの場合、きむらバンドさんの言葉に対して「反応せざるを得なくなって、変な出力が出てしまった」というだけです。

役者が「自分を良く見せよう」と力んでいる間は、その人の本当の姿は見えてこない。その力が抜け、途方に暮れ、ただ立ち尽くしたときに初めて、その人の「存在」が立ち上がる。

竹内さんが「啞者は最も雄弁だ」と言った背景には、彼自身が少年時代に難聴を患い、一時的に言葉を失いかけたという原体験があります。

• 言葉を操れない人は、その分、全身で他者と触れ合おうとし、からだ全体で何かを訴えかけます。
• それは、記号化された「論理的な言葉」よりもはるかに、相手の心の深層に届く「震え」のようなメッセージになります。
• 赤木さんが、言葉が詰まったり、視線を泳がせたりする時、私たちは彼が発する「言葉の内容」ではなく、彼が「そこに必死でいようとするエネルギー」そのものを受け取っているのです。

竹内さんは、コミュニケーションを「情報の伝達」ではなく、「からだ」と「からだ」が出会い、響き合うことだと定義しました。

• 赤木さんの漫才において、相方のきむらバンドさんは、いわば「世界(あるいは社会)」の象徴です。
• 赤木さんがきむらさんに合わせようとして失敗し、戸惑う姿。その「不全感」こそが、観客という「他者」と最も深く共鳴するポイントになっています。

竹内さんの視点で赤木さんを見ると、彼は「舞台上で最も無防備で、最も誠実な存在」と言えるかもしれません。

「何かを表現しようとするのではなく、そこにいることの困難に耐えている姿が、結果として最も強く他者の心を打つ」

小学校の教室にも、赤木さんのようなタイプの子はたくさんいます。うまく言えなくても、うまく伝えられなくても、それでも必死になって自分のあり様を考え、困惑しながら言葉をつむごうとする。
クラスの子たちは、この姿から学ぶことが多いです。上手にスラスラ、だけが、お手本というわけでは、決してないのです。


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尿管結石のケツマツ(結末)

背中に違和感を覚える。
背中をひねったのかな、筋肉痛かなと思う。
しかし、だんだんとその痛みが増してくる。

20代の悪夢がよみがえった。
20代と30代と40代と50代で、それぞれ1回ずつ、この恐怖の痛みを経験した。

大体、尿路結石は、人生で3回かかると言われているらしい。これは特に男性について言うんだろうと思う。
私はすでに4回目であります。
なんとなく経験があり、こんな程度だろうと言う気でいたが、今回はかなり大事になった。

木曜日の夜、寝てる間に痛くて目が覚めた。
だんだん痛みがひどくなる。これはいかんと救急病院を確認すると、なんと隣の市の病院。自分で運転できないから家族に頼もうと思うが、妻の体調も悪く、どうしようもない。だんだんと痛みが耐えががたくなってきて、うめきながら、市販薬のアセトアミノフェンを急いで口中に入れるがそんなもので効くレベルでない。
観念して救急車を呼んだ。

この時点では、尿管結石ではない可能性もあると思っていた。盲腸はまだやったことないし、十二指腸潰瘍、肝臓なのか、膵臓か。

運ばれるとすぐにCTスキャン。
膀胱のすぐ上のところに、結石が発見された。

救急隊員のお兄さんが、尿管結石は3回痛むポイントがありますからねと言っていた。

1つ目は、腎臓から尿管の出口にかけての部位。
2つ目は、お腹の真ん中あたりで、尿管が血管をまたぐ場所がある。
3つ目は尿管から膀胱に差し掛かるところ。ここが最大の難所で、今回は、まさにここであった。

そういえば、2週間位前、妙に背中が張るなぁ。凝るなぁと思って、風呂上がりに柔軟をしていたが、あれは1つ目か2つ目の前兆だったのかもしれない。

痛み止めの坐薬が効き始めると、ごく普通に話もできる。あの痛みに耐える必要もなくなったから、まぁ帰ろうということで自宅に帰った。夜間の救急を使ったために、19,000円ナリ。

ただし、これで治ったわけではなく、念のため翌日、金曜日に近所の泌尿器科に行きました。そこでもエコーで観察すると、昨日と同じ膀胱の上に結石がある。大きさ的にも流れるくらいの小さなモンだから、経過観察だと言うので、この町医者からも帰ってきた。
医者はごくこんなのは当たり前だと言うふうに、「まぁちょっと痛いけど流れますからナ、ははは」と明るく言い放ち、まぁ、あと少しですから座薬もそんなにいらんでしょ、と薬の処方はなかった。

ところがである。
土曜日の朝になって、また激痛が始まった。
やはりまだ流れないうちは痛むのである。
この時に大失敗をした。

猛烈な痛みが始まるとともに、何とか耐えようと思って、座薬を自分で入れたのだが、直腸にたどり着いたと思っていた座薬が、おそらく中途半端でしっかりと中に入らず、慌てて病院に行く支度をしている間に、外に飛び出てしまったのだ。
何と言うシマリのない穴であろうか。わが【穴】ながら情のないことである。

座薬は慌てて入れるべからず。

これを人生の座右の銘に加えておきたい。

なんでこれが失敗だったかと言うと、病院に行って、あまりにも痛いから、もう一度座薬を入れてくれと頼んだのですが、いや朝入れたんでしょうから、最低8時間は間隔を開けないと。というので、痛み止めをもらえなかったわけですね。

私は、そのおかげで、まさに七転八倒、病室の中で1番大きなうめき声をあげておりました。黙って耐えられるような痛みではなく。私よりもはるかに先輩で年上のお年寄りも何人か、カーテンの向こうで治療を受けているのがわかったんですが、皆さん私のことを1番心配されており、自分も救急で運ばれてきているのに、お隣の方は大丈夫なの?とナースに優しく聞く方がいて、私は心の中で何度も謝罪の言葉を唱えておりました。

しかし、医者は冷たく、それは当然で、私が1番命に別状なさそうなんですよ。ただ痛いだけでね。それなんで医者は私に関わる時間はほぼ30秒位で、再度、撮影したCT scanの結果を告げに来ただけで、後は基本放置されておりました。
この時、やばいのは、尿の流れが滞ることで、朝から私は結石を流そうとして、大量に水を飲んでいるのに、全く尿意がないことでした。腎臓に影響が出ていたり、完全に詰まったりしていると、大事になります。
しかし、CTの結果、全くそんな事はなく、右の尿管は確かに詰まっているが、左の腎臓と尿管は生きていて、尿を作ることができていました。なので、病院としては「では痛いでしょうが頑張ってください」で終わりでした。

私は結局座薬をさらに大量に処方してもらい、「お正月にかけて流れるでしょう。何とか年内には流れると良いですナ。ハハハ」という呑気な医者の言葉とともに、再び家に帰りました。

医者は、「8時間、いやまあ、6時間てとこで、午後1時ですな、次に坐薬を入れられるのは」と、時計を見ながら言っていた。
しかし、私は、この時、朝の座薬はしっかり入っていなかったということが確信できたので、家に帰って、すぐに座薬を入れますと、すぐに痛みが収まりました。

坐薬は強力でよく効くのに、午前中ずっと、のた打ち回っていたのは、やっぱり座薬がしっかり入ってなかったのですね。
私は座薬をキチンと入れたと思いこんでいて、本当は入っていなかったので、この大きな痛みを我慢しなければなりませんでした。医者は挿れてくれないし。・・・もう。

ところで、月曜日からどうすればいいんだろうか?
出勤して算数の授業をしながら、背中の痛みが猛烈に襲ってきたら、座薬を入れなければならない。

痛いなと感じ始めてから、15分後には、床をのたうち回るような猛烈な拷問のような痛みが襲うために、おそらく私は教室のすぐ横、すぐ隣に車を停めておいて、かつエンジンをかけっぱなしにしておき、ちょっとでも痛みを感じたら、子どもをほったらかしてすぐに車に飛び乗り、車内で座薬を入れながら自宅に帰ることになります。

そんな芸当ができるんであろうか。

55歳にもなって、まだこんなアクション俳優のようなイベントをやることになるとは思いもよりませんでした。今、小康状態なので、007ジェームスボンドの映画を見ながら、車にひらりと飛び乗るシーンを何度も見返してイメージトレーニングをすることにします。

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これは戦時中の「森永製菓」の広告。
爆弾のチョコレートですが、私はもうこれは完全に坐薬だろうと思ってしまいますナ。

人生はゲーム・・・か?

人生をゲームと捉える見方がある。


自分が若い頃に寮の先輩だった人が、コンビニでバイトしていた。

廃棄寸前の弁当を激安で店長に売ってもらい、生活をしのいでいた。

その先輩は、「こうすれば家計が助かる、生活費が助かるんだ」と、生活のライフハックとして私に教えてくれた。それは、確かに重要なライフハックだったのだ。

その先輩は、他にも様々なライフハックを実行しており、とあるチェーン飲食店の株を購入して、株主優待券を使って安く外食をすることに成功し、そのこともライフハックの1つとして紹介していた。


これがいいとか悪いとかではなく、人生をゲームのようにして捉えると言う事はある意味、生活のスキルを伸ばすのに必要なことかもしれない。

生活しやすさを手に入れるにはゲームのように捉えると言う感覚はとても役立っていると思う。


しかし、人生と言う長い物語を考える場合は、ちがう。

ライフハック、というスキルだけですべてを乗り越えられるわけではない。

ライフハックを次々と攻略していくことで、この長い人生という物語に対して納得感を持って進んでいけるかと言うと、そうはいかない。

何か人生の底深いところでの納得は、ライフハックでは得られないものだ。つまりライフハックの技術をいかに手に入れたとしても、例えば恋愛や結婚とか、友達と言うようなことについては、ライフハックの出番は無い。


百歩譲って、ライフハックで、彼女を手に入れると言う事はあるかもしれない。

たしかに、会話の弾むカフェとか、相手の気に入るファッションセンスとか、そういった様々な知識がその場を楽しくすることにもなろうし、それはライフハックの1つだろう。


しかし、ここは違う。

つまり、その出会いそのものや、自分がその人を人として尊重すると言う事について、自分がなぜ彼女を愛するのかと言うことについて、自分なりの納得感を得られるか、どうか。

この「納得」ということについては、それはライフハックのスキルによって得ることでは無い。


納得は、ライフハックでは得られない。自分がなぜこの人と一緒にいたいと思うのか、この人のためになりたいと思うのか。

なぜ、自分はこの人が喜ぶ姿が見たいと思うのか。そのことについてはライフハックとは別の次元であり、自分の心がそのことに大いに反応して素直に納得がいくかどうかと言う世界であって、ライフハックスキルによるものではない。


ライフハックの技術に長けていたとしても、完全にそのことを受け入れたり、納得したりということが、できるかどうかとは無関係なのだ。


繰り返しになりますが、ライフハックの技術をいくつか知っていて、それをうまく活用できたということが悪いわけではありません。しかしそのことと、人生に起きてくる様々な物語やストーリー登場人物との関わり合いについて、自分が自分として、自分の気持ちや自分の本心自体に納得する、あるいは納得できる、ということは、何かをうまくしてやろうと言う気持ちと意欲では何とも得られないことなのです。


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ヨシタケ・シンスケさんの「そういうゲーム」という本。

人生をゲーム感覚で捉えると言うことは、同時に、到達すべき目標やゴールを持ち、自分のスキルを磨いて、ゲームに勝つのだ、と言う前提を受け入れることになる。



ところが、その先にあるのは一体なんだろうと言う事は、この本には一切示されておらず、ただ虚しさと空虚感だけが漂うことを読者は感じる。
この本にないのは、たったひとつ、自分の存在や、自分の人生についての「納得」。
逆に言うと、このゲームに乗るか乗らないか、参加するかしないかと言う事とは一切無関係に、自分はこれをしよう。よし。自分はこれで良い。よし自分はうまくやっている、と、自分自身が納得しさえすれば、あっという間に自分の人生は、充足し満たされるということであります。








赤ちゃんタイム!

赤ちゃんて、よくまじまじと見てきますね。
赤ちゃんをこちらが見てるんですが、そうと思えない時もあります。赤ちゃんが私を観察しているんだなと思う時があります。
眼力(ガンリキ)が赤ちゃんの方が数倍強い場合です。

大人はこの場合大抵負けます。
大人には時間がないからですね。
観察しても、「あ、大体わかった」と、時間を節約しようとします。

ところが、赤ちゃんには時間がもったいないなどと言う概念がありません。これの観察が終わったら、次はあれをして、それが終わったらこれをしてという予定もないからです。

なので、もう時間を超越してこっちを見てきます。大人はその目力に、屈服するほかありません。

私はまだ孫がおらんので、つい最近出会った赤ちゃんは、なんとクラスの保護者懇談会でした。
個人懇談の場に、赤ちゃんを抱っこしておいでになったのです。

こういう場合、話の半分が、クラスのその子のことではなく、半分が赤ちゃんの話題になることありますね。そうならない場合もありますが、そうなる場合もあります。

その日は、赤ちゃんの話題になってしまいました。その子が宿題をやってこないと言うことをお母さんに直接、訴えようかと思ったんですが。

言葉の切っ先が鈍りました。

小学校3年生の息子も可愛いが、この子も可愛い。

ほとんどの文脈はそうなりました。
仕方ないです。
で、その赤ちゃんは、私を生まれて初めて見る宇宙人のように、マジマジと見てきました。

私がしゃべる様子を、ずっと、「なんだ、こいつは」と言う目つきで見続けてくるのです。

私は人生はこうあるべきだと思いました。
人生なんて、生まれてから死ぬまでのことです。
時間をどのように使うかなんて、自分が勝手に決めれば良いことです。人間と言うのは誰からも自由であるべきで、本当はそう生きるべきです。

ですから、この赤ちゃんのように、次の予定がどうこうなんてスケジュール帳めくって、考え込まなくても、興味があることに邁進していくのが本当だと思います。

ところでスケジュール帳なんて、なんであるんでしょうか?
効率よく進めたいから?

朝のルーティーン、昼のルーティーン、夜のルーティーン。
全部こなすといろいろ良いことが起きますか?

ところが、長年人間を続けていますと、このマンネリにも似た、惰性で続けているような、ルーティーンが1番心地がいいんですね。

しかし、そのルーティーンばかり続けていると、部屋は片付くし、灯油はちゃんと買ってあるし、ゴミはちゃんと捨ててあるし、タイヤの交換もきちんと済むのですが、それだけで1日が終わってしまいます。

そこでこの赤ちゃんタイムです。
時間を忘れて興味のあることにずっと自分の矢印を向ける。
この赤ちゃんタイムが何よりも貴重です。

私は日曜日の午前中は赤ちゃんタイムにしています。予定は空けておくのです。スケジュール帳には何も書かないんです。赤ちゃんタイムの予定も立てないのです。赤ちゃんタイムに何をするかは事前に決めないのです。その時の心の発動に100%人生をかけるのです。

ところが今日は溜まっていたガラス瓶の処理や紙ゴミの片付けとか、息子がインフルエンザになったので、冷えピタを買いに行ったりとか、そんなことで赤ちゃんタイムが消費されてしまいました。

いえ、この消費されたと言う感覚自体がダメなんです。

集中した赤ちゃんタイムを興味、100%でやりきった、と考えた方が良いです。

結論、赤ちゃんタイムは赤ちゃんにしかできないことがわかりました。
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5時になると変わるもの

それは、ビジネスマンとしての意識と、家族や家庭の中の養育者としての意識です。

この切り分けが難しい。
あるいは変身するのが難しい。
企業で競争したあと、家に帰宅したら、養育者にならなきゃいけない。

競争の意識から、養育者の意識に変換されなきゃいけない。これが難しい。帰宅するときの電車の中や車の中で、駅のホームで、じわじわと自分の意識が180度、変わらなきゃいけない。

ビジネスマンで競争していた人が、そのままの競争式で子供に接すると、おそらく余裕は無い。
脅し文句が多くなる。〇〇しないと、だめだ、と強く成果を求めるようになる。これは当たり前だ。夕方5時や6時まではその意識だったんだから。

もっと効率よく成果を上げろ!

親からプレッシャーをかけられた子供は、失敗は許されないと感じるとともに、相手が弱くなれば良いのだ、見た目の点数が上がれば良いのだと、自分を守るための、卑怯なメンタルまで持つようになる。

学校のクラスの友達で、成績の良い子が風邪で休むと、今度のテストで順位が上がると喜ぶ子。

1000円あげるから、俺の宿題やってよ、と、金で労働(宿題などのハードワーク)を買う子。

これは、市場原理をそのまま、学校や子育ての現場に持ち込むと、始まる病理です。

非常に大きな勘違いなのは、欲しいのは学力ではない、必要なのは、いわゆる学力ではないと言うことです。
ところが、親は、見た目の学力を欲しがります。これが親のビジネスモデルなのですが、その結果、効率よく子供の商品価値を上げようとするわけです。

ところが、大事なのは、

「市場で勝つために必要なのは、単なる学力ではなく、失敗から立ち直る力(レジリエンス)や創造性だ」

と、いうことです。
この失敗から、立ち直る力は、叱咤激励だけでは生まれないわけです。たとえ傷ついたり破れても、一旦ベースキャンプに戻って、傷を癒し、自分の力を蓄え直して、作戦を練り直して挑むことが大事であり、諦めずにチャレンジすれば、新たな価値を創造できるのだと言うことを、温かい家庭から学ぶしかないのですね。

これは体験するしかない。

養育者に必要な視点とは、このように時間的にも気持ち的にも、失敗する余裕を与えることです。
ところが、その養育者である親は、つい1時間前までは企業戦士だったわけで、顧客や株主に対しては、競争意識を見せつける必要があります。他社には負けない、他店には負けない、という、競争意識を受け入れて、その役割をスマートに演じ切ります。健全な市場原理と、経済的な競争は、今の資本主義社会では普遍的なものです。夕方5時までは少なくともこの意識が必要です。

家庭に帰ったら、失敗は逆に良いものになってくるわけです。その失敗を乗り越えるチャンスが生まれたからです。そしてそう考えられる余裕は、負けたら終わりだとする企業の意識ではなく、家庭の養育者と言う意識の中から生まれるわけです。

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年をとるとイライラする理由

スーパーの駐車場で、パパ、パパーッと連続してクラクションが鳴りました。
私は店を出てすぐだったので、ちょっと離れたその景色を見ました。
すると、若い女性が子供の手をひいて、入り口の方へとこちらへ向かってくるのでした。
そして、クラクションを鳴らした車は、その女性と子供が邪魔だったのでしょう。

とっても、イライラしたようなクラクションの鳴らし方で、私は女性が何かとんでもなくひどいことをしたのかと疑いました。

私の目の前で、おばさん2人が、何あれ?、と言いました。

わかりません。
子供が何か危険な真似をしたのでしょうか?
それとも歩き方が単に遅かったのでしょうか?

それにしても、強引で、圧迫感のある鳴らし方でした。ついそちらを見てわかったのは、運転していたのがおじいさん?だったことです。

60代か70代か。

どうして、あんな風にイライラしたのか、わかりません。
でも、ほんの少し、おじいさんの気持ちもわかる気がします。

もう、自分の人生を振り返って、マイナスの方が大きいんだと思います。
楽しいことも少なかった。苦労ばかりした。
それに引き換え、報われることの少ない人生だった。悔しくてならないんだろうと思います。
誰も自分のことを尊重してくれない。
誰も自分に良くしてくれない。

そういったマイナス感情が積もり、積もった場合は、その矛先は他人に向きます。DVと同じで。
また、自分よりも強い相手には向かいません。
自分よりも弱そうに見える、おじいさんには、そう見える相手に向かうのです。実際にはそうでなくても。

ただ、おじいさんの気持ちになってみると、とにかく自分には時間がないから、目先のことだけよくしてほしいと言う気持ちにもなるかと思います。遠い将来のためになんて言う政策は嫌いで、持続可能と言うのも嫌いです。他人の将来なんて関係がない。とにかく我が身が気持ち良ければ良いと言う感覚でしょう。

残りの人生がハッピーであれば、世界全体の持続可能なんて、そんなことまで考慮しなくても良いと言う極端な考えの人も中には混じっています。めったにいないと思いますが。そういう考えの人がいる可能性はあります。中には「俺の言う通りにすれば良いんだ」と、話し合いまで拒絶する人も。

民主主義はとにかく時間がかかりますが、それは大勢の意見を公平に聞こうとするためです。
このプロセスがあまりにも効率が悪いとして、矢継ぎ早に効率よく政策を進めたがる人もいます。その方が効率が良いと。良い政策であれば、自然とその良さが後でわかるんだ、と。

しかし、その強引さは、かえって非効率になります。大勢の人の気持ちがついていかず、共感を得られず、協力してもらえないから。

日本の国がマイナーカードの普及に相当苦労している様子を見て思ったことがあります。これは進め方のプロセスにかなり問題があったなと。
国民に大いに理解、共感してもらえてから進めていけばよかったのです。いろいろな疑問点やそのことが果たして良いことにつながるかどうかと言う確信が、国民の間にまだまだ生まれてきていない状況で、ポイント、還元等と言う目先のにんじんをぶら下げるような政策は不評を買いました。よくないことを強引に進めようとしていると言う感じや印象が広まってしまったのです。効率よく進めたい、そのことに溺れてしまったのだと思います。そうではなく、民主主義のプロセスを踏めば良かったのです。そうすれば最初は時間がかかるように見えても、共感を得てたちまち広がったでしょう。

民主主義は非効率に見えて、かえって短期的な快楽に溺れやすい人間の思考を抑えてくれます。
公平に意見を聞く態度は、一見すると非効率に見えるが、多くの人が考えのプロセスを共有できるために、多くの納得が生まれます。そのため、かえって効率の良い進め方となるわけです。民主主義は一見非効率だけど、実際には効率的と呼ばれています。

クラクションを鳴らすおじいさんにとってみたら、話しかけて、もっと早く歩いて欲しいとか、危ないですよとか何とかやるよりも、パパーッと鳴らして、脅かしてやるのが効率的と思ったのでしょう。おじいさんの虚栄心は、それで満足しましたが、それを見ていた多くの人たちの気持ちは、ずいぶんざわついたと思います。おじいさんは、そこまで俯瞰的に見ることはできないのです。

クラクションを鳴らして脅かしてやれ!
こういう、「相手の心情などどうでも良い、すぐに脅かせば良いのだ」する権威主義は、俺が権威なのだから言うことを聞けと言うことです。
女子供は黙って家に引っ込んでいろと、極端に考える人までいます。

政治家が目の前の事しか見えなくなってくると、やけに勇ましい口調に変わりますね。統率したがる、命令したがる、自分は偉いんだと言いたがる、部下に、あれこれやらせたがる、椅子を引かせたり、ドアを開けさせたりします。極め付けは民主主義の悪口を言い始めます。遠回りだけども、本当は効率的である民主主義を馬鹿にし、権威主義になっていくのです。

こういう政治家が増えると、その結果、権威の言うことさえ聞いておればよい、と考える人が増えます。これは短期的に見ると楽で簡単に世の中を変えていけますが、長期的に見ると、自分がこの国を支えるんだと言う愛国者は激減します。どうせこの国のやることなんて、と他人事でつまらないと感じるようになり、自分の国だと言う感覚が薄れて、国力は落ちていくでしょう。「女子供は家に引っ込んでろ」の家父長制度と権威主義は、まさに国を滅ぼす考え方だと言えます。

女性の天皇はまかりならん、と強く、憤るおじいさんもいます。何故かと問い詰めていくと、自分が男性だからと言う理由です。アホらしいです。

それでも、私だって、我が身を振り返ると危険なんです。
もうすでに、50代半ば。
あと何年かで還暦です。
完全に中年のオヤジであり、どちらかと言うと、家父長制度のような権威主義の誘惑を感じることだってあるのです。
私が一言言えば、全員がその指示を受け入れ、統率された動きを見せるなんて!すげえ!と、誘惑にかられますね。本当はめちゃくちゃ気持ち悪いけど。

権威主義という誘惑に負けたおっさんたちの、いわば、最後の砦が、そろそろ崩れようとしています。それが選択的夫婦別姓です。

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道徳の授業で「認知」について考える

認知と言うのは、非常に大きなテーマ。
同じ現象を見ても、1人はAを見ていて、もう1人はBを見ているから、結論が真反対になることもある。
子供時代にこういったことをしっかりと勉強しておくのは、その子の人生にとって非常に役に立つと思う。

そこで道徳の授業では、認知理論を取り入れることにする。といっても、そんなに難しいことではなく、盲人が象を撫でるときの例えを何度も繰り返すだけです。
しかし、子どもにはこの授業は非常にウケが良い。本当だ、この間もこんなことがあったと言うように、子ども同士で話が尽きないように盛り上がってくる。

給食のカレーは辛いかどうかでも、それぞれの主張が異なる。同じものを食べてるんでしょう。どっちかに決めてよ、同じものなんだから、同じ結論が出るでしょう、と私は煽る。
ところが、最初は、そのセリフを素直に聞いていた子供たちが、

「同じものを食べても、人によって感じ方は違うんだから、このカレーは辛い、ってわけじゃないよ」

と、小学校3年生でも全員が全員、そう言うようになってくる。

給食の時に、ミルメーク、というのが出た。
これを牛乳の中に溶かして飲むと最高においしい(甘い)。

ところが、これが苦手だと言う子が、クラスには1人いる。これがなんとも不思議だ。

その子に全員が全員不思議そうに尋ねている。
「えっちゃんなんでミルメイク残すの?」
すると、その子は、何とか苦労して、その理由らしきものをひねり出す。
要するに、あんまり美味しくないと言う意味の言葉だ。

これも道徳の授業の時に取り上げると、様々な意見が出てくる。

おいしいとか美味しくないとか、そんなのは人の感覚なんだから、ミルメークがおいしい、と言ってしまってはダメで、私はおいしいと思うと言う意見なら言えるはずだ、と認知についての考えをしっかりと整理できる子が出てくる。

「だから、ミルメークは美味しい、というのは良くないんだよ。そうじゃあないんだから」

とか、言う。

それを聞いて私は黒板に大きな図を書き、ミルメークをど真ん中に書いて、これはなあに?と尋ねる。

「それはミルメーク!」

わたしが
「では、これは美味しいものとは・・・」
と水を向けると
「そうは言えない!」
「あ、そう。じゃあまずいものと・・・」
「それも言えない!」

世の中のすべてのものって、みんな良いものだとか、悪いものだとか、おいしいものだとか、まずいものだとか、青いとか黄色とか、難しいとか簡単とかいろいろ言うよね。じゃあ、そういうのって・・・

「それがそうと言うわけでなくって、自分はそう思ったってこと」

この授業の後に、子供たちがまとめた振り返り用紙が面白かったです。

ある子か書いたのは、

「自分は大きな丸いシャボン玉のようなボールの中にいるみたいです。それがからいかどうかは本当はわからないのに、私はからいとか辛くないとか言います。だから本当はシャボン玉の外の事はよくわかってないと思います」

これは、プラトンの洞窟の例えに少し似ていて面白い。
小学校3年生だから、もちろん哲学の話をしたり、勉強したりは一切ない。
でも、その中身とよく似たような事はちゃんと考えることができている。私はなぜこのカレーを辛いと言っちゃうんだろう。私はそう思ったと言えばいいのに・・・。つい、このカレーは辛いよね、と言ってしまっている。

それだけでも小学校3年生で45分間の授業は白熱する。イデアの世界への本の入り口が道徳の授業にはある。

道徳の教科書の中身を見てみると、ほとんどがこういう話が多い。Aさんにとっては丸く見えるものがBさんにとっては四角く見えると言うものだ。

こういう授業を繰り返していると、私は一切そんな言葉を使ってないのに、子供から出てくる言葉があります。それが・・・

キメツケ。

私はこの4文字の言葉を聞くと、なんだかしばらく、遠くの景色を眺めていたくなる。

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学級のリーダーを決めない理由

私は転職をして教師になりました。
教師になったのが35歳の時。
18歳で家を離れ、20歳の時から働き始めました。大学は卒業していません。

20歳の時から15年間、リーダーってなんだろうと真剣に考えてきました。
リーダーと言うものを決めない組織にいたからです。一応、リーダーらしき存在はいたのですが、それがまた、コロコロと変わるのが特徴でした。
第一、上司が誰だかよくわからないようなスタートで、上司に対してタメ口をきいても何も言われず、中学や高校で培った「先輩・後輩文化」が自分の中で崩れていくのがわかりました。

そんなことから、私は担任になって、学級長を決めたことがたったの1回しかありません。教師になった最初の年だけです。隣の学年主任の真似を全てしていたので、学級長を決めていました。

私は、どうも、教師になる前の15年間で、リーダーと言うのは、どこかの権威が決めて良いものではないと言うような予感がしておりました。
自然にできたものならいいんです。そういうものは誰しもが納得しているからです。
なんとなく、

「この人が中心だといいな」
「この人がまとめてくれるとすごく安心できるな」

というような存在っているんですよね。
ありがたい存在です。
みんなで支えていきます。

そういう存在が、いない時もあります。それはちょっと寂しいです。でも、組織が、まだ未発達の段階では、どんな組織であっても、よくあることだと思います。まだ、構成員一人ひとりが、個性を出せていない段階で、集団としての方向性もまだ組み立てている最中と言うような時ですね。
そんな未成熟な組織の段階であれば、誰が中心だと良いのか、誰がどんな人なのか、まだお互いに探り合っている段階ですから、この人がいいなと言うものもまだ出てこないんです。また、中心になるのにふさわしい人物本人も、あっ、俺が中心でやればいいんだな、よし、声をかけていこう、とまでみんなの気持ちを受けたり、感じ取ったりすることができていないです。

ですから、リーダーという存在がいるというのは、なかなか奇跡的なことだと思います。

ところが、先生は鶴の一声で、その奇跡が起こせちゃうのですな。

「はい、学級長を決めるよ。◯◯さんにしてもらいます」とか、
「誰か推薦してくれる?多数決で決めていいよ」とか。

これを言えば、ほぼ当日中に決まりますね。クラスのリーダーは。

私は、この点がどうしてもしっくり来ず、仲の良くなった先輩に聞いてみたことがあるんです。

「学級長って決めたほうがいいんですか?」

そうすると、その先輩は正直に教えてくれました。

「そのリーダー役をやった子が、その立場を経験することで、学ぶことがたくさんあるでしょう。うまくいくことだけではないけど、その子自身は随分と学べるでしょう。だからやる価値はあると思うね」

いかがですか?
皆さんはどう思われるでしょうか?

私はそれを聞いて、あっ、だったらやめておこう、と即断しました。

その子が学べるだけと言うのであれば、大した事はありません。大事なのは全員を巻き込んだ40名なら40名の学びが大事なんです。私は1人よりも40名の学びを取りたいと思いました。

そこでその後、一切リーダーや学級長と言う立場を決めることをしてきませんでした。
そのかわり、エネルギーを注いだのは、本音が言えるクラスということです。単純なゲームをたくさんやって、単純によく笑って、友達の気持ちを代弁することをたくさんやって、こんな気持ちだったのかな本当はこうしたかったのかなと言うことをたくさんたくさん話をして。

まぁ、そうしてきますと、リーダーってやっぱ出てくるんですナ。
じわっ、じわっ、とね。
あぁよくそこまで気を遣って考えてくれたんだな。
あぁ、〇〇さんの気持ちをうんと分かろうとしてくれてたんだ。
みんなが良くなるようにって考えてくれて、その発言になったんだね。
もちろん、そうやってフィードバックを返していきます。クラス全体で、話します。

「◯◯くんが言うと、何か知らんけど、説得力あるよね(笑)」と、ひょうきんな男の子が言ってくれたりします。するとそこにそうだよなぁと言う空気が生まれる。

この時が級長と言う名前はなくても、学級長の役割をする人が存在していると言うことです。

これを4月の最初に、じゃあAさんにやってもらうね、と決めていくと、まぁ形はスムーズに流れるかも分かりませんが、役割を背負った本人も苦しむケースがあるし、その子がリーダーの役割を勘違いして、指示や命令を繰り返すようになれば、一気に学級は崩壊していきます。

担任が「長」と名のつく立場に対して、係、という以上のなにかを求めるから、おかしなことになるので、係だと認識しているのであれば、まだ被害は防げると思います。でもまあ、結局はそれを決めない方が、子供たちに誤解を与えずに済むと言う点で、良いことがあると思います。

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NHKドラマ『あんぱん』の考察

もう4年も前になるだろうか。
やなせたなしさんの、アンパンマンについての文章が6年生の教科書に載っており、その授業について書いたことがある。

さて、今週の『あんぱん』の総集編を土曜日に見た。そして、あれっ?と思った。

いよいよ、やなせさんの生きる哲学の核心である、【絶対的な善】についての解釈が明らかになるかと思って待っていたのだが。

ところがストーリーはそうは進まなかった。

もしかしたら、多くの読者に刺激を与えないように、マイルドな表現になってしまっているのか・・・。やなせさんはそんな生易しいレベルで生きてきた人ではないので、私としてはしっかりと、人を殺すことの地獄と究極の善、について、ドラマの中でも描写して欲しかった。

たしかにまだ物語が終わったわけではない。これからそのシーンが出てくるのかもしれないが、なんだか嫌な予感がするナ。

NHKのドラマの作者としては、人を殺すと言うことについての実体験を持つ人たちを刺激するわけにはいかないのかもしれない。

8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式で石破総理が式辞を述べた。この式典では、先の大戦で亡くなられた全ての人々を追悼し、戦争の惨禍を二度と繰り返さないという不戦の誓いを改めて表明した。13年ぶりに「反省」という言葉を使ったことが特に注目された。

私はここでの反省と言うのは、人を殺したことについての反省、人を人として扱わなかったことについて、反省する、そういう意味だと思う。
そして、そのことが、まさにやなせさんがアンパンマンを生み出した原動力だったと思う。

しかしドラマでは、どちらかと言うとやなせさんの夢を追う姿勢やアイデンティティーの確立、というところに主眼が置かれていたように思う。


ご存知の通り、やなせたかしは、『手のひらを太陽に』の歌の歌詞を書いた。いずみたくが作曲し、これは大ヒット。やなせたかしは、漫画家になる前に、詩人として大成功をしてしまう。

ドラマでは、やなせ崇(やなせたかし)の「漫画家になりたい」という強い思いと、「詩人として成功した」という現実の間の葛藤を強調して描いている。

「手のひらを太陽に」のヒットによって、崇が詩人として一躍有名になり、漫画を描く時間がなくなるほどの忙しさを経験するのだが、漫画家としてはなかなか芽が出ず、自分の夢が遠ざかっていくように感じる。
このように、ドラマは「どちらか一方しか成功できない」という状況を作り出すことで、崇の苦悩をより強く表現した。この葛藤こそが、後の「アンパンマン」の誕生につながる重要な経験だったと描いているのです。

実際のやなせたかしは、詩人やイラストレーター、デザイナーなど、多岐にわたる分野で活躍していました。しかし、漫画家としては長年苦労し、アンパンマンがブレイクするまでは「売れない漫画家」としての時期が長く続きました。
ドラマは、この「売れない漫画家」としての苦悩を、「詩人としての成功」と対比させることで、よりわかりやすく、視聴者の心に響く物語にしているわけです。
つまり、
詩人として成功 → 漫画家になりたい夢との葛藤 → 漫画家としてアンパンマンを創作 → 大成功
という物語の流れを強調することで、やなせたかしの人生の軌跡と『アンパンマン』のテーマを深く結びつけているのです。

私は、少しだけ不安に思う。
これだけでは、視聴者が本当にやなせたかしを理解したとは言えないだろうと言う点。
自分のこだわりの夢を追い続けることではなく、目の前の人の要望や願いに沿ってその要望を受け入れることで、自分の夢との折り合いをつけ、多くの人を楽しませることが大切だ、とならないか。自分のこだわりや夢と、世の多くの人たちの要望に答えようとする役割任務の遂行者としての納得から、アンパンマンが生まれた、となってしまわないか。 

アンパンマンが最初に登場した時、多くの読者から反響があり、「こんなのはヒーローではない」「ただ食べ物を分け与えるなんて、いやらしい偽善だ」「えらそうに食い物で人を釣るな」と叩かれた。
その、偽善だ、という世間の評価に全く怯まず、自分自身の絶対的な価値観を信じ続けたこと。
なぜ、怯むことがなかったのか。
なぜ、反響が悪くても、あんぱんまんを書き続けようとしたのか。

もしかしたら、この続きで、きちんと明らかになるかもしれないな。来週の放送が楽しみでならない。人を殺す地獄、が、きちんと描写されるかどうか、だ。
(この点の論考は、本記事の1番上にあるリンク先から、「戦争とは何か」について6年生の女の子がたどりついた結論を参照してください)

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学級経営のむずかしさを世間が理解できない点

学級経営、という言葉があり、その難しさをまだまだ世間は理解していない、と思うことがあります。
子どもは人間ですから、さまざまなことを考えます。そして、します。

学習指導要領は、子どもがいろんなことをする、というのを外して考えている気がします。
よくある間違いは、

教えたら、わかるはずだ

という勘違い。

次は、

教えたら、覚えているはずだ

というもの。

さらにその次は、子どもは前を向いて座る、という勘違い。

全くもって、そんなことは当然では無い。できて当たり前なものではないです。

でもまあ、このへんまではよく言われることだし、世間の人も承知していると思います。
なぜなら、まったくもってこれ、大人だっておなじてすからね。

もっと話を進めると、このへんは世間の人々が分かってないことかも、というのがあります。
例えば、

子どもはみんな健康な状態で登校する

とか。実際には、普通に、発熱しながら登校します。これは保護者が悪いのではありません。保護者が休めない勤務体系そのもの、つまり日本の雇用システムそのものに、課題があるのです、

また、これも世間では知られてないと思われるのが、一度やれたことは、できるようになった、という判断。つまり、昨日できたことは、今日もできる、と思ってる、ということです。
「昨日、みんなでやったでしよ!」と思うのですよ。「あんとき、できたでしょ!」と。

ところが、そうはいかない。

あとは、

子どもは学校生活以外は悩みが無い、という誤解。いえ、子どもの心は、部活のこと、放課後デイのこと、児童クラブのこと、塾のこと、親のこと、兄弟のこと、さまざまなことで、心はちりぢりバラバラに乱れております。

こういうこと、文科省はどう考えているのだろう、と不思議に思う。よく、10教科も詰め込んだ
ナ、と。よく夕方まで詰め込んだな、狭い教室に35人も詰め込んだな、下校時間が16:00、歩いてうちに帰る頃は、冬なら日が翳って暗くなりますが。文科省は、よくやるよなぁ、と。凄いことを計画するな、と思います。

常に空腹を、訴える子もいます。
これも親が悪いのではありません。
余裕が無いのです。
今の社会システムでやってると、親にはとうてい、余裕なんてありゃしないのです。

さあ、夏休みもあとわずか。
8月が終わると、2学期が始まります。

いろんな状態の子が、登校します。
授業よりも先にやることがありそうです。
そして、十分にそこをサポートすると、子どもは元気になって、自ら学び始めます。大人もまったく同じですよ。心と気持ちがサポートされて、自分はこれで大丈夫だ!と思うことができたら、力を発揮したくなるのですし、人の役に立って、笑顔が見られることが喜びになるのですね。

何よりも、無事故で、教室に集まれたことを一日中、喜びあいたいと思うね。

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ヒトラーの「わが闘争」の論理的破綻

私のブログを読んだ方が、我が闘争の論理的破綻ってなんですか?
と、質問してこられたので。

というか、質問してきた人は、とっても身近な人なのですが。

ヒトラーは、我が闘争で、なぜユダヤ人を差別すべきかについて書いております。


ヒトラーは『我が闘争』の中で、アーリア人とユダヤ人の結婚を避けるべきだと強く主張していますが、その説明は「論理的」というよりは、彼の人種主義的なイデオロギーに基づくものです。彼は科学的な根拠や客観的なデータを用いて説明するのではなく、感情的な訴え、疑似科学的な主張、そして歴史的な誤解を交えながら、ユダヤ人をドイツ社会にとっての脅威として描き出しました。

具体的には、彼は以下のような主張を展開しました。

 * アーリア人の人種的純粋性の維持

ヒトラーは、アーリア人が文化創造の担い手であり、人類の進歩の原動力であると信じていました。彼は、アーリア人の「高貴な」特質が、他民族、特に彼が「劣等」と見なしたユダヤ人との混血によって「汚染」されることを恐れました。彼は、人種の混淆が最終的にはアーリア人の文化的・精神的衰退につながると主張しました。

 * ユダヤ人の「劣等性」と「寄生性」

ヒトラーは、ユダヤ人を特定の国家や文化を持たない「寄生的な」民族であり、他国の文化や経済を蝕む存在だと描写しました。彼は、ユダヤ人がドイツ社会に溶け込もうとしているのは、ドイツ民族の「純粋性」を内部から破壊し、最終的にドイツを支配するための陰謀であると主張しました。この「寄生性」という概念は、彼がユダヤ人を社会にとっての「病原菌」や「癌」のように見なしていたことを示しています。

 * 遺伝の法則の誤用

ヒトラーは、ダーウィンの進化論やメンデルの遺伝学を都合よく解釈し、人種間の遺伝的差異が不可逆的であると主張しました。彼は、ユダヤ人との混血は、ユダヤ人の「負の遺伝的特質」がアーリア人に引き継がれることになり、それが子孫に悪影響を及ぼすと説きました。しかし、これは当時の遺伝学の理解を恣意的に歪めたものであり、科学的な根拠はありません。

 * 歴史の歪曲と陰謀論

ヒトラーは、歴史上の様々な出来事を、ユダヤ人が裏で操り、アーリア人(ドイツ人)を弱体化させようとしているという陰謀論の文脈で解釈しました。彼は、ユダヤ人がボルシェビズムや資本主義といった異なるイデオロギーを巧みに利用し、ドイツ国民を分断し、自らの支配を確立しようとしていると主張しました。


要するに、ヒトラーのユダヤ人とアーリア人の結婚を禁じる理由は、科学的な論理に基づいたものではなく、彼が抱いていた人種的な偏見、憎悪、そして妄想的な陰謀論に根ざしたものでした。

彼は、ユダヤ人を「悪」の根源と位置づけ、彼らとの接触、特に結婚がアーリア人の「純粋性」とドイツ国家の「健全性」を脅かすものだと扇動的に説いたのです。

こうしたこともそろそろ令和の子供たちは勉強すべきかもしれませんね。
何故かと言うと、そろそろヒトラーの反省を口にする人たちが少なくなってきており、実際に政治が人を殺すということについて、真剣に考える人たちが減ってきた時代だからです。

参議院選挙が近づきましたが、立候補者のスピーチを文字起こしして検証すべきだと思います。扇動的で人々の感情を熱狂的にさせるスピーチであればあるほど強く疑ってかかるべきだと思います。

それよりも、事務的で論理的で、どのような政治的プロセスを経て、法の改正を行ったり、必要な行政を進めていくか、淡々と面白みもなく、語る候補者の方が、何倍もマシだと思います。

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困るんですけど!

自治会の集会に出ていたときのこと。
日曜日の夜の集会で、私は自治会の1つの役回りを担って役員をしていたので、その場にいました。

すると、会計のことで少し決まっていないところがあり、ルールをしっかり決めないといけないと言う話が出ました。

私はあぁそれならルールを決めたらいいんだなと言う程度にしか聞いていなかったんですが、少しテンションの上がったその人は、割と、はっきりと強い口調で「困るんですけど!」・・・と言ったのです。

その方は、その会計の細かな点について、はっきりと詳細を知らされていない。なので、私は困ると言いました。
全体のことを進めている委員長さんが、では、そこは今回はもう締め切りが過ぎていて、その活動自体が終わっているので、次の役員さん達に伝えておきますねと言いました。

私はそれで済むかと思ったんですが、その方は

「いやそれだと困るんですけど」

と再び言いました。
もし、新しい役員さんが、そのことをちゃんと理解していなくて、自分が疑われたらたまったものではない、と。

委員長さんは、大人の対応。
恵比寿さんのような柔和な笑顔で、

「わかりました。ご心配なんですね。大丈夫です。私がしっかりと伝えておきますから大丈夫ですよ。」

と、繰り返しました。

私が印象に残ったのは、それでもその方が、

「でも」

と、続けたことです。

「それでも、もし、その方がきちんと理解できなくて、私がしっかりやってないってなったら、どうするんですか?それだと困るんですけど!」

委員長さんの柔和な笑顔が少しずつこわばっていくのがわかりました。
それでも委員長さんは、やはり70年を生きた人生のベテランだったので、やはり仏さんのような笑顔で

「わかりました。心配なんですね。大丈夫ですよ。分りました。大丈夫です。もしそれでも何か疑われるようなことを言われたんだったらすぐに私に連絡してください。私がきっちり説明しましょう」

と、話を締めにかかりました。

私は連日の学校行事の準備などで疲れ果てていたために、ほとんど眠りそうだったのですが、実際のところほとんど眠りかけていたのですが、しっかりと目が覚めたのは次の言葉でした。

「いや、でも、疑われたらどうするんですか?困るんですけど!」

私は、困るんですけど、の中身ってなんだろうなぁと、とても哲学的に考え始めました。

困るって、一体なんだろうなぁ?

もし私が委員長さんの立場だったら、なんと返すだろうなぁ、と。

もし私が委員長さんの立場だったら、きっとこういうに違いありません。

ああ、そうですか。

と。

困るんですけど、という人に対して、申し訳ありませんが、私が出せる回答はたった一つしかありません。

ああ、そうなんですか。

私はそこで思考停止して、きっと穴の開くほど、その人の顔を見るしかありません。きっとその人の顔を見て凝視して、空中のただの一点を見つめるように、その人の顔を見て、ああ、そんなんですね、と言うだけです。たぶん。

たとえあなたが困っても、他のみんなは誰も困らないし、何の問題もないので、あなたも困らなくてもいいんじゃないですかね。別に困る事は何一つないので。

・・・という感じで。

それに比べて、委員長さんのなんと対応の素晴らしいこと。
人は70年生きていると、こういう対応ができるようになるのです。

委員長さんは立ち上がって、大きな身振り手振りを示しながら、もう本当に仏様と恵比寿様と大黒様が生まれたての赤ちゃんを抱くように、柔和な笑顔をさらに柔らかくした感じで、

「だあいじょうぶ、だあいじょうぶ、ちゃんと、ちゃーんと、私の方で、私の方で、私の方で、大丈夫です。大丈夫です、ちゃんと伝えますからね。心配されなくても大丈夫ですよ。決してあなたを責める事はありません」

と言いました。

すると、驚くべきことにその方は黙って座りました。

私はそれを見て、最後の言葉が効いたナ、と思いました。

あなたを責めません。

人はこれを言って欲しいのですね。
要するに、彼女は、誰かに責められることが不安だったんですよ。
誰もあなたを責めないよって言って欲しかったんですね。
大変に勉強になりました。

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レオ・レオニ展へ

冬に備えてせっせと食べ物集めに勤しむ仲間を尻目に、働かずぼーっとしているフレデリック。「お日様や色やことばを集めているんだ」と言います。そんな彼に仲間はちょっと怒り気味です。冬になり蓄えた食べ物も尽きかけ皆の心が荒んできた頃、フレデリックは集めた「光」や「色」や「ことば」を語り始めます。目を閉じて聞く仲間たちの心はどんどん癒され満たされていくのです。“物質的な豊かさ”だけではなく“心の豊かさ”の大切さを考えさせてくれるお話です

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レオ・レオニが絵本の絵の登場人物は、横顔を描かねばならない、と言っているらしい。なんで正面ではないかというと、絵本の登場人物は常に横にいる何か、つまり第三の登場人物を見たり、それに話しかけたりするためで、登場人物が真正面を向いたらそれは読者を見据えることになってしまう。
そのためにレオレオニの絵本に出てくるねずみは全員が横を向いております。
小学校の教室では友達の横顔を見て成長するわけで、家でも兄弟の横顔を見ている時の方が、なんだかいろいろと学べる気がします。ひとの横顔を見ているときは、人生とか世間とかを、かなり客観視してるときですな。

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教員が鍛えられることとは

どんな仕事を通じても、その仕事によって人が育てられると言う面はある。

私は、職業をコロコロと変えたので、それぞれに思い出がある。
若い頃はともかく、体力勝負の仕事もあったし、時間に間に合わせるのが第一の仕事や、見落としのないよう、正確にすることを求められる仕事もあった。

そして、それぞれの仕事で、仕事のコツやら、配慮すべきことや、最も重要視しなければならない点などが違い、何かを思い込んで勝手に進めてしまって、失敗することも多々あった。仕事をするようになってしばらくしたあるとき、学生の時よりも、仕事をすることの方が、勉強することが多いなぁと思った。これは多くの人がそう思ったでしょう?本を読む量も学生の時の何倍も読むようになりますし。アタリマエのことですが。

特に教員になって、自分が鍛えられたなと思う点は、徹底して人を嫌いにならないと言う点であります。

これは子どもについては当たり前っちゃ、当たり前なんですが、どんなに言うことを聞かない子でも、彼や彼女の追い詰められた事情が感じられてくるとしだいに情がわくものですし、長い間、これを続けていると、どんな人にもそう表出するにはその蓄積があるのが当然で、腹も立ちません。それに、その人のユニークさは付き合えば感じられてくるもので、面白さを少しも持たない人は、この世には皆無ですからね。人間全員が、小説の主人公に向いてると思います。

この、人を嫌いにならない、という姿勢は自分自身にも静かに向いているもので、わたしは何故だか自分のことも嫌いにはなれません。それは、子どもたちを相手にしているうちに、鍛えられてそうなったのだろうと思います。若い頃は、結構クヨクヨするタイプだったのですがね。

今は、だいたいどんな時も心のどこかで、こんなことやってるよオレ・・・アホやなー、おもろー、と言ってる気がします。子どものおかげですな。

どだい、教員をやってる、という時点で自分ではある部分では詐欺のようだし、世を偲ぶ仮の姿のように思うし、なにかの洒落かギャグのようにも思えます。金が要らない、というのがある種の高度な洒落かギャグのように感じられることと、同じように、ね。

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モンシロチョウなんて呼ぶな!

「それ、モンシロチョウだよ」

わかってるって。
図鑑とか、世間一般にはそうなんでしょうよ。

「じゃ、この生き物に名前をつけようよ」

私がそう言うと、教室中に不思議な空気が流れました。
名前をつける?

いや、ゲド戦記ではないです。
影との戦いではないですよ。
千と千尋の物語でもないです。
ただ、子どもは名前をつける権利があると思って・・・。

だって、せっかく、この世に生まれてきたんですから。
そして、この世は不思議なものに、満ちているんですから。

生まれたら、この世の全てに、もうすでに名前がつけられてた、なんてのは、楽しくないですからねえ。

いいんです。モンシロチョウで。
それは、否定しません。
日本では「一般的にモンシロチョウという」で、それはそれとして理解すれば良い。

でも、せっかくこの世に生まれた自分として、この生き物と、真摯に向き合った時に、自分としてはこの子を何と呼ぶか、自分のオリジナルな感性で、決める行為をしたい。

これを、子どもに保障するのは、大人の義務だと思うね。

で、みんなで勝手に名付けました。

ふわふわちょう、ひらひらちょう・・・

「なるほど、最後にやっぱり、ちょうってついた方が良さそう?」

「だって、ちょうだもん」

「そこも変えていいのだとしたら?」

「え?そこも変えて良いの?」

ここからが、面白かったですな。
え?保育園で、そんなのは卒業するべきだって?

その通りです。
保育園で、ちゃんと「この初めて見る生き物に名前をつけよう」が、行われ、保証されてるならね。
横から誰かが、「それはモンシロチョウです!」というのはナシで。

もし、やってないなら、仕方ない、小学校でやるべきでしょうなあ。1人の人間として、尊重されるために。

ちなみに、下の写真は、モンシロチョウではなく、スジグロシロチョウ。

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本よりも子ども

職員室で本を読んでいました。
それは教員になって1年目のこと。
とにかく、明日の授業の指針が欲しくて、本を読みまくっておりました。
真面目な性格ですね。
自分でもそう思います。

当時は、明治図書にはまっていて、明治図書の本を大量に買って読んでいました。
イチローではありませんが、今はお金をかけるときだ、と思って、良さそうな本があれば躊躇なくAmazonで買っていました。毎日のように届く書籍を見て、奥さんが家の家計を心配していましたね。

得られたものもそれなりにあったのですが、今になると思うことがあります。

職員室の話に戻りますね。
夢中で本を読んでいた私に向かって、帰宅間際の先輩が、机の上を片付けながら、

「新間先生、本読むのもいいけど、先生の目の前には子どもがいるでしょう。子供に教えてもらったらいいのよ」

と、言ったのです。

私は当時、その意味することが10分の1ほどもわかっていなかったです。

ところが、今になると、本当にそう思うのです。
子どもに教わる、と言うのがスタートであり、ゴールだとも思いますね。
ここ最近は本を買っていません。
もちろん、本を否定するつもりはありません。私自身も読書に助けられていますし、教科書だってはっきり言えば本ですからね。

しかし、そういうこととはまた意味が違って、目の前の子どもの様子をみて、学ぶことが、大きいということなのです。

そして、その大きさは、日増しに増えていくのですよ。

子どもの表情やセリフや、やる気や、行動や、日々の所作から、人をいたわる気持ちや、自分自身を励ます行動や、人間らしいユーモアも含めて、学ぶことがたくさんあると言うことです。

ズバリ言えば、人間を学ぶというか、歴史を学んでいる気さえしますね。人というのは古代から、こんなふうにコミュニティーを作り、こんなふうに人と関わり、知恵を見出し、伸びよう、伸びようとしてきたのだろうかと思うと、教室の「静かなる喧騒」の中で、時折、ジーンと感動することもありますよ。

静かなる喧騒、というのは言葉が矛盾していますが、小学校の教室の様子を表すには、最適のフレーズだと思います。
子どもたちの教室って、静かだけど、騒がしいんですよ。そして騒がしいけど静かなんです。これは、人間が本来持っている、人の良さ、に起因すると、私は解釈しています。

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努力して何かを成し遂げる、の怖さ

ブラック企業しか経験してないために、私の評価軸はかなり狂っているのかもしれません。
二十代は、本当に土日という概念がありませんでした。だって休日が無かったからね。

というと、大げさだという人がいますが、本当に1日も休まなかったのですから、これは他と比較しても誰も文句の言えないレベルのブラックだと思います。

さて、三十代は、ブラックでお馴染みのIT業界。その後もブラックの代名詞であります教員と。
ブラック街道を渡り歩いて参りました。

1番のブラックは、教員ですね。IT業界よりも畜産よりも編集よりも販売営業よりもイベント企画よりもブラックです。全部経験して、私自身が証人であります。なかなか世間に居ないかもね、それ全部経験、やった人は・・・。

いや、意外といるのかも?(いらっしゃったらコメントくださいませ。同じ教員という仕事について語りたいです)

さて、ブラック、の本質って何でしょう?

私が考える、ブラックをブラックたらしめるポイントとは何か。

一つは、しない方が良い努力をする、という点。
誰の得にもならない努力があり、正直に言えば、やればやるほど別の方向に行く、ということ。

で、長い人生を考えると、おそらくですが、その「ただしい方向」というのが怪しいのです。それも、Aの方向が正解なのにBを目指してしまった、ということではなくて。
そもそも、「ただしい方向がある」という強迫というか思い込みがすでに間違っている、というわけです。

多くの人は
なにか成し遂げると素晴らしいことがあるんや、この方向や!これがワイの夢なんや!
ということがあって、努力をしていると思います。

で、その方向を間違うと、えらく目的地から離れた場所に行ってしまい、こんなはずではなかった、と思うらしいですな。ブラック企業では、毎日、それが常態化してるのでしょう。

ところが、ブラックとは縁のない生き方をする限り、こんなことは「起こり得ない」のです。
無駄な努力をしない人は、方向なんて考えないのかもしれないんです。

どれだけ働いてもブラックにならない人は、わりと直観で、人間として間違ってない、という程度のことで進んでいる。

やるべきだ、で進まないから、自然に進みたくなるから、間違わないのですね。したがって、後から、こんなはずではなかった、とは断じてならない、というか、非常にそうは、なりにくい。最初から、後悔とは無縁なのです。最初から無縁、というのがポイントかなぁ。

つまり、多くの人が考えるところの、ああ成し遂げた!というのは、一体何を成し遂げたと言うのか、なかなか難しいということです。
もしかしたら、まったく成し遂げてはいない、ってことだってあり得る。
世の中を見てみると、後者の方がどちらかと多いのパターンなのかもしれません。

こう考えると、おそらく人間は、努力、という、なんだか野蛮で、はしたないことを、すればするほど、ズレるのかもしれなくて、

ただ、美味しい飯を食って、家族がいれば家族をささえながら、気分よく何かに取り組む、ということが進み方としては一番良いのかも。

私は血眼になるのは、人間としては面白いですから大好きで、血眼の人を見るのは好きです。
血まなこと言うのは、ある種のトランス状態に近い。
それに、自分も血眼になることは愉快なので時折、それをするんですが、それでも何かを成し遂げるために血眼になるのは、どこか強迫的で品がなく、拒否したい気持ちがありますね。病的な感じがして。「オレは大物にならなくては・・・!」という雰囲気の子が、ごくたまーにいるのですが、ハッキリいって、病的な感じがします。それがブラック、ということですからね。

美味しいカフェ・オ・レを飲みながら、気分よく勉強するのが、ブラックではない人の過ごし方であり、名誉か褒美か、そういう自分以外の何かになるための働き方をするのは、ブラックだと思います。

その意味では、私の二十代は、面白すぎました。もっとも洒落ていた、と今でも思います。
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伝統的な校則?〜校則が複雑だと誰が得をするのか〜

近年、話題になってる、神社にお参りするときの「二礼ニ拍手一礼」を近所の94才のお婆様がご存知なかったことがショックです。

自治会の年度末の係の寄り合いがあり、待ち時間に駄弁っているときに判明したのです。

若い30代の男性が「二礼二拍手一礼を子どもに教えた」という話をしてたら、「地元の年寄りはそんなの昔は誰もやらんかったわ。今でもやりゎせんけど」と、その94歳の素敵なお婆様がおっしゃってました。

それを聞いて、みんな笑ってましたけど、たしかその場には神主さんもいたんだよね。普段着だったけど。否定してませんでした。

明治期、特に昭和になってから流行してるムーブメントのようで、伝統というわけではないようですね。私はてっきり伝統なのかと・・・。

さて、このように明治期に始まったものが「伝統」と呼ばれるのには違和感を抱くわけですが、江戸時代から、あるいはそれよりも前の神社はどんな雰囲気だったのでしょうか?

まず、今のような二礼ニ拍手一礼、などと言うような決まった作法を、江戸時代の人はそれぞれ持っていなかったようです。町人なら町人、商人なら商人、大工さんであれば大工さん、武士なら武士、と言うそれぞれの人間の、畏敬の念をそれぞれが示していたと言うわけです。

ちなみに落語に出てくる熊さんとか、天神様にお参りしたりしますが、誰もそんな複雑な事はしていません。

明治8年の式部寮による「神社祭式」ではただ「再拝拍手」とのみ記されています。それまでの日本では、古来よりそのことすら定まっておりませんでした。定まってない、ということが伝統だったわけ。

なんだか、校則を想起させますね、この展開・・・。神社の作法と校則の、類似点が凄い。「これが正しい!間違いは許さない!正当なもの以外は排除する!」ってな、雰囲気を感じるんだよねー。

まあ、私が住むような田舎では、江戸時代から昭和を経て、令和に至るまで、礼拝の作法の形はずっと自由だったようで、まあ普通はそうだろうなあ、でなきゃ続かないもんな、と納得したのでした。

それにしても、我々は、江戸時代の庶民の実際の姿や心情を、もっと学んだ方が良いかもしれません。江戸時代の川柳とか、庶民の心持ちに多く触れることができますから。

参考文献・
神道の成立(高取正男・平凡社ライブラリー)
古神道は甦る(菅田正昭・橘出版)
神道の本(学研)

ちなみに、
この神社での作法については諸説あります。
「二回おじぎをして二回拍手、一礼(再拝二拍手一拝といいます)」というポピュラーな作法についても、「いや、拍手をする習慣は宮中にはないので拍手をしてはいけない」とか「男性はいいが女性は拍手をするものではない」とか、「一般神社は再拝二拍手一拝だが、出雲大社と宇佐神宮と弥彦神社は再拝四拍手一拝なのだ」とか、「伊勢神宮は四拝(または八拝)八拍手(八開手・やひらで)一拝だ」とか、「いや、本来古い祭祀を司ってきた白川神道の正しい所作は三拝三拍手一拝で、それが正しいのだ」とか、さまざまな異説、ときに「すべて間違いだ」という指摘があります。
だそうです。非常に難易度が高いですね。これではますます神社が遠いものになりそうです。
こうした論議も、なんだか学校の校則のようで、なんだか残念な気が・・・。


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蜂飼耳さんの意図する世界

5年生の国語の教科書(光村図書)には、蜂飼耳さんの描いた物語が登場する。
以前、記事にしたことがあるが、

蜂飼さんの文章には、物語のある人物の行動を、周囲の人がどのように認知したのかということが丁寧に書かれている。
ある人物の言動について、その受け手がどんな印象を抱いたのか、周囲の人がそれをどのように受け取ったのかと言う受け手側の視点が丁寧に描かれるのは、ありとあらゆる小説の醍醐味だ。
蜂飼耳さんは、受け手側がどのように受け取り、どのように誤解(ごかい)したかを、物語の主題に据えることが多い。
小学校5年生の教科書に載せられた物語でも、小さな誤解というものが、主題になっていた。

考えてみれば、相手の行動や言動をその人に完全に成り変わって意図を理解する事は、周囲の人には不可能なこと。これはキリストでもブッダでも不可能。なぜなら本人では無いのだから。

しかし、いかにも、私はあんたの言いたいことがわかるよとかあなたはこう言いたいんでしょとかあなたは僕のことが嫌いなんだろう、などと言うように登場人物が主人公の意図を勝手に誤解していく事はよくあるパターンだ。
誤解と言うのも違うかもしれない。何故かと言うと、そもそも誤解が当然で、認知が事実とぴったり合うことなんてないわけなので、どれだけ親しくどれだけ相手のことを理解しているつもりになっていたとしても、わからないのが当たり前だ。相手の言動の本当に意図された世界と言うのは、他人にとっては、誤解をする以外にしようのない世界である。

今回、蜂飼耳さんの文章が、大学入試の共通テストの国語で出題されたらしい。
第2問で出題された、2005年発表の蜂飼耳(はちかいみみ)著「繭の遊戯」に、「ヒス構文」が登場したと話題になった。 「ヒス構文」とは、お笑い芸人のラランド・サーヤさんがYouTube動画で発信し、Z世代に話題になった言い回しのことで、「母が論理を飛躍させるなどしながらヒステリックな語気で相手に罪悪感を抱かせる構文」のこと。
・・・だそうだ。

〇〇構文、というのはいかにも学生の世代が使いそうな言葉で、ある決まった文章の運び方、言い回しの事だ。
ヒス構文も、蜂飼耳さんの得意な世界だ。今回話題となった、出題文の中でも、該当の部分は相手の言動を完全に誤解して理解した上に誇張させ、今度はその勝手な印象を、さらなる強烈な誤解とともに相手に押し返すと言う文章になっている。

このように、ヒス構文そのものは大学入試で出てくるくらい普遍的な世界なのだが、改めてネーミングされたことがすごいのだ。「ヒス構文」と、これまで名付けられたことのない言い回しそのものに対して、そこに新たなネーミングをすると言うところが、いかにもZ世代らしい。
ゆくゆくは、「そもそも相手の言動を当然理解することなどできないのだ」と言うことについても、新たなネーミングが始まることだろう。

振り返ってみれば、進次郎構文、石丸構文、などがネットの世界では有名になり、それあなたの感想ですよねと言うひろゆき構文も、今は世の中の人が堂々とは使用できなくなりつつある。なぜなら、このようにネーミングされてしまうほどに有名になった構文は、手垢が付きすぎて、堂々と使うのははばかられる気分が出てきたせいだ。

今、ヒス構文をそのまんま使ったり、「それってあなたの感想ですよね」とか、「また同じ質問ですか?」「もう一回言えってことですか?」などのような構文を使えば、たちまちにして、あっ、◯◯構文を使っているな、と反応されてしまう。

ただ私は、この◯◯構文にも、功罪の両面があると思っている。
なぜなら、空気を読めよと言うような、いかにも世間体を守るのが当然だとするような世の中の空気は、若い世代には、やはり居心地が悪かろうと思うのだ。このいかにも昭和の人間が縛られやすい世間体と言うものについては、その中に巻き込まれていたら、息が苦しくなってしまうと感じる若い世代も多いだろう。
若い世代は、若い世代なりに考えて、1対1の社会の中の人間と、人間同士のコミュニケーションの仕方をあえて作り直そうとしているようにも感じる。
あなたが今進めようとしているその言い方だと私は世間的に巻き込まれそうになります、だから一応リセットして、あなたと私の1対1の社会的な結びつきを確認しましょうよ、と言う気持ちで、「それってあなたの感想ですよね」と言う場合もあろうかと思うのだ。

私のような昭和生まれのおっさんにとっては、カチンと来そうな言い方なのだが、立場の弱い若い世代にとっては、せめてもの、かすかな反撃の狼煙なのかもしれないと思う。

蜂飼耳さんのヒス構文は、相手を世間体で絡めとって、操作しようと言うコスイ考え方が裏に見えている。蜂飼さんは、コミュニケーションの取り方に、何かしら言いたいことがあるんだと思う。小学校5年生の国語の教科書にも、子どもどうしの、かすかなコミニケーションの違和感が主題になっている。主人公の女の子は、自分の勝手に受け取った印象で、相手を思わず決めつけそうになっていた、そのことに気がついて、ちょっと切なく遠くからサッカーに興じる、男の子の姿を見つめ直すのである。

亡き父に会う方法

実家に帰って、藤の木の剪定をした。
藤の木は、つる性でいろんな風に伸びていく。母が切ろうとするが、母は背が小さい。これまでは、近所に住む姉がちょこまか切ってくれていた。
しかし、20年目となると、そろそろ手の届かない範囲が増えてきた。

そこで、私がノコギリでかなり強めに剪定をした。
できるだけ家の敷地から外へ出ないように、枝の伸びる方向を考えて切っていくと、すでに一度、かなり前に切ったことのある場所などが見えてきた。

おそらく、当時も枝が妙な方向へと伸びたのだろう。デベソにすることなく、きれいに切り落とされている。傷跡はもうすでに樹皮で修復されたように盛り上がり、見た目は分からなくなっていた。しかし、木の方向をあれこれ考えながら、枝ぶりを1本1本、確かめていくと、そうしたこれまでの枝打ちの跡が見えてきたのだ。

母がしたのではない。それはノコギリを使った男の仕業であった。

父が亡くなって、もう六年。
意外なことに、庭木の手入れをすると、ひょんなことから、父の仕事ぶりを見ることになった。

時折、亡くなった人を思い出すことはある。別に墓参りや仏壇の前で手を合わせる時だけでなくとも。
しかし、こうしてふと、その人の具体的な行動の後や、仕事の残った形跡に出会うのは、予期していなかった分、とてもリアルにその人を実感するものだ。

たしかに父のだろう、と思うような仕事の跡は、藤の木の途中まで、見つかった。その先は、枝が暴れていた。
父は大病を患って入院し、長く闘病したから、それ以後の枝はメンテされなかった。途中まで、父が誘引などしたのだろうな、と私には見えた。フェンスに沿って、太い枝がきれいに2本、等間隔で這っているところは、A型の父の性格を思わせた。

亡くなってからの6年で、さらに藤の木は伸びた。私は、自分で剪定できそうな範囲におさまるよう、将来を考えて枝の方向を決めた。

作業の終わりかけ、脚立を片付けようとして、ふと思いついてまた脚立に昇った。で、写真を撮りました。

息子に見せるため、ね。
じいちゃんの剪定の跡だぜ、と。

まあ、息子は軽く、「ふうん」と言うだけだろうけど。

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映画にラベルをつけてほしい

映画館についても、なかなか入場する気にはならない。
なぜかと言うと、映画のタイトルやポスター類をみても、どんな映画なのか、よくわからないのだ。

ともかく、私のその時の希望は、

できるだけ音が少なく、爆発などせずに、欲を言えば、あまり複雑なストーリーではなく、できるだけ楽にぼーっとして見られる映画が見たい。

ということだった。

何せ2時間近くも、座っているだけで疲れるのである。
画面の向こうに、大きな音が聞こえて、破裂などしていれば、聞いているだけで疲れてしまう。

できるだけ、静かそうなのが良かった。最後まで、静かでおとなしそうなのが。
できたら、ドキドキハラハラもしたくない。

こんなこと言うと、そんなつまらなさそうな映画どうして見るの?
などと、おそらく、若い人ほど言うに違いない。私も若い頃はそうだった。スリルを求めた。サスペンスが好きで、ハラハラ・ドキドキすればするほど満足した。

自分も今日映画館に着くまでは、自分のことをそうだと勘違いしていた。
実際にその場に着くと、私は自分の年齢を自覚した。もう、ドキドキ、ハラハラすら、求めなくなっていたのである。

その代わり、起承転結も必要なく、できたら、起・承・承・・・・くらいが望ましい。結すら不要である。主人公のその後がどうだろうが、どうでも良い。それぞれが好き勝手にすれば良いだけのことだ。

私は、究極的には、どこかの何も知らぬ爺様が出てきて、そのおじいさまが、朝起きて、起き上がって、椅子に座って、新聞を読みながら、茶をすすっている、たったそれだけの映像を、2時間連続で見たほうが、どんなにか、人生について考えられるかとも思う。

そのような映画があれば、私は毎日でも見に行きたい。
今度のじいさんが、前回のじいさんと、どのようにお茶のすすり方が違うか、それだけでも本当に勉強になると思う。そして、そこから、彼の人生と、これまでの遍歴と、人生観の違いすら感じることができそうだ。
新聞を取っているかどうか、どこの欄から読み始めるのか、お茶を飲むのか、それともホットミルクを飲むのか、あるいは使い古したマグカップなのか、それとも寿司屋の湯のみなのか。

座っている椅子はどんな風か、腰をかけて、どんなふうにため息をつくのか。
その様子を眺めているだけで、人生を考えることができる。

映画館に要望がある。
静かな映画にはサイレントの頭文字である【S】と言う記号を、タイトルの横につけて欲しい。そうすれば、私のようにもうドキドキもびっくりもしたくない。静かにぼーっとしていたい人も、その映画を選択できるからだ。
体力がない。ドキドキする体力は、夏休みの研修をこなしている現役の教師には、もう残っていないのである。

私がそんなふうに、できるだけ静かな映画を探していたところ、1つ見つけた。
それが、【90歳。何がめでたい】という、佐藤愛子さんのエッセイ集を元にした映画であった。

これは、静かだろうな。

直感が当たった。

映画は、期待通りの静けさであった。
草笛光子さん演じる、愛子ばあさんの一挙手一投足を見ているだけで、こみ上げてくるこの満足感がたまらなかった。

火薬はいらない。
盛り上げもいらない。
淡々と人生の日々の出来事が繰り返されていくのが、この人生の最も価値のある瞬間だ。また、その人一人ひとりの自己決定の清々しさを、他人はすべからく尊重するべきで、そうなると、人は必然的に余計な口出しをしなくなる。

【90歳。何がめでたい】は、そんな映画でありました。良い映画を見た、という満足が、帰り道の私の足取りを軽くした。

この夏、オススメであります。

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中年クライシス・・・についての論考

若い時は、得られるものがどんどんと増えていく。
ものも資格も仕事も立場もどんどんと増えていった。

知り合いも同僚も増え、家族まで増えていく。
人間関係がどんどんと広がっていく。

ところが50代になるとだんだんと、そのあたりが整理整頓・淘汰され、厳選されたものになっていく。

これは必ずしも、悪いことでもない。
自分が人生に求めるものが明確になったとともに、質も形もシェイプアップされ、昇華したのだとも言える。

自分が手放すものに気づくと、さみしいという気持ちも湧く。
と同時に、日常の些細なことが心に刺さるようになる。

例えばコンビニエンスストアのレジの人とちょっとした会話で、お互いに笑顔で別れたりすることが嬉しくなったりする。

本を読むときに、この本を書いた著者の考えが心に染みたりより近く感じたりするようになる。

映画を見ても、ストーリーそのものもそうだが、この作品を撮った監督や役者と言うものに目が向き、それらの人々と一緒にいるかのような感覚や、その人と自分との関係を考えたりする。

教員は職業柄、毎日図書館に通っているようなものであり、私は学校の図書館を図書委員の仕事を確認しながら、好きな本も見て回るのが好きだ。

そして本当に自分がタイムスリップしたかのような気持ちになる。

この間は、モモちゃんとプー、モモちゃんとあかねちゃん、などの名作を図書館で見つけ、しばらく、立ち読みをしたところ、目頭が熱くなってきて困った。作者の、大人としての、親としての、一保育者としての気概を感じるからだ。

また、ミヒャエル・エンデの様々な作品、ジムボタンの冒険や、果てしない物語などを見つけたり、ドリトル先生のシリーズ、いぬいとみこさんの名作、北極のミーシカムーシカ、その他の本ともなれば、背表紙で本を見つけた瞬間に、心が躍る。

そして、明確な違いを感じる。
子供の時や若い時に読んだ本は、本そのもの、作品そのものに関心があった。

しかし、今は違う。

その物語を書いた当時の作者の気持ちや考えや、人生観と言うものに、どうしても興味が湧いてくる。この文章を少しずつ書き進めていく最中の、作家の心持ちや考えや、日々の暮らしと言うものに興味が湧いてきて、どんな食べ物を誰とどんなふうに食べながら、どんな街をどんなふうに散歩しながら、この物語の着想を得たのだろう、と考えているのだ。

これは、人生と言うものを、ある程度経験してきたから、いつの間にか、そんなふうな所作が身に付いてしまったのだろうと思う。

一朝一夕で身に付いた所作ではない、ということやね。いいのか悪いのか、中年になると、人生を見る見方が変わるということですな。

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朝陽の中を散歩した話

平日はそうでもないのに、なぜか休日になると目が早く覚める。
そして、散歩でもしたくなるのはなぜか。休日しか、こんな気持ちにはならない。

朝日がのぼる前で、うっすらとしたマジックタイムを、山を見ながら久しぶりに歩いた。

すると中年特有の寂寥感というか、なんだか込み上げてくるものがある。
感謝や恐れが入り混じったような気分、中年クライシスという言葉もあるわけで、何しろ涙脆くも塗りつつあるのだから、あれこれと思い耽る散歩になった。

ふと思い出したのが在原業平で、あの時、周囲の者たちが一斉にその寂寥感に打たれて、みんなで咽び泣いたらしいが、その状況がイメージになって湧いてきた。

伊勢物語では、在原業平が東下りで三河の八ツ橋に至り、沢のほとりで杜若の花が「いとおもしろく咲きたり」、それを同行者が「かきつばたといふ五文字を句の上にすゑて旅の心をよめ」と言ったので詠んだ。 同行者はみんな感激して涙を落とした結果、干したご飯がふやけた、というエピソードがある。

これを私は高校生の頃に習ったが、そんなに簡単に人は泣くものだろうか、という疑問を持った。
今はそれがわかる。中年になったからだ。

さて、この寂寥、という感覚とは、いったい何なのだろうか?

人間の遺伝子が大昔とさほど変わらないと言うことから、人間の生活は、物質的な面や文化の面でも大いに変化はしているが、雄大な景色を見たり、太陽を見たり、風を感じたり、山を見たり、海を見たりすることで心に湧いてくる感情はおそらく10000年ほど前の縄文人たちと今の自分は遺伝子的にそんなに変わらないのではないかと思う。

おそらく雄大な景色を見たときに、心が膨らんでくるかのような圧倒された感じや良いものを見た感覚や夕日が沈むのを見て、何らかの寂寥感だったり、大きなものとの別れに似た感じを受けるようなものは、当時の縄文人たちも感じていたことだろう。

もしも、この人間的な感覚が人間の生活に不要なものであれば、とうだったろうか。
一万年の間に淘汰されて、感覚的に薄れていったのだろうと想像する。

しかし、いま現代人のわれわれだって、夕日が沈むのを見るときに、心に迫るものがあるではないか。

これは、この寂しい感じが、人間の存在や価値について大切な感覚だったから残ったのではないかと想像する。

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校長先生へのタメ口についての考察

これはわたしの悪いところ、短所なのですが、校長先生に馴れ馴れしくしてしまいます。以前は時折、タメ口で話してしまったために、自己嫌悪に陥ることすらありました。

これは20代の過ごし方に問題がありまして・・・。

通常の人は、生活のほとんどを敬語か丁寧語で過ごしているのが普通だと思うのですが、わたしは20代の約10年ほどをまるっと、「無敬語」で過ごしました。おそらく、こんな人は人口の中では0.1%以下だと思います。

これでも中学・高校時代の部活はPL学園ほどではなくとも、一応縦型社会とも言われた体育会系でしたし、大学の寮は400人規模の破壊的なくらいの超縦型パワハラ社会でくらしました。先輩の無茶振りやパワハラにも耐えて過ごしましたね。実はめちゃくちゃ楽しかったのではありますが、若い頃のわたしは敬語をふつうに使えていました。

でも、やはり、20代の経験は大きいですね。

敬語を使わない暮らしを一度経験すると、これが楽でラクで・・・

どんな人も、肩書きで見ない、立場で見ない、性別や家柄や、能力や行動、影響の大きさなどては見ないというクセがついちゃった。誰に対してもタメ口。親戚のおじちゃんや、いとこのニイちゃんと話してる感じ。お母さんとか・・・、家族と話す雰囲気。ほら、そんな中なら、敬語じゃあ、逆に変でしょう?

こんな経験をすることはほぼ不可能なので、いくらわたしがこんなことを、ここて熱弁したとて意味はないんですが・・・

とにかく、ラク。

同時に、若い人が私に対してタメ口で話しても、弟・妹的な目線なのでまったく問題無いどころか、それが普通という気がする。

教室でも子どもが私には、タメ口です。
普通です。
わたしに敬語で話してくる子は、6年生の児童会の子くらいしかいません。これを批判する方もいます。もっと先生への言葉遣いはきちんと丁寧語でするように躾けたほうがよい、と。将来のためだ、と。わたしは教員になりたての頃に、そう注意されまして、教員という職業はまだ始めたばかりでわからないことだらけでしたから、そういうものか、と思いまして、かなり子どもたちにもいちいち注意したものです。 このブログでも、敬語については何回か書いたかなと思います。


今の私は、研鑽に研鑽を重ねまして、校長先生に敬語を使うことができるようになりました。今はまったく、敬語が普通になりましたね!見てください、この晴れ姿を!ここまで10年くらいかかりました。
つまり、敬語に染まるのは時間がかかるのですが、不要となれば、明日からでも敬語を手放すことはできるのです。10年間まるっと無敬語、という生活も、だれでもすぐにできる、というわけですネ、人間という生物は・・・。経験上、それが言えます。

ところで、前回の記事のように、人と人との間に、まったく「存在価値の差や違い」が無いとしたら、パワハラはなくなりそうに思いますが、なかなか無くなりそうにありません。こうしたらどうでしょう。「ノー敬語デー」をつくるのです。上司に対して、その日は敬語を使わない、という日。お互いに、ですから、だれかを特別扱いはしないのです。国家がそれを推進するのなら、どんな上司もぐっと耐えるでしょうからね。

「人はだれでも心から好きな人やモノがあり、愛することができるわけで、どんな人をも馬鹿にすることはできない」と、朝8時になったら日本人は全員これを唱和しまして、総理大臣がテレビ中継、インターネット中継で「本日はこれより、どんなオフィスでもノー敬語です」と宣言します。面白いと思いますがねえ。


今のわたしは、職場ではもうかなり年齢が上になってしまいまして、コピー機の前に立つと、若い子たちが「あ、すぐに終わります」とかいって、ゆずってくれようとしますし、みんな私に敬語を使います。今はもうその環境に慣れちまいましたが、自分はノー敬語でもまったく問題ありません。どんな若い先生も弟や妹の気分ですから。この感覚はどうしようもない。そういう人生を歩んできてしまったので。

パワハラの新聞記事を読むたびに、そんな想像をしています。パワハラがなくなればいいのに、と思います。DVとか。

ところで、ノー敬語デーのときに、なんでワシに対してみんな敬語を使ってくれないんや!と腹を立てる上司がいるんじゃないか、とみなさん思いますか?

わたしは、案外とそんなにいないのではないか、と思いますネ。

そうして、敬語じゃないと腹が立つ、という人がいなくなったとたんに、敬語は本来の輝きをとりもどし、正常に機能し始めると思います。そうなってはじめて、敬語の良さが際立ってきて、お互いに敬語で話し合えることの良さを、日本人全体が享受できるようになるのでしょう。まあそうなったらパワハラは日本から消えますが、パワハラが無くなれば、自分を誤解して卑下してしまう日本人は、居なくなり、日本全体の大きな国益に繋がると思いますナ。

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自己肯定感の意味が変わってきている・・・?

ある保護者と喋っていて、違和感を感じました。話題は「自己肯定感」について。
もしかしたら、自己肯定感と言う言葉の意味が昔と今では変わってきている?

今から10年くらい前でしょうか。自己肯定感と言う言葉が、教育界でも一般でも、かなり使われるようになりました。
ここで言う自己肯定とは、否定の裏返しではなく、自己というものは肯定するしかない、ああだこうだと言う前にただちに肯定するものだ、という見方によります。

否定の裏返しではないと言うところがポイントで、〇〇ができるようになってから肯定する、というものではない。
トーナメント戦で4回戦まで進めたら肯定し、初戦敗退だったら否定する、と言う世界の話ではない、のですな。

肯定と否定と言うものを、対(つい)にして考える癖が、我々には普通にあると思います。辞書を引くと、肯定の反対が否定であり、否定の反対が肯定と載っているのですから、当然かもしれませんが。

ところが、自己肯定感と言うときには、その定義が崩れるのです。ここで言う「肯定」は全く「否定」とは、一切無縁の世界です。つまり、自己と言うものは、かけがえのないもので、存在しているだけで、価値があり、存在しているだけで、他との関連が生まれています。この宇宙に存在しているだけで、宇宙を構成する1(いち)存在として、揺るぎのないパートナーであり、お互いであり、他とは切り離すことのできない1つの存在だと言うわけです。
どんな人も、何かを好きになったり、愛したりすることができるわけで、その点では肩書きも身分も無関係で一切の差や違いはありません。
ところが、あるお母さんと話していたら、普通に

「レギュラーになれなかったら、自己肯定感も生まれませんから」

と、サラッとおっしゃった。

私はなんとなく流れでうなずいてしまいましたが、待てよ。あれおかしいぞ。と、センサーが反応し、5秒位固まりました。

自己肯定感は、条件付きではないはずです。これがこうしたからと言う条件もなく、本当に無条件であるはず・・・。あらゆる条件がないままに、一切の自己は肯定されると言う感覚のはずです。

そこで思ったのは、おそらく、社会全体として、この言葉の本当の意味が浸透する以前に過剰にもてはやされてしまった結果、このような意味の取り違えが起きてしまったのではないでしょうか。

本来の意味が社会的にこなれた感覚で使われるようになるよりも前に、従来からよく使われていた『成功体験が自信を深める』と言う意味で使われるようになってしまった。そのために本来の意味は薄れていったと予測されます。

本来なら、生まれた赤ん坊が、きっと看護婦さんからも、お医者さんからも、親からも、あぁよかったねぇ。生まれてきて、ようこそ。この世界におめでとう。
と祝福されて、この世に迎え入れられたように、自己は肯定されるという意味なのですが、自己肯定感の使い方を誤ると、とたんに赤ん坊が条件を突きつけられる可能性が出てきます。

ミルクをきちんと飲まないからといって、存在を否定されるのなら、赤ん坊としても、口をとがらして、この世の中は、間違ってると言いたくなるでしょう。「肯定」は「否定」の反対語ではないのですね。

すべての人が、もし仮に、何も達成しない自分を受容することが出来ないなら、世の中は猜疑心と悪意とパワハラに満ちた世界になりそうです。

結果や行動の如何にかかわらず、尊重されるのが自己肯定感の「おおもと」ですから、特に何も働いていないように見える赤ん坊でも尊重されるのが当然です。レギュラーになれない選手はダメだ、という価値観は、おそらく間違った自己肯定、なのでしょう。

自己肯定感、という言葉は、ちょっとばかし適当ではなかったのかもしれません。多くの人が肯定対否定というニ項対立をイメージしてしまうのですから。


自己肯定感を言い換えるとするならば、例えば自己受容感とか、自己存在感などと言いかえることが、これからのムーブメントになりそうです。

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