30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

3・11大震災

阪神大震災のことを教室で話す

.
「みんなの生まれる前に、こんな震災がありました。」
(スライド1枚。高速道路が倒壊)

「知ってる。阪神大震災、でしょう。」

大きな高速道路が倒壊している写真を見せると、何人かが言った。
この子たちは、おそらく先日放映されていた、テレビの20周年ニュース映像で、当時の様子をいくつか見ているのでしょう。

「震災」というと、この子たちにとっては、いくつも思い当たるものがあるんだな・・・。

とちょっと不思議な感じ。

私にとっては子どもの頃から社会人として働くようになるまでの長い間、ずっと「震災」というと、それこそ関東大震災が連想の最初に浮かんでくるくらいで、いかにも歴史的な言語のようであったものだ。しかし、今となってはたいへんに身近で、新しい言葉になってしまった。


阪神大震災の当時、関西のある町で勤務していた私ですが、兵庫県からはかなり遠く離れた土地であったにも関わらず、朝、職場の駐車場を歩いていると、地鳴りのようなものが響き、地面が揺れ、すぐに朝もやの風景の遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきたのを覚えている。

なんだか、とてつもない、胸騒ぎがした。


わたしは、その朝の様子から、語り始めた。


地震の3,4日後、次第に事情が明らかになるにつれて、何かしなければ、というようなつかれるような思いが湧いてきた私たちは、仲間と一緒に2トンのトラックにサツマイモをしこたま載せて、高速道路を走って神戸の街に向かいました。

するとですね、当時はまだETCなどなかった時代ですから、料金所でおじさんが待っている。もちろんそこで、お金を徴収するわけですが、私たちが芋を載せていることが分かったのか、

「あんたたち、どこへ行くですか?」

と聞かれた。

正直に、ともかく震災の街へ行ってこのサツマイモを配ってくるのだ、というと、おじさんは手真似で、行け、と言ってくれた。私たちの2トントラックは、無料でそこを通過した。

・・・

このくだりを子どもたちは、なんとも真剣に聞く。

3.11の震災でもそうだけど、人の命がこれだけ無残に、信じられない規模で亡くなっていった災害の話をしていると、子どもたちにもちょっと、とらえどころのないくらいに大きな話だと感じられるようで、どの子も<しんとした目>で、時折、ちょっと心境的にきついような話がでて目を伏せがちになっても、くらいついて聞いている。

私たちはもちろん、若かったものだから、冬の寒さが厳しい中であったが寝袋持参で、数日の間、出来る限りのことをするつもりであった。

被害の大きかった長田という地区の小学校に行くと、すでにてんやわんや。大勢の被災した人たちが暮らし始めていた。

ボランティア募集、というマジックの殴り書きをみて、その部屋へ、のこのこと入っていくと、若いスタッフが、

「このおじいさんについていってください」

と言う。

見るとそこには、すでに茫々とした表情で、やつれきった老人がいて、

「俺の部屋から財布の入ったカバンを取ってきてほしい」

かすれたような声で頼んでき、私はそれを了承してその老人の家へ行った。
やがて老人が指をさしたマンションを見ると、なんと1階部分がつぶれている。
2階の床面がそのまま地面につきささっていた。つまり、半分倒壊しかかった5階建てのマンションが、爺さんの住居だったのだ。マンションの入り口には、もちろん立ち入り禁止のロープ。

私は余震が怖かったけれど、仲間と相談して、「10分だけ、無事に賭けよう」と言い、じいさんの部屋は5階だというので、慎重に階段を歩いて部屋まで上がって行った。階段は見たこともないような角度でナナメっており、半分崩れていたし、とても歩きづらかった。
私の他に、やはり他に人の姿は見えず、ここは来てはいけない場所だったのだ、という気がした。

爺さんは下で待っていると言ったので、言われたとおりに玄関から入ろうとするが、もう一歩も入れない。壁はなんとかもっていても、部屋中のありとあらゆる棚、置物、そうしたものがぜんぶ洗濯機でかき回されたように、ぐちゃぐちゃになっていた。何分も揺れた、と爺さんが言っていたが、その揺れがこの部屋を、こんなふうにめちゃくちゃにしてしまったのだ。

途方に暮れたが、タンスや戸棚を乗り越え、言われたとおりに奥の部屋まで行ってみると、暗がりの中にそれと分かる木の書棚があり、隣の衣装ダンスにカバンがいくつもかかっていた。

私は「それだけ」と言われた、黒い肩掛け鞄だけを手に取り、ふたたびぐちゃぐちゃの荷物の山を乗り越えて、玄関に向かった。

すると、玄関のところに来ないはずの老人が来ていて、

「おうい、カバン、あったか」

と聞く。

そこで、「ありました。これですか」と見せると、これだこれだ、と喜んで、何度も頭を下げて感謝された。
ついでに、玄関にあったハンチング帽を手に取って、

「これ、あんたにあげる!」

とくれようとする。
ハンチングなど被ったことがなかったから断ると、

「じゃ、これをあげる!」

と、老人のツイードのジャケットをくれようとする。

それも断って、ともかく僕たちは芋を配らなければならんから、とそこを引き上げた。



芋を配りに近くの公園へ出向こうとするが、ところどころに崩壊した木造の住宅があり、ひっきりなしにその前をいろんな人が往来するから、妙な景色である。
実際にはそこで亡くなった方もいたであろう証拠に、家族と思しき人が数人で肩を寄せ合っている姿も見えた。その中を歩いていると、知らず知らずのうちに、自分の鼓動の音が聞こえてくるくらいで、なにか乾いたような苦しさが、常時つきまとっている。

公園に着くと、自衛隊のテントが張られていた。
そこには数家族が入っていた。ただやることもなく、ぼうっと身体を休めている様子。
私は声をかけにいき、芋を見せると、そのテント内の住人の方はもう私などを相手にするだけのエネルギーも残っていないような様子であったにもかかわらず、とても大きな声で喜んでくれた。

2トンのトラックにはドラム缶の輪切りが積んであり、それを荷台からおろして、もってきた木炭で火を起こし、焼き芋を焼いた。

テントの方が声をかけて、たくさん人が集まってきた。
芋は、人から人へ、手を渡って、配られていった。
私たちは時間のある限りもってきた芋をやき、夕方暗くなると、芋がなくなった。

私たちはそのまま、そのドラム缶を頼まれてその方に譲り、すべての荷物を置いて、その日はトラックの荷台に寝た。芋の入っていた段ボールを身体に巻きつけて寝ると、戸外であっても寝ることができた。

次の日、私たちは海岸に近い場所で、洗濯を請け負った。
洗濯をしたいができない人がほとんどで、なぜかというとインフラ、主に水道管が破裂して機能していなかったからである。マンションの住人は懸命に水を汲んで、2階、3階と持ってあがり、その水で洗濯をしていた。
近所の方の分まで、みんな頼まれて、ともかく一日中、水を汲んで洗濯をしている、という方もいた。

水は、海岸で自衛隊に配ってもらった。
自衛隊は、潜水艦から大きな管をのばし、水をひいて、陸のコンクリートの上に簡易的な水道場をつくって、住民に配っていた。

私は潜水艦というものを初めて見たが、さほど大きくは見えないタンクの中に、大量の水が搭載されているらしく、配給している自衛隊員によると、水がストップすることはないので、どんどん水を取りに来てください、ということだった。

私はそこから、いろんなマンションの、いろんな階の住人に、水の入ったポリタンクやバケツを届けたが、どのマンションの住人も、

「このマンション、亀裂が入ったから、取り壊すのよ」

というようなことを、サラリ、と話していた。

私の頭の中は、相当にぐらぐらした。
今まで財産と思ってきたものが、あっという間に、目の前で価値がなくなってしまったわけだ。
ローンの残ったマンションが、取り壊されてしまう、今後どうなるかわからない、という状況。
にもかかわらず、その人は
「今はともかく、近所の人たちの洗濯をしなければならないから、それをやる」
と言って、もくもくと活きて動いていた。
私が出会った神戸の人たちは、それはもう、いろいろな思いもあったろうが、私のようなボランティアの前では、ちっともへこたれていなく、むしろ私の体調を気遣ってくれながら、感謝したり、ものをくれようとしたりして、私は世話をするつもりでいながら、まったく実は、世話をかなりの程度してもらいつつ、そこで数日を過ごした。

実際、私の昼食や夕食を心配してくれて、近所の人たちが私の分まで食べ物を運んできてくれたり、どこぞのだれか、ちっとも分からない人が、仲間に連絡をしてその家のトイレを貸してくれたり、寒くないか、と羽織っているものを一枚くれたり、私は自分は「与えている」つもりであっても、実際は「与えられて」過ごしていたのだ。

ここまでの経験を、一気にわたしは子どもたちに話をした。

そして、3.11の震災に触れた。


今、2011年のことが、もうすでに薄く、遠い、なにかとても過去の、過ぎ去ったことのように、なってきてはいないか。自分たちは、どれだけのことを、2011年のことで、思うことができているだろうか。


2011年以後、現在の東北は、東日本は、どうなっているだろうか。
復興というけれども、そこに生きる一人ひとりは、どんなふうに、静かに歩き出しているだろうか。

派手な報道は目立つし、世の関心を呼ぶけれども、静かな物語は、個人的な物語は、決して大々的に報道されることなどないから、まるでなかったことのように、世の中では扱われてしまう。
マスコミが報道しないから、そんなものはないんだ、という感性に多くの人が陥ってしまうのであれば、おそらく我々は、震災や復興の、本当の実情に触れることなどできないままなのでありましょう。

人が歴史から学ぶ、というのは、いったいどういうことなんでしょう。

マンションの爺さんは、奥さんが小学校の体育館に寝ている、と言ってましたが、それは腰の悪い奥さんを置いて、外の様子を見に行ったときに、奥さんが怖くなって外へ出ようとして転んでしまい、怪我をしてしまったからだ、と言っていました。

「あんとき、だれかに頼んでおけばよかったが、おれが行けばいいと思ってしまったのが失敗だった」

おじいさんは、それが私のような他人にまで、つい口をついて話したくなるくらい、大きなことだったようでした。
心の中が、それでバラバラになってしまうくらい、後悔したのでしょう。奥さんは体育館のトイレに行くのも大変なのだそうでした。

「あいつが歩けんようなったら、もう俺らはダメだ」

と、もう聞いている私がどうも、どんな表情をしたらいいのだか、分からなくなるくらいのことをしゃべっていました。



震災を、ひとくくりに、ビッグデータで語ろうとするのではなく、

人の目線で、一人ひとりの物語として、語ることを通してしか、

人間が「歴史から学ぶ」ということはできない、という想像が、

私にはずっとついてまわっています。



そんなわけで、私の考える<防災教育>は、個人的な物語を、静かに語ることから始めているわけなのです。




阪神

福島の小学校から俳句が届きました


夏休み、地元の人たちによって用意された保養ステイに、福島から何人もの子育て家庭が訪れてくださった。
その場にうちのクラスの子が関わり、いっしょにキャンプ場で遊んだりカレーを食べたりしたものだから、そのご縁でもって、小学校へ手紙を書いた話を以前書いた。

その後も小学校の学級どうしで交流がつづき、手紙のやり取りだけでなく、クリスマスカードや俳句を書いたしおりを贈りあって、お互いに文通相手というか、なにか心が通じ合ったような気のする仲になってきた。


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福島の子どもたちへ 学級からの手紙


「愛知に来てくれてありがとう」

こう言いながら、同じ学級、3年生からのメッセージを渡したのが、Aさん。

何と言うだろうか、と思って見ていた。

何か、一言言うんだよ、と事前に言ってあった。
あまりスピーチや意見を言うのが、得意ではないAさん。続きを読む

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