30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

政治・まちづくり

センバツ中止でショックを受ける小学生

春のセンバツ高校野球が中止となった。
選手のことを思ったら、ぜひ開催してほしかったが仕方がない。

高野連は、「もしも開催するのなら」というシナリオを考えていた。
無観客だ。
もし大会中、観客の中に陽性の人がいた、ということが報道されたら、選手は集中して試合にのぞめないだろう。また、選手の中に陽性が出たとしても、同様だ。陽性になってしまった高校生は周囲から責められ、自分でも自分を責めるだろう。その子のせいではないのに・・・。
だから、無観客は当然のことだ。わたしは理解できる。

同様に、オリンピックをもし開催したとしても、それぞれの競技の会場は基本的には無観客であるべきだ。わたしは水泳が好きで、できたら見に行く予定にしていたが、仕方がないからあきらめなければならない。

学校の校庭に遊びに来ていたクラスの男児は、リトルリーグで活躍する猛者だが、
「先生、センバツ中止だって」
と話していた。残念なのだ。テレビで観戦するのを楽しみにしていた。
彼はリトルで活躍するピッチャーで、体は小柄だが、頭を使って投球するため、勝率は良い。
図工でも作文でも、題材はほとんど野球のことだった。
その彼が、センバツ中止を嘆いている。
日本全国で、こういう小学生がたくさんいるのだろうと思う。

さて、高野連はなかなか偉い。
ギリギリまで開催の可能性を探っていたらしい。
具体策として、次のことを考えていた。
・試合と直接関係ない人の来場をできるだけ避けるため、出場校の応援団を含めてすべての観客を入れない無観客での開催
・出場校の派遣人数を1校27人に。メディアを含む大会関係者も最小限。
・ロッカールームや廊下など、濃厚接触となる可能性がある密閉空間で多人数が密集する機会を避ける
・大会関係者全員のうがい、手洗い、マスク着用、せきエチケットの徹底
・開幕前日から大会終了まで、医師2人1組が24時間臨戦態勢で選手の体調や予防などに関する電話相談を受け付ける。
・日本高野連、毎日新聞社、阪神甲子園球場の3者で緊急対策本部を設置し、緊急時の対応に当たる

【球場内】
・球場出入り口で全入場者に検温と手のアルコール消毒を実施。マスク未着用者、37・5度以上の発熱者は入場禁止
・ベンチやベンチ裏、審判控室などにも消毒液を設置し、試合終了ごとに各所を消毒。ドアノブやエレベーターなども定期的に消毒
・除菌効果のあるオゾン脱臭機をベンチ裏や控室などに計17台設置
・試合中は円陣を禁止。マウンドに集まるときなどはグラブで口を覆う
・インタビューなどの取材は受けない。ただし、試合終了後に限り、密集を避けるために戸外であるスタンド内の風通しの良いところで短時間で実施可。
・救護所に医師、看護師を常駐させる

【選手の移動、宿舎】
・宿舎から球場までの移動は大会本部が用意した各チーム専用バスを使用。車内に消毒液を設置
・要請があれば大会本部から1人あたり1日3枚のマスクを配布
・宿舎にも消毒液を設置。食事は個別または一般客と時間や場所を分けての提供にしてもらう。大浴場などの利用は控える
・選手らは朝晩2回の検温、呼吸器症状の有無をチェックシートに基づいて確認し、大会本部に毎朝報告
・責任教師や監督が認めない宿舎からの外出を禁止
などである。

ここまで考えていたのに、結局中止になった。
残念でならない。

五輪でもおそらく、同じようなことを検討しているはずだ。

たぶん五輪はこうなる。

1)無観客
2)マスコミの報道は無し。インタビューも無し。選手も大会中、一切無言。
3)競技場内で選手同士の接触をできるだけ避けるため、レース形式でないもの、個別のタイムを競うような種目については、時間差で一人ずつプレイする。選手同士はちがう入り口から入り、ちがう出口から出る。
4)陸上は8レーンに2人ずつの競技とする。選手間に2m以上の空間をもうける。
5)水泳も8レーンに2人ずつ。塩素濃度は通常の2倍濃度に。
6)柔道は寝技禁止。組み合う時間も5秒以内。どちらが先に相手を一本背負いできるかで決める。
7)フェンシングは剣の長さを2mに延長。
8)試合会場は2日前から除菌し、除菌後は一切の人の出入りを禁止する。
9)選手は除菌されたユニフォームを身に着ける。
10)審判は全員防護服を着用。
11)サッカーやバスケットのボールはハーフタイムで洗浄、除菌。バレーボールはサーブ毎の除菌。
12)試合中の円陣や味方の選手同士が口を開けて話をすることは控える。もしどうしても意思疎通をしたい場合は2m離れて行う。
13)夜間に選手村から町へ出るなどの出入りはすべて禁止。空港から競技場までも送迎専用の高度除菌車で直接送迎。
14)選手は毎日2時間ごとに検温し、医師2人1組の診察を受ける。
15)検温を拒否する選手の出場権を、はく奪。
16)できるだけ人が集まる時間を短くするため、表彰などのセレモニーはカット。国歌もなし。
17)ロッカールームは使用しない。選手村の自分の部屋からユニフォームで直接会場へ。
18)選手村の選手の個別の部屋は2時間ごとに消毒。部屋と部屋との間は無人の空間を5m確保。
19)マスコミが競技場の検問を突破してインタビューをするため、もしも選手に2m以内にまで近づいた場合は国家反逆罪として逮捕。5m以内でも報道権をはく奪。10m以内でも以後の出入りを一切禁止。
20)期間中、選手一人につき1日7枚のマスクを供与。
21)大浴場などの風呂は禁止。レストランも廃止。(各自の部屋へ幕の内弁当を供与)


このくらいやったとしても、五輪はやるべきである。
何よりも、わたしは水泳が見たいのだ。
男子100メートル平泳ぎは個人メドレーで東京五輪出場が内定している瀬戸大也(ANA)が59秒93で優勝した。
この泳ぎが見たい。
だから、このくらいやったとしても、ぜったいに五輪は行うべきだ。

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全国すべての公立小中高休校へ 首相表明

職員室に怒号が飛び交う。
「あべえええええええ!!!どうしろってんだァァァァ!!」
ふだんは温厚で、おだやかな表情しか見たことのない1年生の先生が、怒りで震えている。

かわいい1年生。
ほうっておける親がどれだけいるか。
親も、生活がかかっている。
勤務をそうたやすく、休めるわけがない。

そこまで、考えていないのか、首相やそのまわりの人たちがどれだけ「考えた」のか、どうしても疑問視したくなる。当然、親はどうするか、ということへの言及がなされるべきだ。
ところが、ニュースでそのことに触れた形跡がまったく、無い。

1年生の子を何週間も、朝から夕方まで、ほうっておける親がいるのか・・・

安倍首相の目線の先には、どんな家庭像が映っているのだろう。
はたらいている親の姿は、見えないのか。

夕方、ニュースが流れた直後、先生たちの動きが加速した。
印刷機のまわりには行列ができる。
「〇〇先生、それが終わったらついでにこれも印刷お願いします!」
「はい、わかりました」
「ここの印刷機、終了です。次、何年生の先生が刷りますか?」

つまり、子どもたちへの課題を今から印刷し、
明日渡さなければならないのだ。

たしかにまだ決定ではない。
しかし、準備していませんでした、では話にならない。
もしかしたら、2日から本当に休校になってもおかしくないと感じさせるような、首相の発言である。首相の脳裏に、職員室に飛び交う怒号と、自身へ向けられた呪詛、そして先生たちのけわしい表情が浮かんでいるだろうか?想像できるのだろうか、この首相に・・・

慌てて印刷機へ大集合する教員、
他の学校へ緊急連絡を行う教頭、
急遽、自動車で会合へ向かう校長、
子どもへくばるもののリストを作り始める若手教員、

「明日のおたより、全面改訂ですッ!見出し、これでいいですかーッ!」
「その見出し、ストップです!!印刷止めてください!停止、停止ーー」
「〇〇先生、その印刷済みの地域子ども連絡会の書類も、廃棄です!別の箱にしてくださいッ!!」
「△△先生、緊急のお電話です!」
「先生、児童センターから〇〇先生が来られてますッ!」

もう、なにがなにやら・・・みんな目が泳いでしまっている。

気を利かせた若い先生が一人、

「おにぎり買ってきます!ほしい方、挙手してくださーーーい」
「はい」
「はい!」
「ハイッ!うちの学年、全員分お願いします!」
「わ、わかりました!!」

この状況が、おそらく全国の大半の小学校で、
今現在、まきおこっていることだろうと思います。

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ハビビ元大統領と東ティモールのこと

今年9月、インドネシアの元大統領が死去した。

ハビビ元大統領だ。
その大統領が病床に臥せっているとき、お見舞いに来たのが、東ティモールの大統領。
つまり、宿敵が来た。
敵がきたから、緊張して迎えるのかと思ったら、なんと抱擁した。
ふたりとも、お互い両者とも、人間として大きかったのだ、というしかない。

いのちをわずかに残した宿敵に、いったいなんと言葉をかけたのか。
東ティモールはもともと、インドネシア領ではなかった。ポルトガル領だった。
スハルト大統領の独裁政権にむりやりに併合された歴史を持つ。
だから、市民からすると、独立は悲願だった。

大きな人間、というのは、何だろう。
「人の生きる道を、示してくれる存在」だろうか。
ひたむきな情熱を、もやしつづける人間は、すぐ近くにいる人たちの心をつかむ。そして、火を灯す。
東ティモール大統領のグスマン氏も、ハビビ大統領も、おたがいにそういう人間だったにちがいない。

まさに東ティモールが独立せんとする2000年ごろ、わたしは友人のTから手紙をもらった。Tは国連職員で、東ティモールにいたのだった。手紙には独立のための住民投票がいかに困難を極める作業だったかが書かれていた。

「投票」というものを、強権的な独裁しか知らぬ人々に、いかに伝えるか。
Tは、苦心しつつも、それを伝え、普及していく地道な広報活動に、たずさわっていた。
ところが、悲しいことに、人々にはなかなか伝わらなかったそうだ。
多くの人が投票に行く、と約束してくれたが、その練習となる模擬投票に、ほとんどの人間が来ない。あるいは、金をもらうために並ぼうとする。
せっかく並んでくれたのに、邪魔する人々もいる。
大切な働き手が、のんびりと行列に並ぶのをよしとしない家族たちが、腕をひっぱって、連れ帰ろうとするのだった。

つまり、強権的、強圧的に、飼いならされていきてきた人たち、
小さなころから武力や脅しを受けて生きてきた人たちが、

「自分たちで、自分たちの生活を、ルールを、法律を、人生を、自分たちのアイデアと文化、知恵でつくりあげていく」

ということが実感できるようになるためには、相当の話し合い、教育、考える時間、身につける時間、思考してみる時間が必要なのだった。

わたしはその手紙を受け取って、そこに書いてある内容の大変さに驚いて、とても一度では読み切れず、なんどもその便箋を開いてみては、読み返したと思う。

主体的に考える人材を生み出すためには、時間がかかる。
ほかのことをやっている暇があったら、もっともっと、主体的になれるための時間を、つくりだした方がいい。

とくに学校は。
われわれは、強権、強圧、圧政、といわれるような文化とは、まったく別の文化、というのを、具体的に伝えていかねばならないのだから。


神戸の教師が、おかしくなったあまり、同僚をいじめた、という動画がニュースになった。強圧的に、強権的に、激辛カレーを食べさせようとして、羽交い絞めにしたのである。
もう、教師自身が、「強権、強圧、圧政」の文化に、どっぷり漬かっているわけだ。だから、同僚にも武力、強制、強引、独裁、というような精神文化で、つきあおうとしていく。当然、子どもにも・・・。

教師が、「強権」しか、知らないのだ。
そういう精神文化しか、習得してこなかった。

おかしくなっているのである。おかしくさせられている。
教員がおかしくなっていく原因が、あるように思う。人間らしさを失っていく文化が、あるいは失わせるようないわば、『強権的な文化』が、学校にじわじわと迫ってきている。

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韓国の悪口とアッポーペン

これはどこでインプットされたのかなあ、と不思議に思うことですネ。
韓国のことをどれだけ知っているのか、ほとんどなにも知らない小学6年生が、韓国の悪口を言っております。

おそらく、何の気なしに、というか、あまり意味なく、なにかそのフレーズを聞いたままに、そのまま口に出したのか、と思う。
もしかしたら何か考えがあるのかと思って聞いてみましたが、

「なんでそう思うの?」
「だって、そうなんでしょう?」

なるほど・・・。

・・・これは、マア、言葉は適当でないかもしれないが、「洗脳」されてる状態です。
マスコミからなのか、身近な大人からなのか、どこかで聞いた言葉フレーズが、そのまま脳内で再生され、口に出しているだけ。本人が、なにか深く考えているわけではない。お笑い芸人の発するギャグを、そのまま教室で言うのと同じ。

むかし、芸人さんの、リンゴにペンを指すパフォーマンスが受けたとき。
教室中のどの子も

「あっぽーぺん!」

と、日に何度も何度も口にする日々があったけど、あんな感じ。

テレビ番組でコメンテーターが韓国政府に怒って見せる。
その言動や雰囲気を察して、そのまま、見たまま聞いたままを、まねしている。
全国の小学生の中には、それをそのまま「そうなんだー」と理解し、大人の言っていることだし、やっていることだから、「おれもちょっとやってみっか」と思う子も、いるだろうと思われる。
むしろ、純粋で、大人の言うことをある程度信頼して聞こうとする子ほど、激しい大人の言動、直接的な気分を顕わにする言動を見て、
「ああ、よほど大きな出来事なのだなあ。俺もこの波に乗らねば」
と思うのかもしれない。

安直でわかりやすいので、マネしやすいのでしょう。アッポーペンよりもはるかに、今回の方が、マネをしやすい。アッポーペンは、気分的には玉虫色で、いわく説明しがたい感情の発露であろうと思います。それに比べりゃ、怒り、というパフォーマンスの方がわかりやすい。

古坂大魔王扮する「謎の千葉県出身シンガーソングライター」たるピコ太郎(ピコたろう)が、なにを思い、どんな経緯で、どんな前後の複雑怪奇な物語のはてに、あのセリフを言うようになったか。それを適切な語彙を用いて説明することのできる小学生は、ほとんどいません。

そう考えると、今回の「韓国の政府は馬鹿ばかりで許しがたく、罰せねばならない」というような『怒りの表現』は、うんとわかりやすい。要するに、この人、腹立ててっけど、なんだかいろいろと気にくわないんだろうナー、と子どもだって理解できます。

幼児期の子どもは、気に入った友達とだけ、遊び、つきあっておればよろしい。
だから、いやなやつは、「気に入らねえ」と声を高くして言えばよく、その後のことや周囲のことは一切気にしなくとも済んでしまう。韓国は嫌いだ!と叫べばいいだけなのだから、幼い小学生の子どもたちにとってみれば、すごくよく理解できることなのです。
逆に、おそらくピコ太郎がりんごにペンを刺さねばならなくなった原因や、そのリンゴをその後どうするかまで責任をとる姿を想像すると、ピコ太郎はずいぶんと複雑な背景を背負っている気の毒な大人であります。小学生にとってみると、「わかりにくい」存在といっていいでしょう。

だから、子どもたちは、アッポーペンを、たった1,2カ月で捨てました。
9月下旬にマスコミが、ジャスティン・ビーバーがツイートしたことを報じて話題になったのですが、実際につがるやふじなどのりんごがスーパーで売られるようになるころには、もうすでに飽きられていましたからネ。

「おれ、家でペン刺そうとしたら、姉貴が、PPAPは古いとかいうからやめた」

という会話を、実際にわたしは愛知県岡崎市の教室で聞いている。あれは、おそらく、1月にはなっていなかったろうナ、と思います。

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つまり、幼児は、複雑な背景のあるもの、人間の背景にある物語を理解するのを、面倒がるのでありましょう。ピコ太郎の物語を、背景を、理解し心情を汲みとろうとはしないのです。

幼児期は面倒な人間関係を避けて通れば済むが、おとなはそうはいきません。
気に入らないいやな奴とも何とか妥協点を見出して付き合っていかなければならない。そして、お互いに妥協点をさぐるうちに、相手は相手なりに背景を抱え、家庭や会社の事情の中で、もがきながら交渉していることが分かってくる、理解もできる、その過程でリスペクトも自然に湧いてくるものなのでしょう。

あいつが悪い!と悪者を定めて成敗し、追放すれば残りは全員天使のごとく浄化されているかどうか。この世を白と黒でたった2つに分けよう、という発想は、幼児のものでしょう。黒さえなくなれば、あとはみんな真っ白だと思い込めるのは、幼児だけです。自我の芽生えに満たない幼児は本当に、そう思い込みます。

これは、思春期以後、大人になるまでに自我が育ち、自己の姿を客観的にとらえることができるようになれば、問題は解決するでしょう。社会の中での自分、というものが、自分の内面のありのままの自発的な表現のもたらすものであり、自分が主体的な意志で動き、あらゆる自分の行動を自分が決定し、自分が責任をとるのだ、と実感できるようになれば、おのずと解決するハナシであります。

「あいつは悪者で、あいつさえいなければ浄化され、一切合切すべてが良くなる」と言いたくなる気持ちが消滅し、発生しなくなるからですネ。その理由は、「人間は根本が同じであって、自分を含めたすべての人が考えを変え、行動を変え、自己決定を変化させながら成長している」ということを知ったためでありましょう。

だから大人は、桃太郎で鬼ヶ島の鬼を退治してしまえば、あとは未来永劫、究極の善人だけの国が誕生し、未来永劫、善人だけの歴史がはじまるとは、思わないのです。鬼ヶ島から見れば、われわれ桃太郎の国もまた、かの国の言葉で「鬼ヶ島」と呼ばれていはしないか、ときちんと冷静に分析することもできるし、鬼と呼ばれたからといって、実は鬼ではない、ということが、容易に予想できるからですネ。そして、どの国ともWIN-WINの関係をつくり得ると考え、そういう未来を実現することだけが、目標になるからです。

『土用の丑の日』を改革しよう!・・・水産庁の方へ

以下は、水産庁の方がひょっとしたら見てくれるかもしれないので書きました。
水産庁に所属する以外の方は、深く考えず、読み飛ばしてください。

◎なぜウナギを食べるのか

7世紀から8世紀に編纂された「万葉集」に、ウナギを詠んだ歌があります。
石麻呂に吾れもの申す夏痩せに
よしといふものぞむなぎとり召せ

(大伴家持)

「夏の暑さで大変でしょう。身体が弱ってきたと感じたのなら、むなぎ(ウナギ)を食べると良いよ」
友人の石麻呂という人に、家持がそう勧めたという歌です。
現代の栄養学と照らし合わせても、合理的だと言えるでしょう。

◎ウナギは大切な水産資源

日本人が、「土用の丑の日、うなぎの日。鰻を食すれば、夏負けすることなし」という平賀源内のコピー文に魅力を感じて、家族そろって鰻を食べてきたことは、とてもユニークだし、楽しいことです。

ところが、水産資源を一度に大量に消費することには問題があります。特に、現状のような売買の仕組みそのままで、消費することは大問題です。

売れ残りが、大量に出ます!

そして、それらはほぼ全量、焼却処分です!

日本人が完全に予約制でウナギを注文するならまだ被害は軽微で済むかもしれません。水産業の現場にまで1匹単位で予約をいれて、完全にその予約の数に従って仕入れをするのなら。
しかし、天然であれ養殖であれ、売れるかどうかわからない数を大量に「かば焼き風に仕上げて販売網にのせてしまう」ために、売れ残りの量が毎年3割もあり、それらが消費者の意識にのぼらないところで廃棄され、重油で燃やされていることを考えれば、水産資源を

今しかない!
この道しかない!
今でしょ!


と、ヒートアップした感覚で大量に売ろうとするのは、合理的ではありません。

人間は常に冷静である方が得をします。
生きているのだから、人間もたまにはヒートアップしたいときも無論、あります。そして、時と場合によってはヒートアップすることが楽しいのです。しかし、他国との関係やこういった経済に関係する思考は、できるだけ冷静なのがよいのです。

そこで、提案をします。

「年に一度だから」という理由のために経済的損失がでかくなってしまった、というこの風習を変えるため、うなぎを食べる日を、合理的に増やしましょう!

たとえば、もう一度、こよみを見直してみましょう。
なんと、土用の丑の日は、年に何度もあるじゃないですか。

【2019年の土用の丑の日】
1月28日、4月22日、5月4日、7月27日、10月31日

【2020年の土用の丑の日】
1月23日、4月16日、4月28日、7月21日、8月2日、10月25日、11月6日

水産資源の貴重さを十分に学習してから、(公共広告機構などでCMするといいと思います)今年は鰻をいつ食べようか、と7月に集中しないように考えるのです。

土用の丑は、春にも秋にもある!

ということです。

こう考えると、ウナギだけではありません。
クリスマスケーキの大量廃棄も、大問題です。
これも重油で燃やすらしいです。
せっかく中東の国から地球を半周してまで日本に運んできた貴重な重油。
ケーキを燃やしてよいわけがありません。

そこで、増やします。

【2019年のクリスマスケーキの日】
2月28日、5月22日、7月4日、9月27日、12月24日

クリスマスだ、と言っているのではありません。
あくまでも、クリスマスケーキを年に分散して食べよう、という日です。

おそらくジャニーズやよしもと興業の芸人さんたちが、

「おれは2月に食うよ」
とか
「おれは新緑のすてきな5月」
だとかテレビで言えば、日本人はすぐに「じゃわたしも」と考えるでしょう。

しかし年のチャンスが5回あるわけですが、そのすべて5回ともケーキを食べると不幸が訪れる、という都市伝説も一方で流しておいた方がよいかもしれません。食い過ぎです。それは。


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ブラックとよばれて

11月ごろから更新がおぼつかない日々。
土日もほとんど無いから、ブログが書けない。

「最近、アップされる記事が少ないですが」

ある方からメッセージを頂いたが、申し訳のないこと。

夜、早く帰ってくればいいのだが・・・。

残業の上限は月45時間” 教員の働き方で国が新方針
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181206/k10011736701000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_007

「これがブラックと呼ばれる所以(ゆえん)か」

夜中まで、先生たちは平気で職員室にいるけど、どの先生も遅くなればなるほど口をきかなくなっていく。そりゃそうだ。誰しも、一刻も早く帰りたいから。

自分の席から、コピー機まで、走っていく先生。
ボタンも、パッパッと押し、コピーしている間、目をとじて考え事をしている。
コピーが終わると、電光のごとく、用紙を手にしてあっという間に席にもどっている。

夜8時すぎに、電話が鳴る。
教頭がちゃんと受話器をとって、対応している。

教頭がぽつん、と言った。

「明日の時間割だった」

・・・

だれも反応せず、職員室にしずかな時間が流れていく。
カタカタカタ・・・
ピー
ゴトゴト。

シャッシャッ、という音は、赤ペンを走らせる音だ。
みると、1年生の先生。赤く、大きな〇をつけている。
いいなあ、低学年。問題数が少ないもの。
しかし、間違えた字などをていねいに直しているから、これまた時間はかかる。


一番の原因は、日本人の体力が落ちていることだろう。
だから、夜間の仕事の能率が上がらないのだ。
もっとも影響を受けるのは、目だ。
目が、しょぼしょぼしてくる。

年配の先生が、「あー、もう目がしょぼしょぼしてきた」と言って、パソコンの画面を何度も目をこすりながら見ている。

これが、教員がブラックと呼ばれる一番の原因だ。
しょぼしょぼしてきた目で、仕事の能率が上がるわけがない。

ブラックの名を返上するためには、ブルーベリーで目の健康を促進することだ。
ブラックには、ブルー。黒には、青で対抗だ。

ぜひ、文科省のえらい人に、提案したいです。
全国の小学校に、ブルーベリーを届けてください。
毎日毎晩、ブルーベリーを食べながら、心を満たしながら、先生方はがんばることと思います。
文科省に感謝しながら、よし、がんばろう、がんばるんだ、やりきろう、やりきって帰ろう、と。
そう思うことができるはず。

ブラックを、ブルーに。全国のPTAも、賛成してくれると思うネ。

ブルーベリー

学校の設計に世間が無関心であること

今の勤務校は、PTAがつくった学校だそうだ。
なによりも、学校を立ち上げる際には、村人がこぞってPTAの集会に集まり、どんな学校にするのか、1年生の教室をどこに配置するか、池をつくるかどうか、木は何を植えるか、芝生にするか、掃除のときのバケツの水を捨てる場所まで、あれやこれやと喧々諤々、だったらしい。

こんな愛情が込められているのだもの、いい学校になるに決まっている。

低学年は、広い教室が良いだろう、というので、国で決められた基準よりも大幅に、広い。
それも、1クラスごとに独立していて、静かな環境を整えてあげようとする当時の親の心遣いに満ちている。
小さくても採光のための空間があけてあり、ろうかも教室も、明るくて風通しが良い。

おまけに低学年棟は、当時の食堂にいちばん近い。
1年生が一番先に、食堂にきて、ゆっくりゆっくり食事ができるように、という設計だったしい。
(当時は、全校児童が食堂に集まって、一斉に食べた)

当時の記録を読んでいると、涙が出てくるほど、人間の愛に満ちている。

幼い村の子どもたちを、いかに大事にしていたか。
子どもの笑顔がみたくて、みたくて、そのために大人たちが大騒ぎしながら、学校の設計に取り組んだ。

学校建設のために私有地をゆずった地主さんは、その条件として、学校の周りには大きな建物が立たないように、村にきっちりと働きかけたそうだ。

ところが、最近、同じ県内に新しくできた学校の先生と話す機会がありまして。

県の教育センターで、教員の研修を受ける際にいっしょになり、世間話をしていると・・・

「新しいのはいいのですが、コスト重視でネ。見た目はいいけど、教育には向きません」

その先生の学校は、昨年できたばかり。
東京の建築デザイナーが、鳴り物入りで現れて設計したらしい。
外側からみた、体育館の見た目が奇抜で、カッコイイ。
ところが、木を植えない、草を生やさない、鉄骨むき出しの階段、風通しの悪い校舎・・・

「校庭と低学年教室との距離が、いちばん離れているんです」
「子どもを知らない大人が設計したとしか」

なによりも、PTAが一切、設計に関わることができなかったとか。
たしかに予算、建築計画、地元の土木業者との関係など、政治がらみの事情はあったろう。
あれやこれや、突貫工事であっという間にできた校舎を、だれも愛せないとしたら。

なんのため、なんのため。
目的からどうしても、ずれるのが、人間の思考の癖らしいネ。
期限内におさめることが、なによりも優先されると、ひずみが出るよね。

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【非常事態】自分の命を救う防災教育を

5年生の社会で、日本の土地利用について学ぶ。

日本は南北、東西ともに細長くのびていて、大陸に接していない。
弧を描いて、大陸から離れている。
寒い土地もあれば温かい土地もあるし、標高も高いところ、低い所、いろいろとある。
また、海に接している土地もあれば、山の盆地もある。離島も多い。

5年生は、この1学期に木曽三川を学び、輪中を習った。
輪中では堤防をつくり、川の氾濫に負けないような土地の利用の仕方をしている。
愛知県には日間賀島のような漁業が中心の土地もある。そこで、津波や高潮による被害を防ぐために、堤防や防波堤をつくり、島の暮らしを守っている姿も、実際にみてきた。

ところが、今回の大雨は想像を超えている。
ニュース映像で流れている写真、映像、どれも水のこわさを伝えていた。

防波堤、土留め、土砂災害を防ぐための工事やダム建設など、人々の工夫や災害に対する備えは、あった。それでも、その備えを超えた、自然災害が起きた。

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(写真は朝日新聞記事より引用)

災害、というものを真正面からとらえる、学習内容をつくるべきである。
防災教育を、まともにやるべきだ。社会の教科書に、防災、という単元をきちんと位置付け、ボリュームを増やすべきである。現状ではたかだか数ページしかない。少なすぎる。

ここは日本だ。

災害の多い国だ。


阪神の震災で、何を学んだか。
東日本大震災での避難の実態はどうであったか。
津波、放射能から逃れるために、国の情報提供はどうだったのか。
そして、肝心な、

「情報は頼るべきだが、情報が無くても動く勇気、情報が届く前に動く勇気を涵養すること。最後にたよるのは政府の報道ではなく、自分の判断であること。自分をすくうために直接に責任を負うのは自分自身であること。自分の命は国や政府の下に所属しているのではないこと。一方、政府は災害から国民を救うために、事前の努力を最大にしておくのが任務であり、いざ災害が起きた時は日頃の訓練を生かして人々を救うための人材を確保する」

ということを、学校教育で教えられるようにしていきたいものです。

「政府から連絡がないから、まだ行動しない」

という子にならないように、国はしっかり教育をしなければならない。
そのためには、『国民の命は国に所属しない』『国民の命を守るために国を組織する』ということを、きちんと位置付けるための学習指導要領の制定が必要でありましょう。

射幸心(しゃこうしん)教育のススメ

射幸心(しゃこうしん)と賭博行為は密接な関係にあり、日本においてつい先日まで、賭博行為が規制されてきた根拠は「国民の射幸心をあおるのは勤労によって財産を得ようとするという健全な経済的風俗を害する」という理由による。

ところがこれが改正されたため、日本は国をあげて、射幸心に白旗を上げた、というか、射幸心を利用して金儲けをしよう、ということにしたらしい。

しかし、その射幸心ゆえに、自国の国民が不幸になってしまっては元も子もないため、おそらく今後、小学校、中学校を中心に、「射幸心」を克服するための指導が行われて行くのではないか、と予想される。

文科省も、時代がここまで進んでしまった以上、射幸心を制御するための教育プログラムを早急にくみたてていく必要にせまられている。

まずは東京大学をはじめ、国の先進的な研究機関が、「射幸心理学科」を創設する。
つぎに、高校、専門学校、中学校で「射幸教育」を行うべきであり、小学校では道徳の時間に「射幸心依存(SHA-KO addiction)について、学ぶべきだろう。

アディクションとは簡単に言うと、耽溺する、癖になる、というような意味である。
心理的には、強い依存、ということになる。

抜けたくても抜けられない、やめたくてもやめられない、頭の中が、始終そのことでいっぱいになる。ふと気が付くと、博打について考えている、という調子。ふりはらっても、ふりほどいても、博打の思いが、頭から離れていかない、まるで身体がそれを欲するように、依存してしまうのである。

射幸心を強くさせる心理はかなり解明されてきており、一つの指標はそれがランダムである、ということらしい。
スロットに夢中にさせようとして、被試験者がスロットを試みるとすべて当たるように仕向けておくと、「当たりばっかり」がでる。すると、調子に乗ってスロットに耽溺するようになるかというとそうではなく、むしろすぐに飽きてしまうそうだ。
かといって、ずっと外れていてもダメで、やはり「これ当たらねー」と言ってやめてしまう。
一番、スロットに夢中になるのは、(理由がはっきりしないが)当たる、当たらない、ということが偶然にもたらされる、という要素らしい。

人間は、どうやら偶然にそうなる、ということについてドキドキはらはらするらしく、そのことが脳をかなり刺激するようだ。だから、カジノの商売元は、客には「ごくまれに、最小限度に勝たせる」のである。

こういうことを、小学生のころから、学ばせるべきであり、そうでないとカジノで人生を狂わす子どもが出てきかねない。

少なくとも、「射幸心」とはなにか、どのようにしむけていけば「射幸心」に人が依存するようになるのか、小学生でも学べるようにしていかないと、手遅れになる。
同様に、アルコール依存、薬物依存、ネット嗜癖、スマホ依存、それらがどのような心理からもたらされてくるものか、人間の心の解明を、小学生の道徳ではじめたほうがいいと思う。

『射幸嗜癖』は、不安と関わっている。必要なのは、人間心理の『不安』というものについて理解することだ。「安心」というものがわかってはじめて、「不安」が解消する。不安は、安心のうらがえしではない、という点を、子ども時代にきちんと学んでおきたい。

チップ

「人間は馬鹿だ」の前提で。

.
米テキサス州ヒューストン近郊のサンタフェ高校(生徒数約1400人)で18日朝に起きた銃乱射事件。

学校での銃乱射事件自体は、もう何度も何度もくりかえし、くりかえし起きていて、ニュースを聞くたびに暗い気持ちになっていたが、今回のニュースを聞くと、もう開き直って、

「人間は馬鹿だ」という前提

で、社会のシステムを構築したほうがいいな、という気になってくる。

かくいう自分も、自分のことを信頼していないから、めざましを2つかけるときもある。
ぜったいに忘れちゃいけない、という用事については、翌朝に備えて、メモをわざわざ、玄関の自分の履く靴にクリップでとめておくこともする。

それでも靴を履いてから、玄関を出て車のエンジンをかけるころには、忘れてしまっているのだから、なんという馬鹿だ、と自分を責めることになる。

かしこい人間は、その自分を責めずに、さらに信用できない自分のために、次なる手を次々と考え出し、

「そんなこともあろうかと、〇〇しておいた」

といった風で、自分の失態をきちんとカバーする体制をしっかり敷いている。

ずいぶん昔のことになったが、小惑星の探査で有名になった宇宙探査機「はやぶさ」は、イオンエンジンが壊れたり、行方不明になったり、電池切れになったりしても、ことごとく

「そんなこともあろうかと」

というカバーの技術が生きていて、ぜったいに「はやぶさ」を死なせなかった。

人間は賢いのだから、銃を正しく使えるはず、という前提で、銃を販売している。
その銃を、手入れするときの誤射によって家族が死んだり、自分が死んだりと、銃を手入れする際の事故も、絶え間が無い。

銃を持つことを選んだアメリカの社会は、「はやぶさ」のように、誤射しても大丈夫のような、あるいは狂人が人を狙ったとしても弾が出ないように、カバーするシステムを、構築しなければならない、と思う。

身近な自動車に目を向けてみても、ぜったいに事故にならない車、をつくるのが、TOYOTA自動車の社長の夢だ、と聞いたことがある。
ところが、まだそれは実現していない。

ぜったいに人を不幸にしない銃、というものを、銃を作る会社の人は、考えなければならないし、そのアイデアのために、もっともっと人はカバーの技術や、文化を構築する必要があろう。

もしかすると、それは「技術」がそうするのではなく、「文化」が大きな役割を果たすかもしれない。

カバーを何重にも行う文化。人がもし間違ったとしても、その人間を責めないで済むように救済するための文化。

人を助ける文化。

それができるような人になるための資質、能力をのばし、育成して、立派な大人に成長させることが、小学校の役目。

だと考えれば、小学校自体も、失敗をカバーする文化、で成り立っていないとネ。


もし、仮に、だ。
これが、逆だったらどうか。
たとえば、人間は賢いから、転ばないはず、という前提だと、学校から保健室がまず消える。

子どもが転んだら、

「なんで転んだりなんか、するんだッ!」

と、叱り飛ばす。

「自己責任だッ!たんこぶの痛みをこらえろ!」

保健室は不要だね。これなら。確かに安上がりだわ。

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安倍首相について

.
ふだんの会話の中で、
子どもが、安倍首相のことをひどく言うことがある。




わたしは道徳で、「ビーフカレーは辛いか、ポチは悪いか」という授業をする。

麻布十番ビーフカレー


このカレーは、辛いカレー?

「いや、ぜんぜん辛くない、と感じる人もいそう」

じゃ、この犬は、こわい犬?

と、犬の写真を見せる。

「ううん。こわいと思う人もいるかもしれないけど、こわくない、という人もいそう」

だよね。

じゃ、この犬は、悪い犬?

「悪いこともするかもしれないけど、寝てるときはかわいい、と思うかもしれない」

だねー。

悪い犬って、24時間、ずっと悪いのかな。
悪い犬って、死ぬまでずっと悪いのかな。
Nくんが、この犬は悪い犬だと思っていても、犬の飼い主からみたらすっごく可愛かったりして。

悪いって、なんだろうかな。

「悪いってのは、なんかやってほしくないことをやってる犬に向かって、それをやってほしくない人が言うことじゃないのかな。だから犬がそれをやってもいいよ、と思っている人や、関係ない人とか、むしろやってほしい、と思う人は、悪い犬だなあ、とか、全然思わないと思う」

つまり、どういうこと?

「悪いってのは、事実じゃなくて、感想」




この人は悪い人?(トランプ大統領、インドのモディ、韓国のムン・ジェイン、エリザベス女王、メルケル、フィリップ、など世界の指導者たちの写真を軒並み、ずらりと見せる)

「うーん。ただのおっさんとか、おばさんにしか見えない」

これは実は、世界の指導者とよばれる人たちです。この人たちのやろうとしている仕事について、どんどんやってほしい、と思う人も多いかわりに、やってほしくない、と思っている人もいるわけね。いろんな立場の人がいて、世界は広いから・・・。そうすると、この人たち自身は、そもそも「悪い人」かどうか、決められるかなあ。

「味方になっている人からすると、いい人だし、敵になっている人からすると、悪い人に見える」
「いいと思うことをやってくれたら、そのときはいい人に見えるし、その人が急にやってほしくないことをやったら、悪い人、と思うかもしれない」



わたしは黒板に、いい人、悪い人の表を書く。(左がいい、右が悪い、という横一線の、単純な線分図)

今日、Aくんがこの人はいい人、と思っていても、明日はもしかして、その人がなにかよくないことを言ったとかを知ったら、悪い人だ、という方に、ちょっと評価が寄るかもしれないね。また、世界中の人がこの表をもっていて、それぞれ自分の考える「いい」「悪い」を、ここに書いていくとしたら、最後の結論として、この人はいい人です、悪い人ですって、実際の結論が出るのかなあ。

「出るわけない」

では、まとめ。

良い人だとか悪い人だとかというのは、わたしがどこから見ているかの感想で、その人が良い人だとか悪い人だとかいうことではない。



先日まで、安倍首相を糞みそにこきおろしている発言を繰り返していたNくんも、安倍首相の悪口を言ったあと、ちょっと首相をフォローする言葉を付け足すようになりました。感想だけど、と。

「まずい給食」

.
どこかの県で、給食からビニール臭がしたり、異物が混入している頻度が高いので、子どもが食べない、という話がニュースに流れていました。

自治体が新たに給食センターを運営すれば、こういうサービスは改善されると思いますが、
町や村には、そこまでの予算が無いのでしょう。

だから、民間に任せるしか無いのですが、
給食はそもそも安価でなければならず、儲けを出すのは至難の技。
民間企業は、宿命として、コストカットによって儲けを出すものなので、
かなり無理がかかっているようです。

以前、国鉄がJRになって成功したから、日本中がどしどし民間になればよい、という考えが流行しましたね。

東京や大阪では、それで成功しました。
A社がだめならB社、それがだめならC社もある、ということで、
豊富な「やる気のある企業による競争」が高まり、サービスの質がどんどん向上する、という論理でありました。

しかし、そうはならないことだって、ある。
考えてみれば、当たり前のこと。
実際には、「競争があるから弁当が美味しくなる」というわけでは無いからですね。

とくに田舎では、そのサービスを営もうとする企業が、他に無い。
どんどんコストだけをカットして、人件費を削り、
サービスが低下したって、他に業者は無いのだから仕方がないのです。

また、業者の方にも、
仕事をする人が見つからない、仕入れ価格を下げられない、
遠距離を運んで届けなくてはいけない、など、
そもそも、無理のある注文を何とかして受けている場合があります。

大手企業が、無理だと断った注文を、
小さな企業が無理に無理を重ねて受注した場合、
どんな弁当ができるか。

みんな、無理を重ねた結果なのでしょう。




おいしい食事を、たべてもらいたいな。

その思いを、そのまま実現できる社会のしくみをつくればいいが、

そんなアイデアは、人間がどこかへ放り投げて棄ててしまっているようです。




求む!新たな社会システム発想。



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子ども 「じゃあなんで、ミサイル撃つの?」

.
先日の記事で・・・。

日本全国の小学校の教室で、

先生たちが、算数を教えたいばかりに、

子どもに、こう言っているかも、という話を書きました。

「ミサイルは、ぜったいに落ちません!落ちないから安心して!」




ところが、「落ちるかもしれないよ」と教えた先生がいたのですぜ!

なんと、隣のクラスの若い先生!

「え!?落ちるかも、って言ったの?」

「ええ、そう言っちゃったんです」

「どうなった?」

「授業がつぶれました」



そりゃ、そうでしょう。

だれも、割り算の筆算の仕方なんてことより、

自分の未来が想像できなくなることのショックが大きいだろうから、ね。

「死ぬのやだ!!」

と不安になって、授業どころじゃあ、なくなりますわね。




ところで、


子どもによっては、

「じゃあなんで、ミサイル撃つの?」

と冴えた質問をする子もいます。

子どもたちは、頭がシンプルなのか、

「なんで、ミサイルつくるの?」

とか、そもそも、なぜそれを製造するか、ということまで、

「本当に不思議」

と思うらしい。




これらの質問の、答え方が、難しい。

全国の小学校の先生たち、みんな、どうやって答えたのか・・・?



わたしは、こう言って、のりきりました。

「ん、まぁ・・・大人の事情というか・・・(口ごもる)さ、算数、算数




中には、今回のミサイルの高度はほぼ宇宙空間になるため

(ちなみに高度八十キロ以上はすでに宇宙空間らしい)

「日本の上っていうより、地球の上っていう感じなんじゃないの」

とするどいことを言う子もいますし、


前回のミサイル撃った時、(初めてのJアラートのとき)

校内が騒然としていたので、私があれこれと説明したことを覚えていて、

「北朝鮮は朝鮮戦争で、さんざん大量の爆弾を落とされたからアメリカに恨みがあるんだ」

と発言する子もいます。



しかし大半の子にとっては、
「仲良くすると繁栄する、仲が悪いと暮らしにくくなる」
という、本当にシンプルな、人間の心理実感からくるもので判断しているように思う。


子どもはあれこれと話す。

ぶっちゃけ、他国へミサイルを撃つことで、自国が繁栄することはない、というようなことや・・・
将軍がその気なら、原発に打ち込んでいるから、もう日本は全滅しているはず・・・だとか、
なのに、今、自分たちが平和に学校で算数を勉強できているってことは・・・。



自宅で、親からいろいろと聞いているのもあるんだろうけど、

子どもは子どもで、必死になって、自分の命や将来を考える。

そこでの結論は、

「もう、戦争はおきない」

ということ。

子どもは大人よりも、もっと現実肌で、

国と国の関係も、自分のクラスのAくんとBくんの関係として考えている、

つまり、

腹の底からの、人間としての、生活の実感から考えるから、なのでしょうね。

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子どもへ北朝鮮ミサイルをどう説明するか?

.
また、ミサイルですよ。
昨日の朝、テレビをつけたら、そればっかり。

わたしはうんざり。
通勤途中も、ずっと仏頂面でした。

なぜなら、教室に顔をみせたとたん、子どもたちから、

「ミサイルって、おちる?」

と、質問攻めにあうだろうから、です。


おそらく、だれも言わないのかもしれませんが、
テレビ局やマスコミのみなさんは、
ミサイル発射の日、ただちに小学校の教室を取材すべきです。

子どもたちに向けて、先生が冷や汗を流しながら、
なんとか、現在の国際情勢を説明してるところを見られるはず。

で、ここからがポイントなんですが、
日本中の先生たちが、おそらく、

「だいじょうぶ!日本には、ミサイル落ちないから!」

と説明しているだろう、と思うのです。あくまでも推測ですが。

マスコミは、その姿、そのセリフを、日本中に報道すべきだと思う!!

先生の、その顔つきを、画面に最大にアップにして・・・。





これを聞いて、日本会議の方はおそらく、

「いや、落ちるって!先生たちはお花畑なのか!」

と激怒するでありましょうが、
これにはワケがありまして・・・



つまり、8:40から、そのミサイルの質問を聞いていたら、
8:45から、算数の授業をしたいのに、できないのですよ。

5分後には、わり算の筆算の仕方をみんなで学習したいのに、

ミサイルの話をしてるわけにいかない!

だから、おそらく日本全国の小学校の先生は、

「だいじょうぶ!ミサイルは落ちません!」

と、子どもたちに絶対安心だ、と言わねばならない。




教師たるもの、ひるんではいけません。

「ミサイルが落ちるかもしれん」

と認めた瞬間、子どもたちに、

「我々には未来がないかもしれない」

と思わせることになり、

「じゃあ、わり算の筆算の勉強なんて、したくないなあ。どうせヤラレルなら、こんなのする意味ない」

と言わせることになるからです。



ぜったい、落ちない!

と、教師がぜったいに言わねばらならない正義の理由がわかりましたでしょうか。




で、不思議なことに、ここからが本当に面白い事なんですが、

「どうせ落ちないでしょ?」

と、子どもたちはけっこう、ふつうに、そう思っているのですよ・・・。




わたし、正直、これには驚いたというか、にわかには信じがたかった。

その子が

「落ちないわ」

と言っているので、その子だけがそう思っているのかと思ったら、

クラスの大半が、

「どうせ落ちないと思う」

と言った。

これは、どういうことなんだろう。

たぶん、子どもなりの、結論なのかもね。
よく考え抜いた末の。

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日本男児の生き方を指南!

.
兵隊をいかに「殺人集団」に仕立て上げていくか、という文章を
読んだことがある。


米軍の心理カウンセラーが書いた本。

ポイントは、

なにも考えさせないこと。

やれ!

と言われたら、

ハイ!

と、すぐに大声で、返事をし、身体を即座に動かせるように訓練するそうだ。

これを、徹底的に繰り返す。


機械的に、反射的に、とっさに何も思考せず、余計なことを思わず、

すぐに身体が反応できるようにしていくことで、殺人が可能になる。

「殺せ!」
「ハイ!」




なんで、そんなことを思い出したかというと、

ふだんはちっとも本など一切読まないのに、

小学校で英語が始まるので、準備するため、

なにかヒントになる本がないだろか、と久しぶりに本屋に行ったら、

「男20代にしておくべきこと」
「男30代、やっておかないと後悔すること」
「老いてもなお男の美学を」
「人の上に立つ成功戦略」
「勝つための男のコミュニケーション」
「歴代武将に学ぶ人生設計」

という感じの本が、大量に並んでいたからです。


え、こんな本があるの!?


とびっくりしながら、おっかなびっくり手に取って、最初の方をパラパラとめくると、

なんとまあ、どれもこれも、この手の本は、すべて

命令調

なのであった。

「できる男になりたきゃ、〇〇しろ」

という感じ。



マゾ様仕様にも程がある!!


これを読んだ読者は、命令ばかりされるんで、

余計に、劣等感が増していくんじゃないの?

と、ちょっと不安になった。



命令されて、それを受け入れる、というパターンで、

戦争が始まったと考えると、

「共にさぐる」

「いっしょに考えていく」

「考えていく仲間になりあう」

というのでは、戦争は無理なんだろうね。


単純に、

えらい人が 命令をして それを受け入れる

という文化がなければ、やはり人を殺す現場では、役に立たないのだろう。

そもそも、自分の命を捧げたくなるほど、えらい人がいないといけない。



まずは、本屋に並んでいる、こういった命令調の、

「男はこうしろ!」

という文体の本を、読まなければならないほどに、

あるいは、読んだ結果、「そのとおりにしなければならない」というくらいに

追いつめられた男を、社会的に『生み出さない』ことが大事だ。




フーテンの寅さんのような男が、

「男はつらいよ」

と言えるのが、日本のよいところ。



「やれ!」

と言われたら、

「ハイ!」

と言う代わりに、隣のタコ社長をみながら、

「そんな必要、あるのかねえ」
「おいちゃん、難しいことはよくわかんないけれどもさ」

「男はつらいよ!」

というのが、いいんじゃないの。

その方が、日本人には合ってる気がするな。

とら


「わたし」が主語になる間は平和 ~Nスぺ731部隊~

.
NHKスペシャルで、「731部隊」が取り上げられていた。

また、インパール作戦のことも先日、やっていた。

録画してあったその2つを続けてみて、考えたこと。




えらい人の主語が 「わたし」 でなくなってるときに、
人は、要らない事件を起こすみたいやなぁ〜。


「軍人たるものは・・・」
「部下であれば・・・」
「日本人なら・・・」
「日本男児のすることに・・・」
「男っていうのは・・・」

こういう言い方をするときの目は、宙をさまよう。
自信がなく、虚勢を張っているように見える。

怒った時の感情の処理の場面で、この言い方がよく出る。

本当の自分の意志、自分自身を大切にできなかったから、
そのことが心の裏で分かるから、自分の心に勢いを駆るしかなくなる。

それで、大声(おおごえ)になってしまうのかな。

冷静でいられなくなることの原因は、たぶん、それ。


「他の軍人もみな・・・」
「相手は匪賊で」
「陸軍としては」

この時、「個人」は、すっぽりと抜けている。




「軍人」・・・も、
「日本人」・・・も、
「日本男児」・・・も、
「男」・・・ってのも、

みんな、わたし自身の実際とは、つながっていない。
くっつけようとした、というだけの『言葉』。



「わたしは、いやだと思った」
「わたしは、とてもできないと思った」
「わたしは、泣いた」


こういうことは、戦争を終えて、
心に余裕ができてから、はじめて言えたこと。

「わたし」が主語になる間は、平和な時代だ、ということ。



自分を大事にしなかったときの、言葉の癖は、よく見える。
平和な時には、それが見える。

つまり、主語が「わたし」以外になってしまう、ということは、
「わたしは、自分を大切にしていません」ということを、
だれかに気付いてほしくて、言外ににおわせているのかも。

NHスペシャル

残業0(ゼロ)に賛成

.
残業0(ゼロ)というのが、いちばんいい。

今の社会の仕組みの中では、核家族が多いからね。



子どものまわりに、大人はやっぱりいた方がいい。

それも、ゆっくりとした大人がいて、

なんとなく「静養」している雰囲気がいい。

忙しそうで、不機嫌でいる大人を見るのは、

子どもにとっては楽しくない。



だから、わたしは、残業0(ゼロ)に賛成。

残業代0(ゼロ)には、反対。




しかし、これ、社会のしくみが、どう変わっていけば、

残業が0(ゼロ)になるんだろうか?



現代は、お母さんが子育てのプレッシャーをずいぶん感じている時代。

子どもが言うことを聞かない、というので、お母さんが焦燥する姿を何度もみてきた。




そりゃそうだ。一人で子育ての責任を一気に背負わされている感じがあって・・・。

きっと、母親をゆるさない社会は、子どもを許さないし、父親さえも許さないのだ。





残業がなくなって、父親がすぐに家に帰れば、母親はうれしい。

父親がゆっくりしているのを見るのは、子どももうれしい。




親が不機嫌だと、

子どもは、意味が分からなくなる。

その「不機嫌」の正体は、ナニ?

ぼくのせい?



機嫌良く、早く帰ってきてほしい。それだけで、すべて満たされる。

business_zangyou

ルールをつくりたい子

.
Fさんが、

「先生、給食のおかわり、ルールを変えませんか」

と話しに来た。


4年生になったらルールがなくなっちゃったので、
復活させたい、と言う。

「3年生の時と同じルールがいいです」


それは、おかわりルールというべきもので、
おかずを減らした人は、おかわり禁止とする

というルールなのだそうだ。


なぜそう思ったのか。

先日のこと。
給食のデザートで、フルーツポンチが出た。

隣の席のSくんが、あろうことか、他のおかずをかなり減らした。
野菜とお汁をかなりの量、減らしたらしい。

Fさんは、そのとき、

「Sくん、今日は食欲ないのかなあ」

と思ったそうだ。


しかし!

おかわりの時間になったとたん、Sくんはすぐに行動し、余っていた

フルーツポンチを、お皿の上に山盛りにして、喜び勇んで席にもどって、

「どや!フルーツの大盛り!」

と言った。



Fさんは、許せないと思った。

「だって、フルーツポンチをたくさん食べたいからって、野菜を減らすのは、ダメでしょう?」


そこで、3年生のときのように、クラスのルールをきちんとしたい、というのだ。

「野菜を減らした人は、おかわり禁止にすればいい。そうすれば、みんな野菜も食べて、本当に欲しい人だけがおかわりをすることになる」

Sくんのような、不当なフルーツポンチの享受をゆるしてはならない、ということらしい。




「わたしがおかずを食べ終わって、フルーツポンチのところに行ったら、少なくなっていたもん」

Fさんが、Sくんを恨む気持ちもわかる。

Sくんは、何でもダイレクトに大声で反応するタイプ。
フルーツポンチを遠慮して、少なくするなんてことは絶対しないタイプだ。

「わー、フルーツポンチ!!!たくさんゲットーーー!!」

それを、隣の席にも、うしろの席にも、前の席にも、斜め前の席の子にも、
みんなに見せたくなる、そういうお人柄。

「ほらみて!山もり~ッ♪!!」




Fさんが、フルーツポンチの恨みを忘れることは当分、なさそうだ。

「ねえ、先生。公平なルールをつくった方がいいよ」

「あ、そう。そうかなあ」

わたしは、腕組みをして考える。

「フルーツポンチ、人気だものねえ」

「そうだよ、みんなだって、Sくんはとりすぎだって、言ってたよ」

「うははは」

わたしは、つい大声で笑ってしまう。

Fさんの、フルーツが食べたい気持ちが、痛いくらいに伝わってくる。




「よし、わかった。今度、フルーツポンチが出たら、Fさんに大盛りにしてあげよう」

「え、ほんと。でも、みんなから、ずるって言われる」

「いいよ。先生の分をあげるから」

「わーい」

これで、もうご機嫌で、すっかりルールのことなんて、言わなくなりましたぜ。

「今度、フルーツポンチが出たら、おかわり欲しい人がどのくらいいるか、みんなに聞いてみてからにしようね」

「うん」

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ヒトラーは、いつか、くるのだろうか?

.
トランプ大統領となり、世界的にナショナリズム礼賛の動きがありますね。
産経新聞は編集局長が
「トランプでいいじゃないか」
という見出しで文章を書いていました。
いいじゃないか!これからは日本もナショナリズムでいこうや、国民は開き直れ、というのです。

ところが実際の自民党政権はそうはならないと思います。
なぜなら、米国追従だから。
米国についていきます、という姿勢と、「戦前に回帰して、日本は日本の独自路線でやりますわ」という姿勢がねじれているからです。まるで、上半身は前に進もうとしながら足だけは後ろに行きたがる、という感じ。

だから、現政権が急激にヒトラーのような、
『日本国民万歳!他民族はあっち行け!』
・・・というような感じにはならないと思います。経済成長はグローバル重視で、と言い切っている安倍さんは、なおさらそうはならないでしょう。イライラはするでしょうが。

では、どこからヒトラーが現れるかと言うと、
やはり、本物のヒトラーのような、かつての雰囲気とたいへん似たような感じで、現れるのではないでしょうか。

つまり、アジテーションの天才として。
大衆の心の操作に長けた、人気者として。

ヒットラー


水木しげるがヒトラーに興味を持っていて、ヒトラー総統の本まで描いていました。
そこには、狂気に翻弄されるドイツ国民の心の変わる様子がこれでもか、とかかれていますが、やはりヒトラーはとても魅力的な人物として見えているのです。

ヒトラーは、いちばん最初はただのアウトサイダーです。
何も権威もありません。
聴衆から野菜を投げつけられるような始末です。
ところが、話す内容を聞いていると、だんだんと心を動かされる人が出てくる。

「今、ドイツ国民が苦しんでいるのは、
〇〇のせいだ!
〇〇さえやっつければ!」
と喚き続けるヒトラーに向かって、

「おまえ、なに言ってんだ。あほか」

という人もいるのですが、だんだんと

「あなたのいうことこそ、私の願っていることなのです!」

と陶酔する人が出てくる。

すると、ヒトラーは本当におだやかな笑顔を振り向けて、

「おお、あなたは賢い。わかっていただけましたか」

と、ハグしたり握手をしたりして、ハートをぐっとキャッチするわけ。


許せない
〇〇のせいだ
〇〇をやっつけさえすればよいのだ

(ひとのせいにしたい気持ちに、これで火がつきます。この時点ですでに思考停止に近い

やつらを野放しにするのは言論が自由だからだ
やつらを野放しにするのは集会が自由だからだ
やつらを野放しにするのは思想が自由だからだ

だから、「言論」と「集会」と「思想」から、自由をなくせ

「そういうことを書くべきではない」
「そういう集会を開くべきではない」
「そういうことを言いふらすべきではない」
「そういうことを言う奴は、非国民だ」


と、まあ、

こういうことを、お互いに日本人同士でみんながみんなを指さしあいながら、言い合うような社会情勢ができていくのかも。


今、トランプさんという、派手な公約を掲げる人物が米国の大統領になったからには、
現自民党政権は、いくつものジレンマや「ねじれ感」を抱えることになる。
ねじれたまま、身動きがとりづらくなる。

そうなると、

〇徴兵制
〇核武装
〇基本的人権の制限


を進めたい側の人たちが、どんどんと姿を現してくるのではないでしょうか。

それも、現体制からではなく、どこかの社会の片隅の方から、
笑顔で、かっこよく、ゆっくりと、登場して出てくる気がする。

決して焦らず、じっくりと、様子をみながら。
その顔に、笑顔を絶やさずに。
あくまでも、格好良く、スマートに・・・。


もうすぐ、歴史の授業で第一次、第二次大戦を扱います。

ヒットラーだけでも、話題豊富。
なんでドイツという大国で人気者になれたのか、説明しなきゃならない。
むずかしい。

でも、案外と日本と比較することで、子どもたちも考えていけるかも。
「ヘイト!」と叫ぶと、スッキリする、一時的な陶酔感の意味とか、ネ。

NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来(3)巨大格差 その果てに

.
【番組の説明】近代資本主義250年の歴史の中で、現在は格差が最も広がっていると言われる。巨大格差の先には、何が待っているのか。元米国労働長官のロバート・ライシュ氏や、“世界一貧しい大統領”と呼ばれたホセ・ムヒカ氏ら知の巨人たちに話を聞く。

また、自らへの増税を求める米国の富裕層グループの活動や、経営者の報酬を10分の1に削って従業員の最低賃金を7万ドルに揃えた企業の社会実験などを通じて、格差是正の可能性を探る。

学校では、『総合的な学習の時間には、何を教えるのか』ということがよく話題になる。

文科省も、現場が混乱していくのを避けるためだろう、学習の対象を次のように定めている。
学習対象とは,児童が探究的にかかわりを深めるひと・もの・ことを示したものであり,例えば以下のようなものなどである。

[横断的・総合的な課題]
・地域に暮らす外国人とその人たちが大切にしている文化や価値観
・情報化の進展とそれに伴う日常生活や消費行動の変化
・身近な自然環境とそこに起きている環境問題
・自分たちの消費生活と資源やエネルギーの問題
・身の回りの高齢者とその暮らしを支援する仕組みや人々
・毎日の健康な生活とストレスのある社会
・食をめぐる問題と地域の農業や生産者
・科学技術の進歩と自分たちの暮らしの変化など

[児童の興味・関心に基づく課題]
・将来への展望とのかかわりで訪ねてみたい人や機関
・ものづくりの面白さや工夫と生活の発展
・生命現象の神秘,不思議,すばらしさなど

[地域や学校の特色に応じた課題]
・町づくりや地域活性化のために取り組んでいる人々や組織
・地域の伝統や文化とその継承に力を注ぐ人々
・商店街の再生に向けて努力する人々と地域社会
・防災のための安全な町づくりとその取組など

以上が、文科省が提案している、学習の内容、対象となるものである。
現場としては、上記を参考にどのように学習を進めていくか、子どもたちの実態と興味、地域性などに照らしながら、もっともよい学習対象を真摯に選んでいくことになる。

ここに、
〇自分たちの消費生活と資源やエネルギーの問題
〇情報化の進展とそれに伴う日常生活や消費行動の変化
〇商店街の再生に向けて努力する人々と地域社会
なんていう項目がある。
文科省が例示するほどだから、これは全国民の課題である。
全国の市町村で、家庭で、話題になっていることだし、子どもたちの両親も、親戚、家族、友人、周囲の人々の多くが直面している課題なのだ。

つまり、子どもたちは自分たちの関心を大事にしながら、上記のような「経済活動」に関する地域の課題というものをも小学生なりに受け止め、咀嚼し、何らかの解決を考えていく、ということを期待されているのだろう。
これは、とても大事な活動だろうと思う。生活に、暮らしに、直結するのがもっとも効果的な学習であるのだから。

そこで、『NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来(3)巨大格差 その果てに』という、NHKの番組をみんなで視聴する計画を立てた。

そもそも、資本主義とはなにか。
社会主義とは何か。
子どもたちには、なじみのない言葉もある。
しかし、「お金」は身近なものだし、ふだんからお金を使っての購買経験はみんなある。
ショッピングセンターやコンビニ、地域の商店などが流通のために果たす役割や、経営者の努力など、小学校3、4年生で勉強してきた。
だから、世の中にはとんでもないお金持ちがいるのだ、という感覚もあるし、番組の中に出てきた、

「薬か食べ物か、買うものを選ばないといけない」

という消費行動のせつなさにも、思いを致すことができるだろう。


番組を見ていると、次の疑問が湧いてくる。
〇なぜ、自分の給料を減らそうという経営者が現れたのか
〇なぜ、オランダの取り組みのように、『共有型経済』とよばれる仕組みがはじまったのか
〇「だれでも病気にかかる、ほっておかれて自力で生きられる赤ん坊はいない」→それで、どうするか
『共有型経済』については、番組中でアムステルダムの例が紹介されていた。
無料で日用品を貸し出すシステムだったり、料理をおすそ分けするシステムだったりと無料でいろいろと共有して、生活していくというもの。ほんのさわりだけの紹介だったので、よく実態が分からなかったが、資本主義とはいえない経済のかたち、ということで、印象に深く残った。

また、資本主義そのものについて、2人の人が警鐘を鳴らしていた。
ロバート・ライシュ
振り子が振れすぎた
格差はプラスの側面を超えて危険な状態に突入

ホセ・ムヒカ元大統領 ウルグアイ
現在の社会や経済のシステムに不安を抱くあまり、安易なポピュリズムに依存する
国粋主義になってしまう
さらに井出教授が
資本主義の経済格差にとどまらず、社会に分断線が生まれている
例)所得階層 正規/非正規 男性/女性
という話をしており、資本主義は富の格差を拡げていることで、人の心理を不安にさせ、人々の社会活動全般にも影響を与えている、とのこと。
井出教授が語るには、人々が将来に不安を抱きすぎるようになると、富はますます偏っていき、相手を非難し(ヘイト・スピーチ)、無理に奪おうとする動きにもつながるし、無力感と停滞感、諦めにとらわれ、世界を健全によくしていこうという人間全体の社会づくりの力は衰えるだろう、とのこと。


こういうこと、子どもたちは、いったいどう考えるのだろうか。

これ、今、生きている大人の人で解決できる人って、いるのかな? ・・・と思います。

おそらく、今の世界にはいないのではないか。



ことを見通す力を持つのは、おそらく小学校の教室で、未来を語っているまさに12歳の子どもたちなのではないか。

なにか、わくわく、するね。

NHK

ミサイルか、それとも落雷か

.
先日は、雷の話でもちきり。
台風がちょうど迫ってきている、ということで、午後になって大雨になった。

授業をしながらも、ピカッと光って、大きな雷鳴がとどろく。
真っ黒な雲と、激しい雨。
授業中にしょっちゅう、外を見て、

「大丈夫かなあ」

帰りの傘の心配や、下校時に水路に落ちないようにね、と話してばかりだった。




と、下校まであと少し、という時間帯に、特別に大きな、

バリバリバリ・・・ちゅどーん!!

という音がして、本当に魂消(たまげ)ました。



どうやら近くの森のほうに、雷様が落ちたらしい。

ちょっと、地響きまでしたような・・・



子どもたちが帰る前だったので、もうみんな、びっくり。


幸い、学校はまったく停電もなにもしない。
音はすごかったけど、どこも電気が点いたままで、助かった。

すぐに下校したけど、正門近くの広場へ、保護者の方がだいぶ迎えに来ていらした。
ありがたい。


ところで、雷が最近はとても増えているのだそうだ。
先日、NHKの「メガクライシス」という番組で、雷が爆発的に増加していることが紹介されていた。

MEGA CRISIS 巨大危機
~脅威と闘う者たち~
第1集 加速する異常気象との闘い
ご覧になった方も、多いでしょう。
2020年、北極の夏の氷が全て溶けてゼロになる可能性が指摘されている。アラスカやシベリアでは永久凍土が融け、温暖化の加速要因となるメタンガスの大量放出も危惧されているのだ。
北極の氷がゼロになる時、何が起きるのか。地球では寒波や熱波が相次ぐとみられているが、“未知の領域”だ。世界中の気象学者たちが結集し、未来を予測するための挑戦を始めている。
日本列島での激増が恐れられているのは、スーパー台風、ゲリラ豪雨、落雷など。


この落雷が、原子力発電所に落ちまくったらどうなるのか、というのが、わたしの不安であります。

今はもしかすると、落雷よりも北朝鮮のミサイルの方が心配だ、という人が多そうだが、わたしはそうは思わない。

絶対に、断固として、落雷の方が心配だ。

みなさんは、どっちが心配ですか?

ミサイル?
それとも
落雷?



これはむずかしいところなんですが・・・


わたしの判断は・・・、

落雷に一票!

北朝鮮の将軍様が、日本の核発電所に向けてミサイルを撃ち込んだら、その爆発し飛散した放射能汚染は、めぐりめぐって北朝鮮にも届く。将軍様はそんなアホなことしないだろう、というのが、わたしの判断だ。

ところが、将軍様とちがい、雷様はそんな「配慮」など、しなさそう。

というわけで、

みなさま、落雷にはくれぐれも注意しましょう!!

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【学校改革】キーワードは、「飼い馴らし」

.
○掃除はだれもやりたくない、という前提で、掃除の時間枠に強圧的に行わせること。ルールを決めて人を役割に当てはめること。行動しない場合は罰を与えること。

○給食は各自が個人的に食べること。みんなで分け合って食べる雰囲気をなくし、配膳当番も「人間は本来やりたくない」という前提で進め ること。協力し合って配膳を全員で配り合う、ということを禁じ、自分の分を確保することだけを考えさせること。配膳当番は、成績の悪い者に罰として強制的に行わせること。

○授業は絶対権力者の教師に気に入られることを子どもたちの精神活動の主となるように進めること。権力におもねることを刷り込み、「先生に気に入られると得をする」ことを前提にして生きるようにさせること。

○当番活動をフォローし合うことを禁じ、もし仮に体調その他、自己都合で代わったもらったりした場合はペナルティとして「仕事」をさせること。

○学校生活にポイント制を導入し、ポイントをとったもののみに、特典が与えられる仕組みをつくること。ポイントの多寡が、人間生活の行動に影響するよ うに「飼い慣らす」こと。ポイントの取得が大きな目的になるように動機づけること。


こんな改革、ありえないとみんな思ってるけど、実態はどうかなあ。

ここは、前提から問い直すべきでしょうナ。

つまり、子どもを、現在の日本社会向けシステムに合致させるための「圧迫」「矯正」
その意味から問わないとね。

人のための社会づくりか、
社会のための人づくりか。


そこから、ね。

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トランプ大統領

.
夏休み。
世の中のことを勉強するチャンス。

米国は大統領選に向けて、ヒートアップしている様子だ。
2016年11月8日に予定されている、第45代アメリカ合衆国大統領は、
ここまでの情勢をみると、

「トランプ大統領」

のようである。

共和党の大統領候補として、ドナルド・トランプ、テッド・クルーズ、ジョン・ケーシックによる三つ巴の争いを、勢いのあるトランプ氏が制した。
そして、トランプ氏の勢いが強く、おそらくこのまま、大統領になるのではないかと思われる。
なにせ、トランプ氏の勢いがすごすぎて、あのブッシュ氏が出馬を取りやめたほどである。

政治家としてのキャリアは兄ジョージに遅れをとっているが、政治手腕は兄よりも優れていると評価されており、「ブッシュ家の最高傑作」と言われたジェブ・ブッシュ氏さえ、トランプに負けたのである。

2016年2月の段階では、トランプ氏の支持率は40%、クルーズ上院議員は17%だった。つぎにルビオ上院議員(11%)、元神経外科医のベン・カーソン氏(10%)、ジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事(8%)と続く。
なんと、トランプは、共和党の中でも、ダントツの人気で、候補者になったのである。

わたしのみるところ、今の世の中に飽きている人が多い。
そういう方は、ちょっとこれまでの路線ではない、個性の強い人に投票する傾向にある。
また、今の世の中に疲れすぎている人は、そもそも投票しない。
だから、おそらく、トランプ氏が大統領になるであろう。
クリントン氏を選ぶには、今の米国民は、ちょっと「飽きて、疲れすぎている」ようだから。

選挙について。
本当は、家の中にいながら、投票できるのが一番よい。
そうすれば、全員投票できる。
そして、社会的な弱者の声が、政治に反映される。

今は、そうではない。
本当に声をあげるべき人は、疲れ果てて、家に閉じこもっている。
政治に興味をもち、投票しなければ、と考えて、投票場所に足を運ぶエネルギーさえ、ないのだ。
だからいつまでたっても、真に社会的弱者のための政治は、行われない。

確実に投票が行われる、ということに、最大の工夫がなされるべきである。


さて、トランプ大統領は、なぜ大統領候補に選ばれたのか。
そのことを調べているのだが、なんだかとても、その「背景」が巨大すぎて、全貌が把握できない。

アメリカ人もみんな、不安でいっぱい、のようだ。
日本人も不安。
中国人も不安。
世界中が、不安の固まりである。

傷を負った犬は、咆えまくる以外にどう行動するだろうか。
「咆えまくる以外の選択肢」。
心ある人々はそれを、早急に見つけ出そうとしているのだが・・・。

しかし、トランプ大統領は、世界に向けて咆えることを公言してしまった。
どうなるのだろうか。

6年生くらいになると、「トランプ大統領が・・・」と、話をしてくる子がいるだろう。

秋、巷の話題は、トランプ一色になる。
わたしはどんなふうにそれを聞いているだろうか。
教室で、子どもたちは、それをどんなふうに、話題にするだろうか。

t

教室はミニ国会!

.
6年の先生が、口をそろえて言う。

「今年は、社会の授業がホントにやりにくい」


どういうことか・・・。

憲法が変わるかもしれない。
あるいは、現憲法の基本となっているものを批判する意見も、授業で扱わないといけない。
ところが、扱い方次第では、「政治的な中立」が問題視される。
「戦争を避ける」
というセリフも、慎重にならざるを得ない。
授業の中に、「いざとなれば戦える国」という雰囲気を、入れざるを得ない。
これは、現場の教師にとっては結構な問題であります。

大人が混乱しているのだから、小学生もいったい何をどう信じればいいのか、分からないのです。
これは、仕方がありませんでしょう?
だって、この混乱は、小学生のせい、じゃないんだから。


で、結局は、

「これこれを信じなさい」

という授業は、できない。

「自分の中の判断力を鍛え続けるための学習」

にならざるをえない。

自分自身の中で、

「これは間違いない」

と言ってしまう傲慢さを、問い直せる姿。
そういう姿を、学習の目標にせざるをえない。
カルト的になにかを信じてしまう姿勢、
簡単に、これが正しい!としない姿勢、
短絡的に思考停止しない姿勢、
これでいい、と決めつけない、という姿勢を子どもの中に育てるしかない。

これが、第二のオウム信者を生み出さないための、最後の決定的な方法になる。


そのうえで、政治の勉強をする。
国会、内閣、最高裁、三権分立・・・。
学習指導要領にそって、現場の教師は淡々と、しなければならないとされる学習を進める。

政治のことになると、熱く語りだす子がいる。
おそらく、家でいろんな議論をしているのだろう。
その熱が、教室にまで持ち込まれている。


EUからのイギリスの離脱のことでも、いっぱしの政治評論のような意見が出る。
まったく知らないで、

「EU?なにそれ?」

というレベルの子もいて、それを説明したがる子もいるので、教室はカオスであります。


さて、平和憲法のことで、議論となりますが、これは教師がまったく出る幕がない。
そのくらい、意見が終わらない。
授業時間の終わりをつげるチャイムが鳴っても、まだ意見が言い足りない。

「先生、つぎも社会やろうよ」

という子どもをたしなめて、算数をやることになる。



このくらい、今の6年生の教室は、熱い。

国会議事堂

「・・・ということに、なってます」と教える公民

6年生。

歴史の授業が終わり、いよいよ公民分野。

最初に、憲法とか内閣、三権分立など、この国の政治の仕組みを習う。



今年は、語尾に注意して、教えている。

なぜか。


岩城法務大臣が国会質疑で立ち往生、というニュース記事を読んだ。

大臣の立往生。それは、国会の質疑の際だ。
TPPのISD条項で「日本政府が訴えられた場合、仲裁審判と最高裁判所の判決とどちらが優位なのか」と聞かれて答えられなかった、とのこと。



つまり、これからは、

憲法が最高法規です。

憲法が最高法規、ということになってます。

と、教えるべきだろう。


国の大臣が明言できないのだ。
一介の教員なら尚、無理である。


これからは、

〇国民主権、ということになってます。

〇三権分立、ということになってます。

〇最高裁の判断が最終、ということになってます。

と、教えることになる。


先生が、嘘を教えてはいけない、ということに、なっている、のだから。
足跡3

ひとケアを中心とした学級経営~ウェル洋光台の記事を読んで~

.
「ウェル洋光台」というシェアハウスがあって、インターネットで記事が読める。そこに、
「人間は本来、贈ることが大好き」という文があって、とても共感を覚えた。

オーナー代行の戸谷浩隆さんは、こう語る。

(なぜ現代社会では贈り合う社会が実現していないのかについて)
『人間って何だろう、ということを、知ろうとしないからだと思います。人は本来、争い合わず、縛り合わず、シンプルに愛しあっていたいだけだったんだと思うんです。人と共に暮らして、人を愛する、人本来のつながり方、そこが欠けてるんですよね。
学校で、社会を構成するためのいろんな概念や知恵を詰め込まれる。その知恵を、そのまま暮らしに持ち込んでやろうとしてるんじゃないかな。みんなで決めたことをみんなで守りましょうとか。でも、それは人本来の姿ではないんです。人の数だけ 個性があるから、暮らしはもっと自由でいいはず。』
---新間の感想---
↑ここでは、学校が名指しで批判されている。
学校での智恵が、本来の人間向きになっていない、ということだろうか。
学校は、いったいなにを目指しているのだろう。
そこを根源的に問われている。


(人間の本来の姿について)
『人類は7〜8万年もの間、狩猟採取で生きていたわけです。彼らはお金ってものがないから貯めることをしない。ちょっと仕事をして、あとは寝たり、歌ったり。贈り合うことが大好きで、争いを好まず、心から安心して暮らしていた。そうした贈り合うこと、安心して暮らすことが人間の本来の姿だと』
---新間の感想---
↑安心して暮らすことが本来の姿、とあ る。これはそのまま、目指す理想の学級の姿に完全に合致する。
現代教育の最大の問題とされる、いじめの問題、差別感情、学級崩壊、親子間や家庭の問題に至るまで、すべてこの「安心して暮らせるかどうか」という観点が見失われているのが原因だ。

さて、こんなシェアハウスがあるならば、それこそ『道徳』の授業に役立つと思われる。戸谷さんの記事の中に、掃除に関する場面があって、そこには「なぜかきれいになってる」というような箇所がある。ここはまさに、道徳の授業として扱い、子どもたちに討論させるべきではないだろうか。
『例えば掃除をするという行為を贈りたい人が贈ればいい 。ルールや役割はないんです。でも、きれいになっている。』
---新間の感想---
↑これは学級と同じだ。学校には掃除の時間があるが、掃除の時間以外にも、子どもたちが自発的に「教室をきれいに」するために動くことがある。別にとりたてて頼まれたわけでもなく、指導されたからというのでもなく、落ちていたものを拾う、だれのか確認して渡してあげる、ずれていたファイル立てを手をのばして少し動かして整頓する、授業の開始時間に自分の机の向きを黒板に向けて直すなど、子どもたちは自発的に整えようとする。
校内をすみずみまできれいにするタイミングを設けるために、学校全体でのそうじ時間を確保している、ということはあるけれど、現実には子どもたちが自発的に行っている ことで美しさが保たれている。

さて、今おそろしいことを考えてみた。
このウェル洋光台と、真逆のことをやっていると、人間らしさをどんどんと失って、ギスギスとした、『ぜったいに安心して住めない』社会ができあがるのではないだろうか。
たとえば、学校も、そうなっていくのでは。。。

真逆の実験をやってみると、分かるかも・・・。

掃除はだれもやりたくない、という前提で、掃除の時間枠に強圧的に行わせること。ルールを決めて人を役割に当てはめること。行動しない場合は罰を与えること。

○給食は各自が個人的に食べること。みんなで分け合って食べる雰囲気をなくし、配膳当番も「人間は本来やりたくない」という前提で進め ること。協力し合って配膳を全員で配り合う、ということを禁じ、自分の分を確保することだけを考えさせること。配膳当番は、成績の悪い者に罰として強制的に行わせること。

○授業は絶対権力者の教師に気に入られることを子どもたちの精神活動の主として進めること。権力におもねることを刷り込み、「先生に気に入られると得をする」ことを前提にして生きるようにさせること。

当番活動をフォローし合うことを禁じ、もし仮に体調その他、自己都合で代わったもらったりした場合はペナルティとして「仕事」をさせること。

○学校生活にポイント制を導入し、ポイントをとったもののみに、特典が与えられる仕組みをつくること。ポイントの多寡が、人間生活の行動に影響するよ うに「飼い慣らす」こと。ポイントの取得が大きな目的になるように動機づけること。


この繰り返しで、どんな子ども集団ができあがるか。
実際に実験などするのは人権的に問題があるからできないけれど、想像しただけで恐ろしい・・・。
というわけで、「ウェル洋光台」のシンプルな事実にならって、上記とは真逆の、人本来のつながり方をする、ひとのケア、ひと同士のケアにこそ力点を置く、このことで学級経営をしていくとどうなるか。
引き続き、検証していきたい。

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町の幸福論―コミュニティデザインを考える 山崎亮

.
国語の教科書に、「町の幸福論」という題材がある。
(6年生 東京書籍 平成27年度発行)

教科書に「幸福」なんていう言葉が、堂々と掲載されていることに、少し驚く。
今どき「幸福」などという言葉を、大人が使うだろうか?

身近な人に聞いてみると、

「宗教クサイ」

という反応が返ってきた。
もしかすると、この「幸福」という単語自体に、多くの大人は純粋でないものを嗅ぎとるのかもしれない。

しかし、これが大人でなく、未来を生きる子どもたちに聞いてみると、ごく普通に受け取る。
それはそうで、「幸福」という言葉に勝手にさまざまなイメージを塗りつけたり、ペイントしたり、飾り付けようとするのは大人だけで、子どもはそもそも、そんなふうには受け取らない。

大人は、すっかり疲れてしまっていて、あるいはこれまでの自分の人生で何度もこの言葉に裏切られたか、もしくは、この言葉の幻想的な雰囲気やお花畑的なものに、打ちのめされてきているのでしょう。
だから、この言葉がキライになっている大人が多いのだと思う。

傷ついた大人は、現実論を言いたがり、理想に燃える若者や子どもたちに「甘い」と言いたくなる。
これは古来から続く、人類の癖のようなもの。エジプトで見つかったパピルスにさえ、「今の若者はなっとらん」ということが書かれていたのは有名な話で、「現実は甘くない、人間社会は夢や理想では生きられんよ」と諭すのは老人の役目と決まっている。


さて、この本の著者は、すこぶる前向きである。

なぜなら、著者のよって立つ思想の根拠が、足元の事実だからである。
人間が、地域やコミュニティで、日常的にふだんから馴染んでいる行いのほとんどが、明るく前向きであるからだろう。そうした人々のふだんの、ごく普通の立居振舞や思想から、聞こえてくるのは前向きな歌であり、素のままの、嘘やいつわりのない気持ちであるからだろう。

愛する子どもを見ていると、この世の中がうまくいかないはずがない、という確信のようなものがある、と言う。
母親が強いのは、生きている子どもを愛していることに、天地神明にかけ、嘘がないからであろう。
宇宙は美しく、自然界は慈愛に満ちていて、人も本来、やさしさで生きる動物なのだろうと思う。

小学校6年生に、このような思考をことさらに促さなくても、彼らは本来のセンスで知っているようだ。

教科書にもどろう。
ここで著者のいうデザインとは、「社会の問題を解決するために振りかざす美的な力」のこと。
日本が抱えているコミュニティや人間の課題は、今後、世界中で顕著になる課題である。その課題をひとつひとつ、順に解決できるのであれば、これは世界に先んじたことになる。そこで培われたノウハウは、まさに10年後、20年後に世界中から求められるようになる。

こうした著者の説明文について、子どもはいかにもシンプルに反応する。
当然のように、理解する。
人と人とが支え合っているという事実については、素直に、「そうだね」と思うのだろう。
子どもが、今の世の中のおかしさや矛盾、人間の抱える無知や誤解について感じ取ることもある。先日の記事にあるように、つい先ごろの参議院での強行採決についても、おかしい、と憤るより、
「なにか、間違ってんだな」(頭の使い方が)
というような理解をしているように思う。
たとえ今の時代は愚かな部分があったとしても、自分たちは賢くやるぞ、という意識があるのだろうか。

著者が期待する、新しい発見や新しい考えというのは、地域の人々の「話し合いのまな板」から生まれてくる。
新説は、いつの時代も思いもかけない方法で表れる。
それらを否定していては、人類の進歩はなかったはず。
子どもは常に、
「新発見」や、「新説」に興味を示す。
自分たちの生きる時代に、それらが直結していくことを、身をもって感じ取っているからだろう。

授業のことについて言えば、今回の単元では、本単元を貫く言語活動として、「書く活動」を取り入れる。著者の意見やアイデアに響いた自分なりに選んだ言葉、内容と、自分自身が「町」について願っていること、そして自分にできることはなにか、という問い。
自分の意見文を書く前に、クラスで討論をしてもいいな、と考えている。
クラスの仲間の意見で参考になるもの、友達と似ているもの、似ていないもの、整理していくのが面白い。
また、反対意見というのではなしに、著者のいうように仲間の意見に「のっかっていく」姿勢、否定なしで聴く態度、これを実現していく学習にしたい。

そのためには、著者の言う、「話し合いのマナー、話し合いに必要な態度」であるところの、

否定はない。

Yes, and ・・・

とつなげていく文化。


↑ が、必要になってくるのだろう。

討論(?)ではなく、加論、とでもいうのか、この単元、これからの展開が楽しみだ。

目的は子ども4

人間の生きるリズムを忘れている政治

.
地球がボーッと回る。
雲が、スーッと流れる。
で、地面から音がする。

ドッドッド。
稲の刈り取り。
コンバインの音かな。

地面に寝そべってみる。
ため息が、自然と出てくる。
あくびも出てくる。

そばにあった石を、意味もなく、ふといじっている。
いきなり、人間がいじるので、オケラが急いで石の陰にかくれる。
驚かしてごめん。

たぶん、人間の生きるリズムって、こんなの。
人間であることを忘れているのが、現代人。

大人はほとんど、「人間忘れ」。
だから、生きるのに必死で、疲れている。


・・・

修学旅行で子どもを国会議事堂に連れていくけど、なんだか、ネェ。
クラス会議よりもひどい国会に、なにを学べと?
教科書には、人々の暮らしをより良くするための話し合いにより、様々な仕組みを取り決め、進めていくのが「政治」だと書いてある。
強行採決で議事決定を読み上げる議長に、そうはさせまいと議事進行の紙を掴みにとびかかろうとする議員。この醜態、小学校でどうやって説明するのだ。
議長が紙をとられまいとして、くるりと後ろを向いてフェイントでかわし、引き続き読み上げているシーンをみて、

「終わってるな」

と思う小学校の教師、多いと思う。


「先生、なんで国会では、話し合いの最中に喧嘩モードなんですか?」
「相手が喧嘩モードなんで、仕方なく応じなければならんよ」(←与野党双方がお互いに同じことを言い合う構図)

喧嘩モードのインフレ。
これ、心理学でなんていうんだっけ。
相手が攻めてくるから、こっちから攻めざるを得ない、という考え。なんか専門用語があったな。
忘れたけど。


人間が政治をしているはずなのに、いちばん人間を忘れちゃいけない現場で、
人間でないものが蔓延ろうとしている。

「人の話を聞く」

ゆーーーーーーーーーたりとした気持ちで、政治はするものだ。
少なくとも、これからの小学生には、こう教えたい。
「あれが話し合いの見本だよ」

↓ ツノを出して、はにかむ幼虫。
キアゲハの幼虫つのあり

父「教科書に墨塗った」

.
終戦時、小6だった父は、実際に「墨塗り」をしたらしい。
「教科書に墨を塗った」という昔話はどこかで聞いたことはあったが、リアルに目の前の父からそんな話を聞けるとは思わなかった。

いやあ、本当だったんだ・・・

墨を塗るのは、高学年の教科書の方が多かったらしい。
父より2歳年下で、妹にあたる叔母が言うには、

「兄さん(私の父)の教科書がいちばん黒かった」

そうであります。

さて、ふりかえってみて現代。
一応、現時点では、今の教科書には「墨を塗らなくてもよい」ということになっている。
この際、ホッとしておこう。



小学校6年生では、公民を学ぶ。
憲法は当然として、内閣の仕組みとか三権分立とか。
国民主権、と言う部分に墨を塗らなくてもよい、ということになっている現状に、やはりホッとしておきたい。

ピンク玉花


『選活』(せんかつ)について

.
4月となり、職場にも新しい顔ぶれが登場した。
職員室が、なにかしら、華やぐネ。
ここには、
新しい人間関係が結ばれ始めた楽しさ、嬉しさ
がある。


夜、歓迎会で、先生になりたて、ほやほやの同僚(青年)と話をした。
すると、彼が、

「いや、ぼく、就活(シューカツ)もいろいろしたんですけどねー・・・。でも、教師になる気持ちが最後まで消えなくて・・・」

というようなことをしゃべった。


ビールとレモンライムを交互に飲みながら、思う。
何だか、「就職活動」って、とてもオトナの言葉に聞こえるナァ・・・。
みんな、すごいよなあ・・・。



「〇活」
という言葉を、よく聞くようになった。
就活(シューカツ)という言葉が使われ始めたころ、学生は、「活」という、短く勢いのある語を使い、就職戦線を乗り越えようとしたのだろう。

今じゃ、

婚活(こんかつ)
終活(しゅうかつ)
離活(りかつ)
産活(さんかつ)
なんてのまで、ある。

昨今ますます増えてきた『〇活』という表現。



『活』は「活動」の略で、漢字の意味は、

【いきいきと。勢いよく動く】

という意味。

デリケートな問題でも『〇活』と表現することによって、みんな、話題にしやすくなるのだろう。
お互いに、わかりやすく、親しみやすい語句にして使えば、一人で問題を抱えるよりも情報が入りやすくなる。


ただ、この

「活」

という言葉には、勢いがありすぎる。

勢いのある言葉を使い過ぎると、あぶない気もする。
なんだか、なにか大事なものが、どこかへ流されてしまうこともあるんじゃないか・・・。

そんな気がする。

たしかに、一気呵成に、というのは、ここぞ、というときには必要なものかもしれない。

しかし、同時に、「機関銃的」なあぶなさ、つまり、とめることのできない不器用さ、見当違いの方向へ弾を撃ってしまうかもしれないという恐ろしさが潜んでいるような気がする。





本来「活」は、とてもすがすがしくて、はりきっていて、明るいものだと思う。

ただし、たとえ自分が「活」の最中であっても、常にこれまで積み上げてきたものにこだわらないで、

自分の中の素直なものにとって、

無理のない進み方をさがして、

楽に、楽に、

考えていきたい。

自分の真意は、ひとの真意は、と・・・。

人間にとって絶対に無理のない道があるはず。






さて。統一地方選挙です。

駅前では、白い手袋にマイクを持った候補者の演説が聞こえてくる。

政治家のみなさんは、まさに今、選挙活動(選活?)のまっさい中だ。

選活

「今の日本」を論じてもいいし、「政局」を論じてもいい、「経済」や「国債危機」を論じてもいい。
どんな演説の内容でもいいけど、

いつでも、素にもどって、

ただの人間にもどって、


ひとにとって、どう考えていくのがもっとも「無理のない」行き方なのか、語ってほしい。


もしもそうでなかったとしたら、

どうせどこかからの借り物理論だろうし、

だれかをやりつけるための論法ばかりみがいたところで、

その「機関銃的発想」は、あぶなさばかりが目について、

ハラハラするばかりだしサ・・・。



春の野草
小さな、野草です。なんていう名前だろう?
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