30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

政治・まちづくり

インフレって、なあに?(架空の物語)

【序章:人間は、便利さに勝てない】

これから語るのは、予言ではない。ひとつの仮説にすぎない。
ただ、ひとつの、仮の物語として読んでほしい。

私は、ひとつの考えを持っている。

「人間は、便利さに極端に弱い」。

スマートフォンが登場したとき、人々は最初こそ「そんなものは要らない」と言った。しかし五年後、スマートフォンを持たない人間を探すほうが難しくなった。AIもまた同じ道を辿るだろう。いや、もっと速く、もっと深く、人間の生活に食い込んでいく。


【第一部:火種】

■ 第一章:原油の胎動 ― 2026年春

2026年の春、世界はまだ穏やかに見えた。

しかし、注意深く観察すれば、変化の兆候はあちこちに現れていた。原油価格がじわじわと上昇し始めたのだ。WTI原油は70ドル台から80ドル台へ、そして90ドルの節目を窺い始めた。

原因は複合的だった。ロシア・ウクライナ情勢の長期化、中東の地政学リスク、そして何よりも、長年にわたるESG投資の潮流の中で、石油メジャーが上流投資を削減し続けてきたツケだ。供給能力が構造的に不足していた。

市場の大多数はまだ楽観的だった。「一時的な上昇だ」「シェールオイルが増産する」。しかし、原油というのは不思議な商品で、上がり始めると人々の心理を変える力がある。ガソリン価格が上がれば、消費者はそれを毎日目にする。インフレは「統計」から「実感」に変わる。

米国10年債利回り(US10Y)は4.3%から4.5%へと静かに上昇し始めた。まだ誰も騒がない水準だ。しかし金利の絶対値ではなく、「変化の速度」が重要だ。

■ 第二章:AIという怪物の食欲

原油価格の上昇と並行して、もうひとつの物語が進行していた。AIの爆発的な普及である。

2026年、AIはもはや一部のテクノロジストのおもちゃではなくなっていた。レストランの予約、保険の見積もり、子供の宿題の添削、税金の申告、病気の初期診断 ―― あらゆる領域にAIが浸透し、人々はその便利さに酔いしれていた。

AIの月額利用料は安くない。しかし一度使い始めた人間は、もう手放せない。ある調査では、「食費を削ってでもAIサブスクリプションは維持する」と答えた人が全体の三割を超えた。これはもはや嗜好品ではなく、生活インフラだ。

しかし、AIには致命的な弱点があった。電力だ。

大規模言語モデルの学習と推論には、膨大な電力が必要だ。データセンターの電力消費は前年比で40%増加し、一部の地域では送電網が限界に達し始めていた。テキサス州で夏場の停電が発生し、バージニア州のデータセンター集積地帯では新規建設が電力供給の制約でストップした。

AIが便利であればあるほど、電力必要になる。電力が必要になればなるほど、エネルギー価格が上がる。エネルギー価格が上がれば、インフレが加速する。

便利さを追求する人間の本能が、インフレという怪物を育てていたのだ。


■ 第三章:七月の茶番 ― 鎖につながれた中央銀行

2026年6月のFOMCで、FRBは0.25%の利上げを行った。政策金利は5.50%となった。市場は「少なすぎる」と批判したが、FRBにはこれ以上上げられない事情があった。トランプ政権からの圧力だ。

7月下旬、再びFOMCが開かれる。
結果は前回と同じ。わずか0.25%の利上げ。政策金利は5.75%前後に達した。

批判は前回よりも激しかった。CPIは前年比5%を超え、インフレは明らかに加速している。なぜ0.25%ずつしか上げないのか。エコノミストたちは憤った。

しかしFRBには上げたくても上げられない理由があった。トランプ大統領は公然とFRB議長を名指しで批判し、「金利を上げすぎれば経済を殺す」と繰り返していた。議長の再任人事は大統領が握っている。0.50%上げたいのに0.25%しか上げられない。金融政策の独立性が、静かに蝕まれていた。

ここで、金利の構造を整理しよう。

名目金利(US10Y)は4.8〜4.9%に迫っていた。FRBの利上げは短期金利を直接動かすが、長期金利は「市場の期待」で動く。市場は「インフレは続く、FRBは対応できていない」と判断し、タームプレミアム(将来の不確実性に対する上乗せ)が膨張していた。

実質金利(DFII10)も上昇していた。通常、実質金利の上昇は引き締めが効いているサインだ。しかし今回は、インフレ期待の上昇がそれを上回っていた。名目金利の上昇速度が実質金利を凌駕している。つまり、引き締めが追いついていない。

FRBは鎖につながれた番犬だった。吠えることはできるが、噛みつくことは許されていない。


■ 第四章:資源の反乱 ― すべてが高騰する

夏から秋にかけて、エネルギー価格はさらに上昇した。WTI原油は100ドルを突破し、110ドルに向かった。

ここで注目すべきは、ドル高なのにコモディティが上がっているという異常事態だ。通常、ドルが強くなればドル建てコモディティは割高になり、需要が抑えられて価格は下がる。これが教科書通りの逆相関だ。

しかし今回は違った。供給そのものが足りない。

ロシア情勢、中東リスク、ESGの名のもとに削減されてきた上流投資。ないものは、どんなに高くても買うしかない。これが供給制約型インフレの恐ろしさだ。

エネルギーだけではない。銅、アルミニウム、リチウム、小麦、天然ガス ―― あらゆるコモディティに物価高騰の波が襲いかかる。CRB指数(商品総合指数)は急角度で上昇した。

スーパーでは卵の値段が倍になり、ガソリンスタンドでは人々がため息をつく。CNNもFOXも画面の端に原油価格のティッカーを常時表示するようになった。

誰もが感じ始めていた。「何かがおかしい」。


■ 第五章:中間選挙 ― 怒りの矛先

2026年11月、米国中間選挙。

本来、これほどのインフレは現職にとって致命的だ。しかしトランプ大統領には「敵」を作る天才的な才能がある。

「我々が苦しんでいるのは誰のせいだ?中国だ。ヨーロッパだ。そして日本ですらそうだ。奴らは通貨を操作し、我々の富を盗んでいる」

日本は他国に比べればまだ穏当な扱いだったが、それでも名指しで批判された。円安は「意図的な通貨安誘導」だと決めつけられ、日本の自動車メーカーへの追加関税がちらつかされた。

この「外敵論」は恐ろしいほど効果的だった。複雑な金融政策の失敗よりも、「外国に搾取されている」というシンプルな物語のほうが、人間の心には刺さる。トランプ大統領の共和党は上下両院でそこそこの議席を確保し、政権基盤は揺るがなかった。

人々はまんまと乗せられた。しかし、本当の恐怖はこの直後に始まる。


■ 第六章:豹変 ― インフレ退治宣言

中間選挙の勝利から数日後。トランプ大統領が突如として態度を180度変えた。

「インフレはアメリカの敵だ。今こそ本気で戦わなければならない」

選挙は終わった。もう有権者の顔色を見る必要はない。次の選挙は2年後。今なら痛みを伴う政策を実行しても、選挙までに経済を立て直せる。これが計算だった。

FRBへの圧力が一転して「もっと上げろ」に変わった。鎖を解かれた番犬は、今度は容赦なく噛みつき始めた。

12月のFOMCで0.50%の大幅利上げ。


【第二部:健太】

■ 第七章:恵比寿の厨房から

佐藤健太、29歳。東京・恵比寿のイタリアンレストランで働くラインコックだ。

朝10時に店に入り、仕込みを始める。ランチ営業、束の間の休憩、ディナー営業、片付け。店を出るのは夜11時を過ぎる。手取りは月23万円。ボーナスはない。

それでも健太には夢があった。一つ年下の彼女、美咲と結婚することだ。美咲は都内の小さな広告代理店で働いている。二人とも裕福ではないが、毎月少しずつ貯金をしている。健太の通帳には、三年かけて貯めた180万円がある。目標は結婚式と新居の頭金で300万円。あと一年半、このペースで貯めれば届く。

そう計算していた。2026年の夏までは。


■ 第八章:卵の値段

異変に最初に気づいたのは、仕事場だった。

「健太、今月の仕入れ値、見た?」

料理長の声に振り向くと、発注書を持ったその顔が険しい。オリーブオイルが先月比で15%上がっている。小麦粉も、チーズも。

「パスタの原価、もう合わないぞ」

店はメニュー価格の改定を余儀なくされた。ランチセットは1,200円から1,450円へ。常連客の足が少し遠のいた。

健太がもっと身近に感じたのは、スーパーでの買い物だった。美咲と週末に行くライフで、卵10個パックが350円になっていた。つい最近まで220円だったはずだ。牛乳も、パンも、なんだか全部高い。

「ねえ、なんでこんなに値段上がってるの?」

美咲が首をかしげる。健太にもわからなかった。

ニュースでは「原油高」「円安」「インフレ」という言葉が飛び交っていたが、厨房で12時間働く健太にはそれを深く考える余裕がなかった。ただ、通帳の残高の増え方が、前より遅くなっていることだけは感じていた。

以前は月に5万円貯金できていた。それが4万円になり、3万5千円になった。生活費が上がっているのだ。300万円の目標が、少しずつ遠ざかっていく。


■ 第九章:先輩の言葉

9月のある日、休みの日に高校時代の先輩、中村と渋谷で会った。中村は銀行の営業マンだ。

「健太、お前まだ銀行預金だけか?」

中村はビールを飲みながら言った。

「今の時代、預金だけじゃ金は増えないぞ。投資しろよ。NISAって知ってるだろ?積立で毎月コツコツ買えば、複利で増える」

健太は少し心が動いた。180万円のうち、100万円くらいを投資に回すれば、もっと早く300万円に届くかもしれない。

「何を買えばいいんですか?」

「今ならハイテク株だろ。AIバブルって言われてるけど、実際に企業の業績は良い。NVIDIAとかAppleとか、アメリカのハイテク中心のインデックスファンドがいい。S&P500でもいいけど、NASDAQのほうがリターンは大きい」

健太はスマホでNASDAQのチャートを見た。確かに、ここ数年ずっと右肩上がりだ。

その夜、美咲に相談した。

「投資、やってみようかなと思って」
「いくらくらい?」
「100万くらい……」
「えっ、それ結婚資金の半分以上じゃない?」

美咲の声が少し硬くなった。

「増えるかもしれないけど、減るかもしれないんでしょ?」

「まあ、そうだけど……」

結論は出なかった。健太はその週末、本屋で投資の入門書を一冊買った。しかし厨房の12時間労働の後に読む体力は残っていなかった。本は枕元に積まれたまま、ページが進まない。


■ 第十章:豹変する大統領

11月。アメリカの中間選挙のニュースが、日本のワイドショーでも連日流れていた。

トランプ大統領が日本を名指しで批判している映像を、健太は休憩時間にスマホで見た。

「日本は通貨を操作して、アメリカの労働者から仕事を奪っている」

厨房のバイトの大学生が言った。「やばくないですか、これ」

健太には正直よくわからなかった。ただ、なんとなく嫌な感じがした。店のオーナーが「輸入食材がさらに上がるかもしれない」と渋い顔をしていたからだ。

12月。
トランプ大統領が「インフレ退治」を宣言し、FRBが0.50%の大幅利上げに踏み切った。

ニュースは騒然となった。日経平均が大きく下落した日、中村先輩からLINEが来た。

「金利が急に上がった。債券がやばい。株も全体的に下がるぞ。今は投資するな」

健太は「やっぱり怖いな」と思った。あのとき100万円を投資していたら、今頃どうなっていたのだろう。

健太は知らなかったが、この12月、ある種の投資家たちは静かに身構えていた。嵐の前の、最後の静寂だった。


■ 第十一章:年末の約束

12月25日のクリスマス。健太と美咲は、表参道のイルミネーションを見に行った。人混みの中を歩きながら、美咲が言った。

「来年には、ちゃんとプロポーズしてね」

健太は笑って「するよ」と答えた。貯金は195万円になっていた。あと105万円。投資は結局しなかった。中村先輩の「今は投資するな」という言葉が引っかかっていたし、何よりこの不安定な世の中で、なけなしの貯金を市場に晒す勇気がなかった。

いくらなんでも、まじめに貯金を続ければ、2027年の秋には目標金額に届くかもしれない。そう思っていた。

そのとき健太はまだ知らなかった。2027年が、どんな年になるのかを。


■ 第十二章:ハイテク株、最後のダンス

2026年12月から2027年1月にかけて、奇妙な現象が起きていた。市場全体が沈む中で、ハイテク株だけが上がっている。

トランプ大統領が「アメリカのテクノロジー企業は国家の宝だ。AIと半導体は守り抜く」と明言し、半導体補助金の拡大とAI規制緩和を打ち出した。NASDAQは年末に反発し、SOX指数(フィラデルフィア半導体指数)は高値を更新した。

「ほら見ろ、ハイテクは別格だ」
「NVIDIAは買いだ」
「AIの時代は止まらない」

SNSにはこんな声が溢れていた。

しかし、冷静に考えればこれは危険な兆候だった。市場全体が沈む中で特定のセクターだけが上がるのは、バブル最終局面の典型的パターンだ。2000年のドットコムバブルでも、最後まで残ったのは「この銘柄だけは違う」という信仰だった。そしてその信仰が崩れたとき、最も高く昇った者が、最も深く落ちた。

ハイテク株は、崖の縁で踊っていた。音楽が鳴っている間は、誰もそれに気づかない。


■ 第十三章:すべてが売られる日

2027年2月。それは、静かに始まった。

最初の兆候は債券市場だった。米国10年債利回り(US10Y)が5.5%を突破した。これは2000年代初頭以来の水準だ。

債券価格は暴落していた。額面100ドル、クーポン4%の10年債を持っていた投資家は、市場金利5.5%の世界では誰にも売れない「4%しか得られない古い商品」を抱えていることになる。長期債ほど被害は大きい。20年債、30年債のETFは20〜30%の下落に見舞われた。

年金基金、保険会社、地方銀行。債券を大量に抱えた機関投資家が悲鳴を上げた。2023年のシリコンバレー銀行破綻の悪夢が、規模を拡大して蘇ろうとしていた。

そしてある朝、それは起きた。
機関投資家が一斉に売り始めたのだ。株だけではない。ゴールドも売られた。債券も売られた。あらゆるものが売られた。

なぜゴールドが売られるのか。通常、株が下がればゴールドは安全資産として買われるはずだ。しかし、この局面ではゴールドも売られている。これは「流動性危機」のサインだ。

損失の穴埋めのために、利益が出ているものから売る。ゴールドに含み益があれば、ゴールドを売って現金を作る。債券の損を補填するために株を売る。株の損をカバーするためにゴールドを売る。

すべての資産クラスの相関が1に収束する。全部が、同時に落ちていく。


■ 第十四章:健太の二月

同じ2027年2月。健太の日常にも、異変は確実に忍び寄っていた。店の客足が明らかに減っている。ランチタイムでも空席が目立つようになった。

「値上げしすぎたかな……」とオーナーが呟いたが、値上げしなければ赤字なのだ。食材の仕入れ値は上がり続けている。オリーブオイルは半年前の1.5倍。パルミジャーノ・レッジャーノに至ってはほぼ倍だ。

スタッフの一人が辞めた。
「もっと給料のいいところに行きます」と。
残された人間で同じ仕事を回す。健太の労働時間はさらに長くなった。

帰宅してニュースを見れば、暗い話ばかりだ。「NYダウ急落」「日経平均、年初来安値更新」「米国債利回り、歴史的水準に」

そしてある日、中村先輩からまたLINEが来た。

「うちの会社、やばいかも。投信の解約が止まらない。客がパニックになってる」

健太は「投資しなくてよかった」と思った。あの時100万円を入れていたら、今頃80万、70万に減っていたかもしれない。

しかし、投資しなかったからといって安全というわけではなかった。
物価は上がり続けている。給料は上がらない。貯金のペースは月2万円にまで落ちていた。通帳の残高は203万円。300万円が、果てしなく遠い。

美咲との電話で、つい本音が出た。

「ごめん、結婚、もう少し待ってくれないかな」

長い沈黙があった。

「……うん、わかった」

美咲の声は小さかった。怒っているのではない。悲しんでいるのだ。健太にはそれがわかった。そしてそれが、何よりつらかった。


■ 第十五章:大統領の不在

2027年3月。最悪のタイミングで、最悪のニュースが飛び込んできた。

トランプ大統領に持病が見つかり、入院。副大統領が大統領代行を務めることになった。

市場にとって、政策の方向性が不透明になることほど恐ろしいことはない。トランプ大統領は良くも悪くも「予測可能な不確実性」だった。何をするかわからないが、少なくとも「誰が決めているか」はわかった。それすらなくなった。

VIX(恐怖指数)は40を超え、50に迫った。リーマンショック時の水準が視野に入る。

副大統領は経験不足を露呈した。記者会見では曖昧な回答を繰り返し、市場に安心感を与えることができなかった。

日経平均は連日の大幅安。為替は乱高下。円高に振れたかと思えば、翌日には円安に戻る。方向感がない。それが一番怖い。


【第三部:三つの滝】


■ 第十六章:第一の滝 ― 認識の崩壊

三段階ウォーターフォール。金融の三つの滝。

第一の滝は「認識の滝」だ。2027年2月から4月にかけて、市場参加者はようやく現実を認識した。

「これは一時的な調整ではない」「本格的な景気後退が来る」

S&P500は高値から25%下落。NASDAQは30%以上の暴落。日経平均は3万円を割り込み、2万7千円台に沈んだ。

しかし、まだ「底」ではない。この段階では、まだ人々は希望を持っている。「政府が何かしてくれるはず」「FRBが利下げに転じるはず」
希望があるうちは、底ではない。

健太の店では、ディナーの予約が半分に減った。オーナーは苦渋の決断で、アルバイトを二人解雇した。

「健太、すまないが昇給は当分なしだ」

わかっています、と健太は答えた。仕事があるだけマシだと思わなければ。


■ 第十七章:第二の滝 ― 信用の崩壊

第二の滝は「信用の滝」だ。2027年夏に、それは来た。

アメリカの中堅銀行が二行、連続して破綻した。債券の含み損に耐えられなかったのだ。

5.5%の金利環境で、3%台のクーポンの国債を山ほど抱えていた銀行は、帳簿上は健全でも実質的には債務超過だった。預金者が一斉に引き出しを始めれば終わりだ。SNSの時代、取り付け騒ぎは光の速度で起きる。

信用不安は瞬く間に広がった。社債市場ではスプレッド(国債との利回り差)が急拡大。BBB格の社債でさえ、買い手がつかなくなった。企業は資金調達ができなくなり、設備投資を凍結し、採用を停止し、そしてリストラを始めた。

失業率が上がり始めた。アメリカだけではない。世界中で。


■ 第十八章:健太の夏

2027年の夏、健太の世界はさらに狭くなった。

店のディナー営業が週二日、休業になった。客が来ないのだ。恵比寿の通りには空きテナントが増え始めていた。隣のフレンチは先月閉店した。

健太の手取りは20万円を切った。残業が減ったからだ。残業が減ったことを喜べないのは、残業代がないと生活が成り立たないからだ。

貯金を切り崩す月が出始めた。通帳の残高は195万円に戻っていた。三年かけて貯めた180万円が、やっと195万円になっただけだ。

美咲の会社も厳しかった。広告業界は不況の影響をもろに受ける。企業が真っ先に削るのは広告費だ。美咲の部署は人員削減の噂が絶えなかった。

二人でファミレスに行く回数が増えた。
以前は月に一度は少しいい店で食事をしたが、今はサイゼリヤのミラノ風ドリアが二人のささやかな贅沢だ。

「ねえ、わたしたち大丈夫かな」

美咲が不安そうに言った。健太は「大丈夫だよ」と答えた。しかし声に力がなかったことを、自分でもわかっていた。


■ 第十九章:第三の滝 ― あきらめの崩壊

第三の滝。「あきらめの滝」。
2027年の秋から冬にかけて、それは来た。

もう誰も希望を語らなくなっていた。「FRBが助けてくれる」とは誰も言わなくなった。FRBはすでに利下げに転じていたが、信用収縮は止まらない。金利を下げても、銀行は貸したがらないし、企業は借りたがらない。「流動性の罠」に近い状態だった。

株式市場は最後の支えを失った。S&P500は高値から45%下落。NASDAQは55%以上の暴落。SOX指数は60%を超える下落。日経平均は2万2千円を割り込んだ。

VIXは65を記録した。

しかし不思議なことに、もう誰も騒がなかった。怒りも恐怖も通り越して、ただ静かな諦めだけがあった。テレビのコメンテーターは疲れた顔で数字を読み上げ、SNSでは株の話題よりもサバイバル術や節約レシピがトレンドに上がるようになっていた。

これが底のサインだ。

恐怖が支配しているうちは底ではない。恐怖すら消えて、無関心と諦めだけが残ったとき。市場を見ることすら苦痛で、みんなが目をそらしたとき。そこが底だ。


■ 第二十章:健太の冬

2027年の冬。健太の店は、ついにランチ営業だけになった。ディナーは週末のみ。平日のディナーは採算が合わなくなったのだ。

手取りは17万円。東京で生きるにはぎりぎりの金額だ。貯金はもう増えない。むしろ毎月少しずつ減っていく。通帳の残高は178万円。三年前に逆戻りしていた。

美咲の会社では、ついにリストラが始まった。美咲自身は残ったが、同期が三人辞めさせられた。「次は自分かもしれない」という不安が、彼女の表情を曇らせていた。

結婚の話は、いつの間にか二人の間で触れてはいけない話題になっていた。

ある夜、仕事帰りに駅のホームでぼんやりと電車を待ちながら、健太は思った。

何がいけなかったんだろう。まじめに働いてきた。無駄遣いもしていない。投資で失敗したわけでもない。ただ普通に生きてきただけなのに、なぜこんなに苦しいんだろう。

電車が来た。乗り込むと、疲れた顔の乗客ばかりだった。誰もがスマホを見ているが、その画面にはニュースではなく、節約アプリやクーポンサイトが映っている。

みんな、同じなのだ。


【第四部:滝の底で・・・】


■ 第二十一章:底の底を打つ世界

2028年の春。

市場は静かに、底を打った。

劇的な反転は、なかった。
ある日を境に、急に上がり始めたわけではない。ただ、下がらなくなった。

悪いニュースが出ても、もう下がってこない。
売る人がいなくなったのだ。
売りたい、と思う人は、もうすでに売り終わっていた。

ゴールドが最初に動いた。
FRBの利下げが本格化し、実質金利が低下に転じたことで、ゴールドが真っ先に反発を始めた。

次に動いたのが、意外にもハイテク株だった。不況の中で企業はコスト削減に必死であがいた。その最も効果的な手法が、皮肉にもAIだったのだ。

「人間は、便利さには極端に弱い」

この法則は、不況においても、いや、不況だからこそ、真実になっていた。

人を雇うよりも安く済む。文句を言わない。24時間勤務する。
企業はAIへの投資を惜しまなかった。

SOX指数はゆっくりと、しかし確実に底値から反発し始めた。


■ 第二十二章:変わる世界

しかし、回復した世界は、以前とはどこか違っていた。
何よりも、人々の感覚が変わっていた。

あの嵐を経験した人々は、どこか謙虚になった。
そして、以前のように消費しなくなった。

都会から、地方に向けて、人口が流出しはじめた。
東京で家賃を支払い続けることの意味を問い直す人が増えたからだ。
リモートワーク、AIが、それを可能にしている。

長野、山梨、新潟、岡山、福岡の郊外へ・・・。
人びとは、生活コストのかからない場所を選ぶようになった。

消費の嗜好も変わる。

新品を買うよりも、これまで使っていたものをていねいに使おうとするようになった。メルカリも流通量が過去最高を記録するようになり、「リペアカフェ」という名前の修理専門店が全国に広がった。
革靴を修理する人、古い家具をリペイントする人、壊れた家具を直すYOUTUBERが人気を集めた。

「まだ使えるか」
「本当に必要か」

人びとが実質的な価値をそのまま直視するようになった。
他人と自分の持ち物を、比べなくなりはじめた。

企業も変わった。
コンビニは24時間営業を止めた。
無理をしなくなった。

しかし、人々は経済活動を止めなかった。

人間は、どんなに谷底に落ちたように見えても、経済を回し始める。それが、「よりよく」をねがい、「充実」を、「味わい」を、求める人間の性質なのだ。
ただし、いくつかの学習を経て、今度は「無駄をできるだけ削ぎ落して」、生活するようになる。


■ 最終章(続き):春の光

2028年の秋。

健太は、恵比寿の店にはもういなかった。

店は、春に閉店した。
オーナーは、「ごめんな」と言って、最後の給料と少しばかりの退職金を出してくれた。

健太は迷った末に、長野に移った。
美咲の実家がある町だ。

最初は不安しかなかった。
東京を離れることは、夢を捨てることのように感じた。

しかし、長野で見つけた小さなレストランで働き始めて、健太は気づいた。

食材が近い。
農家から直接仕入れる野菜は、豊洲の市場を通すよりも新鮮で、安い。店の家賃は恵比寿の五分の一だ。通勤は自転車で15分。

手取りは18万円だった。東京時代を考えると、とても少ない。
しかし家賃は4万円。東京では考えられない安さだ。生活費を差し引いても、月に6万円の貯金ができるようになった。

美咲も、長野でリモートワークの仕事を見つけていた。東京の広告代理店は辞めたが、AIを使ったフリーランスのデザイン業務は思いのほか、順調だった。

ある秋の日曜日、二人は近所の里山を散歩した。稲刈りが終わった田んぼの向こうに、夕日がしずんでいく。

健太のポケットには、小さな箱が入っていた。安い指輪だ。
貯金は200万円。目標の300万円にはまだ届かない。

でも、もういいかな、と思った。
完璧な準備なんて、永遠に来ないのだ。
あの嵐のような出来事が教えてくれたのは、そういうことだ。

「美咲」
「なに?」

「結婚しよう。金はないけど、味噌汁は作れる」

美咲は笑った。泣きながら笑った。

「なにそれ。プロポーズがへたくそ」

「うん。でも本気」

「……うん。わたしも」

健太はポケットから箱を取り出した。細いシルバーの指輪が入っている。
ダイヤモンドはない。宝石もない。長野の小さなアクセサリー工房で見つけた、職人が一本一本手で叩いて作る鍛造リングだ。

18,000円。

一年前の健太なら、こんな指輪では恥ずかしいと思っただろう。ティファニーとまでは言わなくても、せめてもう少し立派なものをと。

でも今は違う。

あの嵐の中で学んだことがある。「本物の価値」は値段では決まらない。誰かが心を込めて作ったもの、長く使い続けられるもの、手に取るたびに温かい記憶がよみがえるもの。それが本物だ。

「見て、裏に刻印がある」

美咲が指輪の内側を覗き込む。

『K & M 2028.10.20』

美咲の目からまた涙がこぼれた。

「……ばか。こういうの弱いんだから」

健太は美咲の左手を取り、薬指に指輪を通した。少しだけきつい。

「サイズ、微妙に合ってない」

「……ほんとにへたくそ」

でも美咲はその手を引っ込めなかった。夕日に照らされた細い指輪が、小さく光っていた。


■ エピローグ :新しい家

2028年12月。

二人は松本市郊外の、築35年の一軒家を借りた。家賃は月3万5千円。
障子は破れ、台所の蛇口は少し水漏れし、庭は雑草だらけだった。東京の感覚なら「ちょっと無理」と思う物件だ。

しかし健太は料理人であると同時に、手先の器用な男だった。
障子はYouTubeを見ながら自分で張り替えた。蛇口のパッキンはホームセンターで120円。庭の雑草は、週末に二人で抜いた。その跡地に、美咲が小さな家庭菜園を作った。トマト、バジル、ルッコラ。イタリアンの料理人の妻としては完璧なチョイスだ。

「ねえ、これ全部自分たちで作った野菜でパスタ作れるかな」
「バジルが育てばジェノベーゼは、いけるよね。トマトが赤くなればポモドーロも」
「最高じゃん」

美咲が笑った。この笑顔のために生きている、と健太は思った。
二人の結婚式は、年明けの1月に行うことにした。式場ではない。近所の小さな神社で、家族と友人だけの質素な式だ。費用は二人合わせて30万円。
三年前に夢見た「300万円の結婚式」とはまるで違う。披露宴もない。ウエディングドレスは美咲の母のものをリメイクした。ブーケは庭の花を美咲が自分で束ねた。
デモ、これでいい。いや、これがいい。


■ エピローグ 2:味噌汁の朝

2029年1月。

長野の朝は冷たい。
健太は朝5時に起きる。台所に立ち、昆布と鰹節で出汁を引く。味噌を溶く。豆腐を切り、長ネギを刻む。
二階から、小さな泣き声が聞こえてくる。

美咲の声がする。

「はいはい、おなかすいたね」

2028年の秋に生まれた娘。
名前は「ひなた」。日向。
陽のあたる場所。嵐の後に差した光。
健太は味噌汁の鍋を火にかけたまま、二階に上がった。美咲がひなたを抱いて授乳している。

「おはよう。味噌汁できるよ」
「ありがと。今日はお味噌汁の具、なに?」
「豆腐とネギ。庭のネギ、最後の一本」
「春になったらまた植えなきゃね」

窓の外を見ると、まだ暗い空の東の端が、わずかに白み始めていた。
遠くに北アルプスの稜線が見える。山の頂は雪で白い。しかしその下の町は、もう少しすれば春が来る。

健太は思う。

あの嵐がなければ、自分は今もここにはいなかっただろう。東京のレストランで12時間働き、満員電車に揺られ、狭いアパートに帰り、貯金の数字をにらんで溜息をついていただろう。
嵐は多くのものを奪った。しかし、奪われたからこそ見えたものがある。

本当に必要なものは、それほど多くない。
温かい味噌汁。眠る娘の寝息。「ありがと」と言ってくれる人。朝日が昇る窓。
それだけあれば、人は生きていける。

味噌汁が静かに煮立つ音が、台所に響いている。外では少しずつ、空が明るくなっていく。
嵐は終わった。滝を越えた。環境を変えた。そして朝が来た。
すべての朝は、嵐の後に来る。

― 完 ―

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【あとがき】

この物語はフィクションです。しかし、描かれた経済メカニズムはすべて実際の理論に基づいています。
インフレ、金利上昇、流動性危機、三段階ウォーターフォール、そして「人間は便利さに極端に弱い」という投資哲学。

この物語が伝えたかったことは三つ。

一、嵐は必ず来る。しかし備えれば生き延びられる。
二、投資の最大の武器は、知識でもテクニックでもない。「待てること」。
三、たとえ投資家でなくても、人は自分の人生のポートフォリオを組み替えることができる。

この物語を読んでくださった方の中に、健太のような方がいるかもしれません。

大切なのは、嵐の後にも朝は来ると信じられること。
そして、朝が来たとき、隣にいてほしい人のために、今日も味噌汁をつくることなのです。

火花と中毒──「フラッシュ依存」について


■ はじめに──エレキテルの火花


江戸時代、平賀源内という変わり者がいた。

彼はオランダから伝わった壊れた摩擦起電器「エレキテル」を手に入れ、7年もかけて復元に成功した。
木箱のハンドルをぐるぐる回すと、中のガラスと金箔がこすれて
静電気が溜まり、銅線の先から──パチッと火花が飛ぶ。

たったそれだけ。
電球がつくわけでもない。何かが動くわけでもない。
火花が散って、触るとビリッとくる。それだけだ。

でも、江戸の人々は大興奮した。
「なんだこれは!」と押しかけ、大名までもが見物に来た。
田沼意次の側室まで見学に来たというから、
今でいえば政治家の家族がYouTuberの配信を見に来るようなものだ。

ところが──ここが面白い。
人々はすぐに飽きた。
一度驚けばもう十分。二度目の火花には、前ほどの感動がない。
源内のエレキテルブームは、あっという間にしぼんでいった。


■ 「フラッシュ」とは何か

僕が「フラッシュ」と呼んでいるものは、
まさにこの火花(フラッシュ)のことだ。

政治の世界でも、経済の世界でも、
誰かがハンドルをぐるぐる回して、パチッと火花を飛ばす。

関税をドカンとかける。
首脳会談を派手に演出する。
中央銀行が「異次元」の政策を打ち出す。
大統領がSNSで爆弾発言をする。

火花が飛ぶ。人々は「おお!」と注目する。
株価が跳ね、ニュースが走り、みんなが画面に釘付けになる。

でも、源内の時代と同じで、人はすぐに慣れる。
同じ火花では驚かなくなる。
だから、次はもっと大きな火花が必要になる。
もっと強い関税。もっと過激な発言。もっと劇的な政策転換。

これが「フラッシュ依存」の始まりだ。


■ 「依存」と「中毒」の正体

「依存」という言葉を、もう少し丁寧に考えてみたい。

お酒を飲む人ならわかるかもしれない。
最初の一杯はすごく効く。ふわっと気持ちよくなる。
でも毎日飲んでいると、一杯では足りなくなる。
二杯、三杯、やがて一本。体が「前と同じ量」では満足しなくなる。

これを医学では「耐性」と呼ぶ。
同じ刺激では同じ効果が得られなくなること。
そして耐性がつくと、量を増やさずにはいられなくなる。
これが「依存」だ。

フラッシュ依存も、構造はまったく同じだと僕は思っている。

政治家が最初に関税カードを切ったとき、
市場は大きく反応し、メディアは大騒ぎし、支持率は動いた。
「効いた」のだ。

でも二回目は、反応が鈍くなる。
三回目には「またか」と言われる。
だから四回目は、もっと大きなカードを切らなければならない。

ここで重要なのは、「やめられない」ということだ。

アルコール依存の人が「明日からやめる」と言いながらやめられないのは、
意志が弱いからだけではない。
やめたときの離脱症状──手の震え、不安、不眠──が怖いからだ。

政治家にとっての「離脱症状」とは何か?
それは「現実の直視」だ。

フラッシュを止めた瞬間、
制御不能な債務、解決策のないインフレ、
構造的に壊れた年金制度、信頼を失った通貨──
そういう「どうしようもない現実」が、そのまま国民の目に映る。

それは政治生命の終わりを意味する。
だから止められない。止めるくらいなら、もう一発火花を飛ばす。

源内のエレキテルは、飽きられたら終わりだった。
でも現代のフラッシュは、飽きられたら「もっと強い火花」に
エスカレートするしかない。
源内は見世物をやめることができた。
しかし、現代の政治家と中央銀行には、その選択肢がない。

これが「依存」ではなく「中毒」に近い理由だ。
自分の意思ではもう止められない段階に入っている。


■ みんなゲームに夢中──機関投資家も個人投資家も

さて、ここからが面白い話だ。

「フラッシュ中毒」にかかっているのは、
政治家や中央銀行だけではない。
投資家たちも、見事にハマっている。

機関投資家──年金基金やヘッジファンドのプロたちは、
AIとアルゴリズムを武装して、
フラッシュが飛んだ瞬間にミリ秒で売買する。
大統領の発言がニュースに出てから0.003秒で株を動かす世界だ。
彼らにとってフラッシュは「燃料」だ。
火花がなければエンジンが回らない。
だからむしろ、フラッシュを待ち望んでいる。

では個人投資家はどうか?
実は、彼らも同じゲームの参加者だ。

スマホを開けば、リアルタイムで株価が動いている。
赤い数字、緑の数字がチカチカ点滅する。
SNSには「爆益!」「損切り!」の叫びが飛び交う。
誰かが「この銘柄、来るぞ!」と叫べば、
指が勝手にタップしている。

これはもう、投資というより反射神経のゲームだ。

考えてみてほしい。
昔の投資家は、会社の決算書を読み、工場を見学し、
社長の話を聞いて、「この会社は10年後も大丈夫だな」と
判断して株を買った。

今の投資家は、スマホの通知音で売買する。
「トランプが関税を撤回!」──Loss 買い!
「FRBが利下げ示唆!」──全力買い!
「地政学リスク!」──狼狽売り!

中身なんか見ていない。
火花が飛んだら反応する。それだけだ。
エレキテルを見て「おお!」と驚いた江戸の庶民と、
構造的には何も変わっていない。

違うのは、江戸の庶民は見世物にちょっとお金を払っただけだが、
現代の個人投資家は全財産をゲームに突っ込んでいる、
ということくらいだ。

しかもこのゲーム、個人投資家は圧倒的に不利だ。
AIが0.003秒で反応する世界で、
人間が「えーっと、売ろうかな」とスマホをポチポチしている。
フラッシュを最初に食べるのはいつも機関投資家で、
個人投資家に届く頃には、もう「残りカス」しかない。

それでもみんなゲームをやめない。
なぜか?
依存しているからだ。

「次の火花で取り返せる」
「次のフラッシュで勝てる」

パチンコ台の前で「次こそは」と思っている人と、
本質的にはまったく同じ心理が働いている。


■ ゴールドという「退屈な真実」

さて、こんな火花だらけの世界に、
一つだけ恐ろしく退屈なものがある。

金(ゴールド)だ。

金は叫ばない。ツイートしない。記者会見もしない。
AIが分析する「材料」がない。
決算発表もなければ、CEOの失言もない。
ただそこにある。5000年前からずっと、ただ光っている。

退屈だ。本当に退屈だ。
フラッシュ中毒の人にとっては、
金のチャートを見ているのは壁を見ているのと同じだろう。

でも、面白いことが起きている。

世界中の中央銀行が、この「退屈な石ころ」を
3年連続で年間1000トン以上も買い続けているのだ。
金の価格は2023年から歴史的な高値を更新し続けている。

なぜか?

答えは単純だ。
中央銀行は「フラッシュの裏側」を知っているからだ。
火花の正体を知っている。
それが見世物にすぎないことを知っている。

だから、火花に頼らないもの──
誰の約束も、誰の信用も必要としないもの──
つまり金を、静かに積み上げている。

レイ・ダリオは金を「約束を必要としない資産」と呼んだ。
ゾルタン・ポジャールは、信用が収縮する局面では
「信用とお金の違いが露わになる」と指摘した。
ピーター・シフは「持続不可能な債務がドルを蝕んでいる」と警告した。

彼らはそれぞれ違う言葉を使っているが、
見ているものは同じだ。

フラッシュが止まったとき、何が残るか?

株価は幻想に戻る。通貨は紙に戻る。
でも金は、金のままだ。


■ おわりに──火花が止む日

平賀源内のエレキテルは、やがて飽きられた。
模造品まで出回って、本物の価値も薄れていった。

でも静電気という現象そのものは、消えなかった。
火花はなくなっても、電気はそこにあった。
やがてそれは、本当の科学として花開くことになる。

フラッシュ依存もいつか終わる。
火花を飛ばし続けるにも限界がある。
耐性がつきすぎて、もうどんな火花でも驚かなくなる日が来る。

そのとき、残っているのは「本物」だけだ。

本物の生産力を持つ経済。
本物のことを正直に言える政治家。
そして、5000年間ずっと光り続けている、あの退屈な金属。

僕は田舎に住んでいて、何も持たない凡人だ。
火花から遠いところにいるからこそ、
見えるものがあるような気がしている。

源内のエレキテルは、江戸の人を一瞬だけ驚かせた。
でも源内自身は、本当は「驚かせること」ではなく
「理解されること」を望んでいたのかもしれない。

フラッシュはいつか消える。
本物は残る。

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心理的な安全を担保する

叱らないと言う話をしていたら、あるベテランの先生から、心理的安全の担保だね、と言われた。

まあ、そういうことになるか。

心理的安全というのが確保されると、途端に子供たちは生き生きとし、混乱をしなくなります。

ところが、心理的安全が確保されない場合は、おどおどしてこちらを上目遣いに見つめ、指示を待つ格好になります。アンテナをこちらに向けるのがよくわかります。そしてできるだけ何もしないでおこうと言うふうに構えます。

できるだけ何も問題を起こさずにいようというふうな保守的な態度です。下手なことをして、注意を受けないでおこうという感じになるわけです。

大谷選手、メジャーリーグの大谷選手は、できるだけ何もしないでおこうと言う風には考えなかったのでしょう。

心理的安全と言うのは小さなことから始まります。
例えば、子供に予定を知らせると言うこともそうです。
来週はこんなことがあるよから始まり、次のステップは明日はこういう予定だったねと言う確認も、大きな心理的安全につながります。
また、その日の朝になったら3回目ですが、やはり伝えるのです。
今日はこんな予定だったよね。どんなことに気をつけたらいいかなと。

そんな事は自己責任だから、放っておけば良いのだと言うスパルタ方式もあるでしょう。
しかし、できるだけ心理的な安全は、確保してあげるのです。
そうすると、どんどんと心理的安全を与えてくれる人の方に本音を話すようになります。

この人はわかってくれると言うわけです。

本当に大事なことや、自分自身が大事に思っている事は、心理的安全が図られる人の前では話すのです。

ヴィクトール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905–1997)は、オーストリアの精神科医であり心理学者です。彼は、フロイト、アドラーに続く「ウィーン第3学派」の創設者として、「ロゴセラピー(意味による心理療法)」を確立したことで知られています。

フランクルは、私たちが「自分の人生にどんな意味があるのか」と問うのではなく、「人生のほうが私たちに問いを投げかけている」と考えました。
そして、人間は、人生からの問いかけに対して、自分の人生をもって答えなければなりません。この「問いに答える責任」を負っているという点において、すべての人類は対等であり、一つの大きな家族のような連帯感を持つべきだと彼は考えました。

そう考えると、教員も子どもも、その意味では、等しく、学びの途中であるわけです。

人生からの問いかけ、に答えるために、人間は等しく自分に与えられた時間を使って良いのです。
そのために大事なのが、心理的安全と言うわけです。

つまり、心理的安全がなければ、心理的安全が与えられなければ、人間は、問いに答えることができないのです。問いに対しての答えを忘れてしまうのです。と言うよりも、問いかけられていることそのものを見失ってしまうのでしょう。

子どもにとっての時間は、自分自身の「問い」を探し、不器用ながらも応答の練習をする時間。
教員(大人)にとっての時間もまた、完成された存在として振る舞うためではなく、自分自身もまた「人生から何を問われているか」を更新し続ける時間。

心理的安全がある場所では、この「試行錯誤する時間」が許容されます。そこでは「正解」を出すことよりも、自分なりの「応答」を紡ぎ出すプロセスそのものが尊重されるはずです。

心理的安全が脅かされると、人は「自分がどう応えるか」ではなく、「どうすれば安全か」「どうすれば怒られないか」という「反応」に終始するようになります。

• 「応答」:内なる使命感や意味に基づいた能動的な行動
• 「反応」:外部の刺激や恐怖に基づいた受動的な行動

「問い」を見失うということは、自分が人生の主人公(応答者)であることを放棄し、単なる環境の「産物」になってしまうことを意味します。だからこそ、心理的安全を担保することは、その人が「人間であり続けるための権利」を守ることと同義なのですね。

教員も子どもも、互いに「人生の問い」に耳を澄ませる「共鳴者」になれるような空間。そんな場所では、知識の伝達を超えた「存在の教育」が行われるのでしょう。

フランクルは著作「夜と霧」を書きました。

彼が戦後に『夜と霧』をわずか数日で書き上げることができたのも、収容所という地獄の中で、すでにその内容を「生きて」いたからだと言えます。

フランクルは「未来のどこかで、あなたを待っている『何か』や『誰か』がある」と説きました。

• 成し遂げられるのを待っている仕事
• 愛されるのを待っている人間
• あなたの帰りを待っている家族

人生とは、自分が何かをする場所なのではなく、人生から問われていることに対して、人生から期待されていることに対して、私はどのように答えるかを考え、実践する場所だと言えましょう。

私の知人が市会議員に立候補します。
実は、私の知人は、市会議員に立候補する方が多いのです。どの方もリスペクトできる方たちばかりです。人生何を問われていると言う風な視点に立てば、自分がそれに答えるためにと言う気持ちになるのがとてもよくわかります。

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絶対に反省しない、謝らない、というスタイル

絶対に謝ってはいけない。謝ったらおしまいだ。

こう考える人は、割と欧米には多いと思う。
欧米の「欧」はあんまりよくわからないが、「米」の方にはなんだかやっぱり多い気がする。
とは言え、これは私の勝手な思い込みで、マスコミやその他の一般的な情報で推測しているだけ。バイアスは大きい。

有名なところでは、トランプ大統領、そして、テスラのイーロンマスク氏。自分が絶対に間違っていない、謝る必要なんて、これっぽっちもない。それが強さを示す男のあり様だ、という感じか。

それに比べると、日本人はすぐに謝ってばかりで、アメリカと日本の文化の違いをまざまざと感じる。MLBと日本のプロ野球でもそうだ。
大谷翔平選手が投手のとき、ボールを投げる際にデッドボールを投げてしまった。すると、大谷選手は相手の打者に対して謝った。この様子はニュースになった。MLBでは、投手は絶対に謝らない。いかにも日本人らしい態度だと言うので、様々な番組やPodcastニュースで取り上げられた。

おそらくこういう態度と言うのは伝染するようだ。
ゲームの世界でもそうらしい。ネットで通信しながら、世界中のプレイヤーが戦うゲームがある。日本人のプレイヤーは、ミスをすると謝るらしい。ところが、他の国の選手は絶対に自分が悪くないと言い張るそうだ。逆にお前が悪いと責める。

しかし、こう書いていたら、やっぱり日本人でも謝らない人は謝らないなと思い出してきた。私は絶対悪くないと言い張ると言うのは、世界的に見てよくあることなのだ。年配の男性のほとんどが謝らないと思います。スーパーの駐車場でドアを開いて、隣の車に当てた人が、やっぱり謝りませんでしたね。私の車ではなかったですが、通りすがりに大きな声だったので目立ちました。

逆に、気を遣って、相手のことを大丈夫かと心配する人もたくさんいます。日本人ではなくとも。つまり、その人の生い立ちなわけです。人種は関係ないですね。

保護者にも、謝らない人はいます。
しかし、つい5、6年前までにはこんな事はなかったと思うから、だんだんと人間はこのことに対しての耐性が薄れてきているのかもしれません。やはり世の中は5年10年がするとずいぶん変わるものだと思う。

「私が悪いと言うわけではないですよね?」

と、確認する保護者。
教師が保護者を責める事はほぼないと思う。
それでも、誰も自分のことを責めていないと言うことについて確認をしたいのだ。

これは、やはり幼い頃か若い頃から常に責められてきたから、こういう反応するのではないかと思う。お前のせいだと何度も何度も言い続けられてきた人は、やはり心の底で自分は悪くないと言いたかったのではあるまいか。

大人の世界に入ると、相手を責めると言う事はずいぶん少なくなる。それよりもフォローしたり、カバーしたりして状況を改善しようとしたり、その人の手の届かないところをどうやったらみんなで手が届くことにするか、と、一緒に考えようとする。

ところが、そういう話を私がしたら、

「そんなことない」

と、知り合いに否定された。
大人の世界でも、相手を責めることがよくあると言うのだ。フォローされるなんて事はなく、あんたどうするの?とずっと執拗に責められたことがあると言う。

そういう状況に置かれたら、誰だって自分が悪くないはずだと声を大にして言いたくなるに決まっている。

これまであまり責められたことがなく、幸運な人生を歩んできた人は、相手を攻めたところで、状況が変わらない事は重々承知である。
というか、仲間であるはずの身近な人間を責めたら、その人は弱ってしまい、トータルに考えると、自分のチームは弱くなる。

自分の仲間だと思えば、励まし、その人の本来の力を出せるようにフォローし、励ます。その方が、結局は自分にとって得である。

トランプさんがなぜそんなに周囲を圧迫しようとするのかを、社会学的なアプローチや心理学的なアプローチ、あるいは経営者としてのマネジメント的な立場から分析する人たちがたくさんいる。
アメリカ本国の中にも、自分の国の大統領は、一体どうしてそういう風な態度を取るのかといぶかって、その正体を知りたくなり、分析を始める人たちがたくさんいる。

そこで、話題になっているのが、次の人だ。

ロイ・コーン。

政治の勉強している人は知っているらしいです。私は知りませんでしたが。有名な人のようですね。


マッカーシズム時代に「赤狩り」の急先鋒として知られた悪名高い弁護士です。若き日のトランプ氏に、メディア対応、攻撃的な交渉術、絶対に謝罪しない姿勢など、現在のトランプ氏のスタイルに通じる多くの影響を与えたとされています。

ダイヤモンド・オンライン
映画『アプレンティス』は、トランプの台頭と彼のリーダーシップスタイルの起源に焦点を当てています。この映画は、トランプの成功の裏にある複雑な人物像と、ロイ・コーンとの師弟関係を掘り下げています。映画が描くトランプの成長物語は、彼のビジネスマンとしての側面と政治家としての手腕を理解する鍵になります。トランプのスタイル、「攻撃・攻撃・攻撃、否定・否定・否定、勝利をつかみ、決して敗北を認めるな」の元はロイ・コーンでした。

ロイさんだって、本当は人を責めたくはなかったのかもしれませんね。ロイさんにはロイさんの、生い立ちやら、師匠やら学習してきた内容やら、いろんな影響受けて、その思想を持たざるを得なかったのかもしれません。

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メキシコ国境と、麻薬の罠

私が中学校の頃、最も驚いた事件が、「アヘン戦争」でした。
こんなひどいことを、人間がやるのかと驚きました。
トランプ大統領がメキシコ国境に地上軍を派遣するというニュースがあったとき、また、その大義名分が「麻薬対策」と聞いた時、思い浮かんだのが「アヘン戦争」でした。

私は、中学校の頃に、このアヘン戦争について調べたことがあります。中学校の時の社会科の教師が偉かったですね。おそらく少ない時間数をやりくりして、時間を生み出していたのでしょう。このことだけでかなり時間を使ったと思うんです。
しかし、私には今でも印象に残っている、大切な授業体験になりました。

19世紀に起きたアヘン戦争と、いま現在アメリカを苦しめている「オピオイド危機(フェンタニル危機)」は、時代も場所もまったく違います。しかし、その中身をよく見てみると、驚くほど似た「闇の仕組み」が隠されていることがわかります。

どちらの事件も、「人々に薬物の依存症を植え付けることで莫大な利益を得る」、そして「自分たちが儲けるためなら、他人の国や社会がボロボロになってもかまわない」という冷酷なビジネスの論理で動いているからです。

私が子どもの頃に驚いたのも、この冷酷なビジネス論理と言うものに対して、でした。

かつてのアヘン戦争では、イギリスが中国(清)との貿易で大赤字になったことがきっかけでした。イギリスはその損を取り戻すために、植民地のインドで作らせた麻薬の「アヘン」を、中国へこっそり運び込んで売りつけました。
すると、瞬く間に中国中で中毒者が増え、真面目な役人や農民、さらには国を守るはずの兵士までもが仕事ができなくなってしまったのです。

国のお金は薬代としてイギリスへ流れ、清の社会は内側から崩壊していきました。これはまさに、「他国の人を病気にして支配し、富を奪い取る」という、国が主導した恐ろしい麻薬ビジネスだったと言えます。

いま、この悲劇が形を変えてアメリカで繰り返されています。きっかけは、数十年前に製薬会社が「痛みに効く魔法の安全な薬」として、強力な鎮痛薬(オピオイド)を大量に売り出したことでした。

アメリカは日本のように誰でも安く病院に行ける制度が整っていないため、怪我をした労働者などは、高い治療を受ける代わりに安価な痛み止めに頼らざるを得ませんでした。

こうして「合法的な薬」から始まった依存の連鎖は、やがてより安くて強力な、アヘンの数百倍も強い「フェンタニル」という合成麻薬に取って代わられました。現在では、毎年10万人を超える人々がこの薬物で命を落とすという、戦争以上の被害が出ているのです。

トランプ大統領は、この現状を止めるために「メキシコ国境に軍隊を送り、密輸組織(カルテル)を直接壊滅させる」という非常に強硬な姿勢を見せています。

しかし、歴史を振り返れば、力ずくで押さえ込むだけでは解決しないことがわかります。国内に「薬を欲しがる人(需要)」が大量にいる限り、一つの組織を潰しても、すぐに新しい組織がさらに強力で隠しやすい新種の薬を持って現れるからです。
実際に、フェンタニルよりもさらに数十倍も強い「ニタゼン系」という新型の合成麻薬もすでに広まり始めており、取り締まりとの「いたちごっこ」が続いています。

さらに、こうした混乱の中でトランプ大統領が見せているのは、麻薬対策だけではない大きな野心です。彼は北極圏にある巨大な島「グリーンランド」をアメリカが統治したいという意欲を隠していません。

そこには電気自動車やスマホの製造に欠かせない貴重な天然資源が眠っており、北極を通る新しい航路をコントロールする軍事拠点としても非常に重要だからです。

また、南アメリカ全体に対しても、アメリカが絶対的な主導権を握る「覇権」を広げようとしています。トランプ大統領自身が、【モンロー主義】という、これまた中学校の社会科の教科書に載っていそうな言葉を使ってスピーチしています。これは、ライバルである中国などの影響を南米から追い出し、アメリカの周辺地域を自分のルールで管理しようとする動きです。

結局、アヘン戦争から200年が経った今も、根本にある「支配と利益」の構図は変わっていません。
このことを日本人はどう受け止めていけばいいでしょうか。こういう時に、人間のふだんの思考クセが、表面に出ます。

パワハラ体質の人は、「パワーこそ正義だ」という論展開に賛同しやすい傾向があるそうです。
また、普段の暮らしの中で、あるいは生活の中で、「弱者の立場」を経験している層は、そういった覇権主義を嫌う傾向にあるようです。自分自身のトラウマが影響するんですね。自分自身の価値観をそこに投影してみるのが人間の心理ですから。

50代60代70代の男性の多くが、トランプを応援しているそうです。
また、男性だけでなく、自力でビジネスを展開したり、ある団体の長に登り詰めたような女性も同じ傾向があるようです。

逆に、自分では何もできないことがわかっていて、周囲の人の助けや支援に感謝しながら、何とか生きている、という実感を持っている人たちは、トランプ大統領のような頑固で、周囲の迷惑を顧みない強引な政策は、見ていられないものに映るようです。

この両者は、共通の言語を持ちませんから、いつまでたっても理解し合うことがありません。


日本人や米国人を問わず、ある一定の、彼を支持する層の人々には、トランプ大統領の頑固で意地を張っている姿は、「凜としたリーダーのとるべき姿」として見えているのかもしれません。

「強さを経験し、それを正義としてきた人たち」が、自分たちの価値観を守るために大統領を支持している……。
そう考えると、この騒動は単なる政治問題ではなく、「アメリカンドリームによる成功哲学」と「アンクルトムの小屋から続く差別を嫌う人権意識」の最終戦争のような様相を呈していると思えてきます。


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「劇的なもの」のゆくえ

パッと輝く。
さっと色が変わる。
こうしたものに子どもたちは、目を惹かれます。
多くの人間がそうでしょう。
なので、理科の実験の時は、そういう「劇的な瞬間」というのを見せるようにしています。
子どもたちの興味の持ち方が変わります。

大人もそうですね。
派手なものには、目を向けたくなるし、派手な動きには神経を研ぎ澄ませてみたくなります。
スポーツの人気があるのは、そういうことでしょう。

「劇的」といえば、平賀源内を思い出します。
日本で広告キャッチコピーと言うものを最初に始めたのが彼だと言われていますね。
人々の耳目を集めるのに、劇的な言葉を使うと言うことに気がついた人なんでしょう。
彼は物産展を開き、多くの人を驚かせました。
人を驚かせるのが趣味だったのでしょうかね?
彼は最初に、珍しいものを集めて並べる物産展で話題を集めます。特に評判を呼んだのがエレキテルでした。
静電気の火花を見せると、多くの人が目を見張って驚きました。魔法使いかと思った人もいたと思います。

こんなふうに、人を驚かせるのが好きだった。彼の生涯はどうだったかと言うと・・・

最後が不遇だったんです。
平賀源内自身の人生もまた、非常に「劇的」で、最後は「孤独」だったのです。

• 絶頂期: エレキテルや戯作、そして広告の才能で江戸中の人気者になり、時の権力者(田沼意次など)とも繋がりました。
• 悲劇的な最期: しかし晩年は、事業の失敗や周囲との不和が重なり、最後は誤って人を殺めてしまい、獄中で孤独に亡くなりました。

「劇的な展開を好む人の晩年」は、恵まれないことが多いようです。どれほど世の中を驚かせ、時代の寵児となっても、その「劇的な手法」が誠実さや周囲の人の【心と心の交流】という土台を欠いてしまうと、最後は誰からも助けを得られない孤独に陥ってしまう……。


人間の普遍的な心理に照らしてみると、平穏な日常も大切ですが、一方で「何かすごいことが起きるのではないか」「この人が世界を変えてくれるのではないか」というワクワク感に、人は抗えません。

高市総理が「1月解散」という劇的なカードを切るのも、まさにこの「源内的な演出」が、今でも一定以上の人々の心を掴むと知っているからでしょうね。

源内の時代は、まだ「驚き」そのものが希少な価値でした。しかし、今は誰もがスマホで24時間、源内のエレキテル以上の「ぎょっとするニュース」を浴び続けています。

その中で、我々は気がつかないうちに、情報に対してのアップデートを済ませてしまったんではないかと思います。おそらくそれは2024年から2025年に起きたのではないでしょうか?

何かを見せるとか、「うわべ」を整えるとか、そういうことに大衆は心を動かなくさせたのではないか。あまりにも、そうしたことで、事実実態と表現が異なる姿を見せられてきたからです。
本当はどうかと言うふうに、大衆の気持ちがアップデートしてしまっているんだと思います。

これまで私たちは、素晴らしいキャッチコピーや、キラキラした映像、そして「劇的な演出」によって、実態以上に良く見せられたものを何度も見せられてきました。そして、その後にやってくる「中身が伴わない」という失望を、数えきれないほど経験してきました。

大衆の感覚がアップデートされたというのは、「演出」という魔法が解けてしまった状態だと言えます。
面白いですが、広告なんですけど、アイフルと言う消費者金融がありますね。偶然ですけど、そこに愛はあるんかいと聞いています。まさにそれは今の令和の新しい人たちの感覚なんでしょう。皮肉にもそれが既に広告になっているわけですが。

現代の大衆がアップデートしたというのは、

「驚かされることにはもう飽きた。だから、その奥にある『本当のこと』を見せてくれ」

という境地に達したということなのかもしれません。

劇的な演出で人々を喜ばせる「源内的なエンターテインメント」としての政治は、そこに愛(実体)はあるのか?、という冷徹な視線にさらされているのです。


高市総理がどれほど「広告的」に自分を演出し、強い言葉を発しても、それを受け取る側が「あ、これ広告だな」と気づいてしまった瞬間、その魔法は消えてしまいます。
2月の選挙に向けて、「そこに愛(誠実さ)はあるんかい?」という静かな問いが、SNSの喧騒を超えて、投票箱に静かに積み重なっていくのかもしれません。
「広告の時代」が終わり、「実体の時代」が始まった今、これから私たちは「嘘のない言葉」を政治や社会に求めていく姿勢がより強まっていると思います。
高市総理は、自分を「現代の源内」のような革命児だと思っているかもしれませんが、とにもかくにも、周囲の自民党内での分裂をさせないように頑張る必要があると思います。地道な折衝は時間がかかるかもしれません。また大勢の県や地方の国会議員に理解をしてもらうには言葉を尽くしていく、説明していく誠意を見せる必要もあるでしょう。

今回の解散で、高市早苗総理が、晩年を孤独で寂しく過ごすのか、あるいは社会に貢献してくれたと言うふうに受け止められて、感謝をいつまでも伝えてもらえる人になるかが決まると思います。
今、周りにいる人に、「総理大臣だから」と、利用価値がある存在として、ただ利用されるのではなく、本当に愛されていくのかどうかがこの解散で決まると思います。

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マツダのレッドが呑気に見える話

私は車に興味があります。
古くは西武デパートの駐車場で見た黄色いカウンタックから始まりました。

あの希望と、未来への挑戦の色。
高度経済成長期の後半、まだあの頃は、純粋に、あるいは無邪気に、未来を信じていた頃です。当時のスーパーカーは原色でしたね。真っ赤なスーパーカー、黄色、青。
これらは、1970年代の世界中の人々が、科学技術の素晴らしさを謳歌している時代の色でした。

先日、首都高を走っておりますと、やはり、目につくのは、落ち着いたブラックの車です。ブラックはやはり人気なのですね。
あとはホワイトパール。高級感があります。
黒白グレーは、無難だし、おしゃれ感もあるし、それでいてある種の緊張感も秘めている。
どれも車としては引き締まった良い色です。

その中で、私の目を特に惹いたのが、マツダ社の奥深い、落ち着いた赤色、あのレッドです。
わたしはマツダ車を持ってないのでわかりませんが、漆塗りのような、匠の職人が好むような深い色ですよね。とてもかっこいいです。

これはおそらく10〜15年位前から流行り出したのかな?

平成と言う時代の終盤になって、団塊の世代が定年を迎えるとき、あの、芳醇なレッドが、今の団塊の世代の気持ちに刺さったのでしょう。ようやく実りの時を迎えた、ようやく収穫できるようになった、と。

当時のマツダのデザイナーたちは、「生命の躍動」を表現するために、赤の中にもハイライト(光り輝く部分)とシェード(深い影の部分)の強烈なコントラストを追求しました。まさに「苦労して登り詰めた成功者が、一息ついて夕日を眺める」ような、豊穣の赤です。

しかし、あれから時代が変わり、団塊ジュニアの世代が50代になっています。ようやく車を買い換える余裕が出てきた頃に、あのマツダのレッドは「なんか違う」と感じるわけですね。
親の世代はあれが良かった。しっかりと働いた実感があり、収穫を得て、頑張った自分と言うことに納得ができるための色でした。

ところが団塊ジュニアの世代は違う。
この世代は、若い頃から辛酸を舐めてきました。
就職は、氷河期。子育てを始めてもどんどん税金が上がって、苦しい中を地を這うように過ごしてきたんです。給料が上がっていく親の世代とは違い、デフレの真っ只中で、苦しみながら生きてきました。

団塊ジュニアは、バブルの恩恵も受けず、常に「現実」と向き合わされてきた世代です。だからこそ、今この不透明な時代に、親世代が愛したような「過去の平和を象徴する芳醇な赤」を手にすることに、強い違和感(=呑気さ)を覚えるのではないでしょうか。

だから、車を買うときに、豊かな実りの色は、心理的に選べないんですね。あまりにも、場違いな感じがして。呑気すぎる赤、なんです。呑気に収穫を喜ぶ気にはなれない。そんなジュニア世代に合う色はなんでしょう?

トヨタのデザイナー、ホンダのデザイナーは、今の40代50代のユーザーにささる色を考え抜きました。それがアースカラーです。

ちょっとくすんだ感じの色。
土のような、草のような、木のような、ちょっとくすんだイメージの色が、今の40代50代にピッタリなんです。これは目立ちたくないと言う色。できたら、自然の中に溶け込むようにして、自分の存在を気配を主張させたくないんです。
「できたら自然に隠れたい」
「目立たないでやり過ごしたい」
これは、政治からも、経済からも、徹底的にいじめ抜かれてきた世代の、我が身を守る大事な哲学なんですね。

トヨタのシエンタ、ホンダのフリード、ダイハツのタフト、他にも、今発売されている車のボディーカラーは、くすんだ系統の色合いがほとんどです。

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おそらくデザイナーは、

不安や緊張の中にいる大衆に対し、「今はここで静かに、気配を消して休んでいてもいいんですよ」という、メーカーなりの優しさや受容の形


を、色で示しそうとしたんだ、と思います。


特にこれからは時代が急激に変化することが予想されます。

政治的にも緊張があります。
トランプ大統領のやることには、世界中の人が度肝を抜かれています。高市早苗総理大臣は、台湾有事を口にして、火種をつくりました。
経済的にも、誰にも予想できない大変革がこの後あるだろうと予想されています。ドルの信頼にはヒビが入りそうですし、世界中でインフレが止まりません。

こんな時代の背景を感じて、ユーザは自分だけはじっとしていたいんです。
その心理を、巧みにつかんで、あるいはもっと良い言葉で言うと、トヨタやホンダのデザイナーは、私たちの震えるような心理に、そっと寄り添ってくれているようにして、アースカラーを出してくれたのだとおもいます。
久しぶりに、首都高を走って、いろいろな車の姿を見ながら、こんなことを考えていました。
新しい車は、アースカラーが多いなぁ、と思いながら、ふと見ると、目の前にでかくて新しい車が走っていました。トヨタのランドクルーザー(新車)です。

やはり、砂漠の中に隠れるような、ミリタリーの雰囲気のするような色でした。
考えてみれば、ミリタリーと言うのは、緊張感のある色ですね。隠れてるんですから、敵から。
そして、その後にはおそらく、命をかけた戦闘が待ち受けているんですから。

似たような色合いであるアースカラーにも、やはり私は緊張を感じます。
落ち着いたニュートラルな色かと思いきや、この後に起きるイベントに備えて、最大限に緊張を抱えたまま、身を隠している色だととも考えられます。

この後に起きるのは、政治的な危機、そして経済ショック。
まさに、今の40代50代は、社会の中に沈潜し、息をひそめ、これから起こるショックに備えているとも思います。
そう考えると、メーカーのデザイナーたちがいかに敏感か、よくわかりますね。

そんなことを考えてしたら、はいその瞬間です。
隣に、まるで1970年代のような、おもちゃみたいな色をした、新しい車が通ったんですよ。
ピカピカの新車でした。
なんていう車かわかりませんでした。

それがね、すごい赤だったんです。
それも、救急隊員の救命着のような、Orangeっぽい赤というか。消火栓の色のような。

私が、心の中で、

これからの世の中、大変革が来るぞ、
トランプのショックは続くぞ、
政治的にもやばいぞ、
経済的にもショックが来る、
サイレンの音が聞こえてくるぞ

と考えていたところに、救命着や、消火栓の色が、赤色が、目に飛び込んできたと言うわけです。
それも新車で。

どこかのメーカーのデザイナーは、既に、次の色を予測しているんですね。
それは、もう隠れてる場合じゃない、アースカラーじゃないと言うわけです。

もう出てきて、戦わないとダメだぞ、サイレンが鳴ってるぞ、飛び出して進まないと!

・・・と、言っているような色でした。

今調べてみたら、この車だったかな?と。
ヨーロッパで戦争が終わった時、のこと。世界大戦の直後のことです。
フィアットの社長は、これからの平和な時代を、絶対に元に戻さない、という強い意志を示すため、この希望に燃える赤を世に出したと言っています。


戦争が終わったばかりの当時、物資が不足していたため、多くの車は軍用車の残りのような地味な色(グレーやオリーブドラブ)でした。
フィアットはあえて、イタリア人が愛する「情熱の赤(ロッソ)」を大衆車に塗りました。それは「戦争の暗い影を塗りつぶし、もう一度明るい太陽の下へ出よう」という、国全体への強烈なメッセージだったのです。
これは、人間の尊厳をかけて、抵抗するための赤ですね。

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トヨタのシエンタは、アースカラーが前面に押し出された車です。

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このシエンタについては、実際に色そのものを担当したのは、カラーデザイナーの荒田 海優(あらた みゆ)氏ら若手のチームです。

荒田氏は「お洒落な雑貨屋やカフェ、キャンプ」といった、現代のトレンドに敏感な視点で色を選定しました。これが、ラインナップの多くが「くすみカラー」に占められた理由です。つまり、市場の「隠れたい」というニーズに応えたのは、このカラーチームのマーケティング的側面が強いと言えます。

しかし、プロジェクト全体の責任者はまた別の方なんですね。加藤さんという方です。
この方はプロジェクト全体の責任者として、これら全ての色の最終決定を下しています。加藤氏は「日常を彩るちょっといいもの」という言葉を大切にしており、アースカラーばかりで沈みがちなラインナップの中に、たった一色だけ、「世の中に主張する色」を置くことを許容しました。

その証拠に、シエンタには、たったそれだけなんですが、アースカラーじゃない色として、緋色(赤に近い色)が入っています。

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やはり、赤は、流されまいとする色、抵抗の色、みたいですね。

わたし?
私の車は、ブルーです。購入して17年、距離は220,000キロを超えました。
あー、マツダのレッドに乗りたいナ。

高市総理への期待

私がブログを書き始めた20年ほど前、叱らないという言葉の響きに大変大きな反響がありました。

女性の先生からは、賛成の声。
男性の先生からは、反対の声。

なぜだろうなぁと当時から不思議でした。
男性の先生は、声の大きさもあるし、ピシッと統率するのが大好きな先生が多い傾向があると思います。これは私の勝手な偏見ですが。偏見としてそう思います。もちろん、そうではない先生方もたくさん知っています。私の尊敬する先生は、男性の先生もたくさんいますが、まったく横暴ではありません。

女性の先生は、どちらかと言うと、子供の言うことを共感的に受け止めながら、今ふさわしい方向性を明らかにして協力していこうと諭すタイプが多いと思います。

私が提唱している【叱らない】というキーワードに、反応が多かったのは、男性の先生です。

◯そんなバカな
◯統率できないではないか
◯子どもがそれでは育たない
◯あなたの主張は、教育界に大きな不安を押し付ける
◯不安になることを言うな
◯そんな迷い言を言うと新しい先生たちが迷ってしまうではないか
◯子供のしつけを舐めるな

どちらかと言うと、感情的で説得力がなく、私のセリフをお前は新人だからと決めつけて脅すような言葉が多かったです。

これはまぁ想定内でした。
これまでの教育はほとんどそうでしたからね。
私は、そこにアンチテーゼを唱えたかったので、世間の反発があればあるほど、あぁこれは本当に必要な提言だったのだなぁと自分で考えておりました。

予想外にありがたかったのは、主に女性の先生たちからの私もそう思いますと言うご意見でした。雑誌の編集者や、大学の先生からも、メッセージをいただいたことがあります。その編集者も大学の先生も女性でした。もちろん、応援してくれる中身であり、内容でした。


要するに私の意見とは、女性的だったのです。
これは、他人をコントロールしたがると言う男性的な考え方に対して、コントロールされる側ではなく、自立した決定権を持つ人として、人の尊厳を大切に考える女性的な考え方の意見だったのです。

そんな考えを唱えたものだから、反発されました。私のことを若い女性の先生だと勘違いしている人もたくさんいました。30代で転職したおっさんなのに。
男性の先生たちから、特に中年以降のベテランだぞ!と自分のことを言っているような男性の先生たちから、批判を浴びたのです。

あまりにも、コメント欄が炎上するので、明治図書の運営していたEDU BLOGからは撤退をすることにしました。私の意見も擁護してくれていた女性の先生が、コメント欄で誹謗中傷されるようになってしまったからです。これは見過ごしてはいられなかったので。

今なら、もっと賢い運用ができたかと思いますが、私としては、当時は、緊急処置として閉鎖せざるを得なかったのです。

また、記事をアップする際に、記事の後半は希望者しか見られないようにパスワードをかけたりもしました。
今、現在も、パスワードを入力しないと読めない記事が過去の方にはずいぶんあります。これはその時の防御反応でした。

時代は進んできました。
選択的夫婦別姓も、頑なに認めようとしなかった人たちが、徐々に認め始めています。
同時に、小学校や中学校でも、大声を出して、威圧的に子供たちを統率しようとする教師は格段に減ってきました。

そこに来て、女性天皇も、認められる機運があります。そもそも推古天皇は女性でしたし、アマテラス大御神は、女性です。

とどめは、女性総理大臣の誕生です。
私はこれから世の中がさらに明るくなると思います。高市早苗総理が、女性の生きる権利を、しっかりと保障してくれると信じます。

ただし、夫婦別姓について、高市さんはなんだか後ろ向きな気がします。私はそこが残念でなりません。しかし、きっと、世の中はそうなっていくと思います。なぜなら、それが女性にも男性にも生きていくのに楽で楽しい世界だからです。
その自然の摂理や理(ことわり)に、抵抗しようとすれば、必ずその反動があり、苦しい目に遭うのです。

高市早苗先生、期待しています。

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新しい国家のあり方〜津田出(つだ・いづる)

自公連立が解かれ、新しい時代に、どうやら進みそう。

私が興味があるのは、明治維新です。
新しい国のあり方を探るために、岩倉使節団など猛烈な動きが起きました。モデルを探し回ったのです。青写真が欲しかったんですね。国家の。
これから、新しい国を作っていこうとするときに、いろんな国を見て回って、こんな国家がいいなと言うふうに探し回るわけです。

今の政府にも、もしかしたら、青写真が必要なのかもしれません。国家の。いや、すでにあるんだけど、今だけ見失っているのか、あるいは忘れているのかも。

教科書には載っていませんが、和歌山県から出た津田出(つだ・いづる)という人がいます。
西郷隆盛がこの人のところに行って、あなたの言う通りに国家を作りたいとお願いした話はとても有名です。

この津田さんは、青写真を頭の中にちゃんと持っていたんですね。
偉いですな。こんなふうに先を見通せるというか、ちゃんと理想があると言うのはすごく大事ですよね。方向が見えてきますから。

今のZ世代と呼ばれる若い人たちは、俺たちがこれから目指す世界はどんなんだろうと、ちゃんと考えていると思います。

きちんと話し合いができる国。
少しずつ進むことを軽視しない国。
「あいつのせい」だと他責の思考で進むのではなく、相手と協力できる点を見つけようと日々、努力する国。
勢いと扇動とスローガンで進むのでなく、そのスローガンで置き去りにされてる人がいないかを気にする国。


国、を、クラス、や、学級、と言い換えることができます。
今、小学校では、大きな声で叱りつける先生はほとんどいなくなりました。
ようやく、絶対王政から、脱却できた気がします。16世紀から、21世紀へ。ようやく。

明治の偉人、津田出が取り組んだのは、職業選択の自由を認める、という改革でした。
メガトン級の革命政策だったらしいですが、人々はすんなりとそれに馴染んだそうです。
歴史は、正しい方向に進むと、すんなり、なのですね。誰も苦しくないからだと思います。

苦しい人がいたら、必ず揺り戻し、やり直しが起こるのが、人間の歴史だそうです。

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高石自民党総裁は、理想派か現実派か?という問い


あるお医者さんが書いていました。
以下の通りです。

『これから高石さんは、アベノミクスを継承し、サナエノミクスをするという。ところが、円安・株高は、ちっとも庶民の暮らしを良くしないと言うことが安倍さんの時代に証明されてしまった。
ゴールドや株を買えるような富裕層だけが儲かるのであって、庶民の財布は、ちっとも暖かくならなかった。

安倍晋三さんは思いっきりこの政策を進めたので、ある意味社会実験のようなことになった。実験の結果がはっきりしたために、かえって日本国民も潔く、このことを諦めると言う方向に進むべきだと思う。

私は庶民の財布事情が良くなれば、それは広い意味で一番大きな巨大な推進力となり、国防につながると思っている。日本人が豊かになり、その経済力でヨーロッパのものや中国のものや韓国のもの、そしてアメリカのものをたくさん購入できるようになれば、日本を疎んじる国はなくなる。
相手にとって、大切なお客様だからである。庶民とは、そういう感覚で生きている。

サナエノミクスを進めたらおそらく日本は誰からも不要な国と思われていくだろう。それは国を守るどころか、全くの逆効果にしかならない。国防力は減衰していく。

昔の自民党は、法人税をたくさん取った。
それは理屈があったからだ。昔の自民党は日本中に豊かな会社をたくさん増やそうとした。そのため利益の上がらない会社からは税金を取らないようにした。破産させてはいけない。従業員を守ろうと考えた。そのため、利益の上がらない企業からは税金を取らない仕組みにした。それが法人税である。

そのかわり、利益をきちんと上げている会社からは、法人税を取った。消費税は不要であった。庶民が大企業で働いて、その大企業が豊かになって繁栄し、利益を上げた場合にのみ、そこから社会に還元していたのであります。利益が上がらない場合には、税金は取らなかった。そこがはっきりしていたから、会社はどうせ法人税で取られるんだから、従業員の給料を上げようとも考えた。

今の自民党は、昔の自民党とは真逆であります。新しい自民党はアベノミクスを採用しましたが、昔ととは真逆の政策でした。それでも社会にきっと還元されると言う謳い文句だったが、やはり当初の懸念通り従業員の給料を上げようとする会社は少なかった。アベノミクスは、実験としては失敗に終わった。

今こそ、昔の自民党の時代に戻るべきです。田中角栄の時代に戻って欲しい』

・・・と。

このお医者さんと同じような考え方の人は、今の世の中に多いのだろうか?と、私はそこが気になる。

もし多いのであれば、自民党はそういった庶民の声を聞いて法人税率を上げていくんじゃないかと思う。
しかし、現状では、そんなふうに見えないから、やはりこのようなお医者様の考え方はごくごく少数派なのだろうと思われる。

高石早苗さんは、理念と理想を高く掲げる理論派だと思う。断固として、妥協許さない。諸外国に対しても、理念は絶対に負けませんと言う誇りの高い政策を取る。

それに対して、このお医者さんのような考え方は、実に現実的で、庶民感覚、人間感覚である。

これは、喫茶店のマスターに聞いた話。
コーヒーを買い付けに来た日本人を、ホンジュラスのコーヒー農園の主は、日本人は、友達だ。日本がさらに豊かになって繁栄することを願っているよとメッセージをくれていた、と。

それが当たり前の普通の感覚だと思う。

お客さんを大事にすると言う人間心理に基づくものだ。理想派か、それとも現実派か、と言えば、こちらの方が現実派だと言えよう。

さて、理想派が勝つか、現実派が勝つか。
世の中、どちらが優勢か。
これまで54年間生きてきた経験を振り返ると、どうも現実派の方がやや優勢だと思うけどなぁ。

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運動会がおとなしくなってきてつまんなくなった、という意見

この時期思い出されるのが前任校のこと。
ちょうど、今くらいの時期でした。

教頭先生がぼやいていたのです。

「保護者から結構来てるねー」

今の時期です。ピンときますか?
そうです。運動会のことです。

その年は、9月の下旬に運動会をしたのですが、
暑すぎたと。10月にやれないのかと。
保護者からの電話があったのです。

私は内心、そうだよなあ、と思ったのを覚えてます。

暑かったのですね。
子どもたち、みんなきつそうでした。

言い訳をすると、私も一年の計画を立てる会議に出てたので、分かるのですが、なかなかスケジュールを組むのも大変なので・・・

10月は忙しいのです。
6年生が修学旅行に行くからです。
また、5年生も宿泊学習に出かけます。
養護教諭が2人いる学校は少ないので、5年と6年が同時には行けませんから、2週間ほどずらしています。10月の終わりと11月に予定していますが、これの準備だけでもものすごく神経をすり減らすのです(子どもも大人も)。
10月に運動会をやっていては到底間に合わない。

加えて、2学期制となり、10月の最初には通知表を渡さなければいけません。少なくとも9月中には、運動会を終わらせたいのです。暑さは覚悟の上です。そのかわり、午前中で終わるように計画しました。

この暑さの中で、運動会を1日中やっていたら、この地域の保護者も子供も全員くたばってしまうかも。
もちろん、当時もそのような懸念はありました。職員会議でも、心配する声は出ていたと思います。しかし、行事の都合を考えると、当時はこうするほかありませんでした。あの時はたしか、11月に持久走大会もやってましたか・・・。行事でがんじがらめになっていた面もありました。今思えば。

9月下旬だと、中止になる可能性だって残っています。
熱中症の危険性が高いと言うふうに判断されたら、そもそも延期になる覚悟でした。
今は熱中症の指数を測りますからね。
それでも、この時期にやると言う年間計画は崩すことができませんでした。

苦情受け付ける教頭先生はどんどんと疲弊していきます。ため息をついてから受話器を取り上げ、声の調子をがらりと変えて、保護者のクレームに対応する教頭先生。頭が下がりました。

これは今でもそうなのですが、運動会については、まだまだいろいろなクレームが寄せられます。
次のクレームは、多分全国の小学校に届いているんじゃないかと思います。
それは、なぜ騎馬戦を辞めたのかと言うものです。これも多い。みんなどちらかと言うと残念なニュアンスです。

あと、昔やっていた棒倒し。あれが見たかったと言うおじいさまからの電話も。
これは、その電話を受け取った先生が目の前にいたので、はっきりと覚えています。

「棒倒しはやらんのかね?男の子はあのぐらいのことをやって、発散させんといかん」

・・・と、言われたそうです。
言葉遣いはとても丁寧な紳士の声だったようですが、何度説明してもやめたことが、腑に落ちなかったみたいだ、と言っていました。
教頭先生がとても丁寧に対応されるので、暇つぶしに電話をしてきた可能性もあります。

それにまして、1番は、組体操のことですね。
もうとっくのとうに、都市圏では廃止された組体操。日本の田舎ではまだやっているんですナ。

私の今の勤務校でもやっていますよ。
さすがにこれはうちの地元では、やめると言う判断にはなりません。もっと都会に行けば違ったでしょうが、ひいじいちゃん、ひいばあちゃんも、この学校に通ったのですから、このような土地では、何よりも伝統が大事なのです。

今年の組体操、6年生の先生たちは、胃が痛くなるほどまで会議に会議を重ねています。
そして、組み体操という名前を残しつつ、実際にはほとんど危険と思われるような表現を行わないように計画しています。苦痛に耐えるようなポーズを全て外したい、とある先生が言ってました。

ところが、それだと迫力がない、と言うクレームが届く。

子供たちが苦痛に耐える顔が見たいらしい。
こういうニュアンスのクレームは、年配50代60代の男性が多いです。
つまり、これはじいちゃん、です。子どもたちの。

世の中のおじいちゃんは、棒倒しと騎馬戦と組体操が大好きだというわけ。
そして、子供たちが苦痛に耐えている姿を見ると、感動する。

・・・

オリンピックでも、スポーツ中継でも、選手が苦痛に顔を歪めると話題になりますね。
MLBの大谷選手が、デッドボールを膝に当てて、痛さで顔をしかめている写真が、インスタに掲載されると、ものすごく反響を呼びました。その表情が話題になったのです。

しかし、法整備が整っていません。
怪我をしたとき、誰が責任を取るのでしょうか?
全国を見ると、実際に訴訟も起きています。
今の教員は、それに耐えられるようになっていないのです。つまり法律では守られていないわけです。

給食の時間が職員にとっては休憩に当たると最高裁判所で決定付けられたのもありますが、実際に子供たちを放って休憩している職員は誰1人としていません。このタイミングで子供たちが怪我をしたり事故に遭ったとしても、職員は休憩時間にあたると法律で定められているために、本来なら、保護者はそのことを認めなければなりませんが、そうかといって、子供たちを保護下に置いていることには変わりなく、その時間に十分な指導しなかったということで、その教員は罰せられてしまうでしょう。

国としては、休憩時間だと建前を作りながら、実際には市の教育委員会レベルで懲戒の対象となる。つまり教員と言うのは全く守られないのです。

それにしても、なぜ都市部の学校では組体操を止めることができるのでしょう?私の知り合いの神奈川県の教員も、そんなものはとうの昔にやめていると連絡をくれました。

その人はこう言いました。
「1人でも大怪我したら、次の年からはなくなるよ」
しかし、だからといって、誰かが大怪我をするのを待つわけにはいきません。

私は個人的に組体操で頑張る子どもたちを見るのは大好きです。私自身も50代のおっさんですから、孫が組み体操で、立派にサボテンを決めたら感動して写真を撮るでしょう。

それでも、やはり、様々な条件が整っていない以上、小学校で組体操を続ける事は無理なのです。本来は。

このことで1番大変な思いをしているのは、全国の小学校の教頭先生、校長先生だろうと思いますネ。

まぁこういうことが積もり積もって、教員を志望する若者が年々減ってきてしまい、実際にはいくら募集をかけても集まらない状況が起きてきてしまっています。若者が働きたくないと思う職場は、持続可能ではないと言うことです。

しかし、ここで文科省を叩くのはよくありません。私の知り合いの先生は、文科省の先生たちも、本当によくわかっていて、戦ってくださっていると断言しています。

官僚がいけないんだとか、官僚がサボっているとか、官僚の頭が悪いのだと言う人を私は信頼しません。夜の11時に、文科省の次官からメールが届いたことがあります。そんな深夜にメールを、受ける方も受ける方ですが、出す方だってその時間に仕事をしていたわけです。
あれだけ仕事をしている人たちを、私は批判する気にはなりません。

あの時、文科省の役人だって、一人ひとりを見ると、孤独なんだなと思いましたヨ・・・。何かもっとこう、人々が幸せになれる社会システムって、何かないかなぁと、しばらく考えたくなりますね。


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ChatGPTは日本ではまだ浸透しないと思った件

急に富山に行くことになった。
そこで、富山までの道のりを調べてみると、いくつかルートがある。
代表的な3つのルートをここで紹介しておきましょう。
1つ目は、岐阜経由・山の中をくねくねと進んでいく道。
2つ目は、新潟経由・山の中をくねくね進む道。のこりの一つ、3つ目は、新潟経由・オール高速道路(しかしこれがまたかなりの遠回り)
これで3通り、3つのルートがあったと思ってください。

私は病人を運ぶから、できるだけ山道は避けたかった。くねくね道を行くのは、どうしたって体に負担がかかりそうだからだ。
ところが、オール高速道路は道は良さそうだけれど、うんと遠回りで時間もかかるのです。
高速道路なんだけど、ちっとも早くつかない。むしろ1番時間がかかるのでした。したがって、この高速道路案は却下です。

考えられるのは、長野の山の中を抜けて新潟経由で行くか、それとも岐阜の山の中を越えていくかです。どちらも似たような時間で、ほとんどかかる時間に誤差はありません。正直、迷いました。

そこで最近、スマホにインストールしたばかりのChatGPTに聞いてみることにした。
まだ使い方はよくわからないのですが、色々と聞くと、ポンポンと返事を返してくれるようなので、もしかしたら教えてくれるかもしれないと言う期待を込めたのです。

どうなったと思いますか?

そうなんですよ。タイトルに書いた通りで、期待はずれだったんです。このままでは、まだまだ日本人には、あまり浸透はしないだろうなぁと思ったのです。

1番の問題は言葉の強さです。
おそらくChatGPTにとって、日本語はまだ苦手なのではないかと感じました。英語の直訳だと考えれば、非常に納得のいく訳し方だと思います。ChatGPTの返してくれる言葉を見て、これは元は英文だったのだろうなぁと思うと、なるほどよく雰囲気が伝わってきます。

ところが、日本語を使い慣れている我々にとっては、その言葉が、どうにもきつく聞こえてしまう。おそらく昭和世代には人気が出ないのではないかなと思います。もしかしたら今のZ世代の若者たちにとっては、AIの言うことを100%信じる人はほとんどいなさそうなので大丈夫かもしれませんが。

最初私は、時間を調べました。
そうすると、こんな結果でした。
1位 岐阜の山道 2時間53分。
2位 長野・新潟の山道 2時間57分。
3位 オール高速道路 3時間13分。

1位と2の差は4分しかなく、ほとんど誤差でしかありません。つまりかかる時間はほぼ同じと考えて良さそうです。

ここでChatGPTに丁寧に聞いてみました。
【最も曲がり道が少なく、酔いにくい体に負担のかからないルートはどれですか?】

すると、こんな回答です。
1位の岐阜の山道です。この山道は、途中、安房峠にトンネルが建設され、最も時間が少なく済みます。体に負担もかからないでしょう。

どうです。この回答を見たら誰だって、嫌な予感がしますね。私はどの道が酔いやすいか、くねくね曲がり道なのか、そして最もくねくね曲がらずに、体の負担のかからないルートは何かを聞いたのです。しかしChatGPTの回答は、時間が岐阜ルートが1番短いのだから、きっと体にも負担がかからないだろうと言う投げやりな回答でした。

私は距離も聞いてみました。
結果はこうでした。

1位 岐阜の山道 136キロ
2位 長野・新潟の山道 181キロ

賢明な皆さんであれば、この2つに45キロメートルの差があることが見てとれますね。
それにもかかわらず、時間はほとんど大差がないわけです。
皆さんはどちらがくねくね道かわかりますね。

ところが!

ChatGPTの答え→【岐阜の山道経由がお勧めです。このルートが距離も時間も短く、最も効率的なルートだといえます。昔は難所だとも言われましたが、安房峠にトンネルが整備されたおかげで、現在ではとてもスムーズに峠を越えることができます。そのため、岐阜の山道経由が最も効率的であり、体に負担がかからないルートだと言えましょう。どちらも同じ位の時間で、より短い距離を走る岐阜の山道ルートが、車に乗っている時間が短く、乗り物酔いのリスクを下げることができるのです。】

↑ こんなにはっきり言うんですよ。ChatGPTは。
それも自信に満ちて。
おそらく大いにうなずきながら、語っているんでしょう。いいかいわかるかい坊や、と言うような。
少し大人ぶった感じにも聞こえますね。ワタクシはコンピューターで、世の中のありとあらゆる情報を見て、正しく計算をした結果、あなたにこのように進言申し上げているのです。しかしあなたはそのことをしっかりと把握されていないようで、疑心暗鬼になっていますね。それは人間の浅はかさと言うようなものですよ。いいですから信じなさい。私を。

・・・って、聞こえて来ちゃいました。
はい、気のせいですが。


この話を整理してみますと、賢明な皆さんがしっかりと計算された通り、スムーズに通れてくねくね道の少ないのは、完全に長野新潟の山道経由です。逆にChatGPTがお勧めする岐阜の山道経由は、距離は短く、長野新潟の7割ほどしかないのに、それにもかかわらず、時間は同じだけかかると言うわけです。いいですか、距離は短いのに長野新潟の山道経由と同じだけ時間がかかるのですよ!

・・・という事は、きっとその道は、うんとくねくね曲がっているに違いありません。平均時速は遅く、ゆっくりとしか走れない道なのです。

しかし、改めて再度聞いたとき、AIは言い切りました。
お勧めは岐阜の山道ルートです。同じくらいの時間で、より短い距離を走るため、体に負担のかかるリスクを減らすことができるからです。乗り物酔いのリスクも減らすことができます。
私は論破王ひろゆきのような気持ちになり、時間はもう一度聞くがどのくらいなのか、そして距離はどのくらいなのか。さらに、平均時速はどのくらいと考えられるのか。ふつう、平均時速が遅い方が、山道をくねくねとより一層曲がりながら走っていると言えるのではないか。・・・という点を一つ一つChatGPTが理解しやすいように噛み砕くようにして教えていきました。

すると、最後に、ChatGPTはついに負けを認めたのです。

【おっしゃる通りです。以上の点を再度検証した結果、長野新潟経由の山道の方がよりスムーズにカーブをできる限り避けながら、スピードを落とさずに効率よく走れることがわかりました。私の説明に混乱を招く表現があり大変申し訳ありませんでした。】

潔く訂正できるところはChatGPTの良いところです。しかしさっきまでのあの断固として、岐阜の山道が最も優れているのだと断言していたあの強さ、あの自信に満ちた態度はどこから来るのでしょう。

私は日本人向けにもう少しChatGPTの仕様を変える必要があると思います。
少なくとも、言い切らないように。
語尾の最後を次のようにするのを、システムエンジニアの方、設計の方に向けて進言申し上げる次第です。

【今現時点では、〜の方が、ご要望に沿う可能性が高いかと存じます。しかし、私めのこれまでの考察の過程において、本来考慮しなければならない点を見過ごしている可能性もまだございますゆえ、もし気がかりな点がございましたら、今すぐ教えてくださるようにお願い申し上げます】

特に、われわれ昭和世代の人は強く言われると、そうなのかいなーと簡単にころっと信じ込んでしまいますので、ぜひお願いしたいところでございます。

こりゃ、子どもが使うには、まだまだだナ。

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学級経営のむずかしさを世間が理解できない点

学級経営、という言葉があり、その難しさをまだまだ世間は理解していない、と思うことがあります。
子どもは人間ですから、さまざまなことを考えます。そして、します。

学習指導要領は、子どもがいろんなことをする、というのを外して考えている気がします。
よくある間違いは、

教えたら、わかるはずだ

という勘違い。

次は、

教えたら、覚えているはずだ

というもの。

さらにその次は、子どもは前を向いて座る、という勘違い。

全くもって、そんなことは当然では無い。できて当たり前なものではないです。

でもまあ、このへんまではよく言われることだし、世間の人も承知していると思います。
なぜなら、まったくもってこれ、大人だっておなじてすからね。

もっと話を進めると、このへんは世間の人々が分かってないことかも、というのがあります。
例えば、

子どもはみんな健康な状態で登校する

とか。実際には、普通に、発熱しながら登校します。これは保護者が悪いのではありません。保護者が休めない勤務体系そのもの、つまり日本の雇用システムそのものに、課題があるのです、

また、これも世間では知られてないと思われるのが、一度やれたことは、できるようになった、という判断。つまり、昨日できたことは、今日もできる、と思ってる、ということです。
「昨日、みんなでやったでしよ!」と思うのですよ。「あんとき、できたでしょ!」と。

ところが、そうはいかない。

あとは、

子どもは学校生活以外は悩みが無い、という誤解。いえ、子どもの心は、部活のこと、放課後デイのこと、児童クラブのこと、塾のこと、親のこと、兄弟のこと、さまざまなことで、心はちりぢりバラバラに乱れております。

こういうこと、文科省はどう考えているのだろう、と不思議に思う。よく、10教科も詰め込んだ
ナ、と。よく夕方まで詰め込んだな、狭い教室に35人も詰め込んだな、下校時間が16:00、歩いてうちに帰る頃は、冬なら日が翳って暗くなりますが。文科省は、よくやるよなぁ、と。凄いことを計画するな、と思います。

常に空腹を、訴える子もいます。
これも親が悪いのではありません。
余裕が無いのです。
今の社会システムでやってると、親にはとうてい、余裕なんてありゃしないのです。

さあ、夏休みもあとわずか。
8月が終わると、2学期が始まります。

いろんな状態の子が、登校します。
授業よりも先にやることがありそうです。
そして、十分にそこをサポートすると、子どもは元気になって、自ら学び始めます。大人もまったく同じですよ。心と気持ちがサポートされて、自分はこれで大丈夫だ!と思うことができたら、力を発揮したくなるのですし、人の役に立って、笑顔が見られることが喜びになるのですね。

何よりも、無事故で、教室に集まれたことを一日中、喜びあいたいと思うね。

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「◯◯◯市って、世界遺産なの?」の違和感

私が暮らしている市は、観光地であります。

したがって、夏休みにコンビニに行くと、他府県のナンバーをつけた車がたくさんある。
そして明らかに観光客だなと思われる服装やスタイルをした人々に出会う。
良いことであります。経営者も張り切っているでしょう。

コンビニだけでなく、大きなスーパーに行ってもそうです。駐車場に大きなキャンピングカーが止まっていました。
中から中学生らしい子が出てきて、慣れた様子で、お母さんと買い物です。遅れて下の子が出てきて、この男の子は、小学校の高学年ぽかったです。教員は見ただけで何年生位だなとまで考えてしまうので、これは職業病ですね。

その男の子がですね、衝撃的な発言をしたわけです。私はたまたま、です。聞く気はないんだけど、たまたま隣に駐車しちまったもんで、耳に入って来ちゃいました。
それが、タイトルのようなセリフだったわけ。

「お母さん、ここって、世界遺産なの?」

これは面白いですね。
もしかしたら、キャンピングカーで移動しているような家族なので、あちこち、世界遺産を訪ね歩いたことがあるのかもしれません。
さらに言うと、観光地でありまして、夏休みには特有の活気を呈しています。他府県から来たと思われる自動車がたくさんあります。関西じゃないのに関西弁をが聞こえてくることも。
そんな雰囲気を敏感に察して、その男の子は、お母さんに聞いてみたくなったんでしょう。

私は最初それを聞いて、世界遺産だから観光するってあるのかなと疑問が湧いた。

世界遺産に登録されようがされまいが、そんなお墨付きのようなものとは無関係に、人類の営みはそれぞれ価値があります。
世界遺産に登録された途端に、価値が跳ね上がるようなものではありません。
私が住んでいる市には、古代から人が住んでいた旧跡が残されております。どうやら縄文時代には人がいたらしい。人が住んでいる以上、そこには必死の営みがあり、生きるための努力があり、人々が協力してきた証が残されております。それらの価値は、世界遺産に登録されようが、ユネスコが何を言おうが、政府が何を言おうが、そんなこととは、無関係に独立してあるわけです。

富士山が文化遺産登録された時、テレビで万歳を叫ぶ政府関係者が映りましたが、はて、妙だなと思いましたね。コレ、なんのバンザイ?
テンションが凄くて、凄みというか、ある種の狂気さえ感じました。
富士山の文化的な価値は、政府が決めたり、ユネスコが決めたりするものではないのですがネ。

まあ、それでも一般的に、世の中の人が、世界遺産として話題になったときに興味を持つ、普通にそういうことってあるんだろうなと思います。世界遺産と書かれたハンドブックも売られていますし、世界遺産に認定されたと言う話を聞いて、興味が湧いて調べたくなったと言う事はあるんでしょう。

ハイ、そこくらいでちょうどいいです。
そこくらいまでで、充分なんです。


しかし、ワタスの高校の同級生が当時のツイートでつぶやいてましたが、日本ほど世界遺産登録を大々的に政府関係者が喜んだりニュース報道したりしてありがたがる国は見たことないと言ってました。他の国ではニュースにすらならないらしい。
今、イタリアと中国が多いそうです。世界遺産の登録数が。まぁ歴史のある国ですから。

で、彼が言うにはその2つに差ができてきているそうです。それは何かと言うと、イタリアは、だんだんともう登録に飽きてきたのか、もう登録なんてしなくていいよと言う自治体が増えてきているそうです。古代の遺跡だから登録はするが、登録をすると、守る義務が生じ、自治体としてはそれはなかなかの負担になるとの事で。

しかし、中国は割と真剣に報道もし、政府関係者が出席するそうです。つまり国威発揚、ですね。世界一を取りに来てるわけです。オリンピックの金メダルの数のように。

モロ、政治なわけ。
政治的に利用価値があるとみなされているわけです。
政治家がやろうとしてるだけなんです。地元はそうでもない。むしろ、傍迷惑だなと感じていたりします。
中国は、「中国すごい」を、言いたい。
イタリアは、別にそんなこと言わなくても良い。
この辺、ちょっとした趣味の違いなんですね。

佐渡の金山が、世界遺産に認定されたとき、岸田首相が首相官邸のホームページでメッセージを出したとニュース報道で知りました。この時岸田首相が、そのメッセージにほとんど意味のないデマを加えていたために、社会科の先生の間では少しだけ話題になりました。

それは、
「江戸時代初期に手工業で純度の高い金を精錬していたわが国の金山は、当時、世界で算出される金の量のうち1割を算出していたと言われています」
という言葉で、アカデミックな大学教授や専門家たちは、「1割って、誰が言うたの?」と、あっけにとられたそうで。
当時の産出量は、なにしろ16、17世紀のことなので、世界の生産産出量を計算している学者が当時はいなかったのです。分母がわからない。それはアカデミックに合理的に考える人たちにとっては常識のこと。

ところが、スピーチの元になった文化庁の資料には「1割」って出てきてしまうわけ。そのわけのわからない、根拠のないデマの数字が。

数字を言うと迫力が出る。日本スゴイ、が言いたくてたまらない当時の岸田首相にとって、世界の1割を算出したんですよ!ということでの【国威発揚】が、欲しかったのでしょう。喉から手が出るほど。

つまり、世界遺産と言うのは、政治的に作られている側面があるということです。

でも、別にユネスコは1割も算出しているから凄いからだから、世界遺産登録したわけではない。そこが1割だろうが、0.5割だろうが、3割だろうが、そんな数字とは無関係に価値があると判断しているわけです。だから岸田首相は言わなくても良いことを言ったわけ。言わなくてもいいのに言いたくてたまらなかったと言うところに、何かしらの狂気を感じるわけです。

日本すごいと言いたくなってしまうのはどうしてでしょう?

事実、実際の人々の営みの価値と言うものは、権威とは無関係に価値があるのです。
国が言及しようがしまいが、人間と言うのには価値があるんですよね。生まれただけで価値があるんです。命ですから。

そして人々が集団になって協力し合うのは誰かがそれに価値を認めたから、急に価値が出てくるわけではなく、誰かがそれはすごいとかすごくないとか立派だとか評価する前から価値があるわけです。評価されて、初めて価値が出てくるわけではなく、評価の前に既に価値があるわけです。

だんだんと教員向けの話になってきましたね。
そうです、通知表は価値をつけますが、あるいはつけたように見えますが、算数の欄に2重丸を記入する前から、すでに価値があるんです。我々教員がそこにを記入した書き入れたその瞬間に、価値が生まれるわけではない。

世界遺産に登録しようが、しまいが、文化的な価値はあるわけです。考えてみたら当たり前ですね。でも、多くの人は、日本すごいと誰かが言ってくれて、初めて日本には価値が出てくるんだと勘違いをしやすいんです。日本すごいと言われようが言われまいが、誰もそんなこと言わなくても価値があるんです。多くの人はそのことを知っているので、別に日本凄いと他国に言われなくても、あるいは自分自身がそれを連呼しなくても価値かあると知ってます。

しかし、中にはこういうタイプの人がいます。
「日本すごいを言わないと価値がなくなっちゃう。日本すごいと言わないのは、自虐なんだ」

いや、別に日本すごいを言わないのは自虐ではありません。

日本すごい、と、誰かに言ってほしい心象とは、何でしょうか?

報われなかった人が「日本すごい」という言葉に惹かれる心理は、いくつかの要因が絡み合って形成されていると考えられます。

「自分は価値がない」「社会から認められていない」と感じている点。

   人は誰しもこのような気分になる事はあります。誰だって。
そして、このような時、人は「自分自身」ではなく、「自分が所属する大きな集団」に価値を見出すことで、失われた自己肯定感を補おうとします。国家(=日本)という大きな存在を「素晴らしい」と賛美することで、その一員である自分もまた「素晴らしい」という感覚を得られるのです。これは、個人の失敗や不遇を、「日本人全体」の成功や偉大さで覆い隠そうとする心理です。これは誰でも起こり得ることなんです。

   報われなかった自分の人生を直接肯定することは難しい。そこで、自分の不満や挫折を、国家という対象に投影し、その国家の偉大さを賛美することで、間接的に自分自身の価値を代償しようとします。
   「私個人は成功しなかったが、私が所属する国はこんなにすごい。だから私自身も決して報われなかったわけではない」という心の安定を求めるのです。

   「日本すごい」という言説は、しばしば日本の歴史や文化の美点だけを切り取って提示します。これは、現実の厳しい社会や、自分の報われなかった境遇から目をそらすための、一種の「心理的な現実逃避」として機能します。

これらの心理的メカニズムは、報われなかった個人が、失われた自己肯定感を回復させ、社会への不満を解消し、現実から目をそらすために、「日本すごい」という言葉に強く惹かれる理由を説明しています。それは、自分自身を直接肯定することが困難な時に、国家という大きな枠組みを通して自分を肯定しようとする、切実な心の動きだと言えるでしょう。

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世間の考える、理想の先生像は


勤務開始2時間前6時に登校、教室整備、授業準備、早く登校する児童対応。朝の会は児童の心を打つ話からスタート。給食指導、アレルギー対応も抜かりなし。

分かりやすい授業は児童を引きつけ、机間巡視や発問も的確。自作の授業プリント、各テストも児童の理解進捗度を測れる内容。児童の学力は向上し、採点・評価も適切で早い。放課後も個別相談、遅れがちな児童の学習支援。

いじめ対応も完璧。激しく教員を叱責し、責める保護者に対しても冷静に対応。いじめた側、いじめられた側の親子とも円満解決。

日々の指導も公平、ケガやトラブル対応も完璧。

会議は適切な発言、管理職もうなる内容。運動会など行事も中心で企画運営。

児童との関わり方も良く、クラスの児童は笑顔が絶えない。不登校児童も勤務時間外の家庭訪問・家庭連絡も含め、適切に対応。少しずつ登校日数が増え、40人全員が教室に揃う。

これが、理想の先生です。
この境地をめざし、日々の鍛錬です。

決してムリだとは思わない。
しかし、日本中のすべての学校がそうなるには、実現まで、あと300年かかる。

しかし、たった一つの工夫で、これがただちに実現します。

わたしはその奇跡のアイデアを知ってます。

たった一つの工夫。
それは、ずばり教室の人数を最大20人までとして、さらにどの教室にも個々の副担任を配置するのです。1組にはA先生、2組にはB先生と。つまり、単純に教師の数を倍にする、ということですね。
子どもの人数に上限を設けてかつ、教師を倍に増やす。これらを同時にやるだけで、夢が実現しますゾ!

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ヒトラーの「わが闘争」の論理的破綻

私のブログを読んだ方が、我が闘争の論理的破綻ってなんですか?
と、質問してこられたので。

というか、質問してきた人は、とっても身近な人なのですが。

ヒトラーは、我が闘争で、なぜユダヤ人を差別すべきかについて書いております。


ヒトラーは『我が闘争』の中で、アーリア人とユダヤ人の結婚を避けるべきだと強く主張していますが、その説明は「論理的」というよりは、彼の人種主義的なイデオロギーに基づくものです。彼は科学的な根拠や客観的なデータを用いて説明するのではなく、感情的な訴え、疑似科学的な主張、そして歴史的な誤解を交えながら、ユダヤ人をドイツ社会にとっての脅威として描き出しました。

具体的には、彼は以下のような主張を展開しました。

 * アーリア人の人種的純粋性の維持

ヒトラーは、アーリア人が文化創造の担い手であり、人類の進歩の原動力であると信じていました。彼は、アーリア人の「高貴な」特質が、他民族、特に彼が「劣等」と見なしたユダヤ人との混血によって「汚染」されることを恐れました。彼は、人種の混淆が最終的にはアーリア人の文化的・精神的衰退につながると主張しました。

 * ユダヤ人の「劣等性」と「寄生性」

ヒトラーは、ユダヤ人を特定の国家や文化を持たない「寄生的な」民族であり、他国の文化や経済を蝕む存在だと描写しました。彼は、ユダヤ人がドイツ社会に溶け込もうとしているのは、ドイツ民族の「純粋性」を内部から破壊し、最終的にドイツを支配するための陰謀であると主張しました。この「寄生性」という概念は、彼がユダヤ人を社会にとっての「病原菌」や「癌」のように見なしていたことを示しています。

 * 遺伝の法則の誤用

ヒトラーは、ダーウィンの進化論やメンデルの遺伝学を都合よく解釈し、人種間の遺伝的差異が不可逆的であると主張しました。彼は、ユダヤ人との混血は、ユダヤ人の「負の遺伝的特質」がアーリア人に引き継がれることになり、それが子孫に悪影響を及ぼすと説きました。しかし、これは当時の遺伝学の理解を恣意的に歪めたものであり、科学的な根拠はありません。

 * 歴史の歪曲と陰謀論

ヒトラーは、歴史上の様々な出来事を、ユダヤ人が裏で操り、アーリア人(ドイツ人)を弱体化させようとしているという陰謀論の文脈で解釈しました。彼は、ユダヤ人がボルシェビズムや資本主義といった異なるイデオロギーを巧みに利用し、ドイツ国民を分断し、自らの支配を確立しようとしていると主張しました。


要するに、ヒトラーのユダヤ人とアーリア人の結婚を禁じる理由は、科学的な論理に基づいたものではなく、彼が抱いていた人種的な偏見、憎悪、そして妄想的な陰謀論に根ざしたものでした。

彼は、ユダヤ人を「悪」の根源と位置づけ、彼らとの接触、特に結婚がアーリア人の「純粋性」とドイツ国家の「健全性」を脅かすものだと扇動的に説いたのです。

こうしたこともそろそろ令和の子供たちは勉強すべきかもしれませんね。
何故かと言うと、そろそろヒトラーの反省を口にする人たちが少なくなってきており、実際に政治が人を殺すということについて、真剣に考える人たちが減ってきた時代だからです。

参議院選挙が近づきましたが、立候補者のスピーチを文字起こしして検証すべきだと思います。扇動的で人々の感情を熱狂的にさせるスピーチであればあるほど強く疑ってかかるべきだと思います。

それよりも、事務的で論理的で、どのような政治的プロセスを経て、法の改正を行ったり、必要な行政を進めていくか、淡々と面白みもなく、語る候補者の方が、何倍もマシだと思います。

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家庭訪問についての議論

私が神奈川で教員をやっていた時、約20年ほど前ですが、その頃には、まだ家庭訪問がありました。東京でも神奈川でも、家庭訪問は普通に行われていました。
個人情報保護法が叫ばれるようになってから、赤の他人に家の中を覗かれたくないと言う理由で、まず東京都から家庭訪問はなくなりました。

近隣の神奈川県や横浜市などの自治体も相次いでそれに続く感じで、家庭訪問は中止されました。

全国的に家庭訪問は下火になり、消えていく運命かと思われたのですが、いわゆる地方では、まだまだ家庭訪問は続いています。

私の住んでいる地域でも、まだ家庭訪問があります。私自身は家庭訪問には一定の効果があると思っています。
何よりも、親御さんが、人目をはばからずに、自分の子供についての相談をしっかりとすることができること。

学校に来て教室で行う個人懇談もありますね。学校によっては、子供も含めた3者懇談を行うところもあります。

ところが、これは本音が出しにくい。
子供の前では、本音が出せないし、たとえ子供がいない2者懇談の場合であっても、次の時間に廊下に来ておられる別のお母さんがひょっとして聞いているのではないかと思うと、本当のことを伝えにくいと言う親もいるのです。

つまり、家庭訪問は、学校の先生に相談したいことがあるお家の方にとっては、良いチャンスなのですね。

一方、家庭訪問は、お家の人にとっても学校にとってもメリットはありつつ、どうしても学校側にとっては悩みの種になっております。

それは先生たちが家にたどり着けないと言うことです。

Google マップで調べればいいじゃないか、と簡単におっしゃいますよね。
あるいは、ゼンリンの住宅地図があるじゃないか、と。

まずゼンリンの住宅地図は学校には備え付けてありません。ご存知の方も多いと思いますが、あれはめちゃくちゃ値段が高く、学校は貧乏なので買えないのです。

となると、Googleマップで調べれば良いかとなりますが、実はGoogle マップも新しい住所は載っていません。また、細かい番地は、「不明」と表示される割合が高いです。田舎だからかな・・・。

大体、このへんかな、と思うところまでは行けるけれども、お家が2軒隣同士に並んでいる場合、どっちだろうと担任は道路の上で悩むときが多いです。子どもが35人いたら、20人は悩むイメージ。

この時に役立つのがお家の方が出してくださる地図です。
これが役に立ちます。
ポストのある角を曲がるだとか、何とかと言うミシン教室の看板がここに立っていますとか、桜の木があるだとか、水色の壁に沿って歩いていくと、白い壁の家が見えますだとか。

お母さんが書いてくださる地図のわかりやすいことなんの。

ところが、お母さんが忙しくて、お父さんが地図を書いてくださることがあります。お父さんは忙しいので、時間短縮のためにGoogle マップをおうちの家庭用プリンターで印刷してペタっと貼り付ける方もいます。
で、この辺です、と赤い丸がついてる・・・。

お分かりですね、これ何の意味もありません。

Googleのマップなら、担任が握り締めていますから。スマホで見ながら行くんですから。
少なくとも家の近くまではこれでいけるんですから。

担任が躊躇するのは、今目の前にある水色の壁の家の呼び鈴を押して良いのか、ということです。
それともすぐ隣の黄色い壁の家なのか。

細かい番地まで出てこないGoogle マップの場合、担任はある意味、賭けをしなければならない。

一か八か!
黄色か、それとも水色か?

世の中のありとあらゆる地図マップをすべて駆使しても、それらは現在の細かい住宅地図を反映はしていません。
3年位前にできた家ですら、番地を確定できないで、「お探しの番地は不明です」としか表示されないのです。

どこかに表札があれば良いですね。

ご家庭の苗字が表示されていれば、ここで安堵のため息が出て、担任の顔には笑みがこぼれるでしょう。

ところが、昨今、おうちには、表札がありません。

この状態を救うのは、ご家庭のお母さんがお書きになる。詳しい地図や目印です。

ポイント
◯おうちの壁の色を書いてください
◯フェンスがあれば、フェンスの特徴や模様色などを書いてください
◯玄関の横に何かワンポイントになるようなものを置いてください
◯表札があれば、上記のポイントは無視して下さって結構です。そうなんです!表札さえあれば・・・!


しかし、なぜ、今の家には、表札がないのでしょうか?

全国民が、表札を必ず出しているのであれば、すべての悩みは消えますね。

おそらく入学式の時に保護者が受け取るであろうおうちの地図を書いてくださいと言う用紙は、おうちに表札があるのであれば、配られなくても大丈夫だと思います。

現代の日本では、表札はなぜ不人気なのでしょうな。どなたか、考察をお願いします。

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トランプ大帝国とゼレンスキー大統領

前回の記事で、学校から減らすものなくすもの、そして増やすもののリストをあげた。

そして、その最後に
【始めたり増やしたりするのは簡単だが、終わらせたりやめたりするのはめちゃくちゃ難しい】
と言うことを書いた。

すると、このことについて、私に直接メッセージくれた読者の方がいた。
確かに、そう思う、・・・と。
現にヨーロッパの戦争は、いまだに集結していないではないか、と・・・。

ホントですわ・・・。ゼレンスキーさんよ・・・。

人間関係のことを考えると、結婚もそうだろうと思う。
恋人同士になるのは、割と簡単で、その気になればすぐだ。
結婚するのも簡単だろう。その気になればスムーズなことが多い。

しかし、これを解消するのが難しい。
別れると言う事は、人間は非常に苦手なのだ。付き合い始めるのは簡単だが、それをうまく止めることが難しいと感じる人が多いんだろう。
昭和の歌謡曲だけではなく、万葉集の昔から、人は、過去に生きているために、未練もあろうし、寂しさもあろうし、あの時、あーすればよかったと言う後悔もあるから、やっぱりやめたくない、終わらせたくないと願うのが人間のようである。

子供の喧嘩も見ていると、あっという間に始まってしまう。
喧嘩を始めるのは超簡単なのだ。
これは、人間の認知能力が非常にもともと狭いもので、ある方向からしか物事を見られないために誤解を生じやすいから、致し方ない面もある。

しかし、人間がこれだけ2000年以上も、文明を発達させているのに、喧嘩を止める方法と言うのは、未だ開発されていないところを見ると、多分、私を含めてホモサピエンスには、そのことを思いつく基盤がないのだろうと思う。

基盤がないのだから、要するに、そんな事は、今の人間たちには無理なのだろうとさえ思う。

ちなみに、その方法を、今の時代に誰かが唱え始めたとしても、全く共感はされない。なぜなら、荒唐無稽で、そんなのは無理だと言う概念に違いないからだ。



さて、ウクライナの戦争は、トランプ大統領になってから、なんだか方向が変わってきた気がする。
特に、トランプ大統領がプーチンと直接話し合い、その場にゼレンスキーを呼ばなかったところを見ると、急転直下、物事が進むような気がする。

トランプは、セレンスキーやウクライナのことを考えず、どうやら戦争を終わらせようとしている。
おそらくプーチンにもそのまま占領した領地を認めてしまうのではないか。

セレンスキーさんは、亡命するか、どこかに身を隠すことになる。今やトランプの目の上のたんこぶだからね。

ゼレンスキーを含めた政府首脳がスイスに亡命し、ウクライナの戦争は、トランプの鶴の一声で終わってしまうのではないか。

領土問題はそのままだ。
ヨーロッパも文句は言うまい。誰もプーチンと渡り合える人がいないからだ。

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仮にそうなった場合の次の展開はどうか。

これはアメリカの独走が始まる。
中国はそれに対抗したいだろうが、アメリカは中国とどこまでも様々なチャンネルで脅したり懐柔したり譲歩したり責めたりしながら、なんとか付き合っていくことだろう。
中国政府は恐怖支配をますます強め、監視を増やして1984をさらに進めるだろう。見せかけの民主主義と共に。

人々の考えは、おそらく二分されていく。トランプのように、【即断する強烈な支配】を好む層と、【ゆっくりで良いから弱者に寄り添う】層と。

そして、どちらにも共通する欠点が、

一旦始めた喧嘩を止める方法が見つからない

と言う点である。

ところが、小学校のクラスには喧嘩を止める方法が実は存在しています。
社会学者も、憲法学者も、政治国際学者も誰も注目しないんですが、実は足元に解決方法はあります。

それがお互いに諦めるということです。

小学生、特に低学年はすぐに言いますよ。
「ごめんね」
「いいよ」

特に年配の先生はそれを聞いてぎょっとします。

え?
いいの?
それで許しちゃうの?
ほんとにいいの?

・・・ってね。

夕方になって、保護者にそれを電話で伝えると、

「え?子供は許しても私が許しません!絶対許せないです!弁償してもらっても絶対許しません!」

と、保護者からは文句が出ますけどね。

体育館にスタバがあったら良い件

シャーペンは小学校では禁止されているところが多い。
わたしは自分が6年生の担任のとき、学年の先生たちと相談して、シャーペンをOKにしたことがある。
でも、それは毎回できるかというとそうではなく、子どもを観察して
「だいじょうぶだ、いける!」
と判断したときにだけ、OKにした。

保護者の雰囲気もある。
シャーペンを使わせてほしい、という願いを多くの親が伝えてきたときに、それを許可するようにした。

実際にはどっちでも良いのだが、実は小学校ではシャープペンシルで事故があったらしく、年配の先生たちはみんなそのことを知っていて、シャーペンは小学校ではナシだよね、ということにほとんどの先生が納得している。

保護者はあまりそういった情報が得られないために、

「先生たちはあたまでっかちだ。なぜいかんのだ」

となることもあるかもしれないが、保護者でもスタンスや考えがいろいろとちがっており、なにか先生たちならではの考えがあるんだろう、こまかくはしらんけど、という雰囲気の方もいる。というか、そういう保護者が多いのだと感じる。

結論としてはどっちでもよく、先生たちも本当のところはどっちでもええと思っている。

禁止にしたのは事故があったことが原因だそうだ。
ずいぶん昔に聞いたことだから、その事故も昔の話なのだろう。
電源コンセントに向けて、二本のシャープの芯をそれぞれ片手の指でつまんで、それをコンセントの穴に同時にぶっさす、というとんでもない事件がかなり昔にあったようです。
その後の調査が無いために、もしかしたら最近にもそういうことがあったのかもしれませんが、なかなかニュースでは聞きませんから、あまり無いのかもしれないし、ただニュースとして出ないだけで実際には、つい最近だって感電した子がいるかもしれないですね。

つまるところ、学校の先生たちが本当なら保護者にも伝えて良さそうな情報というのは、かなりたくさんある。
でも、それをいちいち、保護者に伝えていない場合もある。

子どもに「そういうことをすると感電する危険性があるので、やめましょう」とは言わない。
なぜかは大人はわかると思うけど、要するにそれがやぶへびになってしまい、

「感電ってどんなのだろう?シャープの芯でやれるんか!やってみよう」

と考える子が少なくないからでしょうね。

シャーペンの芯を一本ずつていねいにコンセントにぶっさすなんて、想像もしない子が、それを教えてもらうとやりたくなる、というのは、世間的には広く理解されることだろうと思います。

なので、子どもが先生に

「先生!なんでシャープは禁止なの?」

と聞いても、多くの先生は

「鉛筆の方が小学生に向いてます」

とか、なんとなく丸め込もうとする。
ホントのこと教えたら、この中の200人に1人くらい感電するやろ、と、ホントは先生たちは心の底でつぶやいてます。

年末で、今もなぜか窓の外で救急車のピーポーピーポーという音が鳴り響いており、こういう正月とかに事故って起きるんだよな、と思いながら、ふと思いついた記事を書いております。

こたつでも事故が起きるし、灯油ストーブで洗濯物を乾かす、というのは事故になりやすい。
酒を飲んで寝てしまったら、一酸化炭素中毒で意識が遠のいて危機一髪・・・、というのもよく聞く。

小学校は事故が起きやすい。なんてったって、生まれてから6年しか経ってない子が、たくさん遊んでる空間ですからね。先生たちだって職員室に授業の準備をしに戻るし、ずっと見張っているわけではない。休み時間とかに、体育館や校庭を、つきっきりで見張っている大人は居ないわけで。

そうすると、だんだんと禁止事項も増えちゃう。

わたしは禁止事項は減らして、そのかわりに小学校にもっと大人の目があるようにすればいいと思うね。コメダ、という喫茶店があるが、あれを校庭の端っこにつくればいい。あとはサイゼリヤ。
この2つが校庭の南北にある。また、スターバックスを体育館の隅っこにスタンド形式で配置すればいいだけだ。そうすれば、大人の目は100倍くらいに増える。

スタバのカウンターには救急箱もおいてほしい。そうすれば、スタバにコーヒーを飲みに来た大人に向かって、

「おばちゃん、ひざ小僧がすりむけちゃったので、サビオを貼ってください」

といえる。

大人はふつうに対応すればいい。決して

「わたしは先生じゃありませんから!」

とか、冷たいことを言わないようにしてほしい。

いいアイデアだと思うけどなあ。

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ダメは、駄目なのか?という問題

20代のころから、良いものか良い、と言うわけでは無い、という命題に、何とも言えないユニークな楽しさと面白さを感じていました。

ある時、知り合いが30名ほど集まり、良いものが良いのかどうか、と言うことについて、12時間ほど話し合ったことがあります。これは今でも覚えている位ですから、相当楽しかった思い出です。

目を閉じても、その時の会話の雰囲気や、目の前にいた人の表情なども浮かんできて、これは死ぬまでの生涯の楽しみになるだろうと思っています。

いわゆる良いものは良いのでしょう。それには理由が様々あり、Aと言う面から見ればとても良いでしょうし、それはもしかしたらBと言う側面からもCと言う斜め上の角度から見てもとても良いものなのかもしれません。だからといって、今、それは不必要であり、かえってそれがあることで、弊害まで生じると言うことがあるのです。

しかし、大概の場合、それは良いものですし、価値が高く、素晴らしいものなので、多くの人は、それを不要だと言われてしまうことに対して、えっ!と驚くのです。

まさか、こんな良いものをいらないだなんて!

やせ我慢をしているのか、格好をつけているのか、何か別に邪な理由があるのか、なんでこんな良いものを良いと言わないのだろうかと腹を立てる人までいます。

ポルシェか軽トラか、みたいなことです。

畑で草刈りや畝づくりをするために、クワやら鎌やら袋などを詰めていくときに、ポルシェは不便すぎるし、オイル代や部品代や車検代も高すぎて、はっきり言って全く不要なのだ、ということです。馬鹿だなぁ、ポルシェがあれば良いんだよ、という人もいます。ポルシェを売って、軽トラを20台分買えるじゃないか。

そういうことでは無いのですね。ポルシェを売ろうと言うことでは無いのです。ポルシェを売れば、金になるとか、そういうことではないのです。何が必要か、何がこの場合良いかと言うと、ポルシェではなく、軽トラだと言うことなのです。

そういう風に考えていくと、他の人が何をしているかと言う事について、あれは良いあれは悪い、と言う事は一切言えないのではないかと言うことなのです。

その人が、軽トラを購入しようとするのを見て、絶対ポルシェの方がいいんだし、あなたはポルシェを買った方が良い、とは言えないということです。

たとえ口に出して言わないでも、心の中で、ポルシェの方がいいのにな、と思っていることもありますね。
SNSで、ポルシェのほうがいいのに、あの人ったら軽トラ買ってるよw、とつぶやくパターンもあります。

こう考えてみると、何が良いと言うのはあるのかどうか?もしかしたら「良い」と言うものは、ただの言葉だけであって、実体のない言葉概念なのかもしれませんね。だって、その「良い」は、決して「良く」は無いのですから。「良い」には、意味はそれほどあるわけではなく、人々が想像するよりかは、ほとんど意味が無いのです。

しかし、我々は、人間生活をおくりながら、しばしば良いという言葉を使います。このほうがいいよね、と。

教室でも「良い」をよく使います。

そろそろ教室が暑くなってきたので、教室の天井にくっついている扇風機を使うことがあります。

しかし、扇風機を回して欲しくない子も中にはいます。

この場合は、扇風機をつけるのが良いとはなりにくいです。

最終的には、その子は、クラスのみんなに問いかけることになります。

「ねぇ、みんな!教室の中、暑いから扇風機をつけようと思うんだけど、みんなどうかなぁ」

この場合は「良い」からつける、のではありません。扇風機が「良い」から回そうでは無いのですね。

こうしてみると、あまり良いとか悪いと言う言葉には、やはり、実態というか、力というか効力というか、そういう価値はほとんどないのかなと言う気がします。

人間はもしかしたらこの良い良くないと言う言葉に依存したり、頼りすぎているのかもしれません。
良い良くないを使わない方が、子供たちの生活はうんと楽になります。

教室で使うべき言葉は次の3つです。
◯私は何々したい。
◯私は何々してほしい。
◯私は嬉しい(悲しい)。

良い良くないを使わないようになると、子供たち同士の喧嘩や諍い、トラブルは10分の1程度に減っていきます。

これは、子供たち同士で、このような顕著な効果があるのですから、大人同士も、あるいは組織同士、国同士でも行えば良いのにと時々思います。

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出来ない、やれない、の価値をどう見るか

学校と言う教育機関にいるために、どの子もできるようにしていくと言うことが教師の使命である。そのために研修も受けるし、個人的な勉強も行うし、もうほとんどすべてのエネルギーをそこに費やしてゆく。

ただ、一方で、いわゆるできない子、やれない子について、教員がそれをだめなことと認識してしまうと、そう思ったことが顔に出てしまう。
会社では、上司がいかに腹を立てても良いし、パワハラもあるようだし、できない社員に対して、全くお前はどうしようもないなというのを表情に出しても良いのでありましょう。古い話になるが、映画の釣りバカ日誌などはそういう場面もありましたね。

しかし、その表情に出すのは、小学校では絶対にしてはいけない。逆上がりが失敗した子に、お前はダメだなぁと言う表情を浮かべては絶対にいけない。

次に、表情にさえ出さなければ思っても良いのかと言う問題が生じる。
このことについて、文献を調べてみたが、結局、唐十郎の演劇論や、舞台芸術、俳優論などに行き着いた。

ルビーの指環で大ヒットした寺尾聰のお父さんである
宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年大正3年〉9月27日 - 1988年昭和63年〉1月9日
が、究極の演劇理論を口にしている。
それは、思えば出る、と言うたった5文字のことでありまして、すべての演劇は、このたった5文字に帰結すると言うので、まぁ、深い言葉であります。

例えば、価値がないなぁと思ってしまうと、やはりどんなものを見ても、それは顔に出てくると言うのであります。
逆に言うと、すげえなぁとも思ったなら、どんなに大したことがない、という表情を浮かべようとしても、どこかにすげえなぁと言うものがにじみ出てくると言うのです。宇野重吉はすごいことを言いますね。

教師に置き換えてみると、教師は、できない子に対して、なんだできないなぁ、大した事ないなぁ、だめだなぁと思ってはいけないと言うのです。

教師はできるようになってほしいと願いを持って子供に接しますが、その子がやってみて、できなかったとしても、だから、価値がないとは思わないのです。

その頑張ろうとしている態度や、あるいは頑張ろうとしていなくても、興味関心を少しでも振り分けたのなら、あるいは、興味関心を少しも持たずとも、学習対象に対して、ちらりとでも見たのなら、あるいはちらりと見ないで、無視したとしても、学校に来たのであれば、あるいは、学校に来なくても、学校に来ようと言う気持ちを、少しでも持ったのなら、あるいは、学校に来ようなど、微塵にも思わなくても、学校から電話をしたときに、受話器を取って反応してくれたら、それで大満足をするのが教師と言う生き物なのです。

これを会社の経営者に、同じ気持ちになれと言っても無理でしょう。資本主義なのですからあり得ません。

つまり、教員は、資本主義には生きていないのです。これは、宿命であり、運命なのですから、職業として仕方がないことなのです。

この資本主義の世の中で、資本主義の中に組み込まれていない職業があったということなのです。

やばいですね。しかし、私たちはそれを引き受けなければいけませんし、受容しなければならないのです。

問題は、文科省の偉い人だけでなく、政治家がそのことをわかってないことですな。いいえ、ちゃんと理解している方もたくさんいますから安心してください。

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松本、アウトー!

ダウンタウンの松本人志氏が窮地に立っている。
小生、テレビも見ないしネットも天気予報とブログと教育系の情報収集だけだから、よくわかっていなかったが、この連休に暇があったこともあり、このたびの松本人志事件を、教員の立場からある程度しらべ、考えてみた。

これはどういう問題かというと、つまるところは、人間とはナニカ、ということ。
「女性の尊厳」をどう考えるか、ということになる。

 一連の記事の通りだとすれば、たしかに松本人志氏の飲み方は品が無い。
大人だから酒の飲み方も遊び方も人それぞれ、いろんな考えや行動がある。
ところが、松本人志氏は、いわゆる女遊びというやつでも、相手の気持ちを一切考えていないらしく、男が聞いても非常にたちがわるいと感じる。

後輩たちの「システム」、ということが記事にはあるらしく、このニュースを検索して、ホウボウのマスコミのWEBニュースを見ていると、この言葉が後半すごくヒットしている。

「システム?なんじゃそりゃ?」

よく見てみると、女性を騙すために、流れというのか、やり方というのか、さそいこむためのシナリオがばっちりできているようなことらしい。

それがすごく完成された感のあるもので、記事によってはこの方法で女性をだますのを十年以上?踏襲していたって。

システム、というくらいだから、もしかしたらもっと古くから、よしもと芸人の間で続いていたものかもしれない。

記事にある通り、松本人志氏が自分の相手をいわゆる一般の方(しろうと?)にこだわっていたとするのならば、これは松本人志氏は、自分で自分の首をしめていた、ということになるかと思う。

女性によって、価値観やポリシーは違うんだ、といえども、だからといって馬鹿にするような、人として相手を大切にしないような感覚をもっていたとするならば、トラブルになって当たり前だと思う。

今回のことは、松本氏が自分で自分にふりかけた災難というべき。

それに、最初に「事実無根、訴える」と、強硬に怒りをもって応じた動きをした。これはマスコミ各紙はもちろん、いろいろな芸能関係のコメンテーターもみんな「まちがい」としていたけど、そうだと思う。逆ギレしたような態度、こんな態度が世間に受け入れられるはずがない。傷ついた相手がいるということを、ちっとも感知しない、というような態度。

こんなに強硬な姿勢をみせたら、アウトに決まっている。

われわれは教員なので、今回のことをどう教育に結びつけるかと考える。
こういうことをすぐに思考するのは、教員としての職業病であるが、これまでの長い経験で、世間で騒がれたことは数ヶ月で現場におりてきて、

「◯◯教育」

という名前で、「指導せよ」とおりてくるもの。

たとえば東日本大震災のあとは、防災教育が大流行した。
流行ってのががそもそもおかしいわけで、命を守る授業はぜったいに必要。しかし、それまでは津波からどう逃げるかなんて授業は、海岸沿いの小学校だけが真剣にやっていたのを、全国の全小学生相手にやることになった。その子が生涯にわたり、津波の恐ろしさを知るため、でありますね。

また、メールがふつうの世の中になったころから、郵政省の「ゆうびん教育、手紙教育」というのが大流行し、事務室になんだか教材まで送られてくる。強制ではないのだろうが、与党政府はさせたがっている、ということらしい。暑中見舞いの付録が付いていたり、年賀状を書きましょう、日本のこころです、日本の美意識はスゴイ、みたいなお手紙がついている。

今度、新札発行がありますね。御名答、金融教育、というパンフレットも送られてきますですよ、小学校には!発行元は金融庁です。新札の意味とか、お金に関するさまざまな知識を子ども時代に学んでほしい、ですって。すごいですよね。つまり、小学校の学校教育の中では通常、予定されていないことでも、世間で話題になったら子ども時代に教えなきゃ、と思うらしい。

だから教師は、世間の出来事に敏感なんですよ。世間で話題になった途端、自分が授業しないといけなくなる。
性のテーマもふつうにやるし、食育もやるし、コロナウイルスの感染防止教育もやりますよ。昔はエイズもやったし、今はドラッグ被害防止教育もやりますよ。通常の授業時間のほかに、くわえて、やることも多いです。なにか通常の授業時間を削って。
分かってます。もちろん、やるべきことを削ってはいけないですよ。(でもやるべきことを削らなきゃ、できないんですよ。どんどん増えているんですから。減らしましょう、といってくれる人はいないが、増やしましょう、という人はたくさんいるし、その証拠に教材は毎年増えているんですよ?わかりますかね?)

だから、おそらく、わたしはこの松本人志の問題も、なにかしら形を変えて、現場に降りてくる気がする。今日、職場でもそんな話題がでました。みんな、予感しているんですよ、ベテラン勢は。

さて、どんな教材かなあ。

たぶん、脅迫防止教育とか、立場利用マウント防止教育とか、パワハラ防止教育とか、そういったたぐいでしょうなあ。教科書とか指導書とかワークブックとか、増えそうやなあ。

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小学校教師がどうしても哲学的になる理由(なだいなださん その2)

小学生の担任をやっていると、どうして哲学的になるのでしょう。
6年生の担任になり、社会科の授業をすると、なおさら、です。
なぜか。
正面切って、太平洋戦争を話題にしなければならなくなるからです。

ふつうの日本人が、毎年のように、太平洋戦争とはナニカ?ということを、考えるでしょうか?
小学校6年の担任は、考えるのですヨ。

そして、それを、インプットだけでなく、アウトプットせねばならない。
それも、子どもだけでなく、その背後にいる大人に向けても!!

意味がわかりますでしょうか。
子どもたちは、家に帰って、親に話すのですよ。今日、こんな勉強をしたって。
そしたら、次の日、教室のわたしの小さな机の上に、連絡帳が乗っております。

開いてみると、おじいちゃんが書いています。
「太平洋戦争のことを孫が習ったとききました・・・」

おじいちゃんは、太平洋戦争にたいして、言いたいことがあるのですね。
だから、思わず、孫の担任の先生に、なにか言いたくなるのです。
わかります。だって、いま、太平洋戦争を話題にして、話せる相手が、街のどこを探したらいるのでしょう?チャンスは今!そうだ、担任の先生に、孫の連絡帳をつかって話そう!

わたしは、子どもに向けてだけでなく、世の中に対して話す気分になる。
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先生たちはそれがこわいから、もっとも賢明なやり方をします。
簡単ですよ。教科書を読んで、おしまい。
余計なことは何もやらない。活動しない。
あるいは、NHKの動画をみせて、

「感想をいいましょう」

これでOKです。
わたしもこうします。

しかし、質問が出てくるのですね。
なぜかというと、わかりにくいから。
だって、なんで戦争をするのか、人を殺すのか、子どもはわからないのです。

「なんで殺すだ?」

こう、子どもが、目をくりくりさせて、ちょっと眉をひそめた風で、問うてくるのです。
その瞬間、哲学がなければ、担任は倒れてしまいます。

これが、小学校教師がどうしても哲学的になる理由です。


以下、なださんの著作より抜粋。

「人間はどうして自己の想像力を失っていくのでしょう。そのひとつが、組織の中への埋没です。(中略)水俣病の場合でも、町や工場の人々は、残酷ともいうべき態度をとりました。もちろん、そこに自分たちの生活がかかっているという意識があるでしょう。しかし、生活がかかっていると思うことが、どれほど私たちを残酷にさせるか、残酷であることを許してしまうかを、考えねばなりません。そこに、組織に属してしまう、個の特性を失ってしまうことの、残酷のはじまりがあります。(中略)組織の中に入った人間は想像力から遠ざかり、現実との接触を失っていきます。」

太平洋戦争のころ、日本人全体が、こういう状況下におりました。

「たとえば、ある事件が起こります。一人は、「それがどうした、おれの知ったことか」とつぶやき、もう一人は「なんだと。それは本当か。ケシカラン」とつぶやきます。それは、その事件に対する、二種類の反応といえますが、それはこの二人の無意識の構造によって、当然みちびかれるべき反応と考えてもよいでしょう。フランス人たちと日常生活をともにしていると、どれだけ「それがどうした。おれの知ったことか」というつぶやきを耳にすることでしょう。そして、対照的に私たち日本人の日常生活では、どれだけしばしばケシカランというつぶやきがもれるのを耳にすることでしょう。」


「戦前の軍国主義への傾斜は、どうかすると「それがどうした」的無関心が日本が戦争に進むことを避けさせなかったといわれてきました。 しかし、私はそうではなく、ケシカラニズム的な民衆の参加が、そこに積極的になだれこませたと考えるのです。戦争の間、同じような服装をさせ、同じように考えさせたものは、平常なものからとびだした、型をはずれたものをケシカルといい興味をいだいた精神を捨て、それをケシカランものとして否定した精神だったのです。」


「しかし、このケシカラニズムと理性的社会正義の感覚が混同されてはなりません。ケシカラニズムは、感情的正義であるといえるでしょう。(中略)ケシカラニズムは、民衆運動の原点となるものといえるでしょう。しかし、それだからこそ、ケシカラニズムの大きな欠陥を考えねばならない。(中略)それは、感覚的正義であり瞬間的正義であり、純粋正義であるので、民衆運動の原点だと思います。しかし、同時に、それこそが、私たちをファシズムへ参加させる危険をもつものでもあるのです。過去において、ケシカラニズム的な日常感覚が、ナチズムにどれだけ味方したかを考えれば、これからもよほど注意しなければならないでしょう。」


「閉鎖した集団は、どこの国にも存在していますが、その集団と個人のかかわりあいの深さは、国によって変わります。それは実際には、集団に属する個人の意識にかかわるといっていいでしょう。そして、作られた集団の閉鎖性は、集団がそれを構成する個人のプライベートな生活を、どこまで縛るかによってはかることができます。(中略)このような閉鎖性の強い集団が存在すれば、はげしい利益の対立の中で、個人も集団とともに(一般社会から)孤立するばかりです。そして、この孤立からぬけだすために、日の丸にたよることになるのです。あるいは国家、国益、伝統、などという言葉を持ちだすのです。」


ロシアもイスラエルも、どちらも戦争を開始し、今なお続いています。
経済や情報などの観点からすると、世界中が戦争をしている、と言う人さえいます。
悲観的になってしまいますが、一方で、ルトガー・ブレグマンのような、人類の明るい展望を語る学者もいます。

今、いちばん日本人に必要なのは、哲学、だと思うようになりました。
大学も高校も、入試に「哲学」を取り入れたらいいのに。
そしたら、小学校から、哲学をはじめることでしょう。
いちばん驚くのは、子どもではなくて周りの親とか先生たちだと思いますが、キメツケとか常識とか、ずいぶん薄くなるかも。

下の動画はルトガー・ブレグマンが、なぜ人類の未来は明るいと言えるのかについて話をしています。

なだいなださんの思い出【ガザ地区の中央図書館】

私はなだいなだ氏と一度だけ、お会いしたことがある。
といっても、ちょいとしたイベントでオハナシを伺ったあと、短く「大変勉強になりました。ありがとうございました」と頭を下げただけで、なださんは笑顔で「はいどうも」と言っただけのことだが。


でも、私にとってはなださんと、どうしても人生の間で一瞬だけでいいから触れ合いたかったので、もうこれだけで非常に満足。興奮しながら帰宅した。
なださんは思ったよりは背が低く、私よりも小さいくらいであったが、やはり声はしっかりされていて、オーラというのだろうか、刀をもってまともに打ち込んでも、けっして崩れないくらいの「正面を切れる」芯をお持ちであった。

なださんの著作で、すぐに思い出すのは、「ケシカラニズム」という言葉と、「マスコミの情報は、すべて、◯◯ちゅーことになっておる、と聞け」という忠告です。
これはもう、ベストセラーのなだ先生の著作を読めば分かるので、そちらを読んでください。

さて、なぜ急になだいなだ氏を思い出したかというと、ガザ地区を攻撃しているイスラエル軍が、現地の中央図書館を爆破した、という記事を見たからです。


これで歴史の大切な財産が消えてしまい、人類はたいへんな損害をこうむるわけですが、当然、そんなことをガザ地区を爆破するのに夢中な兵士たちや、イスラエル国家の政治家たちが理解できているはずがありません。
やはり人間というのはどうしようもなく、無恥厚顔の態度がとれる人が、思慮深くて自分はもしかしたら間違っているかもしれない、と熟慮する態度の人を駆逐していくのだろうと思います。

なだいなださんのエッセイの中で、たしか戦争で大切な文化財が焼失することについて触れたところがあり、それを急に思い出したのです。

50歳をすぎると、頭の中に詰め込んだ、ありとあらゆるものがふいに、浮かんでくることがありますね。それも何十年も前の。
おそらく、そのなだいなださんの著作の、その該当箇所も、わたしは高校生の頃に読んでいる。
だから、まさに30年の時を経ているわけ。
しかし、ちゃんと思い出すということは、やはり人間の頭脳というのは、たいしたものだなあと思います。

なださんは、いつ消えるかもしれない、ということを指摘します。本があることに安心してはいけない。いつ廃版になるかわからない。本なんてものはすぐに世の中から消えてしまう。また本棚に本があるからといって、本当に自分を救うかどうか、わからない。なぜかというと、人間はアホなので、いつか戦争が起きてもおかしくないし、その本を持っていたら逮捕されるとか、アメリカの赤狩りのようなことも起きるかもしれない。だから、本当に大事なことは、記憶しておかないといけない、ということでした。

ガザ地区の爆破により、中央図書館の歴史的な財産は消え失せました。
しかし、心ある人々のこころの中に、大切なフレーズ、大事な文章、人間の尊厳をまもる大切な精神は、きっと残っているでしょう。それを信じたい。

ちなみに以下は、なだ氏の名言の数々。

「結婚してからの一日一日は、相手の欠点を一つ一つ発見していく一日である。」
「子どもの愚かさをとがめすぎるから、その分大人が愚かになる」
「なまけものは、哲学を持っているが、働いてばかりいる人間には、哲学がない。」
「正常・異常は相対的なものである」


なかなか辛い言葉ですね。
なださんは、間違った努力を、心の底から軽蔑していました。太平洋戦争時の日本のことですが。
幸福になるために、不幸を選ぶ、というのを、ですね。滅私奉公、というヤツです。
ブラック企業が本格的に話題になる前にお亡くなりになりましたが、今生きていらしたら、おそらく「方向の間違った努力、向いていない努力、意味を追求しすぎて意味がなくなった努力」を一刀両断されたことでしょう。必要なのは、一見無駄にみえる「遊び」です。それは動物には無理で、人類にだけ、許された行為だからですね。いちばん合理的なのが動物です。彼らはすべて個が生き抜くために合理的です。親が子を食うのが動物です。個の存続のために、合理的になりすぎた結果、そういうことも平気になってしまう。マンボウという魚は、産卵した途端、自身の産み終えた卵を口の中にほおばりはじめます。
人間も合理的になりすぎると、野蛮な動物に堕ちるのです。

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政治と経済の失敗は何が原点なのか

自民党が窮地に追い込まれている。
リクルート事件を超える、巨大で組織的な計画性の高い脱税疑獄だそうだ。

安倍さんはどうやら幹事長時代に組織的脱税を知り、やめろ!と指示を出したらしい。しかし首相になったら黙認してしまい、それが横行してしまった。今後、おそらく閣僚や大臣経験者から、逮捕者が出るだろう。英国BBC放送でも、日本の政治の危機を報道した。

岸田内閣が、と言うよりも、今の自民党の体質ややり口が、国民から批判されている。

「政治は今良くないねぇ」
と言うだけならまだいい。
経済はもっとダメである。
ガソリン代増えた、食品の内容量が減った、値段が上がった、景気は落ちた、これが逆ならありがたいが。

どうしてこうなってしまったかと言うと、それはもう原因を一つ一つ、数えれば、何億と言う理由があります。

もし、単純に、その原因を一言で、言い表すと、欲がないと言うことに尽きると思う。

日本人は欲がなくなった。
周りの人を幸せにする欲、大欲がなくなった。
残った欲は、名誉欲やほんの小さな承認欲求、自分だけの欲である。

昔、竹中平蔵という閣僚が、経済の自由を高らかにうたったことがある。人間の欲望のままに、市場原理を信じていれば、正しい競争が行われて、日本はもっと豊かになるということであった。
ところが、完全に失敗したと、最近どの経済誌を見ていても批評されている。

竹中さんは、本当の欲と言うものを持たなかった。彼に本当の欲があれば、必ず、人間の思い違いや思い込み、間違いと言うものを計算に入れたはずだ。人間は、ふとした、見間違いをたくさんする。聞き間違いもする。一度思い込んでしまったら、間違ったことを信じてしまうこともある。10年20年と、勘違いを続けることだってある。死ぬ間際になって、ようやくその勘違いに気づくことだってある。
市場原理を信じよう、本能だけの競争原理に全て任せれば良いと言うのは、大変な思い上がりである。

そのことを小泉内閣の時代から指摘していた学者はたくさんいたが、人気が出なかった。なぜなら、人間は間違いをおかすものだと言われると、誰もが「俺に限っては間違わない」と思うからだ。

残念なことに、実際に人間は思い違いをする。思い込み、決めつけて、数々の失敗をする。そのことを計算に入れないのは、欲が小さいからだろう。本当に欲があるのなら、人間のそういった本質を必ず計算に入れるはず。

原子力発電所を建設しようと言う時、これまた多くの人が反対をした。
中曽根さんが原子力発電所の建設を躍起になって進めたが、中曽根さんは欲がなかった。本当に幸せな社会を作ろうと言う気持ちが薄かったのだろう。
中曽根さんは、
「人間というものは、戦争も起こさず、手順も間違えず、決してサボらず、どんな災害も防ぎつつ、一万年以上、人は原子力発電所を運営してゆける
と、かなり楽観的に考えた。
でも、福島原発は、一万年ももたないまま、数十年で大事故を起こした。

その昔。東海村で、有名な臨界事故が起きたとき。ウランをバケツでリレーしたので、大事件になった。それを聞いて、多くの人が、人間は間違いが多いので、サボりたくなるかもしれないし、焦って手を滑らすかもしれないし、疲れるかもしれない、もしかしたら作業の手順を間違うかもしれない、と、考えた。

そんなことはない、と信じられる人が、作業を進めたが、実際には作業中に被爆してしまい、尊い命が失われた。

人間が必ず失敗をせず、粛々と、何万年もの間、正しく、機械を整備し、装置の異常を点検しながら、金属疲労を完全に防ぎながら、決してどの国とも戦争をせず、ミサイルを打ち込まれるようなこともなく原子力を管理できる、とかんたんに思い込める人は少なかった。

欲の小さな人だけが、それを信じることができる。

なぜなら、そう思い込んだほうがストレスが少ないからだ。大きな欲を持っている人は、その大きな欲を実現するために、ものすごく大きな精神的なエネルギーを使う。もしかしたら、と考えるからだ。
人は、間違うかもしれない、とする。
そのことに耐えられない欲の小さな人だけが、まぁ、大丈夫でしょうと、事柄だけを先に進める。

よく考えることをしない、と、いうのが、欲の小さな人の特徴だと思う。

100年後、200年後の日本を今の政治家が考えているだろうか。
それを考える人は、大欲を持つ政治家だ。
しかし、その政治家を支えるのは、欲深い国民だけだ。目先の小さな欲しか持てない国民が、ポピュリズムに陥る。

さて、私は小学校教員なので、100年後、200年後の日本のために、世界のために、授業をしなければならない。

ただ、欲を持てといっても、そんな国民にはすぐには育たない。
1番大事なのは、人間は間違いをするものだ、どんなに良いと思っても、それが本当に周りのみんなにとって良いかどうかよくよく考えればならない、ということ。これだけを基準にして、学校教育が行われても良い。

したがって、子どもたちは、討論ばかり行う。クリスマス会のゲームは何にしようか。そのことだけで3時間も4時間も話し合っている。
しかし、この3時間4時間が、非常に良いトレーニングになっている。
もういいから決めちゃおうよ、と言う意見が出ると、いや、まだ〇〇ちゃんの意見が出ていない、と声がでる。

この光景を、岸田さんが見たら、どんな感想を言うだろう。派閥政治とは、無関係の思想を、子どもは最初から持っている。

岸田総理の秘書の方、ご連絡お待ちしております。IMG_3829

高市早苗さんを擁護する

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高市早苗さんに、果物を贈ろう。
今なら、おいしいイチゴがとれる。

おいしい、腹が満たされる、
心まで満たされる、本当に手づくりの、心のこもったおいしいものを
贈ってあげたい。



冷たい声をかけるのではない。

あたたかく、あたたかく、じわーっと、

こころを溶かすように、接することだと思う。


美味しそうに、心づくしのイチゴをほおばる高市早苗さんを想像してみよう。

そして、イチゴの甘酸っぱい味に目を閉じて、頬をほころばせ、それから、
やさしい笑みを浮かべて、

嘆息まじりに遠くの山の緑を眺め、
静かな、静かな時間を過ごす、

そんな高市早苗を想像してみよう。




責めるのは、もう、やめよう。

悪い人ではない。





小学校でも、居場所が無くなるくらい、子どもを叱ることは、ない。
きちんと、逃げ道を用意する。

2度、3度、とくりかえして、反省の色が見えない子にも、やはり、次の道は用意する。

子どもだから、というのではないよ。
人だから。

ひと、人間、にんげんだもの。
心の底から悪い人間なんていないので。




高市早苗さんは、 「やせ馬に、荷が勝ちすぎた」ケースでしょうか。


愛されなかった犬は、この世を恐れてよく吠える。
見かけの強さを欲する。

「愛」を知らないからこそ、「力」にあこがれてしまう。
この理屈は単純でしょ?


見かけだけの、分かりやすいものに、惹かれてしまう、という、その意味は
みんな、だれしも、よく分かることだ。

心が不安でいっぱいだったら誰でもそうなる。

高市早苗が人生を通して、幼い頃からずっと抱きつづけてきた大きな不安に焦点を当てずして、解決することは何もないだろう。

「もし、一切の怖れが無かったなら、あなたの願いは何?」

高市早苗に、聞いてみないと。




愛とは何?

何よりも、彼女が国民の声を聴く、という姿勢になるのは、

周りからの愛を、自分が愛されていることを、
きちんと理解してから、だと思う。



高市早苗さんの政治的な思い(思考の癖)を覆させるのは、おそらく無理でしょう。

高市さんの頭の中の、ことなので。

しかし、もともと同じ人間。
お互いを理解しあうことで、お互い「人の心」を、「人の心」にもどすのは、案外、できる話かもしれない。




みんなで、おいしい果物を贈ろう。自民党に贈ろう。

高市早苗さんに贈ろう。

そんな気分になった、選挙間近の夜。

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兵隊をいかに「殺人集団」に仕立て上げていくか~緊急事態条項~

兵隊をいかに「殺人集団」に仕立て上げていくか、という文章を
読んだことがある。


米軍の心理カウンセラーが書いた本。

ポイントは、

なにも考えさせないこと。

やれ!

と言われたら、

ハイ!

と、すぐに大声で、返事をし、身体を即座に動かせるように訓練するそうだ。

これを、徹底的に繰り返す。


機械的に、反射的に、とっさに何も思考せず、余計なことを思わず、

すぐに身体が反応できるようにしていくことで、殺人が可能になる。

「殺せ!」
「ハイ!」




なんで、そんなことを思い出したかというと、

ふだんはちっとも本など一切読まないのに、

小学校で英語が始まるので、準備するため、

なにかヒントになる本がないだろか、と久しぶりに本屋に行ったら、

「男20代にしておくべきこと」
「男30代、やっておかないと後悔すること」
「老いてもなお男の美学を」
「人の上に立つ成功戦略」
「勝つための男のコミュニケーション」
「歴代武将に学ぶ人生設計」

という感じの本が、大量に並んでいたからです。


え、こんな本があるの!?


とびっくりしながら、おっかなびっくり手に取って、最初の方をパラパラとめくると、

なんとまあ、どれもこれも、この手の本は、すべて

命令調

なのであった。

「できる男になりたきゃ、〇〇しろ」

という感じ。



マゾ様仕様にも程がある!!


これを読んだ読者は、命令ばかりされるんで、

余計に、劣等感が増していくんじゃないの?

と、ちょっと不安になった。



命令されて、それを受け入れる、というパターンで、

戦争が始まったと考えると、

「共にさぐる」

「いっしょに考えていく」

「考えていく仲間になりあう」

というのでは、戦争は無理なんだろうね。


単純に、

えらい人が 命令をして それを受け入れる

という文化がなければ、やはり人を殺す現場では、役に立たないのだろう。

そもそも、自分の命を捧げたくなるほど、えらい人がいないといけない。



まずは、本屋に並んでいる、こういった命令調の、

「男はこうしろ!」

という文体の本を、読まなければならないほどに、

あるいは、読んだ結果、「そのとおりにしなければならない」というくらいに

追いつめられた男を、社会的に『生み出さない』ことが大事だ。




フーテンの寅さんのような男が、

「男はつらいよ」

と言えるのが、日本のよいところ。



「やれ!」

と言われたら、

「ハイ!」

と言う代わりに、隣のタコ社長をみながら、

「そんな必要、あるのかねえ」
「やりたかあ、ねえよ、そんなさ、人を殺めるなんてコワイことをねえ!」
「女子どもってのは、いじめるものじゃないよ、助けてかわいがるものでしょう、ねえ」
「政府のえらい人が、人を殺せ、殺せって、そんなの、いいのかねえ」
「男はつらいよ!」

というのが、いいんじゃないの。

その方が、日本人には合ってる気がするな。

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LGBTQと副大臣についての懸念

自民党の簗和生(やなかずお)衆院議員が5月20日の党会合で、LGBTなど性的少数者の話題で「生物学上、『種の保存』に背く。生物学の根幹にあらがう」と言った趣旨の発言をしたことが話題になって います。
「発言について答えることは差し控える」としていますが、「LGBTなど性的少数者をめぐる理解の増進は必要なことであると考えております」と答えています。



どうも上記のようなことは、昔から気にはなっていました。
人権意識のない発言が国会の議員から出てくるとはどういうことだろう、と。
あってはならないが、と懸念しておりました。

ところが先日の内閣改造で、この栃木選出の簗和生(やなかずお)衆院議員が副大臣になっちゃっているではありませんか。こともあろうに、文部科学副大臣に。

いやあ、公教育の教員からすると、この方、わたしの上司になりますわ。
この上司の元で働かなきゃいけないと思うと、げんなり、です。
どうやらご本人、LGBT差別の発言については反省をしているらしいですが、ちょっと怖いです。

そもそもなぜわたしがこのことを恐ろしいと感じているかというと、LGBT差別の発言が、今話題のカルト教団の教義と似ている部分があると思うからです。

「LGBTや同性婚、夫婦別姓は「生活共産主義」とされ、認めさせてはならないと説いている」とwikipediaに書いてありまして、本当かどうかわかりません。
もし事実、そのように説いているのであれば、残念でなりません。

一人ひとりの個性に着目し、お互いがお互いを見てそのまま尊重しあうことで、できる限り個としての人間が生きていきやすいように社会環境を整えていく、ということが現代の民主主義社会でして、どんな人間でも「生きにくさ」を感じずに済むように、わたしもあなたも、AさんもBさんも全員区別なく、お互いに全員が全員を助け合うのが今の人権尊重社会です。それを邪魔するのはファシズムであり、人権を無視するということです。

もし簗和生(やなかずお)副大臣が上記のようにLGBTQ差別を心の中でおこなっているのであれば、全国の教員が「あーあ」と声にならないため息をついていることでしょう。

簗和生(やなかずお)副大臣は、性的少数者と呼ばれる人たちを見たくないのか、どうなのか知りませんが、意識から外したところで人間は多種多様にそれぞれが元から自由に思考し、考えて行動するわけです。その元来自由さをふんだんに持つ、もともと生まれたときから自由に思考し行動する自由人としての人間の本来性を無視することなど、できっこない話です。

ちょっと話が変わりますが、こういう思想の人もいます。
「人権が過剰→個人に人権を与えすぎ→だから家族をないがしろにするのだ」
今の世の中が乱れているのは、家族がないがしろになっているからで、家父長制のようなしっかりとした大黒柱の父親が尊敬されていないせいだ、と考えるようでして・・・。
それは、個人に人権を与えてしまったからだ、というのです。
だから、人権が過剰になっている。過剰になった人権を認めるわけにいかない、という支離滅裂な論理展開です。どうもこのようなカルト思想に「はまってしまった」人の中に、LGBTを差別する人が多い気がします。

要するに、ひとが自由に行動し、自由に思考するのが気に食わない、という感じでしょうか。
自民党の簗和生(やなかずお)副大臣におかれましては、このようなことのないように願いたいです。子どもが自由に思考し、自由にアイデアを出すことを応援してください。また、自分以外のクラスメートが、それまた自由に思考することを認められる子どもになれますよう、応援してください。

「おれの意見が正しいと認めてほしいが、あいつの意見はまちがっとることにしてほしい」
「おれの人権は認めてほしいが、あいつの人権は認めんぞ!」
「行き過ぎた個人主義は行き過ぎちゃう!範囲としては俺の決めた範囲が絶対としてほしい!」

というようにならないように、してほしいのです。
とくに最後の「行き過ぎた個人主義」というフレーズはどうやら流行らしいですね。しかし、もともと人間の思考に範囲などないのが当然であり、自分たちの決めた常識の範囲を超えているからダメだとして規制をかけたいなあ、というのはワガママとしかいいようがありません。人間は、別にあなたの思考範囲の中に沿うように生まれてきてないワ!ということですね。

こういう夜郎自大な思想になってしまうと、広くアジアに限らず諸国の人々から軽蔑されます。
副大臣へのお願いです。日本という豊かな国の子どもたちが、未来に向かって世界のどの人にも敬愛されるような「人権思想」を身につけられるように応援してください。(くれぐれも、悪い予感が当たりませんように)

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カルト防止教育が一躍脚光を



わたしが約1年半前に記事にした「カルト防止教育」が、今こそ必要になってきたのかもしれない。
ここ何日か、ものすごい勢いでニュースになりつつあるのが、安倍元総理のことである。
安倍さんを撃ったとされる容疑者が「安倍元総理がカルト教団とつながりがあったと思い込んだ」と発言した(奈良県警提供の記事・情報)。
どうやらその【思い込み】が事実であったらしい。



こちらの番組で、その事実が明らかにされていた。
激震 旧統一教会と日本政治
問われる政治との距離感は
「教団票」で選挙支援“政界侵食”の原点は
今も続く被害…「先祖解怨」とは
植民地支配の恩讐も 文鮮明氏の対日観
旧統一教会は本当に保守的な宗教なのか


★ゲスト★
山口広(全国霊感商法対策弁護士連絡会代表世話人)
櫻井義秀(北海道大学大学院教授)
後藤謙次(ジャーナリスト)
パトリック・ハーラン

ここで報道されたのは、自民党とカルト教団との癒着であり、先祖があなたを許さない、という強い口調で人を脅し、金銭をとことんまきあげる詐欺行為で多くの裁判が発生している「統一協会」という団体が、今の自民党や安倍元総理とつよいつながりをもち、政治にかなりの影響を与えていたのではないか、というもの。

わたしには真実は分からないが、どうやらこのことの意味するものは大きい。
小学生から、【カルト防止教育】をはじめなければ!

信者をどう入信させたか、という過程が重要。
どうやら政治の中枢に切り込む方針だった旧統一協会は、

①ボランティアで選挙を手伝う。
②政治家の秘書に入り込む(ほぼボランティア)。
③選挙時の日常的な戸別訪問の過程で「国会議員事務所の人間」と言って信用させる。
④名簿をつくりセミナーに誘って入信させる。

などの工夫をしていたといいます。

また、霊感商法のトラブルの解決を支援していた弁護士の方によると、統一協会がよく使うフレーズに

先祖解怨(せんぞかいおん)=せんぞのうらみをとく

というものがあり、先祖のためにも入信しなさいというもの。
現世であなたが邪教にはまれば、先祖が報われない、先祖は助けてくれとあなたに言っている、先祖が合図をおくるとあなたを苦しめる、交通事故、愛情に恵まれない結婚、トラブル、そういうものにあなたがみまわれる、地獄に落ちた先祖があなたに合図を送っているのです、その先祖を苦しめないために、お金を積みなさい、というそうです。(山口弁護士による)

先祖と現世との「つながり」を納得させるそうです。

こういうもっともらしい話を聴き、信じる人もいる。
これは「信教の自由」の範疇を超えており、不安にさせ、脅して金を巻き上げる、という点では、詐欺でありましょう。

こうしたことを行うことで入信する政治家もおり、政治家は国民の公的な福利のために仕事をするのでなく、カルト教団のために政治をするようになっていくわけですね。

このことを小学生時代にきっちりと指導しなければ、多くの人が「カルトとはなにか、洗脳とは何か」を知らないまま人生を生きることになってしまう。小学校で指導しないといけないのです。
ちなみにカルトとは何か、裁判所で示されていまして、
①正体を隠して勧誘
②監禁して洗脳
③強制的集金義務
④内情について他言を禁じ世間には嘘をつく

-------------------------------------------------------------
上記が札幌地方裁判所の平成24年3月29日の判決文を基準にしたもの。
それに、
⑤脱会を許さない
ということを付け加える識者の方もおられます。


この上記の項目だけでも、小学校の高学年~中学生~高校生くらいまで、教えることが必要でしょう。一昔前なら、大学へ行けばカルト洗脳について学べたらしいですが。

写真は、霊感商法で売りさばかれた3500万円の壺だそうで。
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安倍さんの事件

小学生の担任としては、今回の事件は残念でならない。
なぜなら子どもに対して、暴力を肯定することになるから。
「だって大人だって暴力に頼っているじゃないか」
こう考える子に対して、教師はひるんでしまう。

人間はどうやら、うまくいかなかったりなにか原因があり、手間のかかる道筋をたどることができなくなると、

「もうやめた」

と思ってしまう生き物らしい。
一つひとつ、他の意見と比較したりすりあわせたりと、民主主義の進み方は手間がかかる。
その手間がかかる、という一点にものすごい価値があり、だからこそ冷静になって暴力を避けることができるのだが、それを忘れて「自分の思い通りにことを運びたくなる」。
そこで、「だったらもういっそのこと暴力で」と考えてしまうようだ。

メディアが安倍批判をくりかえすから、それに影響された犯人が一線を越えて撃ってしまったのだ、という人もいる。(のちの報道で、それは事実ではなく特定の宗教団体への恨みから、ということがわかりまました)

ところがこの筋道はおかしくて、安倍批判ができるのであればむしろ暴力は抑えられます。
安倍批判ができなくなったので、「批判が無理ならいっそのこと暴力で」となったと考えるほうが筋道が通るでしょう。

安倍批判がしっかりできて、その批判や言説がきちんと取り上げられ、安倍さんの方もその批判に向き合ったことがよく分かるのであれば、もしくはそれに対する反論がきちんとした形で(あいまいな答弁や正対しない答弁だったのでなく)なされたのであれば、むしろテロは起きません。

ところがそうでなかった。
黒塗りだらけの資料、まともに答えない答弁(国会中継をみると非常によくわかります)、「仮定の話にはお答えをいたしません」という回避、資料の改ざん、法に定められた保管期間を無視してシュレッダーにかけてしまうというような証拠隠滅行動など、言論を馬鹿にするかのようなことが次々と起きたために、

「ああ、もう言論では無理なのかも・・・だったらいっそのこと暴力で」

と考えるような思考になってしまう人も、おそろしいことですがあるかもしれない。

議会制民主主義を人間が選択するようになった背景には、王という絶対権力者の横暴を避けるため、独裁という暴力を避けるため、どうしたら暴力で双方が滅亡する道をたどらずにすむか、ということを真剣に考えてきたという歴史がある。

日本の民主主義も、太平洋戦争という大きな代償を払って、ようやく「暴力以外」の選択肢をとることしかない、というふうに育ってきた。
ところがここで、戦後の努力をかなり減らしてしまうような暴力事件である。
犯人は「言論よりも暴力」という、戦前の軍事思想をわれわれに押し付けてしまった。

たしかに権力をにぎった政治家が暴走することはある。
権力側に居る人間がその権力をかさにきて好き放題してしまう、私利私欲に走ってしまう、ということがあるかもしれない。権力があればそういうこともできてしまうわけですが、それを言論がなんとか歯止めをかけることができた、それが戦後の民主主義国家の前提でした。

しかし、政権への自由な批判、内閣政府への自由な批判をひるませるような世の中の空気が醸成されてしまえば、これは「いくら言ってもだめだ、だったらもういっそのこと暴力で」と考える一定の人達を生むことになってしまう。

小学生の教室も、まったく同じ民主主義国家の中の学校であり、同様に言論が自由に行われ、それらが保証されていなければならないし、言論が保証されているからこそ、けんかをふせぐことができている。教師は、児童がなにを話してもいい、話す内容を保証し、その機会を与えなければならない。

頭ごなしの指導は、その言論を封鎖することになる。

土台、民主主義というのは根性も必要だし、ねばりも必要、自制心も必要、論理的な思考も必要であり、かなり難しい高度なことである。だが逆に言えば、これらを目指し、これらに準拠さえできていれば、最悪の事態は避けることができる。殺し合わずに済む。

大人も民主主義に慣れていない。民主主義が地球全体で機能するためには300年かかる、という人もいる。大人ですらそうなのに、子どもが中心となる教室はさぞかし難しいだろう、という人も多い。

しかし、大人がすぐにあきらめて「言えないのなら、いっそのこと暴力で」と考えるのにたいし、子どもは案外と「◯◯ちゃんといっしょに考えて相談したほうがいい」と考える。
それは世の中をそれほど諦めていないという点、すてきなことがたくさんあるという元来の肯定感、期待感、友達はやさしくしてくれるものだという信頼感など、大人にとっては忘れ去られた道徳を子どもはなぜか持っているからだ。

教師はそれがあるからこそ教室の秩序を保てていたのに、今回のような事件がおきたら、子どもを不安にさせ、その不安が子どもの本来の安心感を損なうことになるかもしれない。そこが残念だし心配だ。

かくなるうえは、子どもにたくさん気持ちを出してもらい、語ってもらうしかない。
ふだんから安心して話ができる教室、ふだんから安心して友達と遊んだり学んだりできる空間。

安心感、信頼感。
さいごに頼るのは、こういう人間の根幹にあるものに突き当たる。
これらはやはり、「政治家が口で言うことと実際に行うことの両方のうち、実際にやっていることをみる」という基本的な国民の姿勢があれば、みえてくるし、醸成されてくる。

勇ましい口ばかり、リップサービスばかり、希望的なイメージを語るだけの儲け話ばかり、ではだめ。
実際に弱い立場にすぐに落ちてしまう国民すべてを大切にする行動をとっているかどうか。
さあ、明日は投票だ。行こう。

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