30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

発達障害児への切り返しセリフ集

聞かれても、答えないよッ

.
子どもに聞かれることがある。

質問されて、答えるときもあれば、答えないこともある。

勉強のことは、答えるね。

でも、個人的なことは、答えない。



学級の子どもたちに、少しだけ、秘密をつくる。

ミステリアスな部分を、つくる。

ほんの、少しだけ。

だって、つまんないもん。



答えるかどうかは、コッチが決める。

答える方法も、コッチが決める。

答えるのが当然だって思ってる人、ざんねんでーしーた。


(子どもは、エーッ!!となる)



「先生って、何歳なのー?」

「なんでそんなこと知りたいの?どうしてもシリたけりゃ、あとで個人的にどーぞ」

こんな程度の切り返しなんて、かわいいモンよ。



それでもしつこく、あとで聞きにくる猛者もいる。

「先生、何歳か教えてください」

「なんでそんなこと、関心があるの?」

「知りたいから」

「んー・・・。答えるかどうか・・・、それって、答える人の自由だよねッ!」

「エーッ!!」

「エーッって、なあに?」

「じゃ、先生、先生が今度、おれを当てても、おれは答えないからなっ!!」

「ハハハー。学校は学習するところだから、子どもは答えるのです」

「エーッ」

「学校ってのは、そういう場所。よいか、当てられたら、答えるのだゾ!」

「エーッ!!」

「ハハハー、エーばっかりだねぇ」





このやりとり、場所が廊下だったので、別の先生が聞いて、笑ってました。



しかと。
シカと。

しゃべっている人が2人います! という指導の失敗


「まだ、しゃべっている人が、2人います!」

こういうセリフ、教師なら何度も口にしたことがあるだろう。
集会のときなどに、静かにならない場合に、よく言う。
しかし、今回、これが危険だということがわかりました。


ぶちきれたのは、アスペルガーの診断がある、Tくん。

「おれ、しゃべってねえし!!!」


集会の際に、中央に立って、進行していたG先生。

「まだ、しゃべっている人が、2人います!」

の際に、頭をふらふらと動かしていたTくんを、ちらりと見てしまった。これがつまづきの第一歩。
Tくんが、

「見られた」

と感じたのは、確実だ。
そのときに、冒頭のセリフがかぶさって聞こえたのだ。
完全に、Tくん、彼の頭の中には、

G先生が、おれのことを叱った!

と合致して脳内処理されてしまったのだろう。


おれ、だまっとったし!!!!



このセリフをおさえきれないのが、Tくんです。
だんだん声が大きくなって、集会はおもわぬ展開を見せ始めました。

あとで、このときのことをふりかえって、G先生が、

「馬鹿のひとつ覚えみたいに、いつも使ってたのがダメだったのかな」

とおっしゃっていたのですが、ちがうでしょう。
馬鹿のひとつ覚え、は、秀才の常とう手段です。
本当の馬鹿は、覚えきれない数のことを覚えようとして自滅するのですから。秀才は、応用の効く基本ルールを最低数だけ覚えて、うまく活用していくのです。G先生のやり方は、覚えるべき内容が、まだ本当に応用のきくレベルに達していなかったのです。


「まだ、しゃべっている人が・・・・」


これでは、客観的に正しいことを言っているとは限りません。
また、アスペルガーの子にとっては、自分はだまっていたのに、叱られた、と言うような、今回のような事件が起こりえます。

なので、これは、セリフをこう改善すべき。


「まだ、不合格が、2人、います」

これならば、Tくんは、おれは合格なんだ、と思って静かにしてくれているはずです。
合格不合格の基準は教師側にあるのが明白ですから、そのことについては突っ込まれる気配はなくなります。


そういうことをG先生と話をしていたら、横から、M先生が、


「そんなことないな!まだ甘い!」


と突っ込んでくれました。


仮に、

「不合格が3人います」

とか言ったとする。

すると、

「なんで不合格をお前が決めるんや!」

とぶちきれる子がいる、というのです。


これには、M先生も、ぽかーん。


これは、瞬間的に斬らねばならないこと。
それを、一瞬でも、ぽかーんとして、隙をみせてはいけない。

「それを決めるのが先生の仕事です!」
でも、なんでもいい。
すぐに、間髪をいれず、すぐさま、直に、返さなければいけない。

そうしないと、こういう勘違いをする子は、

自分の意見が認められた

という、第二ステージの勘違いに、勝手に進行していくのです。


ぽかーん、と隙を見せてしまったM先生。
どうなったかというと、
たてつづけに、

「なんで、いつもお前が合格不合格をきめとんや」
「勝手に決めんなや」
「なんでお前の言うことをきかないかんのや」

と、どんどんとミサイルを撃ち込まれて、たじたじとなりかけたそうです。


M先生、なんといったか。

「教育をつかさどるのが教師です!先生はこれがお仕事です!先生は家族をこの仕事でやしなっている!きみたちの合格不合格を決めることで、お給料をもらっている!きみのお父さんと同じだ!」

と、懸命に叫んだそうで・・・。



叫んじゃないけないとは思いますが、たじたじとなった状況はこれで回避できたそうです。
このあたりのセリフは、さすがはベテランの味。
ともかくも回避できた、という点で、M先生は合格ラインでしょう。

わたしだったら、なんと言ったかなあ。

わからないが、合格できなかったかも知れない・・・。



まことに、修業は大事です。




まともな社会生活スキルを実行したくなる動機づけ


とにかく反社会的に見える、自閉症児の行動。
やっちゃいけない、と伝えているのに、次の日にはまた同じことを繰り返している。
たとえば、給食袋が廊下のフックにかけてある。
教室の前の廊下。
給食袋は、そのクラスの子どもたちのもちものだ。

これを、たまたま通りかかった自閉症(AS)の子が、汽笛のまねをしながら、のばしたうでのさきにすべてひっかけて歩きながら、すべて落としてしまう。
バタバタバタバタ!!!!連続した音とともに、フックにかかっていた白い袋はすべて落ちてしまう。

彼によると、白い袋があっちむいたりこっちむいたりして、雑然と並んでいるのは、いやなんだ、と・・・。(大人が意訳するとこういうことらしい)

でも、白い袋は、けっこうきれいにならんでいるのですよ。
見た目は、とてもきれいに、きちんとフックにどれもかかっていて、ひもの長さも同じようだし、みんなだいたい同じ高さにかかっていて、ちっとも雑然、というのでなく、むしろ整然としているのに・・・。

これはこっちの世界の見方でしかない。
ASの彼には、耐えがたい乱雑さであり、許せない。壁に穴でもあいていて、すきまなくぴったりと埋め込まれているようであれば納得するのかしら・・・。

で、こういう反社会的な行動をとってしまう彼に、
「やっちゃいけません」
は効果があるようで、ない。
短期的には、ある。
こわい顔をして叱られるといや、という感触はあるようだ。
でも、それはちっともわかっていない。
で、翌日も同じことをくりかえす。で、叱られる。

こういった非・社会的な行動を禁止したり制止したりして減らすことにエネルギーをかけるよりも、のぞましい社会生活スキルをふやし、相手とコミュニケーションをとりながら暮らす、行動することで、自己理解を高めていこう、というのが本筋だ。

さて、白衣の袋を落としてしまう子。

「本当はこんなこと、やりたいとは思っていないんでしょう」

といって、さっさと拾いはじめる先生がいて、だんだんとおさまったそうです。
廊下を歩きたくなった時、ちょっと我慢してみよう、と思ったら、髪の毛をさわる。
それを先生が見ていて、ニコニコしながらオッケーと言ってくれる。
思わずやってしまったときも、途中で思い出したら、髪の毛をさわる。
ふりかえると先生がいて、ニコニコしながらオッケーと言ってくれる。

で、

「悪いなー、ひろってあげようかなーって、本当は思っているよな」

と先生がいうと、なんとはなしに、先生と一緒にひろっている、のだそうです。




きみはいいね を いかに伝えるか


セラピーではなく、必要なのはサポート。
セラピーとサポートはちがう。
それを他の人に説明できるくらい、わかっているかどうか。
どうだろう。

うつ等、カウンセリングやセラピーを必要とする子は、知的障害・情緒障害をかかえる子どもの中のたった2割らしい。その他の8割は、セラピー対象なのではなく、サポートニーズの子、だという。
つまり、うつなどの病理なのではなく、発達障害とよばれる、いわゆる自閉症的傾向の子がほとんど、ということ。

しかし、手法としてはカウンセリングやセラピーの手段が有名なので、そっちを思い浮かべて実践してしまう大人の方が多いのだ、と嘆いていらした。
先日受講した、県の教育セミナーでのことだ。

なるほど、心のケアが必要な子には、カウンセリングやセラピーが有効であることは間違いない。
しかし、自閉症にはセラピーではないのだ。
つまり、受容的な受け答えや励ましは、不要、ということ。
これは、分かっているようで、案外と整理できていなかった部分。

セラピーでは、こう答える。
たとえば、
「ぼく、みんなとちがうからダメなんだ」

セラピスト、カウンセリングの場では、これも受容する。
つまり、
「みんなと同じようにできないから、それが苦しいんだね」

あたたかいまなざしで、こういって受けてあげる。
これは、ぜったいにやっちゃいけないんだって。
自閉症児には。とくに、決めつけこだわりの強い子には!

なんと。


こうやって心境を吐露するアスペルガーの高学年がいたら、ぜったいに言いそうだ。
「そうかー、ダメって思ってるんだね。苦しいんだなあ」

でも、これはぜったいダメだって。
その、講座の先生のおっしゃるには。
つまり、受容すると、こだわりが強くなるだけ。
こだわりを強くする、ということには加担しないこと。
つまり、受容する、という考えを捨てなければならない。


どうするか。

「自分と他人の違いが分かるのは、すばらしいことだよ」

と諭すんだって。

当事者のこだわりに興味を持たない、加担しない、こだわらない。
できれば無視しつつ、その子にプラスのフィードバックを与えてあげること。でなければ、肯定的な関係を保つことができないし、のぞましい社会性を伸ばすことができないから。

なるほど、と思いました。たまには県のセミナーでも、勉強になるな、とうれしくなりました。

と同時に、こういったフィードバックが瞬時にできるようになるには、相当の修業がいるし、こちらにその視点が常にないといけない。教師が意識していないといけない、と思ったのでした。




子どもの反抗に、こう切り返す!


「おまえなんて、クビになれ!」

子どもが教師に対して、暴言を吐く。

子どもの心理を考えると、ここまで言うのは、よほど追い詰められている状況だ。
ふだんからこういうことを連発する子もいる。
こういう子は、ほとんど反抗挑戦性障害、という感じ。
なかなか対応がむずかしい。

しかし、教師のやることは、動機づけ、つまり肯定的なフィードバックを続けていくことしかない。
これを外れて、教師のやることにほとんど意味が無い。
怒鳴っても、威圧しても、ほとんど子どもの動機づけにはならない。社会的に意味のある、認知されたまともな行動を増やしていこうとすること。それには、怒鳴ってもあまり・・・。
とくに、家でよほどしっかりとしつけられている子には有効な手段かもしれないが、発達障害を抱えるような子に、怒鳴っても一利もない。

こういうとき、

「きみ、そんなこというってことは、よほどふだんから、なにか我慢しているのじゃない?」

ほとんど取り合わないときもあるが、そういうときは、それで心配そうに顔をみているだけでよい。興奮状態が収まらないのであれば、次の手段。

「また。心にもないことを言って・・・」

さいごの、・・・がけっこう大事だ。
余韻を残す言い方といって、案外使えるスキルである。
会話を途切れさせない、なんとか続けさせたいとき。わざと、こちらのセリフを中途半端に終わらせる。

こういうテクニックを、なんというんだろう。
思いついただけだから、まだ名前がない。(あるのかな?)

さて、この、「心にもないことを言って・・・」

は、まともに相手の言葉に正対していないから、救われる。
まともに正面からぶつかったら、危険なときがある。
ある種の、子どもの売り言葉。
こういうものには、真正面からぶつからない。
双方が、損をする。
引くに、引けなくなる。
とくに子どもが、引けるようにしておかないと。教師は、子どもの逃げ道をのこす言い方をしなければならない。

また何か言う。
アスペルガーの子や、広汎性発達障害、自閉症スペクトラムの子の中には、言葉の応酬が大得意、という子がたくさんいる。
まともにやりあっていたら、教師はこわれてしまう。


そこで、こっちは同じようなことを繰り返し、まともに相手をしない。

「また、心にもないことを言って」

(ちがうわ!本気でそう思ってるから言ってるんだ。アホか!)

「また~、そんな心にもないことばっかり」

(同じようなことばっかり言うな!おめえ、教師だろ!)

「心にもないことばかり言ってる・・・」

(本気で言ってるんだ!お前なんて、クビになれ!)

「心にもないこと・・・」

(また同じこと言ってる!アホ!)

「心にも・・・」


まったく、会話になっていかない。
これがコツ。

そうでなければ、会話に意味を生じさせてしまう。
会話に意味や価値を生じさせていいこともあるし、教師はほとんど、そういうことに長けていなければならない。でも、例外がある。相手の子どもが、アスペルガーであった場合だ。その場合は、

「会話に意味をもたせなくする」

ことで、はじめてコミュニケーションが正常にもどる。
言葉の上での関係性を、正しきに戻すための、有名なテクニックなのだ。

こういうテクニックを、ブロークンレコードテクニック、という。
つまり、壊れたレコード。
相手が、飽きるのが目的。

さて、相手がうまく飽きてくれて、言葉のゲーム場、言葉の土俵から背を向けて降りてくれたら、まずは一段階突破。

つぎに、前述の、

「きみ、そんなこというってことは、よほどふだんから、なにか我慢しているのじゃない?」

といって、続けていく。
ようやくさっきのゲームを続けるつもりがなくなった相手は、この投げかけに、なんらか反応するであろう。

「我慢してるんだわ!あたりまえだろ!」

そうか。
やっぱりそうか。
えらいじゃないか。
授業中でも、今みたいに大きい声で叫んでいない時は、我慢してるんだよな。

これから、我慢しているとき、先生に教えてくれてよ。
「ああ、○○さんは、今、我慢していて、がんばってるな」と先生がわかるからさ。そして何か言いたいことがあったら、先生にそこで言うこともできるじゃない。

うまく報告してくれたら、ゴールイン。
ただブチ切れていただけの反抗児だったのが、自分を客観的にメタ認知したうえで、正常なコミュニケーションとして自分の状態を教師に報告してくれている、ということにまで進展する。
正常なコミュニケーションや社会参加ができるようになれば、そういう行動が増えれば、異常な行動がその分、減る、ということになる。

河原の石積みにも似た行為かもしれない。
でも、それしか方法がないのだから。
肯定的なフィードバックと共に、児童の正常な社会参加の量を増やしていくことしかない。




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