東京に行けなかったので、愛知県内だ。
ちょこっと足を延ばして犬山城とか、岐阜の長良川とか、静岡の浜名湖、なんていう案も出た。
コロナがいちばん猛威を振るっていた夏の間に決めなくてはならなかったため、おとなしく県内旅行になった。
ところで、修学旅行で訪れた、とある観光地での出来事。
わたしたち小学生が、お行儀よく2列にならんで、参道を歩いていたと想像してください。
そこにですな、男女の高校生が大勢、たむろしていたのですよ。
わたしは20代の頃にしみついたものがあって、高校生くらいの子たちをみると、いっしょに肩でも組んで車座になり、陽気にギターで歌いたくなる病気を持っている。もちろん、50代の教員ですからそんなことしませんよ。もうすでに常識をわきまえる年ごろになったので。(ああ、ずいぶん遅いですが)
さて、その高校生たちが、なんとも活気がない。
しずかーにしているのです。
小さな声で、ひそひそしている。
おそらく、「他にも一般の人たちがいるんだから、大きな会話はしないこと!」なんて
注意を受けているのでしょうナ。
また、もちろん、いい若いモンなんですから、こんな古びた神社仏閣なんぞに来たくなかったのだろうというのも想像できる。つまらないよ、こんな古い場所・・・。
しかし、景色はよいし、空は晴れているし、友達どうしなのだし、仁王像は見上げれば感心するくらいにこちらをむいて「あ、うん」なんて言ってるわけだから、もっと楽しそうになるはずだ、とわたしは勝手に思いながら、その子たちを見ていました。偏見ですがね。
するとですね。
私たちの行列が通りすがって、その子たちの前を通った時、なんだかすごくこっちを見るのがわかったのですね。こっちはがやがややっています。そんなにうるさくはないけど、「おお仁王像すげえ」とか「先生、のど乾いたー」とか「先生、おさいせんあるの?」とか。
高校生はお行儀良く、わりと物静かにしていました。
で、私たちが通り過ぎるのを待ちながら、こっちを面白そうに見ているわけね。
わたしはそのときになにか、こう、すごく高校生に話したくなった。
だって、ふだんは小学校の教室の中に、まあいい方が悪いけど、
「閉じこもって勉強してる」
わけですよ、こっちは。
それを、生きた勉強ができるっていうんで、バスに乗って外へ出てきた。
いわばシャバに出たわけだ。
教室以外のところでこそ、学べることも多いだろうし、本当はそっちの方が多いんだろうと思うね。人生経験を積んでくると、そういうことも実感されてくる。
だから、こういうところへ来た小学生と、高校生とが、こんなふうに時間を同じくして過ごすんだったら、お互いに交流したらいいのに、と
教師の直感でぴんときた
状態になりました。
わたしの頭の中にはさまざまな発問が湧いてきて、授業のシナリオがぐるぐる頭の回転とその遠心力によって、ふわふわ浮かんできた。
たとえば、小学生と高校生と2人ずつグループになって、お互いに神社仏閣についての感想を言い合うとか、この寺についての印象、知識を一つずつ教えあうとか、もっともインスタ映えする場所と角度を見つけ、お互いに意見を交わしながら紅葉の写真を撮るとか、一緒にこの寺の『ゆるキャラ』を考案してみるとか。
小学生は高校生の知識の量と、気の利いたアイデアに驚くだろうし、
高校生も小学生にわかりやすいように自分のアイデアについて説明をしなければならないから苦労しそうだけど、それを乗り越えたところに、大きな満足もありそうに思う。
ただ時間をつぶしている、というような状態とはちがって、「学びの場」になろうと思う。
そういうことをすれちがっている20秒くらいの間に、脳内のシナプスがパパパパとスパークしました。
でも、勇気がないし、時間もないし、という言い訳を心の中でしてました。
で、最後に、向こうの担任とおぼしき同世代の男の方とすれちがって、そのまま小学生の列の先頭に立って、ご本尊のお近くへ行き参拝しました。「ああちくしょう、いいアイデアなんだけどなあ」と思いながら。
わたしはいろいろとこれまで多数の予言をしており、このブログでも公表しているのですが、
これでちょっとひらめきました。
おそらく、5年後、10年後の修学旅行って、たぶん小学校単体とか、高校単体とかではやってないと思います。
小学校はできるだけ他の学校と交流する、他の団体と交流する、
できるだけ異年齢と交流する、なんてのがスタンダードになっていく気がする。(予言)
また、同じ中身を市内のどの学校でも、ほぼその通りになぞる、という修学旅行は、もう無くなっていくのではないか。
隣の小学校はこうしたから、うちもこうする、というのが消滅していくのだろうと思います。
もっと発展すると、去年こうしたから今年も同様に、というのも無くなっていくだろう。
それからもっと進むと、隣のクラスがこうしたからこっちも同じようにこうする、というのも無くなるだろう。
さらに一歩進めると、クラスのこの子が課題にするものと、あの子が課題にするものと、ちがってくるかもしれない。
そうなると、いよいよ文科省が提唱する『個別最適化』が本格的にスタートするんだろうと思う。