30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

旅の記録

修学旅行ですれ違う高校生との距離感に悩む

先日、修学旅行に行った。
東京に行けなかったので、愛知県内だ。
ちょこっと足を延ばして犬山城とか、岐阜の長良川とか、静岡の浜名湖、なんていう案も出た。
コロナがいちばん猛威を振るっていた夏の間に決めなくてはならなかったため、おとなしく県内旅行になった。

ところで、修学旅行で訪れた、とある観光地での出来事。
わたしたち小学生が、お行儀よく2列にならんで、参道を歩いていたと想像してください。

そこにですな、男女の高校生が大勢、たむろしていたのですよ。
わたしは20代の頃にしみついたものがあって、高校生くらいの子たちをみると、いっしょに肩でも組んで車座になり、陽気にギターで歌いたくなる病気を持っている。もちろん、50代の教員ですからそんなことしませんよ。もうすでに常識をわきまえる年ごろになったので。(ああ、ずいぶん遅いですが)

さて、その高校生たちが、なんとも活気がない。
しずかーにしているのです。
小さな声で、ひそひそしている。
おそらく、「他にも一般の人たちがいるんだから、大きな会話はしないこと!」なんて
注意を受けているのでしょうナ。

また、もちろん、いい若いモンなんですから、こんな古びた神社仏閣なんぞに来たくなかったのだろうというのも想像できる。つまらないよ、こんな古い場所・・・。
しかし、景色はよいし、空は晴れているし、友達どうしなのだし、仁王像は見上げれば感心するくらいにこちらをむいて「あ、うん」なんて言ってるわけだから、もっと楽しそうになるはずだ、とわたしは勝手に思いながら、その子たちを見ていました。偏見ですがね。

するとですね。
私たちの行列が通りすがって、その子たちの前を通った時、なんだかすごくこっちを見るのがわかったのですね。こっちはがやがややっています。そんなにうるさくはないけど、「おお仁王像すげえ」とか「先生、のど乾いたー」とか「先生、おさいせんあるの?」とか。
高校生はお行儀良く、わりと物静かにしていました。
で、私たちが通り過ぎるのを待ちながら、こっちを面白そうに見ているわけね。

わたしはそのときになにか、こう、すごく高校生に話したくなった。

だって、ふだんは小学校の教室の中に、まあいい方が悪いけど、
「閉じこもって勉強してる」
わけですよ、こっちは。

それを、生きた勉強ができるっていうんで、バスに乗って外へ出てきた。
いわばシャバに出たわけだ。
教室以外のところでこそ、学べることも多いだろうし、本当はそっちの方が多いんだろうと思うね。人生経験を積んでくると、そういうことも実感されてくる。
だから、こういうところへ来た小学生と、高校生とが、こんなふうに時間を同じくして過ごすんだったら、お互いに交流したらいいのに、と

教師の直感でぴんときた

状態になりました。
わたしの頭の中にはさまざまな発問が湧いてきて、授業のシナリオがぐるぐる頭の回転とその遠心力によって、ふわふわ浮かんできた。

たとえば、小学生と高校生と2人ずつグループになって、お互いに神社仏閣についての感想を言い合うとか、この寺についての印象、知識を一つずつ教えあうとか、もっともインスタ映えする場所と角度を見つけ、お互いに意見を交わしながら紅葉の写真を撮るとか、一緒にこの寺の『ゆるキャラ』を考案してみるとか。

小学生は高校生の知識の量と、気の利いたアイデアに驚くだろうし、
高校生も小学生にわかりやすいように自分のアイデアについて説明をしなければならないから苦労しそうだけど、それを乗り越えたところに、大きな満足もありそうに思う。
ただ時間をつぶしている、というような状態とはちがって、「学びの場」になろうと思う。

そういうことをすれちがっている20秒くらいの間に、脳内のシナプスがパパパパとスパークしました。

でも、勇気がないし、時間もないし、という言い訳を心の中でしてました。
で、最後に、向こうの担任とおぼしき同世代の男の方とすれちがって、そのまま小学生の列の先頭に立って、ご本尊のお近くへ行き参拝しました。「ああちくしょう、いいアイデアなんだけどなあ」と思いながら。

わたしはいろいろとこれまで多数の予言をしており、このブログでも公表しているのですが、
これでちょっとひらめきました。
おそらく、5年後、10年後の修学旅行って、たぶん小学校単体とか、高校単体とかではやってないと思います。

小学校はできるだけ他の学校と交流する、他の団体と交流する、
できるだけ異年齢と交流する、なんてのがスタンダードになっていく気がする。(予言)

また、同じ中身を市内のどの学校でも、ほぼその通りになぞる、という修学旅行は、もう無くなっていくのではないか。
隣の小学校はこうしたから、うちもこうする、というのが消滅していくのだろうと思います。

もっと発展すると、去年こうしたから今年も同様に、というのも無くなっていくだろう。

それからもっと進むと、隣のクラスがこうしたからこっちも同じようにこうする、というのも無くなるだろう。

さらに一歩進めると、クラスのこの子が課題にするものと、あの子が課題にするものと、ちがってくるかもしれない。

そうなると、いよいよ文科省が提唱する『個別最適化』が本格的にスタートするんだろうと思う。

niou

聖徳太子1400回忌だって

聖徳太子が亡くなって、もう1400年が経つ。
西暦622年に亡くなったという。
ここは、「もうそんなに経つんかー」と言ってみたい気分(言えないけど)。
太子と面識はないが、なんとはなしに、身近な人ではあるね。

さて、わたしはかつて、クイズ王(アタック25で優勝経験を持つ)の加藤学さんに京都を案内してもらったことがある。

そのときのことは、記事にも書いた。
(なんとその加藤学さんは、先日の4月4日にテレビ朝日で放映された「45年の思い出」の回に登場し、キレッキレの追い上げを見せてトップ賞!)

その京都の旅行の後に、少しだけ暇があった。
そこで、ふと、奈良を見ておきたくなり、四天王寺に行った。
2019年の4月のことで、コロナの1年前だったから、まだあれこれと見学ができた頃だ。

拝観料を払って中に入ると、五重塔と金堂があり、わたしは回廊をおもむろに回ったあと、金堂に入った。ここに救世観音がおわしまして、何人かの敬虔な信者の方がひざまづいて祈っておいでになりました。

わたしも静かに観音様を見、頭を垂れて己の罪深さをしみじみふりかえっておりますと、なにやらにわかに人が増えてきた。
そして、わたしはどんどんと奥へ追いやられてしまった。
すると、若いお坊様が中へお入りになり、なにやら小さなか細い声で、おっしゃいました。

わたしは聞き取れないままに人に流されるようにして、少しお坊様の周りを空けたようにしてそこに居たのだが、まだ状況が呑み込めず、隣にいた白髪の物腰静かな老婆の隣で、帰りの高速バスの時間を気にしていました。

すると、今度は明らかに主役と思われる、すごい法衣をまとったどえらいお坊様が入っていらした。
わたしはとっさに「やばい」と感じ、ここにいていいのだろうか、どうすればいいのか、と軽くパニックに。ところが隣の白髪の御婆様はじっと動かず、四方の周囲の誰も動かないため、わたしはどうすることもできずにそこに立ちすくんだままだ。

見ていると、儀式が進みだした。
なにか、お辞儀を繰り返していた若い坊さまがケースから小さな上等のビロウド袋を取り出し、頭にうやうやしく掲げると、それをば偉い坊様にバトンタッチした。さすればそれを坊様は長い念仏で丁寧に、ねんごろに扱ったかと思うと、それを隣のばあ様の頭の上に、とんとんと、なにか真似をしたのでございます。

わたしはよく事情が呑み込めないために、なにか緊張して体をかたくしておりますと、若い坊様がやさしく私に指導してくださった。
「あたまを下げてください」

ぽんぽん、と、目をつむった私の頭に、なにかを当ててもらった感覚。
そして、なにやらおごそかに唱える声が聞こえる。
どうやら、えらい儀式に参加してしまったよう。
あとで聞いたところによると、それは毎日11時より行われる舎利出しの法儀というもので、南無仏のお舎利を以て、ご先祖のお戒名(霊名)が書かれたお経木にあてられ、又参詣者の頭にあててもらおうという取り組みなんだそうです。

わたしはこのあと、儀式に参加した廉(かど)により金銭を請求されたらどうしようか、帰りの高速バス代はどうなるのか、と正直生きた心地がしなかった。

それにしても、仏陀の魂がこめられたお骨でもって、この頭を清めていただいたことは本当に光栄なことだ。悪い脳みそも、これで多少は聖徳太子の慈悲深さによりそのめぐりの悪さが軽減したのではないかと思って心が安らいだ。

なんでこんなことをいまさら思い出したかというと、先週のニュースで「厩戸皇子1400回忌」が報道されていたからだ。西院伽藍では舞楽(ぶがく)などが披露されたようだ。
奈良はいいな、とそのとき、報道されるテレビ画面を眺めながら、わたしは思った。
この土地では、ふとしたときに、またたくまに1400年のときを超えて、その当時の生きた人間にふれることができる。

わたしが暮らす愛知県はせいぜい・・・、江戸時代か戦国時代、までだからなあ。
徳川家康公を思うと、彼はなんとまあ、最近の人であろうか、と思うのである。
奈良は偉大だ。またいつか、行きたいな。

四天王寺

最大の悩み【東京への修学旅行計画】

来年、6年生の学年主任をする私の目下、最大の悩み。
それが、
【首都圏への修学旅行を決断してよいか】です。
大体、みなさんお分かりかと思いますが、修学旅行は、旅行会社と協力して行います。
これは修学旅行を失敗してはいけないからで、市教委の指示です。

で、旅行会社に「東京の旅行を計画してください」と依頼した時点から、「企画料」というものが発生し、これは全額保護者負担になってしまうのです。

今の時点で、それを計画しなければならない理由は、旅行が来年の7月だからです。半年前、6か月前の今が、その最終判断をしなくてはならないリミットなのです。
なぜ6か月前か。
ホテルを押さえるからです。100名を超える人数の宿泊予定は半年前に予約開始するので、そこで確定して押さえておかないといけません。小学生100名を宿泊させることのできるホテルは、早い者勝ちでとられしまうのです。良いところから。

主任の私は、それを決断しなければならない。
来年の7月に、100名を超える団体が、無事に修学旅行ができるんだろうか。

【キーポイント①オリンピック】
オリンピックが開催されるのであれば、GO!
観客が会場に集まって無事に開催されるようであれば、都内の観光も一応は可と考えてよいでしょう。

【キーポイント②ワクチン】
ワクチンの効果が見込まれ、全国的に7月までに落ち着くようであれば、GO!

【キーポイント③陽性率】
陽性率がさがってきて警戒レベルが下がるようであれば、GO!

これまでこのポイントをもとに、7月に決行か、どうか、と悩んできました。

で、今日、共同通信社のこんな記事を見つけたのですが・・・。
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長は28日、大会の観客の上限や海外からの観客の受け入れ可否を巡り、無観客での開催も選択肢から排除せず、幅広く検討を進めていると明らかにした。ただ、無観客は「基本的にはそういうことはないし、したくない」との否定的な考えを強調。「いろんな形を想定している」と述べた。同日、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長とテレビ電話で会談後、記者団の取材に明らかにした。
これ、観客を制限してとか、無観客もある、ということですよね。
保護者が「五輪を無観客でやろうとしているような状況で、子どもを東京の修学旅行に行かせよう」と考えるかどうか。

ワクチンはどうでしょう。厚生労働省の最新データです。
モデルナ社(米国)との契約(令和2年10月29日)
 新型コロナウイルスのワクチン開発にもしも成功した場合、武田薬品工業株式会社による国内での流通のもと、2021年8月までに4000万回分、秋以降に1000万回分の供給を受ける。

アストラゼネカ社(英国)との契約(令和2年12月10日)
 新型コロナウイルスのワクチン開発にもしも成功した場合、通年で1億2000万回分のワクチンの供給(そのうち約3000万回分については今年の4月までの供給目標)を受ける。

ファイザー社(米国)との契約(令和3年1月20日)
 新型コロナウイルスのワクチン開発にもしも成功した場合、通年で約1億4400万回分のワクチンの供給を受ける予定。

アメリカのニューヨーク・タイムズ(電子版)が、「東京五輪開催の望みは薄くなった」と報道。新型コロナウイルスの感染が拡大する一方、米国内や欧州各国でのワクチンの普及が予想より遅れていることも指摘した。

ワクチン、7月までに間に合うのか・・・。

アスリートの気持ちはどうでしょう。
五輪に内定している陸上女子の新谷仁美選手は「アスリートとしてはやりたい。人としてはやりたくないです」「命というものは正直、オリンピックよりも大事なものだと思います」と発言。

実際、現実的にはダメなのかも分かりませんね( ノД`)シクシク…。

月曜日に校長に相談し、愛知県内での地元の観光を日帰りで行うことにします。

リトルワールドか、日本モンキーパークかな。

eto_saru_banana

母の計画 inハワイ

母がハワイに行く、と言い出したのが5月。
2年前に父が死んで、「なにもやることがなくなった」と言っていたが、気が変わったようだった。


父が死んだとき、
「これまではお父さんが喜ぶことだけ考えていたら、それで良かった。その相手がいなくなったからなんもすることがない」
若いころからチャキチャキしていて、なんでも思ったことをズバズバ言い、元気がとりえ、という人だったから、その脱力ぶりは見ていて痛ましいほどだった。

「なんでハワイ?ゆっくりしたいのなら、熱海とか、伊豆とか、国内じゃないの?温泉とかで、おいしいお刺身を食べてさ・・・」

国内を勧めたが、今回はハワイだ、と言ってきかない。

「まだ一度もハワイに行ってない。あんた、ハワイの旅館取って、手配して」

母は、ハワイにこだわる。で、結局、面倒くさい旅の準備はこちらに任せる、ということのようだ。

「もうすぐお迎えが来るんだから、その前に、ハワイ」

ちっともお迎えが来る様子は無いがな~、母と同居している姉が苦笑した。

姉と相談しながら旅行の準備を進め、随行することに。
ハワイで何がしたいんですか、と聞いても、特に何もないようだ。
喫茶店をしているので、コーヒーの木をみて、ハワイコナの豆を買いつけるのと、あとはただきれいな海のところへ行きたいんだそうな。

「ハワイコナの農園に見学できればいいよね。それならツアーもあるし」




出発の日が近づいてきた。
あと3日、というところで心配になって電話をかけると、姉が出た。

「お母さん、ハチに刺されたんよ」

足のかかとが、水膨れになっているらしい。

「どっかにハチの巣があるかもしれんで、出発する前に巣を取ってしまって」

出発の日の朝から、ずーっと忙しいぞ、こりゃ、と観念した。



高速をとばし、当日の早朝、実家に着いた。
実家に着くと、そこからすぐに蜂の巣を退治。それが終わったら庭木の剪定。
「本日休業」の看板をみながら、喫茶店の入り口のテラコッタを高圧洗浄機で洗う。
「これからハワイに行く感じがしないぞ」同じように掃除をしていた姉に文句を言うと、まあまあ、と軽くいなされた。

DSC_1356


夕方、中部国際空港で出国手続きをし、あれあれ、という間に機内へ移動。

いよいよハワイか、と鼻歌を歌おうという気分になったとき、隣席の母がふところから取り出したのは、父の写真だった。

「はい、お父さん。いよいよ飛行機にのったよ」

写真にうつった父に、機内をぐるり、と見せている。

「ああ、お父さん連れてきたんだ」

と姉が声をかけると、

「ああ、そうだよ」とすましている。

「喫茶店を10年やったら、いっしょにハワイへ行こう、と話していたんだからね」

どうりで・・・。

今回のハワイ旅行の意味が、ようやく分かった。

このあと、母は父の写真を旅行中に何度も出し、父の目に映るようにまわりの景色を見せたり、料理を見せたり、話しかけたりした。

「おかしな人だと思われなきゃいいけど」

と心配すると、

「思いたい人には思わせておけばいいのよ。人間なんて、思いたいことしか思わない動物なの」

77歳になると、達観するようでありますナ。

はわい


夕暮れ時、母がホテルの前のビーチを散歩しながら、

「お父さん、ここに暮らすのもいいねえ」

と、写真を両手でもって、ずーっと夕日を眺めている。



あたりが暗くなり、ホテルの照明がついた。

母は、ハワイに来れてよかった、と何度もいう。

「お父さんならここに椅子を出して、ずっと海を見てるわ」


買い物もしないし、観光もしない、なんにもしない、77歳のハワイ旅行。

ハワイの酋長に助けられた話

『Down to Earth』 という店で、水筒(ボトル)を買おうとしていたときのこと。

たかが水筒だが、棚にならんだ商品たちはどれもカラフルである。
豊富なカラーバリエーション。明るい黄色もあれば、深い青や淡い水色も、ある。
なかなか日本ではみかけないような極彩色の水筒が並んでいる。

一目で気に入って、これは良い、と選んでいたら、背後に人の気配。
振り向くと、そこに、インディアンの酋長がいた。

正確には、店員だ。

ただ、見た目が、酋長なだけ。

こんな感じ。

img_1



その酋長が、話しかけてきたのだ。


実は、水筒(ボトル)はすべて口が空いていて、キャップは別になっているようだったので、わたしがキャップを別に買い求めようとしているところを、どうやら見咎めたらしい。

その酋長が早口の英語で、

ペーラペラペラ・・・

と話すのですが、

残念なことに、

皆目、わかりません。

ただし、わたしがそのキャップを持っているのを指さしていたので、キャップを買うなよ、というようなことを言っているようでした。レジのところでどうのこうの・・・というような雰囲気。

わたしは、酋長に向けて、

「わたしはこの店内において、この商品を選んでいるところのものであり、正真正銘、このセットが欲しいのである。つまり、一つはこの空のボトルであり、もう一つは、この空のボトルの口に合うであろう、この蓋、である。わたくしは、天地神明に誓って、これらのセットを買おうと思っているのである」

というようなことを懸命に説明すると、

酋長は哀れみ深い顔になった。

そして、さらにクリーミーな、マイルドな声で、幼子を諭すように、

「お前はこの蓋を、ここでボトルに合わせる必要がない。蓋をボトルに合わせるな」

という。

わたしはこの酋長が言いたいことが、いまひとつ、理解できない。

そこで、酋長の正体を知りたくなった。
あれこれと彼の人となりを観察してみると、どうみても、首から上は酋長然としているが、服装はかんぜんに、店員のそれ、である。

上着は他の店員と同じもの、つまり制服を着ている。
しかし、腰から下はまた、酋長、なのである。
どうみても、店員には見えない。

「こいつは、地元の有名なインディアンの酋長で、今日、たまたま店員と同じような服を着ているのかな」

と怪しんでみたが、彼はニコニコとしながら、他の商品をせっせと整理したり、並べなおしたりした。そしてまた、わたしを見て、にっこりとスマイルをしてみせた。どう見ても、しぐさとやっていることは、店員のそれ、である。しかし、店員とみなしてみても、そのセリフが理解できない。

店員であれば、いうべきことは真反対であろう。
挙動不審な日本人がボトルとキャップを握りしめていたら

「お前はぜひそれを買え!」

というべきであろう。

「どうせ日本に帰ったら、そのキャップは買えない。だから今、そのキャップを忘れずに買え!」

と。




わたしは酋長には黙って、ないしょでボトルのキャップを掌(てのひら)に隠すように持ち、レジへ向かった。

そしてレジに行きつくと、かわいらしい若い女性の店員に計算してもらうと思っていたら、直前でアクシデントが起きた。

なんと、わたしがそろそろ順番になるかと思いきや、急にロシア人のような大男があらわれて、

「お次の方、こちらへどうぞ」

と言ったのである。

そいつはむくつけき胸毛を生やし、腕にも剛毛が生えていた。まくりあげた半そでのすそからは、紫色のタトゥーが見える。
しかし、彼もまた、店員なのであった。

わたしはチラッと、若い女性店員をみやった。
彼女は現地の人らしく、小麦色に焼けた肌で、愛くるしい顔つきの娘である。
彼女の細長い指で、レジをピッピとこなしてほしかったが、もう目の前には愛想笑いで人の2倍くらいある頭をもつ、ひげ面の大男がわたしに向けて手を差し出している。

観念してそっちへ行くと、その大男は、短く、Oh!と言い、

ボトルのバーコードはピッと読ませたが、キャップは何か机の下からささっと取り出してボトルの口金のところに入れ、締めたあと、

「これは無料なのだ。ただいまキャンペーン中だ。お前さんは今日はラッキーだった」

といった。

怪しんでレジから出てきたレシートを見ると、たしかに蓋(ふた)の料金は取られていない。
巨人がくれた蓋を見てみたら、彼が正しく締めてくれている。

どうやら、インディアンの酋長と、このロシアの巨人は、2人とも、正しくサービスをしてくれているようであった。見知らぬ東洋人を『だまくらかそう』とはせず、とても良心的なのであった。

わたしは人は見かけによらぬ、ということを常々、自分に言い聞かせているものであるが、今回は海外で慣れぬカードを使ったりと緊張していたせいもあって、そのことを忘れかけていたようだ。

おまけに、ハワイというところは、人種が多すぎる場所なのである。

表に出て歩いてみると、そこは世界人間博覧だ。

白人、頭髪の黒い白人、金色の白人、茶色の白人、赤毛の白人。
黒人、インド系、ロシア系、オーストラリア系、中近東の人。

東洋人にもいろいろいる。
中国人、韓国人、日本人、東南アジア系。

現地の人にもたぶん、いろんな人がまじっている。
ポリネシア系、ミクロネシア系、さまざまだ。

体形がまたすごい。
巨漢の人、激やせの人が、交互に向こうから、歩いてくる。

服装も、やはりすごい。
ビキニの人と、スーツの人、ムームーの人、アロハの人、そしてポロシャツの日本人。それらが、見事に交互に向こうからやってくる。めまいがしそうである。
だから、ハワイに来ると、だれもが隣の人を気にしなくなる。隣が何人だろうが、気にしているとくたびれてしまうからだ。

おそらく、隣に頭に角が3本生えた宇宙人がいても、帽子を足にはいた人がいても、もはやだれも気にしない。それが、ハワイなのである。


その後、なにげなくさきほどの可愛らしいレジの女の子を見てみたら、客がいない隙に

なにやら鼻の穴に白い紙をまいた筒状のものを入れて、吸い込んでいた。
そして、すこしトロン、とした顔つきになった。

あれはなんだったのだろう。
人はみかけによらぬもの。バイアスをかけるのが人間。バイアスをとりのぞく努力は、けっして無駄にはならない。

鉄則は、いつでもどこでも、通じるものだ。
「バイアスは取り除け」
これは、ハワイでも通用する真理なのであった。


organicstore

タイヤの交換のお兄さんがプロだった件

タイヤがかなりすり減ってきました。

まだまだ走れると思うが、なんとなくタイヤから
「わたし、疲れましたわ」
という声が聞こえてくる。

5万4000キロ走ったタイヤ、製造日から数えて4年半。
ほんとうに、お世話になりました。
溝を見ると3mmほど。最初が8mmほどの深さでしたから、半分以下です。
まだまだいける!という心の声も聞こえましたが、安全重視で交換することに。まぁ、5万キロ走ればいいじゃないか、ネ。


そこで近所のオートバックスに行くと、

んまー、お高いのね、タイヤって!!


店員さんが近寄ってきてくれて、

「はい、タイヤですかー?」

とのこと。

イケメンで、ちょいと茶髪です。
眼のふちが切れ長で、大阪弁でいうところの、「シュッとしてはる」感じ。
車が似合う、という雰囲気で、エンジン音に耳をすませている真面目な横顔なんぞ、なんだかしびれるほどかっこいいタイプ。


こっちはもうくたびれたおっさんなので、遠慮がちに伏目になり、財布に金が入っていない敗北感と罪悪感にうちのめされながら、

「・・・タ、タイヤです」

と最小限の声のボリュームで喉を詰まらせながら言うと、

「ハイッ!タイヤですね!」

と、鮪(まぐろ)か鰹(かつお)を売る魚屋のような威勢の良さで、言う。

このお兄さんからタイヤを買えば、ピチピチと跳ねる、とびきり生きの良いタイヤが買えそうだ。

「魚を買いにきたわけではない」

と自分に言い聞かせながら、それでもお兄さんがこちらへ、と手招きする方へ、無意識に誘導されて行くと、そこには黒々と輝く新品のタイヤが所せましと並べられていて、タイヤ特有の、オイルのような匂いまで漂っている。


「はァい!ご予算のホウは、どのくらいですかァ!」

とお兄さんは、店内に鳴り響けとばかりに声を出す。

はいッ!ざっとタイヤ4・本・分でこちらになりますが、これに工賃、タイヤ組み換えですね、ホイールから外してつけてそれから廃タイヤ、今までのタイヤの廃棄、そしてエアバ・ル・ブ、・・・の交換とですね、窒素ガスを充填、させていただいてッ!もちろんホイールの調整も含めこのお値段になりまーす!」


声の大きさと文字の大きさをリンクさせてみました。

これを聞くと、この店員さんがこのセリフを声に出すまでにかなりの修練を積んだことがうかがえた。おそらくこのセリフを一日に何度もくりかえしているのだろう。魚屋は知らんが、このように定型的なセリフに、独特の節回しがつくことはよくあることである。

よくあるのは、「わらびもち」そしてご存知の「やきいも」だ。
また、ちり紙交換や廃品回収なども、昭和の時代はまだアナログで、おじさんがちゃんと拡声器を通して、生でしゃべっていたこともあるくらいで、『売り声』として完成されていた。

コンビニでも「おにぎりあたためますか」とか「お会計〇〇〇円です、△△カードはお持ちでしょうか」とか、短いけれども定型的な言葉、というものがありますね。
フランチャイズのファミリーレストランなどへいくと、お席へご案内いたします、おたばこはお吸いになられますか、〇〇御膳が1品でよろしいでしょうか、お飲み物はドリンクバーでご自由にどうぞ、などと一連の定型文が見られる。

しかしこれらの文からは節回しは消滅している。どちらかというと抑揚が抑えられ、平坦なイントネーションになっている。これは一文ずつが客との応対になっているため、誤解がないようにということ、聞き取りやすいということなどがあり、しだいにこうなっていくのだろう。

このタイヤ屋のお兄さんは昔、なにかわらびもち、あるいは焼き芋を売っていたことがあるのだろうか。その抑揚の付け方が独特でもあるがなにか耳に心地よく響き、ある種の芸として成立しかかっていた。

わたしは昭和の古き時代、まだわたし自身が幼少であったころに、田舎の爺さんの家の近所で、「豆や」が「豆」を売り歩くのを見たことがある。

わりと堅く、教科書的に声を出していた。
「あずき、きんとき、うずら豆ッ!」
最後のマメ、というのを、まるで歌舞伎役者が見得を切るときのように『まメッ』と決める。
「そらまめ、えんどう、ひよこ豆ッ!」

わたしはおもしろいおっさんが来たと思って、何度も見に行ったものである。


納豆の売り声は落語でも聞けるが、「なーっとなっとーーーーーーなっと」という。
納豆は糸をひくので、こう間が糸をひくのです。

サツマイモを売る人の売り声は、芸がみえるところで、声だけで「蒸かした芋」か「焼き芋」なのか、客が判別できたそうだ。
蒸かしたいもは、ふわっと言う。「ふぁ~~、さつまいふぉ~」
焼き芋は、
「やーき、いーもーーー、おいもッ。あまくーてー、うま〜い、よォーー・・・あっつあつッ!・・・」
夜の静寂(しじま)をぬって、街のどこからか家々の屋根越しに、おじさんの焼き芋を売る声がきこえてくると、なんだかとてもいいものでありました。



考えてみると、彼も、なにかそういう芸をめざしているようでもあったナ。

彼のスマートな指先が、紙の下の方にある赤い数字を指さしたのを見ると思いのほか安く、どうやら広告の品かなにか、格別に安いものであるらしかった。

わたしは値段よりも、そのお兄さんの売り声について、彼に、二、三、質問をしたかったがぐっとこらえ、ともかくその芸に対して金を払うつもりで、おおようにうなずいた。

求められるままにキーをあずけ、店内に誘導され、座らされ、なにか会員だとかなんとか・・・住所など書かされた気がします。ほとんど覚えていませんが、終わってみるとあのお兄さんが目の前にいて、

「タイヤキできました!」

とびきりの笑顔でわたしを激励してくれました。


今や魚屋の若衆にしか見えない店員の背中を見ながらガレージの方へついて行くと、わたしの愛車が黒々とした新品のタイヤをつけて、わたしを待っておりました。



「・・・が・・・になってまして、・・・となります!・・・これでいいでしょーかー?

お兄さんが何か許可を求めてきたのですが、最後まで売り子の売り声としては完成度が高い物であり、芸を感じさせる領域に達していた。

教師も、かくあるべきであろう。
毎日の起立、礼、着席とか、
朝の挨拶をします、おはようございます!とか、
定型文はたくさんある。

そのうちにうちのクラスでも、
朝の健康観察ぅー、ひいた人はーいまーせんかぁ
などと節をつけて言えるようになるかもしれない。

いやー、新品のタイヤ、いいですわー!
なんか、スーッとすすむ気がする!
ちょっと静かになったー。
いいですね、たまにはタイヤ交換も。

連休中だけど開店しててよかったー。


わたしはこの年になるまで、タイヤ屋さんというのが、こんなに生きの良い生鮮売り場のような雰囲気だとは知らなかったですナ。


たいや

京都歴史旅4 桃太郎伝説の背後にあるもの

歴史研究家でもあり、英語とロシア語の観光ガイドでもあり、クイズ王でもある加藤さんは、
「おう、いたいた!」と声をあげて、屋根を見上げた。

なんとそこには、猿がいた、じゃないの・・・えー・・・。

IMG_3780

なんでも、顔を長い御幣という神祭の道具で隠しているらしい。猿の顔は、残念だけど見えにくかった。

烏帽子(えぼし=帽子)をかぶり横向きに座った猿が、御幣(ごへい=神事で使う道具)を持っている。この方角を護っているわけは、北東の反対側(南西)が、丑寅の逆で未申=ひつじさるだから。方位の考えでいけば、猿は、鬼に対して、強いのだ。

ここで、さきほどの屋根の上の桃を思い出していただきたい。

鬼、猿、桃・・・とくれば、

「桃太郎」ではないですか。

「あのう、桃太郎に、猿が出てくるのは、鬼に対して強い、というイメージだからでしょうか?」

遠慮がちにクイズ王に向かって質問を繰り出すわたし。

ハンチング帽をかぶったクイズ王は遠い眼をしながら、

「まさに、まさに」

と、うなずく。

「そうでしょう、そうでしょう。出てくるでしょう!鶏も犬もいっしょに、ね」

ははあ。

「え、じゃあ、鶏も犬も、あれは干支の・・・」

わたしがようやく合点した顔を見せると、加藤さんは目を細めて

「点と点が、つながったでしょう」


そうだったのか。

鬼を退治したい、という人々の願いは、古来より長い年月をかけてこんなにまで精神の奥深くまで浸透した結果、子どもの寝物語に話す『昔話』にまで発展していったのか。

なによりも北東、という方向が、鬼の居場所であるらしい。
すべての災いが、こちらの方角だ、ということだったようだ。
ことさらに、「北東」を怖れる古代人。

京からみると、北東とは、ずばり比叡山の向こう側、琵琶湖、そして、今の長野県を通って東北地方へと続いていく。都の人々は、潜在意識の中で、この方角に住む得体のしれない者たちへの、不安を蓄積していたのだろうか。

坂上田村麻呂が天皇の命令を受けて、活躍したころのこと。
田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており(蝦夷征討)、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。

このころから、北東は「鬼がいる方角」になったのであろう。
そして、北東は牛と寅。牛の角をはやし、寅皮のふんどしをはかせ、北東には怖ろしい者が住む、というイメージが流行した。

5e66ca80

そこで、

「鬼を退治するには、北東とは真逆の、南西の方位にいる奴が、いちばんいいだろう」

昔のストーリーテラーが、こう考えたのもうなづける。

「ええと、南西というと、・・・猿と羊か・・・。うーん、ひつじが鬼に勝つかなあ」

作家の脳裏では、ひつじのショーンが必死の形相で、懸命になって鬼にかみつくシーンが何度も脳内で再生されたにちがいない。

「やっぱ、だめ!ひつじじゃ!」

そこで、ひつじ(未)ではなく、逆側に座っていた鶏に目を向ける。

「鶏なら、鬼に勝つのでは?」
「ばか、鶏なんかすぐ焼かれて食われちまうぜw」

編集会議でも、反対意見はあっただろう。
ところが、

「猿、単独では物語に深みが出ない。この際、ニワトリというより、大きな鳥(酉=とり)というくくりでもって、雉(きじ)に登場してもらったら」
「そうだなあ。キジならある程度、飛行能力もあるし、鬼ヶ島の様子を偵察しにいく、という役がまわせる」

ということになり、猿と雉(きじ)が登場人物に確定した。

編集会議の終わり際に、

「でもさあ、雉が偵察に出たとしてもだよ」
作家たちの間でも、偏屈者として有名だった巖谷小波が、パイプの煙をくゆらせながら、言う。
「その2匹だけじゃあ、鬼には勝てんだろう」

腕組みをして考え込む、若手作家たち。

巖谷小波は、力強く、こぶしを振り上げて言う。
「鬼ののどぶえを食い破るくらいの、凄惨な致命傷を負わせるくらいでないと、これからの日本は強くならんだろう」
「たしかに!」

こうした流れで、登場人物のさらなるインフレが起こっていったのは間違いない。
猿の隣の『トリ』、そしてさらにその隣より『犬』が選ばれて、家来に確定したのだろう。

もしも逆方向に目を向けていたなら、今頃、桃太郎の家来は、馬とへびだったはず。

おお、馬とへびの方がむしろ・・・。



わたしは、ここまで夢想してみて、最初の疑問に舞い戻った。

「なぜ、そもそも桃なのでしょう?」

加藤さんに率直にぶつけてみると、

「ああ、そりゃ。桃には不思議な力が宿ると言われていたからね」

とあっさり回答。

あとで調べてみたら、なるほど、もともと桃は、仙人の食い物であった。

こんなふうに、猿を見上げながらしゃべっていたら、さきほどの同志社大学の女子学生たちが、興味をもって近寄ってきてた。桃太郎だの、犬だの猿だのと、われわれが大声でしゃべっていたのに注意を惹かれたらしい。

加藤さんが気が付いて、

「ほら、あの屋根のところ。猿がいるでしょう」
「え?猿・・・?おさるさんがいるんですか?」

女子学生たちは、地元っ子ではないのだろうか。
だれも知らなかった様子で、わいわいしゃべっている。

わたしは、桃太郎の家来の中で、もっとも最後に加わったのが犬っこキャラであったことを思うとせつないのであったが、加藤さんが女学生たちに一生懸命にガイドしている姿を写真撮影するのであった。

御所の猿の説明

↑ クイズ王が、女学生に猿を教えている図。

さて、こんなふうに珍妙な「学習」をしながら、わたしはプロのガイドと共に、よい時間を過ごした。
南禅寺の門にのぼって石川五右衛門の真似をしたり、大文字の山をみつけて京都の地形を考えたり、『仮名手本忠臣蔵』七段目で大星由良助(史実の大石内蔵助)が遊んでいる祇園の一力茶屋のモデルになったとされる万亭を見たり、あれこれと充実した午後であった。
中でも琵琶湖疎水をふんだんにひいて池泉回遊式の庭園をつくった山方有朋の「無鄰菴」では、他にお客のいない、めずらしい10分間を、しずかにゆったりとくつろいで過ごすことができ、われながらなかなか上出来な旅(プロガイド付き)であった。めでたし、めでたし。

(本当はもっとこの日の夜が面白かったのだが、これ以上書くと終わりそうもない。また、旅の思い出は思い出した時に記そうと思います)

京都歴史旅3 なぜ桃太郎は伝説化したのか

御所の北東を歩いていると、同志社大学の運動部の女子学生がいた。
どうやらこれから陸上?か何か、トレーニングを始めるところらしい。
同志社大学は御所のすぐ隣だから、この広い御苑の敷地が、格好の運動の場になっているのらしかった。

女学生たちは、走り出すタイミングを待っていたようで、だれもが真剣になって、アキレス腱をのばしたり、腕を振ったり、どうやら身体機能を極限まで高めるための準備に余念がない。

加藤さんはその女子学生の脇を通って、わたしにある場所を指さした。

IMG_3776


ここは、広大な京都御所からすると、ちょうど北東にあたる場所。
外側からみてみると、角が、ぼこっとへこんだような形になっている。
なにか変である。
こんな形になっていることなんて、ちっとも知らなかった。


わたしが不思議そうな顔をしているのをみて愉快そうに、

「どう?変でしょう?」

と、加藤さんはわたしを煽った。

こんなふうに、土地をへこませるのには、わけがあるようだ。
わたしは想像をして、

「わかりました。ここに、見張り番がずっといたのではないですか。角っこに2人とか3人とか、立っていて、見張っている係りの人が・・・」

加藤さんは、にこにこして私を見ている。
わたしは続けた。

「で、このスペースに、椅子か何か置いて、ちょっと水でも飲んだり、お弁当を食べたりしながら、見張ったのでは」

クイズ王はいたずらっぽく、「ちがいますねえ」と涼しい顔だ。

「ヒントは、方位です。北東です」

北東、と聞いてぴん、ときた。
古代より、方位、それも北東となれば、重要だ。ここは、鬼門なのか。なるほど。

「御所からすると、ここは鬼門ですね」
「その通り」

古代の人は、ようするに、鬼門をつくりたくなかったのだ。
北東の角を、きちんとつくってしまうと、そこから魔が入る。
だから、あえて、「北東の角」を「ぼかした(カドを取った=角ツノを取った)」。

それが、このみょうちきりんな、角の形状になったわけである。

加藤さんはその後、そこから屋根の上を見上げて、「おう、いたいた!」と歓声をあげた。

プロのガイドが見上げる、その先には・・・。(つづく)

京都で歴史を学ぶ旅 その2

御所を歩きながら、「ここはかつての公家がいた団地みたいなとこで・・・」と加藤さんが言う。
古来より、天皇家を支える公家の集団がいた。大中小の公家族が、御所のまわりをとりまくように住んでいたらしい。長屋や団地のように、ずらりと並んだ公家の屋敷が並ぶ様を想像しながら、わたしは歩いた。

京都の御所


「蛤御門」に着いた。
「鉄砲玉の痕跡だと言う説もあるし、そうではなく、なにかのキズだろう、という説もあって、断定できないけれど、ありゃあ鉄砲の弾のようだけどねえ」
加藤さんは鉄砲玉説をとりたい、という。

IMG_3710


IMG_3709


「ところで、なんでハマグリの門なのか、分かりますか?」

加藤さんの顔がにやっと笑う。
なにしろこの加藤さん、クイズ王としてアタック25で優勝したことがあるのだ。優勝の景品としてテレビ局が招く海外旅行の経験もあるという加藤さんが、雑学を披露してくれるのは、ちょっと愉快であった。

「江戸時代に大きな火事がありましてね。市中がほとんど燃えたのですよ。ところが御所は大きな門で閉ざされている。ふつうは門が閉まっているから逃げられないんだけど、火事が起きたときはここからの通行が許されたのですね。それで『焼けて口あく蛤』ということで、ハマグリ御門とよばれることになったらしいのですねえ」

加藤さんは御年69歳、まもなく古希を迎えられる年。
ざっくりと教えてくださる雑学が、わたしの中のさまざまな歴史学習のデータと次第に結びついてくる。ちょっとした質問やわたしの反応に、敏感に反応してくださるのがありがたい。さすがはクイズ王、という感じ。

次に、加藤さんがちょっとこれ見てみてください、と示したのが、これ。

屋根の瓦の先っちょについている、紋様(モンヨウ)だ。

IMG_3716


菊の紋章


「ああ、あの先のマークは、菊ですよね?」

天皇家のいた場所なのだから、その家柄を表すための紋様として、菊のデザインが使われたのだろう。そう思った。ところが加藤さんは、ちがう見解を述べた。

「わたしは、これは、魔除けの意味だろうと思う」

なんと、呪術的な意味のある、文化人類学的な視点での、紋様だという。

菊は、除虫菊なんてのもあるとおり、昔から匂いの強い特別な植物だ。動物や虫が嫌うような、強い芳香をもつ。それをデザインにあしらっているのは、他から悪いモノをよせつけない、という意味が一番強いのじゃないか、と加藤さんは持論を述べた。

なるほど。
菊は独特の芳香がありますね。昔からお便所で蛆の発生を防ぐのに使われたり、台所の食品保存で使われたりするなど、殺菌のために用いられる植物であった。大事なものを護ろうとするとき、まっさきに古代の人が頭にイメージしたのが、身近な植物、「菊」だったのではないか。
そう考えると、今の天皇家が用いる菊のデザインも、古代の人の知恵がリンクしていると思えてくる。

わたしはそれから、建物を見る際にはよくよく、その屋根にあしらわれた紋章を見るようにこころがけることにした。

御所の瓦には、ほとんど菊マークが使われている。
ところが一歩御所を離れ、同志社大学の構内を歩いていると、それが違ってくる。
でんでん太鼓に描いてあるぐるぐるとしたマークになっているのだ。

でんでん太鼓マーク


「加藤さん、あの、ぐるぐるっとしたマークは、何なのですか?」

クイズ王の加藤さんが即答する。
コインを投げ込むとすぐに反応してポチャンと水音をたてる、湧き出る泉のような脳をしているのだろう。加藤さんによると、あれは、もともとは無限・永遠をあらわす意匠。始まりと終わりが境無くつづいている。とめどなく流れる水の動きにも通じていて、建物にはよく使われるらしい。

なるほど。でんでん太鼓のマークとばかり思っていたが、あの模様にも、かなり深い意味がこめられていたようだ。

ところで、見ていくと、さまざまなものが、屋根の突端に、くっついているのである。

IMG_3783


IMG_3786


IMG_3784


IMG_3789


「ふひえー」

わたしは一つ一つをみるたびに、

「ああっ、ここは鳥だ!」

とか、

「あーッ、ここはなんか変な動物がッ!」

とか、

「ふひゃあ、ここは桃がくっついている!」

とか、そのたびに驚いて立ち止まるので、通行人と何度かぶつかりそうになった。

クイズ雑学王の加藤さんは、そのたびに、ああ、あれはですネ・・・と語ってくれるのだ。

京都を旅する際は、雑学王でクイズ番組に出て優勝したくらいの方をガイドに依頼した方がよいことがこのことだけでも分かろうというものだ。

この中で、一番分からないのは、桃、であった。(つづく)

【6年社会・歴史】京都旅行で新年度の準備

今回、わたしはかねてからお会いしたかった京都のプロのガイドさんに会うことにした。
6年生の担任をする、と決まる頃から、歴史の授業を大事にしたい、と思うようになったからだ。
京都を久しぶりに歩いてみたい。
それも、きちんと、ガイド付きで。
歴史の授業に、新たな視点が加わることだろう。

京都駅に着くと、八条口とは反対側の中央出入り口に出た。
ここには、羅生門の模型が立っていて、ちょっとした写真スポットになっている。

羅生門1


わたしが羅生門の説明をモニターで見ようと近づくと、帯(おび)を貝の口にきゅっとしめた粋な着物姿の欧米人が、i-phoneで自撮りしているところだった。
その欧米人はさまざまな角度で自分を撮影していたが、結局、羅生門をナナメ下から見上げるような角度がもっとも気に入ったらしかった。

彼は表情をさまざまに変え、髪をやわらかくかきあげたり、顔の向きを変えて流し目をしたり、いろんな工夫をした。3分ほどして、わたしが凝視していることに気付いて、はにかんだような笑顔になった。
わたしは「OK、OK、気の済むまで自撮りしてほしい」と思い、それを伝えようとした。

「OK、OK、I want you to take your self-portrait ・・・until you feel good」

顔を赤くして、なんとかしどろもどろの怪しげな英語を繰り出す。
すると、たいへんにきれいな日本語が返ってきた。

「すみません。お邪魔でしたか。羅生門を御撮りになりますか?」

フランス仁1


いえ、人を待っているので、大丈夫です。
わたしはボディランゲージを駆使して顔の前で大げさに手を振って大丈夫だという意を伝えたが、その後、彼が芥川の小説を知っているかどうか、とても聞きたくなった。
うまく聞けるか自信はなかったが、

「Do you know the story of RASHOMON written by AKUTAGAWA・・・」

すると、たいへんにきれいな日本語が返ってきた。

「ああ、羅生門は小説で読みました。ちょっとこわいところもありますが、京都に住んでいる身としてはとても身近なオハナシですね」

彼はどこまでも端正な顔立ちを崩さず、真面目にしっかりとした口調で話した。
どこの国から来たかとこれまた必死の英語で尋ねると、母国はフランス、と言う。
フランス語だったのか、しまった、とわたしは思った。
わたしが残念そうな顔をしていると、涼しそうな着物姿の彼はわたしに、

「観光ですか?」

と尋ね、わたしが懸命に、

「ウイ、ウイ」

と言うと、笑って「京都を楽しんでくださいね」と、言いながら去っていった。


さて、今回お世話になるガイドさんの名前は、加藤さん。
英語とロシア語のふたつのガイド国家資格を持つ、プロである。
加藤さんの話によると、ロシア語のガイドは数が少ないため、ロシア語メンバーがあつまると、プーチンの通訳はどうだったか、などの話題がふつうにあるそうだ。プーチン相手の仕事の依頼が来るなんて、面白すぎる、とわたしは思った。

加藤さんといっしょに、まずは御所へ行った。
京都御所は、かつては事前の申し込みがなければ参観できなかった。たまに一般公開があったが5日間ほどと短くその期間に観光客が殺到したそうだ。しかし今では通年で公開されるようになったため、御所はとても身近になった、と加藤さんは話した。

御所のまわりの広い公園につくと、朝早くからすでに多くの人が思い思いに歩いていて、桜や桃などの花が、はんなり、と上品に咲き誇っている。
歩いている人はいるけれど、静かに無言でその雰囲気を味わっている人が多く、喧噪はない。あたりはまったく、しずかで不思議な雰囲気で包まれていた。(つづく)

IMG_3704


IMG_3705

ぶらり!富山の旅へ!

.
束の間の春休みだ、ということで、家族会議を開き、

「たった一日だ。しかし、長距離ドライブも可」

というと、嫁さまも息子たちもみんな興奮し、

さしみ!魚!

とわめくので、富山へ行くことにした。




たちまち富山につくと、街の様子がおかしい。

なにがオカシイかというと、やたら看板がでかい。

これは、故郷の岡崎市をしのぐ大きさで、おそらく条例などがなく、

資本主義の自由気ままさによって、それぞれの店が
◎可能な限り、大きくしたい

◎可能な限り、目だちたい

◎資本主義は、目立ってナンボや!

という方針で、ただただ、ひたすらに自分の店の繁盛を願って看板のでかさを競い合った結果なのだと思う。


資本主義を楽しむには、半分狂気のようなものが必要だ。
テンションが高くない資本主義は悲惨。

われわれは、資本主義を選んだのだ。
看板もこのくらいテンションが高くないといけない。

大声で店の前で叫び、ゆるキャラがダンスするくらいでないと。
また、空の上からはセスナ機が叫びまわるくらいでないと。

そうでなければ、資本主義は楽しくない!



しかし、看板をでかくする、ということが

かならずしも、売り上げの向上には、むすびつかないことがわかって、

ちょっとばかり、疲れてしまったように見える。


疲れる前は、町の中にどんどんとでかい看板が立ち始め、それを見ながら

「やるな、ムムム!」

とお互いに切磋琢磨する気分というのは、なかなかに面白かったろう、と想像される。

どんな計画も、思いついて、実行に及ぶ、初期の活動の盛り上がりというものがある。



さて、


とびきり極上の看板がならぶなか、これが一番や!と息子が太鼓判をおして推薦したのが、これ。この看板。

P1190144


なんだかカレーを売ってるのだか、ゴリラを売ってるのだか迷う。

店内に入ると、これまた、そこかしこに見える、ゴリラマーク!!

ゴリラで、ゴーゴー!!

の嵐でありました。



こういうふうに「富山・看板さがしの旅」を終えたわけですが、やってみて息子の感想は、

「たまにはこんな刺激も欲しい」

ということでした。

つまり、ふるさと岡崎市は、刺激が少ないそうです。


「でも、たまに、でいいけどネ」

ふいに黙ってしまって、岡崎市会議員にでも立候補して、岡崎を刺激的な街へと変貌させるのが親の役目だろうか、と考え始めたわたしの横顔をみながら、やさしい息子はあわてて、そう補足したのでありました。


下は、通常の電柱の高さをはるかに超え、競い合って空中高くにそびえ、伸びていこうとする看板たち。もちろん、ゴーゴーゴリラの看板は、3階建てのビルに匹敵するくらい、超特大であります。

P1190147

【驚愕】いまどきの献血はリクライニングで音楽を聴きながら

ふと思いついて献血をしてきました。

駅ビルの献血ステーション。


なんと、リクライニングシート!

とっても楽な姿勢で献血ができます。

おまけに目の前に専用の小型テレビがついていて、
番組をみて笑っているうちに終わる、という仕組みです。

kenketsu2

耳もとの、枕(まくら)のところからステレオで聞こえてきて、すこぶる快適!


ところが、400CCを取り終わるころ、看護婦さんがひょいと
足元からビニール袋をもちあげたのです。

同時に、真っ赤な液のたっぷり入った袋が目に映りました。

たっぷりの、血液。

あれ、本当はみんな、わたしの血液だったんだ・・・。

(ゲゲ・・・、ウチの血が、あんなにも・・・)

と思った瞬間。

急に頭の芯がスーと涼しくなってきて、めまいに襲われました。

あーーー・・・

声にならない声がのどからしぼりだされ、
顔色が、ゲソッと変わってくるのが自分でも分かりました。

medical_yuketsu_ketsueki_pack

看護婦さん・・・。

「だいじょうぶですかッ!!」

隣のおばちゃんから、悲鳴に近い声があがる。

美人の看護婦さんが、驚いて駆け寄ってきた。


所内がざわついて、3人の看護婦が私を取り囲みました。

それまでわりと事務的な雰囲気だった献血ステーションの空気が、急変。


ひとりが血圧をはかり、もうひとりが脈をはかる。
そして、先ほどの美人看護婦が、なにを思ったのか、
私が座ってたシートをガクーーンと、さらに深く倒しました。


そのときの心境は、

「・・・ウチは、もう・・・、あかん・・・(死ぬ)」


そのまま水平になって寝ていると、美人看護婦さんが

「アクエリアスを飲めますかッ?」

ひどくあせったような声できいてきたので、
こっちも焦ってしまい、
途切れ途切れに、

「・・・あ・・・は、・・はい」

というと、すぐに奥の部屋からブルーのやつをもってきました。

しかし、冷蔵庫かなにかに入っていたのが、
急にあったかい空気にふれたからでしょうか。

そのアクエリアス(袋状)のキャップがあかない、開かない・・・。


力が入らないのです。手から握力が、消えてる。

手が動かん・・・。(*_*;


すると、それを見て、すでに悲痛な顔もちになっている美人看護婦が
私の手からアクエリアス(ふくろ状)を奪うようにしてとりました。

そして、キャップを開け、わたしの手に握らせてくれました。

そのときにかすかにふれた彼女の手の肌のきめのこまかいこと。
(どうでもいいが。)


目の前が暗くなっていたが、それを飲んでたら
そのうちしだいに落ち着いてきた。

眉間にしわを寄せて、沈痛な面持ちの美人看護婦が目の前でしきりとしゃべってる。

帰り道で、気分が悪くなったら
すぐに横になるか、もしくは、しゃがんでください、
とのこと。


え?ということは、そういう可能性があるってこと?

「いいですか、電車のホームのぎりぎりのところは絶対に!歩かないでください」

ホームから落ちるかも、ということか?

これをきいて、まためまいがしてきた。

もう帰れるかと思っていたが、そこから開放されるのに、
まだ時間がかかった。

それからさらに医者に厳重な注意をうけ、受付の人にも、すっげえ真剣な顔で、

「気分が悪くなったら!!すぐに!!すぐに、しゃがんでくださいよッ!!」

といわれて、

さっきも同じこと聞いたよ!と思いながら・・・

最後には受付が、ごていねいに

「気分の悪くなられた方へ」という印刷した分厚いカラーのパンフレットを手渡しながら、
(そんなものまで用意しとる!)

「無事にご自宅に帰られるかどうか確認が必要なので。
いいですか、必ず、かならずですよ。折り返しの電話をしてくださいねッ!」


だと。

(帰ってから、電話しといたよ・・もう二度と献血はしまい)

修学旅行で東京へ

.
10月の最初に、勤務校で修学旅行へ行ってまいります。
あと、1か月。子どもたちもだんだんと近づいてきたのでちょっとワクワク。

行き先は、東京。
わたしは両国国技館での相撲観戦が希望だったのですが、秋場所にちょっと間に合わない。
今年は、9月11日(日)が初日。千秋楽が9月25日(日)の予定です。
この予定を見た時、なんと悔しかったことか。

先日、土俵入り、という話をしたら、子どもたち、キョトンとしていた。

「ほら、お相撲さんがハッケヨイ、とやる前に、行司さんが言うでしょう?」

いったい、なんだ? という雰囲気。

「ひがァーーシィーーー、たかのぉーーはぁーぁなぁ~、・・・にぃいシーーーー、ってやるでしょう?」

というと、

本当に、教室中の空気が固まったようになって、

「へえ・・・」

まあ、先生が変な声を急に出して、真剣に語り掛けてくるから、まあちょっとふつうの態度をとっておこう、という教師への配慮が見え見え。
ふつうだったら、

ドハハハッハ!!!


と笑うところだけどね。

・・・という感じ。

「知らない?」

というと、

ほとんどみんな、こくり、とうなづく。

そして、勇気を出して、ほんの数人が、

「なんか、なんとなく、知ってるかもしれない」

と真剣な顔で言い出した時は、わたしは本当に目の前が暗くなって血の気の引く思いがした。

さらに追い打ちをかけて、

「ええええ???本当に?本当に知らないの?」

というと、みんな、うん、と。

153


「東方ハ、朝弁慶、神奈川県平塚市出身、高砂部屋。西方ハ・・・、とか言って、場内アナウンスとか、聴いたことない?」

「知らない」

「ええ、え、えっ、えーーーーつ、じゃああ、テレビでお相撲さんの試合、見たことない?」

「うん。一度もない」




小学生、知らないって。

相撲って、ほんとうに、国技か?




ということがあって、ぜひとも東京に修学旅行に行くのなら、歌舞伎か落語か、それとも相撲か、なにか見てきましょう、と提案していましたが、通りませんでした。

新宿中村屋のカレーを食べて、相馬愛蔵についてお店の人に話を聴きたい、という提案も、通りませんでした。

話題の築地へ行き、移転の何が問題なのか、お店の人の生(なま)の声を聴いてきたい、という提案も、通りませんでした。

結局、無難なところで、東京ディズニーランド。





わたしは子どもたちに、まあ今年はそうなっているのだけれど、なにか自分たちでもし、旅行を計画できるとしたら、どんなツアーがよいですか?と尋ねたところ、わりとみんな自由にあれこれと考えていた。

一人は、先生、静岡でもいいですか?と言い、自分は富士スピードウェイへ行き、みんなとママチャリで走ってみたいのだ、といった。

なるほど。そいつはいいねえ。

また別の子は、ゴジラの撮影場所を見たいので、調布の撮影所へ行って、映画の舞台裏を見てきたいと。

なるほどーーーー。



子どもたちの希望する修学旅行を、国語の学習と絡めて、パンフレットでつくることにした。

出発の時間から途中で寄る、高速道路のサービスエリア、経過時間、料金、すべて調べて自分なりの計画を立てることになった。やることは、ほとんど旅行代理店の業務である。

「こういうことを調べて、お客さんにどうですか?と商品としておすすめする仕事があるよ。」

「へえ。自分がついていけるなら、いいなあ」


ツアーコンダクターって、楽しそうだよねえ。

修学旅行へ行く前から、話はどんどん広がっていく。

修学旅行

日の出を見に行く

.
車をとばして、日の出を見に行った。

その瞬間、目の前に
一本の、光の道ができた。

太陽の光は、1億5000万キロの彼方から、
あっという間に、そこら中に届く。

世界は、すべて、
そうなるように、なるように、と
人が生きるように、幸せであるように、と
不思議なことに出来上がっていて、

なるほど、古代の人が太陽を神と思うのもわかる気がするし、海もまた、神であるに違いない。

太陽が完全な円なのは面白味に欠けるから、
いっそのこと、五角形か何かならいいのに、と言ったら
妻は
「赤ちゃんでもだれでも、簡単に書けて、わかりやすいのがいいでしょ?だからよ」
と神以上の洞察力で、ことも無げにぼくをあしらった。

帰り道の高速道路で見ていると、空の色はだんだんと青くなっていった。


サービスエリアに、黄色いゆずを売っていたので、妻が買った。

「ゆずも円(まる)いな。風呂に浮かべりゃ、波の向こうから昇る、今朝の日の出の再現ができるぜ」

妻はあきれて返事もない。

太陽の役は、ゆずより蜜柑がいいかもな。
朝見た太陽の色を思い出して、ぼくは思った。

写真 4 (3)

クロマグロが泳ぐ水族館

.
クロマグロが泳いでいるという水族館へ行ってきました。「1匹だけ残った」とニュースで報道していたので、その一匹がどんな顔をしているのか、とても興味があったので・・・。
   
 たまたま通りかかった水族館の方に、世間話のように独り言っぽく

「もうこれでマグロの展示はしばらくないのでしょうかねえ」

と言ってみたら、意外にも反応してくださって、
   
「システムも見直そうという話も出ているし、まだわかりません・・・」と。
   
 いろんな意味での挑戦だったのでしょうが、「マグロの回遊が見られる」 という状況をつくるのには、乗り越える課題が多くあったようです。話を聞きながら、「これまでも、そこまで努力してきたの、すごいことだなあ」と思ったですな。

(写真は、現在この水槽で泳ぐ、一匹のクロマグロ)
一匹のまぐろ


この一匹も、なんだか調子よくないというか、水槽の上の方ばかり泳いでいるのだった。水槽は高さが何メートルもあるのに。
   
 なにかを求めているような。
  
 そして、かなりゆっくり泳いでいました。
  
 こうなった、そもそもの原因が何か、というふうに、多くの人は関心を寄せるみたいだが、マグロがこの水槽で生きていられる要因はざっと1000個ほど考えられているらしい。その要因1~要因1000も、その元になる事象をくわしく見ると、要因1の1、1の2、1の3、と細かく分けられるようで、そうやって原因の原因の原因の原因・・・と探り続けると、これはもう、とても人間には解明できないかもしれない。(マグロとは何か、という哲学的な問いに近づく)
   
クロマグロを見に3FB

  分からないけれど、生きている、というのが今の状況のこの一匹のマグロについて言えることで、
   
  他の死んでしまったマグロについても、これかな、というのはあっても、よくは分からないが、生きていられなかった、ということ。  
  
  手塚治虫氏のブラックジャックが、自分の手術道具のメスを鍛えてもらっていた鍛冶職人に、

 
「生き死にを医者が分かるつもりになるんじゃない」

  という意味の置手紙をもらって、泣いていたけれど、

マグロのニュースでも、何か共通するもの、感ずる。

クロマグロを見に

地元・岡崎から<富士山>をめざす

.
私が現在勤務している、地元の岡崎から、ちょいと足をのばして、

富士山を見に行ってきました!

岡崎からは高速道路が便利です。
東名も、新東名も、両方市内を通っていますしね!


富士山は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が2013年6月26日に世界遺産に登録しました。
小学校でも、富士山を題材に、授業をすることがあります!
歴史的側面、地理的側面、芸術的側面など、知的な面白ネタが豊富です。

わたしは、葛飾北斎や安藤広重など、芸術面から授業をしたことがあります。
あとは、竹取物語を5年生の国語で習うので、そこで富士山を紹介しました。

帝(みかど)は、かぐや姫から薬をもらいます。それは、「不老不死」の薬でした。
だから、不死(ふじ)山ですね。
かぐや姫が月に帰った今、惜別の念にかられた帝は、それを日本で一番高い山の上で燃やすように命じます。
家来たちは富士山に登り、頂上の噴火口に薬を投じました。
こんな伝説がある、ということは、富士山はその当時、まだ、活火山だったのでしょうか。

こうして、富士は、(不死)の山、になりました。



ところで、9月1日は、防災の日。

富士山は火山でありますから、当然、噴火、という自然現象と災害についても教えるべきだと考えます。
山ってのは、噴火するものだ、ということを、教えるべきです。
鹿児島や熊本、箱根周辺の子なんかは、「そんなの、当り前だろ!」というでしょうけど・・・。

噴火ってのは、すごい。
なぜなら、地面が、熱をもっていることや、火を噴く、ということですから、衝撃がでかい。
1年生にその話をしたら、

「ぜったいウソだ」

と、頭から否定して、ずっと馬鹿にしていた子がいましたから・・・。

「そんなことあるわけないよネ。先生のうそつき!」


恐竜の絵本に、火山が噴火するものがあるでしょう。
「おまえ、うまそうだな」というやつ。
それを見せたら、

「これは大昔でしょう。今はもう、そんな火なんて吹き出てこない」

と言っていました。

こちらも意地になって、噴火の動画を見せたら、「おお!」だって。
しばらくの間、固まってた。
人は、1年生の6歳時点で「噴火」を知ると、なかなかに謙虚な育ちをしますな。
地面が盛り上がってくるということや、火を噴きだす、ということを、知っていると、なんだかスゴイです。
これはもう、息をのむほどの情けなさを、身に沁みて感じるからかもね。
現の人間社会なんて、チッポケやなあ~、ということを。


というわけで、富士山は火山ですから、痕跡がたくさん残されております。
山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖を総称して富士五湖といいますが、もともとあった大きな湖めがけて、火山から溶岩が流れてきて流れ込んだのですって。
その結果、湖の水があふれでて、あたり一帯を、洪水にしたそうであります。湖の底には、縄文時代からの遺跡が残されており、土器やらなにやら、今でもいっぱい出てくるそうな。

そして、有名な、「青木ケ原樹海」
豊かな森林ですが、森の下には貞観噴火(864~866年)の溶岩が固まっているのです。だから、木は地中に根を下ろすことができず、地表をはっている。半分立ち上がったような、妙な緊張した姿勢の杉の木なんかが見られます。どっしりと、根が張ってないから。
つまり、「樹海は若い森」なのです。
比べてみれば、樹海のすぐそばにある大室山の落葉広葉樹林は約3000年だそうですが、一方の樹海の方は針葉樹林になって、せいぜい数百年しかたっていません。貞観噴火の前、樹海一帯は大森林でした。溶岩流が森を焼き尽くした後、コケが生え、草が根付き、低木が茂り、徐々に針葉樹林になっていったのです・・・。


すごいよね。
森を焼き尽くし、湖にどっと流れ込む、赤いマグマの流れ。



えれえ、もんだ。

山は、生きているんだど・・・。


こういう、スケールのデカイ話を、たまに、やった方がいいね。


こんな授業の後、しばらくの間は、
小さな人間関係のごたごたが少ない、という気がするよ・・・。

フジさんだろう

軽井沢高原文庫 北杜夫さんをしのぶ その3


由香さんが、静かに、語り始めました。
北杜夫さんの、死に際の話です。

新聞記事では、「腸閉そく」という診断が出ていたが、あれは世田谷にある「駒沢病院」の診断で、家族ははじめて聞く病名に、まったく思い当たることが無く、

「なんでいきなり?」

と戸惑ったそうです。
腸閉そくなら、それに関連する、初期の症状なりが、日常的にもあって当然なのではないか。
しかし、その日の明け方、急死した北杜夫さんに、そんな兆候はまったくなかったのだそうです。

診断にはほとんど信憑性がなく、解剖を意固地になって拒んだ駒沢病院側に、なんらかの意図があったのではないか、と疑われるというのです。

ともかく、代々医者の家系ですから、医学のために役立つのであれば、解剖をしてください、と頼んだのだそうです。
ご家族、さすがですね。


しかし、そこで駒沢大学病院は、きっぱりと断る。

「医学的にはなんの役にも立ちません。」
「胸を思い切り開くことになり、その後の遺体をご家族に引き合わせることもできません。」
「なので、解剖はできません」

由香さんは、そこであきらめずに、ぜひ解剖をしてもらうべきだった、と、今となっては心底悔やんでいるとのこと。

おう吐物が、のどに詰まっての、窒息死。

明け方、着替え用のゆかたを看護婦に言われて用意しておいたにも関わらず、病院へ運ばれたときの黄色いポロシャツのままで、おう吐物を胸につけて、そのまま心臓マッサージをされていた北杜夫さん。

病院に運ばれてから、一度もまともに見てもらっていなかったのではないか。

なぜ、朝まで黄色いポロシャツのままだったのか。
なぜ、胸におう吐物がついたままだったのか。
なぜ、夜までいかにも平常に見えた父親が、翌早朝、急死しなければならなかったのか。

インフルエンザの予防注射の影響で、ちょこっと体調を崩しただけのはず。
そして、念のため、一晩入院して様子をみましょう、という、へんな風邪をひかないための、念を入れた予防措置だったはず。

それが、数時間後に、予想もしない「腸閉そく」という診断で死ぬなんて。

駒沢病院が出した資料には、

○ご家族は解剖しないことにすぐに同意をした
○ご家族は「腸閉そく」の診断にすぐ納得をした
○病院は遺体を責任をもって安置し、お家へ運ぶ際も最後まで責任をもって見届けた

とあったそうだ。
ところが、実際は、どれも嘘であった。
駒澤病院から自宅へ、北氏の遺体を運ぶ際にも、だれ一人として見送るものがいなかった。

由香さんが、

「こんなウソを書いてもいいのですか」

と尋ねると、病院関係者はだれもなにも言えず、うつむいていたままだったとのこと。


なださんも、

「腸閉塞はおそらく嘘でしょうね」

と言っておられたのが、最後、印象的でした。


(あーあ。このくだりを聞いて、本当に力が抜けました。でも、真実をおっしゃっていただいたことは本当にファンとしてありがたい。)


さらに。
救急車で運ばれて、すぐのこと。

由香さんが、念のため入院することになった北さんを前にして、医者に

「なにか気をつけておくこと、緊急性のあることがありますか。今のうちに、なにかしておくことはありますか」

と尋ねると、

「とくになにもありません」

と医者が答えたので、そのまま任せる気になって、一晩ゆっくり寝られたらいいわ、と判断したそうです。

ところが、そのセリフをしゃべった、「とくにありません」といった医者は、いわゆる昔でいうインターンのような、今で言う<研修中>の医者で、大学を卒業して数年の、ひよっ子だったそうである。

それを聞いて、由香さんはともかくがくぜんとして、

「こんな医者に、大事な判断の根拠をまかせてしまった」

ということを悔やんでいました。


そのくだりで、由香さんが、一瞬、声をつまらせて、涙目になられました。
会場のみなさんの方も、嘆くようなうめき声がもれて、はじめてこのことを聞いた、というショックで、なんだか呆然としていました。


その後の、木もれ陽のなかの小さな軽食会(立食スタイルでサンドイッチやカナッペなどが出た)には、わたしは参加しなかった。
愛知まで帰るのに、夜遅くなってしまうので・・・。


去り際、なだ・いなださんには、

「大ファンでーす」

と叫びたかったが、もう私も大人になっているので、それはやめた。

帰り道、車窓から、軽井沢の白樺林が見えた。
夕暮れで、少し涼しくなった空気が、ほてった顔や腕を冷やしてくれる。

人の死を、ひさしぶりに考えた。

高速に乗る頃、空が、うすく、明るい紫色に変化しているのが目に入ってくる。
そろそろ、自動車のランプを、どの車も点け始めているようだった。




軽井沢高原文庫 北杜夫さんをしのぶ その2


さて、北さんの思い出話から、なださんの話にさらに力が入っていくのですが、やはり「躁鬱(そううつ)」の話になる。

なださんは、精神科の医者として、何人もの患者と向き合ってきた人だ。
だから、由香さんが、

「最近は鬱の人が増えてきた、と言うように言われますが・・・」

と話をふると、本当に多くの有益と思われる情報を語ってくれていた。
熱心にメモを取る人もいて、世の関心事であることがうかがえた。

さて、鬱の人を理解するには、という核心に話が及ぶと、結局なだ医師は何を言ったか。

「結局、本当にいいのは、全員が一度は鬱を経験するといいのです」

どんなふうに声をかけてもらうのがいいのか、どんなふうな心境になるのか、元気になりかけた時に、どんなふうに扱ってもらうと元気になれるのか。

○元気だしなよ
○がんばって!
○どうしたの

こんな言葉は非常にきつい、そうだ。
なだ医師は、「がんばれ殺人」という言葉を、かつて書いたことがある。

由香さんが、「じゃあ、どんなふうなのがいいのでしょう」と突っ込むと、
なだ医師は、

「傍白」でしょうかね。

と言った。

傍白(ぼうはく)=内心のつぶやきなどを表す

それを聞いて、わたしはピンと来て、心の中でつぶやいた。
「タスケテクレ!」

すると、由香さんもピンと来たらしく、

「よく父は、だれに話しかけるともなく、いきなり、タスケテクレ!とか言ってたんですが・・・」

と、エレベーターの中の爆笑エピソードを語ってくれました。
他にも、北さんの傍白には、「愛してる!」もあります。

それを聞いて、なださんも懐かしそうに、

「そうそう、それです。それが傍白なんですよねえ。そんなふうに、心の内を、話しかけるともなくつぶやく。そうして、こちらの心を見えるようにして、教えてあげるのです。だが、それはその鬱の人に伝えるのが目的、というのではないのです。傍白ですから。勝手に、こちらが一人で、つぶやく、ということなんです。それが一番、鬱の人にはいいのです。結果として、うつ病の人に、こちらの心が見えている。それが安心をつくる」

この解説を聞いて、さらに、ピン、ときました。

「この話、発達障害の子にも、自閉症の子にも、同じだよなあ。」

不安の強い子だから、できるだけこちらの情報を開示して、伝えて、そのつもりになってもらう。了解してもらう、安心してもらう、ということが必要です。
そのために、こちらの気持ちを、できるだけ開示していく。
ただ、そのことでなにかを「わかってもらおう」という意識が強いと、自閉症の子が「ナニカを要求されている」と思ってしまうので、よろしくない。
不安が逆に強くなる。不安をとりのぞいて安心させてあげたいのに、逆に不安を増大させることになってしまっては意味がない。
したがって、「傍白」と。

あとは、うつ病の人が救われるのは、周囲の人の理解が一番。

というくだり。

同じことが、自閉症児にも言える。
つまり、周囲の人の理解でもって、その子の価値をつくりあげていく。その子を生かすのは、その子の責任というよりは、社会全体の責任である、と。
うつ病の方の持てる価値を見出し、高め、生かすのは、社会全体のためであり、社会全体の責任。
同じですねえ。

そして、なだ先生はこんなふうにもおっしゃっていました。

今の世の中は、価値が見出しにくい。
高度成長の時代なら全員が物をたくさん所有して使って便利になれば最高、という価値観で行けた。(それがまた歪みをつくるのですが)
あの時代は、あまり「鬱」という感じがしなかった。
でも、今は世の中のどこを見ても、「なんだかねえ」という感じ。だから、鬱になる人も多いのではないか。

鬱も自閉症も、人と人とが当たり前に接する社会になっていないから、問題視されるのかなあ、と思います。

さて、鬱の話や、北さんの「躁」のときの派手なお話を聞いた後で、そろそろ時間がせまってきたのです。

それからが、衝撃でした。(つづく)




軽井沢高原文庫 北杜夫さんをしのぶ その1


昨年10月24日に84歳で亡くなられた作家・北杜夫さん。
その追悼の集まりがあり、行ってきた。
会場には70~80人くらいだろうか、全国からファンが集結。

会場は木もれ陽あふれる、涼しげな中庭にセットされ、自由にイスを動かして、メインの壇上を見られるようになっていた。

壇上には、籐の椅子が2脚。
娘さんの、サントリー社員、斎藤由香さんと、精神科医のなだ・いなださんのお二人だ。

由香さんが最初から最後まで、本当に丁寧に進行をされていた。
空白の時間をつくらず、言葉づかいは丁寧で聞きとりやすい。
北杜夫のファンが集まるからといってコアな話ばかりするのでなく、きちんと茂吉や茂太さん、快活ばあちゃんの輝子さんのことなど、家族の関係まで一言ずつ解説をされていく。
ファンにとっては周知のことであるが、丁寧に、それも時間をかけずにサッと触れていくので、どんな人にとってもやさしい。忘れかけていた人にとっても、

「ああ、そうだったなあ」

と思わせることができる進行の妙技であった。

さすがは現役のOL、サントリーの由香さん。
実はわたしは幼いころ、北杜夫のエッセイの中にしばしば娘の由香さんが出てくるので、ひょっとしたら若いのかしらんと思い、自分の結婚相手にできるのではないか、と夢想さえしたものだ。

実際には私よりも年上で、気品と風格を兼ね備えた才女、ともいうべき人である。

会場には、もっぱら60代の方たちが集結し、私が一番若かったのではないか、と思われた。

何度も強烈な視線を贈っておいたので、しばしば、由香さんと目があった。
そのたびに、わたしは思い切り笑顔で笑いかけ、由香さんの見事な進行ぶりを心から応援した。

さらによかったのは、なだ・いなださん。
どこかのエッセイで、

「・・・ちゅうことになっておる(・・・ということになっている)」

というくだりを書いて、

「世の中をみるときは、かならずこの言葉を最後につけておくと、テレビにも政治にも世間にもだまされずに済む」

ということを書かれていた。
わたしは中学時代にこのエッセイをなにかで読み、

「頭のいい人だなあ」

と感服したことを思い出した。

さて、北さんといえば山梨の医局時代に病棟で患者同士の殺人が起きてしまい、たった一人の医者としてすべての責任をとらねばならない立場になり、たいへんな思いをされたエピソードが有名である。(医局記)

医局記自体は、青春記や航海記、昆虫記に比べると文章のリズムがたまに乱れていて、ああ、と思うことが多かったのだが、上記のエピソードの描かれた部分は見事な筆の力で、緊迫した孤独な戦いの日々を書いていて読者を惹きこむ。

なださんはこのエピソードをしゃべっていた。

「被害者の親族から罵られるのに黙ってひたすら耐え、すべてを終えてから、眠れずに北さんは、自分の部屋でなく、畳敷きのいわゆる雑居房のような、患者の部屋に入るのです。そしてそこにごろり、と横になる。すると、ずっとそれまで黙りっぱなしであった、もう長いこと<精神>が動かないと思っていた一人の患者が、いつの間にかそばにきて横になり、北さんに向かって、あんたもたいへんだったね、というようなことを言う。それを聞いて、北さんは、医者というのは机に向かったり、投薬のことばかりやっていてもダメで、目の前の患者と同じところに身をおくようでないと、患者の理解はできないんだ、ということを悟るわけです」

このことは非常に印象的であった。

つまり、文学者・北杜夫は、医者としても、天性の勘が冴えた、観察眼の鋭い、優秀な医者であった、ということ。

これを、同業者のなだ先生が指摘するあたりが、非常に印象的でした。
これまで、医者としての北さんを評価する文脈を知らなかったので。




家康の故郷、岡崎公園の桜を見に行くぞ!


さて、愛知県人として、桜を見に行かねばなるまい。

この3週間ほど、じっくりと身体を休ませる暇もなかった。

そこで、家族会議。
どこへ、桜を見に行くか。


ところが、愛知県内のどこももう桜が散り始めているようだ。
はやく行かねば!!

職場の同僚が、

「見事な満開でしたよ~」

と鶴舞公園の桜を絶賛していたが、鶴舞公園は駐車するスぺースが少なく、チビをつれていく気がしない。


さて、そこそこ遠出でもよいので、のんびりマイカーで行って、なんとなしに桜を見つつ、家族で散歩ができたらいい、と考えて出した結論が、


「岡崎公園!!!」



えー、あんまり、岡崎まで遠出することないなあ、と妻。



わたしは数年前にも、一度、行っている。
なんの用事だったか、友人とおちあう計画があり、岡崎公園を見に行った。

あそこなら、ぷーらぷら、と散歩ができそうだ。

家康のファンでもないが、おもしろい。
加藤剛さんの家康は良かったなあ。
もう何十年も前の、大河ドラマ。

「鬼の作左」が、すごい個性的で、最高だった。
長門裕之さん、よかったなあ。あの演技。




どくとるマンボウ昆虫記の思い出 軽井沢高原文庫訪問


軽井沢高原文庫で、昆虫記にまつわるさまざまな資料を拝見してまいりました。
いろいろと教えてくださったのは、新部公亮(にいべ こうすけ)さん。(おかげで楽しい訪問となりました。本当に丁寧にありがとうございました。)

まずおどろいたのは、北杜夫さんが少年期に腎臓の病で病床にあったとき、実際に読んでいた本が、陳列されていたこと。
本物、です。

昆虫記を読んだことのある方なら分かると思います。
『原色千種昆虫図譜』という図鑑です。
北さんは、この図鑑の、続編をあわてて買ってしまったのですね。正編と続編が並んでいたのですが、買ってきて見てみたら、台湾の蝶ばかりが並んでいる。これはおかしい・・・。(装丁がきれいだったのか、新品に見えたのか・・・)

せっかく貯金をはたいて買った本が続編だったので、北さんが相当落ち込んでいるところ、周囲の方が気の毒がって、結局正編をプレゼントするのです。

その、正編と続編の、両方の昆虫図鑑が、きちんと陳列されてある!

スゲェ!
一気に、ボルテージがあがりました。
この有名なエピソードは、昆虫記ファンならだれでもすぐに思いだせるはず。

ところで、そばで私に解説をしてくださった新部さんが北さんからその実際の本をお借りして、確認したところ、面白い話をうかがいました。正編の方の本は、中古だったらしいです。別の方の蔵書印があったとのこと。
つまり、あまりにも落ち込んでいる宗吉少年に対して、新品の本をプレゼントしたのではないのです。だれかから譲り受けた、あるいは中古で購入して手に入れた正編を、プレゼントした、と。

こういうことも、本を読んだだけでは分かりませんでしたね。でも、昭和のはじめ、戦前戦中のモノの無い時代ですから。いくら脳病院のおぼっちゃまでも、入手できたのが中古なら中古で、それでよいだろう、ということだったようです。

さて、お次。
覚えていらっしゃいますか。
麻布中学で、昆虫採集がしたくて、生物部だか昆虫部だかに入部するのです。そのときの先輩(フクロウさんというあだ名)からいろいろと教わった北さん。たしか、展翅の仕方とかを習ったのかな。
その先輩と、小説を書くようになってもまだ交流が続いていたので、ハガキをお互いにやりとりをされていたそうです。
そのとき、フクロウさんあてに、「シロウト向けの昆虫記を書こうかな」ということをハガキに書いていらっしゃいます。それが結局、「どくとるマンボウ昆虫記」になりました。
そのハガキも、実物が展示されていました。

いやあ、こういったもの一つ一つが、たまらなく面白い。楽しいです。
いっしょにいった妻と子どもは、一足先に湖の方へ遊びに出て行っちまいました。
でも、わたしが大満足の顔で高原文庫から出てきたのをみて、
「よかったね」
と言ってくれました。



昆虫記が最初に登場するのは、週刊公論、という雑誌。
浅丘 ルリ子さんなど、女優さんの写真が、表紙に掲載されていました。
(この雑誌、商売的には失敗して、すぐに廃刊になってしまうそうです)

この「週刊公論」の「どくとるマンボウ昆虫記」。
なつかしの佐々木侃司さんのイラストがものすごくたくさん掲載されています。これを見るだけでも、なんだかジーンときて、たまりませんでした。
実際の中央公論社の「昆虫記」にも載っていますが、かなりカットされていて、全部は掲載されていないのです。だから、

「おお、こんなに佐々木侃司さんのイラストがあったんだ!!」

と感動しました。これも、じっくり見せてもらいました。
いやあ、今でも本当におしゃれで、センスがいいです。細い線でも、なんだかとびぬけて、常識をやぶろうとしている。筆の勢いで、というのでなく、おしゃれに、読者の度肝を抜こうとする、というか、楽しませてやろう、というか。はじめて佐々木侃司さんのイラストに触れたのは、どくとるマンボウシリーズ(中央公論社版)で、小学校6年生だったと思いますが、その頃に受けた印象や感じが、28年後の今もまだ続いています。


さて、最後に、亡くなった北さんのご遺族にあてて、スケッチブックにメッセージを書けるコーナーがありました。
これも、案内してくださった新部さんが、

「大ファンでいらしたのですよね。せっかくですから、どうぞお書きになっては・・・」

とすすめてくださいました。
それで、思いのたけを、1ぺーじぎっしりに、書いてきました。
北先生への、感謝の気持ちです。


f:id:arigato3939:20111105175757j:image:medium:right


最後、高原文庫で100冊限定で、北さんがサインをしてくださった昆虫記の文庫本を買いました。
一冊一冊、見覚えのあるサインが、きちんと書かれています。
旅の思い出としては、うってつけでした。

愛知から軽井沢まで、わざわざ高速をとばして来て、よかった。
朝5時発で、一日がかり。
日曜日には、学校で仕事があります。
土曜日のうちにもどらなければならない。
家族に、一泊旅行をプレゼントしたいが、今日は残念、ということで。

帰り道、寝ている息子たちをよそに、妻に、北杜夫の魅力を熱弁しつつ、高速を飛ばしました。
妻も、半分は寝ていましたが。

佳き旅でした。




わたしの伊豆生活




伊豆に行ってきました。

「わたしの出雲生活」は、もう二十年近く前、大学生のころ。
(おお、あれから20年経ったのか・・・ほんのついこの間のことなのに)

その後、「わたしのイズマミム生活」を経て、

昨日、本日と、短い滞在でしたが、

「わたしの伊豆生活」

をおくることができました。


わたしの出雲生活
わたしのイズマミム生活
わたしの伊豆生活

これを、3部作として、いつか詳細に著してみたい、というのが夢。
ま、ちょっと、最後の「伊豆」が短すぎるけどネ。


伊豆では、海浜公園でフリスビーをしていたら、うちの5歳の男の子、波がおもしろくて仕方が無いらしく、波を見ているだけでどんどん時間がたつ。
そのうちに穴掘りをはじめ、(きれいな砂!)
ひろってきた棒を立てて、流されないかどうか、遊びだした。
大黒様(?)を守る、家来のポケモンが5人くらい、いるらしい。ようわからん。

城ヶ崎海岸では、肝心のつり橋に到着する前に、打ち寄せる波の音の迫力にビビりました。
太古の昔から、打ち寄せられ続けて、丸くなった巨大な岩が、なんとも妙な光景。
しかし、1万年、とか、100万年、とか考えると、ちょっと気が遠くなる思い。

最初に、巨大なひきがえるを発見したのが引き金になって、息子が大興奮。城ヶ崎ピクニカルコースは、すっかり、カエルをさがせ!コースに。

帰る頃には、なんとか子どもをなだめて宿に向かいましたが、明日も蛙をさがすことを約束させられました。

宿では食事をとらず、近くの回転寿司に。
さすがに旨い。地場産のネタが豊富に。
食ったら、おそらく新鮮さがちがうのか、冷蔵庫の冷たさは感じず、いかにも「ナマ」という感じ。さんまの生が、こんなにうまいとは知りませんでした。
聞いたことのないネタのオンパレードで、「○○科」と、わざわざ魚類の分類が示されているのが面白い。その札が、いかにも科学、という感じで、

「なんだか理科の実験の魚を食ってる感じだね」

と妻と話して笑いました。
でも、とにかくうまい。
宿の日本料理よりも、こっちで正解。

宿は、別荘を借りた。
一日だけ、別荘を借りることできた。
キッチンのない、露天風呂つきの一軒家。
露天風呂は、ほとんど無色透明だが、ほんの少し温泉の香がする。
夕方、深夜、早朝、と3回。
そのうち、早朝の日の出時間に入ったのが、よかった。
マジックライン(?・・・日の入りだけかな、こう呼ぶのは)がうっすらと見えるのを見ながら、嫁も子どももみんな寝入っているところに、お湯の音だけ聞きながら、あったまって見ている。

早朝って、きもちいいね。
ひさしぶりに感じました。
その昔、ひのきのお風呂に毎日入っていた時、正月になると早朝から風呂に入っていましたが、それを思い出した。

どうして休暇になると早朝に目が覚めるのだろう。


今朝は、蛙を見つけるよ、と子どもをだまして「大室山」へ。
ロープウェーと思ったら、リフトでした。
山頂はものすごい風。強風で、さむすぎる。
山の下におりてきたら無風。ひざしが強くて暑い。この差はすごい。
リフトの途中で写真サービスがあり、なかなかよい写真をとってくれる。
値段をみたら、1000円。
それをみて1秒以内に決断。要らん。だって、山頂で自分で写真撮れるもん。
買う人いるのかな、と思って見ていたが、やはりあまりいない。

大室山を下りて、伊東のサンハトヤへ。
うれしくなる。CMの王様だったからな。
あの、カツオを両腕で抱えるシーンに、ときめいたものだった。
実際には一度も宿泊したことが無いが。

今日も、サンハトヤのとなりの、道の駅へ。
足湯をしてラーメンを食べ、いるか号で海中を見つつ、45分のクルージング。
最初に、海中を見るのがいい。まだ、船が出港する前に。
その5分程度のときに、一番はっきりと魚が見える。
みんなが乗船しおわって、いよいよ船が出るとなると、もう早、魚はじっくり見られない。
停泊してる最中に見るのが一番のゴールデンタイム。そのためには、時間より10分先に集合して、いの一番に乗船するのがいい。
息子は、うつぼを発見して、興奮していた。


船が動き出して、こんどは船の上に。潮風をうけつつ、5歳の息子といっしょに景色を見る。
すると、船長が「エチゼンクラゲ」を見つけて旋回。2メートル以上。ちょっとピンク色っぽい、オレンジ色っぽい、妙な色。でかいので、乗船していたみんなが一様に驚きの声をあげる。

あんなのが、網にかかったら、おそろしいことだろう。
日本海だけでないんだな・・・相模灘にもくるんだもの・・・

船をおりてよく見てみると、いるか号のほかに、海賊船、というのもあった。
これは船体を真っ黒に塗りつぶしたもので、いるか号よりもはるかに高速らしい。
が、海底は見えないし、少し船体がちいさめだ。
人気もないらしく、ほんの数人しかお客さんがいない。
アルバイトのお姉さんたちも、なんだかひまそうで、いるか号の受付のおばちゃんたちが忙しいので対照的。
いるか号の案内のおばちゃんも、一生懸命にやっている。チケットを買うとき、トイレを行くように、と何度も何度も念押しされた。なんだかやさしいおばあちゃんところに行った孫になった気分になった。おもしろい。

さて、帰りの車中は妻子は全員眠ってしまい、静岡から帰ってくるのにひとりで音楽を聞かねばならない。
80年代の洋楽を聴きつつ、なんだか懐かしくて、胸がいっぱいになって帰りました。
マイケルジャクソン、フィルコリンズ、TOTO、デュランデュラン、ワム、ホールアンドウォーツ、シンディ・ローパー、泣けてきますね・・・

深夜に帰りました!
明日から授業です!

来年の引越しを、妻とじっくり話し合えたのが大きかったです。
そのための旅行でした。
妻も、心を決めたようです。

ま、ぼちぼちとやっていきます!

大室山から見下ろした景色です。
シャボテン公園が眼下に見下ろせました。
少し横をみると、相模灘がはるかにひろがっています。


地球って、でかいなーー





山の上のコーヒー




4歳の息子は風呂場で自作の歌を放歌するアホである。(親子でうなっている親子バカ)
わが子を伴い、山の上へえっちら、おっちらと登ってきた。

TOPPOというおやつに惹かれて、ホイホイとついてくるあたりがニクい。
TOPPOを一本ずつ、小出しにちらつかせると、ガルルルル!という感じでくらいついてくる。
そのわが子を叱咤激励しつつ、山頂へ。

しかし、その途中で、リタイア。
もう頂上か、と息切れ寸前、ひざがふるえるさ中に、


「この先山頂<20分>」


という看板を見たからだ。
20分、という数字はかすれており、消えかかっていた。
そのことが、さらにやる気を萎えさせた。

あと20分。

もう、・・・ダメだ・・・。



予定を変更。
山路の途中で目的のコーヒーを飲むことにし、
コッヘルとガスバーナーで、湯を沸かす。
ぐらぐらと煮立ったお湯を見ながらミルでを挽く。




息子「あ、コーヒーのにおいしてきた」





こんな休日が楽しめるのも、2月の中下旬だからこそ。
年度末の忙しさの前の、つかの間の休息だ。
来週あたりから、クラス学級編成の打ち合わせ、要録、成績、といった怒涛の忙しさが始まる。

こう考えると、教師が心を休める休日というのは、年間の中で、この日とこの日、という具合にほぼ、定まっているのだナア・・・。




パパイヤ鈴木の安曇野紹介




長野県の安曇野市に、旅をしてきました。


宿泊したのは、「地球やど」という、一風かわった宿。
http://chikyuyado.com/

BSフジの番組、「まんまるらくえん日和」
毎週金曜日 8:30~9:25
を見ている方は、ご存じかも。

番組紹介には、こうある。
ゆったりとした時の流れ、穏やかな暮らし、人の温もり、快適な住まい。
忙しさの中で見失いがちな日本の良さを見直し、再発見する紀行番組。
ナレーターはパパイヤ鈴木。

こんな内容。(同内容が、31日金にも放映予定)
北アルプスの美しい眺望と清らかな水で育つわさびの生産で有名な安曇野に住む人々の暮らしぶりを紹介する。
農業を取り入れた生活をしたいと2004年に東京・町田から移り住み、お客さんが農業体験のできる民宿を営む増田さん一家。
民宿には将来Iターンを希望する若いファミリーが多数訪れ、増田さん一家と一緒に食事をし田舎暮らしについて語り明かす。

この、増田さん一家が営まれている、「地球やど」に宿泊した。


・時間がゆったりしている。
・家族がある。
・すぐに、すっと、みんなの食事ができた。
・あたたかい。
・気負っている人がいない。
・静か。奥さんも静かな方。
・近くに温泉もある。
・食事は自家製の穀物や野菜が多く、新鮮。もちろん美味しい!
・りんご農家の友人が、りんごを届けてくれる。
・古い民家なので、昭和の香りがたくさん。(元、養蚕農家とのこと)
・地元の情報、安曇野の情報を教えてもらえる。
・夜の時間が、すごくゆったりしている。
・空気がうまい。
・楽しそうなイベント(いろいろと地域の方と活動されている)がある。
・さりげない心づかいがうれしい。
・子どもたちが元気。ありのまま。そのまま、という感じ。


あとで、番組のDVDを見させてもらった。

番組のナレーションをしているのが、パパイヤ鈴木さん。
このパパイヤ鈴木さんの声が、すごくしっとりとしていて、すばらしい。
この、安曇野の、「宿」の空気に、とてもマッチしている。
奥さんや子どもさんの紹介もあるのだが、その紹介の声がいい。
いかにも愛らしい、と感じてくれているようで、パパイヤ鈴木さんとは何の面識もないが、すごく親しみ、親近感が湧いた。

教員ともなると、どうしてもこういう場面に意識が向く。
声。こえ。
パパイヤ鈴木さんのように、気持ちのこもった声。
すてきだなあ、と思う。
訓練されてきたのだろう。
以前書いた、腹式呼吸のトレーニングを思い出した。


とても、ゆっくりと、心身がいやされる一泊二日でした。
嫁さんが、すぐまた行きたい、と言いました。気に入ったようです。
私もうなずきました。

おすすめ、です。
交通:松本ICから車で15~20分。北アルプス、常念岳が見える宿、です。




レンタカー・Fit・燃費に疑問符




車がないので、遠出のときには、レンタカーを使う。
車を買いたいが、駐車場代だけ見ても、手が出ない。
それに妻は運転できない。土日も不要。
たまの連休か、夏休みくらいにしか、使わないのだから、レンタカーで十分だ。

レンタカーの楽しみは、会社が選べることだ。
トヨタにも乗れるし、ニッサンにも乗れるし、ホンダにも乗れる。
近所には、Nipponレンタカー、Orixレンタカー、TOYOTAレンタカー、と各会社があり、Nipponレンタカーだと日産車に、Orixだとホンダに、TOYOTAだと(もちろん)トヨタに乗ることが多い。

たいてい、TOYOTAに乗ることが多い。
割引があり、安いからだ。
しかし、たまに他社の車に乗ってみたくなる。

今回、近くの川へ家族と遠出した。
いつもTOYOTAだから、とあえてHONDAにした。
Fit、である。
店員に、勧められたことも原因だ。
レンタカーの店員は、こう言った。

「燃費がおどろきですよ。20キロ超えてますからね」

TOYOTAのヴィッツに匹敵する、という。
それは、と驚いた。
ヴィッツでは、少々物足りないところがあるからだ。
高速での加速、車内の広さ、いい車だが、あと少し、という思いがある。
それがクリアできるのだ。
まよわず、Fitを試してみることにした。
公称、20キロ超えの、燃費のよさがどうなのか。
実際をためしてみたくて、うずうずした。

ところが、結論を言うと、とんでもない。15キロもいかない。
14キロにあとわずか、という残念な結果であった。

冷房を効かせすぎたのか?
あるいは、高速をとばしすぎたのか・・・

いや、高速はキープレフト、いつも抜かされてばかりのスピードであった。



Fit、いい車だった。
車内の広さやインパネの感じ、操作性や曲がるときのスムーズな感じ、後輪がしっかりついてくる感覚、いい車なんだが・・・


燃費がよいのは、これまでの経験では、総合してTOYOTA。
MATSUDAのデミオもよかった。デミオはOrixレンタカーで借りた。
NISSANでは、NOTEがよかった。
あまりにもちょうどよく整いすぎていて、逆につまらない、という感じ。
(ということは、とてもよい、ということなのだが・・)

Fit、ざんねんだったなあ。




猿投温泉の湖について




愛知のローカル話。

愛知には、東海道自然歩道などが本当に丁寧に用意されていて、ハイキングは年中楽しめる。子連れの家族にとっては、とてもよい環境だ。

猿投、という地域がある。
ここに、温泉があるので、行ってきた。

あと、ついでに猿投山のハイキングにも。

高速は猿投グリーンロードで猿投インター。
温泉はどこかの社長ががんばって作ったそうで、なかなかの充実した設備。
お客さんもたくさんで、繁盛していました。

温泉の上の、山の方をのぼっていく道(木の階段)があったのでのぼっていくと、大きな湖?のような場所に出ました。


ぽっかりと、湖があったのです。


音のない、不思議な空間。
他のお客さんも、ここまで来る方はめずらしいようで、我が家だけ、という時間もありました。

目に映るものはすべて自然。
電線も目に映らず、なんだかぽっかりと桃源郷に来た気分。
下の方へ10分もおりていけば、あのにぎやかな温泉宿に着くのに。

いったいここは?

きこえるのは、ピーヒョロローのとんびの声と、魚がときおり、はねる水音。

「むちゃくちゃ、しずかだねえ」
「湖の表面、水面が、音を吸収するんでないの」
「なるほど」

本当かうそか、そんなことまで信じてしまいそうになるくらい、静かな空間でした。
イスを持ってきてすわっていたら、何時間でも寝てしまいそう。
湖の上を吹き渡る風が涼しく、気持ちよい空間でした。

もしかすると、あそこでキャンプとかする人がいるのかもしれないな・・・。




リニモへの思い




リニモに乗った。

小さな頃、小学生の頃、「未来の超特急!」と思っていた、リニアモーターカー。

それが、現実になっている。

ただ、超特急で走るものではなく、ごくふつうに、通勤や生活の便利な道具として。


愛知県長久手市。

万博、「愛・地球博」が開催される頃、リニモは登場した。

初めて乗るときの感動。
いっしょに乗った乗客たち。
息を詰める、といった感じの、車内。

大勢の人が、満席で、立っている人も大勢いたのに、車内はおどろくほど、静かだった。

みんな、感動しながら、目を凝らして窓の外を見つめていた。

スーッと、流れるように車が動く。
だれも、身じろぎしない。
音がしない。
あまりの静けさに、顔がにやけてくる。

藤が丘の駅を出発し、しばらくして、地下から地上へ出る。
風景ががらりと変わり、まるで高速道路を走っているかのように、家屋やビルの上を走っていく。

そんなリニモにも、もう何度乗ったことか。


愛・地球博記念公園へ行った。
朝起きて、ふと、その気になって行ける距離だ。

温水プールがある。
4歳児を連れて、波のくるゾーンで遊ぶ。


たまの休日。
親子で、のんびりすごすのが、いい。

1学期も折り返し地点を過ぎ、まもなく成績のシーズン。
疲れもピークだ。
身体に蓄積された疲労が、抜けずに、たまっていく。

モリコロパークで、リフレッシュ。
たまにはゆっくり、学級を忘れて、ボーっとすることも必要なんじゃないかなあ・・・。

・・・と、自分に言い聞かせた一日だった。


(保護者に会わなくて、よかったなあ!!!)




春の野草さがし




川を歩く。
JRの駅から、緑化公園をめざす。

途中、いろんな草や木を見て歩く。

柿の木がある。
葉を見て、びっくりした。
なんとも新しく、やわらかそうにみえる。

こんなに、おいしそうな葉なのか。
そういえば、柿の木は、季節が秋にならないと、気をつけて見ていないかもなあ。
春の柿の木。それほどしっかりと、見てはいなかった。
柿といえば秋、といった、固定観念があったらしい。


落ちていた柿の葉を一枚いただく。
あとで天ぷらにしてみよう。


ホトケノザ
ヒメオドリコソウ
ムラサキケマン

ムラサキケマンはおもしろい。
さわると、実がはじけて、くるっと返る。
あまり遊ぶと、かわいそうだから、少しだけにして終わりにする。


イヌノフグリがあったが、オオイヌとは少しちがうようだ。
毎年、植物相が変わるのか?

ポケット版で調べると、タチイヌノフグリ?らしい。
今年は、タチイヌが、オオイヌを駆逐したのか?


ナズナはたくさんある。
ヤエムグラも。


ヤエムグラは、葉の表面がざらざら。
いちおう、お約束、を思い出す。
葉をすこしちぎって、Tシャツにつける。ぴったりだ。
やると、安心する。
幼児期の記憶を、追体験して確認した、という感じ。


キュウリグサも、ひさしぶりに、手でもんでみる。


ハナニラがたくさんある。

ショカッサイは、見るたびに、漢字ではどうかくんだろう、と思う。
でもまだしらべていない。

カラスノエンドウは、豆科だと思ったので、一応収穫。
天ぷら予定。
豆なら食えるだろ・・・。


土手の桜の木の根元に、小さなピンク色が見える。
かわいらしい。ヒメウズだ。
葉も小さくて、いいなあ。


黄色いカタバミ。
元気に咲いている。
安心する。


食べられるもの、というので、ヨモギとユキノシタをさがす。
ヨモギが少なくなったなあ。
どちらも、ほんの少し、収穫。


ノビルは、これはおそらく、葱の仲間だろう。
収穫。くえるだろ。


コバンソウは見つからない。


イチリンソウが静かに咲いている。
本当に、一輪しか見当たらない。
さびしい気がする。
でも、一輪だけで、のびのびとしているのかもしれない。


アカネ発見。
葉のようで、葉でないのがある、と聞いたことがある。
上から見ると、十文字。
根っこをほると、赤橙色。

アカネ、赤ね、茜、アキアカネ。


楓の花と実も、観察する。
カエデは、実がそのへんにちらばっている。
鳥が来たのかしらん。

川にそって上流をめざしているのだが、途中の橋で、大きなくるみの木を発見。
赤っぽい色の、花らしきものがバァーッと咲いている。
また、枝の上の方に、白っぽい、形はフジの花のような、たれさがったものが見える。
おそらく、雄花と雌花のちがいだろう。
(あてずっぽです)


終点に近づくころ、嫁さんと子どもの足取りがにぶくなってきて、
会話が少なくなってきた。
いやあ、がんばりましたねえ。

わが子を、はげまし、はげまし、おやつを与えて。
がんばりました!



途中、庭木にからみついた大きなシマヘビを見たし、トカゲの交尾?も見た。
なんだかいろんなことが・・・

・・・春ですなあ。


家で、天ぷら。
ついでに、庭のツツジの花と、たんぽぽ、フジの花も天ぷらにしてみたけど、
食べられました。
おいしいかどうかは、ふつう、です。
あまり味はしませんでした。

タンポポだけは、独特の味で、春の味、という感じです。
これはまた来年もやろう。




善光寺




善光寺。
天気がよかった。

遠くの山もはっきり見えた。

静かな心境がつづく。

黙って、一日、すごす。
めずらしい日。

教師にとって、黙ってすごす一日は、かなり、新鮮。



こんな時間をつくらないと、春の、あの、
想像を超えた、
体力の限界に挑戦する、
なんとも、めまぐるしい季節が、

・・・すぐそこに待っているからね。


名古屋から、特急 しなの。




記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ