30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

子育てあれこれ

怒りという「通貨」


本来、人間の感情にはそれぞれ固有の応答があります。


不安には、安心を与えること。
悲しみには、慰めること。
恥には、受容すること。
無力感には、支えること。

しかしある家庭では、これらすべてに対する応答が「怒り」でした。

泣いたら、怒られた。
怖がったら、怒られた。
寂しがったら、「甘えるな!」

つまり柔らかい感情はすべて「悪」とみなされる文化です。

この環境で子どもが学ぶのは、こういうことです。

柔らかい感情を出す → 叩かれる。
怒りを出す → 相手が動く。

ここで怒りは「通貨」の役割を獲得します。

怒り=通貨、の力学が、あるのです。

通貨とは何か? 相手を動かす交換手段だ、ということ。

お金を払えばモノが手に入るように、怒りをぶつければ要求が通る。

相手に言うことを聞かせたい → 怒る。
状況を変えたい → 怒る。
自分の正しさを証明したい → 怒る。
不安を黙らせたい → 怒る。

ネジも、釘も、ボルトも、ハンマーで叩く。
食事も、交渉も、愛情表現も、すべて「怒り」で支払う。

この人にとって怒りは感情ではなく、万能の道具であり、唯一の社会的資源です。

だからこそ怒りを手放すことは、この人にとって「財布を捨てろ」と言われるのと同じ恐怖なのです。

怒りがなければ、誰も自分の言うことを聞かない。
怒りがなければ、自分は無力なまま放置される。
そう信じている。

しかし、世の中には通貨がなくても成り立つ関係があります。

それは信頼関係です。

信頼関係とは、こういうことです。

黙っていても、相手は去らない。
弱さを見せても、叩かれない。
頼んでもいないのに、支えてくれる。
「怒り」を使わなくても、自分の存在が尊重される。

ここには取引がない。
だから通貨が要らない。

お金が不要な関係——つまり「怒らなくても大丈夫な関係」の中では、怒りは万能通貨の座から降り、数ある感情のうちの一つという本来のポジションに静かに戻ります。

怒りが「たまに登場する一感情」に過ぎなくなったとき、ようやく他の感情たちが息を吹き返します。

「あ、自分は今、不安なんだ」
「これは悲しみだったんだ」
「本当は、助けてほしかっただけだ」

「なんで腹が立つのか」という問いすら必要なくなる。なぜなら、腹を立てて何かを勝ち取る必要がそもそもないからです。

怒り=通貨の世界では、こう回ります。
要求がある → 怒りで支払う → 相手が従う → 「成功体験」 → 怒りへの依存が強化される → すべてのコミュニケーションが「取引」になる。

信頼=通貨不要の世界では、こう回ります。
気持ちがある → そのまま出す → 受け止められる → 怒りで支払う必要がない → 怒りは本来の小さなポジションに戻る → 感情の多チャンネルが回復する。

つまり、こういうことです。

怒りが通貨である人は、すべての人間関係を「市場」として生きている。常に何かを支払い、何かを勝ち取り、損得を計算している。

信頼の中に生きる人は、人間関係を「家」として生きている。家の中では、お金を払って居場所を買う必要がない。ただ、そこにいていい。

怒りを手放すとは、「通貨を捨てる」ことではなく、「通貨がなくても自分は大丈夫だ」と知ることです。

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「怒り」は強さ・・・という思い込み

怒鳴ることが強さの表明だ、と、勘違いしている文化について。

相手に共感する事は、弱さの表明だと思っている人が、います。

逆ですよね。

相手の気持ちに寄り添う事は、自分の感情を大切に保持しながらも、相手を受け止めようとするわけで、強いわけです。

これはちょっと、人によってはキツイ話ですが、相手に共感したら負けなのだ、という心的状態である方もあります。
ずっと感情的になって、子供を叱り続けてきた経験を持つ親にとっては、これを受け入れるのはかなりきつい。

共感する
→ 子どもの痛みが見える
→ その痛みの原因が自分だとわかる
→ 自分が「加害者」だったという事実
→ 自己像が崩壊する
→ 耐えられない
→ だから共感しない

体罰と怒声罵声で後輩をしごき上げる有名なスポーツクラブがあったとしましょう。これはなかなか変わらないと思います。残念ですが。

それは何故かと言うと、後輩の気持ちに共感したら、自分が加害者だと言うことがわかってしまうわけですから、耐えられないわけです。だから決して共感はできないんじゃないかなと思います。

元巨人軍の、桑田真澄さんがいますが、桑田さんは、この状況をなんとか変えようとしていろいろ発言されておりますね。

最近の教育心理学研究によれば、結局共感能力が育たないのは、以下の図式のようです。

自分が共感されなかった(幼少期の欠損)
→ 感情を識別する能力が育たなかった
→ 感情=排除すべき問題、と学習した
→ 共感=弱さ、と信じるようになった
→ 共感しないことが自己防衛になった
→ 子どもに対しても共感できない
→ 子どもも共感を学べない

ということのようです。


柔らかい感情は、どうも、「弱い」と勘違いされやすいのかも?

相手の気持ちをしなやかに受け止め、相手の感情に共感する行為は、決して、「弱さ」では無いのですがね。


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〇〇であるべきだ、の論調

「〇〇ちゃんが、⬜︎⬜︎すべきでしょ!」

これ、小学校3年生の発言です。
私は、混乱して不思議な気持ちになりました。
9歳でも、〜するべき、という、【言い回し】をするんや・・・

私は、ここでちょっと、気を引き締めないとなと思ったのを覚えています。つまりこういう言い方をする子は、何かしらの救助要請サインを出しているわけですよね。そのサインをしっかり受け止めないと、と。

大人の世界でも、〇〇すべきだ、とか、〇〇であるべきだと言うことがありますよね。

この言い方をする場合は、かなり精神的には弱い状況であることが想定されます。何かストレスを感じていたり、心的不安を抱えていたり、無力感を抱えている場合に多い言い回しだと思います。

「〇〇であるべきだ」

これは合理的精神とは呼べません。
〇〇であるべきだ、と、いうものが、先に来てしまうと、目の前のことを正確に正しく把握する必要がないと言う状態になるからです。

目の前のものが、丸であろうが、三角であろうが、そんなものはどうでもよくて、「四角であるべきなんだ」と言えば良くなってしまうからです。

自分のクラスメートに対して、
「〇〇くんは、⬜︎⬜︎するべき」
と高々と宣言をする子。

この、9歳の子も、結局はこのロジックの罠に、ハマっております。自分では気がついていないんですけどね。

合理的精神と言うのは、丸のものを丸だと認識することです。三角ものを三角だと認識することです。合理的精神はまずそこから始まるのです。

物理的な事だけではありません。人間の感情も、そうです。

さて、ここからが人類の大きな問題に差し掛かるんですナ。なぜなら、感情と言うのは自分が引き起こしているんですが、それを相手の責任だと、感じることがとても多いわけです。
具体的には、
「なんで、腹が立つんや?」
ということかと思います。

「自分の感情を相手のせいにする」
のは、なぜか?

私はおそらく30年以上考え続けてるんですけど、今のところこの2つかかな、と。

① 自分の内面を観察する力(自己共感)が育っていない
②「感情は外から来るもの」という世界観を刷り込まれている

そしてこれらはすべて「共感能力」の問題と直結しています。
なぜなら、
他者に共感する力と、
自分の感情を客観的に見つめる力は、同じ能力の表裏だから、ですね。

共感される経験 → 自分の感情を認識できる → 他者の感情も認識できる → 共感できる

・・・ということ。自分の感情を認識できるから、相手の気持ちも認識できて共感できるわけですね。

国語の授業をしていても、読み取りの深さは、ものすごく違うことがわかります。モチモチの木でも、主人公の少年に、うんと共感できる子もいれば、「へえ、大変だったね」としか思わないレベルの子もいます。

感情の認識と言うのは、かなりレベル差がある話、なわけですな。

「共感する」は、なかなか、誰でも簡単にできる話ではない。
それを共感できないなんてと怒るのも、まったくの的外れです。共感できるってエベレストの山を登る位長く過酷なストーリーなんですよ。それを誰でも簡単にできると思ってもらっては・・・


共感するためには:
  ① 自分の感情を正確に識別できる
  ② 相手の感情を正確に読み取れる
  ③ その感情に適切に応答できる

と言うステップが必要になります。

保育園の先生が若いお母さんに向かって、色々と助言しているシーンを見たことがあります。
それはね、保育園の先生は鍛えられてますから、子どもへ共感することができるんですよ。しかし若いお母さんはなかなか共感できないわけです。当たり前ですよ。訓練してないんですから。

子どもが泣く
→ 親の中に不快感が生じる
→ その不快感を処理する能力がない
→ 「この不快感の原因=子どもの泣き声」と認識
→ 「泣き声を止めれば不快感が消える」
→ 「泣くな!」と怒鳴る

どうでしょうか?
コレが普通です。
ただし、訓練次第で、子供の鳴き声は不快にはならなくなります。不快な感情よりも先に、共感が先に来るから、ですね。

というか、「なんで!」というような、相手につっかかるような気持ちが雲散霧消すると、残るのは共感しかなくなります。

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愛車のメンテナンスから思うこと


我が家には長年連れ添っている愛車がある。

年季が入っているぶん、乗るたびに「めちゃくちゃいい車だな」としみじみ思う。もちろん、世の中には数年ごとに最新のピカピカな新車へ買い替えるスマートなカーライフもあり、最新技術の快適さには私も正直ちょっと憧れる。


一方で、私の身近には一味違うベクトルで車を愛しているレジェンドがいる。近所に住む、半世紀ほど前のマツダ・ボンゴのオーナーだ。

ガレージの飾りではなく普通の足として使われている現役だ。お父さんから息子、そして孫へと3世代で引き継がれようとしている。

「リセールは考えないんですか?」
と聞いてみたら、
「そんなこと考えもしなかったなぁ」
とのこと。
彼らにとってその車は、すっかり家族の一員なのだろう。

車に限らず、長く付き合っていると、鉄が錆びたりボルトがへそを曲げたりと、こちらの都合を無視した小難しい一面が増えてくる。その都度「やれやれ」と泥臭く手を動かし、車の機嫌にこちらが合わせていく。
実はその、思い通りにならない相手に振り回されるプロセス自体が、なんだか段々と面白くなってくるから不思議だ。

この「思い通りにならないものに、自分のほうを合わせていく」というのは、「子育て」も実によく似ている。

子どもはこちらの思い描いた通りには絶対に動かない、予測不能の塊だ。四苦八苦しながら付き合っているうちに、親のほうが「まあ、そういうこともあるか」と余計な肩の力が抜け、むしろ自分の器を広げてもらっている気がする。


今の世の中は、とても優秀で、不快や不便をスマートに解決してくれる。
スイッチ一つで全てが快適になるのはありがたいけれど、あまりに何でも思い通りになりすぎる。

そして、それが「良い」とされてる。
だから、なんとなく、思い通りにならない「自然」は、目の敵にされてしまう。

最近、聞いてショックだったのは、歳を取った犬が捨てられる話だ。それは、自分が犬に癒してもらおう、ということなのだろう。
で、歳をとった犬には癒されなくなってしまったから、捨てる。
犬を飼うのは、その犬を自分が可愛がって癒してやろう、世話してやろう、ということだろうと思っていた。しかし、逆のパターンがあったわけだ。

だから、世の中が「少子化」なんていう大きな悩みを抱えることも、どこか頷ける気がする。
何しろ、子供という究極に思い通りにならない存在を前にして、大人はみんな、「思い通りになれば良い」という価値観で見ているのだろうから。

そういえば、子どもの世界では、スポーツの習い事が人気である。

私はこれは、ごく自然な成り行きだろうと思う。
おそらく、人は、何かしらの「自然」が欲しいのでしょうな。都会には畑がないから、「自分の思い通りにならない世界」となかなか出会えない。そこで、無意識のうちに、もとめているのではないだろうか。

サッカークラブ。サッカーのボールは、思うように動かない。
体操クラブ。自分の身体は、ぜんぜん思うように動かない。
合奏部。少しの油断で音を外す楽器。
いくらでも自由になると思い込んでいた自分の「息づかい」すら、本当に繊細な目で見たら、思い通りになっていない。

こうした世界を、親も子も、みんな本心では求めているのだろう。

とても貴重な体験だと思う。大人がどれだけお膳立てしても、本人がその対象に感覚をアジャストしていかなければ形にならない、

子どもとっては、初めての、「言うことを聞かない自然」がそこには、ある。

できたら親は、応援をしてやりたい。
しかし、そこで絶対に気をつけたいことがある。
それは、チームが勝ったとか、チームが負けたの勝ち負けの話に持っていかないことだ。

勝ち負けの話は、100%のうちのたった1%か2%にとどめるべきだ。

勝ったら嬉しい、負けたら悔しい、の気分の消費は、子供を疲弊させていく。

中にはいるらしい。勝った、負けたでしか話をしない親が。それは、親が気持ちを消費しているだけだ。
親が子供に癒されるのを求めてはいけない。
あんたが勝ったから、私が気分よく癒されたよ。では話にならない。
子どもがスポーツに取り組むのは、親の気持ちのためではない。親の欲しがる爽快感を求めるためではない。親の疲れた気分を癒し、爽快感を『消費』するためではない。

親は、心したい。そして、親は、自分も何かしら意に沿わない「自然」を相手に格闘するのが良い。そして、その「思い通りにならない、ならなさ」について、子どもと語り合うのが良いと思う。


最初から完璧にコントロールされた世界も快適だけれど、凸凹した対象と付き合い、自分の手で手入れをしていく関わりのなかに、人間らしい健やかさやクスッと笑える楽しさが隠れている。

まあ、本当に良いのは「畑仕事」ですね。日本人全員が畑仕事をするようになると、「自然」は思い通りにならないことを学習するから、子どもが親の意に染まらなくても、親の指示命令を聞かなくても、腹が立たないようになるのでは。

さて、愛車に草刈り鎌を積んで、草でも刈りに行きますか。

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家庭の三つの役割

「家庭が担うべき役割は、次の三点に集約されます。

(1)数多くの過ちを許容する場としての機能
現在の能力で「達成可能なこと」だけをこなしていても、人間的な伸長は望めません。
挑戦と試行錯誤のプロセスを経てこそ、深い洞察や理解は深まるものです。
失敗とは、「より実りある人生を送るためのデータ収集」にほかなりません。
挑戦を避けること、それこそが最も避けねばならぬ失策と言えるでしょう。
家庭は、失敗を許容する場でありたいです。

(2)多様な性質を受け入れる場所としての機能
人は皆、生育環境も思考様式も得意とする分野も異なります。
その「相違点」こそが、知識を得るための源であり、世界観を広げる鍵となります。
「皆が同じであるべき」ではなく、「それぞれが違っていて良い」のです。
まずは親が我が子を他の子と比較したり、似せようとしたりしないことです。
比較しようとしなければ、子どもに他者との違いを尊重し合う態度を育てることができます。
これは、今後の社会を生き抜く上での土台となります。

(3)社会全体をより良くするための基盤であること
幼少期は、試験に合格するためだけに存在する時間ではありません。
それは、社会に存在する課題と真摯に向き合い、より良い未来を創造するための原動力です。
人生は学ぶことの連続です。家族全員で「学ぼうとする姿勢そのものを学ぶ家庭」であってほしいと願っています。
結局のところ、
「人間とは、生まれながらにして自由で尊厳ある存在である」
この真理を、精神と身体に深く刻み込む場所、それこそが「家庭」なのです。

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5時になると変わるもの

それは、ビジネスマンとしての意識と、家族や家庭の中の養育者としての意識です。

この切り分けが難しい。
あるいは変身するのが難しい。
企業で競争したあと、家に帰宅したら、養育者にならなきゃいけない。

競争の意識から、養育者の意識に変換されなきゃいけない。これが難しい。帰宅するときの電車の中や車の中で、駅のホームで、じわじわと自分の意識が180度、変わらなきゃいけない。

ビジネスマンで競争していた人が、そのままの競争式で子供に接すると、おそらく余裕は無い。
脅し文句が多くなる。〇〇しないと、だめだ、と強く成果を求めるようになる。これは当たり前だ。夕方5時や6時まではその意識だったんだから。

もっと効率よく成果を上げろ!

親からプレッシャーをかけられた子供は、失敗は許されないと感じるとともに、相手が弱くなれば良いのだ、見た目の点数が上がれば良いのだと、自分を守るための、卑怯なメンタルまで持つようになる。

学校のクラスの友達で、成績の良い子が風邪で休むと、今度のテストで順位が上がると喜ぶ子。

1000円あげるから、俺の宿題やってよ、と、金で労働(宿題などのハードワーク)を買う子。

これは、市場原理をそのまま、学校や子育ての現場に持ち込むと、始まる病理です。

非常に大きな勘違いなのは、欲しいのは学力ではない、必要なのは、いわゆる学力ではないと言うことです。
ところが、親は、見た目の学力を欲しがります。これが親のビジネスモデルなのですが、その結果、効率よく子供の商品価値を上げようとするわけです。

ところが、大事なのは、

「市場で勝つために必要なのは、単なる学力ではなく、失敗から立ち直る力(レジリエンス)や創造性だ」

と、いうことです。
この失敗から、立ち直る力は、叱咤激励だけでは生まれないわけです。たとえ傷ついたり破れても、一旦ベースキャンプに戻って、傷を癒し、自分の力を蓄え直して、作戦を練り直して挑むことが大事であり、諦めずにチャレンジすれば、新たな価値を創造できるのだと言うことを、温かい家庭から学ぶしかないのですね。

これは体験するしかない。

養育者に必要な視点とは、このように時間的にも気持ち的にも、失敗する余裕を与えることです。
ところが、その養育者である親は、つい1時間前までは企業戦士だったわけで、顧客や株主に対しては、競争意識を見せつける必要があります。他社には負けない、他店には負けない、という、競争意識を受け入れて、その役割をスマートに演じ切ります。健全な市場原理と、経済的な競争は、今の資本主義社会では普遍的なものです。夕方5時までは少なくともこの意識が必要です。

家庭に帰ったら、失敗は逆に良いものになってくるわけです。その失敗を乗り越えるチャンスが生まれたからです。そしてそう考えられる余裕は、負けたら終わりだとする企業の意識ではなく、家庭の養育者と言う意識の中から生まれるわけです。

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自由研究あるある

私の住んでいる自治体では、夏休みの課題として理科の自由研究を出します。

おそらく日本中で自由研究は、子供たちが取り組むことになっているでしょう。

これは各家庭で非常に捉え方が違い、それぞれ個性があり、ユニークで私はとっても大好きです。

お家の方と一緒に熱を上げて作ったと思われる作品は見ていて、心があったかくなります。

また、おそらくおうちの方針で、子供にとにかく最後まで自力でさせると言う作品もあります。
これはこれで全て子どもが自分の発案と自分の労力と、自分の時間のかけ方で勝負するわけで、これまた味のある良い作品が多いです。

ある子はゲームばかりやっているので、親が自由研究のことを心配したところ、

「お母さん大丈夫だよ。敵の倒し方を研究するんだから」

と言ったそうです。

そして、実際に、

①主人公の能力の上げ方
②パーティーの組み方
③バトル時のマナーと戦略
④アイテム一覧と、自分の推しアイテムとその理由
⑤ストーリーを進める中で、最も心に残った出来事
⑥最も幸せだったと思うエピソード
⑦このゲームは、買いか、否か

と言うので、超大作を作った子がいました。

理科の先生に怒られていましたが(なぜなら、理科ではないので)、研究の着眼点や検証の進め方などは、とても合理的で、対象となる敵を分野ごとに分けたり、スムーズに勝つための最も合理的とされる方法について、推論を立ててみたり、実際にそれを行ってみて、比較検証をしたりするあたりはなかなかのものでした。

その子は、スズメバチが好きだったので(なぜなら最強の虫だから)、同じような合理的な結果の導き方をスズメバチの研究で発揮すれば、おそらく県レベルで優秀賞を取ったでしょう。

とまあ、いろいろな研究があり、私は職場の数少ない楽しみの1つとして、放課後にゆっくりとコーヒーを飲みながら、その自由研究を全校のありとあらゆる教室のものを見て回ることにしています。

中には親が作ったのがバレバレのものもあります。

ところが、現場の先生たちは、みんなそんなことを一切責める気持ちはありません。
むしろ喜んでいます。
おそらく、その時間を親と子供で様々話し合いながら過ごしたのでしょう。
もっと子供と関わってほしいと、どの先生たちも思っていますから、親がそんなふうに愚痴をこぼしながらも、自由研究をダシにして交流するのは嬉しい限りなのです。

途中まで、自由研究の字が乱雑だったのに、後半のある部分はとても丁寧な字に変わってることがあります。
とても同一人物が書いた字には思えない。

ははぁ、中学校にお姉さんがいたナ、確か。

それもいいじゃないですか。
家族で協力した証なんです。
先生たちは、そんなことを全く否定的に捉えてはいません。

同じように、毎日の宿題をお姉さんが手伝ったとか、お兄ちゃんが手伝ったとか、親が手伝ったとか、普通によくあることです。いいじゃないですか。
孤独に苦しんでいるよりよっぽど良いです。
長谷川町子さんのサザエさんの漫画にも、カツオが口をとがらせて、
「お父さん、終わったの?」
と、ハチマキをしめてカツオの宿題を解いている波平さんを描いた漫画がありました。
もちろん、ほとんど99%の親は仕事から帰ってきて、直行で家事をしてそれだけで精一杯です。
とても宿題なんて見られないでしょう。気にもしていられないと思います。

先生たちはそんな事は期待はしていません。
だからできるだけ宿題は出さないようにしています。私はドリルやワークシートなどの課題は何とかして学校でたくさんやらせます。

宿題で出す先生もいますが、私は学校でやらせる派ですね。
なんとなれば、その方が子供のリアルな状況をしっかりつかめるからです。

ただし、いつも時間は足りません。
この時間を作り出すことを、これからもずっと苦労していくんだと思います。

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保護者懇談会で話題になったこと〜甘やかすとは〜

保護者の中のお一人とお話をしていて、どうも話の噛み合わない点があって、これはおそらく日本の教育において、かなり大きなトピックだと思いました。ここで、考えを整理してみます。

話題になった子は、幼い時からチックがあったとのこと。
チック、と言うだけで、もうこれは論文が何百も何千もあり、著作がこれだけで何百冊とあるでしょうから、本当はすべてを読み終えた上で論じるのが必要です。

この親を批判するわけではありません。そうではなく、おそらくこれが世間一般の教育やしつけに対する考え方だろうと思ったのです。いわゆる子育ての常識、あるいはしつけのスタンダードな意見でしょう。

チックがある子に、お医者さんにこう言われたとのこと。ストレスを緩和するように、何がストレスなのかを見極めること、そのストレスを与える状況を少しでも緩和したり変化させたりすること。

まぁこれは妥当です。
どこの小児科医も児童心理学の先生も、身体症状が出ている子に対して、まずは健やかに健全に育つことを願うのです。チックは何かしらの心の訴えでしょうから、まずはその子がストレスに耐える力をつけると言うよりは、まずはそれらを取り除き、ストレス要因を緩和してあげるのです。親ができる事は環境を整えてあげることです。

ところが、そのことに対して、
甘やかされると、成人までに失敗や挫折を知らないから、独り立ちしたときに何もできなくて失敗する。また、失敗したときに、それに対処する術を持たないから、回避することができなさそう。それまで親が全部障害を取り除いてくれたんだろうから。だから、甘やかされた子は、挫折しそう。
というような意見がある、と。
だから、【甘やかすべきではない=ストレスは与え続けても良い】
という結論。
それについて、先生はどう思われますか、ということでした。

その方は父親で、それもわかるとおっしゃっていました。つまりその父親からしたら、両方ともうなずけるのだと言うことなのです。
世間一般によくある、甘やかすのはダメだ、という論調。それもわかるし、我が子を支えたい、それは甘やかすことになるのか、どうなのだろうか、とお悩みでした。

世間一般、多くの大人は「甘やかすのは良くない」と考えるのてしょうが、教員の多くはそうは考えないから、保護者懇談会などでは、ズレが生じるのです。

私はこの論、つまり「失敗をさせないのは間違い。だから甘やかすのは間違い」という論の展開は、無理があると思います。
まず、失敗をしない子はいません。計算間違いをしなかった子は、世の中にいるのだろうか。
怪我を全くしなかったり、漢字をすべて書けたりする子の方が少ないのでは。
ケンカをしたり、お茶をこぼしたり、普通はみんな、失敗ばかりです。

甘やかされると、成人までに失敗や挫折を知らないから、独り立ちしたときに何もできなくて失敗する。また、失敗したときに、それに対処する術を持たないから、回避することができなさそう。それまで親が全部障害を取り除いてくれたんだろうから。だから、甘やかされた子は、挫折しそう。

もう一度文章載せました。
上記の意見では、もしかしたらもっと程度の大きな失敗のことを指すのかもしれません。
受験の失敗でしょうか? あるいは恋人との破局でしょうか。子ども時代のことを話題にしているのですから、成人までという括りで考えてみると、学生時代の恋愛かあるいは大学進学あるいは希望する会社に就職できなかったと言うような失敗挫折の経験を指すのかもしれません。

だとすると、これらの失敗を回避できたのは甘やかされたからでしょうか?
本人が頑張って努力して、自分の実力に見合った志望校を選んだ結果、ストレートで合格できたと言うだけのことのような気がします。合格できたのは甘やかされたからでしょうか?

あるいは恋愛の成功は甘やかされたからでしょうか。逆に恋愛に失敗したのは甘やかされることがなかったからでしょうか?

こう考えてみると、ここで言う成人までの挫折や失敗と言うのは、一体何のことを指しているのか、疑問です。

小学生での挫折や失敗とは何でしょうか?
毎日小学生は失敗ばかりしていますが、同時にリカバリーをしています。消しゴムで消して書き直したりしています。あるいはうまく発表できなくて、言葉が詰まったときに誰かからひそひそ声で教えてもらうこともあったり、友達と相談したりしてうまく言い直せたりしています。
これは甘えたからでしょうか?

これを甘えだと言うのであれば、わざとみんながその子を無視したようにして、正解を教えたり、助けたりとかしないほうがよかったのでしょうか。そしてそのようにして、友達から助けてもらったり教えてもらったりすることを、無しにすると、成人してから失敗や挫折をしないのでしょうか?

挫折や失敗を恐れず挑戦する勇気や、挑戦しながら様々にうまくいかなかった場面が出たときに、どのように解決していけば良いのか、自分だけでなく周りの人の意見を聞いたり助けを借りたりしながら、人々の協力に感謝しつつ、成功あるいは実現を目指していけるのはどちらのタイプでしょうか?

失敗をすればするほど、鍛えられて強くなると言う論理は、わからないこともありません。昭和のスポーツの世界はそうだったと思います。現代でも通じる部分は大いにあるかと思います。

しかし、スポーツの世界であっても、失敗をしたら、もうそれで放って置かれるだとか、誰もヒントを与えず、誰も協力せず、誰も練習の相手にならず、お前はダメだと突き放しておいて、その子は何かを得ることができるのでしょうか?

甘やかすとはどういうことでしょうか。
この文脈だと、まるで正反対になってしまいました。

私は、挫折をしやすい子育てるんだったら、簡単なのは、周囲がその子と関係を断つことだと思います。
関係を絶たれた子は挫折をしやすくなります。
なぜなら、人を信頼できないからだし、こうしてほしいと、自分の希望を伝えることもありませんし、人と協力しようと言う素振りを見せなくなるからです。そんなふうに、ひとと交わらずに成長するほかなくなるのです。一人でやらねばと考えている限り、挫折はすぐでしょう。

つまり、挫折をしやすい子と言うのは関係を絶たれた子です。
関係を絶たれた子は、自分だけのエコーチェンバーの中に浸り、自分だけの身勝手な価値観で生きていくようになります。

逆に、自分の失敗や成功も含め全てひっくるめて受容してもらい、周囲の反応を得て、何かしらのコメントをもらい、困ったときには相談に乗ってもらえると安心感を得ていた子は、まわりから十分な関心を得て育つことができたために、人の助けを借りることの感謝を覚え、自分もまた人を助けようと言う気概をもつために、挫折をしないのです。

もう一度、あの文章を見てみましょう。

甘やかされると、成人までに失敗や挫折を知らないから、独り立ちしたときに何もできなくて失敗する。また、失敗したときに、それに対処する術を持たないから、回避することができなさそう。それまで親が全部障害を取り除いてくれたんだろうから。だから、甘やかされた子は、挫折しそう。

いいえ。十分に甘えさせてもらえば、挫折はしません。それどころか、十分に人の心を理解する子に育ちます。

逆に、親の顔色を伺うことが常で、甘えることができず、親の機嫌を取りながら育った子どもは、心の中では、人を信頼することをせず、誰かを頼ったり人に感謝したりすることを知らないで育つでしょう。挫折するのはどっちでしょうか。


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学校は時代遅れ

学校に届くクレームの中には、
「学校は時代遅れでアップデートできていない」というのが多いです。

私はクレームと言う言い方は、あまり好きではない。その意見の中には、学校を、より良くしたいんだ。もっとみんなで幸せになりたいと言う根本の思いがあるはずです。

昔のことを否定するのは、案外と気持ちが良かったりします。
これは「逆張りの快感」とも通じる。
論破王とネット界隈で一時期もてはやされたことのあるひろゆき氏が、いよいよ逆張りをしよう、というときにうっすらと笑みを浮かべるのは、この「逆張りの快感」が働いているのでしょう。
これは100人以上人々が集まる集会場で、たった1人で逆張りをするときに、異常な位アドレナリンが出てくるのと同じ原理です。
つまり、昔から大切にされてきた習慣や、常識と呼ばれるものに対して、「実は違うんだ」と、コペルニクス的新発想を持ち込むのは、脳内物質の中にアドレナリンやドーパミンが大量に溢れる行為だと言うことです。まるでプロレスのリングにアントニオ猪木が颯爽と現れ、気分を盛り立てるバックミュージックと観客の大歓声の中で、大きな咆哮を響かせるのと同じだと思います。

なんせ、昔からあったものと言うのは、以前の世代の人たちがそれを大多数認め推進してきたということですから。

「実は太陽が動いてたんじゃなくて、僕たち地球の方が太陽の周りを回ってたんですよ」

とっくの昔のギリシャ人たちは知っていたけど、いつの間にか忘れ去られていた事実を再度このように蒸し返したとき、コペルニクスの脳内にも、とんでもない量のアドレナリンが分泌されたと思います。

学校に寄せられるこうしたコペルニクス的クレームのうちの1つが、

・和式トイレはもう古いから改築せよ

ですね。
実際にほとんど使われていませんから。お金があれば解決します。

さらに、槍玉に挙げられるのが、
・体育館の肋木(ろくぼく)

です。
この不思議な体操用具は、肌触りの良い木の棒がたくさん体育館の壁に沿って並べられているので、よく子どもがよじ登って遊んでいます。
これは、利権がらみでも何でもなく、スウェーデン体操と言う身体発達のための優れた運動用具でありまして、うまく使えば体のほとんどの筋肉を発達させることができます。ただそれをする時間は今の学校には残されていません。それをする時間は皆無だけど、一応道具だけ残ってますと言うのが、学校には割と多いです。私はこの話を聞いて癪に触ったので、体育館に行くとよくこれを使って子どもと遊んでいます。体育の授業の最初の5分とかで。

・黒板はもう古い、電子黒板でデータを残すべき

電子黒板って字が汚くなるんですよね。チョークだとあんなにきれいに書けるのに・・・。そう思っている先生たちが多いような気がします。でもこれもちょっとずつ変わっていってるように思います。

・プールはもう古い。

確かに、プールは命がけの授業で、今の若い先生たちは、プールの授業なんてできたらしたくないと思っていると思います。実際に教師志望でしたが諦めましたと言う若者の中に、もし自分がプールの授業中に子どもを死なせてしまったら取り返しがつかないと語った大学生がいました。教師にならなかった理由は、それだけ、彼はプールの不安だけが理由で教師になるのをやめたのです。


・防犯体制が古い

これもよく聞きますね。
狂った人間が刃物を持って入ってきたらどうするんだと。先生たちがうちの子を守ってくれるのかと。
これについては、教室に【さすまた】があります。
お金があれば解決できるのかなあ?
そうとも思えないですね。究極の対応としたら、時間がかかるけど、世の中の人々がみんな幸せになるしかないかな。

特に食べるのに困るとか、仕事に充実感がないとか、多くの人が幸せだと感じる要素をつぶしてしまうと、自殺率が増えたり、狂ったり自暴自棄になる人が増える気がします。社会全体のシステムの問題ですね。

・PTA活動のあり方

これはもう今、現在進行形で劇的に変わりつつあります。やりたい人が自分で手を挙げてできることだけをやっていこうとする現実的な路線に転換してます。いくら良いことでも、多くの人がそれによって苦しむのであればやらない方がマシということがたくさんあることがわかります。

・掃除のやり方が古い

つまり、電気を使え、ということです。電気掃除機でいいじゃないか、モップでいいじゃないか、なぜ雑巾がけなどさせるのだと言うことのようです。特におうちの方が日本出身でない保護者の場合、なんで子どもにこんな屈辱的なことをさせるのかとお怒りであると聞きました。つまり祖国では掃除と言うのは、身分の低い人がやることのようだったようです。

・宿題が古い

みんなが同じようなプリントを一斉にするというのが、一人ひとりの子どもにマッチしていないのではないかと感じる保護者がいるようです。

さて、クレームを列挙してきました。
いかがでしたか?
私は、どの意見を聞いても、なるほど、どれも一理はあるのだなぁと思えてなりません。やはりコペルニクス的発想と言うのは聞いていても気持ちが良いですね。歴史に対して人類に対して逆張りをしている、このことの【快感】は計り知れません。

こんな話を、とある先生たちとしていたら、かなり盛り上がりました。そこにいた5人の先生のうち、4人の先生は、大賛成。
いや、そりゃそうだよ。そのクレームは正しい。確かにその発想はなかったナ・・・。これまで間違っていたよね。もう今の時代にマッチしていないよ、学校は古いからね、もう古い事はやめなきゃいけないよ、と賛同していたのです。

ところが、たった1人、私と仲の良い若い男性の先生が、不気味に笑ってこういったのですヨ。

「いや、本当にそうなのかなぁ。そう思い込まされているだけかもしれないよ?」

それから、こうも言いました。

「あのう、それって、エビデンスがあるんすか?」

と、言ったのです!


私はそれを聞いて、まさかのアドレナリンが爆発しそうになりました。

な、なんと!
逆張りの逆張り!

これはさらなる過剰なエンドルフィン、アドレナリン、ドーパミンの分泌をもたらします。
逆張りの→逆張りの→逆張りの→逆張りの→・・・と、つづけば続くほど・・・

逆張りが、つながればつながるほど、アドレナリンやドーパミンの量は指数関数的に増えるようです。

・和式のトイレには、実は多数のメリットが存在する
・昔ながらの黒板には、電子黒板にはないメリットが存在する
・肋木は上手に使えば、子どもの身体的機能も超絶高める
・プールの授業は、子供たちの特権であり、最高のリラックスタイム

たったひとつ、その若い先生が、やはりこれは正解だ、と言ったものがありました。それがPTA活動の運営の仕方が改善されたと言う点です。

「やりたい気持ちの人がやりたいと言う気持ちで、やれる時間に集まって、やれることだけを現実的に運営できる方法で支障なく進めていく」

まぁおそらくこれが最も人間的な行為なんでしょうね。持続可能と言う4文字を大事にする、今の時代感に、「やりたい人がやろうとする気持ちでやれるだけやってみる」という考えはマッチしていると思います。




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気になる子ども

この記事は、3年以上前に書いた記事の原稿ですが、非常に具体的な事例なので、身近に気にされる方がいると困ると思い、あえて公表を避けてきました。

既に3年以上が経過し、既にその子は小学校を卒業、また私も勤務校が変わったために、長いこと下書き状態であったこの記事を改めて書き直し、新たに編集し直し、初めてアップすることにしました。


では、ここで言う気になる子とは?

実は、その該当児童は、「被害を訴える」ことにたけていたのです。

気になる点は、そのことだけです。
本当にとても良い子で、クラスのために何度も活躍したし、勉強も頑張るし、とても素直な良い子でした。友達もたくさんいて、その子が笑うとみんなもつられて笑うようなコミニケーション能力も高い子でした。

そんな子だったから、あえて気になったことなのかもしれませんが・・・

さて、その子は、被害を、オーバーに脚色してしまうのです。
例えば、

肩を触られた→ 叩かれた
ここに置かないでと言われた→なんでここに置くんだ!馬鹿野郎!と怒鳴られた
椅子の背をトントンとした→椅子の背を思いっきり引っ張られた

と言うふうに、他に言いふらしてしまうのです。
実際に私が見て、これは違うよな、何とかして被害を大きくして言おうとしているんだな、と全てを目の当たりにして思ったことが「何度も」ありました。

ここで私が問いたいのは、
その子がそのように被害を受けた、あるいは被害を大きくして言わなければならなくなる、そういう精神状態に追い詰められているのであれば、なぜそのように追い詰められているのか、という点。

友達とその直前まで仲良くしていたはずなのに、特に何かその子を怒らせるような要素が他にあるわけでもなさそうなのに、誰もその子を責めてはいないのに・・・。

それにもかかわらず、他の子を徹底的に責めようとする。
あるいは自分が被害者だ被害を受けたのだと言うことを切に訴えようとする。

これは、何だろうか?
と、当時、強く思いました。

そして、これは、防衛反応だろうなと直感しました。
責められ責められ、謝罪を要求され、これまでの人生のどこかで否定を受けてきたためでしょう。

誰もクラスの友達でその子自身を非難したり、蔑んだり、恥ずかしめを受けさせたり、責めたりする子どもなんていないのです。
それでも、そのように、振る舞わざるを得ない、彼の心の状態。

彼の人生の中で学んできたことの大きさを思います。

自分が被害者であり、決して自分は加害者ではないと、周囲に常に申し開きしなければならないと言う状態。
自分はシロです、というか、自分は被害を受けた側の被害者です!と、叫んで回らないと、自分の身に何か良くないことが起こると言う予感です。

この子の心が癒され安らぎ。安定してくるために、どんな関わり方をしていけば良いのかな、と考えました。

1番は、彼が【自分が被害者である】と叫ばないでも、周囲から決して責められないと言う安心感です。
2番目に、誰もあなたを責めてないよと言うメッセージを明確にすることです。
3番目は、あなたが被害者だから救うのではないよと言うことです。被害を受けていなくても加害者だとか被害者だとか、そういうお互いの関係以外のところでも十分にあなたの希望には協力するよと言う姿勢を示すこと。人間関係はもっと豊かで、単純な加害者と被害者、どちらかに偏ると言うものではないのです。
4番目は、実際にあなたの希望を教えてね。ぜひ協力させてねと言うことを常に常に伝え続けることです。

具体的には
「僕は、◯◯してほしいです」
「僕は、さっき、◯◯して欲しかったです」
と言う言い方で、あなたの気持ちを教えてね、と言い続けるようにしました。

別に、あなたがかわいそうな身の上で、かわいそうな被害を受けたから、保護するのではなく、あなたがどんな状態であれ、常にあなたを応援するのが周囲の大人ですよと伝えるのです、

あなたは何がして欲しいの?と、とにかくその子に聞いていくのです。
そしてきっちり言わせます。
日本語としてきっちり言わせていきます。
話型を、確実にその子にインプットさせるのです。「〇〇してほしい」

そして、それが言えたら褒めます。
はっきり教えてくれてありがとう。これで協力しやすくなったよ、と。

「ぼく、〇〇して欲しい」
が、使える子供に育つと、どんどんと子育ては優しくなります。簡単になります。僕は被害者なんだ!と言うことを言わなくても協力してくれる。そんな大人が周囲にいることがはっきりとわかるからですね。

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寝ていても団扇のうごく親心


江戸というところは、狭い長屋に、何人もの人が、協力して住んでいまして、そこには当然、子供もたくさんいたわけで、生まれたての赤ちゃんに限らず、隣近所の小さな子供を、どんなふうにして子育てしているのか、お互いに見ることが多かったのでしょう。

そうすると、こんな川柳が生まれるわけですね。

寝ていても、うちわの動く親心

なるほどなぁ。
たった17文字ですが、その場の状況がさっと目の前に浮かんでくるようです。

添い寝中にウトウトと寝てしまった親が、それでも我が子をあおぐ手だけは止まらない様子。

親の気持ちが伝わってくる。

なんだ。江戸時代も今も全然変わらないじゃないか。何世代前の親だって、疲れていたら、自分も寝てしまうだろう。しかしながら、子どもを仰いでいたその手は止まらないで、子どもには涼しい思いをさせてやりたいんだろう。

この川柳が載っていたのが、誹風柳多留(はいふうやなぎだる)。
江戸時代中期から幕末まで、ほぼ毎年刊行されていた川柳の句集であります。

他にも、こんなのが有名で、皆さん聞いたことがあるでしょう。

これ小判たった一晩ゐてくれろ

今は、キャッシュレスの時代ですが、昔は10,000円札と言うと大金でした。
特に聖徳太子の時代は、他のお札に比べて、ひときわ大きく、お財布の中でも存在感がありました。その聖徳太子も、たいてい短期間でいなくなるのですが・・・。

まあ、想像するに、江戸という街は、向こう三軒両隣というように、お互いの子育ての様子なんかも、暑い夏の夕方の、開け放した障子の向こう側によく見かけたんでしょうね。

そして、そんな長屋の中に、住人たちの親代わりのようにしていたのが、ご隠居さんと呼ばれる老人。あるいは長屋の大家さんが、そういう立場なのでした。

たいてい誰かが誰かの面倒を見ており、逆に、全員、ほかの誰かに見てもらっていたんでしょう。

その中には、大抵はみ出し者もいたでしょうし、吹きこぼれたような素行の悪いのもいたに違いありません。しかしそんな人たちもあれはあれでいいところもあるんだ、と、表面的には現れないその個性の良さを認めてくれるような、大きな広い心が、包み込むようにして、そこに存在したにちがいない。

大家さんやご隠居さんが、そんなふうにして、若い住人たちを、そっと見守っていたのだろう、そしてそれこそが本当の親心というものだろう、と思うのです。

さて、新しい学級がスタートしました。新しい教室、新しい机に、小さな子供が1人1人座っておりましたよ。
そして、元気よく、返事をしてくれました。

私は子どもを一人一人見ていると、その背後に、夏の暑い日、子どもをうちわで仰いであげているような親の姿が想像できるのです。
そしてその親をさらに、そっと支えているような存在が、きっといるのでしょう。さらに大きな大きな包み込むような存在の方が。

ああ・・・
じいじ、ばぁばは、偉大ですなぁ。

きっと、自分も子育てをしてきて、さらに若いお母さんが子育てをしているのを何人も見てきて、それがどんな子育てであろうと、口を出さずに、そっと見守って、本当に何かコトが起きて必要なときには、すぐにでも助けようとする人が、ですね。

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小さな失敗 良い失敗

発達障害のある児童の中には、完全エラーレスの場合が望ましい時期やタイミングがあるから、万人にこれが当てはまるとは思わない。
ただ、かなり多くの人にとっては、「小さな失敗は良い失敗である」というのは、言えると思う。

また、成功とか失敗というのが、本質的なものではない、というのは、大前提であろうかと思う。人生において、成功だけにしか価値がないか、充実しないかというと、そんなことはないからであります。

たとえば、事業に失敗したからと言って、ある一面では大成功だと言える面もあるのですね。苦しい事業に取り組んで、その一代だけを見るとかなり大変に思えるが、時代が変わって技術が取り入れられたら、先代の努力が報われるということは非常によくある。つまり、その一代だけでは判断がつかないこともあり、むしろ挑戦者がいたことが周囲に与える影響は多大なのです。

成功か失敗か。
実はそれが本質なのではないことは、さまざまな人間ドラマを目にすれば誰にでも分かる簡単なことであります。
あるいは、無名で一生を終え、誰にも目を向けられることもない静かな人生であったとしても、そこには価値があり、人を感動させる事実はたくさん詰まっています。テレビや新聞、ラジオやネットで話題になるよりも、テレビに出ないでも周囲社会の人を幸せにして、まわりから感謝される人は多いのです。つまり、それが本質ではない、ということです。何者かになることが重要なのではなく、たとえ無名であっても、佳人も佳作も良品も良人もめちゃくちゃたくさんこの世に存在し、この世の多くの人を笑顔にしているわけですな。

そこで、では子育てにとってこのことがどう影響するかというと、めちゃ重要でありまして・・・

幼いときから、なにかあるたびに、

「小さな失敗、良い失敗♪」

と、たえず親が歌うようにするのです。

あとは、

「あなたがやれたことの9割は、他の人の手が入っている(お世話になっている)」

だとか、

「人が一心に打ち込んでいると、そのうちの半分が本当に実現する」

などということを、子どもが思春期になったら、遠くの方を見ながらつぶやくようにするのですね。

とくに学校の教師は、低学年の頃からこれを教室で口癖のように言うことです。

小さな ♪  失敗 ♪  良い失敗 ♪

と、明るく、ね。
子どもはずいぶん助かるだろうとおもいます。

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トランプ大帝国とゼレンスキー大統領

前回の記事で、学校から減らすものなくすもの、そして増やすもののリストをあげた。

そして、その最後に
【始めたり増やしたりするのは簡単だが、終わらせたりやめたりするのはめちゃくちゃ難しい】
と言うことを書いた。

すると、このことについて、私に直接メッセージくれた読者の方がいた。
確かに、そう思う、・・・と。
現にヨーロッパの戦争は、いまだに集結していないではないか、と・・・。

ホントですわ・・・。ゼレンスキーさんよ・・・。

人間関係のことを考えると、結婚もそうだろうと思う。
恋人同士になるのは、割と簡単で、その気になればすぐだ。
結婚するのも簡単だろう。その気になればスムーズなことが多い。

しかし、これを解消するのが難しい。
別れると言う事は、人間は非常に苦手なのだ。付き合い始めるのは簡単だが、それをうまく止めることが難しいと感じる人が多いんだろう。
昭和の歌謡曲だけではなく、万葉集の昔から、人は、過去に生きているために、未練もあろうし、寂しさもあろうし、あの時、あーすればよかったと言う後悔もあるから、やっぱりやめたくない、終わらせたくないと願うのが人間のようである。

子供の喧嘩も見ていると、あっという間に始まってしまう。
喧嘩を始めるのは超簡単なのだ。
これは、人間の認知能力が非常にもともと狭いもので、ある方向からしか物事を見られないために誤解を生じやすいから、致し方ない面もある。

しかし、人間がこれだけ2000年以上も、文明を発達させているのに、喧嘩を止める方法と言うのは、未だ開発されていないところを見ると、多分、私を含めてホモサピエンスには、そのことを思いつく基盤がないのだろうと思う。

基盤がないのだから、要するに、そんな事は、今の人間たちには無理なのだろうとさえ思う。

ちなみに、その方法を、今の時代に誰かが唱え始めたとしても、全く共感はされない。なぜなら、荒唐無稽で、そんなのは無理だと言う概念に違いないからだ。



さて、ウクライナの戦争は、トランプ大統領になってから、なんだか方向が変わってきた気がする。
特に、トランプ大統領がプーチンと直接話し合い、その場にゼレンスキーを呼ばなかったところを見ると、急転直下、物事が進むような気がする。

トランプは、セレンスキーやウクライナのことを考えず、どうやら戦争を終わらせようとしている。
おそらくプーチンにもそのまま占領した領地を認めてしまうのではないか。

セレンスキーさんは、亡命するか、どこかに身を隠すことになる。今やトランプの目の上のたんこぶだからね。

ゼレンスキーを含めた政府首脳がスイスに亡命し、ウクライナの戦争は、トランプの鶴の一声で終わってしまうのではないか。

領土問題はそのままだ。
ヨーロッパも文句は言うまい。誰もプーチンと渡り合える人がいないからだ。

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仮にそうなった場合の次の展開はどうか。

これはアメリカの独走が始まる。
中国はそれに対抗したいだろうが、アメリカは中国とどこまでも様々なチャンネルで脅したり懐柔したり譲歩したり責めたりしながら、なんとか付き合っていくことだろう。
中国政府は恐怖支配をますます強め、監視を増やして1984をさらに進めるだろう。見せかけの民主主義と共に。

人々の考えは、おそらく二分されていく。トランプのように、【即断する強烈な支配】を好む層と、【ゆっくりで良いから弱者に寄り添う】層と。

そして、どちらにも共通する欠点が、

一旦始めた喧嘩を止める方法が見つからない

と言う点である。

ところが、小学校のクラスには喧嘩を止める方法が実は存在しています。
社会学者も、憲法学者も、政治国際学者も誰も注目しないんですが、実は足元に解決方法はあります。

それがお互いに諦めるということです。

小学生、特に低学年はすぐに言いますよ。
「ごめんね」
「いいよ」

特に年配の先生はそれを聞いてぎょっとします。

え?
いいの?
それで許しちゃうの?
ほんとにいいの?

・・・ってね。

夕方になって、保護者にそれを電話で伝えると、

「え?子供は許しても私が許しません!絶対許せないです!弁償してもらっても絶対許しません!」

と、保護者からは文句が出ますけどね。

基本、やらなくて良いことばかり

人生は、基本、やらなくても良いことばかりだろう、と思います。

とは言え、生きていくためにやるしか無いこともあります。
それは、原始時代の人間も、今の人類も、変わらずやることでして、すなわち衣食住のこと。
衣食住の基本部分について、ある程度自分でやれるのが一番で、それ以外は本当は人間がどうしてもやらなければならないことでは、無いのかもしれません。

小学校はそういう意味では、かけるべい時間がもっと衣食住に偏っても良い気がする。

これ、役に立つな!と、
本当に子どもが思えることか、あるいは子ども自身がやりたくて仕方のないことを、やるのですから、みんなやると思います。

さて、現役で教師をしていると、さまざまな親子をみることになるのですが、そういった、ある意味人間にとって原始的な行動をしっかりさせることが、その子のやる気を結局は伸ばすことになると、私は感じておりますね。

宿題、とか
勉強、とか
算数、とか
掛け算、とか、
英語、とか漢字とか。

そういう話題を子どもと話す前に、

食べること、とか
寝ること、とか、
パジャマが快適か、とか
洗濯するとどうなるか、とか
毛布のこと、とか
寒さとか暑さとか、
汗をかいた、とか
病気のこと、とか
この佃煮おいしいね、え、お母さん、つくだにってなあに?とか
残りご飯でチャーハンつくろかな、私も手伝うーとか
お風呂ってなんであんなに気持ち良いの、とか。
頭が上手に洗えたね、とか。

そういう話題でとことん話してますか、ということ。

おそらく、1対50000
くらいの比率で、宿題の話よりも衣食住の話をした方が、子どものパワーは上がりますよ。結果として学習の力もね。案外、遠回りが近道なのかもね。

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体育館にスタバがあったら良い件

シャーペンは小学校では禁止されているところが多い。
わたしは自分が6年生の担任のとき、学年の先生たちと相談して、シャーペンをOKにしたことがある。
でも、それは毎回できるかというとそうではなく、子どもを観察して
「だいじょうぶだ、いける!」
と判断したときにだけ、OKにした。

保護者の雰囲気もある。
シャーペンを使わせてほしい、という願いを多くの親が伝えてきたときに、それを許可するようにした。

実際にはどっちでも良いのだが、実は小学校ではシャープペンシルで事故があったらしく、年配の先生たちはみんなそのことを知っていて、シャーペンは小学校ではナシだよね、ということにほとんどの先生が納得している。

保護者はあまりそういった情報が得られないために、

「先生たちはあたまでっかちだ。なぜいかんのだ」

となることもあるかもしれないが、保護者でもスタンスや考えがいろいろとちがっており、なにか先生たちならではの考えがあるんだろう、こまかくはしらんけど、という雰囲気の方もいる。というか、そういう保護者が多いのだと感じる。

結論としてはどっちでもよく、先生たちも本当のところはどっちでもええと思っている。

禁止にしたのは事故があったことが原因だそうだ。
ずいぶん昔に聞いたことだから、その事故も昔の話なのだろう。
電源コンセントに向けて、二本のシャープの芯をそれぞれ片手の指でつまんで、それをコンセントの穴に同時にぶっさす、というとんでもない事件がかなり昔にあったようです。
その後の調査が無いために、もしかしたら最近にもそういうことがあったのかもしれませんが、なかなかニュースでは聞きませんから、あまり無いのかもしれないし、ただニュースとして出ないだけで実際には、つい最近だって感電した子がいるかもしれないですね。

つまるところ、学校の先生たちが本当なら保護者にも伝えて良さそうな情報というのは、かなりたくさんある。
でも、それをいちいち、保護者に伝えていない場合もある。

子どもに「そういうことをすると感電する危険性があるので、やめましょう」とは言わない。
なぜかは大人はわかると思うけど、要するにそれがやぶへびになってしまい、

「感電ってどんなのだろう?シャープの芯でやれるんか!やってみよう」

と考える子が少なくないからでしょうね。

シャーペンの芯を一本ずつていねいにコンセントにぶっさすなんて、想像もしない子が、それを教えてもらうとやりたくなる、というのは、世間的には広く理解されることだろうと思います。

なので、子どもが先生に

「先生!なんでシャープは禁止なの?」

と聞いても、多くの先生は

「鉛筆の方が小学生に向いてます」

とか、なんとなく丸め込もうとする。
ホントのこと教えたら、この中の200人に1人くらい感電するやろ、と、ホントは先生たちは心の底でつぶやいてます。

年末で、今もなぜか窓の外で救急車のピーポーピーポーという音が鳴り響いており、こういう正月とかに事故って起きるんだよな、と思いながら、ふと思いついた記事を書いております。

こたつでも事故が起きるし、灯油ストーブで洗濯物を乾かす、というのは事故になりやすい。
酒を飲んで寝てしまったら、一酸化炭素中毒で意識が遠のいて危機一髪・・・、というのもよく聞く。

小学校は事故が起きやすい。なんてったって、生まれてから6年しか経ってない子が、たくさん遊んでる空間ですからね。先生たちだって職員室に授業の準備をしに戻るし、ずっと見張っているわけではない。休み時間とかに、体育館や校庭を、つきっきりで見張っている大人は居ないわけで。

そうすると、だんだんと禁止事項も増えちゃう。

わたしは禁止事項は減らして、そのかわりに小学校にもっと大人の目があるようにすればいいと思うね。コメダ、という喫茶店があるが、あれを校庭の端っこにつくればいい。あとはサイゼリヤ。
この2つが校庭の南北にある。また、スターバックスを体育館の隅っこにスタンド形式で配置すればいいだけだ。そうすれば、大人の目は100倍くらいに増える。

スタバのカウンターには救急箱もおいてほしい。そうすれば、スタバにコーヒーを飲みに来た大人に向かって、

「おばちゃん、ひざ小僧がすりむけちゃったので、サビオを貼ってください」

といえる。

大人はふつうに対応すればいい。決して

「わたしは先生じゃありませんから!」

とか、冷たいことを言わないようにしてほしい。

いいアイデアだと思うけどなあ。

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インフルエンザの猛威

12月のインフルエンザはすごかった。
わがクラスもそうだが、他のクラスも。他の学校も。
学級閉鎖にはならなかったが、調子を崩す子は多かった。

私の観察によると、風邪をひく子どもの特徴は、薄着、である。
昔は薄着で鍛える、という風潮もあった。
しかし、今はリスクが高い。
睡眠時間の少ない今の時代の子は、すぐに風邪をひいてしまう。
昔の子は、薄着で鍛えてもしっかり寝ていたから大丈夫だったのかもしれない。

私はクラスの子がそれこそ首にネックウォーマーをつけていても、叱らない。
その代わり、それを自分の意志でつけてるかどうかを聞きます。ただ、脱ぎ忘れてる可能性もあるからだ。

「少し昨晩から喉に違和感があるので、今日は用心してあっためてます」

ということが言える子に育てたい。

「行儀が悪い!取りなさい!」とは言わない。

その行儀とやらは、大人になって働くようになってからぜひ身につけてほしい。

首を温める子は、風邪をひかないイメージだ。イメージに過ぎないけど。

あとは、深夜にゲームやってる、という噂のある子は、欠席しやすい。
「◯◯くん、荒野行動、夜中までログインしてたよ」
「というアンタもだぞ」
結局、その2人は風邪をひいてしまう。

朝の健康観察のときに、

「のどが痛いな、と思ったらどんな対応するの?」

とか、クラスの子たちに聞くと、まだ9歳なのに、と感心するような発言もある。
しかしその一方で、何にも浮かばない子だっている。
これは、そのような問いかけを、大人の側がこれまでしてこなかったせいだ。

結論として、子どもにはいろいろと尋ねていった方が良い。
そして、一つしか言わなかったら、他にも方法や考えがあるよ、と伝えるのが大人の役割だと思う。

「他にどんな方法があるか、おうちの人に取材してごらんなさい」

こういう宿題が良いよね。

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褒められたけど、しんみりする話

校長先生がわざわざ褒めにきてくれました。

私のクラスにいる何人かの子がやたら騒いでいたり関係ない発言を繰り返したりするのを、私がスッと対応して笑いに変え、授業に引き戻して進めているからだと。



私はてっきり、

「ちゃんと叱った方が良い」

というアドバイスなり指導なのかと思ってしまった。



それは長年、私が「叱らない教師」をしてきており、頻繁に経験する代表的な管理職の反応だからであります。

もう20年近く、叱らない教師をやっているため、ときに

「きちんと指導しなさい。叱ることも必要だ」

と、指導を受けてきた。



私も叱らないわけではなく、その都度、改めた方が良い点は指摘し、直そう、と子どもたちには伝えているのだが、それでは叱ったことにならないらしく、管理職の先生の多くは、きちんと叱りなさい、と言う。



「どんなふうにですか?」

と、私ができるだけ下からお伺いすると、その答えはほぼ、強い圧迫を与えて強い大きな口調で言う、ということであった。



私はそれが叱ることとは思えず、あるいはもしそれが叱る、ということであれば、自分は叱らないで教員をやろうとやんちゃにも無謀にもそう考えたわけですね。



このあたりのことはブログの中で常々、折に触れて書いてきました。



若い頃は、「どこまで叱らないでいけるかな?」と、面白がって挑戦するような心持ちでした。



しかし、時代は変わるものです。

発達障害の知識が浸透するにつれて、私のスタイルは意外に褒められることも増えてきました。特別支援の先生たちの方にとっては受けが良く、「叱らないでもいいですか」スタイルに共感してもらえることが多いようです。



それが。

やはり、時代は変わったのですかね・・・

校長先生から、

「あなたのスタイルはスゴい。尊敬します」

と直接、私のデスクまで来て、おっしゃっていただきました。

「◯◯くんが大声でしゃべっていたのに、さっと笑いにして集中させ、引き戻してましたね」

校長先生はちょっとオーバーに褒めてくれました。

嬉しい気持ちもあったけど、それよりも大きな実感は、

「時代が変わってきてるな」

という感慨ですね。



私は20年という期間、世の中の教育現場を、ある一つの定点から観測し続けたわけです。
それは、「子どもというのは、叱らないでもいいか、どうか」、ということです。それを教育現場は許すのかどうか。周囲の先生方の反応から、リアルに観測し続けたのです。


たしかに、時代が変わりました。

昔は、大声で叱らない先生にとっては教育現場は不寛容でした。すぐに注意されました。
今は、管理職から、直々に、感謝までされます。
大声や圧迫をしない先生を、許容する感じが出てきました。
わたしのような叱らない先生にとっても、寛容な世界が広がってきています。


今回、ことの発端は、ある日の校内放送でした。たまたま機器の不具合から、校長先生の講話が聞き取れなかった私のクラスは、後日、校長先生にじきじきに教室に来ていただき、講話を聞くことになったのです。



校長先生が教室に入ると、静かに姿勢を正して待っていた子たちは、お話しをきちんと聞きます。

ただし数人の子を除いては・・・、です。これは教室あるあるでしょう。

教室を飛び出してしまう子や、椅子にしっかりと座れずにアドレナリンをビンビンに出して揺すりながら奇声を出す子は、多くの場合、低学年の時から発達障害の検査を受けたり、医療機関にかかったりします。「この子の特性を知り、われわれ大人がどのような環境を用意すべきかの指針にする」という理由で。



しかし、低学年でWISC検査を受けずに私の受け持つクラスに進級した子は、私のせいで、ほぼ、WISC検査を受けません。私が勧めないからです。

そのため、支援級の先生たちから、

「あらま先生のクラスからは、支援級に上がって来ませんよね。逆に支援級を卒業する子はいるけど」

と言われます。



これは、私の良くない点で、私はどうも昭和の古臭い、色んな子がいて当然だった頃が、忘れられないのです。自分が受けた教育が懐かしいのでしょうかね。昔は特別支援学級もありましたが、本当に車椅子で二階にこられない子とか、事情のある子が在籍してるだけでした。つまり、椅子を揺すって奇声を発し、教室を飛び出す子は、どこの学級にもいたのです。



私は校長先生に褒められたあとに、自分がなぜかしんみりしてることに気づいたのですが、きちんと褒めてもらえるまで、約20年近くかかっているのは、なんだか当初思っていたよりも長かったナ、と。
おそらく、自分にそんな気持ちがあるのに気づいたんでしょう。だから、なんだか嬉しい気持ちと共に、甘酸っぱいしんみりさを感じたわけです。
腹の立たない、自分をしらべる、たよりないくらいがいい、執抹殺なんていう話を若い頃にしていたせいで、わたしは世の中からずれたままで、このまま行くんでしょう。

ま、でも、人間らしい生活を実現しようとしてんだから、ヨシとしましょう。

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ぼうや、よい子だねんねしな〜メディアと時代〜

時代は変わったなあ,と感じることが増えてきた。
例えば今の子供たちは「まんが日本昔ばなし」を知らない。

テレビで放映されていたこの番組は、我々の世代は毎週土曜日ともなれば楽しみで仕方がなかった。
2人の声優の、何とも芸術的な声。どんな人物もどんな 鬼も妖怪だって演じてしまう。

たぬきがしゃべったら、ハハァこんな声だろうなと思うし、狐が喋ればこんな声なんだろうなと納得してしまう。

その日本昔ばなしを、今の子どもたちは知らない。

ほんの5年ほど前の子供は知っていたんです。あくまでも私自身の体験ですが・・・

だからこの5年間の間に何らかの変化があったに違いない、と思うのですね。
これはおそらく 親の世代の変化だろうと思う。
親が、自分が子供の頃に見たあの日本昔ばなしを子供に見せてやりたいと思うかどうか。

ほんの5年ほど前まではそういう親がまだ世の中にいたのだろうと思うのです。
あとは、年配の保育士さんがそれを見せていたというのもあるかも。

おそらく、この5年間でそういう保育士さんもほぼいなくなってしまったのだろうと推測されますな。(いらっしゃったらごめんなさい)

従って 今の子どもたちに、

〽︎坊や良い子だねんねしない 今も昔も変わりなく 母の恵みの子守歌〜♪

などという 鼻歌を聞かせても何にも反応がない。

なんの歌?ソレ・・・

である。
番組の終わりに流れる

にんげんっていいな

という名曲すらも、同じだ。知らない。知られていない。何ソレ、初めて聞いたんですが、という感じ。

小林亜星さんの偉大さを思うネ・・・

思わず、私は、この木、なんの木、気になる木、などと言い出してしまう。

〽︎このぉ木、なんの木、気になる木ィ〜

廊下を歩きながら、給食の食缶を運びながら、思わずそれを口ずさんだとき、近くにいて一緒に缶を運んでいた子が、

なんで先生って鼻歌を歌うの?
ソレ、なんの歌?

と聞いてくれたので、私は思わず、

「ちょっとした昔を思い出したとき、人は鼻歌を歌うんだよ、この歳になるとね」

と言うと、その優しい子は

「へえ」

と興味も何も無い様子。

「◯◯さんは、鼻歌は歌わない?」

私がちょっと恥ずかしさを隠す気持ちで、そう言うと、

「歌わない」

と、即答。

「お父さんやお母さんは歌わない?」

「お母さんは、たまに歌うかな」

「なんていう曲?」

「うーん分かんない。昔の曲ダネ」

「あぁなるほど。きっとお母さんは昔のことを思い出してるのかもよ」

という会話をしました。

思い出している暇もなく、現在を生きている子供たちにとって、昔のことを、あれこれと懐かしむのは、老人のやることのようですナ。
しかし、昔の話を、同世代と、あれこれとめちゃくちゃしゃべるほど、楽しい事は無いですナ。

私は、小林亜星の話だけで、秘密のアッコちゃんとか、寺内貫太郎一家とか、ネスカフェゴールドブレンドのCMの話とか、まんが日本昔ばなしのオープニングに出てくる長い胴体の辰のことだとか、何時間でも喋れますね。それだけでごはん三杯はイケますな。
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まったリズムでゆこう!

私は18歳19歳のころから、歩行スピードが格段に速くなりました。

多分、本来はもっとゆったりとした性格で、幼い時から縁側でのんびりとお茶を飲むと言うのが休日の過ごし方でしたから、今でも日本茶ほどうまいものはないと思いますし、晴れた日に縁側で日向ぼっこをするのは、世界で最高の休日の過ごし方だと思っています。

ところが働くようになると、そんな事は言っていられません。
牛舎の間は走るようになり、食堂へ向かうときの階段は、必ず2段飛ばしで駆け上がっていました。今から25、6年も前の話になりますが・・・

ところが、50を過ぎると、気持ちが変わってきました。実はそんなに急いでも良いことがあまりないと言うことがわかってきたからです。
どちらかと言うと、人生はゆっくりとまったりズムで生きるのがトータルで見ると得なことが多い気がします。

最近、車の運転をしていても、どんどん人に譲るようになりました。以前はできれば先に行きたいと言う思いがあったように思います。譲ってもらったらラッキーと思っていたし、割り込まれたら、なんだか少し損をするような気持ちさえありました。
50を過ぎて全く世界が変わりました。できたら、皆さん先に行ってください。

これは、いろんなことの自信がなくなってきた証拠でもあります。急いで先に行ったからと言って、先に到着した分、何かを達成できるかと言うと、おそらくそんなことはできないだろうと言う自分に対しての自信の喪失です。

慌ててやって失敗することの方が多い、ということが、だんだんに自分の心に馴染んできたといいますか、ポジティブに諦めてきたということなのでしょう。

あと、人生をトータルして、ここまで振り返ってみたときに、やってよかったという事はもちろんあるのですが、やりすぎて失敗した、と言うことも、同様に、たくさんあることに気がついたのてすな。

後は大きな意味では体調の管理です。
自分の体に意識を向けて、どんな感じかな?、この辺の筋肉はどう動いているかな?呼吸は浅いかな深いかな、味はしっかり感じ取れているかな、唾液はしっかり出ているかな、こわばっているところはないかな、

などと言うことをしっかり感じ取ろうと思うと、日常でそんなに急いではいけないのです。朝8時から夜8時まで、12時間、ずっとせかせか動いていると、もはや、そういう体の意識は、遠い遠い感じ取ることのできない世界になっています。

ですから、あえて、朝の8時から夜の8時まで、つまり、ワーキングタイムにおいても、わざと、ゆっくり動くのです。そして、あえて待ってみたり、後回しにしたり、やらないで、済まそうと考えたり、風邪をひいてできなかったことにしようと考えるのです。

すると、自分の体がどんな調子なのか、意識をはっきりと向けて感じ取ることができるようになっていきます。少なくともわたしはそうですわ・・・。


大人ですらこうなのですから、子どもだって、そんなに急がせないほうが良いと思います。
子どもたちはただでさえスピードが早いので、ぼーっとしたり、遠くを眺めたり、のんびりするような時間をあえて取らせることで、ふと気がつくような新しい発見を話題にすると良いと思います。

国語、算数、理科、社会の教科の中に、本当は、時間の使い方と言う項目を教科として教えるべきなのです。IMG_6098


PTA懇談会の速記録 その3

(つづきから)

でも、考えてみたら、先生が、子どもの世話を焼く、というのは、本来当たり前のことですね。

ところが、実際にはそうでない。
案外と、子どもが精神的には大人よりも上で、大人の心情を推しはかって、あるいは心配して(笑)・・・

子どもが大人の世話をしてる、面倒を見てる、ってこと、よくあるんですよね。

どのくらいの割合だと思います?

これ、ちょっと、みなさんの意見を聞いてみようかなあ。
挙手でお願いしますね(笑)。

大人が子どもの世話をするが9。子どもが大人の世話をするが1、と、このくらいの人? つまり9対1で、まだ大人が子どもの世話をしてるんだ、という・・・。

ああ、意外とこれ、みなさんそんくらい。まあまあいらっしゃいますね。

8:2は?
2くらいは、子どもが大人の心配をして、忖度してるのでは、という・・・、あ、このくらいかな。

では、半分。5:5くらいだと思われる方。

エーッ!
おお・・・!意外に多いですね!もっと少ないかと思いましたが。意外。

いや、逆に、子どもってのは大人の機嫌を見てるもんだ、気にして暮らしてるんだ、と、その割合の方がひょっとしたら多い、と思われる方?

ああ、少し!
あ、でも、いらっしゃいますね。
あ、そうですか、お子さん、忖度してる!?(笑)

ありがとうございました。
うーん、なるほどですね。
親が子どもの世話をするのか、それとも子どもが大人の世話をしているのか・・・。

だんだんと、わからなくなってまいりましたね。(笑)

さて、謎が深まってきたところで、お時間がまいりました。(笑)

でも、いかがですかね。
今日、お家にお帰りになったら、ぜひちょっと気にしてみるのも、いいかもしれないです。あ、今、どっちかなあ、って。(笑)
忖度された?今! 母の機嫌を損ねないように、って。あら、今、私、お世話されたかしらって。(笑)

どっちもある、ってことですよね。私たちは、いつも、いつの間にか、大人が子どもの世話をするんだ、一方通行なんだ、と思って暮らしがちです。
でも、実際は両方向ですよね。

あ、このままいったら、先生、困るよね、とか。これだとスムーズじゃないよな、とか。コレすると大人が大変だから、今はこうしとこう、とか。子どもたちは、すごく考えて、日々、生活してます。目線は完全に、教師よりも上、でございます。

彼らは、決して立ち位置を上下で考えてはいません。もし、上下で考えたとしたら、それは大人がそうさせたんでしょう。俺が上だ、と、何かそうさせるものが、子どもにそう思わせるようなことが、あったんでしょうね。
先に生まれたから上とか、違うわけです。子どもに教わることは、多いですよ。仲直りのスピードでしたら、多くの大人が、子どもに負けます。大人の方が面倒で、妙にこだわってます。子どもに見習うことは、すごくたくさんあります。

いつも思うんですが、総理大臣でさえ、私は子どもからいろいろと教われば良いと思いますね。人として、どう生きるべきか。彼らの、友達を守ろうとする気持ちとか、かばうスピードとか、学ぶべきですよ。
まあ、裏金問題では、身内だろうが仲間だろうが、そんなのはかばって欲しくないですが。(笑)

以上です。
最後まで、本当に、ありがとうございました。
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PTA懇談会の速記録 その2

.
(その1 より つづき)

この本には、子どもをよく見ろ、とあります。
とくに先生になりたての若い先生は、子どもをよく見ていない。そのことが指摘してあります。書いているのはもちろんベテランの先生です。

「子どもをみなさい」

そして、宿題を出しているかどうかというのは決して見過ごしてはいけない。
一度でもスルーしてしまえば、出さなくてもよいと思わせてしまう。だから、とくに最初の1週間は目を皿のようにして、子どもを観なさい、と。

よくあるのは、先生のこんなセリフです。

「全員出しましたか?まだ出していない子はいませんか?いや、まだ出していない人が2人いる!」(笑)


まあ、こういうことを繰り返していると、子どもは宿題を出すようになります。なぜかというと、面倒だからです。宿題をやるのが面倒なんじゃない。それ以上に、宿題を出さないと、先生のこういう調査とか指摘する作業に、毎日のように付き合わなければならない。それが面倒なんです。

「出さないと先生うるさいからなー」

これ、長谷川さんをみる、山之内君の目線とかぶりません?

「一緒にサウナに入ってあげないと、長谷川さんうるさいからなー」

ほら、長谷川さん、出てきた。(笑)

学校で、アルミ缶を集めています。リサイクル活動というやつ。これ、妙なことにクラスで目標を立てるんですよ。今月いくつ集めるかって。不思議だと思いません?だって、アルミ缶を買うのは、小学生のやることじゃないですよ。それぞれの家庭で、暮らしの中から少しずつ出てきたのを集めて、まあリサイクルしてみましょうか、というのが実際だと思うのですけど。

でも、これを目標を立てて、学校全体で集めよう、ということをする。児童会の活動なんです。アルミ缶回収を、環境委員会とか、清掃委員会とかがやるんですよ。各学校で。
すると、目標の数に到達しない。みんな、クラスで目標を立てていますから。1学期で200個とか。すると、アメとムチの論理でやろう、ということが出てきます。必ずといっていいくらい。

どうするかというと、まずはたくさんもってきたクラスを、給食の時間に校内放送で発表します。栄誉をたたえるわけです。5年2組は、今月、300個もってきてくれました。ありがとうございます。とか。
すると、クラスによってはプレッシャーを感じて、帰りの会とかで子どもがやるようになります。
「今週、アルミ缶をもってこなかった人は立ってください。金曜日までに必ずひとり3個持ってくるようにしてください」
で、立った子が悲痛な顔で、「すみません。必ず持ってきます」とか。

給食残飯グランプリ、というのもありました。
給食でおかずとかご飯が残ります。すると、その残滓の量をはかるんです。またお昼の放送です。
「今月、いちばん残滓の少なかったクラスは、6年1組でした!おめでとうございます!」
これ、賞品がつくんですよ。専科の担任の先生の分とか、デザートのヨーグルトとか、たまに残るんです。それが、6年1組に配られるの。逆に、残滓の多いクラスも発表されます。すると、つらいですよ。罰はないです。ただ、もっと減らすようにしましょう、と言われるだけ。でも、なんだかさらし者にでもなったみたいで、いやなものですよ。

ほら、ここにも、アメとムチの論理、生きてるでしょう?

根深いのです。ずっと学校で、子どもと先生と、ち密に組み立ててしっかりと強固なシステムとして、日本の誇る『しつけの文化・教育文化』として、会社でも商店でも学校でも、ありとあらゆる場所で育んで大切にしてきた制度であり、文化なんです。アメとムチ、これは本当に根深いと思います。

アメとムチで、経営をしていると、子どもたちはどうしても、山之内君の視点で動くようになります。
〇〇しないと、先生が気の毒だ。〇〇していかないと、先生が困る。〇〇していかないと、学校全体として、なんかまずいみたい。
まあ、仕方がないから、このシステムにつきあってあげるか、ということになります。本当はまったく意味が分からんけど、という。
これ、子どもが先生や学校の世話をする、という姿勢です。


山之内君がヤクザの世話をするのは、変じゃないか、と思いますか?
同様に、子どもが大人や先生の世話を焼くというのは、変だと思います?

どうでしょうね。

 自分は、回り道をして学校の教師になりましたので、大学の教育学部を出たわけでもなく、教育実習も受けていません。だから、たぶん、わたしは、教育のことがよく分かっていないんだと思います。教員になってそろそろ20年ですが、ちっとも分かりません。

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PTA懇談会の速記録 その1

.
~文字起こし~

今日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。 

 え、いきなりですが、ヤクザさんの話から始めたいと思います。(保護者の皆さん笑)

小学生の頃のことです。
わたし、当時5年生だったと思います。

ヤクザに会うのですよ。銭湯で。
うち、家に風呂があったのですけど、近所に山之内くんという子がいまして。彼の家はお風呂が壊れて、しばらくの間、銭湯に通ってた。一人で通ってたんですけど、つまらないので、友達のわたしを誘うようになりました。
私も家で風呂に入るのはつまらないし、山之内君と遊べるので、喜んでいっしょに行ってました。母親は金がかかる、とこぼしていましたが。

山之内くんがお風呂で恐れていることが一つありました。近所のヤクザに会うのですよ。背中に、でかい鯉の彫物がありました。
で、そのヤクザは、私たちを見つけると、
「よし、今日はおれがお前たちを鍛えてやる」
とか言って、サウナ室へ入れ、とか、指示するわけです。
我々はなんでか知らないけど、お付き合いしなければならない。

サウナに付き合い、その後は風呂の中に何秒沈んでいられるか、というやつ。
ヤクザはやらないんですよ。わたしと山之内くんだけにやらせるの。
たまに、近所の小学生とかが運悪く加わることがありましたが、山之内君とわたしは彼にとっても気に入られまして、よくその根性を叩き直す、という訓練をやらされました。

山之内君はそれでもその時間に風呂に入らなければならない。
ヤクザがいない日は、ラッキーです。笑って、本当にのんびりすごしました。
ですが、ヤクザがいると、もう仕方なく付き合うわけです。もうサンダルまで覚えていて、銭湯の玄関に入るとすぐそのサンダルを探す。サンダルがあると、
「あ~、いるわ」
ざんねん、という感じ。

でも、我々も鬼じゃないですから、そのヤクザにつきあってあげました。いいヤクザなんです。サウナとかに付き合うと、風呂上がりにコーヒー牛乳をおごってくれるんですよ。山之内君が「フルーツ牛乳がいい!」と言っても、「男だろ!」と言って叱られて、いつもコーヒー牛乳でした。

そのヤクザさん、本名が長谷川さんっていうんですが、長谷川さんはあまり金持ちじゃない。そして、いつも暇そうにしてました。たまに近所のスーパーとかで出会ったりすると、「おう!」とか、にこにこして手を振ってくれたりしました。スーパーでかまぼこを買うところを見たことがあります。でも、見ると、かまぼことネギとか、本当に少ししか買ってない。あんだけでいいのかな、と不安に思ったことを覚えています。

たまに学校で、山之内君とわたしとで、長谷川さんの話をすることがありました。長谷川さんに付き合うのは、イヤでしたけど、あの人もさびしい人だから、俺たちがつきあってあげるしかないよな、というような、話をしたことがあります。ませた小学生だと思いますけど、実は子どもって良く見ていて、けっこう大人の機嫌や、大人の立ち位置なんかを気にして、気を遣うようなことって、案外とあったのかもしれないな、と思います。

で、話は変わります。
ここまでが、伏線。あとで、長谷川さんが出てきますから。忘れないでね。(笑)

あの、学級経営って、いうでしょう?
学校の先生たちって、けっこう勉強家がそろっています。そりゃそうですよね、中学高校大学と、ぜんぶまじめにやってきたような人が、先生になるんでしょうから。学校がきらいな人って、先生っていう職業は選ばないだろう、と思うんですよ。だから、職員室で見回すと、たいていは本当に真面目で、コツコツと仕事をする。残業なんて普通なこと。月に百二十時間くらい残業する人もたっくさんいます。まじめなんですよ。

そのまじめな先生たちが、よく購読している雑誌が、これ、です。
「学級経営」
「統率力&授業力」
学校の先生というのは、学級という一つの人間の集団を、うまいこと経営していかなければならない。経営者なんです。
ありとあらゆる事態を想定しながら、その都度、今は何が最適解なのか、1年後を見通しながら計画し、遂行していく。
そのために、多くの本に書かれているのは、みなさんご存知の、アメとムチ、という論理。文科省の指導官も、この言葉、使っています。つまり、日本におけるデファクトスタンダードなんですね、アメとかムチ、という経営手段は。

この本には、宿題を出させるための方法が書いてあります。

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良かったねえ

脳の研究や心理学の世界で、新しい知見が次々に生まれている。

ミラーニューロンというのは、かなり昔にブームが起きて、その後も研究が少しずつ進んでいる話題の一つだ。

話は単純で、人間は外見や格好を意識的に模倣するが、心理的な動きも意識的かつ無意識的に、かなり多くのことを模倣するということ。

つまるところ、人間は、とても影響を受けやすいのですね。

教室でも、そういうことが、たくさん起こります。

朝の出席のとき。

子どもの名前を1人ずつ呼びながら、顔を見て確認していきます。

大抵の子は、はい、元気です、とハッキリ言います。
私は笑顔で出席簿にマルをつける。
教員の至福のひと時ですなあ。

中には時々、
「ちょっと鼻水が出ます」とか「咳が出ます」とか、言いますね。

そんな時は気になるものですから、ちょっと様子を聞きます。まわりのみんなも聞いてます。

周りの子たちをすかさず褒めます。
「そうやって友達の身体の様子や体調を聞いておくと、あっ、無理させちゃダメだなとか、休み時間に声をかけようとか、思うことができるよね。きちんと聞くことで、聞いてもらえた子はうんと嬉しい。みんなで◯◯さんを幸せにしているね」

風邪をひきかけてます、と言う子に向けて、私が毎回言うっているのは

「(咳が出ることを)お家の人は知ってる?」
ですとか、
「よく眠れたの?」とか。

あとは、怪我したと言う子に対して、

「何かクラスのみんなに手伝って欲しいことはある?」

例えば、給食当番とか、掃除とか。

するとね、そういうやりとりって、実は子ども。
聞いてるみたいなんすよ。
しっかり聞いてんの。

でね、ミラーニューロンのせいなのか、コピーして言うようになるんだよね。

知らない間に子どもどうしで、
「おうちの人、その怪我のこと知ってるの?」とかって、聞いている。
その言い方、いつも朝、教室で私が言ってる言い方だよねって。

こう考えると。
子どもたちは、心の動きをよ〜く、なぞるようにして、コピーして生活してるんだなあ、と思います。

当然、親が自分に対してする、その関わり方だって、コピーしているでしょうね。
で、その言い方が良いな、かっこいいな、洒落てんな、と思ったら使います。

子どもは、
◯納得すると使い始める
◯いいな、と思うと真似をする
もしくは、
◯自分の身を守るためにも使う

最後のは、ドキッとしますね。
親が屁理屈を言うと、それ、完全に後でコピーされて戻ってきます。

先生◯◯できた、と子どもが言いにくること多いです。
すると、
ああ!そう!よかったねえ!!
私の口癖です。
大体、良かったねー、と言ってもらうと、子どもはかなり満足した顔をしますからね。

するとね。それもコピーしています。

子ども同士で、
良かったねえ!
だって。

あとは、最近ですが、こんなこともありました。

クラスのある男の子が、ピンク色のセーターを着て登校したんです。
オードリーの春日みたいなの、です。
すごく似合うの。それが。

でも、なんか朝、それについてなんか言った子がいたのですな。
男なのにピンクなんて、とか。


するとね、間髪を入れず、
「それもいいんだよ。男だってピンク色を着てもいいんだよ。変だとか、そういうふうに言われたらさみしいから、それでもいいよ、と言ってあげなよ(原文ママ)」
ですって。
そう言った子がいたのですわ。

私は、これはおうちの人のセリフだな、と直感しました。

周囲の大人のセリフって、コピーされるもんなのですよ。
セリフというよりも、それを言う時の心理状態を真似するという方が正しい。

こう考えますと、子どもって、
ああ、社会全体から学んでいるんだなー、親だけでもなく 教師からだけ、でもなく 友達からも兄弟からも
本からもゲームからも
基本は これいいな ということ 使ってみたいなと思うこと、みんな、子どもにとっては真似するモト、なのですね。

子ども、偉い!

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それをするとどうなるか

ケーキを三等分できない、という少年たちの実情を書いた本を読んだ。ケーキに対して、まず一本の線を引いてしまう。衝動的にひく。考えが無いので、2本目に困る。それで、2本目も無理やり引く。結局、三等分ができない。
こういうことは非常によくあること。しかしこれまでは、そんなに話題にしてこなかった。

子どもの能力とは何だろうか。
大人は子どもの何を伸ばそうと考えるか。

乱暴かもしれないが、これは結局次の一つに集約されそうだ。

それをするとどうなるかを予測する力。

特に考えもなしに、子どもはさまざまに物を転がし、何かに乗せたり、自分が乗ったり、ぶら下がったりする。
それが当たり前で、子どもの仕事であり、遊びなのだが、ともすると怪我をする。

高い場所から落ちれば、痛いし、怪我になる。
そのうちに誰もが学習するから、回避できるコトなのだが、一部の子は、学習をしない。というか、「することができない」。だから、しょっ中怪我をするし、その怪我の程度が大きくなっていく。

ケーキを三等分することができない子の多くが、実は学習障害の側面を持っている。
まさに、「それをするとどうなるかが見えない」という状態のままで、生活しているのだ。

少年刑務所で講義をする先生がいて、お話を伺ったことがある。
少年刑務所は、少年受刑者を成人受刑者から分離して拘禁し、悪風感染を防止するとともに、特別な教育的処遇を行うことを目的としている。
だから、松本市にある少年刑務所のように、中学校を併設するところもある。

その先生が少年たちと話して一番に感じたのが、やはりそのこと。つまり、それをするとどうなるのかが、想像できない、という特性についてだった。

その先生は、歯磨き粉をチューブから下敷きの上に絞り出させてから、

「それを元に戻せる?」

と聞いた。
少年は、戻せるよ、と言うのだそうだ。ところがやってみると戻せない。
ダメだ、というその子に向けて、先生は、

「戻せないって、そういうことよ」

と教えた。

この世の中には、一旦元に戻せることもあるが、一方で取り返しのつかないことがある。それを、少年たちが、できるだけ実感の湧くように、何度も体験させるそうだ。

先生は、少年に、
「それ、元に戻せることかな。それとも、戻せないかな」
と聞く。また、
「それ、そのことをやり続けると、どうなると思う?どんなことが起きそう?」

少年が床を掃除すると、

「それすると、床がどうなるの?」
「それをすると、どんな人が喜んでくれるかな」

やってることは、小学校の先生と変わらない。しかし、すごく重要な指導なのだ。それをすると、あなたのその行動が、社会にどう影響するの?と、聞くことは。
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親だって、これを繰り返しながら、子育てをする。
私もあなたも、ずっとそうして、周囲の大人に問いかけられて、考えることを促されたから、成長したし、自分で計画を立てたり、修正したり、できるようになったのだ。

それをするとどうなるのか、考えること。そして、その力。
 
まさに、教育の担う1番の目的はこれで、大人は絶えず、この問いかけを子どもにしていくことが大切だ。

教育現場で教師がよく、子どもに対して問いかける。

「それをすると、どんな良いことがあるの?」

この問いかけなどは、まさにそれだ。

「そうすると、どうして(なにが)分かるの?」算数でよく言うセリフだ。
「そうすると、どうして(なにが)出来るの?」
体育でよく言うセリフ。

算数の授業も国語も体育も図工だって、考えてみれば、全部同じで、根幹はコレでありましょう。

雪山の遭難についての話が子育てに通じる

雪山の山岳ガイドをしていると言う人の話を聞いた。
最も伝えたいのは、ネット情報を見て山に登るなと言う警告であった。

ネットには丁寧に情報を載せる人がいる。持ち物は何か、いつから何時から登ったのか、計画した時期はいつか。

丁寧に道順や道筋を示す写真やポイントまで載せている人がいる。
「わかりにくい印ですが、こうなってる方が正解です」
「ここの目印はピンク色のリボンです、ピンク色を見たら右に曲がりましょう」

本当に詳しく載せている。つまり、載せた人は、自分の真似をして登る人が迷わないように親切で載せている。

これを見て、自分もこうしたら登れるのだと思いこむ人が出てくる。

ところが、その情報を載せた瞬間とは、当たり前だがズレがある。ブログを読んだ読者の1人が思い立って、これの真似をしようとして登った日時は、記事を書いた人の日時とは、違うのであります。

あると思ったピンク色のリボンは当日は無い可能性だってあり得る。
当日の気温も違う、天候も違う。
何しろ、登る人の、そもそもの経験年数や体力まで全て違う。
持病を持っている人か、あるいは、以前、腰を痛めたことがあるか。
履いている登山靴の種類も違う。歩幅も違うし、スピードも違う。血糖値が上がったり下がったりしやすい人なのか、普段から肉体的な労働仕事についている人なのかどうなのか。若い頃に雪山に登ったことがあるのかどうか。最近雪山に登ったのかどうか。

全然違う人の違うデータをもとに作ったガイドをみて、

「この通りやれば、真似をすれば、俺も登れる」

と、考える。

これは実はどうしようもない仕方のないことである。なぜなら、人間の脳は思い込むようにできているし、決めつけるようにできているから。
どうしてかと言うと、人間の脳は、省エネのため、複雑な情報をできるだけ簡単にまとめようとして覚える傾向がある。「要するにこういうことなんだろう」「ああ、分かった!」という処理の仕方は、人間が生まれ持ってたくさんの情報を処理するために見出した知恵なのであります。

そして、わかったと言うふうに自分を納得させないと、新しい新規の出来事に対してチャレンジする勇気も湧いてこないのが人間。本当はわかっていないのにわかったと言わなければ、不安遺伝子が邪魔をして実行できない。
だから、全人類が決めつけて思い込んで暮らしている。この事は誰も責めようのない事実なのです。

インターネットを通じて、気軽に誰もが山の情報を載せられるようになってから、雪山の遭難は飛躍的に増えてしまったと、前述の登山家がぼやいておられるのは、そう言うことのようです。

山岳ガイドは、遭難者が出たときに要請が出て現場に向かう。救助と言うのは、推理と安全確保と体力の勝負。救助隊員は、たとえ自分が30回以上登っている山でも、もしかしたら、はじめての体験をするかもしれない、と考えて準備をする。

万が一、万が一、万が一を考えて準備をする。
普段と違うロープの縛り方、紐の縛り方は絶対にしない。
決まった場所に必ず決まったものをしまう。
2つのものを同時に手に持って2つの作業をするような事はしない。炎の上で、何かする事は無い。机の端に、落としたら割れるものは絶対におかない。落としたら割れるものの上を、自分の肘や袖が通過することがない。体の向きを変えても、絶対に当たらないようにする。

要するに、訓練を積んでいるのである。

ふと思いついた都会のサラリーマンが、ネットで取り寄せた山の道具を持って、冬山に1人で登ってしまうのと、救助隊員が万が一を考えて準備を行うのとではレベルが違う。

世の中は今、専門家を軽んじる時代になっている。ありとあらゆる専門家とその知識や経験が、大切にされていない。
その代わり、簡単に書いた情報や、軽く紹介されたYouTube動画で、「こんな感じでやれます」と情報は拡散されている。

今や健康に関する情報も、専門家より、もしかしたらYouTuberの一言の方が重視されているかもしれない。

専門的な知見が軽く見られているのは、日本だけではなく、世界中の傾向らしい。インターネットの発祥元であるアメリカ合衆国においても、専門的な知識はどんどんとその社会的地位を落としていると言われている。先日、そのことをビルゲイツが嘆いていたようだ。「インターネットの発明により、私が思い描いて望んでいた未来とは、違う方向へ進んでしまっている」と。

専門的な知見よりも素人の感想のようなものが社会を動かす時代。

この傾向はますます強まっていくだろう。となると、現代の子育てでやるべき方向は定まってくる。

知識を教えるのではなく、研究的な態度の大切さを教える教育に方向転換するのだ。

正解はどれかを教えるのではなく、答えはこれだこれ1つだと、安易な考えに陥ることの愚鈍さを伝えるべきだ。

小学生に人気の、ヨシタケさんの描いた絵本に、「りんごかもしれない」と言う作品がある。
この絵本では、目の前にりんご、のようなものがあり、これはリンゴだろうか?と問いかけるところから始まる。

しかし、それがりんごだと言うふうに断言する事はなかなか難しい。
目で見たものは全て事実か、と、問うているのである。

事実とは何か。
目で見たものは事実と言えるか。
耳で聞いたものは事実と言えるか。
A = Bだと言い切れるだろうか。

こうした思考訓練を、すべての日本国民が、小学生時代から綿密に行っていけば、軽くて安くて、ペラペラの知識に、人生を翻弄されて無駄に過ごしてしまう国民は減るだろう。
しかし残念なことに文科省がこれを学校でやるとは思えないし、学校はすでにやるべきことでキャパオーバーしている。


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どんな体験ができた?と、子どもに聞く

こんな悩みを聞いた。
ある子が、2つのスポーツクラブに通っている。
1つのクラブは、コーチがとても褒めてくれる。また、チームの雰囲気を良くするのに、気を遣ってくださっていて、子供たちの仲が良い。失敗しても励まし合う。何よりも、人を責めたり、自分を責めたりすることがない。
お母さんはそのクラブを大変気に入っていらっしゃる。
ところが、もう一つのクラブのほうは、コーチが一昔前のコーチタイプで、親が横で聞いているにもかかわらず、理不尽な子どもへの叱責や懲罰めいたものまであるらしい。
お母さんはそのクラブを辞めさせようと思っていたが、子どもは友達に誘われて始めた手前、まだ続けたいと言い、やめないでいるとの事。

『その鬼コーチがいるクラブの活動を、どうやってフォローしていけば良いでしょうかね?』

私も少し考えた。
しかし、確認すると、その子はまだ続けたいと言っているのらしい。
そうであれば、答えは簡単だ。その選択を尊重するだけ。

お母さんがしてはいけないのは、そのクラブやコーチの言動について批判をすることだ。
あのコーチ良くないよね、と、もし母親が言ってしまったらどうだろう。
子供にとって何のメリットも生じない。逆にデメリットだけが出てくる。

鬼コーチを批判すると、同時に、その子の【選択】をも批判することになるのだ。

母親がもし何か言うのであれば、聞いてあげるだけ。
「あなたは、そのクラブで、どんな良い体験が出来たの?」
あるいは、
「クラブで練習をしていると、どんな良いことがあるの?」
である。

きっと、子供は今の自分の状態を、客観視してくれるだろう。そして、自分の今のかけがえのない体験が、とても価値のあることだと再認識をするか、もしかしたら、今の自分の状況をよく考えた上で、クラブに継続して通うかどうかについても、真剣に考えようとするに違いない。

「それをすると、どんないいことがあるの?」

と言う質問は、あなたはあなたの人生を自分でハンドルを握って、しっかりと運転をして良いのだと言う隠れメッセージにつながる。

親は子供の人生のハンドルを奪ってしまいがちだ。
子供は自分の人生のハンドルを奪われてはたまらない。必死でハンドルを奪い返しに来る。

親がして良いのは、背中を柔らかく押すか見守るか。

親の立ち位置は、常に子供の背中側である。そして、声をかけてあげるのだ。

「どう?今のあなたの運転は、良い調子で進んでいるの?」

いいよ、ありがとう、と、子供が言ったら、親はたった一言、
感に堪えたように、言うのだ。

あーそう!良かった、ねえ!!
と。

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教師が感じる「困った親」とは

子どもは、友達に対して素直な気持ちでの「ありがとう」や「ごめんなさい」が言えるのであれば、良い人間関係を築くことができる。

ところが憎しみの塊のような少年がいる。
どの教員も「目つきがちょっと」と言う。
親は学校での様子を聞くと、だまって下を向く。
父親は「母親がきつくて。この子と母親が毎日けんかしている状態」と家の様子を話してくれた。

クラリネットを習っている。
その他に英会話、テニス、水泳、とほぼ毎日休みなしだ。
できない子を馬鹿にする。
俺はできるが、みんなはできない。だから俺が偉いのだ、という感じ。
担任に言わせると、人を責めるときの態度や声量がものすごく、周囲の子どもたちは「引いている」という。私も関わってみたが、やはり行動が一匹狼っぽく、周囲に断りもなく自分の思うがままにどんどんと行動する。教室に置いてある様々なモノを、自分勝手に置き換えてしまう。鉛筆削りの置き場所やエレクトーンの場所も勝手に変えようとしていた。

かと思うと、授業中にいきなり窓を開けたこともある。
私がちょうど授業を見ていたときで、担任の先生も子どもたちもみんな何もおかまいなく、無視している。アドラーのかかわり方として、「無視する」というのも大事なスルーのテクニックなので、そういうことも担任は考えているらしい。望まない行動にはあえて強く反応しない。

ところが窓からけっこうな風が吹いてきて、机の上のプリントを何枚も落としてしまう。
しかし、その子はキツイ表情でみんなを見て、「紙をそんなところに置くからだよ。換気が大事だっていったのは先生でしょ!」と先生をなじりはじめた。
他の子たちは恐れをなして、何も言わない。先生も慣れた調子で「はいはい。換気なのね」

どうも、表情がきついのは、常になにか得体のしれないものと、戦っているようにも見える。
心境がつねに、「ファイト」モード、戦闘モードなのだろう。自己防衛の心理だろうか。

以上のことだけでは、とうてい診断などつくはずもないのだが、ここでパーソナリティ障害、という精神保健医療の分野の言葉を紹介する。
パーソナリティ障害

表面上は口達者
利己的・自己中心的
自慢話をする
自分の非を認めない
結果至上主義
平然と嘘をつく
共感ができない
他人を操ろうとする
良心の欠如
刺激を求める

この障害は、認知(ものの捉え方や考え方)、感情のコントロール、対人関係といった種々の精神機能の偏りから生じるものである。「性格が悪いこと」を意味するものではまったくない。
パーソナリティ障害には、他の精神疾患を引き起こす性質がある。それらの精神疾患が前面に出ることが多いことから、パーソナリティ障害は、背後から悪影響を及ぼす黒幕のような障害とも言える。
治療を進めるためには、患者と治療スタッフとが協力して問題を認識し、対策を検討することが重要であり、この障害は経過中に大きく変化することや治療によって改善する可能性が高いことが、最近の研究で示されている。

上記の少年は、いかにも口達者である。口喧嘩なら大人でも負けてしまうほどだろうと思う。
また、常に自分が思うさまに物事を動かしたい、世論を操作したい、という欲望をかなり強くもっている。クラスのいじめにつながるような、他の子を否定する言葉を何度もしつこく使う。周囲の子がそれをかばうと、該当の児童がいかに「みんなに迷惑をかけているか」をとうとうと話し、正義は自分が持っている、と主張する。

担任の先生は女性だが、ほとほとこの子に手を焼いているようで、おうちの方とも何度も連絡をとろうとしていた。

実は3年ほど前か、わたしも似たような児童を担任したことがある。
つまり、一定数の割合で、このようなパーソナリティを現在持っている、という児童はいるのだ。だからかなり多くの先生たちが、こういうことで悩んできているのではないか、と思う。

上手な先生はほめたり筋を通して叱ったり、ということ、あるいはその子の得意なものを見つけ、十分に活躍させてあげることで、クラスの輪が乱れないようにとその子への配慮を行っているでありましょう。クラスはそういう担任の工夫でおそらく「なんとかなる」から、良いのであります。

今回、わたしが書いていきたいのは、クラスのこういう子は、どうやって「自尊心を高められるだろうか」ということです。
他を罰する言動が強烈な子は、ほぼ例外なく、自分に自信がありません。つまり、他を罰するのと同じように、自分を罰しているのです。つねに頭の中に「ぼくはダメだ」という言葉があり(周囲にはけっしてそのようなそぶりは見せません)、その言葉を打ち消したいがために、対象を周囲の他の人に向けるのです。自分を高めるのでなく、自分の価値がどうしても低く思えるために、他をけなすのですね。

子どもの教育は、親の在り方と切り離すことができないが、残念ながら現在の学校は、「困ったなあ」とほとほと、その点で悩んでいるのであります。

教師が感じる「困った親」とは何か。

・他罰的で攻撃的な親(自己防衛)
・防衛的でまくしたてる親(自己防衛)
・勝手な思い込みが強く、事実をもとに考えるということをしない親
・「ひろゆき」のように相手を論破して勝つことが目的の親
・教師とのかかわりを一切もとうとしない親


こんなところであろうか。

実は、上記の子の親と、私は学年主任の立場から、会って話してみた。そうすると、実は「困った言動」には、それなりの理由があるのですね。こういうことは実に多い。
一般的にも、次のような状況は非常によくある。

1)ゆとりのなさ

金銭的なゆとりがない
夫と妻との間がぎくしゃくしている

子どもの話から少し離れて、お母さんやお父さんの子ども時代の宿題のことや遊びのこと、親とのかかわりなどについて話をきくにつれて、周辺の情報、つまり子ども当人でなく、親自身の話をしてくださることもある。そうすると、ちょっと「子育て」が俯瞰できる瞬間があります。

2)子どもの様子をつかんでいない

子どもが何を期待していて、何ができないでいるか、友達とはどのような関係なのか、さっぱりつかんでいない親もいます。高学年になるにつれて多いですが、なかなか話してくれなくなるので、これはもうどの親にも共通なのかもしれません。しかし、本当になにも知ろうともせず、季節の行事にも持ち物にも何にも関心がないように思える親もいて、会話が本当にないのだろうなあ、と伺えます。

3)子どもにパーソナリティ障害があり、子どもに接すること自体の問題が大きい

上記の子もそうでしたが、他罰的な言動ばかりなので兄弟でもお互いに共感することもなく、相手を責めあうのが常なので、親が消耗している場合があります。せっかく行ったディズニーランドも、車中でも園内でも兄弟がけんかばかりで父親も怒り出し、母親が「わたしは子育てを楽しめていない」と嗚咽交じりに話し始めたこともあります。


わたしは、親がいちばん困っているのだ、と確信しています。
親のこころのエネルギーが、まったく充電されないのでしょう。その理由はさまざまありましょうが、行政や経済的な事情も含めると、国家規模の課題にもなっているようにも思えます。つまり日本国民であればだれしもが、同じように「立派にこころや気持ちの充電がされた親」にはなりにくいという環境があるのだとも思います。

学校や教師は、その親が元気にならねば、その子の指導がまた遠回りに、遠回りになることがわかっています。だから、親を元気にしようとする。学校での懇談は、「教師が親にこころのエネルギーを与える場」です。そのときの原則は、

親をぜったいに責めない。
ひとりではない、子育ては協力するもの、とメッセージが伝わっていくようにする。
問い詰めたり、決めつけたりはもってのほか。


親が、近所のだれそれや、友達に相談できているのであれば、実は問題は深刻ではない。
一番深刻なのは、本当に孤独に子育てをする状況になってしまった親だ。
なんとか元気づけていかねばならない。

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勝手に名前を付けるのが良い、という話

夏休みの後の楽しみは、子どもたちの日記を見ることだ。
これはまちがいない。
全国の小学校の先生たちも、これには異論がないだろう。
だって、すこぶる面白いもの。

それに、ああ、愛されているなあ、ということを感じると、とても心があたたかくなる。
子どもたちのために、とがんばっている親の思いにぐっと共感もできる。

今回も、始業式後の初の土曜日に、学校でまだ読み切れていない日記を出して、すべてにコメントを書いてきた。休日のしずかな学校で、じっくりと読んでいると、たまにひとりで声を出して笑ったりする。

コロナ禍のために、多くの子は出かけることをせず、せいぜい隣町のおばあちゃんの家で花火をしたり、おじいちゃんと虫を捕りに行ったりと、今できることで精いっぱい楽しんでいる。
他県など、遠くへ出かけたことを書いた子はほとんどいなかった。

「イベントがなくひまだったので、お姉ちゃんと面白い遊びを考えて、ずっとやってました」

というのや、

「サッカーの練習も試合も無くなってしまったので、イモリに餌ばかりあげていました」

というものがある。

イモリを飼う子は、家のガレージの屋根の下に、巨大なテーマパークのごときイモリパークをつくっており、水草を入れたり砂を入れたりし、イモリが飽きないようにと、レイアウトというか部屋の模様替えを頻繁に行って時間をつぶしたそうだ。

「とちゅうで一回、イモリが見えなくなったので探したら、砂に埋まってました」

もはやその模様替えはイモリのため、ではあるまい。


ところで、子どもたちは鳥や昆虫やおもしろい花を咲かす植物などに興味を持つが、一般に〇〇博士、というレベルに達する子には、共通しておもしろい習性があることに気づいた。

それは、「とりあえず名前をつけておく」という乱暴なふるまいであります。

こういう「めっちゃ〇〇が好き」という子たちは、図鑑ももちろん大好きなのですが、小学生用の図鑑に載っていないような鳥だとか虫とかに、勝手に名前をつけます。

ここで、それは正式ではないから、だとか、勝手に名前つけちゃだめだし、だとか、私はくわしくないから、とかというように、

「世の中の正しさにこだわる子」

は、〇〇博士にはならない。

これがわたしにとっては、不思議なことであります。
だって、勝手に名前つけるのって、いいの?ということがあるでしょう。
結局その名前って、世間的にはまちがい、なのですからね。

そういう意味で、教室に生まれてくる〇〇博士は、大胆不敵な子が多い、のです。
ぽにょぽにょ虫、だとか、きれいな鳥に「カラカラ」とかつけちゃいます。

あとで、その生き物の正式な名前がわかるのですが、

「わたしのつけた名前の方がいいのになあ」

という自負がある。

つまり、その虫のことをどれだけ好きになれたか、というものさしで見ているために、昭和の昆虫学者や鳥類学者なんかよりも、わたしのほうがすごい、という感覚をもつことが可能なわけ。

このくらい破壊力がある感性をもっていると、死ぬときに後悔などなく、幸福なまま死ねそうです。

というか・・・
なんでわたしたち大人は「正しさ」にこだわり、自分の中の、これが好き、という感覚を虐げてしまうのでしょう。世の中にいるであろう「その道に詳しい方」のイメージと自分とを競争させたあげく、自分を卑下し、ああ私たち下々の者にはこの虫の魅力など到底わかりっこないでごぜえやす・・・というように自信を失ってしまうのでしょうね。

わたしはこの鳥が好きになった。そのため、このカラフルな鳥に、カラカラ、という名前を与える!

という行動が、「まちがえている」「よろしくない」と非難されてしまう・・・そんな世の中にはならない方が、わたしたちは、その鳥との間に豊かな関係・生き生きとした関係をむすべるような気がします。

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侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!

『侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!』
という記事が、スマホの画面を派手に飾る。
どの記事も、選手ががんばった様子やうれしがっているコメントを載せている。
識者が「感動した!」と興奮する様子が、だいたいその記事の後半にくっついている。

オリンピックのこの報道。
スポーツをさらに面白くするためには、この報道のスタイルをほんの少し変えることだ。

野球は世界的にみると非常にマイナーで、人口の少ない競技であります。
だからなかなか参加する国も少ないし、これまでも五輪の公式な競技にはならない場合があった。

私自身はそのことをとても惜しいと思うし、クリケットと比較してもそん色ないほど、ベースボールはショーとして見ごたえのあるスポーツだと思う。

五輪での日本の金メダルは、「野球がこんなに面白い」というのをアピールする良い機会だ。しかし、金メダルをとった、というだけの報道しかないのは惜しいことだと思う。

多くの人にとって、野球のルールや面白さは、あまりよくわからないと思います。
それは言語化されないし、記事にもならないから。
ところが、野球というのは、たった一球にドラマが詰まっているのです。
その1球を、解説してくれたら、もっともっと、野球の楽しさが伝わるのに、と思うのです。

たとえば大昔のことですが、「江夏」という大投手がいました。
この江夏の話で、ノンフィクションの小説が出ているのをご存じでしょうか。
1979年の11月4日に大阪球場で行われた、プロ野球の日本シリーズの第7戦の近鉄バファローズ対広島カープの試合で広島のリリーフエースである江夏豊が9回裏に投球した全21球のことを、小説にしたのです。あるいはこの話は、NHK特集で1時間の番組にもなりました。
なぜこんなに注目されたのでしょう。

それは、「投球内容が詳細に説明された」からです。

実は、毎試合ごとに、野球と言うスポーツには壮大な物語が生まれているわけですが、だれもそんなの気にしていないために、記者は記事に書いたりはしないのです。
これは逆なんだと思います。
記者が、そこを記事にするようにしていくと、多くの人が野球の本当の醍醐味を知り、

おもしれえなー

と興奮するようになるのです。

ふつうの人にとっては、解説がなければわからないのです。
なにも見ないで聞かないで、試合を見ているだけでそこまで到達できる人は、ほんの一握りのマニア、というわけです。

江夏の21球とは、具体的にどんな内容だったのでしょうか。
両チーム初の日本一をかけた日本シリーズ。
近鉄も広島も、両チームが譲らず、3勝3敗で迎えた第7戦のことでした。
7回表が終わった時点で4対3と広島カープがリードしていました。

広島が1点リードで迎えた9回裏。
日本一をかけ、江夏豊がマウンドに上がります。
江夏の投じた1球目は、6番羽田耕一にセンター前ヒットを打たれ、広島に暗雲が立ちこめます。
近鉄は1塁に代走を送ります。羽田に代わり、シーズン代走盗塁記録をもつ藤瀬史朗を送ります。

ここで、球場は割れんばかりの歓声につつまれます。
藤瀬選手は、ものすごい足が速く、この年には盗塁をばんばん決めていたからです。
江夏はピンチを迎えます。

ノーアウト1塁。
迎えた7番クリスアーノルドに対して、江夏はボールを2つ続けて出してしまいます。
この時、もちろん江夏バッテリーは盗塁を警戒するわけですから、こうなるのも無理はない。

4球目に見逃しのストライク。

さらにこの後です。

5球目にボールとなるのですが、藤瀬がスタートして盗塁を決めます。おまけにキャッチャーの送球がそれてしまい、ノーアウト3塁という決定的なピンチを迎えるのです。

やばいですよね。
心臓がバクバクする展開です。
ノーアウトですよ。
同点のランナーが3塁にいるんですよ、それも足の速いやつが。
そして、カウントは1ストライク3ボール。

決定的に不利じゃないですか!

このあと、21球まで江夏は投げるのですが、結局0点に抑えて、広島が優勝するのです。

1球ごとに、江夏と水沼捕手との間に、あるいはベンチとの間に、言葉ではない、水面下の作戦が展開されるわけですが・・・

こんなもの、球場で見ている人にもわからない。説明されないと。
しかし、説明されると、すげえなあ、となる。

そうなのです。
野球は小さな活動が一つ一つ、積み重なってゲームを構成する。極端に言えば、投手の投げる一球ごとにドラマが枝分かれしていく。
だから、そのドラマの行方や可能性をさまざまに考え、実際の投手と捕手がどう判断するか、それらを野手が理解して動けるのか、そこがみどころなのだ。

しかし、それを選手と同じように感じたいと願うなら、さまざまなデータや意味の把握に長けた解説が必要になる。

うまく解説し、どうして選手がそこで悩んだのか、なせその行動を選んだのか、教えてくれる人が必要なのだ。

前の打席でこの球をファールにされているから、組み立ては似ているけれど最後の1球だけ全くちがう球種にして裏をかこう、と捕手が考えたとする。

しかし、投手は自分の制球が今一つ調子が良くなく、最後のスライダーがすっぽぬけたら『まずい』と考える。

投手が首を振ると、捕手はその意味をすぐに理解し、ではちがう作戦に出よう、とまた新たな提案をする。

たった数秒間にこれだけの情報のやり取りを行うわけです。球場でもテレビ中継でも、それらをぼーっと見ているわれわれのような大多数の観客には、その意味がなかなかつかめない。やはりマスコミがそれを解説してくれることが必要だ。

今回の五輪報道でも、江夏の21球のように、この回のこの投球の組み立てはどうだったのか、と細かく教えてくれるといいのだが。

野球ファンが新たに増えるチャンス。
ぜひNHK特集で、今回の五輪のこまかなドラマの内実を、詳細に伝えてほしい。

きっと、江夏の21球、魔術のような「スクイズ外し」に負けないようなドラマがあっただろうと思うね。

スクイズ外し

夏休みのパパは、ぼくのもの

.
我が家のチビすけは、

夏休みの異変に気付いたらしい。

「どうやら、最近、この人は家にいる時間がながいみたいだ」



ご明察。

勤務研修のある日も、夕方にはサクッと

家に帰宅しています。

夏季休暇も、とりました。

家にいる時間、長いです。最近は!!



すると、チビすけくんは、

絵本を持って、わたしのところにやってくる。

ぜんぶ、馬場のぼるの絵本です。

次から次へと、読め、読め、と。



さらには、積木。

ブロック。

いっしょにやろう、と。



天気のいい日は、

いっしょに遊ぼう、と誘います。


川で、水遊び。
夏休みのパパは、ぼくのもの。
本当は、すべての子どもと父親が、一年中ずっと、そうあるべきなんでしょうけど、ね。


P5210237

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