30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

発達障害あれこれ

自分で勝手に決めてしまう子 その2


前号での記事に、反応してくださる職場の方がいたので、つづきを。

大事なことは大人が決める。

これが、インプットされていない発達障害の子について。

(というか、クラスのさまざまな子。やんちゃくんもふくめて)

たとえば、教卓の上のものは、先生のもの。
これを勝手にさわるのは、いけないこと。
これは、4月の段階で伝えておいてある。
このくらいは当然すぎるほどで、ほぼ全国の小学生のほとんどの先生が、4月にはこれを言っていると推測する。

さて、私も例にもれず、これを伝えている。

ところが、運動会の終わる魔の10月ごろから、だんだんと、この禁をやぶる子が出てくる。

これが、チャンスである。
どんな授業が予定されていたって、その事象が起きたとたんに、バシッとやっておくことがある。

これは、年間を通じて仕掛けていることだから、1年間のどこで起きるかわからない。もしかしたら、5月かもしれないし、2月かもしれない。どこでも、網をはっておいて、子どもがいったん、そう行動したら、とたんに教師は弾かれたように、こう行動する。


1)ひとのものは勝手に使わない

これをインプットする。
泥棒と同じだ、ということ。

その代わり、○○を借りたいです、○○を見せてほしいです、○○を貸してください、というような、モデルとなる言い方を学習させる。

2)許可を得てはじめてもらえる

「借ります」と言ったのだから、とばかりに返事を聞かずに取ろうとしたら、子どもの手を止めて、もどさせる。

「これは、返事を聞いてからだよ。今日は、いきなりだったから、先生は貸したくなくなりました。先生の都合や先生の気持ちを聞かない人には貸せません。明日、やりなおしするのはかまいません」

これは、明日でなくてもいい。給食の後の休み時間になったら、もう一回やりなおしです、でもいい。

そして、ここが大切。
明日、もう一度、思い出したように子どもがくる。
そして、

「先生、貸してください」

今度は、お返事を聞く、という顔をしている。
そして、当然、いいことをしたから、先生の言うことを守ったから、貸してもらえる、とうずうずしている。

そこで、つきはなすのだ。(いじわるだな)

「先生が気に入っているものだから、(もしくは)先生が大事にしているので、他の人にはさわってほしくありません。使わせてあげるかどうか、見せてあげるかどうか、それはあなたが決めるのではなく、先生のモノなんだから、先生が決めます。だから、今日はあげられません」

子どもは、必ず、先生を非難します。

「えーーーーー!!!ひきょう!!!昨日、貸してくれるって言ったじゃん!!」

そんなことは言っていないのに、その子の頭の中では、「貸してくれると言った」というふうに、変化してしまっている。

ここで、売られたケンカを買いません。
すましています。この状況を楽しみます。

こっちは、いろいろしゃべりません。
一点張り。

「あなたが決めるのではなく、先生のものだから、先生が決めます。許可が要るんですよ。(笑顔)どうしようかな♪」

子どもがくいさがり、「ひきょう!ひきょう!先生、うそついた!」
とさわいでも、涼しい顔をしています。

「許可しようかな(笑顔)、どっしよっかな♪」

これがチャンス。許可、という言葉をインプットする。
許可、という言葉が、その子の脳裏にしみわたるまで、くりかえします。

黒板に許可、という字を書いて、

「許可するかしないか・・・、ああ、それが問題だ!」

と芝居じみたセリフをいって、悩ましげに窓の外を眺め、

「ひきょう!ひきょう!」

というコールに、まともに取り合いません。

そのうちに、授業がはじまったら、引き下がります。
(もしここでも引き下がらないようであったら、クラス中を巻き込む手もありますが、そこまでいったことはこれまでありません)


もっとまともな対応の方法もあるのでしょうね・・・
書いていて、こんな対応しかとれない自分のレベルの低さを思いますが、ともあれ、どうしたらこうやって、勝手に決定してもよいと勘違いしている子を、指導すればいいのでしょう・・・。




「かかし」の遊びがビジョントレーニングになる?!


昔から、「かかし」とよばれる遊びがあったことをご存じだろうか。

いわゆる、ケンケン、パー、の遊びである。
土の地面に、棒きれかなにかで線を書く。
石を一つひろえば、もう遊びをはじめることができる。

利点はたくさんある。
せまい場所でもあそべる。
一人でもあそべる。
大勢でもあそべる。
チームに分かれて遊ぶこともできるし、個人多数の入り乱れた闘いも可能。
ルールを自在に変えることもできる。
道具の選び方が、勝率に関わるので、こだわる勝ち方ができる。
身体が小さくても、背が低くても、逆に高くても、大柄でも、なんでも勝てる。
いちばんの利点は、時間がかかる、ということだろう。
逆に言えば、ひまがつぶせる。

この「かかし」が、ビジョントレーニングになる、と聞いた。
お話してくださったのは、情緒障害学級の担任をされている先生。

「石を投げるでしょう。それを、眼で追わなければいけない。それがいいトレーニングになる。自分の投げた石もそうだけど、友達の投げた石も、どこに落ちたのか、正確に落ちたのか、ずっと目で追っている。これはいいトレーニング」

だそうだ。
また、

「片足でバランスをとる場面が多いでしょう。また、片足のまま、止まったり、けんけんしたり、急に両足にしたり、いろいろな身体の使い方をする。これが苦手な子が多いからね。見ているだけで、その子の特長がわかる。」

なるほど。
それで、本校の情緒障害学級の教室には、教室の後ろに、かかしが描いてあるのか。
教室の後ろの方に、ビニールテープで表示してある。床の上だ。
みると、「かかし」。

子どもが、牛乳のキャップを、かかしの升目に投げ入れている。
すごいねえ。
昔の子どもたちは、「かかし」でビジョントレーニングしていたってわけか。


自分の身体の認識力を高めるのに、かかしの遊びの中で、自分の石を片足でバランスをとりながら拾う場面なんて、とてもいい。
また、視線を運ぶトレーニングも、かかしはすごい。だって、線をふまないように、という単純な制約が、視線を強力に鍛えることになるんだもの。

まさに、「空間世界の中で知的に効率よく立ちまわれるようになる」のが、「かかし」遊びだ。
これは大発見だと思うのだが、どうであろうか。

おそらく、このことに関して、研究論文もほとんどないだろうが、これからどなたか、書くに違いない。研究者の方が、「かかし」と発達障害に関する論文、を書くことがあるのではないかと思う。

「発達障害」「昔遊び(かかしを中心にして)」「ビジョントレーニング」の3題噺を、論文で書いてほしいものだ。

そのうちに、このことの効果がクチコミで広まって、保育園や1年生、2年生の低学年は、「生活科」の中で、「かかし」を学んで覚えるようになるのではないだろうか。




前、こうしたらうまくいったよね~ 教師が口癖にするべきセリフ集その1


周囲の先生方の指導を、食い入るように見る。
それは、大きな学びのチャンスだから。
他の先生が、子どもたちに指導している場面を見ながら、

「おお!このフレーズは、うちのクラスの子たちにもぜひ言って聞かせたい!」

と思うフレーズがある。
それを、週の指導簿(週案簿)にちょこまかと記入しているが、
夏休みなので一度、自分なりにまとめてみたい。


事例 その1


アスペルガーの子である。
プライドが高く、自分が失敗したりうまくいかなかったりするとすぐに取り組みをやめてしまい、パニックを起こす子。
あるいは、パニックまでいかずとも、物に八つ当たりする子がいる。

ある日は、傘がうまく一度で開かなかったことに腹を立て、傘にブチ切れていた。
「この傘、クソだ!!」

そして、傘を壁に何度もバシバシと当てて、骨をずたずたに折ってしまう。
母親は、常に困った顔になってしまった気の毒な(それでも非常に整った顔立ちの)方だが、もはやパニックになってしまった子に何も言えなくなってしまっている。

さて、この自閉症スペクトラム症候群の男子児童に、やさしく接することのできる、凄腕の特別支援担当の女性教師がいる。
その方が、算数のドリルをひろげて、男子にやらせている。

(その、ドリルをすわってやれる、というだけでもすごいことなのだが)

そこで、ふと聞いていると、

「おしい!」
とか、
「あとちょっとだったのに!」
とか、
非常にナイスなタイミングで、声をかけている。
男の子の表情が曇る、わずか0,1秒前に、こういう明るい声かけをされている。
すると、男の子が、曇る表情にならずに、すぐ晴れた表情にもどってくるのである。
ここまでの名人芸の域に達するまでに、どのような努力をされたのだろうかと頭の下がる思いがする。

さて、この先生が、キメ台詞のように使ったフレーズが、これだ。

3,2,1

どうぞ!



フレーズ その1

「前、こうしたらうまくいったよね~」


うまくいったときのことは、なかなか覚えていないアスぺの子たちに、おそらく非常に顕著に有効であろうフレーズ。

これ聞いたら、ちょっとやってみよっかな~、という気分になるだろうと想像する。

逆に、うまくいかなかったことばかり覚えている自閉症児もたくさんいるから、うまくいったことを、ぜひ思い出させてあげたい。そのためにも、いつも頭において、何度もくりかえして言ってあげたいと思う。




WISC-IVをみせてもらいました


WISC-IV 知能検査のキットを、ようやく見せてもらいました。
近所の大きな小学校で、購入したそうです。
これからは、こういうものは公費でじゃんじゃんと買っていただきたいものです。そして、担任が、毎日のようにさわって研修を積みながら、自分のクラスの発達障害児をかたはしから検査してほしいと思います。

でないとかわいそうなのは子どもです。

昨年、わがクラスは3人の児童がWISCを受けました。
ところが、わたしがそのWISCがなんたるかをしっかりと理解していなかったので、検査者となっていただいた養護学校の先生から所見を聞き、説明を受けながらも、そのこまやかなところはさっぱりわからなかった。

動作性と言語性、聴覚と視覚の優位性などは理解できたが、子どもの実際のシートを見ながら、ここがこうで、というのはよくわからなかった。


昨年は、心の理論の検査やその他、バッテリを組めそうな下位検査もふくめて、PDD(広汎性発達障害)の疑われる児童についてはさらなる検査をしていただいたが、(これは病院の先生に)
やはり、よくわからなかった。病院の先生も、心理屋さんのいうことも、なんとなーく、であった。

現場の教員がWISCを実施するのは負担であろうが、子どものことを第一に考えたら、日々、教育にあたる担任が行うのが一番だ。それが負担なのであれば、教師の負担を減らす環境設定の努力が必要なのであって、

「それは現場には負担だから、心理屋さんにまかせておけばいい」

というのは本末転倒だと思う。目的は、日々の子どもの教育でしょう?


ともかくも、先日、ようやく手に取ってみた検査キット。
シートが洗練されている、と説明を受け、なるほどと思いました。
この数年で、発達障害をとりまく学会の定義も議論が進み、PDDもADHDもLDも、ひとくくりにして 自閉症スペクトラムとよぶことになりそうですが、検査キットもそれに準じて(というかWISCの米国の実践が先をいってるのか)ワーキングメモリの指標とか、処理速度の指標とか、とても見やすくなっていると感じました。

現場の教師にとって、その児童のワーキングメモリの力がどの程度か、ということは非常に大きなヒントになります。
その児童には、長い指示はぜったいに出せない、クラス全体にも長い指示は出せなくなります。そのことがはっきりするだけでも、教師の行動はがらりと変わらざるを得ないのですから。

ワーキングメモリだけの簡易版検査キットが出て、4月の最初に必ず行うのが定例となる、ということに、近い将来なるのではないかな。勝手な予想ですが。(もちろんそんなことをWISCのPearsonが言うはずないですが、そういう需要は多いでしょうね・・・というか全国の教師がほぼ全員、それをのぞむ時代がくるのではないか。そうしたら国が教科書と同じようにキットを無償で配布してほしい。)




あ、そう。ところで・・・2次障害対策


2次障害の子に対して、教師はどう対応すべきなのか。
これが本当に問題なのだ。
多くの教師が、今、このことに頭を悩ましている。

1)共感し、まずは受容する

ところが、これは案外とよくない方法だ。
なぜなら、共感したために、教師も同じように思っている、と誤解されるからだ。

終業式に出たくない、とがんばって、みんなの並んでいる体育館に行かずに校庭の花壇のところで勝手なことをしているAくん。
彼に、

教師「どうしたん?終業式始まってるよ。」

児童「行かんわ!あんなの!」

教師「行かんの」

児童「外におるんじゃ!」

教師「外におるん」

このやりとりに、すでに間違いがある。

お分かりだろうか。
外におる、ということを、最後に教師が同意したように、見えるのである。

そんなことない!
教師はそんなことに同意したわけでない。
ただ、児童の言葉を反芻した、あるいは繰り返しただけだ。
そう言いたい。

しかし、児童の方は、

「先生が、外におるんか、と認めた。外におっていい、と言った」

と思うのである。



オウムのように、言葉をくりかえすだけでも、この通りである。

ちなみに、これをどうしたらいいのか。

会話がほとんど、成り立たない。
2次障害、もしくは反抗挑戦性障害を抱えた児童にとって、教師との会話は、すべて自分の都合のよいように料理するものなのである。

教師は、オウム返しもできない。



わたしが考えたのは、

「あ、そう」

である。

これは、やってみると、オウム返しの時のように、

「先生がここにおってええ、と言った」

というふうには、ならなかった。


ただの、あいづち、だと思ってくれているのである。

「そうか」

は、怪しい。

「そうか」

は、同意、と近い。

微妙だけれども、同意、はしていないのだから、同意のニュアンスからは遠くなければならない。
しかし、あなたの話はしっかりと聞いたよ、ということは伝えなくてはならない。

そこで、

「あ、そう」

である。

「あ、」

もしくは、

「あー、」

という言葉が入るだけで、ちょっとニュアンスが変わり、同意とは異なって受け止められるようだ。


コツは、


「あ、そう」

と短く言った後、できるだけ早く、

「ところで、こんなところにおって、そのあとどうするん?」

と、本人のこれからの予定を聞くことである。

すると、これはなんだか、会話が続く、のである。

ほとんど、これ以外の会話は成立しないのであるから、(逆に、教師VS児童の構図で、いつの間にか、双方がエキサイトして、児童がキレる、ということになる)児童がキレないためにも、この会話しかない。

それにしても、どうして反抗挑戦性障害の子は、教師にくってかかるのだろう。
どんなことがあっても、なんとしても反抗して見せる、ということを固く心に決めているとしか思えないくらいだ。

でも、そんなナイフのような子どもにも、

「あ、そう。ところで、このあと、どうするん?」

は、会話を続かせる魔法の一言として、機能するのだ。

これはすごい。


子ども「ずっとここにおるなんて言っとらんわ。勝手に決めんな」

教師「お、えらい。ちゃんとそのあとも考えがあるんやなあ。」

これで、ともかくも、会話のボールは相手側に渡った。
やれやれ、である。



あるいは、

子ども「まだ、考えとらんわ」

教師「おお、じっくり考えようと言うことだね。そうやってしっかり考えるのって大事だもんね」

子ども「うっせえ。ほっとけ」

教師「いいよ。考えてごらんよ。まさかずっとこのままじゃあ、ないもんね」

子ども「うぜえ」

教師「わかった。体育館の外で待っているよ。自分で決めるのじゃなくて、学校で決めた時間割でやるのなら、体育館へおいで」

ここまで言うと、反抗挑戦性障害の子は、くたびれたような顔でゆるゆると立ち上がる。



彼らは、瀬戸際にいる。

1)自分で行動の予定を決めてうごく。
2)小学校で決めた行動予定にそってうごく。

この、1)と2)の境界をさまよっているのが、彼らだ。
1)でやる、というのなら、学校に来る根本がちがうのだから、親も交えて、

なぜ小学校に来るか

を話し合っていくしかない。

2)でやる、ということで、少しずつ、身体を慣らしていく過程にある。
まだ、1)から2)へ足を踏み入れ始めた、初期の段階なのだ。
過渡期であるから、先に述べたような、教師と児童の、会話にならないような会話をしていくしかない、のである。

その会話ができなければ、教師をなぐってしまうのだから、まずは会話ができるように、もっていくしかない。




Kくんを無理やり ほめる(ほめられる、ということの学習)




低学年なので、WISCもまだ。
でも、IQは70程度。ぎりぎりだ。

行動の特長は、広汎性発達障害。自閉症スペクトラム。
みんなといっしょには、あそべない。
自分からふらり、と足のおもむくままに歩きだす。
話しかけても、会話の終わらないうちにどこかへ。
会話、というのにもならない。
こちらから、なにか話しかけていても、言い終わらないうちに、目線が最後まで合い続けることがなく、ちらっと見て、そのまま関心がなくなったかのように、どこかへ歩こうとする。

「いや、今は先生が話をKくんにしているよ。きいていてね」

それも、3秒ほどしか、関心がむかない。
先生の顔を見ても、3秒後には、ふーっと意識がどこかへ行くのと同時に、目線もどこかへずれていく。
また、今話しかけているのとはまったく無関係の虫の話題を、自分からしだす。こちらは、返事を待っているのに。

「いま、先生は、Kくんに話しかけているよね。聞いたんだよね。Kくんに答えてほしいと思って待っているよ。お返事がほしいな」

とくりかえしても、

「しらない。かたつむりってね・・・」(いま、かたつむりの話なんてしてないのに)




いやあ、自閉症スペクトラム、ということではないかなあ。
と思うが、親にはその知識はなく、家での困り感も教えてくれない。
しっかりやっています、というだけ。
親としてもしっかりやっているし、Kも家でがんばってる、と。
家庭訪問でも、「わが家の隙を見せるものか」
と、気合が入っているよう。


教室でのふるまいの、困り感を、なにかで伝えていくしかない。
困り感?
もちろん、Kくん本人の。


そんなKくん。生まれたばかりのうさぎに、スポイトで水をかけて、風邪をひかせて殺してしまった。
でも、Kくんは、シャワーのつもりだったらしい。
Kくんは、責められない。
でも、担当のS先生はカンカン。

担当のS先生が、Kくんをこっぴどく、叱りつけた!


担任の先生が、S先生の剣幕に動揺して、さらに追い打ちをかけるようにして、叱ってしまった。
これで、Kくん、ノックアウト。
顔が無表情になり、廊下にうずくまってしまった。

Kくん、しばらく固まって、給食まで動かなかった。



そんなKくんを、無理やりほめる。
Kくんの手をひいて、○○先生に、お届けモノをしよう。
職員室のプリントを届けよう、といって、いっしょに職員室のプリントをとり、それを○○先生の教室まで届ける。

○○先生が「ありがとう」と言った時、

「えらかったね、○○先生にほめられたね」
と、ほめる。

Kくんは、○○先生からほめられ、私からもほめられる。
実際は、ついてきただけ。
でも、ほめられる。

ほめられる、ということを、学習するのだ。


これが、まあ、技術と言えば技術か。




発達障害児でも叱るべきか




実は、この休みに入る直前の勤務日、相談されたのだ。
相手は、臨時任用の講師のSさん。
Sさんは、講師歴も6,7年ある、という方で、むしろ私なんかよりもよほどてきぱきと仕事をされている。
惜しいことに、旦那さんの勤務の関係で引越しが多く、正規の職員ではなく臨時任用をされているとのこと。


このSさんが、

「実は、迷っているんですよね」


と語りだした。

もう職員室には数人しか残っていない。

最初は、わたしとでなく、別の方と話をされていた。
1年生の不適応児童を専門に関わってくださっている先生と、いろいろと話をされていた。

ふだんなら、なにげなく帰ってしまうところだったのだが、どうやらなにか、深刻そうな気配。

「どうしたらいいのか・・・」

というつぶやきが、お二人の会話から聞こえてきたので、なんとなく

「まだお帰りじゃないんですよね。私はそろそろ帰ろうと思いますけど・・・」

と声をかけたら、冒頭のように、相談をされたのである。


まだ相談などしっかり受けられる自分ではないにしても、話を聞くだけ聞いてみよう、として座って話を聞いていると、こういうことであった。


実は、S先生がもたれているクラスの学級経営の方向が見えない、とのこと。
1年生対応の先生も、一昨年度によく関わった子がいる学年であり、子どもの顔や特長をご存じであった。そのため、おふたりで、これまでもいろいろと子どものことを相談なさっていたのだそうだ。


学級経営の方向とはどういうことか。

実は、かのS先生は、学年主任ではない。
学年のほとんどのことを、もう一人の主任先生にお伺いを立てて、すすめている。
最初に、この立場的な意味を理解したうえで、先を聞いた。

実は、主任先生のクラスにはグレーゾーンの子がおらず、ほとんどの子が、臨時任用のS先生のクラスにいる。
これは、前年度の先生が転出されていなくなったものの、学年はそのまま持ち上がりであったからだ。
前年度主任の先生のクラスをまかされたのが、臨時任用のS先生だった。
そのクラスに、グレーゾーンの子、また発達障害と思われる児童が複数いるのだ。

話の前提はここまで。


そして、S先生は、発達障害と思われる児童がたくさんいることから、クラス全体に以下のポイントを押さえて関わろうとしていた。

○基本的に叱らない
○言葉で注意するのでなく、子どものとる行動を変える手立てをとる
○できる限り、癒し系の教室にする


ところが、主任先生を始め、周りの先生たちは、

○もっと叱るべき

というのである。



もちろん、発達障害のことを考えて、あまり叱らない方がいいと考えている、と伝えた。
でも、そこで微妙に食い違う。

○あの子は、発達障害なんかではなく、ただ甘えているだけ


というのだ。

さらに、

○発達障害の可能性があるにしても、いいことと悪いことを、明確にして行動を変えさせないとダメ

といったらしい。



S先生は、自分の見方に自信はない。
昨年から隣のクラスの先生として、いろいろと見て知っている先生たちがいるのだから。
その先生たちが

「あれは怠けだ」

というのに、

「怠けではなく、障害です」

と言いきるだけの自信はないのだ。



さらに、反抗挑戦性障害のようなタイプの男の子、石を投げたりなど、あぶなっかしくてとても心配な子がいる。
その子に対して、強くしかる、というのがどうなのか。

もちろん、暴力や怪我につながるような行為はやめさせなくてはならない。
でも、基本的に、

○もっと叱れ

というのは違う気がしている・・・、とのこと。




さあて、難問だ。
ここまで話をして、1時間半。
われわれを残して、みなさん帰宅された。
校内は職員室を残して真っ暗だ。


明日からはゴールデンウイーク、ゆっくり寝られそう。。。。と思った夜に、とかく、こうしたことがあるものだ。


わたしは、「障害があれば、叱ってもそのことの意味が正確に分からないのでは。叱らない、というので続ければいいのでは」

と意見を言った。

しかし、相手はすっきりしない。

他の子から、こう言われた、というのだ。


「なんで、先生は、Aくんのこと、叱らないのか」

他の先生なら、ぜったいに強く強く、叱ってくれた。
だから、Aくんも、少しはおさまっていた。
だけど、先生が変わって、あまりAくんを叱らなくなった。
だから、Aくんは調子にのっている。
わたしは、Aくんをしっかりと叱ってくれる先生がいい。

と言ったそうだ。


「なるほどねえ・・・」

ここからが、教師の腕の見せ所。
叱ってくれ、と言ってきた女の子も納得させながら、クラス全体にも相互理解の空気をつくりつつ、Aくんにも最適な対応をしていかなくてはならない。

さあて・・・




「ハガネの女」アスペルガー毒にも薬にも




テレビ朝日のドラマ、「ハガネの女」シーズン2。

今晩、第二話が放映された。
扱われた題材が「アスペルガー」症候群ということで、興味津津。

結論。
毒にも薬にもなりませんでした。

感想は、


「・・・」


です。
自分でも、もっといろんな感想を思うのではないかと自分で自分に期待していたので、これは肩すかし、でした。ざんねん!


視聴者が、この放映によって、アスペルガーをどう理解するか。
この一点のみで、見ていましたが、結論は、

「あまりよくわからない」

というか、印象に残らなかったのでは・・・?

アスペルガー、という名称だけはハッキリと出ていたので、

「なんだそれは」

と思った方も多いと思う。

では、その説明はどんなふうだったかというと、

「他の人の気持ちが分からない障害」

ということをサラリとハガネ先生が言うだけ。
これだけでは、よくわからない・・・。


実際のドラマの中で、アスペルガーの子が周囲の子に多大な迷惑をかけているシーンがそもそも映らない。

見ていた人も、
「なんでこの子が、他の人の気持ちがわからないの? わかってるじゃん。」
と思ったと思う。

「気持ちが分からない障害」

というフレーズが、ドラマの展開とはあまり密接なつながりなく、ポンと出てきた印象で、

「は?」

という感じ。


視聴者代表として、どんな感想をもったか、嫁様に聞いたが、

「気持ちが分からないとかって、どの場面のこと?」

と言っていたので、よくわからなかったのだろう。

そもそも、アスペルガーの説明に、「気持ちが分からない障害」というのは疑問。
ドラマの中の子は、そのことでの困難を感じている子ではなさそうだったから、なんで的外れな説明をわざわざハガネ先生がしたのか・・・。

消火器の使用方法に関しての認知の仕方についてトラブルがあったのだから、そうした認知の独自性についての説明だったら勉強になったのに。 
あるいは、なわとびができないのだから、身体的な感覚統合、共応動作の困難さや課題についての説明ならふさわしかった。

ハガネ先生は、アスペルガーの一般的な説明をしたかったのかもしれないが、「気持ちがわからない」は、登場人物のあの子にはあてはまらなかったのだし、なんでそんな説明をしたんだか、つじつまが合わないんだけど・・・

(きみ、背が小さいね、とかの、相手の気持ちを察しないで発言してしまう態度などは、ドラマではいっさい見られず、クラスメートもそのことを問題とは考えていないので・・・)


嫁様の印象をまとめると、

「アスペルガーの男の子は、おとなしくてとても聞きわけがよく、品がいい。人に迷惑をかけないと努力している。なわとびが下手。電車が好き。」


というものだった。

この程度なら、恐れていたことにはならなかったな、ということで、ホッとした。



と、ここまで書いて、要するに、このドラマではアスペルガーについてはほとんど何も語らなかったのだ、と気がついた。

ある意味、世間に対して小石くらいは、ポチャンと投げてくれるかと期待していたのに、期待が過剰であったようだ。


○黒板の三角定規その他は今日もそのまま貼られていたので、それが常態であろうと推測されたこと。
○保護者の意思を聞かずに「アスペルガー」と診断名を口にしてしまったので懲戒免職。
○子どもの在籍に関してクラスメートが決定権を持つというありえない事態。
○ハガネ先生の学校には、特別支援学級が存在しないこと。
○ハガネ先生が体育の時間に赤白帽子をかぶっていたこと。



など、いくつかのどうにも気になって止まない点はドラマだから、と眼をつぶるとして


アスペルガーの子がかかえている不安

ということについては、ほとんど触れられなかったので・・・



なんだか、

味のしないガムを噛み続けているような1時間

でした。




ドラマ「ハガネの女2」でアスペルガー




ドラマ「ハガネの女」でアスペルガー症候群について描かれるらしい・・・
放送は28日木曜日。


悪い予感がする・・・


アスペルガーについて、おそらく、正しい情報は伝わらない。
おそらく、誤解や良くない印象を与えるような、風評が、この放送によって広まってしまうだろう。

これは、アスペルガーの正しい理解を広めていこうとする立場の人にとっては、たいへんな障害になるだろうと思う。

テレ朝は、今から謝罪することを考えておいた方がいい!!!


(これが私の一方的な誤解であってほしい!!!テレ朝は、アスペの子の子たち、その親たち、教師たちの立場をもっと深く考えた上での放送をしてくれるのであってほしい。

いやあ、ホッとしました・・・

という記事を、28日の夜書いていることになっていればいいが・・・!!!)

リンク

「ハガネの女」アスペルガー毒にも薬にも 4月28日




ハガネの女 時代考証ならぬ教室考証を




テレビはめったに見ないが、嫁様が見ていたのでなんとなく見た場面で、

「これはないよ」

と言ってしまったがために、嫁様から


「うるさい。ドラマなんだから嘘があったっていいでしょう!」


と叱られました。

ハガネの女(シーズン2)という作品です。
見たのは本当にたったのワンシーンですが、教室が映りまして・・・

その瞬間、チラッと見ただけなのに、そんなふうに文句をつけたので、嫁様の怒りを買いました。申し訳ありません。


違和感があったのは、教室の前面。黒板です。

黒板に、無造作に三角定規やその他のマグネットがぺたぺたと貼りつけてありました。
さすがに、通常はこんなに、ぺたぺたとは貼らないでしょう、と思ったのです。


たしか、三角定規、分度器、丸マグネットがカラーでたくさん、青や緑や黄色、赤など・・・。

発達障害の子がみたら、集中しづらいだろうなあ、と気の毒になります。

いまどき、こんな大量のマグネットを黒板にできたデキモノみたいに、ブツブツと貼りつける先生はいないだろう、と思う。

かけ算、という言葉が板書してあって、いったい何の単元だ・・・

その授業の板書の下の方に、なぜか

「サッカー教室」という紙ぺらが、これまた無造作にはり付けてあり・・・

授業と関係のある紙だとしたら、はっきりと見える字の大きさでなくてはならないが、とても小さな字で、うしろの子はほとんど見えないだろう。
だとしたら、おそらく授業とは無関係の紙だと思われる。
そんな紙を張り付けたまま、授業に突入したのだとしたら、クラスが荒れてしまうのでは・・・



前の時間が算数だからか?
それにしても、無造作すぎる。雑すぎる。ふだん、こんなふうに黒板の左側が隠されていても平気なのだろうか?ハガネの先生は・・・。


ということを、嫁様にしゃべっていたら、冒頭のように叱られました。
すみません。本当に。お楽しみのところを・・・



黒板の大量のマグネット。
いかにも、撮影のスタッフが、無造作をよそおって貼りつけているみたいで、うそくさい。

大河ドラマなどの時代劇では、時代考証を専門スタッフが行う。
その時代にふさわしい言葉、小道具、風景であるかどうか・・・
うそがたくさんありすぎたら、それを一つでも減らすために努力する。
学園ドラマでは、そういうことはしないのだろうか。

もし、教室考証、というような役割があれば、もっともっと、本物っぽく、教室をつくるだろうになあ、と思いました。




全国の教師、先生たちは、忙しすぎて、こんなテレビのワンシーンに文句付ける人などいないのでしょう。

でも、もし見たら、同じように感じる人もいると思う。
ぜひドラマの制作にかかわる人に、


「教室考証」


という仕事を、してほしいと思います。
もし、希望でしたら、わたしがやりますよ!
テレビ製作に携わる方、ご連絡お待ちしております。




テンプルグランディンさんのこと2




テンプルグランディンさんの話題、前回の続き。

さて、グランディンさんは、牧場の設計をされている。
その中で、牧場の牛たちが非常に落ち着かないのでなんでか調べてみたがなかなか分からない。

グランディンさんが行ってみて、牛舎に入って、牛と同じ視線で、牛の立場で考えていると、ひらひらする影が、地面にうつっている。これを恐れているのでは、とひらめいた。

(グランディンさんは、牧場の設計をする仕事をしている。
USAとカナダの牧場の約半数が、グランディンさんの設計だ。
屠場と一体化している牧場の多いUSAやカナダでは、牧場の設計という仕事が非常に重要になってくる。年間何万頭という牛が処分されるので、牛が屠場まで気分良く歩いてくれないとお話にならない。せまい通路に牛が固まって止まってしまったら、それこそ阿鼻叫喚である。時間が経ってしまい、夜になってライトに照らされながら人間が必死になって牛を追う羽目になる。屠場のスケジュールが成り立っていかないのである)


さて、グランディンさんが赴いた牛舎。グランディンさんがひらひらと地面の上で揺れている、旗の影に気がついた。これをなんとかしないかぎり、牛が落ち着いて餌を食べてくれない。

そこで、隣の敷地に立つ病院の、庭先にあるポール、そこになびいていた病院の旗をおろしてみると、牛がそれで安心して歩き始めた、というのだ。




これを聞いて、自分も同じような体験をしたことを思い出し、なんだか急に、グランディンさんが身近な人のような気分になった。

わたしが20代の最初に牛を飼っていたとき、牛がどうしても進まない。
昼飯の時間が近いので、なんとか動いてもらいたいが、ダメ。

出産の棟で出産をして、さあていよいよ、搾乳が始まる子。搾乳の施設まで、移動しなければならない。ところが、催乳の牛舎棟まで、どうしても動いてくれない。最初はゆるゆると調子よく歩いてくれたのに、途中まできたら、そこからぴたりと動かなくなった。
牛の目を見ると、ぎらぎらして、なにかにおびえている。
だが、何がこわいんだか、ちっともわからなかった。

今から思うと本当に牛飼いとしては初歩的なことだったのだが、目の前に、細い雨水路があり、そこはアルミ格子のふたがかぶせてあったので、それを越えて歩くのがイヤだったのだ。

当時の私は、まだ牛を飼い始めたばかりのしろうと。大きな図体の牛なら、歩幅よりもうんと小さい幅で、軽々とこえていけるもの。もりあがっているわけでなく、地面と同じ高さなのだし、見た目は色が金属のアルミ色をしているものの、まったく怖いものではない。

・・・と思っていた。

グランディンさんなら、当時の私にこう言うだろう。

「それは、あなたが概念でモノを見過ぎているのです。あなたが見ているアルミ格子は、「うんと軽く、せまく、ちいさく、牛が気にならないもの」としか認識できていないでしょう。でも、もっとしっかりと見てください。こんなにも、色がちがうのです。アルミの色は、牛をつなぐスタンチョンが床に固定されている部分のくさりの色と同じです。たぶんこの牛は、そのくさりにイヤな思い出があるのでしょう。あるいは、そのアルミの格子をふんだときに、すべった記憶があるのかもしれません。」



グランディンさんは、専門家の目でみる。
くわしく、細部を見る。
こういうことは、あらゆる仕事をする上での、本当に大切な部分だと思う。
逆に、そういう「細部への視点」がなければ、プロにはなれない。

多くの人は、プロになるために、大人になってから、あるいは修業中の身の上として、全体だけでなく、細部を見る練習をする、のだと思う。

しかし、アスペルガーの人は、最初から細部をみることに長けている。だから、逆に、大人になっていく過程で、「全体も」見られるようになる、訓練をする必要があるのだろう。

全体をみるのは、むずかしい。ことの軽重、バランス、全体の混ざり具合、というポイントが出てくるからだ。これらは、アスペルガーの人にはむずかしい。
特に、人間関係のバランスがむずかしい。
人間同士の付き合いの上では、<仲の良いふり>、というのもあるんだ、というのが分からない。親友とまあまあ親友、ふつうの友達、あいさつ程度、面識程度、というレベルを区別して理解することが非常に困難なのだ。




テンプルグランディンさんのこと1




テンプルグランディンさん。
佐々木正美先生の講演の中で、何度か出てきていた。
ご自分が自閉症であることを知り、そのことをほとんど初めて大人になって解説し、自閉症とは、発達障害とは何か、ということを世に知らしめた方だ。

この方の話を聞くと、やはり「発達障害(Developmental Disorders, Developmental Disabilities)」という言葉が、なんだかとても間違っているように思う。
やがて、日本語訳としてふさわしくない、ということが、だんだんに一般的な認識になっていくだろうと思う。(もうすでに、佐々木先生をはじめ、多くの専門家が「訳語として使わない方がいいのでは」と発言されていますが)


発達障害とは何か、という説明をするときに、私の学校の特別支援コーディネーターの先生は、

「発達障害といいますが、発達が遅れているわけではないのです」

と、最初に必ず言う。

そして、付け加える。

「よく、誤解されるんですが・・・」


だったら、やはり、言葉を変えることを進めるのがいいと思う。
言葉は概念を引っ張ってくる強力な武器であり、言葉をつくったり、広めたりすることが、概念をつくったり、広めたりすることになるからだ。

さて、このグランディンさんの映画もあるようなのですが、英語バージョン等はあるが、まだ日本語訳化されたものは、発売されていない。
これの日本語訳が、本当に待ち遠しい。


そのグランディンさんの講演が、聞ける。日本語の字幕が出るので、助かる。

テンプル・グランディン: 世界はあらゆる頭脳を必要としている



講演の最後に、アスペルガーがいなければ、人間はまだ洞窟で火を焚いてくらしていたでしょう、という発言が出てくるが、こういうことはまだ日本の教育現場では

「はは!!なにをいってんの(笑) あはははははは」

というようにしか、受け止めてもらえないように思う。
また、多くの母親をはじめとする親や保護者、ジイジやバアバにも、

「ウワハハハ、そんなあほな」

と思われているように思う。



たしかに、今の学校で、適切に指導も受けられないアスペルガーの子に対して、校長も教頭も、

「この子は天才予備軍」

とは思っていないのではないか。

だって、やっていることが、社会的ルールのしつけ、ということにいかにも偏っている。
難しいのも当然で、教室でじっとしていられない子に対して、テンプルグランディンの言うように、その子の興味関心のスイッチを押し、心に火をつけてやる、ということはなかなか難しい。学級担任がそこまでやれたらいいけど、支援級の先生も本当に大変で、アスペルガーの子が3人もいたら本当に疲労困憊の様子。原級の先生も、そこまでは見ていられない。だって余裕がないもんなあ・・・。行事が多くて・・・。行事と研究授業の打ち合わせばかりで、本当に職員室って修羅場。毎日の、アスペルガー児童の日常の世話なんて、後回しだものなあ。(すみません、愚痴になりました)




叱らず、子どもと闘わず・・・




「叱る」と「ほめる」について、何年も考え続けている。
そのことが、ブログにかいているとよくわかる。
ブログは日記だ。
人に読んでもらうというよりも、自分の備忘録という意味合いが強い。
すると、何年も前にも、

「叱る」と「ほめる」 について考えている。

という記事が出てくる。

同じようなことを、何度も考えるのが教師という仕事らしい。




さて、頭の中で何年も寝かしつつ、考えが渦巻いているのだが、はたしてこの春、ボーっと遠くの山を見ていたときに、ふとこんなことを考えた。

それは、昨年度担任した、反抗挑戦性障害児のS子のことを考えていた時だった。

S子が離席するのをなんとか座らせ、黙らせ、クラスの他の子どもたちと共に過ごさせるのに、10分も15分もかけていたことがあった。
そのときのS子は、いつも、

「なんでそんなことしないかんのだ!やだね!!」

という。


つまり、なにも納得していない、ということ。
教室で勉強する、ということについても、つまりは納得していない。いや、なのだ。なんで座らないかんのか、なんで勉強しなくてはいかんのか。

それを、

「教室は勉強をするところです。座りなさい!」

とやっていた。


大声で怒鳴ったことも何度もある。正直、怒鳴らない授業をしたかったが、<怒鳴る>をしてしまったこともある。


そんなことをつらつら思い返していたときに、ふと、

「同じ土俵で戦わない方法がないかな」

と思った。
これまでは、教育は格闘技だ!と思っていたし、なんとか抑えつけなければならない、と感じていた部分もある。

だが、結局、同じテンションで戦っていて、何も得るものはなかった。
S子以外の子や、他の学年の子にも
「先生はこわい」
と思われたが、それは、得られた、というポジティブなものではない。


「S子さん、席に着きなさい。だまって前を向きなさい。ほら、話をしない!勝手なおしゃべりは休み時間にすることです。今は授業時間です!身体ごと、前を向きなさい!」

これを続けるのは、本当にしんどい。
朝からほめてほめて、気持ちよくさせていたって、いざというときに指示が通らない・・・。


そこで、S子がどうしたいか。それをもっと聞いていくしかないのでは、と思った。

「S子さん、授業の約束教室の約束がありましたね。今、2回注意をしました。3回目になると、教室を出て、職員室へ行くのでしたね。さあ、約束を守れますか?」

つまり、S子が、自分の進路を選択するのである。
S子の意識、注意の向ける場所が変わる。
先生が叱る、言うことを聞く、ということではなく、自分が約束を守るかどうか、ということに、気持ちが向いていく。

そうなるように仕向けていくしかないのでは。




ADHDとLDと広汎性発達障害の区別




勉強のメモ。

(DSMとは、アメリカ精神医学会が作成した分類特性)


これから、ADHD、LD(学習障害)、広汎性発達障害について、基本的な知識、概要をまとめてみる。
基本的な言葉の意味、概念を知っておくことが、なによりも先に必要になるからだ。


まずはじめに、
ADHDとは何かについて、下に示す。↓

不注意
多動性
衝動性
この3つの特性がある。

→ 注意欠陥多動症候群と分類する。

(時と場合によって、こうしたものは誰にでもある。
いろいろな程度に、人間誰にだって、こうしたものはある。)

これらの特性の具体例を見ると・・・

課題や遊びが持続しない。
こちらから話しかけていることに集中していない。
作業の指示をしているのにうまく従えない。
課題を順序立てられない。優先順序を決め、うまく片づけていくことができない。
精神的な努力を嫌う。
モノをよく、失くしやすい。
いちいち他のことに気を取られてしまいがちになる。

じっとしていられない。動き過ぎる。
手足をそわそわ、もじもじしている。
席にきちんと座っていられない。
課題に取り組むのではなく、離席して歩いてしまう。
高い所に登ることが好き。
静かに遊べない。落ち着いて遊べない。
しゃべりすぎる。
雰囲気や状況に合わせて自分の行動を適切にセーブすることができない。

また、だれでもいやだなと思うことがある。しかしいやだ、とはすぐには顔に出さないもの。
しかし、そういう感情をおさえることができない。そのまま、すぐに顔に出す。
こうしようと思ったら、待てないですぐにやってしまう。
質問が終わる前に、答えてしまう。
先生が話しおわるまえに、しゃべってしまう。
その結果、他人の言動を妨害してしまうことがある。でもそれに気がついていない。


こうした特性が、ADHD、注意欠陥多動性障害にはある。



次に、「学習障害」についてまとめてみる。


○学習障害
早期に気がつくためのサイン。
落ち着きが無い。
みんなと遊べない。
集団場面での指示の理解が遅い、または悪い。



(これらは、注意欠陥多動性障害の特性とほぼ重なる。
また、自閉症スペクトラムの子どもたちの特性ともほぼ重なる。
どういうことだ?なんのための分類、概念なのだろう?・・・と疑問になる)



こうしたものに、いかに共通点があるかが見えてくるだろう。
LD、自閉症、ADHD、といろいろと専門的な分類があるが、その特性は非常に近く、似ている。


ある女性は、最初にADHDと診断された。
つぎに、
「いや、あなたは自閉症もあるね」
と診断が増えた。
いや、増えたわけではない。
見る人や立場によって、とらえ方が変わっただけだ。
本人はそのままだ。本人は変わっていない。見方だけが変わった。

その時の診断者がどちらに注目するかで、診断名がころころと変わってくる。
いろいろな診断カテゴリーから見ている立場によって、その子どもについてくる診断名は、変わってくる。


もう少し、学習障害についてくわしくみてみる。

運動がきらい。
九九がなかなか覚えられません。
音感が悪いです。
方向感覚が悪いです。
注意が散りやすいです。
相手の気持ちが分からない。


(なんだ、注意欠陥多動性障害と自閉症とLDと、ほとんど同じじゃないか)
(そもそも、分類に意味があるのか。いや、ないと思う)


ここまで、ADHD、LD(学習障害)とまとめてきた。
次に、広汎性発達障害についてみてみる。


○広汎性発達障害

不器用である。
微細な指先の運動が悪い。
心理的な意味の不器用さもある。(あうんの呼吸、というようなことができない)
右利きなのか左利きなのか、きまるのが遅かった、という人もいる。(全員ではない)
営業が苦手。営業はいわば器用な人のやること。それは苦手。
乱暴に見える。衝動性があるから。
とても感情的な人だと見えることがある。

<認知の問題>
複数の情報を同時に処理できない。
引き出しがひとつのみ。
認知、頭の中は、一点豪華主義。それならそれで、一度に占められてしまう。
部分と全体を区分けして整理することが苦手。
右手をあげて、左を下げて、というようなゲーム、遊びが苦手。
短期記憶が悪い。
時間の概念が一般の人に比べてあいまい。
見えないものが苦手。(時間、空気・・・)



お風呂を見てきて。
「はい」(おふろをパッと見た)

どうでした?
「は?」
お湯、沸いてた?
「え、知らないよ」
お風呂、見てきてって言ったでしょう。
「だから、見てきたよ」
見ただけじゃだめよ。お湯が沸いてるかどうか、教えてくれなきゃ。
「そんなこと、今言ったって遅いよ。先に教えてくれなきゃ」


こうしたことが発達障害の特性である。


ここまでみてきて、自閉症スペクトラムというものの内容がみえてきた。
つまり、どれも区切りがあるわけではないのだ。
ADHD、LD、自閉症、発達障害、・・・これらはすべて連続している。
切れ目をみつけることができない。
そもそも、区切ろうとして区切ることができない。そうしたもの。




佐々木正美先生の本を 春休みに読む その1




佐々木正美先生の本を読んだ。
春休みにようやく入り、新年度の準備も進めなければならない、たいへんに忙しい時期だ。
しかし、自分のための読書は、しておかなければならない。
さもなければ、教師としてのエネルギーが枯渇し始める気がする。

教師になって、3年目か。
一番、きつい時間があった。
教師になって最初の2年は、ともかくも教師になったのだ、という緊張感が毎日続いていたのだろう。
しかし、3年目になって、自分の頭の中がスカスカになってきている気がしてきた。
子どもたちの前に、自信をもって立てない。
それは、毎日が見た目平穏にすぎ、授業もやれている、行事の準備もできている、という状態でも感じていた。

中身が充実していない。

それは、教師としては、実はたいへんに危機的な状態であった。


そんなときに、佐々木正美先生の講演会を聞くことができた。
学年主任の先生が、ご自分のクラスの子どもの名前を引き合いに出して、

「いっしょに勉強しに行こうよ」

と誘ってくださったのだ。
これは本当にタイムリーな出来事であった。
もしかすると、ベテランの先生は、私の本心の、自信の無さを見抜いていらしたのかもしれない。

ともかく、私は佐々木正美先生の話を聞いて、教育者としての立ちどころを、再度確認することができたのだ。
私は、教育という場、学校の教師と言う立場で、子どもたちにささいなことであっても、役に立てる存在でありたい、という初心に還ることができた。

ホームランを打つことを要求されているのではない。
毎日確実に球場に足を運び、グラウンドを均し、球を拾ってみがく、ということが大事だ、という思いに自分を戻すことができた。

教師は、ヒーローになるのではない。
ヒーローになる教師が良い教師なのではない。
黒子になれる教師が、めざす姿であり、本質的に子どもの役に立てるのだ、と思った。

そもそも、「良い」教師になろう、とするところが、すでに頭が高い、と言われても仕方のないことで・・・。


・・・ということを考えた。
これほど、佐々木先生の講演を聞けた、ということが自分にとっては大変によいきっかけとなった。


さて、その佐々木先生の本をまた読むことができた。
刺激を受けた箇所を忘れないうちにメモしておく。
(本の内容ができるだけばれないように、私なりの解釈で変容させてある)


もっとも感銘を受けた点、
さらに言えば、もっとも大事な、真骨頂というべき点は、
「具現化する・社会化する」という点と思う。
アスペルガーの人が変わらなければならない、ということでなく、
アスペルガーの人が幸福に暮らせる社会をつくる、ということ。
具体的に、現実的にしていく、ということ。

これは、これまでの

「アスペルガーの人を治していきましょう。アスペルガーの人は現状の正しい在り方にはそぐわないふるまいをしてしまいますから」という世界観とはまったく異なる。

ここは何度確認してもいいことで、すべての言動と考えをこのスタート地点に立ったものとしなければ、まったく逆さま、ひっくり返ったことをやる可能性がある。
これと反することをしている限り、それはアスペルガーの人の、本質的な救いには結びつかない。また、これは非アスペルガー、定型発達の人の救いにもならない。


もう一点。
「そのままでいいんだよ」
と言っていい、ということ。

そんなことを言えば、アスペルガーの人たちは怠けてしまうだろう、ということをたいていの人は不安に思う。私もそう思う。心の深い所では、そう思っている。よくいえば、心配してしまう。

だが、アスペルガーの人たちにいちばんいけないのが、
「そんなことではだめだよ」
というメッセージであり、そのままがいいよ、と言ってあげても、まったく怠けたり、不遜になったり、傲慢になったりはしない。
それがアスペルガーのいいところだ、ということ。




ついに、S子が体育の授業を受ける!




隣の先生が、目をまるくして驚いていた。

「S子さん、身体、うごかしていたね!!」


S子がバスケットボールのコートの中で、ボールを追いかけて走っていたのだ。
たしかに、ボールには一度も触っていない。
シュートもできないし、なにか気のきいたことを言うわけでもない。

でも、みんなといっしょになって、コートの中を走っていた。


前の時間に、叱られてふてくされた。
体育館に並んでくるときも、一人だけ遅刻。
教室でいたずらをしてから、のそのそと現れた。


一度だけ、

「どっちのチームも、負けちまえ!」

と叫んだので、

「そんな言い方はしてはいけない!がんばっている人にかける声だったら、がんばれ、と応援するべきだ!」

と叱った。


その後、またふてくされて、コートの外でわざと足を出して、

「だれかひっかからんかな」

とやっていた。
だが、以前なら、S子がこわくて、いっしょになってやったり、笑ったりしていた女子の一部も、そんなS子に対して、あまりなびかなくなってきた。成長してきた部分もあるのだろう。あまりに子どもっぽいようなことには、流されなくなってきた。



「周囲が成長してきて、S子が孤独になっていくか、あるいはひどくすると、孤立し、いじめられる側にまわる危険もあるかもね」

と、コーディネータの先生がいつかおっしゃっていた。

「それはないでしょう」

と即答したが、(あまりにもS子が横暴で、啖呵をきるときの迫力がすごいから)
でも、今日の女子のちょっとしたそぶりをみると、もしかしたら、それもアルかも、と思えてきた。

結局、まわりがのってこないと、S子のパワーは半減する。
教師の仕事は、S子と周囲の子を分断することだ。
周囲の子をとことん誉めて、認めて、気持ちよく過ごさせてあげる。
さまざまな力をつけて、自信をつけさせてやる。

そのうえで、S子が憎まれ口を叩いても、話が合わないようにさせてやる。

それが一番上策かどうかは分からない。
もしかするとそういった友達どうしの関係が望み通りにならないので、余計にストレスを感じて、荒れていくかもしれない。

でも、いたしかたない、とも思う。クラスの大半の、他の子のことを思えば・・・。



S子はすでに反抗挑戦性障害、とも見受けられるほどになっている。
それが、みんなといっしょにバスケットボールがやれるようになってきた。

夏までは周囲の子どもたちもどうやって関わったらいいか迷っていて、クラスの女子を脅して言うことを聞かせたり、わがままを押し通す態度がひどかったので、コーディネータの先生に相談すると、

「説教は逆効果。意味ない。少ないルールをつくり、守りきらせてほめる。守りきらせて褒める、のくりかえしかな」

だと教わった。


その後は、授業は全部、免除。
2年生くらいのプリントを用意してやった。それを、やっていればなにも叱らず。
読書もまあ、いいとした。
叱るのは、クラスのルールをひとりだけ、公然とやぶったとき。

・しずかにしなくてはいけないときに、静かにしていない時。
・ひとの悪口を言った時。
など。

でも内心では、それもS子にはきつかったのだろう、と思う。
S子には、もっともっともっと、ハードルを下げてやらなくてはいけなかった。
結局、5年生の通常学級では、ストレスが多すぎたのだ。

ともあれ、S子は特別支援への通級を視野に置いて、取り出し個別支援の対象となった。
また、図工も家庭科もやらないが、ただ体育だけは、なんとかみんなといっしょにやろう、という気になってくれている。

素直に、今日のS子をみて、うれしかった。これが、教師のだいご味、というものだろう、と思った。




算数障害




算数のLDがうたがわれている子がいる。

理科は得意、暗記もできる、カタログ的な知識ならとてもたくさん知っている。

だけれども、5年生の算数はからきし。

よく振り返ってみて調べてみると、3年、4年あたりからがまずい。
分数が、よくわかっていない。

体積や割合をしばらくやっていて、分数から離れていたら、






「2分の1」

これが、読めないようにまでなっていた。

本人いわく、忘れちゃったんでなく、ちょっと自信がなかったので、ちょっと考えていた、というのだが・・・



そこでいろいろと学校の先生たちと話をしていると、本校のコーディネータの先生から、

「算数障害」

という言葉を教えてもらった。

広く言えば学習障害、LDのことだが、その中の分類の一項目に当たる。

読み書きについては、前にも書いたが「ディスレクシア=(読字障害とも)」などがあるが、それの算数版だ。


S子に言わせると、算数は「わけわからん」


なにが、というと、S子なりの言い分があるのだが、一例を挙げれば、

「~より多い、とか、~より○個少ない、というがわからん」


おそらく、このような面倒くさい言い回しが、イヤなのだ。
だって、それが算数だもの。
と思うが、この言い回しが独特で、もってまわった感じがあり、すっきりとしていないのだ。


あと、S子が間違えるのは、数字の順番だ。
おっちょこちょいのJくんもよく間違える。

345を、354、と書くようなことだ。

また、2+2=4 という計算を頭でしていて、実際には答えの欄に、「2」と書くようなこと。
指でさして、

「これ、こうでいいの?」

と聞くだけで、

「あ、まちがえとった」

と直してくれるから、本当におっちょこちょいなのだなあ、と思っていたが、おそらく短期記憶の弱さとも関連があると思う。


あとは、一度そのパターンが身についてしまうと、それで押し通してしまって修正が効きにくい、ということ。

1    1
― + ―
2    2

という分数の足し算を、分子同士、分母同士、両方とも足し算をしてしまい、すました顔をしている。

こたえをきくと、





という。


意味を図に書いて確認しようとするが、この数字の並び、表情と、図での説明とがなんで同じ意味を指すようになるのか、相当に違和感を持っている。

算数の世界では、このようなルールなの。
分数とは、こういう意味なの。

と説明するが、それを飲み込むのに、かなり苦労を伴うようだ。


S子は、字も1年生レベル。
作文も書けない。(自分では)

こうした国語のスキル、とくに作文のスキルとも同じところの障害、関連のある障害だと思う。

教師としては、もっともっと視覚的に、直感的に、算数を理解できるようにしていく努力が必要だろう。通常学級でも、もちろんやれることはあるのだ。(一方で、特別支援への道筋も大事で、それはそれでもちろん行います。誤解の無きよう・・・)




無言の掃除の世界




無言の掃除の取り組みが、今年度から始まっている。
勤務校では長年、「無言の清掃」は無理だ、となっていた。

「うちの子たちに、そんなことは無理だろう」

というのが大勢の意見で、「管理」教育を思わせる「無言」の指導はしたくない、という年配の先生たちの後押しもあった。

ところが、前年度の生徒指導担当の先生がかなりのやる気で、無言の清掃をやりはじめたのだ。


その先生の指導はすばらしく、今の6年生はほとんどが無言で取り組んでいる。
無言の清掃姿は、いつもわんわんとうるさい教室に慣れている耳には、とても新鮮に映る。
すばらしい!と、思わず感嘆のため息が出るほどだ。


さて、それを自分の学級になんとか定着させたいのだが、それが難しい。

「無言清掃!だまって、たくさん、身体を動かす!」

と言いながら、廊下や教室を見て回るが、そんなことが定着するのはかなり先のことだろう。


隣の中学校では、そうじの時間になると、全員が廊下に正座するらしい。
そして、沈黙。


廊下の両側には、黙ってすわる、生徒の列ができる。
ここは京都の寺か、と見まごうばかり。

しばし沈思黙考の末、
「無言の清掃をやれる!」
という機運が自分の心の中にできた、と自覚できた者から、いざ掃除にかかる、という。


これを5年間続けていると、学校の雰囲気ががらりと変わり、すっごく素直な中学生が増えてきた、らしい。

無言の清掃の力たるや、その話をきいているとおそろしい気もしてくる。

しかしまあ、坊さんの世界もそうだし、○○教でもそうだし、○○学園もそうだし、イギリスのハイスクールの寄宿舎でもそうだというし、「清掃・そうじ」というのは、人格形成をする上でかなりのウェイトをもつ、すぐれた実践なのかもしれない。

いつも鼻高々の、いばった風のS子ですら、ぞうきんもったら頭を下げて床を見ているし、

「あたまをさげる」

という具体的な行為をするだけでも、すごいことかもしれない。



森信三先生も、「くつをそろえるときに、頭を下げる姿勢になる。それが大事」みたいなことを言っていたような気がする。

つまりは、形から入れ、ということなのか。
そうは言わないまでも、心と形は大きな影響と関連がある、ということなのだろう。
電機と磁石、のよう。(今、電磁石をやっているので・・・5年生、・・・おそい!)




コイルをつくる、でパニック!




クラスの発達障害を抱える児童。
懸念はしていたが、やはりやるべきではなかった。
なにか別の手立てを、もっととれていたら・・・。

5年の、理科。
電磁石の学習で、コイルをつくった。

学習教材の会社から、キットを取り寄せて、かんたんに済ませよう、と思ったのがいけなかったのか。
キットの中にある、コイルをつくる部分が、複雑すぎる。
はじめて5分で、S子が

「もうダメだ。ぐっしゃぐしゃ。こんな難しいキットいらんわ!」

と大声で叫んで、コイルを投げつける。

自分だけが大声で叫んでいることがなんとなくわかるのか、クラスの他の子の邪魔を始める。
わたしの方をみながら、

「こんなのわけわからんわ」
と他の子の近くで言い始める。
周囲の子、それを無視しつつも、S子がこわいので、あいまいにうなずいている。

大声でしゃべって、わたしを見る。

ともかくも今の状況から、すくってほしい、というサインだ。

もう、いやだ。   と叫んでいるのだ。

これを受け入れて、

「そうか、むずかしいなあ。なかなかできないよなあ。」

と言ってやると、少し反応して、

「線が長いわ!」

「そうだよなあ。線が長いもんなあ」

軽くいなしつつ、心の中では、

「健常児でも難しい作業を、やらせたのがいけなかったな」

と猛反省である。

半分以上できたものをサッと渡し、ここだけやってごらんよ、と言っておくべきであった。

それもこれも、授業の準備不足が原因。
そうなる原因は、
校務分掌が偏っていることと、行事が多すぎることだ!!と言いたい・・・。(言わないけど)




自閉症スペクトラム「あたし研究」




小道モコさん。
ASDの診断を受け、「わたし、空を飛べるかも」というくらい、自由を感じた、という。

「私は、自分がASDと知るまで、ずっと自分の翼を隠して生きてきました。隠さないと生きてこれなかったからです」

佐々木先生もおっしゃっているが、

「まわりの無理解が一番つらいこと」

なのだ。
理解するだけで、本当にまず救われる。
しかし、その理解がむずかしい。
小道モコさんは、多くのひとに、ASDを理解してほしいと、今回の著書を出された。

本の最初にある、読者へのメッセージで、最後にこう述べられている。

「子どもたちの翼が、折れないことを。 翼を隠す必要などない、と自分で自分を肯定できることを。私は願っています。」



きみは大丈夫、きみにいてほしい、きみが大切、きみが必要・・・

人間は、うまれてから死ぬまで、人に受け入れられ、人に愛され、人とともに歩きながら一生を終えるべき。




最後まで読んでみて、
多くの人に、この本を読んでほしい、と思うが、とりわけ同僚に勧めたい。
まっさきに、教頭に話をした。

朝、本を教頭先生の机上においた。
時間のあるときにみてもらいたい、と話し、購入希望を伝えた。
学校はジャングル、というページに、ふせんを貼っておいた。
教頭先生が、

「あれ、先生、買っておくよ」
と、昼休みに言ってくれて、いい教頭だなあとまた思いましたよ。


明治図書からも、ぜひ小道モコさんの本を出してほしいですね。
とくに、学校のことをくわしく!!
教室での先生のふるまいが、すべて「忙しすぎてついていけない」というあたりを、くわしく!

話しながら黒板に書く、黒板に書きながら唐突に質問する、「いいですか」とわけのわからないことを尋ねる、突然の避難訓練は地獄・・・・


本を読んでいると、モコさんが「教室は地獄」と思う意味がだんだんと伝わってくる思いがします。

おすすめです!




「やはりアスペルガー症候群」という言葉




病院で心理検査を受けてきた子がいる。
医者からその結果を知り、親がそれを担任にも知らせてくれた。
結果は、アスペルガー症候群。


さて、これがむずかしい。
発達障害というのが、また、「自閉症スペクトラム」という言葉も、読めば読むほど、分からなくなってくる。
今は、佐々木正美先生の本を再度読み始めているが、これが一番、今の世の中の共通理解に近いのかなと思う。

さて、診断結果をめぐって、職員室でひとしきりその場にいた先生たちが会話した。
その中に、

「やっぱり。アスペルガーだったか」
という言葉があった。

まあ、そのまま聞けば、診断が出ているわけだし、前からそれが疑われていたのだから、そのまま受け取ればいい言葉なのだろう。

しかし、実際に担任している私は、

「その名前がついたら、なにがどうなるっていうんだろう。本人は昨日も今日も、変わらない」
と思った。

診断名がつく前と、ついた後で、なにが変わるってもんではない。
以前から、それ相応の対応をしてきたし、2次障害、反抗性発達障害に進んでいかないように注意してきた。




・・・まあ、それを、
・・・さらにさらに、慎重に、進めていこう、ということか。

まあ、・・・・・・・考えすぎかも。


なんだろうなあ。あのセリフに、なにかひっかかったんだよなあ。




市会議の一般質問で発達障がい児の療育について質問が




土曜日、なにげなく市の「市会議」記録を見ていたら、

「発達障がい児の療育と支援について」

という一般質問をされている方がいた。

結局、質問の最後には要望として、

「市に療育センターを設立したい」

と提案されていた。

多くの市会議レベル、行政レベルでは当然、このような「発達障がい児」に対する支援策を何度も話し合ってきている、はず、と思っていた。
しかし、その話し合いの程度が、遅々として進んでいないように見える市もあるらしい。

わたしの住む市でも、どうやら特別に何か動きが明確に計画され、進んでいる、というわけでないことが、この「一般質問」を見ていてわかった。

ところでそれに対し、市長以下、担当者が答えるのには、

「関係課で検討に入っている」


という段階だそうな。


○専門職の人材確保が困難
○県へはたらきかけている
○各課で最大限の取り組みをしている最中である


つまり、専門職をあてがって、そういう支援の体制はつくりたいものの、それを財政面で補佐する制度が確立しておらず、予算もなく、人材確保ができない、ということ。

いや、まてよ。もしかしたら予算の都合、というだけでないのかも。
本当に、人材を募集してもこない、つまり専門職になりうる人の絶対数が少なすぎるのかも。

どうやらそれが実際のようで。


今、発達障がい児の支援を自分の仕事にしていこう、と決意できる人は世の中にどれほどいるのだろうか。
そうはいまい。
家族や知り合いにそういうことで苦労した経験があり、なんとかできないか、とその必要性を感じている人が、動き出すのを待つしかないのだろう。

私の勤務校やその周辺では、自分の子が発達障害、あるいは自分自身が発達障害の悩みを抱えており、それをなんとかしようと勉強しているうちに、この世界に入った、という方も多い。
その方たちが、小学校の職員を対象に講座をひらいてくださっている。

自分の子の子育てに悩んだ経験があるから、すさまじい吸収力で、ありとあらゆることを学ぼうとされている。
現場の先生の悩みへの、共感もある。

はやく、こういうことが当たり前に、迅速に、取り組まれていく市になってほしい。




聴覚過敏で学校へ行かれません・・・




夏休みに調子を崩し、一向に学校へこれていない子がいる。

「わたしをわすれないでほしい。」

というメッセージが、友人を通じてあった。

特別支援教室の子で、ほとんど私の学級へは来たことがない。
原級の担任として、面談してきてほしい、という教頭の配慮で、私が行くことになった。


父親と話し合いができた。

特別支援教室なのに、担任にこう言われたのが悲しかった、とのこと。

「特別な配慮はできません。」



特別支援教室の担任の言わんとするところも分かる。
もちろん、特別支援だ。
その子一人ひとりの個別の状況や発達の程度、障害の度合い、いろいろなことには対応したい。そのつもりの支援教室だ。

しかし、それにしても、支援教室の限界がある。
たとえば、その子一人のために、カリキュラムをすべて個別仕様にすることはできない。
他にも、支援教室に来る子はいるのだ。
防音にするために配慮はするが、支援教室をさらに増やすことはできないし、他の校舎にずらすこともできない。
給食の時間も多少はずらせるが、その子一人のために1時間もずらすことはできない。
担任もクラスの他の級友もひっくるめて、1時間も動かすことはできない。

そういう意味で、特別な配慮はできない、と言ったのだ。

しかし、親はそうは受け取らない。
特別な配慮をしてこそ、特別支援のはずなのに。
その対応をなぜ学校はしてくれないのか。


学校は、スタッフ不足でいっぱい、いっぱいだ。

特別な配慮を要する子は、あまりにもたくさんいる。
その子、その親から、特別な配慮を次々と要求されても、そのすべてに対応することはできない。


その父親は、そうした事情も分かる、と言った。

「だから、学校には期待していません。医者と相談していますので」


医療機関からは、学校へ連絡があった。
「登校刺激のむずかしいケースです」

両親の学校への不信感が強い。
子どもも、学校へ期待していない。
よほど強い学校とのつながりが、心のつながりがないと、復帰しようとする動機が生まれないだろう、とのこと。

最後に、聞いてみた。

学校へ登校して、いちばん困ることってなにか。

本人いわく、

「学校はうるさい。低学年の子の声がすごく耳に入ってくる。叫ぶ声は本当にうるさい。先生の怒鳴る声もうるさい。学校にいると、頭が痛くなる。」

もちろん、教室は離れている。
特別支援教室は、他の教室よりは、ある程度、静かな・・・・はずだ。
しかし、廊下をトンネルのように伝わってくる音が、本人を苦しませている。


こうしてみると、オープン教室の学校が、いかに特別支援教育の配慮を欠いた施設かというのがよくわかる。

これから、オープン教室はなくなっていくだろうが、一時の流行のはかなさと罪深さを、だれが償うのだろう。

職員が、知恵を出して乗り切る、というしかないのだ。
しかしその、背負った荷物の、なんと重いことだろう。
現場の教師はやせた馬のようだ。
やせ馬に、荷が勝ちすぎるのだ。



父親の静かに語る隣に座り、テーブルにひじをついて話を聞きながら、小学6年生の彼女も、ぼんやりと湯呑を見つめている。

「この家は静かですねえ」

父親は、この子のために、増築をし、防音になっている、と言った。
親ならでは、である。

頭が下がる。


うるさくない教室へ。
子どもの騒がない学校へ。
(それは無理だ・・・)



この後、どんな対応ができるのだろう。

悩み続ける。




学校変われば発達障害児童への対応も変わる




学校が変われば、学校長の判断で、指導方針や対応も変わる。

たとえば、私が以前勤務していた小学校では、その方針がころころと変わった。

赴任した最初の年。
最初の職員会議で、こんな指示があった。

「教室の前面、黒板の周囲には目立つ掲示をしないようにしましょう」


これは、発達障害児童に対する支援だ、ということだった。

黒板をみるときに、どうしても視界に入ってしまう。
そのときに、集中力が途切れる。
だから、黒板の周囲には「学級目標」などの掲示をしない、というのだ。


なるほど、と思った。
集中しない原因になってしまうのか。
であれば、まあしないでおこう。


しかし、そのことに対して、お局先生から「待った!」がかかった。
2年目。
その方針は、ゆるやかなものになった。
校長先生も、まあ刺激しない程度の掲示なら、大丈夫じゃないか、ということであった。
どちらかというと、「規制と指示がゆるんだ」ということで職員間では受け止められ、各学級ごとに、学級目標を黒板の上部、つまり教室の前面に掲示する人もいれば、これまでどおりしない人もいた。

3年目。
お局先生の運動が功を奏し、各学級、教室の前面に学級目標を掲示しましょう、ということになった。
発達障害の児童への配慮、ということの効果よりも、教室全体に担任教師と児童の合意の上で、教室を一年間統率できる「学級目標」の掲示をする方が、指導上効果的だ、ということであった。

「学級目標を貼らないなんて、要するに教師が何もしていない、ということになるよね。サボりたい教師に都合のよい論理だけど、発達障害の子にとってはそれほど掲示が害になるわけでない。そういうことを持ち出して、面倒くさいことから逃げたい、と言うだけ。学級目標をクラスの児童全員で確認しないでどうするの」

ということだったようだ。

そのときの剣幕がすごかったので、

「そうかあ。発達障害の子も、そんなに関係ないのか。だったら、学級目標貼るべきだよなあ」
(サボった教師と思われて、あとからイロイロといじられるのもいやだしな)

という感想を持ち、私は3年目に、他の先生方と同じように一応、学級目標を教室前面に貼りつけたのでありました。


ところが新しい県の、新しい学校へ来てみたら、スクールカウンセラーや特別支援コーディネーターの招く先生の講座で、

「教室前面の掲示はなくしましょう」

と言われた。

「あらら・・・」

と、これまでの経緯を思い出す。


くわしくは、こうだ。
先日の講座で、発達障害を専門とされる先生の言われることになるほど、と思った。
つまり、人間の視野には、中心視野と周辺視野、というようなものがあり、それをセレクト(選別)できているのが通常である。
だから、目自体は、多くの情報を一度に脳に届けているものの、注意を一点に絞るために、その他の情報をわざわざスモークガラスでかぶせたようにして見えにくくし、取り除いているのが通常の脳の処理なのだそうだ。

ところが、発達障害を抱える児童にとっては、その脳内の処理ができない。
つまり、常に、100%近い情報が、脳に届いてしまうのだそうだ。
その中から、これ、というべきものに注目していかなければならないので、非常に疲れるらしい。

本当かどうか、知らない。
だが、発達障害の専門家の先生が、言われたのだ。
科学的なことなのか、それとも、まだ科学的には分かっていないことなのか。
発達障害を抱える子どもにとって、どれほどそのことのハンディがあるのか。
「疲れる」というのも、どの程度のことなのか。

いろんな疑問が脳をかけめぐったが、その場の校長の結論、教頭の結論は、こうであった。

「子どもたちのためにも、教室の前面の掲示はできるだけシンプルにし、学級目標も教室のうしろにできたら貼るようにしてください」

わたしは3年前を思い起こしながら、

「また、この方針が変わっていくのではないか」

という思いを持ちつつ、

「まあ、とりあえず、それに従おう」

と考えたのであります。



しかし、この

・中心視野を見るために、周辺視野をわざとボカす、という脳の働きは、本当なのか。

・それがしにくい発達障害の子は、ではどうやって、モノを見ているのか。

・集中するために、疲れる、というが、どのくらい疲れるのか。


このあたり、本当はどうか、とても知りたくなりました。




すさむ言葉づかいと学級




「てめえ!」

「・・・っつってんだろ!このやろー!」

「うっせー、バカ!」


こういう言葉づかいをしているA子。


A子は、生まれつきこうなのではない。
言葉づかいを、どこかで学習をしている。
兄弟か、それとも親か。
あるいは家庭環境による学習なのではなく、友人か、兄の友人が言っているのを聞いているのか。

A子が他の子とトラブルが多いことで、何度も考えてきた。
職員室で、他の先生とも相談をした。
心理士の先生にも尋ねてみた。
本も読んだ。

4年生がもうすぐ終わる。
この学年を終える。
修了式を目前に、どうしても、私の心がすっきりしない、曇った一点がある。
A子の表情と言葉づかいだ。

この子に、担任らしい、なにか指導をしてやりたい。
一年間培った、お互いの関係を信じて、なにか心に届く指導をしてやりたい。
何度も、トラブル解決をしてきた。
お互いに、話し合ったことも何度もある。
素直に、話してくれたこともある。

ただ、この言葉づかいに関しては、なんともなっていない。
急に、切れたようになって、
ものすごく荒れた言葉づかいをする。すさんだ、心が見えるようだ。
発達障害もある。
しかし、だからといってこれをやめさせないわけにはいかない。
なんとしても、他の人といっしょに、くらしていける人になってもらわないと。
これでは、他の人に拒否されてしまう。


「うっせー!」
「うぜえ!」
「だまれ!」


こういう言葉づかいで、他人が恐れるのを感じている。
「こわいな」と思ってもらおうとしている。
相手の、平常心を失わせよう、と心の底で考えている。

A子は、いつからこのようなことを、学習したのか。
A子は、いつから、こうしたことを、「楽しみ」だととらえるようになってしまったのか。

そして、こういうことを、楽しみにしていく心の背景に、どんなさびしさが隠されているのか。


4年生の後半。
いろいろな成長の結果、どうしようもない現実が見えるようになってきている。
敏感に、なにか、他の人とのちがいを感じ始めている。
授業が分からない、ということについても、以前よりもなにか、深刻な受け止めがあるのだと思う。
すさむ言葉。
やくざの言葉づかい。
しかし、やくざでも、えらい人はこんな言葉づかいにならないのだろう、と推測している。おそらく、ちがう。えらい人は、他のことで十分満足できるから。

チンピラなのだ。
もっとも、他の楽しみが見つけられず、自分の活躍が感じられないから、他をおそれさせ、他人の平常心を失わせることが、自分のほとんど唯一の楽しみになってしまっているのだろう。

A子。
A子の、行動の幅を広げてあげること。
活躍の場を与えてあげる。
そして、元気がたまるように、働きかける。
その連続でしか、A子の表情をやわらげることはできないのだろう。

あと14日間。
声をかけつづけるしかない。




佐々木正美さんの講演会 その3




講演会の中で、水酸化PCBの話も強烈だった。

環境ホルモンが危険視されて久しいが、PCB(ポリ塩化ビフェニール)は、体内に摂取されると変化して、水酸化PCBというものになるらしい。

佐々木先生は、
「私はくわしくないんです。」
と断って、以下の説明をされた。

・水酸化PCBは、甲状腺ホルモンととてもよく似た配列をしていること。
・甲状腺ホルモンは、母体の中で、胎児の脳を形成するために必要な物質であること。
・まちがって、脳の形成に大きな影響を及ぼすホルモンのかわりに、水酸化PCBが吸収され、配置配列されてしまった場合に、どんな結果が出てくるか、だれも実験をして確かめていないこと。

脳の発達に影響がある。

人間の、脳である。
生まれてくる胎児の、脳である。

おそろしい。
本当のことが知りたい。




佐々木正美さんの講演会 その2




佐々木正美さんの講演会で、泣けてきた話。

子どもが学校へ行きたくない、と言った。
普通級ではなく、支援級だったら行く、と言った。

その子は、発達障害であった。
母親は、佐々木さんの講座で勉強をしていた。
子どもにとって、普通級は耐えられなかったのだろう。

担任の先生はいい人だった。
十分に、普通級でもいけますのに、と言った。
それをきいて、じゃあやっぱり、と思い直すのが、ふつうだろう。

でも、親はことわった。

「この子が、支援級がよいと言っていますので」

周囲の人はいろんなことをいったが、結局、親子はそうして支援級に移った。

発達障害の子が、どれだけの苦しさを抱えているか。
どれだけの生きにくさ、困難を経験するか。

それを知った以上、もはや、普通級には行く気がしなかった、ということだった。




佐々木正美さんの講演会




近くのホールに佐々木さんがくる、というので、勤務を終えてすっとんでいった。
ホールにぎりぎりの時刻に入ると、満員で、もうすでに中へは入れない。
外のロビーに、特設で場が設定してある。
テレビが置いてあり、中継で中の様子を放映してくれていた。
ありがたい!
感謝しながら、それを見る。

ほかにも、息をきらせながらかけつける、私と同じような人が何人もいた。
おそらく、どこかの教員だろう。
みんな、学びたがっているのだ。


講演は見事だった。
一言も、むだな言葉のない講演会。
「えー」も、「それはさておき」も、入る隙がない。
せきばらい一つない。
全部、まるで、著書をその場で一つ完成できるのでは、というくらい、緻密で、内容のある、中身の有る、講演だった。
それだけで、本当に満足した。

佐々木さんは、子どもの声を聴いているのだ。
子どもが、叫んでいる声が聞こえるのだろう。
そして、それに応えるために、全身、傾倒している。
だから、無駄な言葉が、削られているのだ。



子どもを救え。

(以下、メモ)

発達障害の子が大好きだ。正直だ。うそがつけない。
思い、イメージで生きていない。事実で生きている。だから、非常に鋭敏で、そのまんまで、率直に生きている。
率直に生きるのが難しいのが、今の社会だ。

発達障害の人を不幸な状態に追い込んでしまうのは、周囲の人々の無理解。たとえ善意であっても、無理解は誤解と同じことで、ひどい苦痛を強いることになってしまう。

周囲の多くが、発達障害に理解をする必要がある。
環境が整えば、力を、持ち味を、大いに発揮できる人が本当にたくさんいる。

「無理解な保護者、教師、その他の職業者、クラスメイトや一般市民に、彼らはどれほど脅かされ傷つけられてきたことか」

大好きで、安心のできる人、お母さんと、いっしょに話しをしている。そのことで、子どもの前頭前野はすばらしい働きをする。
それが、他の人相手の会話や携帯電話経由であると、脳は一挙に、働きのボルテージをダウンさせてしまう。
高度に活性化させることができるのは、その人が、心を許し、安心し、なにかを託すことのできる人と、共に、コミュニケーションをとる姿の時。それなのだ。
前頭前野の発達が、感情や感覚、配慮、思慮、に影響を及ぼすことは大いに考えられる。

やれることは、当たり前のこと、ということ。




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