30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

「子ども」とは

悪口のコール

ある子に向けて、他の何人かの子から、うざい、うざい、のコールが起きたそうである。
担任の先生が鬼のように怒って鎮め、放課後、親に電話していた。
電話が終わってからも、その「うざい、うざい」のコールを始めた首謀者と思われる児童のことを、ああだこうだと小一時間、職員室で話していた。

おそらく、保護者もびっくりするだろう。
わが子が友達に「うざい」と言っているのだとしたら。
また、わが子が「うざい」と言われているのだとしたら。
尋常なことではない、いじめだ、なんとかしなければ、と思うのがほぼすべての親だろうし、わたしもそう思う。

ところが、ぼんやりと考えていると、ちょっとちがう視点で思うこともある。
それは、大人と子どもとでは、
「うざい」や「キモイ」、もしくは「死ね」の意味がちがうのではないか、ということだ。

これはかなり繊細な話になるから、なかなかこれまでここ(ブログ)には書いてこなかった。
そうはいっても、許せない言葉だからだ。
たしかに、これらは許される言葉ではない。

しかし、ちょっと事件とは離れて、それはいったいどういうことなんだろうか、とできるかぎり客観的にこれをみてみたい。

ふつう、大人は、だれかに向かって「うざい」「きもい」「死ね」とは言わない。
あからさまに相手を傷つけることが自明だからだ。
暴言だし、人権の冒涜だし、犯罪でもある。

いっぽう、子どもはけっこう、口に出してしまう。
これは日本中の教室を調べたら、かなりの数になると思う。
正直に先生たちが、日本中の小学校で、子どもが「うざい」「きもい」と口にした数をカウントしたら、膨大な数になってしまうだろうと思う。おそらく間違いない。

なぜ、大人は言わず、子どもは言うのだろうか。
これは、もしかしたら、子どもは学習中だからではあるまいか。
大人は、その言葉の冷たさ冷酷さ非道さを、学習したために使わないのではないだろうか。

子どもはそういう言葉を使うことによって、ある壁にぶつかる。
人との関係がこじれる。
子どもはそこから学ぶ。
大人になるにしたがって、自分の口から出てくる言葉の伝わり方を、ふさわしさを、やさしさを、思いやりの乗せ方を、学んでいくのだろう。

「うざい」と言う子は、叱ればいい。
これは、半分正解で、半分は不正解だ。
大人はそれをキャッチしたら叱るべきだろう。たたかうべきだろう。その言葉の冷たさと。

しかし、叱ったら使わなくなるかというと、そうでもない。
ここが、半分不正解の部分だ。
これは、子どもが自分で傷ついて、学ばなければならない部分が多少、あるのだ。
相手を傷つけ、自分も傷ついて、そうやってこそ学べる世界が。

大人は、そんなことをさせたくない。
だから道徳の授業なんかで、「ふわふわ言葉」とか「ちくちく言葉」などと教える。
教えるのはいい。でも、それですべての小学生が使わなくなるなんて考えない方がイイ。
実際、そんな程度のことで「うざい」がなくなるわけがない。なぜか。
子どもが自分でやってみないといけない部分があり、そうでないと

本当には分からない

からである。

小さな失敗を、重ねて、大人になるのが子どもである。
それを

許さない!

と叱れば解決、すべての悪口現象が無くなる、というものでは、残念ながら無い。
子どもの本分は、間違いながら、改めながら、育つ、ということだ。
それをわかって、まるごと受け止めていることが、教育のスタートなのだと考える。
そして、その方が、かえって子どもを追い詰めないし、実はまっすぐ子を育てることになっているかもしれない。

品行方正な子どもに尋ねて
「なんでうざいって言わないの?」
ときいたら、理由が
「大人がそうしろと言っていたから」
では、残念でしょう?

そう指導されたから、そうする、というのでは、おかしなことになるのですから。

ノモンハン

子どもは「何のために生きるか」を問わないのが不思議

タイトルに書いたが、
一生懸命に遊んでいる子どもたちを見ていると、
そう言えばこの子たち、「何のために生きるかを問わない」ことに気づく。

人は何のために生きるか。
充実感や達成感を得るため、感じるために生まれてきたのではない。
そもそも、何か事がらを進めたり、達成したものを得るために生まれてきたのではない。

では、なんのため?

人生は、何かをするため、ではないかもしれない。
もしそうなら、逆に何かをしてはいけない、というのでもないだろう。

では、なんのため?


われわれ大人は、
「社会からの」あるいは「人生からの要求」には必死で応えようとする。
一方で、「人生からの問いかけ」には耳を貸さない。
常に、強い緊張と切迫感、焦りを感じながら、生きている。

ところが、子どもは違う。
「人生からの要求」には関心が無く、
「人生からの問いかけ」には真摯に向き合う、というのが、子ども。

だからだろうか。毎日、真剣に遊んでいる。

毎日すれ違う一年生が、いかにも幸福そうに雲を見上げながら歩いていくのを見てると、
教師も時折、こうやって人生を考えるようになる。
自分は、たった一度の「人生」から、なにを問いかけられているのだろうか。

ひとの人生は、社会よりも価値が高い。
それぞれの人の、人生の価値が高まれば、
結果として、社会全体の価値が高まるだろうと思う。

人生の価値は、「なにをしたか」ではない。
「なにをして過ごしたか」でもない。
「どこで過ごしたか」でもなく、
「だれと過ごしたか」でもない。
そこには、なにもない。

教室で過ごしている子どもたちはふだん、
そんなこと、なにひとつ気にしていないように見える。
たったひとつ。一所懸命に遊ぶのは楽しい。これは真実だろうなと思う。

aki3

【11歳】大縄跳びがきらいなあなたへ

拝啓

あなたの担任になって、もうかれこれ半年以上が過ぎました。
春、見事に花を咲かせいていた校庭の桜はすっかり落ち葉になってしまいました。
そして、その落ち葉の掃除も、もう終わりました。
時の流れははやいものですね。

さて、大縄跳びがきらい、と断言したあなたは、その後大縄跳びの練習には入りません。
ずっとそばで見ているあなたを見ていて、先生はあなたが寒くて風邪をひかないようにとばかり、願っています。

他のクラスのことは知りませんし、前年度この学校の大縄跳びがどうだったかというこれまでの歴史も知りません。
しかし、先生は、大縄跳びは楽しいと思います。
だって、人間がジャンプするだけでも楽しいじゃないですか。
先生のうちの子は、トランポリン大好きですぜ。
ポンポンと跳ねながら歌うので、舌をかまないか、と心配しています。

さて、大縄跳びが嫌いだという子は、多いですね。
あなたに限らず。
先生が教師という職業をはじめてからだって、何人もそういう子に出会ってきました。

「だって、ひっかかったら、男子にすごい目でにらまれるんだよ。あれすごくいやなんだ」

まあ、そういうことがいやなんですよね。
だから、純粋に「大縄跳びがいやだ」というわけではない。
そこは分離して考えましょう。

大縄跳びがいやなのか、男子ににらまれるのがいやなのか。
もっと深堀りすると、
「そうやってひっかかることを失敗と規定し、その失敗をすると記録にならないから自分たちの失点だと考え、クラスとしての競争意識が満足できないから、だから足をひっかけた子のことを責める」
という文化そのものがいやなのでしょうかね?

まあ、その男子はかなりの勘違いをしています。
まず、ひっかかることで記録数が少なくなりますが、そもそも記録数を伸ばすことが大縄跳びの目的ではありません。まあ体育主任の先生が「よい記録を伸ばしましょう」と言うかもしれませんが、まああんなのは、先生の勝手な都合です。もしかしたら、体育主任の先生も、そんなことを言いたくないかもしれません。でも、ゲームにするとなんとなく盛り上がる雰囲気があるので、それをするのが癖になっているのでしょう。

それから、ひっかかって記録数が多くならないことが、クラスの名誉失墜に当たるかどうか、ということですが、だれかの足がひっかかることがクラスの名誉失墜にはならないと思いますし、クラスの価値が低下する、ということもないと思います。足がひっかからないと「スゴイ」かどうか・・・。「すげえ!足がひっかからなかった!」と鼻たかだか、になる?
そうなる人もいるけど、そうじゃない人もいるでしょう。

さらに、その足をひっかけた子を責めると、その子が次回は足をひっかけなくなるかどうか。
責められて、逆に緊張して足を引っかけるかもしれません。どうするのでしょうか。
責められて気を付けようと思う子が50%いるかわりに、逆に緊張してひっかけてしまう子も50%いるだろうと思いますが、その件についてはどうするのでしょう。

だから、責めるかどうするか、というところに、戦略もなにもないわけで、まああまり賢い方法ではありません。男子が声を荒げて、

「てめえ、ひっかけんじゃねーよ!」

と言ったことがあったなら、それが目的を達成するための行為なのかどうか、クラスで会議をした方がいいでしょうねえ。

つまり、去年までの大縄跳びで、あなたは相当、つらい目にあったのでしょう。
そして、それがトラウマになっているようです。
だから、「大縄跳びの目的は何か」を考えればいいのではないでしょうか。

競争?知りません。
わたし、この頃、「競争」という意味が、よく分からなくなっているので・・・。

競争するから頑張れる?
競争しないと頑張れない?え、その意識じゃないと、ぜったいに頑張れない・・・?
それはまずい。だって社会に出たら、ぜんぶがぜんぶ、競争ばかりじゃないもの。

あー、わかった。大縄跳びの真の目的は、跳んだ瞬間に、空が近くなるんで、みんな青空に親近感が増す、ということではないでしょうか。

え?ちがう? じゃ、何なのでしょう? みんなで地球を揺らすため? それもちがう?
えーなんだろ・・・
あー、わかった。できるだけ天の神さまに近づくためってか。
ちがうわねー

そうそう。そうやって、目的を考えるのがいちばん大事。

バベルの塔

【子育て】もの申す子に育てる

学校で何を学ぶか。
世の中の多くの人はどう考えているのだろうか。
おそらく、今の世の中のことをしっかり学べるように、と考える人が多いのではないだろうか。

もしも、学校で重要視するものを、下記のように変革したとしたら何が起きるか。

今の世の中の仕組みを成り立たす人になるために学ぶ

  ↓

私がいちばん暮らしやすい世の中の仕組みはどうなのか、を思考・創造することを学ぶ


もし、このように変化したとしたら・・・

おそらく、起業家がたくさん出てきてしまうだろう。
そして、従来型の企業には就職しなくなるんじゃないだろうか。
あるいは、就職したとしても、従来やっていたことをただ繰り返すのではなく、どんどんと新しいアイデアを実行してしまうのではないだろうか。

企業としては、会社としては、どちらの人材を得たいか、ということになる。

「そりゃ、指示をしっかりと聞いて、その通りやれる人材が欲しいに決まっている」

と考える人は、今の世の中の仕組みをきちんと学ぶ学校 に入学すればよい。

しかし、

「新しいアイデアを思いついて実行できるように計画する人が欲しいだろう」

と考える人は、私がいちばん暮らしやすい世の中の仕組みを思考する学校 に入学するべきだ。

で、今の公立小学校はそのちょうど中間にいる。
例えば、図工の授業はずいぶんと変わってきた。
文科省の指導のもと、鑑賞の授業に力を入れ、ずいぶんと変革されたのがもう10年くらい前だ。
文科省は、「生きる力を本人が手にすること」を標榜して、鑑賞の授業をがらりと変えてしまった。

そのため、ゴッホとかピカソとかの名作の名前を覚える授業ではなく、
「自分がその絵を見て何を語ることができるか」を重視する授業に変えられてしまった。

つまりこれは、起業家を育成する方向である。

また、国語や社会も従来とは変わってきている。
歴史だって、こうなってこうなってこうなった、というあらすじをとらえるだけでない。
どうしてこういう現象が世の中に起きてきたと思うか、自分なりのとらえや発見を語れるようにする。だから、子どもたちは、授業になると書いたりしゃべったりが、忙しい。

覚える、というよりも、いかに自分の意見を持つか。

時代は変わり始めている。

文科省はこういう方向にずいぶん前にかじをきり、進めよう、進めよう、としている。
ところが一部、抵抗勢力がいる。
それが、親だ。

親は、自分の子どもに、

「従来の企業に就職しておとなしく首にならぬように長く勤められるように」

と考える。

だから、子どものテストの点数に目を光らせ、もう覚えたか?と聞く。


ところが、学校は、次のようなことを子どもに聞く。

きみは、どう思うの?なぜ?なるほどーふーん。
どうしてそう考えたの?その意見の参考にしたものはある?
どんな本を読んでそう考えたの?友達の意見で参考にしたことはある?
そう考えるとどんないいことがあるの?
そこから発展させてさらに考えたいことは?それは世の中のためになりそう?
世の中にはそれとは逆の考えもあるけど、反対意見についてはどう思う?

大学入試もそうだが、高校入試も面接の比重が高くなり、面接の時間が長くなり、作文や小論文の比重がどんどん高まっている。

意見が言える子の未来は、明るい。

大人だって、大臣だって、自分の意見をきちんと伝えるのが良い。
ロシアの怪僧ラスプーチンだって、トランプ大統領だって、サラリーマンだって教師だって、誰だって、自分の意見を言える世の中が正しい。
ラスプーチン

かくれんぼが苦手な子

幼稚園の先生と懇談する機会があった。
ある年配の先生が、

「かくれんぼ、今の子たちはやりたがらないですからね」

というセリフがあった。

話はいろんなふうにそこから変わっていったのですが、
わたしはそれが妙に気になりました。

だって、かくれんぼ、楽しいじゃないですか。
どうしてやらないんでしょうかね。

その先生が言うには、

「かくれても、すぐに出てきちゃうんですよ。隠れているのがいやというか、無視されているような気がしてしまうのではないかと思いますね」

とのこと。

なるほど。ほっとかれている感じがしてしまうのか。
無視されているんじゃないか、ということが気になると、もうすぐに「ここだよ」と出ちゃうらしい。

そして、もう一つは、鬼になった子も、ぜんぜん気乗りがしないそうである。

「鬼になった子も、ぜんぜん探そうとしないし、ただ突っ立っているだけで何もしない子もいます」

これは、いつも探し物をするとき、親が探してしまうか、もしかしたら「探し物」が悪いことのようになっていて、ものをどこかへやってしまって探すとなると、たぶん嫌な感じで、家じゅうの雰囲気が悪くなるような感じで、探すからかもしれない、と言っていた。

「つまり、探すのは人生のロス、という感じでしょうか」

そういうことを学習していれば、そりゃあ、他の子を探すのなんて、苦痛にしかならないよ。

その懇談の場では、その程度のことで終わったのですが、ね。
わたしは、どうもそこが腑に落ちずに、帰りの車の運転をしながらも、けっこう長い間、このことを考え続けました。

『探し物』にたとえ悪いイメージがあったとしても、かくれんぼがきらいになるかなあ。
だって、物がなくて困っていて、それで親に怒られながら探すのと、
こうやって仲の良い友達と隠れあって、お互いにそれを探し合うのとでは、まるで雰囲気も違うように思うんだけど。

鬼になって突っ立ったまま、何もしなかった子って、要するにルールがわかってなかっただけなんじゃないのかな。

・・・まあ、それでも気にはなるね。
だって、隠れている子を探そうね、といって、あっちかな?こっちかな、と探すんだよってことくらい、どんだけぼーっとした子だって、わかると思う。

幼稚園の先生は、こうも言っていた。
園庭でかくれんぼが苦手のようだから、園のプレイルームに跳び箱だとかいろいろと隠れる場所までつくってやっても、みんなそれほど熱をあげない、のらしい。

「要するに、見えないものを探す、ということは、昭和の世代ならファンタジーであり、冒険であり、発見の喜びをもたらす遊びだったのですが、令和時代のあたらしい人類にとっては、なにかを探すなんてことは、興味関心の湧かないことなんですかね」

・・・だって。

ただ、かったるい、というだけか?

ふりかえると、隠れる、ということは、かなりの知的な活動であったように思う。

わたしが小学校3~4年生にかけて、まる2年間かけて、毎日のように遊んだ「ポコペン」という遊びは、ジャンルとしてはかくれんぼの発展形であった。
そして、ものすごく高度な、狩猟感覚、逃亡感覚、跳躍、すり抜け、だまし、などのテクニックを磨かなければならなかった。なんとも野性味のあふれるスポーツであった。

狩るか、狩られるか。
仲間を信頼するのか、それとも裏切るのか。
本気で悔し泣きをし、仲間との意思疎通がうまくいったときは、とびあがって喜んだ。

現代っ子にとっては、そんな古典芸能は古臭いばかり。
デジタルで遊べばそんな苦労はしなくてもいいわけだ。
池田さんちのおばさんはうるさいから、台所の横を通り抜けるときには音を立ててはいけない。
しかし、基地に行くには池田さんちの台所の下の抜け道を通るのがもっとも速い。
だから、決定的な勝利をおさめるには、義経レベル、ひよどり越えレベルの精神力と胆力が必要であった。

池田のおばちゃんに怒られるか、それとも仲間の窮地を救うのか・・・。

まあ、本当に苦労したからなあ。
おかげで自分の足が遅いことはよく自覚できたし、足の速いSくんのことを尊敬できた。
あと3cm動けば、敵に見つかる、という、「自分のつま先が敵から見えているかどうか」の判断も、的確にできるようになった。

その辺の身体感覚のするどさを、今さら力説したとしても。
今のデジタル社会には、そんなの関係ないものね。
一人に一つ、アイパッドが配布される時代だもの。
かくれんぼなんて、そのうち、急速に、気が付いたら「昔の遊び」になっちゃってるだろうネ。

「なにそれ。その遊びのどこが、おもしろいんですか」

とか、令和生まれの子から、冷静に指摘されそう。
で、悲しいのは、それをうまく解説したり表現したりして、伝える言葉を、われわれがあまりもってなさそうなこと。昭和の言葉でそれを言っても、その言葉そのものが伝わらないだろうし、もはや「冒険」という言葉そのものが、デジタル庁の時代には、画面の中のことだろうし・・・。

asobi_kakurenbo

当てる力(ちから)の衰退

教室から「正解」が必要とされなくなってしばらく経ちます。
文科省が「生きる力」を重要視して、だいぶ変わってきたな、というのを感じています。

正解を当てましょう、という教室文化は、もう・・・消える寸前かな。
教室の中で、クイズ合戦のような雰囲気は、ほぼ無いです。

大人の方には、クイズが好きな人が多い。
だから、まだテレビ番組ではクイズが多いし、
「小学校5年生の問題が解けるかどうか」というのに芸能人が挑戦しています。
つまり、まだわたしを含めた40代以上には、ふだんから

「正解を当てようとする」という雰囲気

がかなり濃厚にあるのではないかな。
現状の小学校についても、たぶん、大人たちはそういったイメージを持っている。
ところが、現状の学校はだいぶちがいます。

教室で重要視されるのは、けっこう間違った意見です。
柔軟に考えられるかどうか、です。
だから、授業のふりかえりをすると、

「今日の授業で最初に出てきた〇〇の意見が良くて、だからみんな一生けん命に考えられた」
「わたしは途中で意見を変えたけど、意見を変える直前に〇〇という意見が出たのがきっかけだった」

というような感想が出るし、教師はそういうふりかえりに価値を認めます。

また、クラスのルールを決める際にも、「正解はないよね」というところからスタートします。
ルールも何度も変えられる。現状や意見に応じて。
このときに、「正解を当てる」という感覚は、・・・無いですね。
つまり、ルールにも正解はない、と子どもたちもわりとふつうにそう感じている、ということ。
子どもたちが気にしているのは、みんなが納得している度合いが深いかどうか、という感じかな。

あとは、将来の職業についての正解を当てる、という気分についてだけど、
これらは、もうほんとうに皆無かなぁ・・・。

昔は、おそらくそういう気分もあったのではないだろうか。
医師や弁護士、宇宙飛行士、プロ野球の選手、デザイナー、芸能人、という具合に。

今は、将来なりたいものアンケートをとっても、てんでバラバラで、取る意味がないです。
少し前に流行したユーチューバーも、子どもからしたら数ある選択肢のなかのほんの一つ。
べつに、流行でもなんでもない。
職業じゃなくて、「沖縄」と書いた子もいる。つまり、沖縄で暮らしていけるのであれば、どんな職業でも可、というわけ。あるいは起業をイメージしている?

すでに小学生の文化から、『正解を当てよう!』というのは、なくなってしまったようです。

でも漢字は正確に書けなくちゃダメよ!

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悪口を言いたくて言っているわけではない

教員をやっていて面白いのは、1年の経過だ。
担任になってしばらくすると、だんだんと変化が出てくる。
人を責める場面が減っていく。
このことだけでも、ものすごい変化だと感じる。

やっているのはかんたんなことで、

「〇〇してほしい」

を言えるようにする、というだけのことです。

実際に学級でみんなが生活していると、あれこれと課題・問題が持ち上がる。
これは当然のことで、給食当番のことやそうじのこと、日直の仕事、宿題のこと、
さまざまにみんなでやりくりをしているのだから、話し合うことが当然でてくる。

そのときに、やはり多いのは、相手を責める、ということです。
責めたくなるのは無理のないことで、小学生がみんなで生きていこうとしているのだから、当然だ。

これが大人どうしの話なら、相手の都合もよくわかるし共感もする、立場を理解しようとする心も働く。相手がこうしてほしいと思っているんだろう、ということも察して動く、という配慮もある。

ところが、子どもどうしですから、相手の求めることが分からないのです。
だから、基本的なコミュニケーションとして、ちゃんと伝える、ちゃんと聞く、ということが必要になる。

子どもはモデルを探しながら生きていますから、身近なモデルとしてたとえば友達や、夫婦の会話を参考にするかもしれない。
すると、

「なんで ~ しないんだ」

とか

「〇〇しなきゃだめだろう」

という言い方を、まずは参考にする、ということです。

だから、4月当初、教室はこういう言い方が蔓延している状態。


そこから、先に書いた「〇〇してほしい」という言い方をうながしていくと、
だんだんとその言い方で言えるようになってくる。

たとえば、
「なんでそうじしないんだ!お前、サボり魔だな!」
という言い方をする子がいた場合、いい直しをしてごらん、それじゃ伝わらんよ、とうながすと
「〇〇くんに、ほうきでここを掃いてほしい」
と言い直す。
それも、深呼吸して、相手の目をみて、大きめの声で、ゆっくりと言うようにうながす。

すると、呼吸が合うのか、目が合うのか、気持ちが合うのかわからないが、聴ける体になっている。
で、
「わかった」
といって、その子はほうきで掃くのですよ。

まるで魔法がかかったようです。
今まで、

「そうじさぼんなヨ!」
「なんでやらんのだ!」
「いつもさぼってんな、お前!」
「お前の机、きたねえな!」

などと言うことばが行き交っていた教室が、

「ここを掃いてほしいです」
「はい」

というように、変化していく。

不思議なことですが、〇〇してほしい、といえるようになるだけで、
あたかも 憑き物がとれるように 悪口が消えていくのです。
なんかが憑依していたのかな、というくらいに。

実はこれはかんたんなからくりで、
子どもは本当はこころのなかで、あれもしてほしい、これもしてほしい、というのを常に100くらい思っているのですね。
で、もっと言うと、大人も常時、100くらい、あれしてほしい、これしてほしい、と思っています。40代でも50代でも60代でも100歳でも、人間はつねに100くらい、そう思っている。

しかし、なぜかこの世の中はそれを言ってはいけない空気があり、それを言うと
「甘えるな!」
と叱られるのですよ。

だから、子どもはものすっごく、がまんしております。
(実は大人も我慢してる)

なので、それを開放してあげるだけで、人間心理は安定するのではあるまいか。

一番肝心な点は、

〇〇してほしい、と言うだけで、効果がある、という点です。

べつに、それがかなえられなくてもいいんです。
人間って不思議ですね。〇〇してほしいんだ、そうか、そうか、と相手に受けてもらうだけでいいんです。べつに事柄として、それをしてもらえなくても。

女子に嫌われていたやんちゃくんが、クラスのみんなの前で、〇〇してほしい!と叫べるようになると、変化が起きます。やんちゃくんが、徐々にクラスの味方になっていきます。みんなを助けるようになる。正義の味方になります。
不思議ですよ。まったく。

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夏休みに子どものことをふりかえってみる

夏休みに入りました。
子どもたちのことを思い出しています。

こんな姿があったなあ、あれはおもしろかったなあ、と
子どもの様子を思い浮かべて、家族に言わせるとぼうっとしています。

もっとこう言えばよかった、あれは理由はなんだったのかなあ、とか、
自分の反省もでてきます。

さて、1学期を振り返って、いちばんやっちゃダメなのは、急がせることやなあ、とあらためて。
ところがあれもこれも、それもどれも、みんなやれ、という状況がある。
その情勢に対して、どこまでうまくすりぬけていけるか、というサバイバルだ。

やらないでもいいものを、できるだけ精密に見分けて、やらないで済ませる、という知恵にかかっている。それができない教師は、自滅するだけだ。子どもたちは自尊心をなくし、疲れ果て、ただ地べたを這いまわっているだけ(這いまわり教育)になる。

押し寄せる通達、チラシ、イベント催しの知らせ、
△△教育、◇◇教育、☆☆教育、〇〇教育、をしろ、という圧迫感。
あれをせよ、これをせよ、というすべての圧迫から、子どもたちをどう守っていくか。

保障すべきは、「考える時間」だ。
ぼくたちはなんのために、なにを考え、なにを得たのか。
そして、また、なにが分からなくなり、できなくなったのか。
1つ進んだら、2つわからないことがでてきたことを、喜べる子どもに育てないと。

「ねえ、わかった?」

と聞いてしまう教師は、もう次の時代には不要となる。

わからないことを楽しみ、わからないことを生涯の楽しみに思える子に。
それを、「これがわかった、これがわかった、これがわかった・・・」で疲れ果てる子にはさせない。結局、なにもわかっていないのだから。

うまく伝えようと言葉を尽くしても、結局は本当に伝えたいことを伝えるなんて、とうていできない。なによりもそれを聴こうとする側の真摯な、素直な、そのとおりに受け止めようとする純粋な気持ちがなかったら、曲解、誤解の嵐だ。

ノートばかり見て、黒板ばかり見て、友達の顔をみない子にはさせない。
友達の表情を、飽きるほど眺めて、
「さっきの君の意見だけど、この点をもう少し聞かせてもらえないだろうか」
となるようなのがいいなあ。

45分では足りない、足りない、時間が足りない。
だからこそ、教員が「捨てる課題」を見いだす感性を身につけないといけない。
これからの教育が生き残っていくための、砦だと思う。

時間どろぼう
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雲(くも)をあやつる少年

.
2年生の校舎に行く、石廊下のとちゅうで、少年が立ってた。

わたしはバケツの水を運んでいたので、

「ごめんね~うしろ通るよ~」

と後ろを通ろうとしたら、その少年が乳歯の抜けた顔をにやつかせながら振り向いて、

「先生、雲が消えたよ!」

と空を指した。

「雲?」

見上げると、梅雨の合間の、さわやかな青が目にとびこんでくる。


さっき、あそこに雲があったんだよね。ぼくが消えろと言ったら、消えたよ。

男の子は、そういうようなことを言った。

まっすぐな目で、本当に消えたのだ、と。

(だれかの真似をしたのかな?)






「雲、消えろって言ったら、消えたの?」

ときいたら、

目をきらきらさせて、そうだ、とうなづく。

こんなとき、あなたはどう返しますか?




わたしは、ははーん、と不敵に笑いながら、自慢し返しました。

「ふーん、すごいじゃん。・・・先生は、虫をよべるよ」

とっさに、すぐにこう返せるあたり、なかなか教師としての力量とセンスが光ってます。自画自賛。(笑)



運よく、その子が食いついてきた。

「ええ?虫がよべるの?どうやって?」


私はその子がやっていたように、廊下の端に静かに立って、なにかを念じているような風(ふう)にした。

そして、薄目で足元を確認し、その後おもむろに、小さなするどい息をしながら、シュッと腕を振り下ろした。


こちらを見ている子の視線を感じる。
目が真ん丸になっている。


わたしは、足元にひざをついて、大きなギシギシの葉の裏を指さした。

アリ がいた。

静かに、告げてみる。

「ほら」

目を半開きにしたまま、厳粛な雰囲気でそう告げると、

その子は、鼻で笑って、

「ただのアリじゃん」

と言った。



わたしはちがう、と言って、葉の裏のルリハムシを指した。

青く、光っている。

「あああ!!虫だァ!」



「ほうら」



その子は、すでに尊敬のまなざしである。


わたしは、こんなことはなんでもない、というふうにバケツを手に取り、すたすた歩きだす。

雲使いの少年は、小走りに追いかけて来て、

「ねえ、いつでも呼べるのー?」

わたしはさあ、というように無言で歩く。

「え、カブトムシもよべるー?」

「呼べるよ」

「すげーーー」






教師ともなれば、こんなことはお茶の子さいさい、なのであります。

なにがって、奇妙なしぐさと目の前の事象とを関連づいているかのように話す詐術のこと。

その気になれば、わたしはカブトムシを呼ぶ人にもなれる。
スゴイよね。




遠足の前になると、きまって私は晴れ男だ、と言いふらします。

で、晴れたのは、前日に先生が必死になって念じたから、であり、
雨になっても、本当は台風と竜巻がくるところを、せめて暴風雨にならないように念じていたから、実はこれくらいで助かったのである、という。



子どもたちは、そんなものは嘘だ、と見破ります。

しかし、真剣な顔つきで、

「いや、嘘だと思うのは自由だが、世の中には摩訶不思議なことがあるのだ」

と、静かに告げます。



後日、世の中がそんなに単純にできているものではないことを学習します。

〇〇を飲んで楽になった、というCMを見せて、
なぜそう言えるのか、と激論します。

青汁を飲んだから、今朝のお通じがスムーズだったのかどうか。
これ、激論になりますよ。



結果、青汁のせいだ、と理由を一つに絞り込むことはできない、という結論になります。
みんなが納得した後、「先生が晴れ男ではない理由」、という文章を書かせると、クラス全員、きっちりと書きます。

すべて、その理由は、

世の中は単純な一本線でつながって出来ているのではない、ということ

のおおらかな説明になっています。

子どもたちが、世の中をなめない人材に育つために、必要な学習です。
青汁を飲んだらお通じが良くなることがあるかもしれないが、お通じが良くなった原因は青汁を飲んだからであるとは決められない、ときちんと理解できる子にするために、わたしは身を張って、教えるわけです。





さて、ここに一枚の写真があります。

これは、わたしが消した雲がうつっている貴重な写真です。

わたしが念じたので、山あいに雲ができ、さらに強く念じると消えました。

え? 信じられない?
 ↓

家の裏です2

【子どもはすでに十分に良い】とPDCAサイクル

PDCAサイクルをご存じだろうか。

PDCAとは、

Plan(計画)
Do(実行)
Check(評価)
Action(改善)
の頭文字を取ったもの。Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Action(改善)のサイクルを繰り返し行うことで、継続的な業務の改善を促す技法です。

「PDCAサイクル」という言い方もありますが、これはPDCAの最後のステップ、Action(改善)が終了したら、また最初のPlan(計画)に戻って循環させることを意味するもの。

これは文科省はもちろん、小学校の現場にも取り入れられています。
子どもたちも、教室に自分のPDCAシートを持っていて、生活の規則や授業中の態度などについて、自分なりのめあてを決め、それにそって実行計画をすすめ、一日の終わりや一週間の終わりに自己評価を行っています。

これははまる子にははまる。
おりこうな子ほど、計画達成率が高く、先生にもほめられます。
親にもほめられる。やることが明確化しているので、やりやすいのでしょう。

ところが、この工場の生産効率をあげるようなシステム思考が、どうも気に食わない子も出てきます。
興味の対象が学校生活、廊下歩行、給食のマナー、名札をつけること、授業の準備を行うこと、ノートに丁寧に書くこと、委員会の仕事を進めること、当番活動をまじめにやること、などには向かない子です。

学校でひたすらメダカを眺めていたい、という子にとっては、このシートへの記述と先生への報告が、いかに先生に褒められようとも、どこか面倒な毎日のお祈りのようなもので、早く終われ、としか思わない活動になってしまっています。

もしも、そのPDCAシートのPLANのところに、

「今日は自分が満足するまで、メダカを眺める」

と書き、先生が認めてくれたらちょっとは意味が出てくるかもしれないですが・・・。

ところが、そんなもの、PDCAサイクルを回さなくたって、ぜったいに実行するに決まっています。
ひたすらメダカを見たい子は、だれが何と言おうが、見るのです。緑の藻を動かして、たまごを見つけようとするにきまっています。そこにPLANなど、くそくらえ、というわけです。
おまけに、DO なんて促されなくてもやりますし、Checkにいたっては、

「いやあ、もうちょっと見たかった」

ということになるのは火を見るよりも明らかです。
また、最後のActionは、なにを改善せよ、というのでしょうか。
ひたすら心の満足を追ってメダカの卵を探し、ああ満足した、明日もやろうかな、というだけのことですから。もう改善しようのないほど、絶好調に決まっています。

どうやっても絶好調となるに決まっている子の活動に、「改善」という言葉ほど、ふさわしくない言葉はないでしょう。

そういえば、なぜ通産省の言葉が、しれーっと文科省の世界に入り込んでいるのでしょう?

もしくは、子どもというのは教育、というよりももっと「福祉」の世界でこそ生き生きと輝くことのほうが多いのですが、通産省と「福祉」というのはどう考えても相反している世界のような気が・・・(誤解があればすみません)。

PLAN
「メダカを自分の心が満足するまで見ることと、もしか気が変わったらそれをやめて違うことをする」
DO
「今日はメダカを見ようとしてちょっと見たが、友達に誘われたから結局ドッジをやった」
CHECK
「ドッジボールでも心の満足が得られた」
ACTION
「改善点はとくにないが、これからも学校生活をつづけていきたい」

↑ このことの意味が、わたしにもいつかわかる日がくるのだろうか。

PDCAkusokurae

胸に残る大好きなゾンビの残像

非常事態宣言を受け、学校は臨時休校中だ。
しかし、実際にはやむにやまれぬ家庭の事情から、自主的に登校する子どもたちがいて、全職員で対応している。

自主的な登校をする子たちは、わが校の場合、低学年を中心に数十人。
感染防止のため、2mの距離をとり、各自で自習する。弁当も無言で離れて食べることになっている。
私は5年生の担任だが、1年生のところへ行ったり、3年生のところへ行ったりと、日替わりでいろんな教室をまわっている。

自習することになっていても、そうはいっても低学年だから、しゃべりたくて仕方がない。
また、ドリルなんてすぐに飽きちゃうから、なにかにつけて話しかけてくる。

ある2年生の女の子は、わたしが教室に入ると、退屈で仕方がなかったらしく、指でピストルをつくって、

ばーん!

と撃ってきた。

わたしは、反射的に、
『撃たれて気絶するかどうか?』
迷った。

しかし、ここで倒れてしまっては子どもたちを監督することができなくなるため、死ぬわけにいかない。
そこで、とっさに自分は不死身だということにした。

ばーん、と撃ってきた弾が、わたしの鉄壁のボディに当たって

カキーン!

と跳ね返った、というふうに手真似をし、

「弾ははねかえりました!体が超合金(ちょうごうきん)でできているから!」

と説明をした。

すると、その子は「ふうん」という顔つきで、

「うちのパパは、ちゃんと死んでくれるのに」

とぶっそうなことをつぶやいた。
その少女の目は小魚の生きた形を描くようなふうによく動いて、わたしをじっと見、

「もう一回、撃つから、今度は死んでね」

とわたしに考える隙を与えず、すぐさまギャングのように片目をつぶって、二発目を撃ち込んできた。

バーーン!!

今度はもう言われるがまま、わたしは壁にもたれかかってガクッとしてみせる。

彼女は「よし、死んだかな」と改まった口調で言い、
「これで誰にも邪魔されずに仕事ができるわい。ハッハッハ」
と、不思議なセリフをつぶやいた。

わたしはこのあと、どうしたらよいのか、見当がつかない。
うす目をあけると、彼女はドリルをやりはじめている。
この教室には都合4人の子がいて、各自で課題に取り組んでいるのだが、ギャング少女の他には算数をやっているのが一人、もう一人は読書にふけっていて、最後の一人は漫画のイラストを書き写していた。

しばらくそのままでいたが、何も起きないので、わたしはすっと背筋を伸ばして立った。

すると、ギャングが怪しむようにこちらを見、

「あ、生き返った。ゾンビだ」

と断定するように言った。

わたしはすっかり気を取り直しており、自分が教師だったことを思い出したため、
「ゾンビではありません」
と、すげなく返すと、

「ふうん。家だとパパはゾンビになるんだけどな。で、追いかけてくるよ」
「へえ、追いかけてくるの」
「そう、こうやって・・・(手をぶらりと前へ出して)で、うちは逃げる」

彼女はそのことを思い出したのか、少し愉快そうな感じで

「さいごは、つかまって、お前もゾンビだーって言うよ」

わたしはお父さんが娘に撃たれてから、ゾンビになって追いかけるさまを想像してちょっと笑った。

「へえ。そうなんだ。で、ふたりともゾンビになったら」

わたしは気軽に尋ねた。

「こんどはふたりでお母さんを襲撃するの?」

すると彼女はかぶりを振り、

「ううん。ママはお仕事だから。今日は二人ともお仕事」

なるほど。だから学校へ来ている、というわけだ。
ははあ。べつに聞く気はなかったけどネ。
臨時休業中に登校してくる7歳の子の、家での一コマが、ちょっと垣間見えたようで。

最近、よくゾンビになってくれるお父さんも、今日はお仕事だったのだ。
そして、その子はつい、学校にいる、なーんて気分にはちょっとなれず、
パパのことを思い出しながら教室にいたんだナ。

で、何度も頭の中で、パパを撃ったときのことや、殺したときのこと、
パパがゾンビになって追いかけてきたときのことなんかを、
ずいぶんと頭の中で、愉快さを覚えながら、くりかえし、リフレインしていたのだろう。

時間になったために次の先生と交代するとき、別の男の先生が入ってきたけれど、その子はもうバーンとは撃たなかった。おそらく、わたしの登場したときがちょうど、パパの残像が脳内に再生されていて、気持ちも高まっていた最中だったんだろう。

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やんちゃくんがやさしくなる現象

やんちゃくんがやさしい、のですって。

やさしいクラスの女の子が、日記に

「Rくんって、本当はやさしいなあーと最近思います」

と書いてきた。
わたしは嬉しくて、

「そうでしょう!Rくん、やさしいよね!」

とコメントを書いた。

やんちゃくんがなぜ、年度末が近づいてくると、やさしくなるのか。
それは、だんだんと、自分にとっての、この空間の価値が、沁みてくるからじゃないかと思う。

友達と当たり前のように、冗談を言ったり、あだ名で呼びあって笑ったり、
勉強して意見を出し合ったり、床掃除の途中にぞうきんの手と手がぶつかったり、「お前の机、もうちょっとこっちだろ」とか言ったり、赤白帽子を友達のと間違えたり・・・・

それが、だんだんと終わっていくのを感じて、なんだかせつなくて、やさしくなるのではないか。

実は、やんちゃくんは、
人肌のぬくもりの、いとおしさ、可愛さ、やさしさを、
きちんと感じているのではないかと思うネ。

腹を立てる人ほど、その腹を立てていることの自分の姿を、
いっしょうけんめいに抱きしめているのだから。

やんちゃくんは、みんなの前で、心を吐き出した分、
みんなのことを心に入れよう、入れようとしていると感じる。

やんちゃくんのやさしさを、じわっと感じて、それを夕方、家にかえって
思い出して、日記に書いたその女の子も、そのやんちゃくんのやさしさを、
手のひらににぎったカイロのようにあたたかく感じていたのだ。

6年生なのに、女子が男子にやさしいです。
学校で一番迷惑をかけている男子に、一目置いているのがうちのクラスの女子たちです。

「わたしにはできない」

と、かつて、言っていたからね。

「あんなふうにみんなの前で、堂々と意見を言えるなんて、わたしには無理」

やんちゃくんは、授業参観だろうが、校長講話の最中だろうが、
自分の意見は堂々と言う。
だれにはばかることなく、だれに遠慮することもなく、
自分の心がそうだと思えば、

「そう思った!」

という。

それを、女子は、実はまぶしく見ている。

他の先生にいやになるほど怒られて、クラスのみんなでいやーな空気になっているときも、
ちゃんと上を向いて、悪びれず、堂々と、口を真一文字に結んでいるやんちゃくんを、
ときには迷惑に思いながらも、実は、「なるほど」と思って見ているのだ。

休み時間に走り回ったやんちゃくんは、教室へ帰ってきて、
暑い!と言って、すぐに窓を開ける。
女子が、すかさず、「寒い!」と言って、窓を閉めさせる。

「ちぇ」

と、口をとがらせて、やんちゃくんは廊下に出る。
そして、ベターっとなって、

「教室の中、暑すぎるわ」

という。
女子たちはそれを聞いて

「信じられん。ドア閉めて」

と言って、寒そうに身を寄せ合う。

「・・・あいつ、なんでこの寒いのに外に行けるんだろ」




やんちゃくんは、女子からは理解されない。
しかし、そんなやんちゃくんのことを、女子たちは非常に興味深げに観察している。

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わが子がモテるようになる秘訣

わが子が進級すると、親としてはいろいろと聞きたくなるものです。どんなクラス?先生はどんな人?友達はできた?

興味や関心を親が示してくれるので、子どもとしては、そういう会話は楽しいようですね。
きっと、次の日も学校から帰宅すると、さっそく報告してくれることでしょう!

おうちの方としては、この報告を、親が今やっていることの手をとめて、うなずきながら、笑いながら聞けたら最高ですよね。子どもはうれしくてならないと思います。
学校からの帰り道、子どもは「今日はこのことをお母さんに言おう」と、なんとなく思い浮かべるようになるかもしれません。

先生がほめてくれたことを子どもが言うことがありますネ。
「今日、わたしが帰りに窓を閉めたら、ありがとうって言ってくれたよ」「先生が、そうじが上手だねって言ってくれたよ」
大いに共感して聞いてあげますが、これはほんの序の口です。

一番、興味を持つのは、子どもが他の子の良さを口にしたときです。
「うちのクラスのTくんは、ぞうきんの絞り方がすごいんだよ。パワーがすごいから、かたーく絞れるんだよ」

「あ、そう」というだけで終わらせず、「今の話、もっと教えて」と、くわしく話してもらいます。
そして、
「みんな誰でも、自分がすごいっていうことを言いたがる人が多いけど、今の話は、友達がすごいっていう話だったよね。Tくんも、きっと嬉しいと思うし、そう思ってくれるあなたのことを好きになってくれるよね」


つまり、子どもがクラスの子と、気持ちの上でつながっていけるように考えるのです。親は、子どもの話をききながら、『人生の何に価値があるのか』を教えています。教えている自覚があるかないかは関係なく実際は教えている。子どもは親の関心そのものから学ぶのです。

常に、子どもが友だちとの関わりを深めていけるように、親友ができますように、と関わるようにしていくと、中学に入る頃、その恩恵が10倍になって戻ってきます。
小学校の6年間で、友達ができるようにと配慮してきた経験がすべて生きてくるので、思春期にある悩みや不安も、きっと仲の良い友達と本人とが励まし合って、勇気をもって解決していきます。
小学校で少々のトラブルがあっても大丈夫。それはすべて「必要な学習」です。

友達のよさを感じ取れる子に育っていれば、1週間のうちの1日がケンカで終わっても、結局は仲直りして、かえって絆を深めることになるのです。小学校で練習していれば、中学高校という難しい時期が、難しくなくなります。必要な学習を、事前にやっている、と考えたらよいのです。

そういう意味で、子どもは周囲の大人から学び続けています。
人間はいいものだ、と心の底で感じている親であるかどうかは大きなことなのです。

「嫌われるかもしれない」と恐れるのではなく、「より良くつながれるかもしれない」と思えるかどうか。人に対しての親の意識のあり様を自問することです。

子どもが、友達への誕生日プレゼントをつくっている現場を見たら、最高のものを見た、というような感動があるでしょう。誰かが喜んだり、助かったり、誰かの役に立つから自ら進んで動いた、という場面こそ、価値を見出しておきたいものです。大切なのは、そうやって動いたときにたとえ失敗しても責めないこと。

給食当番でなにかを運んでいるとき、クラスの仲間のためにしていることなのに、こぼしてしまうことがありますね。それを責められたらどうでしょう。「あら残念!こぼしちゃったね。片づけよう」だけでいいのです。「こぼしたけど、きれいに拭けたねえ」で笑顔になれますね。

(親向けのおたよりに載せたもの)

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韓国の悪口とアッポーペン

これはどこでインプットされたのかなあ、と不思議に思うことですネ。
韓国のことをどれだけ知っているのか、ほとんどなにも知らない小学6年生が、韓国の悪口を言っております。

おそらく、何の気なしに、というか、あまり意味なく、なにかそのフレーズを聞いたままに、そのまま口に出したのか、と思う。
もしかしたら何か考えがあるのかと思って聞いてみましたが、

「なんでそう思うの?」
「だって、そうなんでしょう?」

なるほど・・・。

・・・これは、マア、言葉は適当でないかもしれないが、「洗脳」されてる状態です。
マスコミからなのか、身近な大人からなのか、どこかで聞いた言葉フレーズが、そのまま脳内で再生され、口に出しているだけ。本人が、なにか深く考えているわけではない。お笑い芸人の発するギャグを、そのまま教室で言うのと同じ。

むかし、芸人さんの、リンゴにペンを指すパフォーマンスが受けたとき。
教室中のどの子も

「あっぽーぺん!」

と、日に何度も何度も口にする日々があったけど、あんな感じ。

テレビ番組でコメンテーターが韓国政府に怒って見せる。
その言動や雰囲気を察して、そのまま、見たまま聞いたままを、まねしている。
全国の小学生の中には、それをそのまま「そうなんだー」と理解し、大人の言っていることだし、やっていることだから、「おれもちょっとやってみっか」と思う子も、いるだろうと思われる。
むしろ、純粋で、大人の言うことをある程度信頼して聞こうとする子ほど、激しい大人の言動、直接的な気分を顕わにする言動を見て、
「ああ、よほど大きな出来事なのだなあ。俺もこの波に乗らねば」
と思うのかもしれない。

安直でわかりやすいので、マネしやすいのでしょう。アッポーペンよりもはるかに、今回の方が、マネをしやすい。アッポーペンは、気分的には玉虫色で、いわく説明しがたい感情の発露であろうと思います。それに比べりゃ、怒り、というパフォーマンスの方がわかりやすい。

古坂大魔王扮する「謎の千葉県出身シンガーソングライター」たるピコ太郎(ピコたろう)が、なにを思い、どんな経緯で、どんな前後の複雑怪奇な物語のはてに、あのセリフを言うようになったか。それを適切な語彙を用いて説明することのできる小学生は、ほとんどいません。

そう考えると、今回の「韓国の政府は馬鹿ばかりで許しがたく、罰せねばならない」というような『怒りの表現』は、うんとわかりやすい。要するに、この人、腹立ててっけど、なんだかいろいろと気にくわないんだろうナー、と子どもだって理解できます。

幼児期の子どもは、気に入った友達とだけ、遊び、つきあっておればよろしい。
だから、いやなやつは、「気に入らねえ」と声を高くして言えばよく、その後のことや周囲のことは一切気にしなくとも済んでしまう。韓国は嫌いだ!と叫べばいいだけなのだから、幼い小学生の子どもたちにとってみれば、すごくよく理解できることなのです。
逆に、おそらくピコ太郎がりんごにペンを刺さねばならなくなった原因や、そのリンゴをその後どうするかまで責任をとる姿を想像すると、ピコ太郎はずいぶんと複雑な背景を背負っている気の毒な大人であります。小学生にとってみると、「わかりにくい」存在といっていいでしょう。

だから、子どもたちは、アッポーペンを、たった1,2カ月で捨てました。
9月下旬にマスコミが、ジャスティン・ビーバーがツイートしたことを報じて話題になったのですが、実際につがるやふじなどのりんごがスーパーで売られるようになるころには、もうすでに飽きられていましたからネ。

「おれ、家でペン刺そうとしたら、姉貴が、PPAPは古いとかいうからやめた」

という会話を、実際にわたしは愛知県岡崎市の教室で聞いている。あれは、おそらく、1月にはなっていなかったろうナ、と思います。

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つまり、幼児は、複雑な背景のあるもの、人間の背景にある物語を理解するのを、面倒がるのでありましょう。ピコ太郎の物語を、背景を、理解し心情を汲みとろうとはしないのです。

幼児期は面倒な人間関係を避けて通れば済むが、おとなはそうはいきません。
気に入らないいやな奴とも何とか妥協点を見出して付き合っていかなければならない。そして、お互いに妥協点をさぐるうちに、相手は相手なりに背景を抱え、家庭や会社の事情の中で、もがきながら交渉していることが分かってくる、理解もできる、その過程でリスペクトも自然に湧いてくるものなのでしょう。

あいつが悪い!と悪者を定めて成敗し、追放すれば残りは全員天使のごとく浄化されているかどうか。この世を白と黒でたった2つに分けよう、という発想は、幼児のものでしょう。黒さえなくなれば、あとはみんな真っ白だと思い込めるのは、幼児だけです。自我の芽生えに満たない幼児は本当に、そう思い込みます。

これは、思春期以後、大人になるまでに自我が育ち、自己の姿を客観的にとらえることができるようになれば、問題は解決するでしょう。社会の中での自分、というものが、自分の内面のありのままの自発的な表現のもたらすものであり、自分が主体的な意志で動き、あらゆる自分の行動を自分が決定し、自分が責任をとるのだ、と実感できるようになれば、おのずと解決するハナシであります。

「あいつは悪者で、あいつさえいなければ浄化され、一切合切すべてが良くなる」と言いたくなる気持ちが消滅し、発生しなくなるからですネ。その理由は、「人間は根本が同じであって、自分を含めたすべての人が考えを変え、行動を変え、自己決定を変化させながら成長している」ということを知ったためでありましょう。

だから大人は、桃太郎で鬼ヶ島の鬼を退治してしまえば、あとは未来永劫、究極の善人だけの国が誕生し、未来永劫、善人だけの歴史がはじまるとは、思わないのです。鬼ヶ島から見れば、われわれ桃太郎の国もまた、かの国の言葉で「鬼ヶ島」と呼ばれていはしないか、ときちんと冷静に分析することもできるし、鬼と呼ばれたからといって、実は鬼ではない、ということが、容易に予想できるからですネ。そして、どの国ともWIN-WINの関係をつくり得ると考え、そういう未来を実現することだけが、目標になるからです。

意見のバランスを取ろうとする子

おもしろい子がいる。
わたしは担任ながら、彼のファンである。

なにがというと、彼はいつも、「反対意見」を言おうとするのである。
このことは、教師をやっていればだれしも思うだろうが、たいへんな幸運とよべる。

自分のクラスの意見がすぐにまとまり、なにも紛糾せずにいたら、どれだけツマラナイか。
あれ?うそ?え?と思わず目がテンになるほど、さまざまな意見が出てくるから面白いのであり、結論がなかなかでないことに価値がある。
また、その「結論までの過程の面倒くささ」に耐えられるような人格をつくりあげるのが、学校教育の使命でありましょう。

実際、少数意見がキラキラと輝いていなければ、この世は良くはならない。
その真理を子ども時代から体得せしめるために、学級ではつねに、「多数が力で押し切る」ことを否定していくのです。



そんな彼が、いちばん力を発揮するのが、授業です。

今の授業って、ほとんどが「覚える(講義型)」ではなく、「考える(思考型)」に重点が置かれています。
だから、国語でも算数でも理科でも社会でも、「〇〇は、△△だろうか?」というように、授業ごとにお題が出されます(学習問題とよばれるもの)。
そこで、彼が真価を発揮するのです。


社会の授業がはじまると、最初は大勢を見極めようとします。
たとえば、
「縄文時代と弥生時代とどちらが幸福か」
というお題。
意見はすぐに決まりかける。
弥生時代こそ、幸福だ。
定住・定量収穫で人口の増えた弥生時代こそ人類の幸福、という方に固まりかけると、やおら頭をもたげて勢いよく挙手し、

「ぼくは縄文派です。そもそも弥生時代は殺戮があった。米に頼って土地を私有化したから土地の奪い合いが起きた。縄文の暮らしは平和でした」

とまるで見てきたようなことを言う。
殺戮があったから不幸、という一点で心を掴もうとするNくんの作戦です。
女子は「またNくんは少数意見だよ」と迷惑顔。

頭の良い女子が軽くつぶしにきます。
「そんなこといっても人口は増えています。これこそ繁栄の証拠です」
やんやと喝采。ほぼ女子は全員が弥生派でした。

これはね。
教科書のイラスト!
このイラストに影響されちゃうの!

縄文時代の女性のイラストは厚ぼったい獣の皮をまとって、おまけに皮膚には刺青まである。
対して弥生時代の女性はどうか。なんと、顔つきまで美人に描かれ、布のワンピースをふんわりと着た女の子がおしゃれな髪飾りまでつけている。これを見た女子は全員、

「弥生時代こそ、幸福」

説を曲げません。

しかし、Nくんが少数意見を主張しているのを感じ取った男子は、徐々にそのNくんに感化されていきます。

ワンイシューというのは、請求感がありますね。
心をつかみます。だって、わかりやすいもん。
また、「闘っている」感じが、きちんと伝わってきます。
「〇〇こそが問題なのだ」
ワンテーマ、一点突破。
内容よりも、その雰囲気が大事なのかもしれません。

ふだんはめったに意見を出さないYくんが加勢。
彼は器用なタイプではないので、なにを言い出すのか味方のはずの男子までもがドキドキして見守ります。

「えっと、弥生時代は米が食えたけど、それだとずっとそこに住まなければいけないし、もし地震とか起きてなにかあったら、縄文時代はすぐに引越しできたけど、弥生時代はなかなか引っ越せないのではないかと思うから、縄文に一票」

男子が拍手。

頭の良い女子が、サッとつぶします。
「当時は大きな建物もないし、大地震があっても引っ越さなくてもいい。田んぼも作り直せば済む」

男子は沈黙。
こんなにあっけなくつぶされるとは。

Nくんが、方向修正をはかります。
やはり、複雑なのはダメ。ワンイシューこそ、万人に訴えかけるのです。

「殺しがあったから不幸です。吉野ヶ里遺跡はほとんど戦時中の城に見えるし、堀や柵にかこまれていたから安全、とはとても思えない。ぼくはそこに住みたいとは思えない。明日にでも戦争が起きそう。見張り台で丸一日、いや1年間ずっと、いや10年も20年も30年も、敵が攻めてくるのを見張りつづけるのは、すごくたいへんです」

これは女子の数人にも影響した。
女子が頭をくっつけて相談しはじめた。

Nくんは、身振り手振りをつけて、声の抑揚をすこしずつつけながら、だんだんと大胆になる。

「縄文の村を見てください。堀も柵も、なにも無い。何も怖くないから、柵がないのです。堀のない縄文の村の方が、安心して住める」

男子がすぐに加勢。
「そうです。安心がいい」
「敵がいないことがいちばん」
「縄文こそ、理想社会と思う・・・」

・・・

いつも社会は時間切れになる。
結論は、各個人がノートにまとめて提出。
女子も半数が縄文派に変わっていた。
Nくん、おそるべし、である。

教科書的には、時代は現代になるほど幸福になっていることになっている。遅れた野蛮な文明である縄文よりも、弥生の方が『進化』したはず、と。

なるほど、確かに戦闘力も上がり米の収入も増えて物欲も満たされた。
だから、幸福、ということになっている。人類が前の時代よりも退化するなんてことは、ない、からでありましょう。

縄文時代

切り替え、ということ

嫁様が保育施設で勤務し始めたため、いろんな考察をしている。

たとえば、朝、母親からさっと離れる子どもと、なかなか離れない子。
逆に、夕方、保育園へ母親が迎えに来た時、すぐに飛んでいくかどうか・・・。子どもの中には、何か玩具などで遊んでいて、すぐに帰る気分にならない子もいるようだ。

嫁様からすると、
「本当にいろんな子がいて、飽きない」
らしい。
そうでしょうねえ。
どの子もさまざま。これが子どもだとは、一概には言えない。


嫁様が観察するには、「よくあるのは、次の2つ」だ、という。
まずは、サッと親から離れて、夕方もサッと帰る子。
このタイプは、とても多い。

つぎに、お母ちゃんべったりで、朝はなかなかお母ちゃんと離れないから、保育園がきらいかというとそうではなく、帰宅する段になるといつまでも保育園に残りたいようで、お母ちゃんを玄関で待たせるタイプ。
だいたい、この2つのパターンが多いようだ。


一番、多いタイプ。
朝、保育園の玄関のところでお母さんとあいさつするやいなや、すぐにサッと自分の組の部屋に行ってしまって親を振り返らない。だからといって親との関係が希薄かというと、そうでもない。そういう子ほど帰る時は親を心待ちにしていて、親の姿を見つけるなりすぐにサッと帰るらしい。面白いねえ。

逆に朝、離れる時になかなか親から離れたくない子もいる。それは親が大好きで、離れたくないからだろう。しかし、そういう子ほど帰宅時にはサッと親のところへとんでいくかというと、そうではない。ぐずぐずと親を待たせる。これは、何なのだろう。興味が湧く。




小学校ではどうだろうか。

朝の登校時。
1年生だろうか。低学年の校舎の前で、ちらほら、子どもを直接送り届けに来ている母親がいる。昇降口で泣いている子。お母さんは時計を見ながら、なだめている。

担任の先生に聞いてみると、その子は帰宅する際、今度はなかなか教室から出ず、母親を待たせておいたうえで、先生とひとしきりしゃべったり遊んでから出るそうである。
だから、学校が嫌いだとか、先生に対して、とか、そういうことでもないらしい。


切り替え、ということなのか・・・?

切り替えのスムーズな子は、なにがその子をそうさせているのだろう。
逆に、切り替えのスムーズでない子は、いったい何がその子の心にあるのだろうか。
この話は、どちらが良いとかというのではない。
子育ての正解を決めたいわけでもない。

われわれ大人が、そこにどんなまなざしを向けるか、という話である。
どんな状態の子、どんな表現をする子でも、いい。
われわれは、一人ひとりちがう、その子の内面に生き生きと反応できる大人であろう、とすることだ。

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持ち帰りの技術

学期末に近づくと、子どもたちは荷物を持ち帰ります。

最終日、両肩に荷物を食いこませるようにし、両手両肩にすべてぶら下げて帰宅する猛者もいる。

「せんせ・・・くるしぃ・・・」

だ、だいじょうぶ?と聞くが、

「なんとか・・・帰ります・・・」

歯を食いしばって歩いていく。



これは、どうしてこういう事象が起きるのか、不思議ですが、子どもからすると

「まさか、休みがくるとは思わなかった」

ということらしい。(事前に忠告は何度も受けているのに、ですよ?)

永遠に、毎日のように自分の人生は繰り返されて行くのだ、という感覚になっていて、朝起きてご飯を食べたら靴を履いてランドセルをしょい、友だちと道を歩いて教室に入り、みんなとすごすのがつづく、と思っている子がいる。

もちろん、きちんと毎日のようにカレンダーを見て確認し、

「最終日まであと10日。よし、そろそろ絵の具は持って帰ろうかな」

と計算できる子もいる。

しかし、まさか、この学年が、この学級が、おわってしまうとはついぞ考えたことが無かった、という子もいるのである。

いよいよ終業式が終わり、教室も片付いて、通知表ももらって、

「春休みですね、みなさんさようなら」

となってから、ぼうっと立ち尽くす子もいるのである。
「まさか、こんな形で終わるとは」
「人生に、こんな区切りがあるとは思わなかった」
「この毎日が、俺の人生のすべてだったのに」
「ずっとこの日常が、毎日が、くりかえされていくと信じていたのに」

とまあ、こんな雰囲気の心情であるのだろう。(推測)


わたしは実際、

「え、本当に終わっちゃったの」

と、子どもがつぶやいたセリフを聞いたことがあります。


とてつもなく不安な顔をしたまま、その子はゆっくりとランドセルをしょい、
水彩画のセットを肩にかける。
そして反対側の肩から画板をさげ、その上から今度は体操着袋をあらためて背中に背負う。

そして左手に図工の木工作品や家庭科でつくった布の袋や裁縫道具などを入れた巨大な「作品袋」を持ち、右手に上履きやらぞうきんやら、しばらく学校に忘れていたジャンパー等を入れたこれも大きな袋をさげたところで

「先生、ぼうしを頭にのせてください」

と言う。

見た目はもう、特別に仕上げた雪だるまのような雰囲気。

さらに、そのまま、画板をあちこちの机の角にぶつけながら歩いて昇降口へ移動すると、お世話好きで心配そうに見ていたクラスの気の利く女子から、

「あ、Kくん、これ忘れてる」

と理科の観察バッグと地図帳の入った袋を渡されるが、もうなんとしてもどこにも持つことができず、女子にうしろからランドセルをあけてもらって、そのふたの部分で地図帳と観察バッグを無理やりにはさみこんでもらって、なんとか『ほうほうのてい』で下駄箱へ行き、泣きそうになりながら靴をさがしてもらってはかせてもらい、まるで遠くから見ると人ではなく荷物が移動しているかのような恰好で、帰宅するのである。

すべての子がこういうわけではないが、こういう子も、いるのである。

「まさか、この幸福な毎日に、突如として終わりがくるとは、にわかに信じがたい」

こういう子が、世の中には意外に多いことに、世間はやがて気が付くであろう。
大人はスケジュールで動くが、子どもは心の満足で動くので、大人と同じような動機では行動しないという場合もあるのである。

春がすぎ夏がきて、秋がきて、冬がきたからと言って、このクラスや先生、この人間関係に区切りをつける必要が、なぜあるのか?
もっともっと、このままで時間をすごしたい。

「大人の事情です。ごめんね」
としか、言えません。
そういう決まりで、そういうふうに社会をつくったから、ということです。

「まあ、社会ちゅうものは、いずれ人間にふさわしいように変えていけるから、ね」

これが、Kくんとの春の別れの言葉となりました。
よい春休みを!

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スキーウェアを持ってきた子の話し

.
ある女の子が、スキーウェアをもって学校へやってきた。
久しぶりに雪が積もったからです。
そして、ふだん仲の良い学友たちがスキーウェアを持ってきていないのを知り、
「えー、今日はみんなウェアを持ってくるかと思ったのに」
と言って残念がっている。

すると、ふだんはそれほど一緒にいることはないけど、同じクラスの女子1人が、声をかけてくれたのです。
「うちは大丈夫だから一緒に外に出よう」
防水性のジャンパーを着た子だったので、彼女もその気だったのかもしれません。
その2人は、まあ特別に仲が良い、というわけでもない間柄でしたが、ともかく2人で外に行こう、ということになったらしい。

わたしは最初の子が、いつも横に居る仲良しの子に向かって何度も、
「〇〇ちゃん、外に行こうよ~」
と言ってたこともあって、
内心、残念がっているのではないか、と思いながら、
表情をじっと見ておりました。

すると、ですね。
あまりふだん遊んだことのない相手と一緒になって、
なんだか、お互いに、いつもの調子が出ないのでしょう、
彼女の表情からは、まだ残念そうな雰囲気が、抜けきらないのです。

まあ、それでも誘ってくれた子と2人で、廊下から外に出て行きましたわ。
静かに、何かしゃべりながら。



さて、遊び時間が終わる頃、校庭の隅の方から、
2人が校舎の方へ、歩いて帰ってくるのを見つけました。
わたしは、
「どうかなー、楽しんだかなあ」
と思いながら、様子を見ていますと、
こっちへ歩いてきながら、二人とも大きな口を開いて、笑っています。

それはそれは、本当に幸福そうに見えました。

笑っているから、幸福、というわけではないけれど、
「うちら、一緒に遊べるやん」
という発見が、愉快なんだろうか。

うちの友達は、AさんとBさんとCさんで・・・、という思い。
ところが、Dさんもいた。
なんや、これまでの、「うちの友達は・・・」、というの、ただのキメツケじゃん。

ふだん、一緒にはなかなか行動しない2人が、ひょんなことから共にお散歩してみたら、意外なことに楽しくて、なんだかいい時間を過ごせた、ということ。

キメツケは外れた方が楽しいね。

yukigassen

個性、感覚、すべて異なるのが当然

子どもは、一人ひとり、異なる。
どうちがうかというと、かなり、ちがう。

なにせ、親がちがう。
親の個性があり、価値観がちがう。
親の本音もちがうし、社会的な立場も違う。
大人としての意見もちがい、好みも違い、世の中への姿勢が異なる。

つまり、環境がかなり異なる。
それに、子ども本人の元来の資質がちがえば、完全に一人ひとりが異なるわけだ。

給食の時だって、個性が現れる。

食べた後、ていねいに食べる子、たくさんこぼす子、さまざまだ。
こぼしたものをていねいにナフキンで包んで、ゴミ箱にはらいにいく子もいれば、そんなことはおかまいなく、床にパッパッとうでで払ってそのままの子もいる。

ある子は、ご飯の上から、持参したスポイト容器で、水をふりかける。
これは、親御さんの指示による。



ある年、担任になったばかりの4月に、保護者の方が来校された。
会って話してみると、何ごとかを憂うような表情を浮かべて、

「先生、うちの子に、こういうものを持たせますが、担任として許可していただけますか」

と、何かをハンドバッグから取り出し、心配そうにわたしの前に差し出した。
手に持っているものを見せていただくと、小さなスポイト容器である。

「実はこの中に水が入っています。この水をふりかけると、食品中の有害な添加物を無害にできますので、給食を食べる前に、子どもにふりかけさせるために持参しますが、良いですか」

わたしはドキドキしながら、

「どうぞどうぞ。もちろんかまいませんよ」

と言った。

お母様は安心したように笑みを浮かべると、もう一つ、相談事があるのですが、と再度、不安げな表情になった。

「うちの子がこういうものをふりかけているのを見ると、クラスの中には『あ、へんなことをしてる』というように、うちの子に向かってからかったり、はやし立てたりする子が出ないとも限らないので、そういうときには担任の先生にフォローしていただきたいのですが」

「なるほど」

わたしはうなずいて、

「そういうときには、きちんと対処して、つらい思いをさせないようにしましょう」

と請け合った。

お母様は安心した様子で立ち上がり、礼を言って帰られた。


子どもは、親から大きな影響を受けて育ちます。
間近にいる大人、それも自分を育ててくれている親の本音を敏感に察知します。
親の本音は一人ひとり異なるのですから、子どもの反応もそれにともないます。
したがって、だれひとり、同じ子はいないのです。

science_dropper_supoito

三橋美智也とフランク永井について

日記を読んでいたら、
「先生に質問です。カラオケの18番は何ですか」
とあった。

正直に「森進一」と答えたところ、次の日にその返信が書いてあり、

「ぼくのおじいさんは、三橋美智也が上手です。ぼくもちょっと歌っています」

とのこと。
いまどきの小学生は三橋美智也を歌うのだろうか。
その子とは、その後もカラオケの話題で何度かやりとりがあった。
カラオケ好きなおじいさまといっしょに、何度か家族でカラオケに行くことがあるそうだ。

「この間は、フランク永井を歌いました。先生は『おまえに』を知っていますか」

あまりにも渋い選択。なんだか話が通じるのが不思議だ。
相手は小学校5年生だ。フランク永井の歌のことで、こんなふうに会話が成立することが不思議なコトに思える。

「ぼくのお母さんは、道化師のソネットを歌いました」

ははあ、さだまさし。
お母さんにしては、ちょっと古いのではないだろうか。
おじいさんの趣味に、ちょっと合わせて歌っているのかな。

わたしはその時の日記に、

「そばにいてくれるだけでいい~♪」

という歌詞の言葉と共に、フランク永井の似顔絵を描いておいた。




家に帰ると、中学生の息子が洋楽を聞いていて、

「お父さん、シカゴって知ってる」

と聞いてくる。

わたしの世代はシカゴの第二の黄金期だったから、これまた説明のつかないような、とっぴな感覚に陥る。・・・息子と、シカゴの話ができるとは。



時代がこれだけ進み、綺羅星のごとくにすばらしい歌手たちが、いるのに。
魅力的なエンタテイナーたちが、お笑い芸人も落語家も、こぞって世の中に出てきているのに。
AKBも、エグザイルも、米津玄師だっているのに。
それにも関わらず、いまだに、三橋美智也、フランク永井、シカゴの話をしている。
わたしは、どう考えても説明の出来ないような、思いがけないような気持ちに包まれた。


時代が急に、以前にもどったような・・・
まるで水中をゆっくりと遊泳しているような不思議な浮遊感・・・




その夜、このことを嫁様に感慨深げに言ってみると、軽蔑したような目になって、

「ただ、向こうがこっちに、話題を合わせてくれているってことでしょ」



は、そうでした。
ただ単に、相手から、合わせてもらっていたのでした・・・。
人生はいつも、そんなことばっかりなんでしょうナ。

黄色のプラタナス

猫が毛だらけな理由

くたくたになって帰宅したとき、ふわふわの毛布にたおれるように横になることがある。
そうすると、そこにふわふわな毛布の触感を得て、なんとなく、心が軽くなる。

これはまったく理屈に合わないことだ。
脳内の思考や苦労ごとや心配がなくなったわけではないのにも関わらず、なぜだか心が軽くなるのだから。

なぜか理由ははっきりしないけれども、癒される。
これは、ホントにわけがわからないが、たしかに実感としてある。
実に、不思議なことだと思う。

幼い頃、父が勤務先から、小さなトロフィーを抱えて帰ってきたことがあった。
父はそのころ、なかなかの熾烈な業界で営業をしていた。その月はどうやら父の販売成績が良かったらしく、職場の大会で表彰されたらしい。
母はうんと喜んでいたが、なんだか子どもには分からない大人の事情もあったようだ。つまり、懐(ふところ)の具合が、多少なりともあたたまったのであろう。母は常には見せないほど嬉しそうにしていた。

母はトロフィーを小さな箪笥の上に飾り、幼い私たち兄弟に、

「これは本当に大切なものなんだから、触ってはいけません」

と教えた。

ピカピカと金色に光るトロフィーは、実際にはただのプラスチックであっただろうが、わたしたちはそれを本当の「金」で出来ているのだと思い込み、父親を
「実はすごい男なのではないか」
と危うく思い込ませるほどであった。

ところで、一度、わたしはそのトロフィーを触りたくて仕方がなくなって、親の留守中にひとつ年上の姉と共謀し、箪笥の上のガラスの扉を開けて、持ち上げてみたことがある。

そのときの、重さには、実際感動した。
本当に重かったのだ。
わたしは、その金のトロフィーを何度も持ち上げて、やはり姉とふたりで

「うちのおとうさんって、すごい人かも」

と、束の間の勘違いにひたることができたのである。

ところが、その化けの皮が剥がれるときがきた。
今度は3つ年上の、ちょっと利口な姉が、わたしたちに真実をばらしたのであった。

「あんなの、ただのプラスチックだよ」

わたしとすぐ上の姉は反論した。

「ほんものだよ。だってあんなに重いんだよ」

それを聞き、すでに中学生だった一番上の姉は鼻であしらうように笑い、そのトロフィーの底の蓋をはずしたのであった。

そこから出てきたのは、小さな、コンクリートのかけらのような四角い石で、その石を取り去ったトロフィーは、とんでもなく軽かったのでありました。

トロフィーが軽くなった途端、ものすごい勢いで、わたしたちの幻想はガラガラと崩れてしまった。トロフィーの価値が、またたくまに消え去った。

「えー・・・」

小さい方の姉とわたしは、二人であまりのことに驚き、愕然とした。



ふわふわの毛布と同じく、重たいトロフィーには「価値」を感じる。
これは、理屈ではなく、身体的なメッセージが心に大きく作用した、ということであろう。
人間の脳は、理で悟るというよりも、身体で感じるメッセージの方を、かなり重要なものとして把握するらしい。
だから、わたしたちは手にずっしりと感じ取った「重さ」に感動し、
ふわふわの毛布の「やわらかさ」にホッと安心を感じるのでしょう。
これは、人間が「理」よりも「感覚」で生きているってことの、証明になりますね。
(だから「感覚」ばかりで話をするし、それで混乱して不幸になっている)


心が本当に痛んだようなときは、周囲がおせっかいに発する理性の言葉なんかより、人肌の温もりの方がどれほど恋しいことか。

猫が毛だらけな理由も、そこにある。

理屈ではない。
毛だらけで、もふもふで、やわらかくて、あたたかくて、なでるとつやつやで、すべすべで、押すとやわらかい。

猫がどんなにナマケモノで役立たずであっても、うるさく鳴いても、お菓子の箱をふんづけて歩いても、許されてしまうのは、毛だらけだから、でありましょうナ。

教訓:子どもには、ふわふわの布団を用意すべし。

ねこ



自分に対する不足感

自信がない、自己肯定感が薄い、というけど、
自分に対する不足感のようなものかな。
その「不足」とは何か?

もともと、「不足」はない、はず。
赤ちゃんで生まれたとき、どんな顔つきだって、どんな泣き声だって、愛された。
「わあ、かわいい!」と祝福された。

いつから「不足」が始まったのか?

高学年になると、もうしっかりと、
「ぼくはどうせ」「わたしはどうせ」となっている。

他の子の成績に劣等感を感じ、
他の子の着ている服に嫉妬し、

他の子どうしが楽しそうにおしゃべりしていると、

「仲間外れにされた」

と思う。


この疎外感は、いったいなんなのか、と思うネ。
さびしさ、孤独感・・・


本当には、仲が好いわけではない。
本当には、自分が好きなわけではない。
本当には、・・・認めていない。
本当には、・・・大事にしてない。


どこか、自分を大事にしないで生きている、ということかネ。
子どもに、「自分を大事にするって。どういうこと?」と聞いてみたい。


「え?そんなこと、考えてる暇、ないよ」
「習い事行かないと」
「勉強しないと」
「成長しないと」

と言って、返事がもらえないかもネ。


すべての行事を、いったん止めにして、
すべての教師が、考え始めたらどうなるだろうか。

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恋多き少女たちの奮闘ぶり

小学生の男子というのは、なぜもこう、忘れ物が多いのでしょう。

「先生、わすれました」

と報告する顔に、悪びれる様子はまったくなく、本人もどうして無いのか、不思議そうな顔さえしている。

「なんでだろう。プリント、入ってないや」

入れてないからだろッ!



わたしは割り箸を大量に保有しており、なぜかそれが校内に知れ渡っている。
だから、別名、「割り箸先生」である。
実際、見たこともないような下級生が、給食の時間に教室にあらわれて、もじもじしながら

「あらませんせい・・・わりばしをわけてください」

と言うことがある。

なぜ、私が大量に割り箸を保有していることがバレたのだろうか。

クラスの気の利く女子が、

「あ、はいはい。割り箸、一人分ね!まいど!」

という調子で、

「先生!ひとつくださいね~」

ともらっていき、その坊主頭の少年に渡すと、彼はうれしそうにそれをもらって帰る。

女子はそれを見送ると、「先生、また一つ、割り箸が売れましたね」という。

なぜ、女子は、人に物を貸してあげることをうれしがるのだろうか。



クラスの女子は、クラスの男子に、いろいろと物を貸している。

消しゴム、折り紙、はさみ、のり、クーピー、クリップ、ふせん・・・

あれもこれも、まるで3歳児に対するお母さんのように、ものを渡している。

で、男子はそれを借りて、平気でいる。

わたしがあまりにも目に余る、と思い、

「こら男子!お礼を言わんか、お礼を!」

と言うと、

「あっ、ありがとう!」



わたしはクラスの女子を、全員、表彰してあげたくなる。

「こら男子!女子に世話になってるばかりじゃなくて、たまには恩返しをしなさい!」



クラスに一人、あまりにも目に余る子がいて、隣の女子がほとんど自分の持ち物をぜんぶ、貸してやっているのを見て、わたしはいつか、声をかけた。

「ねえ、隣のAくんに、物をたくさん貸してあげてるけど、たまには断ってもいいんだよ」

すると、その女子はめっそうもない、という表情になり、後ろの席の仲良しの女子と顔を見合わせて、

「いえ!貸したいから貸してるから、いいんです」

と言い切る。

その子がのちに、日記に解説してくれたところによると、

彼女が学校に持ってきているすべての文房具には、彼女の念がこもっているのだ、という。そして、隣の大好きな〇〇くんが、貸して、というときは、その日一番念をこめた物を貸すらしい。すると、彼と相思相愛になれるはずだ、という。
「先生、念のこめかたにも気を付けないといけません。好きになってくれないと呪ってやる、とかマイナスの念はいけません。わたしを好きになってくださいね、というくらいの、明るい念がいちばん効果的です」
と、わたしに対してなぜか指導する感じで、日記にアドバイスを書いてくる。

「なるほど。でも、先生は心配です。あなたの隣席のAくんは持ち物や、整理整頓に無頓着すぎます。あなたが生涯、彼の世話をしつづけるのは、無理だと思いますから、彼を成長させた方がいいです。だから、あまり餌を与えすぎない、というか、あまり貸さないで、たまには自分でもってこさせましょう」

するとまた次の日の日記に返事が書いてあり、

「そのアドバイスは相思相愛になってから聞きます。今は貸すのが大事です」



わたしは、Aくんのお母さんに、このことをいつ話そうか、と思案中である。

キューピッド

学校が資本主義的になりきれないわけ

掃除を一生懸命にしている姿を見ると、心がうたれる思いがする。

なんで、ここまでしてくれるんだろう。

どうしてこの子は、ここまで、きれいにしよう、と思ってくれているのだろう。

カメラは向けないけれども、わたしの心には、その姿がしばらくずーっと、写っているように思う。

ぞうきんを、自分の手のひらのサイズに合わせて、四角く折りたたんで、きちんと持っている。

そのぞうきんは、しっかりと絞ってある。

拭き方も、テーブルを四角く、きちんと拭いている。

これはどうやって身につくのだろうか。

1,2年生の頃から、おうちの方に教えてもらってきたのだろうか。

先生にも教えてもらってきたのだろう。

また、教えてもらってきたから身についた、という以上に、自分でそのやり方に納得している、ということも大きいだろう。

そのやり方が、テーブルをいちばん美しく、きれいに磨くことになる、そのすがすがしさ、さわやかさを、自分でも身をもって感じ取っているから、だろう。

ごはんの盛り付けも、バランスよく、みんなに等しく、美しくしよう、と心がけている気がする。

「しっかりふきんをしぼっているなあ」

「ごはんがおいしそうに盛り付けてあるなあ」

わたしはつぶやくだけ、だ。

人というのは、なんで働くのだろう。

子どもたちがクラスでそれぞれ、協力してなにかをしている姿をみるたびに、

給料は出ないのに、なんでここまで働けるのだろう、と思う。

学校は資本主義から、だいぶ離れている。

教室は、クラスは、どうしても、相手が見える。相手の気持ちまで、見える。

だから、ほっとけない、・・・ということ、なのだろうか?

ぞうきん

その子らしさを考える

.
今日は、久しぶりの休暇、という感じがした。
3学期の通知表を書き終わり、教室の荷物も大きなものを片付けて、
なかなかにさっぱりした。

午後、ちょっと遠出をして、山の方の温泉場へ行った。
湯につかりながら、4年生の1年間を振り返っていた。

お互いがお互いのことを真剣に考え合う、進路研究の授業。
友だちのことを知らなければ、友だちに気持ちが向かなければ、
相手のことを真剣に考え合っての「進路相談」など、できっこない。
仲良く、仲良く、仲良く・・・
道徳の授業を繰り返しながらの、下地づくり。


むろん、まだ4年生だから、職業の知識は少ない。
世の中にどのくらい、どんな職業があるかなどは、知らない。
しかし、むしろ知らないからこそ、「こんな感じのことをやってくれたら・・・」
という「職業以前のなにか」を、考えてくれる。

Kくんについて、星が好きだ、ということを材料にして、みんなであれこれ考えていた。
多くの子が、
「じゃあ、天文博士になったらいいよ」
「ロケットとか飛ばす人は」
「JAXAに行けばいい」
「星座の本を書けばいい」
など、思いつくままに言っていたら、ある女の子が、

「ねえ、Kくんは、なんで星のことにそんなに興味が出てきたの?」

と、初めて聞いた。

するとKくんは、ちょっとうれしそうな、ちょっと困ったような顔になって、

「うーんと、最初はプラネタリウムに行って、星座の話しを聞いたんだけど・・・」

と話をしだした。
みんな、ふんふん、と聞いている。

「神様がたくさん出て来て、すごく話しが面白いんだよ!ゼウスとか神話とかとつながってて、登場してくる神様がみんなすごく個性があるというか・・・」

そのへんまで聞いて、ちょっと話が変わってきた。

「へえ、そんなんだったら、お話とか、ストーリーをつくる仕事とか、あるんじゃないの」
「映画とかをつくる人!」

ちょっと面白い意見も飛び出して来た。

「そういえば、Kくんはハリーポッターの話もよくするでしょう。ああいう不思議なハナシが大好きなんだったら、ヨーロッパの人と関わるような仕事とか、ハリーポッターみたいな本を、日本語にする人とか、そんなのもいいじゃないの」

みんな、おー、と静かな声で同意する。

「Kくんは、たぶん、ヨーロッパが好き、なんだよ」
お調子者のUくんが、大声で叫ぶ。
「そーだ、Kくんはピザが大好物だもん!ピザ屋になれば!」
「お店の中に入ったら、星座が見られるピザ屋さんとか」
「夜はさ、Kくんがお店の中でさ、星座の話をすればいい」


次から次へと、あれやこれや、意見がどんどん噴き出してくる。
Kくんは、なかばあっけにとられながらも、うれしそうにそれを聞いている。


わたしは、話の結論がどうか、というよりも、
その場の空気がおもしろくてたまらない気持ちになる。
仲間だからこそ、の安心感に包まれて、みんなで空想しているのだ。
われらがKくんがなにかしら、人の役に立って、「みんなのために何かをしてくれている」状態を。

これを、35人分、全員でやりあったのだ。

そりゃ、時間はかかったですよ。
正直、国語の単元のいくつかは、猛烈に端折ったり、可能な限り短時間でやりました。

その分、この濃密な、進路を考え合う時間の、濃い事、濃い事。

「ひとと関わり合う将来のことを、ひとと関わりあって見つけようとする」

これが、キャリア教育だろうと思います。
決して、一人きりで考えることはない。
仲間の安心感の延長で、ひととの関わりを考えていくからこそ、
無限の広がりを実感できるし、明るく、希望をもって、進んでいけるのだろう。

だって、なんか、すてきなことができそうな気がしてくるもんネ。
みんなの話しを聞いているだけで・・・。

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子はまったく完成されていて、かつ未完のまま

.
2月になると、担任と子どもたちの距離感というのは
なんとも近くなっています。
わたしが気にするであろうことを、サッと感知して

「あ、先生、〇〇くんは校庭行ったー」

わたしはその声に、ぎょっとします。
あなたはエスパーか。

「先生、〇〇しといたよ」
「先生、数、かぞえたよ」
「先生、消しといた」
「先生、チョーク足りなくなってきたよ」

自分勝手に判断して、どんどんと自分たちの生活を成り立たせていきます。
たくましきこの子たちは、すでにこの世を満喫できているのです。

「先生、そり作ってきたぞ」

もっているのは、段ボールに家庭用のごみ袋をかぶせたもの。
手で持つためのビニールひもが、きちんと穴をあけてつけてありました。

「おお、すげえ。Rがもってきたので、みんなですべろう」
と誰かが言って、みんな校庭の坂に走っていきました。

この、一人ひとりが、勝手なことをやっている感じ。
なんともいえない幸福です。




ああでなければ、こうでなければ、と子どもに
いろいろ思う時は、彼らには何もかもが不足していて、
なんでもっとこうならないのか、と
責めたり叱ったり、鍛えて良くしなければという気持ちが湧いてくると思う。

ところが、朝の始業前、鼻歌をうたいながら教室に入ってくる彼らを見ていると、
そのしぐさは一つ一つ、すべて実にユニークさ、面白さで満ちている。

彼らは生きていて、はじけるその命の証を見ていると、
けっして人としてなんら不足するものは無い。

面白くて優しく、友だちが大好きで大切に思う子ばかりで、
目に見えるもの、そのへんにあるもの、世のすべての物を楽しがり、
新しいことを覚えようとし、できるようになろう、と伸びていこうとする。

どの人格もすばらしく、人として尊敬できる。
あなたが好きで、あなたとの関係に満足し、満ち足りて、まわりを幸せにする。

それがどうして、じつに不完全に見えることがあるのか、不思議になる。

彼らは未完である。
しかしまったく、完成されている。

B雪だるまを作成中

友だちに認めてもらうこと・・・

.
2分の1成人式に向けて、ちょっとずつ進めている。

1)自分ってどんな人間か、思うこと
2)赤ちゃんの頃、保育園の頃、4年生までの自分
  をふり返ってみる
  〇どんなことが楽しかったか
  〇できてうれしかったこと
  〇みんなにしてもらえてうれしかったこと
  〇やりたくなかったこと
3)自分自身が成長したと思うこと
4)クラス全体が成長したと思うこと
5)友だちを見ていて、成長したと思うこと
  ⇒ 友だちのカードにメッセージを書こう
6)自分自身が成長する上で、光や栄養になってくれたと思うこと
7)将来の自分
8)10年後の自分に手紙を書こう


上の流れで、5)をやっています。

先週は一人ひとりのカードを作成し、真ん中に写真を貼りつけました。
そこに、お互いへ向けてのメッセージを書きました。

「〇〇くん、近頃は席を立たなくなったし、おしゃべりもずいぶん減ったね」

と書いてもらった子が、その日は本当に真剣な目をして勉強してて・・・



やはり、友だちに認めてもらうのがいちばん嬉しいのではないかな。

人間と言うのは、

そこが、なにしろ、いちばんの栄養なのでは。


自分の好きな、自分が親しさを感じている相手から、

認めてもらうこと。

kids_gokko_asobi

不機嫌なときには他の人に嫉妬しやすくなる

.
「嫉妬」という感情を切り口に、自分を観察することができるのは古来から知られている。
かの有名な哲学者も、ルサンチマン、という言葉で、「嫉妬」に向き合っておりますナ。


さて、子どもは自分では、「嫉妬」なんてしたことない、という子もいる。
ところが、ちょっとした妬み、うらやましくて邪魔したくなる、などは
経験がある。
なぜか分からないが、イライラする、他の子の言動が気になる、
なぜか分からないが、あの子をちょっといじめたくなる、
なぜか、邪魔したくなる、
なぜか、あの子が笑顔だと、気になる。

つまり、うらやましい、ねたましい、ということ。


ただ、うらやましいなあ、というだけなら、陽的で自然、あっけらかん、としたもの。
でも、「なんだか邪魔したくなる」だと、それはちょっとネ。

そこで、自分の心の状態を観察しながら、
なんで自分がくるしくなるんだろうか、ということをいろいろと考えていく。

あの子が笑っていると、なんだか邪魔したくなる。

これも、自分がどういうときに、嫉妬するのかと考えていくと、
どうやら、自分が自分のことで満足していないとき、安心してない時に嫉妬するようだ。

クラスの色々な事例を集めて検討する。
(事例は、子どもたちに書かせるのが一番良い。匿名で事例として扱い、どの子も半分は自分のこととして、半分は友だちのこととして考えていくようにするのが配慮)

授業の最後に、

「では、友だちに嫉妬しているAくんに、自分だったら、どんな声がけしていけるかな」

と、これも書かせる。
道徳というのは、ある程度、自分と向き合う、ということだから、
やはり書かせるのがひとつの具体的な手立てとなる。

子どもたちは、Aくんに対して、

「自分が不安に思っていることをなくせるかどうか、考えたらいいよ」
とか
「相手の子がどんな状態だろうと、まずはAくんが自分自身の状態を良くしていこうとすることで、嫉妬は消えていくと思う」
とか、
あれこれと、アドバイスを始める。

この授業を、4月の1、2週目くらいまでにとりあえず、実践しました。

1年間、このことは子どもたちの常識となっています。
おかげで、わたしのクラスには、人間関係の複雑な問題は、生じていません。
(起きても、このことからときほぐしていきやすいし、時間がかかりません)

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花いちもんめは、天下分け目の戦い

.
花いちもんめをはじめたところ、すぐに悲鳴が。

見ると、Aくんたちが足で蹴りあっている。

すぐにストップし、いったいどうしたのか、と問う。

「だって、敵が蹴ってきたから!」



蹴らないでやろう、と確認して再度スタート。

今度はAくん、相手のじゃんけんの仕方に文句がある、と興奮している。

さらに、おれはもともと窓側のチームだったから、と言って
校庭側のチームに引き抜かれて自分の所属が変わったにもかかわらず、
「手をつなぐのがいやだ!」
と言い出した。

そこで、花いちもんめはストップ。



花いちもんめは、敵も味方もないでしょう、というと、
Aくん、「いや、ある!」と。

「だって先生、勝ってうれしい、とか、負けてくやしい!って言うじゃん!」

みんなを集めて、話した。


勝ってうれしい、とか、
負けてくやしい、とか、
言葉で言うんだけれど、そのすぐ直後に、
自分自身がすぐに敵味方の立場が入れ替わってしまう可能性があり、
うれしいとか、くやしいとか、そんなものは
すぐにどっかへ行っちゃう、というのが
この遊びの面白い意味なんじゃないかなあ。


まあ、そうだよね、と反応する子もいるかわり、
「ちがう!」
と言い張る子もいる。

わたしが
「え、でも、すぐに誰が味方か敵なのか、わからなくなっちゃうよね。
そこが、この遊びの、面白いところなんでしょう」
というと
「そんなことない!〇〇は敵!」
とゆずらない。

企画したメンバーが「先生、もう遊びをチェンジしよう」というので、
花いちもんめはもうやめにして、すっきりと次へ。

次は、花いちもんめよりも、さらに平和なはずの
「だるまさんがころんだ」である。

これなら、「勝つ」とか「負ける」なんて言葉もないから、
勝ち負けは本当に無いよね。


ところが、だるまさんがころんだをやりはじめたところ、
Aくんが、すぐに走ってきてタッチする。

「今の、ちゃんと名前を呼んだし、完全に動いていたでしょう」
というと、
「いや、ぜったいにセーフだった!俺の勝ち!」
と言う。

いちいち先生の出る幕でもないよな、と思いつつ、
鬼の子が困惑したように訴えるので、仕方なく私が、
「今のはアウト!」と裁く。

アウト、と言われて

「ちくしょう!」と叫ぶ形相がすごい。

「絶対に俺はつかまらんぞ!」



そのうちに、タイミングを見て、
企画メンバーがこんなはずじゃなかった、と言うように
「先生、これ、早めに終わりにして、ちがうことしよう」
とないしょでこそっと、耳打ちしてきた。


教室の席にもどり、まったくちがう絵を描くゲーム。
これはまったく勝負することではない。
なにが良い、悪い、というのも、無い。
ただ、交互に絵を描くだけ。

「おもしろい絵だねえ」

これは、平和裡に済んだ。




お楽しみ会が終わって、ちょこっと企画メンバーの反省会をすると、

「花いちもんめも、だるまさんがころんだも、男子とはもうやりたくない」

と女の子が言う。

「あんなに、勝負にこだわってやるもんじゃないから」



たしかに。
おっしゃる通りです。
しかし、男の子たちは、勝負だと思って、まさに武士の一分、自分の魂をかけて勝負をかけてきている。たとえ花いちもんめであっても、だるまさんがころんだ、であっても、
決して負けるわけに、いかない。それが男。

これを、男と女は違う、というひと言で済ませるのか、
どうなのか。


帰りの会が終わってから、なんとなく集まってきた企画メンバーと、
「だるまさんがころんだ」は、いったい勝負なのかどうなのか、という話になった。
みんな、口々に、
「あれは別に、勝ち負けは無いでしょう」
「あれの面白さは、ぴたっと止まるところなんじゃないの」
「そうそう、つい動いちゃうから、あ~、ざんねん!ってなる」
「みんなでじっと固まっているのが、面白いよね」
「急に振り向いたり、わざとゆっくり言ったりするでしょう。あれが笑っちゃうから」
「なかにはさ、変な恰好で、なんとかぎりぎり止まっている人いるじゃん。あれがいいよね」
「あんなのさ、いくら負けたって平気じゃん。どうせすぐに鬼も変わるんだし」

わたしはつぶやいた。

「きみたち、ぜんぜん、分かっとらんな。あれは、男と男の壮絶な勝負なんやで」

女子はあきれ顔である。
なんでそんなにこだわるかなあという顔をしている。

いや、Aくんにとっては、あれが、一世一代の大勝負なんや。
息を殺し、忍び寄る!
敵に気付かれないように、徹底的にカムフラージュする。
まさに、騙し、騙される、生きるか死ぬかの壮絶な駆け引きだ。
「だるまさんがころんだ」と言って、相手が視界をずらし、死角が生まれたその瞬間!
まさに獲物をねらうピューマのように、密林の王者ジャガーのように、
敵の油断をすかさずつき、背後から強烈なタッチで、
ズドン、と敵を討ち、すかさず逃げる!
命からがら、われ、奇襲に成功セリ!というわけだ。
彼の心には、「トラ、トラ、トラ」の暗号音が鳴り響いている・・・、ちゅうわけやなぁ。

Aくんにとっては、たとえ平和そうに見える「だるまさんがころんだ」も、そのへんの女(おんな)子どもの遊びとは、わけがちゃうんやで!


わたしが、そう喝破した結果、二度と、

・花いちもんめ
・だるまさんがころんだ

は、このクラスでは開催されないことになりました。





女子があきれたように、

「先生、ほんっっっとーに、・・・勝ち負けのないゲームってないの?」

と問うたので、わたしは遠くを見つめながら、

「ないのやろうなあ・・・。男はいつだって、勝負の世界だもの・・・」




男はいつだって、酔いしれたいのだ。
自分の強さに、おのれのたくましさに。

そして、それを認めてもらいたい。
ほめてもらいたい。
もっというと、感謝してもらいたいのだ。

Aくんは、みんなから感謝されることを期待していると思う。
それに、実際に、いろいろとやってくれている。
Aくんに感謝することを、クラスのみんなから集めたら、きっと膨大な数の事例が集まることだろう。

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なぜ、景品をもらえないと、イヤになるのか

.
景品がもらえないと、くやしくて泣きたくなる。
人生は、勝つか負けるか。
いかなる勝負でも、負けたくはない。


たぶん、そういう考えの子も、けっこう多いのだろうと思う。

そう思っている子の場合、
勝負に勝てば景品がもらえるが、負けたらもらえない、というのは
かなり、インパクトのある『勝負』ということになるのだろう。

負けてもらえないと、泣きたくなるほどに口惜しくてたまらない。

今のまま、景品を続行すれば、またもや阿鼻叫喚、
泣く子はやはり、泣くだろう。


しかし!
景品そのものを無くすのは、惜しい!


なぜなら、景品をつくった子たちの気持ちもあるし、
もらえてうれしい、ということもある。
みんなで喜び合う、ということを、やめるなんて、ケチくさい。


で、どうするか・・・。


係りの子たちと、まるっと1週間ほど、悩みに悩んだ。
そして、その結果、

◎景品は続行
◎できるだけ、「勝負をつけない」ゲームをする

ということにした。


一方で、「勝負をつけないゲーム」って、なんだ?
また、「勝負」をしても、べつにいいじゃん。とも思う。

子どもは勝ち負けのはっきりしたゲームが好きである。
しかし、大切なのは、いったんゲームが終了したら、
きれいさっぱり、こだわらないことである。
負けるチームがあるから勝つチームがあることも教えたい。
負けることを経験することで,児童もたくましくなるのである。

また、勝つ、とか、負ける、とかいうことが、
その人自身の価値とはなんら関係なく、
勝ったからエライ、というわけでもないし、
負けたからその人の価値が下がる、というわけでもない。
人間そのものは、「カチ」ではかられるものではない。
どの人間にも、人間であるということの尊厳が存在する。
どの人間も、ユニークであり、オリジナルである。



そう思うと、あえて「勝負」という枠から出よう、というのも、どうか、と考えた。
勝負を避けよう、という意識になりすぎるのも、なんか妙な感じが残る。


そこで、

「いったい、勝負のつかないゲームってどんなの?」

と尋ねてみた。
もしかすると、プロジェクトアドベンチャー的なものか?



すると、子どもはいたって、ふつうに、

「えっと、花いちもんめ、と、だるまさんがころんだ、です」

と言った。



なるほど!!

花いちもんめ



だるまさんがころんだ

なら、ふつうやんけ!



わたしは、それを許可しました。
あえて、勝負を避ける、という感じも無いし。


そして、いよいよ、2回目の「お楽しみ会」の日がやってきました。
みんな、なんとなくうきうきしています。
なぜなら、今日はぜったいに、阿鼻叫喚にはならないから。
ぜったいに、笑顔で終われるはず、だから・・・。

ところが・・・
まさかの展開に!!!


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(つづく)

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