ある子に向けて、他の何人かの子から、うざい、うざい、のコールが起きたそうである。
担任の先生が鬼のように怒って鎮め、放課後、親に電話していた。
電話が終わってからも、その「うざい、うざい」のコールを始めた首謀者と思われる児童のことを、ああだこうだと小一時間、職員室で話していた。
おそらく、保護者もびっくりするだろう。
わが子が友達に「うざい」と言っているのだとしたら。
また、わが子が「うざい」と言われているのだとしたら。
尋常なことではない、いじめだ、なんとかしなければ、と思うのがほぼすべての親だろうし、わたしもそう思う。
ところが、ぼんやりと考えていると、ちょっとちがう視点で思うこともある。
それは、大人と子どもとでは、
「うざい」や「キモイ」、もしくは「死ね」の意味がちがうのではないか、ということだ。
これはかなり繊細な話になるから、なかなかこれまでここ(ブログ)には書いてこなかった。
そうはいっても、許せない言葉だからだ。
たしかに、これらは許される言葉ではない。
しかし、ちょっと事件とは離れて、それはいったいどういうことなんだろうか、とできるかぎり客観的にこれをみてみたい。
ふつう、大人は、だれかに向かって「うざい」「きもい」「死ね」とは言わない。
あからさまに相手を傷つけることが自明だからだ。
暴言だし、人権の冒涜だし、犯罪でもある。
いっぽう、子どもはけっこう、口に出してしまう。
これは日本中の教室を調べたら、かなりの数になると思う。
正直に先生たちが、日本中の小学校で、子どもが「うざい」「きもい」と口にした数をカウントしたら、膨大な数になってしまうだろうと思う。おそらく間違いない。
なぜ、大人は言わず、子どもは言うのだろうか。
これは、もしかしたら、子どもは学習中だからではあるまいか。
大人は、その言葉の冷たさ冷酷さ非道さを、学習したために使わないのではないだろうか。
子どもはそういう言葉を使うことによって、ある壁にぶつかる。
人との関係がこじれる。
子どもはそこから学ぶ。
大人になるにしたがって、自分の口から出てくる言葉の伝わり方を、ふさわしさを、やさしさを、思いやりの乗せ方を、学んでいくのだろう。
「うざい」と言う子は、叱ればいい。
これは、半分正解で、半分は不正解だ。
大人はそれをキャッチしたら叱るべきだろう。たたかうべきだろう。その言葉の冷たさと。
しかし、叱ったら使わなくなるかというと、そうでもない。
ここが、半分不正解の部分だ。
これは、子どもが自分で傷ついて、学ばなければならない部分が多少、あるのだ。
相手を傷つけ、自分も傷ついて、そうやってこそ学べる世界が。
大人は、そんなことをさせたくない。
だから道徳の授業なんかで、「ふわふわ言葉」とか「ちくちく言葉」などと教える。
教えるのはいい。でも、それですべての小学生が使わなくなるなんて考えない方がイイ。
実際、そんな程度のことで「うざい」がなくなるわけがない。なぜか。
子どもが自分でやってみないといけない部分があり、そうでないと
本当には分からない
からである。
小さな失敗を、重ねて、大人になるのが子どもである。
それを
許さない!
と叱れば解決、すべての悪口現象が無くなる、というものでは、残念ながら無い。
子どもの本分は、間違いながら、改めながら、育つ、ということだ。
それをわかって、まるごと受け止めていることが、教育のスタートなのだと考える。
そして、その方が、かえって子どもを追い詰めないし、実はまっすぐ子を育てることになっているかもしれない。
品行方正な子どもに尋ねて
「なんでうざいって言わないの?」
ときいたら、理由が
「大人がそうしろと言っていたから」
では、残念でしょう?
そう指導されたから、そうする、というのでは、おかしなことになるのですから。

担任の先生が鬼のように怒って鎮め、放課後、親に電話していた。
電話が終わってからも、その「うざい、うざい」のコールを始めた首謀者と思われる児童のことを、ああだこうだと小一時間、職員室で話していた。
おそらく、保護者もびっくりするだろう。
わが子が友達に「うざい」と言っているのだとしたら。
また、わが子が「うざい」と言われているのだとしたら。
尋常なことではない、いじめだ、なんとかしなければ、と思うのがほぼすべての親だろうし、わたしもそう思う。
ところが、ぼんやりと考えていると、ちょっとちがう視点で思うこともある。
それは、大人と子どもとでは、
「うざい」や「キモイ」、もしくは「死ね」の意味がちがうのではないか、ということだ。
これはかなり繊細な話になるから、なかなかこれまでここ(ブログ)には書いてこなかった。
そうはいっても、許せない言葉だからだ。
たしかに、これらは許される言葉ではない。
しかし、ちょっと事件とは離れて、それはいったいどういうことなんだろうか、とできるかぎり客観的にこれをみてみたい。
ふつう、大人は、だれかに向かって「うざい」「きもい」「死ね」とは言わない。
あからさまに相手を傷つけることが自明だからだ。
暴言だし、人権の冒涜だし、犯罪でもある。
いっぽう、子どもはけっこう、口に出してしまう。
これは日本中の教室を調べたら、かなりの数になると思う。
正直に先生たちが、日本中の小学校で、子どもが「うざい」「きもい」と口にした数をカウントしたら、膨大な数になってしまうだろうと思う。おそらく間違いない。
なぜ、大人は言わず、子どもは言うのだろうか。
これは、もしかしたら、子どもは学習中だからではあるまいか。
大人は、その言葉の冷たさ冷酷さ非道さを、学習したために使わないのではないだろうか。
子どもはそういう言葉を使うことによって、ある壁にぶつかる。
人との関係がこじれる。
子どもはそこから学ぶ。
大人になるにしたがって、自分の口から出てくる言葉の伝わり方を、ふさわしさを、やさしさを、思いやりの乗せ方を、学んでいくのだろう。
「うざい」と言う子は、叱ればいい。
これは、半分正解で、半分は不正解だ。
大人はそれをキャッチしたら叱るべきだろう。たたかうべきだろう。その言葉の冷たさと。
しかし、叱ったら使わなくなるかというと、そうでもない。
ここが、半分不正解の部分だ。
これは、子どもが自分で傷ついて、学ばなければならない部分が多少、あるのだ。
相手を傷つけ、自分も傷ついて、そうやってこそ学べる世界が。
大人は、そんなことをさせたくない。
だから道徳の授業なんかで、「ふわふわ言葉」とか「ちくちく言葉」などと教える。
教えるのはいい。でも、それですべての小学生が使わなくなるなんて考えない方がイイ。
実際、そんな程度のことで「うざい」がなくなるわけがない。なぜか。
子どもが自分でやってみないといけない部分があり、そうでないと
本当には分からない
からである。
小さな失敗を、重ねて、大人になるのが子どもである。
それを
許さない!
と叱れば解決、すべての悪口現象が無くなる、というものでは、残念ながら無い。
子どもの本分は、間違いながら、改めながら、育つ、ということだ。
それをわかって、まるごと受け止めていることが、教育のスタートなのだと考える。
そして、その方が、かえって子どもを追い詰めないし、実はまっすぐ子を育てることになっているかもしれない。
品行方正な子どもに尋ねて
「なんでうざいって言わないの?」
ときいたら、理由が
「大人がそうしろと言っていたから」
では、残念でしょう?
そう指導されたから、そうする、というのでは、おかしなことになるのですから。
