30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

教育技術・授業あれこれ

「たくろう」本当は喋りたくない

M1で優勝した「たくろう」。
あれ以来、各局で引っ張りだこだ。

テレビで漫才を見ながら、ふと思った。
彼らは、
『本当は喋りたくない』という漫才をしてるのではないか。

話題を設定する側のきむらバンドさん。
対する赤木さんは、基本的に「ノーガード」に思える。
きむらバンドさんの振ってくる話題やワードを、慌てながらも必死になって受けて反応する。
観客はその必死さと、とっさにでてくるとっぴでウィットに富んだ返しに笑う。

私が気になったのは、赤木さんだ。
赤木さんは、何かを言いたくて、この場に出てきたのではない。
何故かわからないが、連れてこられたという感じがする。相方から言われるがまま、とりあえず来てみましたけど、という雰囲気がある。
赤木さんは、本来なら、何も話す事は無い、と言う立ち位置だ。

しかし、私たちは、赤木さんの立ち振る舞いに妙に惹きつけられてしまう。
今年のM-1は、この赤木さんが、
「すべて持って行った」
と最高の評価を得ている。

なぜ、私たちは、ここまで赤木イズムに魅力を感じるのだろうか?

ここで私が思い出すのは、竹内敏晴さんだ。

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竹内敏晴(たけうち としはる、1925年 - 2009年)さんは、日本の演出家であり、「竹内レッスン」と呼ばれる独自の身体表現・コミュニケーション論を確立した、戦後演劇界の非常に重要な人物です。

彼は「啞(あ)者は最も雄弁に語る」という言葉を残しました。彼の思想の核である「からだ」と「言葉」の関わりを象徴しています。
竹内さんの思想を紐解くと、なぜ赤木さんの姿に私たちが強く惹きつけられるのか、その理由がさらに鮮明に見えてきます。

竹内さんは、プロの役者から、重度の障害を持つ方、不登校の子どもまで、幅広い人々を対象に「レッスン」を行いました。
彼が求めたのは、あらかじめ用意された「上手な演技」ではなく、その人の「からだ」が今、この瞬間に何を感じ、どう反応しているかという生々しい事実でした。

「たくろう」の赤木さんには、「笑わせてやるぞ」というのを一切感じないでしょう?
普通の漫才は、ボケが能動的にボケて、ツッコミがそれを正します。しかし赤木さんの場合、きむらバンドさんの言葉に対して「反応せざるを得なくなって、変な出力が出てしまった」というだけです。

役者が「自分を良く見せよう」と力んでいる間は、その人の本当の姿は見えてこない。その力が抜け、途方に暮れ、ただ立ち尽くしたときに初めて、その人の「存在」が立ち上がる。

竹内さんが「啞者は最も雄弁だ」と言った背景には、彼自身が少年時代に難聴を患い、一時的に言葉を失いかけたという原体験があります。

• 言葉を操れない人は、その分、全身で他者と触れ合おうとし、からだ全体で何かを訴えかけます。
• それは、記号化された「論理的な言葉」よりもはるかに、相手の心の深層に届く「震え」のようなメッセージになります。
• 赤木さんが、言葉が詰まったり、視線を泳がせたりする時、私たちは彼が発する「言葉の内容」ではなく、彼が「そこに必死でいようとするエネルギー」そのものを受け取っているのです。

竹内さんは、コミュニケーションを「情報の伝達」ではなく、「からだ」と「からだ」が出会い、響き合うことだと定義しました。

• 赤木さんの漫才において、相方のきむらバンドさんは、いわば「世界(あるいは社会)」の象徴です。
• 赤木さんがきむらさんに合わせようとして失敗し、戸惑う姿。その「不全感」こそが、観客という「他者」と最も深く共鳴するポイントになっています。

竹内さんの視点で赤木さんを見ると、彼は「舞台上で最も無防備で、最も誠実な存在」と言えるかもしれません。

「何かを表現しようとするのではなく、そこにいることの困難に耐えている姿が、結果として最も強く他者の心を打つ」

小学校の教室にも、赤木さんのようなタイプの子はたくさんいます。うまく言えなくても、うまく伝えられなくても、それでも必死になって自分のあり様を考え、困惑しながら言葉をつむごうとする。
クラスの子たちは、この姿から学ぶことが多いです。上手にスラスラ、だけが、お手本というわけでは、決してないのです。


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それをすると、どうなるか、という指導法

それをするとどうなるのかを考えられること。
子どもがつける力のうち、1丁目1番地がこの力です。

様々な子どもがいます。
あらゆる状況環境に置かれている子どもたちです。必要な支援の行き届かない子どもたちもたくさんいます。すべての子に行き届く支援が必要なんです。全員に、つけてあげたい力です。

例えば。
ここにものを置いたらどうなるのか。
床の上にものを置いたら、35人もいる教室で、誰かが間違って踏んじゃうのではないかと考えられるということ。
机の端っこにギリギリで牛乳瓶を置けば、何かの拍子にそれが落ちるかもしれないと考えられること。

こういう事は、人生のあらゆる所作の積み重ねで学習していくことです。
ところが、そこでの学習が行われない限り、何度も同じ失敗を繰り返すことになりがちです。

実際に、学級には、1週間に1回は牛乳をこぼす子もいます。

友達の耳元で大きな声を出して、友達がびっくりした顔をするのが大好きな子もいます。もうやめてとお願いをされているにもかかわらず、面白いからとそれを何度もやろうとする子。

自分の筆箱を床に置いて、誰かが踏んづけたら、その踏んづけた子を徹底的に責めようとする子。

これを見逃す教師はいないと思います。

たいていは、どうして床の上に筆箱を置いたのかを責める口調になり、それを延々と指導しますね。
ところが、何度も繰り返すんです。
これで、先生たちは疲弊する。

だからそのような指導はしません。
牛乳瓶を1週間に1度はこぼしてしまう子、机の端っこに置いたらだめだよと指導してもそれは繰り返される。つまりこの指導はポイントを外しているわけ。

友達の耳元で大きな声を出したらダメだよ。友達が困っているよ、と伝えてもそれを繰り返してしまう子。
耳元で、大きな声を出すのはダメ!絶対!禁止!
と、何度伝えてもそれを繰り返す。
つまり、この指導は、何かを根本的に間違えている。

ここでヒントになるのは、子供の中に何を育てようとしているのか、教師側に本当の軸があるのか、ということ。

大事なのは、脳の中の記憶事項を増やすことではない。

それに頼っていると、ワーキングメモリの少ない子は、もう覚えることがいっぱいで追いつかない。

ワーキングメモリーだのみの指導は、限界を迎えやすいのです。

床に筆箱を置くのはダメ、これで1つ覚える、耳元で大きな声で叫ぶのはダメ、これでまた1つ覚えることが増える、牛乳瓶は、机の端っこに置いてはいけないと言うのを覚えるので、これでまた1つ覚えなきゃいけないことが1つずつ増えていく。子どものワーキングメモリーは、それでパンパンに膨れ上がる。

ワーキングメモリー頼みの教育は、いずれ失敗します。

この時に必要な指導は、たった1つ。

【◯◯さんは今、それをしたけど、それをすると何か良いことがありそう?】

例えば、床の上に筆箱を置いたままにしている子。そこに置くと何か良いことありそう?と質問してみる。

すると今までそんな事は考えたことがなかったと言う表情をする。

それをすると、どうなるか?
それをすると、どんな良いことが起きるか?

これまで、そんなふうに考えた事はなかった。
だから、不意を突かれた表情になる。

それをすると良いことがあるのかと言う質問に対し、まゆをひそめ、わからないと答えるか、あるいは首をひねるか。

「え?別にない」

たいてい、その子は、良い事は起こらないかも、と言う。

そこで、そこに置くと、誰かが踏むかもしれないよ?と、初めて新しい情報を伝える。

◯◯になるかもしれない。

これは未来予測です。
未来予測と言う脳の働きは、非常に高度です。
周りの状況をよく見ていないと、未来予測はできません。〇〇してはいけないと言う紋切り型のワーキングメモリーばかり消費する脳の働かせ方とは全く違う、脳機能の高度な使い方です。

35人以上の子供が1つの教室と言う空間に、お互い協力し合いながら生きている。大人でも35人の人とともに給食を食べたり、掃除をしたり、グループで学習活動していれば、あれこれと未来予測が必要です。子どもは、まだ、トレーニング中ですから、未来予測を何度も練習するのです。

それをすると良いことがあるの?

という質問は、子供の未来予測をする力を育てます。これは思考力です。ワーキングメモリーを消費するのではない、新たな脳の使い方の指導なのです。

友達の耳元で大きな声で叫ぶのを楽しんでいる子に、何か良いことがあるのと聞くと、楽しいと答えます。あぁそうなんだ。楽しいからやっているんだね、とまずはその子の気持ちを受け止めます。するとそうだ。僕は楽しいからやっているとそこまで思考が進みます。そうなって初めて、次に進むのです。次のステージに進めるのです。

でもその子は困っているんだよ、やめてとお願いしているよ、と初めて現実に気づかせてあげるのです。

友達がやめて欲しいと言ってることをするのはだめです、と、きっぱりと伝えます。あなたは楽しいからやるんだけど、友達が困っていたらやってはいけないのです。納得した表情をします。

なぜこの子が納得できたかと言うと、僕は楽しいと思ってやっているんだ、この行動は、僕が選んだ行動なのだ、と理解が始まるからです。
人間と言うのは、反射的に過ごしているのではなく、思いつきで、感情的に動くのものではなく、何かしらの考えがあって、それを行うのだと言う基本が身に付いていきます。このことが理解できないと、自分の身をコントロールすると言う気持ちには全くなっていきません。

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自由研究あるある

私の住んでいる自治体では、夏休みの課題として理科の自由研究を出します。

おそらく日本中で自由研究は、子供たちが取り組むことになっているでしょう。

これは各家庭で非常に捉え方が違い、それぞれ個性があり、ユニークで私はとっても大好きです。

お家の方と一緒に熱を上げて作ったと思われる作品は見ていて、心があったかくなります。

また、おそらくおうちの方針で、子供にとにかく最後まで自力でさせると言う作品もあります。
これはこれで全て子どもが自分の発案と自分の労力と、自分の時間のかけ方で勝負するわけで、これまた味のある良い作品が多いです。

ある子はゲームばかりやっているので、親が自由研究のことを心配したところ、

「お母さん大丈夫だよ。敵の倒し方を研究するんだから」

と言ったそうです。

そして、実際に、

①主人公の能力の上げ方
②パーティーの組み方
③バトル時のマナーと戦略
④アイテム一覧と、自分の推しアイテムとその理由
⑤ストーリーを進める中で、最も心に残った出来事
⑥最も幸せだったと思うエピソード
⑦このゲームは、買いか、否か

と言うので、超大作を作った子がいました。

理科の先生に怒られていましたが(なぜなら、理科ではないので)、研究の着眼点や検証の進め方などは、とても合理的で、対象となる敵を分野ごとに分けたり、スムーズに勝つための最も合理的とされる方法について、推論を立ててみたり、実際にそれを行ってみて、比較検証をしたりするあたりはなかなかのものでした。

その子は、スズメバチが好きだったので(なぜなら最強の虫だから)、同じような合理的な結果の導き方をスズメバチの研究で発揮すれば、おそらく県レベルで優秀賞を取ったでしょう。

とまあ、いろいろな研究があり、私は職場の数少ない楽しみの1つとして、放課後にゆっくりとコーヒーを飲みながら、その自由研究を全校のありとあらゆる教室のものを見て回ることにしています。

中には親が作ったのがバレバレのものもあります。

ところが、現場の先生たちは、みんなそんなことを一切責める気持ちはありません。
むしろ喜んでいます。
おそらく、その時間を親と子供で様々話し合いながら過ごしたのでしょう。
もっと子供と関わってほしいと、どの先生たちも思っていますから、親がそんなふうに愚痴をこぼしながらも、自由研究をダシにして交流するのは嬉しい限りなのです。

途中まで、自由研究の字が乱雑だったのに、後半のある部分はとても丁寧な字に変わってることがあります。
とても同一人物が書いた字には思えない。

ははぁ、中学校にお姉さんがいたナ、確か。

それもいいじゃないですか。
家族で協力した証なんです。
先生たちは、そんなことを全く否定的に捉えてはいません。

同じように、毎日の宿題をお姉さんが手伝ったとか、お兄ちゃんが手伝ったとか、親が手伝ったとか、普通によくあることです。いいじゃないですか。
孤独に苦しんでいるよりよっぽど良いです。
長谷川町子さんのサザエさんの漫画にも、カツオが口をとがらせて、
「お父さん、終わったの?」
と、ハチマキをしめてカツオの宿題を解いている波平さんを描いた漫画がありました。
もちろん、ほとんど99%の親は仕事から帰ってきて、直行で家事をしてそれだけで精一杯です。
とても宿題なんて見られないでしょう。気にもしていられないと思います。

先生たちはそんな事は期待はしていません。
だからできるだけ宿題は出さないようにしています。私はドリルやワークシートなどの課題は何とかして学校でたくさんやらせます。

宿題で出す先生もいますが、私は学校でやらせる派ですね。
なんとなれば、その方が子供のリアルな状況をしっかりつかめるからです。

ただし、いつも時間は足りません。
この時間を作り出すことを、これからもずっと苦労していくんだと思います。

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「そう思った人〜!おお!たくさんいるね!」と毎回言う理由

発問に対して、児童にどのように発表させますか?

手を挙げた子を1人だけ直接先生が指名し、それが正解のとき、
「そうですね、正解です」
と言って進めていくやり方がありますね。

私はこのやり方を、自分の中で【トップスピード】と呼んでます。つまりこのやり方は、授業の流れを非常に早めるのです。

【トップスピード】を使うのは、授業の序盤です。本題ではなく、これまで十分に学習した機種事項を確認する際など。
授業の中で、特に序盤、トントントン!と既習事項を確認し、核心の発問にズバッと入り込みたい時、できるだけその前に時間を節約しておくのです。

しかし、この【トップスピード】を授業を通して最後まで続けていると、指名されなかった子、挙手をしたのに当てられなかった他の子たちは、だんだんと冷めてきます。気持ちが。

あれ、僕だってわかってたのに。
私も言えたのに。

挙手をして当てられなかった子は、まだマシかもしれません。それでも挙手をしたのですからね。
私はわかっててだけど当てられなかったし、仕方がないと思い直すことができるでしょう。
本当はわかってたんだよと、自分の中で思い直すこともできます。

でも、そうかなぁと7、8割、思っていたとしても、ちょっとだけ自信がなくて挙手をしなかった子だって教室の中にはうんとたくさんいます。
その子たちが、認めて欲しい気持ちが教室の空気の中に残っています。
「そりゃ、僕は手を挙げなかったさ。でも、本当は心の中で7、8割はそうじゃないかなってちゃんとわかっていたんだよ」

その子たちは、その気持ちを抱えたまま残りの授業を受けることになります。
これを繰り返していたら、ちょっともったいない。

私がよくするのはこんなことです。主に1から3年生向けでしょうか。キーボード入力にまだ慣れない子供たちが多い中では、端末を使わずにこのように進めることが多いです。


①発問をする。
②挙手させる。
③指名して発表させる。
④正解か不正解かを断言する前に、「同じ意見の人?」と挙手を促す。「おお!たくさんいるね〜」と感心します。
⑤その後「合ってるよね、よく覚えていたね」と伝える。

これは、④で、1つだけ手間をかけています。
時間にしてたった数秒です。
しかし、同じ意見だと言うことで、手を挙げる子はみんな、自分の意見を表明したと同じです。その子たち全員を褒めることになります。満足度が上がります。

これとは、違ったバージョンで、発問の内容が、正解不正解と言うものでなく、新しいアイディアを出すような場合や、ちょっと子供たちに熟慮を促したい場合には、「ちがう意見の人?」を付け足すことがあります。

また、授業の中での主発問については、以下のように進めます。主な発問ですから時間をある程度かけます。

①発問を黒板に書き、発問の趣旨を念の為、再度、説明する。
②隣同士ペアで相談させる。
③発表しても良い子を挙手させる。
④挙手を褒める。
⑤発表できる子を起立させる。(この時点でやっぱりやめようと思う子は座って良いと言うことを年度の初めに伝えておく)
⑥勇気を出して席を立った子のうち、窓際、あるいは廊下側から、1人ずつ当てていく。
⑦まず最初の人を当て、意見を言わせる。
⑧間髪を入れず、「同じ意見の人!」と言って挙手させる。(起立している子つまり発表考えて起立していた子が同じ意見と言うことで挙手していた場合は、そのまま自分の番が来るのを待ち、自分と似ているけども、やはり自分なりの言葉でもう一度意見を言うのも良いし、「もう自分と同じことを言ってもらったから座ります」と言うのでも良いこととします。年度始めの頃に何度か確認しておけば、後は1年を通じて子供が理解してそのように行動をしてくれます)
⑨順番に最後の1人まで意見を言ってもらいます。その都度担任は「同じ意見の人!」と言って挙手を促すと言うことを繰り返していきます。
⑩担任は同時に板書して考えをまとめていきつつ、最後にもう一度、板書の文字を指しながら、「この考えと同じ人は?」と挙手させながら確認をしていきます。
⑪内容によっては、この後に「もう一度自分の意見をはっきりさせたら、隣の人に、どの場面からそう考えるようになったのか、いつからそう考え始めたか、そしてなぜそう言えるのか、できるだけ詳しく伝えなさい」と相談させる。


大切な事は、アウトプットをたくさんすると言うことです。そしてアウトプットには挙手をすることも含まれるわけです。

このやり方だと、参加しない子はほぼいないです。そして全員が自分の考えを最終的にノートにまとめることもできるようになっています。

そして、本当にクラスの人間関係が良くなり、意見の押し付けや遠慮が無くなってきたら、クラス全員の討論に近づけていきます。

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テトと、トム。

道徳の授業で「認知」について考える

認知と言うのは、非常に大きなテーマ。
同じ現象を見ても、1人はAを見ていて、もう1人はBを見ているから、結論が真反対になることもある。
子供時代にこういったことをしっかりと勉強しておくのは、その子の人生にとって非常に役に立つと思う。

そこで道徳の授業では、認知理論を取り入れることにする。といっても、そんなに難しいことではなく、盲人が象を撫でるときの例えを何度も繰り返すだけです。
しかし、子どもにはこの授業は非常にウケが良い。本当だ、この間もこんなことがあったと言うように、子ども同士で話が尽きないように盛り上がってくる。

給食のカレーは辛いかどうかでも、それぞれの主張が異なる。同じものを食べてるんでしょう。どっちかに決めてよ、同じものなんだから、同じ結論が出るでしょう、と私は煽る。
ところが、最初は、そのセリフを素直に聞いていた子供たちが、

「同じものを食べても、人によって感じ方は違うんだから、このカレーは辛い、ってわけじゃないよ」

と、小学校3年生でも全員が全員、そう言うようになってくる。

給食の時に、ミルメーク、というのが出た。
これを牛乳の中に溶かして飲むと最高においしい(甘い)。

ところが、これが苦手だと言う子が、クラスには1人いる。これがなんとも不思議だ。

その子に全員が全員不思議そうに尋ねている。
「えっちゃんなんでミルメイク残すの?」
すると、その子は、何とか苦労して、その理由らしきものをひねり出す。
要するに、あんまり美味しくないと言う意味の言葉だ。

これも道徳の授業の時に取り上げると、様々な意見が出てくる。

おいしいとか美味しくないとか、そんなのは人の感覚なんだから、ミルメークがおいしい、と言ってしまってはダメで、私はおいしいと思うと言う意見なら言えるはずだ、と認知についての考えをしっかりと整理できる子が出てくる。

「だから、ミルメークは美味しい、というのは良くないんだよ。そうじゃあないんだから」

とか、言う。

それを聞いて私は黒板に大きな図を書き、ミルメークをど真ん中に書いて、これはなあに?と尋ねる。

「それはミルメーク!」

わたしが
「では、これは美味しいものとは・・・」
と水を向けると
「そうは言えない!」
「あ、そう。じゃあまずいものと・・・」
「それも言えない!」

世の中のすべてのものって、みんな良いものだとか、悪いものだとか、おいしいものだとか、まずいものだとか、青いとか黄色とか、難しいとか簡単とかいろいろ言うよね。じゃあ、そういうのって・・・

「それがそうと言うわけでなくって、自分はそう思ったってこと」

この授業の後に、子供たちがまとめた振り返り用紙が面白かったです。

ある子か書いたのは、

「自分は大きな丸いシャボン玉のようなボールの中にいるみたいです。それがからいかどうかは本当はわからないのに、私はからいとか辛くないとか言います。だから本当はシャボン玉の外の事はよくわかってないと思います」

これは、プラトンの洞窟の例えに少し似ていて面白い。
小学校3年生だから、もちろん哲学の話をしたり、勉強したりは一切ない。
でも、その中身とよく似たような事はちゃんと考えることができている。私はなぜこのカレーを辛いと言っちゃうんだろう。私はそう思ったと言えばいいのに・・・。つい、このカレーは辛いよね、と言ってしまっている。

それだけでも小学校3年生で45分間の授業は白熱する。イデアの世界への本の入り口が道徳の授業にはある。

道徳の教科書の中身を見てみると、ほとんどがこういう話が多い。Aさんにとっては丸く見えるものがBさんにとっては四角く見えると言うものだ。

こういう授業を繰り返していると、私は一切そんな言葉を使ってないのに、子供から出てくる言葉があります。それが・・・

キメツケ。

私はこの4文字の言葉を聞くと、なんだかしばらく、遠くの景色を眺めていたくなる。

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NHKドラマ『あんぱん』の考察

もう4年も前になるだろうか。
やなせたなしさんの、アンパンマンについての文章が6年生の教科書に載っており、その授業について書いたことがある。

さて、今週の『あんぱん』の総集編を土曜日に見た。そして、あれっ?と思った。

いよいよ、やなせさんの生きる哲学の核心である、【絶対的な善】についての解釈が明らかになるかと思って待っていたのだが。

ところがストーリーはそうは進まなかった。

もしかしたら、多くの読者に刺激を与えないように、マイルドな表現になってしまっているのか・・・。やなせさんはそんな生易しいレベルで生きてきた人ではないので、私としてはしっかりと、人を殺すことの地獄と究極の善、について、ドラマの中でも描写して欲しかった。

たしかにまだ物語が終わったわけではない。これからそのシーンが出てくるのかもしれないが、なんだか嫌な予感がするナ。

NHKのドラマの作者としては、人を殺すと言うことについての実体験を持つ人たちを刺激するわけにはいかないのかもしれない。

8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式で石破総理が式辞を述べた。この式典では、先の大戦で亡くなられた全ての人々を追悼し、戦争の惨禍を二度と繰り返さないという不戦の誓いを改めて表明した。13年ぶりに「反省」という言葉を使ったことが特に注目された。

私はここでの反省と言うのは、人を殺したことについての反省、人を人として扱わなかったことについて、反省する、そういう意味だと思う。
そして、そのことが、まさにやなせさんがアンパンマンを生み出した原動力だったと思う。

しかしドラマでは、どちらかと言うとやなせさんの夢を追う姿勢やアイデンティティーの確立、というところに主眼が置かれていたように思う。


ご存知の通り、やなせたかしは、『手のひらを太陽に』の歌の歌詞を書いた。いずみたくが作曲し、これは大ヒット。やなせたかしは、漫画家になる前に、詩人として大成功をしてしまう。

ドラマでは、やなせ崇(やなせたかし)の「漫画家になりたい」という強い思いと、「詩人として成功した」という現実の間の葛藤を強調して描いている。

「手のひらを太陽に」のヒットによって、崇が詩人として一躍有名になり、漫画を描く時間がなくなるほどの忙しさを経験するのだが、漫画家としてはなかなか芽が出ず、自分の夢が遠ざかっていくように感じる。
このように、ドラマは「どちらか一方しか成功できない」という状況を作り出すことで、崇の苦悩をより強く表現した。この葛藤こそが、後の「アンパンマン」の誕生につながる重要な経験だったと描いているのです。

実際のやなせたかしは、詩人やイラストレーター、デザイナーなど、多岐にわたる分野で活躍していました。しかし、漫画家としては長年苦労し、アンパンマンがブレイクするまでは「売れない漫画家」としての時期が長く続きました。
ドラマは、この「売れない漫画家」としての苦悩を、「詩人としての成功」と対比させることで、よりわかりやすく、視聴者の心に響く物語にしているわけです。
つまり、
詩人として成功 → 漫画家になりたい夢との葛藤 → 漫画家としてアンパンマンを創作 → 大成功
という物語の流れを強調することで、やなせたかしの人生の軌跡と『アンパンマン』のテーマを深く結びつけているのです。

私は、少しだけ不安に思う。
これだけでは、視聴者が本当にやなせたかしを理解したとは言えないだろうと言う点。
自分のこだわりの夢を追い続けることではなく、目の前の人の要望や願いに沿ってその要望を受け入れることで、自分の夢との折り合いをつけ、多くの人を楽しませることが大切だ、とならないか。自分のこだわりや夢と、世の多くの人たちの要望に答えようとする役割任務の遂行者としての納得から、アンパンマンが生まれた、となってしまわないか。 

アンパンマンが最初に登場した時、多くの読者から反響があり、「こんなのはヒーローではない」「ただ食べ物を分け与えるなんて、いやらしい偽善だ」「えらそうに食い物で人を釣るな」と叩かれた。
その、偽善だ、という世間の評価に全く怯まず、自分自身の絶対的な価値観を信じ続けたこと。
なぜ、怯むことがなかったのか。
なぜ、反響が悪くても、あんぱんまんを書き続けようとしたのか。

もしかしたら、この続きで、きちんと明らかになるかもしれないな。来週の放送が楽しみでならない。人を殺す地獄、が、きちんと描写されるかどうか、だ。
(この点の論考は、本記事の1番上にあるリンク先から、「戦争とは何か」について6年生の女の子がたどりついた結論を参照してください)

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後件肯定の誤謬(こうけんこうていのごびゅう)

ここでいう「こうけんこうていのごびゅう」は、ちょっとむずかしい言葉ですが、例えば「見た目で決めつけるのはちがうよ」ということが、その一例です。

より具体的に言いますと、

 * 雨がふると地面がぬれるかもしれません。でも、地面がぬれているからといって、雨がふったとはかぎりません。
   (ホースで水をまいたのかもしれないですね)

 * かけっこが速い子は、運動会で一番になるかもしれません。でも、運動会で一番になったからといって、かけっこが速い子とはかぎりません。
   (転んだ人がたくさんいたのかもしれない)

このように、見た目のことだけを見て「きっとこうだ!」と決めつけるのは間違いです。そう見えた原因はたくさんあるのであって、他にも色々な理由があるかもしれないからです。

真面目に勉強する生徒は、いつも宿題を完璧に提出するかもしれない。しかし、宿題を完璧に提出するからといって、真面目に勉強する生徒とは限りません。

つまり、ある結果(後件)だけを見て、その原因(前件)を決めつけるのは誤り、なのです。

他人の気持ちを思いやれる子は、公共の場で静かにできるかもしれません。しかし、公共の場で静かにできるからといって、他人の気持ちを思いやれる子とは限りません。

ここで、ちょっと振り返ってみましょう。
我々教師は、静かにしている子を見ると、立派な子だ。この子は周囲の人々の気持ちを思いやれるのだ。思慮深くて、思いやりのある子だ、と判断しやすいのです。私自身を含めて、教師はこういう癖があるのです。そのため表面的に静かにすることをすぐに求めてしまいます。そして静かになったらあぁ心まで成長したと勘違いしやすいのです。教師が教室内をパッと見、静かにさせたいと願うのは、その裏にこういった心理が隠されている場合があるわけです。

成績が良い生徒は、授業中に積極的に発言するかもしれません。しかし、授業中に積極的に発言するからといって、成績が良い生徒とは限りません。

ところが、われわれ教師はよく、「手を挙げなさい、手を挙げて発言しなさい」と指導しがちです。なぜそう指導しがちかと言うと、見た目としてたくさん手を挙げている子が増えたら、全体的に学力が上がっていると感じやすいのです。担任はそう感じたくなってしまい、見た目(め)的にに手を挙げる子を増やしたいと言う心理が働いてしまうのです。
確かに、まだ手を上げたり発言したり自己表現したりと言う、アウトプットの苦手な子はたくさんいて、手を挙げる、と言うことを促す指導は必要です。しかし、手を挙げるようになったらこれで良いのだと安心してしまうのは間違いです。それはただのワンステップに過ぎないのです。

同じように、

 * 引き出しの中がいつも片付いているからといって、その子の心身が安定しているとは限りません。
 * 自分の持ち物を大切に扱うからといって、責任感が強いとは限りません。

この辺も、教師は、少しずれた指導をしがちです。引き出しの中をしっかり片付けなさい。きれいにしなさいと言う指導をして、机の中がきれいになったら、その子自身の心や知性があたかも成長したかのように受け取ります。しかし、それはただ単に机の中をきれいにしたと言うだけのことに過ぎず、やはりただのワンステップなのです。きれいになったらおしまいではなく、きれいになったことを喜んだり、使いやすくなったことを実感して、その良さを話し合ったり、これからそれを続けていけそうかどうか本人の見通しを聞いてあげたり、どうしたらそれが続けられそうか。作戦を立てたり、やる事はまだまだ続くわけです。

さらに、学校教育に関する事例をいくつか。

* 塾に通っているからといって、学習意欲が高い生徒とは限りません。
 * 先生の話を静かに聞くからといって、授業内容をよく理解している生徒とは限りません。
 
その他
 * 試合に勝ったからといって、練習熱心とは限りません。
 * 友達が多いからといって、コミュニケーション能力が高いとは限りません。
 * 絵や物語に深く感動するからといって、感受性が豊かな子供とは限りません。
 * 一つの遊びを長時間続けるからといって、集中力が高い子供とは限りません。

こうしてたくさんの事例をあげてみると、結果だけを見て原因を決めつけるのは誤りであるという点が、より明確になるかと思います。

「AだからB」という因果関係を考える際には、「本当にAが原因でBが起こっているのか?」「Bの原因はA以外にもあるのではないか?」と、立ち止まって考えることが大切。
同じ結果に見えても、その背景にある原因は人それぞれで、一つに決めることはできません。

こういうことは、人生の初期、つまり小学生の段階からわかっていることが結構大事です。
ところがこれを学習するとなると道徳なのかなぁと思うんですが、道徳の教科書には、こんな論理性の勉強は無いわけです。つまり、文部科学省としては、後件肯定の誤謬を学習する際は、教科書で論理を教えなさいとはしていないのです。

おそらく子供たちにより実感しやすいように、生活の中の事例や、道徳の教科書の中のわかりやすい事例などから、自身の多くの体験と合わせて考え、話し合いを通じて、後件肯定の誤謬を教えなさいとしているのだと思います。

ところが、多くの先生たちは、こんなこと教えてないと思います。

私は、これをちゃんと、【後件肯定の誤謬】として、きっちりと道徳の教科書に載せるべき、と思います。(もしかしたら道徳ではなく、算数なのかなぁ?)
(※ちなみに、ChatGPTの回答にも、前提に誤謬が含まれた場合があるので、おそらく人間社会全般がそうなのでしょう。ChatGPTは、それらから情報をたくさん進めてくるので、結果として、ChatGPTが論理の誤謬を含んだ表現をしてしまうのでしょうな)

写真は、まだ朝の温度。
(午後は37度まで上がりました。それも日陰で)
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ミトコンドリアについて

賢い友人のKさんが、

「結局ミトコンドリアだよね」

と話したことがきっかけで、ちょっとミトコンドリアについて調べる気になった。

以下は、Kさんに色々と教えてもらったのを忘れないうちにアウトプットしておくための記事です。

ミトコンドリアは、人体の中でエネルギーを生成する大きな働きを持っていて、それも持続性のある強く、大きな力を生み出している。
人間の体には生まれつき備わっているから、生涯にわたって力を発揮している存在。どちらかと言うと、特に若い時よりも中年以降に大きな力を発揮する。

このミトコンドリアは、うまく働くのに必要な条件がある。それは、酸素がたくさん供給されていて、かつ体温がしっかりと高く維持されている、という点だ。
体がよく冷えるタイプの人だったり、呼吸の浅い人は、このミトコンドリアの機能があまり発揮されていない。

さて、人間には、エネルギーを生み出す、もう一つのシステムがあり、それがいわゆる代謝と呼ばれる働きで、特に糖の分解によって小さくとも瞬発的な力が素早く生成される、

この糖分解・代謝によるエネルギーの生成システムは【解糖系】と呼ばれ、どちらかと言うと細胞分裂を促す際に多く使われる。つまり生まれてから猛烈に働いて20歳ごろまで体をとにかく作り上げるのに、大変重要な働きをする。

もちろん、糖の代謝は、生涯通じて行われる。人体の中では、小さく素早くくるくる回るような歯車であり、新しい細胞の生成だけではなく、後述するミトコンドリアのエネルギー源にもなる。

糖の代謝が小さな歯車で、高速回転するのに引き換えると、ミトコンドリアによるエネルギー、生成は、人体の中でも特に大きな歯車で、ゆっくり確実に回転し、長く長く働き続けるイメージだ。これはサイボー分裂を行うためではないから、人間の体を向上的に整えつつ、長く持続的に働かせるための大切なシステムだと言える。

特に50代以降だと、ミトコンドリアの活躍がとても重要な要素になってくるから、人間は特に自分の体内に潜むミトコンドリアたちを元気に賢く強く保護し育てていかなければならない。
そう、自分の体内にミトコンドリアと言う小さなスーパーマンをたくさん飼っていると言うイメージが近いかもしれない。このスーパーマンたちを活躍させるには、冷え性は大敵、体を温めることと、酸素呼吸をしっかりすると言う、この2点が重要になる。

逆に解糖系はミトコンドリアとは逆で、低体温、夜睡眠してる間にうまく働く。体温がそれほど高くなく(低く)、また酸素はそれほど必要としない。つまり睡眠時間に最も良く、細胞分裂を行う。これが身長を伸ばそうとする子どもたちに睡眠が必要なわけ。

ミトコンドリアについては、NHKの監修した、サイエンスZERO、という番組が詳しい。かなり詳しくミトコンドリアが人体でどのように働くのかを解説する番組がある。

私が今、非常に興味深く思っているのは、あたかもミトコンドリアには意思があるようにさえ思えることだ。
私と言う意識が生きているのか、それともミトコンドリアに意識があって、私の意識はそのミトコンドリアから思考内容を規定されて動いているだけなのかとすら思う。

もしかしたらミトコンドリアが私と言う主体性のある意識の本当の本当の正体なのかもしれない。

ちなみに、ミトコンドリアは、ミドリムシとは違うから気をつけてください。
私の嫁様は、私がミトコンドリアと口走った瞬間に、あぁ、あの光合成もできるけど、自分でも動くって言うよくわかんないやつでしょう。植物なのか動物なのかよくわかんないやつ、と言った。
それは、ミドリムシである。

ミトコンドリアは、体の中の「ちっちゃな工場」みたいなものです。

わたしたちの体は、食べ物からエネルギーをもらって動いていますよね。でも、食べたものはそのままでは使えません。

そこで活やくするのが、ミトコンドリア!


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🔧ミトコンドリアのしごと

  1. 食べ物の中の栄養をエネルギーにかえる
     → ごはんやパンをたべたら、それを体が使える力(エネルギー)に変えてくれます。

  2. 体を動かしたり、あたためたりするための力をつくる
     → たとえば、走ったり、考えたり、体温を保つのにもミトコンドリアの力が必要なんです。


🏭どこにあるの?

ミトコンドリアは、体の中のほとんどの細胞(さいぼう)の中にあります。細胞っていうのは、体を作っているとっても小さな部品のこと。ミトコンドリアは、その中にたくさんあるんですな。


実は、「糖を分解すること」と「ミトコンドリア」は、どちらもエネルギーを作るために必要な大事なステップなんです。それぞれの役わりを、わかりやすく説明しますね。


🍬【ステップ1】まずは糖(グルコース)を分解!

わたしたちがごはんやパンを食べると、体の中で「糖(グルコース)」になります。
この糖は、まず細胞の中(ミトコンドリアの外)で「分解」されて、小さなエネルギー(ATPという力のもと)を少しだけ作ります。
これを「解糖系(かいとうけい)」といいます。

🔹これはミトコンドリアを使わない段階です。
でも、これだけでは少しのエネルギーしか作れません。


🔥【ステップ2】ミトコンドリアで本気のエネルギー作り!

糖が分解されたあと、その材料がミトコンドリアに運ばれます。
ミトコンドリアの中では、それを使ってもっとたくさんのエネルギー(ATP)を作るのです。

これを「クエン酸回路」や「電子伝達系」といいますが、簡単に言うと:

🔹本当のパワー工場はミトコンドリア!


🧠たとえでまとめると…

  • 糖を分解するのは、「エネルギーの材料を作る工場」

  • ミトコンドリアは、「その材料を使って、本気のエネルギーをたくさん作る工場」

つまり、「糖の分解」も「ミトコンドリア」も、どちらもエネルギーを作る仲間です!
でも、一番多くのエネルギーを作っているのはミトコンドリアなんですよ😊


私はこれから酸素をしっかりと取り込める体に改造していくため、呼吸のトレーニングをしなければならない。


腹式呼吸をたくさんトレーニングして、横隔膜をもっと自由にのびのびと動かすために、クラリネットでも習おうか知らん。しかしこんな中年が今から楽器なんて始めたら、それこそ


パッケラマオ♪ パッケラマオ♪ パオパオパ!


だろうなぁ・・・


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ドッジボール!勝ち負けにこだわらないルールのまとめ

小学校3年生くらいが、最もドッジボールを楽しめる年頃かもしれない。まだ力の差も少なくて、クラス全員が参加できる。
クラスの半数は、まだ投げる力が足りず、外野まで届かせることができない子も多い。だからこそ、外野まで投げられる子が非常に重宝されるし、憧れの存在になる。
力が足りない子はより、遠くへ投げたいと言う意欲が募ってくる。この憧れに似た気持ちと自信を鍛えたいと言う気持ちの相乗効果で身体能力が伸びる時期だ。

さて、通常のドッチボールだと、頭をあまり使わないので、体力、勝負になって単調になってしまう。
そこで、かなり色々と工夫をして、頭を使ってゲームを進めるように仕向けていく。勝ち負けにこだわらなくなるのがポイントだ。勝った負けたは、時の運も大いに作用する。買ったから、万歳をし、負けたから悔しがると言う、決まりきった態度をとるのが、だんだんと面倒になってくるのが非常に良い兆候だと思う。
勝ち負けに、非常にこだわるタイプの子どもも、時の運や頭の使い方で、どんどんと勝ち負けの状況が変わっていくのであれば、もう勝ち負けなんて、とんでもなくめんどくさいことに思えてくる。これは人生を長くやってくれば誰でも感じることで、同窓会に久しぶりに出てきた友達同士が、履いてきたハイヒールやハンドバック、服装や時計や髪型やらで、相手の持ち物を一瞬のうちに判断して、バチバチと勝った負けたを繰り返していると、疲弊するのと同じである。

さて、ここに一筋縄ではいかないドッジボールのルールをまとめておこう。
低学年にはオススメをしない。なぜなら、ルールが複雑だからだ。

まずは定期定番の、これら。

王様ドッジ、秘密王様ドッジ、コーンドッジ、火の玉ドッヂ、利き手じゃないドッヂ、転がしドッヂ。

コーンドッジは、自分の陣地の真ん中に小さなコーンを立てておき、ともかくも、それが倒れたら負けなのであります。人間に当てるよりも、はるかに多くの子供が、その小さなコーンをめがけてボールを投げますが、なかなか当たりません。人間が狙われにくいので、ドッジボールは嫌だと言う女の子が多い場合は、これで慣れさせていくのが良いでしょう。

火の玉ドッジは、途中で火の玉タイムがありまして、教員が「火の玉タイム!」と叫ぶと、火の玉タイムになります。やがて、火の玉タイムは終了!という合図があると、普通に戻ります。途中で約1分ほどそういう時間をつくります。火の玉をつかめる特別な子供しか、ボールを触れない状態です。中に小さな子が混じっている場合に有効です。その小さな子しか火の玉は触れないわけです。

1番複雑なのは、下記に記すドラクエドッジです。

ドラクエドッジボールは、最初に役職係を決めておきます。王様ドッチボールの亜流ですね。


まずは、👑王様(キング)が一名。

役割: チームの中心人物。
特徴: 当てられるとチームが敗北するため、守ることが重要。

🛡️ 戦士

特徴: 通常のボールでは当たってもアウトにならない。
弱点: 勇者や魔法使いのボールに当たるとアウトになる。

⚔️ 勇者

特徴: 戦士をアウトにできる唯一の存在。
特性: 戦士をアウトにした数だけ、自身が当たってもアウトにならない回数が増える。

🧙‍♂️ 魔法使い

特徴: バウンドや転がったボールでも、触れた相手をアウトにできる。
制限: 魔法使いのボールは、他の魔法使いしかキャッチできない。

※サンソンさんの「レクで学級をHappyに!」を参考に書かせていただいてます。感謝🥲

💧 スライム

特徴: 3人以上で肩を組むと「キングスライム」に変身し、その間は当たってもアウトにならない。
制限: キングスライムが当たると、30秒間合体できなくなる。

🔓盗賊

特徴: 最初に当てた相手の職業や能力を奪うことができる。

🧝‍♀️ 僧侶

特徴: 敵をアウトにすると、仲間を1人生き返らせることができる。

💃 踊り子

特徴: 当てた相手は10秒間コートの外で踊らなければならない。

👻 ゴースト

特徴: 敵の外野に入り、ボールを取って味方にパスできる。
制限: 敵の内野には入れない。当てられるとアウトになり、自陣外野にしかいられなくなる。

💣 ばくだん岩

特徴: 当てられると「爆発」し、周囲のプレイヤーを巻き込んでアウトにする。

どうだろうか。高学年向きだと言うことがわかっていただけたでしょうか?

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やってみて、どうですか 😂

私は20代の頃、何をやっても

「やってみて、どうでしたか」

と、問われる、という日常を送っていました。

まるで禅の修行のようですが、まさに今考えるとよくやってたなと思う位です。

その時に身に付いたものがあり、私は今でも学級クラスで、

「やってみて、どうだった?」

と聞きます。

時折、自分でも不思議に思いますね。
三つ子の魂百まで、じゃないですが、20代の頃に、耳の奥にこびりついた言葉と言うのは離れないもののようです。

ところが忙しくなると、このやってみてどうかをやらない。
次から次へとこなすようになる。
そうすると、子どもの顔は疲れていきます。

私は4月は特に遊びまくります。
教室でゲームばっかりやります。
そして、やってみて、どうだったかと、問うのです。

「友達の顔見ると、よくわかったんだね」
「友達にちゃんと伝えようと思ったら伝わったんだね」
「めんどくさいなぁと思っていると楽しめないんだね」

子供が色々と感想言うので、それを整理していくだけです。
ゲームと言うのは、奥が深いです。
集団で目的を共有すると言うことですから。
気持ちが1つになっていくと、ものすごく盛り上がるし、楽しいのに、少しでも心が離れると途端にめんどくさいものになってしまうのがゲームです。

ゲームを1つやるだけで、そしてそのことをつぶさに見て取ることで、自分の心の状態や友達の心の状態までしっかりと整理されて、俯瞰できるのがゲームの醍醐味です。

ときにはゲーム自体より、その振り返りの時間が長いことすらあります。
その振り返りの時間こそが楽しいのです。私はゲームの時はそれほど力を入れません。ゲームの進行は淡々とやります。でもゲームが終わった途端にみんなにどうだったかと全身全霊で聞くようにしています。

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学級経営と言う言葉から離れる

今年になって、学級経営と言う言葉が引っかかるようになってきました。

言葉の元の意味としては、全く問題のないことであり、言葉の原点に立ち帰れば当然あるべき言葉です。

しかし、我々教師の意識として、どうにもついて回るうさんくさい意識があり、そのことから、逃れたいと言う気持ちが出てきたのです。

それが経営と言う言葉の後ろに隠されている意識で、「このようにすればうまくいく」と言うものです。

教師がこのような意識で、このような指示を出し、このように子供と接すれば、子供との関係がうまく作れてうまくいくと言うストーリー。これが最近語られている学級経営と言う言葉の意味になってきているような気がします。

ところが、教師がいくら何かを願って、何か行動したところで、それがうまくいったいかなかったと言うふうに捉えるのは間違っていると思うようになりました。

そもそもうまくいくとかうまくいかないと言うことも無いのではないか?というのが、今の心境です。

無い。
うまくいくとかうまくいかないとか、そういうものがそもそもないのではないかと言うことです。
だから、うまくいかせようと思って、何かをすると言うことが、そもそもないのではないか?・・・と。

なぜそんなことを思うようになったかと言うと、年末にある研修を受けたのですが、その研修がもう5分後には嫌になっていて、開始5分後にもう参加しているのさえ辛くなってきたからです。

その研修は、要するに、どういうものだったかと言うと、「こうすれば、うまく子供が操作できる」と言うものでした。

いわゆる教育技術と呼ばれるようなものですね。

20年前の私ならそれを喜んで受け入れたかもしれません。でも、今の私には全く不要だとさえ思いました。
というか、20年前の私ですら、それは害悪だったでしょう。

要するに、子供を操作しようとか、変えようと思うこと自体が、すべての誤りの出発点だったように思うのです。

そして教師が何かをしたから、きっと子供にはこのことが良い影響になるだろうと言うのは、完全に教師の思い上がりであり、私たち教師が何かをしたら、そのことの効果が上がると思っていること自体が思い違いなのです。

教師が何かアクションをすると、きっと良いことがあるだろうと言うのが既に間違いだと思うのです。

では、なぜ教師が学校などと言う制度の中で、子供に対してアクションを起こしているのでしょうか?
それは子供の安全を守るためです。
それと、子供が安心するからでしょう。おそらく・・・その2つでしょうね。

教師が何かをしたところで、うんと効果があるなんて事は無いのです。
おそらくほとんど効果のないことを試しにちょっとだけやってみると言うのが教師の事実です。それらはほとんど効果はありません。もし、あったとしたら飛び上がって喜ぶべきです。さらに言うと効果があったと言うふうに判断するのは、少なくとも10年後の子供たち本人です。我々教師は、口が裂けても効果があったと言い切ってはいけません。

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蜂飼耳さんの意図する世界

5年生の国語の教科書(光村図書)には、蜂飼耳さんの描いた物語が登場する。
以前、記事にしたことがあるが、

蜂飼さんの文章には、物語のある人物の行動を、周囲の人がどのように認知したのかということが丁寧に書かれている。
ある人物の言動について、その受け手がどんな印象を抱いたのか、周囲の人がそれをどのように受け取ったのかと言う受け手側の視点が丁寧に描かれるのは、ありとあらゆる小説の醍醐味だ。
蜂飼耳さんは、受け手側がどのように受け取り、どのように誤解(ごかい)したかを、物語の主題に据えることが多い。
小学校5年生の教科書に載せられた物語でも、小さな誤解というものが、主題になっていた。

考えてみれば、相手の行動や言動をその人に完全に成り変わって意図を理解する事は、周囲の人には不可能なこと。これはキリストでもブッダでも不可能。なぜなら本人では無いのだから。

しかし、いかにも、私はあんたの言いたいことがわかるよとかあなたはこう言いたいんでしょとかあなたは僕のことが嫌いなんだろう、などと言うように登場人物が主人公の意図を勝手に誤解していく事はよくあるパターンだ。
誤解と言うのも違うかもしれない。何故かと言うと、そもそも誤解が当然で、認知が事実とぴったり合うことなんてないわけなので、どれだけ親しくどれだけ相手のことを理解しているつもりになっていたとしても、わからないのが当たり前だ。相手の言動の本当に意図された世界と言うのは、他人にとっては、誤解をする以外にしようのない世界である。

今回、蜂飼耳さんの文章が、大学入試の共通テストの国語で出題されたらしい。
第2問で出題された、2005年発表の蜂飼耳(はちかいみみ)著「繭の遊戯」に、「ヒス構文」が登場したと話題になった。 「ヒス構文」とは、お笑い芸人のラランド・サーヤさんがYouTube動画で発信し、Z世代に話題になった言い回しのことで、「母が論理を飛躍させるなどしながらヒステリックな語気で相手に罪悪感を抱かせる構文」のこと。
・・・だそうだ。

〇〇構文、というのはいかにも学生の世代が使いそうな言葉で、ある決まった文章の運び方、言い回しの事だ。
ヒス構文も、蜂飼耳さんの得意な世界だ。今回話題となった、出題文の中でも、該当の部分は相手の言動を完全に誤解して理解した上に誇張させ、今度はその勝手な印象を、さらなる強烈な誤解とともに相手に押し返すと言う文章になっている。

このように、ヒス構文そのものは大学入試で出てくるくらい普遍的な世界なのだが、改めてネーミングされたことがすごいのだ。「ヒス構文」と、これまで名付けられたことのない言い回しそのものに対して、そこに新たなネーミングをすると言うところが、いかにもZ世代らしい。
ゆくゆくは、「そもそも相手の言動を当然理解することなどできないのだ」と言うことについても、新たなネーミングが始まることだろう。

振り返ってみれば、進次郎構文、石丸構文、などがネットの世界では有名になり、それあなたの感想ですよねと言うひろゆき構文も、今は世の中の人が堂々とは使用できなくなりつつある。なぜなら、このようにネーミングされてしまうほどに有名になった構文は、手垢が付きすぎて、堂々と使うのははばかられる気分が出てきたせいだ。

今、ヒス構文をそのまんま使ったり、「それってあなたの感想ですよね」とか、「また同じ質問ですか?」「もう一回言えってことですか?」などのような構文を使えば、たちまちにして、あっ、◯◯構文を使っているな、と反応されてしまう。

ただ私は、この◯◯構文にも、功罪の両面があると思っている。
なぜなら、空気を読めよと言うような、いかにも世間体を守るのが当然だとするような世の中の空気は、若い世代には、やはり居心地が悪かろうと思うのだ。このいかにも昭和の人間が縛られやすい世間体と言うものについては、その中に巻き込まれていたら、息が苦しくなってしまうと感じる若い世代も多いだろう。
若い世代は、若い世代なりに考えて、1対1の社会の中の人間と、人間同士のコミュニケーションの仕方をあえて作り直そうとしているようにも感じる。
あなたが今進めようとしているその言い方だと私は世間的に巻き込まれそうになります、だから一応リセットして、あなたと私の1対1の社会的な結びつきを確認しましょうよ、と言う気持ちで、「それってあなたの感想ですよね」と言う場合もあろうかと思うのだ。

私のような昭和生まれのおっさんにとっては、カチンと来そうな言い方なのだが、立場の弱い若い世代にとっては、せめてもの、かすかな反撃の狼煙なのかもしれないと思う。

蜂飼耳さんのヒス構文は、相手を世間体で絡めとって、操作しようと言うコスイ考え方が裏に見えている。蜂飼さんは、コミュニケーションの取り方に、何かしら言いたいことがあるんだと思う。小学校5年生の国語の教科書にも、子どもどうしの、かすかなコミニケーションの違和感が主題になっている。主人公の女の子は、自分の勝手に受け取った印象で、相手を思わず決めつけそうになっていた、そのことに気がついて、ちょっと切なく遠くからサッカーに興じる、男の子の姿を見つめ直すのである。

芸人のノリと学級のノリの違い

ひな壇に芸人がたくさん集まって、ワイワイとおしゃべりするのが楽しいテレビ番組がある。
私も好きで、ごくごくたまに見ることがある。

ただ、この楽しい雰囲気を学級で真似しようと思うのは、注意が必要だ。

私の失敗をあげてみる。

島田紳助さんが、昔の番組でひな壇に芸人を座らせ、おしゃべりトークをしながら軽快に番組を進行していた。
このときの島田紳助さんの狙いは、芸人一人ひとりのキャラを際立たせて、そのキャラを番組の決まりごと(セオリー)として視聴者に周知させ、いわばお約束のように芸人をいじると言うやり方だった。

島田紳助さんは、磯野貴理子さんをいじるのが得意だった。
これは、紳助さんが磯野さんにどんなキャラ設定をするか、そのキャラをからかうことで、どんな笑いが生まれるのか、計算をしてのことだった。

確かに、キャラ設定がはっきりしていればいるほど、そのキャラをいじったり、意外性に持ち込んだりすらことが出来て笑いが生まれる。また、そのキャラ設定の約束事をその場にいる全員が共有していることで生まれる安心感もあるし、仲間意識を演出することができる。島田さんはそれを狙った。

学級では、これは御法度だ。
一旦できた約束事があれば、その約束事を認識している仲間うちでは、共感の笑いに持ち込める。芸人は、からかい、からかわれることでタレントとしての笑いを生み出す。それが仕事だ。

小学校の学級では、その場にいる子ども一人ひとりにキャラ付けをする事は、担任なら容易にできてしまう。
しかし、相手はタレントではなく、生きている成長過程の子供である。

私は、以前、極真空手を習っている子が話題になったときに、失敗をしてしまった。

ある子が、その空手を習っている少年について、
「だって◯◯君がこうしろって言ったから失敗したんだよ、◯◯君のせいだよ」
と言うふうに、言った。
クラスのみんなが、その発言につられて、話題になった空手の少年を見た。

空手を習っている◯◯くんは、そんなことあったっけと言う顔でみんなの方を見ている。
この時、私は
「え?そんなこと言っていいの?◯◯くんは空手習ってるからね。下手なことを言うと怖いぞ〜」
と、少し面白おかしく言った。
言い方が面白かったのもあって、教室は爆笑になった。

話題を振った当人の子は、とっさに
「マジか、◯◯くん、ごめん!」
と、両手を合わせて大げさに謝罪をしたので、さらに大きな爆笑になった。

空手を習ってる◯◯くんも、爆笑の中心にいることが楽しかったようで、ニヤニヤしながら空手の型を作った。さらに爆笑になった。

後日談があって、彼が卒業するときに昔話をしていると、新間先生が、ぼくの空手についていじるのが、嫌な時があった、と言うのでした。
つまり、空手習ってるからあいつは怖いと言うようなことを、後で面白おかしくネタにする子がいたらしい。
そのことの発端は、おそらく私がその子にキャラ付けをしたことだ。空手を習っているから、強い、と笑いにしたことが、子どもたちの間でも、変な見本のようになってしまい、あぁやって友達をキャラ付けすることが面白いと言うふうになってしまった。

それが6年生の後半は嫌な時があったと言うのである。

私は彼にすぐに謝った。
彼は冗談めかして、それを言ったのだが、本音の部分があっただろう。
キャラ付けをされると言うのが、面白おかしいと楽しい間は良いかもしれない。しかしそうやって、固定化されたキャラ付け苦しむ子も出てくる。特に自分が意図したわけではないのに、周囲に勝手にキャラ付けをされてしまう事は、苦しいに違いない。
妙なタグや妙なレッテルを貼られてしまうようで、実際の自分というよりも、面白おかしいキャラ設定を優先しなくてはいけないように感じる子だっているかもしれない。

◯◯ちゃんって、こうだよね
⬜︎⬜︎さんって、ああだよね

こう言ったタグをつけてしまうような言い方そのものを聞いた時、敏感にそのうさん臭さや怪しさを感じ取って、そのキャラ設定と実際の自分は違う、ということを自覚できるような教室空間にしなければいけない。

タレントと子どもは、違うし、学級とテレビ番組は、違うのである。
もしかしたら大人の空間でもあるかもしれない。職場でも同じようにキャラ付けと言うようなテレビタレントの世界のお約束事が浸透してしまっているところがあるかもしれない。学級やクラスにもそうしたムードや空気があるかもしれない。

敏感になるべきだ。

これはタレントや島田紳助さんが悪いと言っているのではないです。くれぐれも。タレントは商売ですから。シナリオがあり、構成作家が台本を書くのですから。虚構と分かっていて、進めていることですから。

実際には、生きている実際の人間には、キャラ付けは不可能、ということです。
キャラをつけた途端に、そのキャラと実際の人間との違いがどんどんと明らかになるからですね。
AとBは同じだとだれかが言った瞬間に、もうAとBは違うのですから。そうです。昨日の自分と今日の自分は違うし、1分前の自分と1分後の自分は違うのです。目の前の石ころも、次の瞬間には、違う石ころだと言うわけです。

同じって何?
違うって何?

こういった話を子供たちとしていく授業は、面白いですし、こどもが哲学的な顔になりますね。

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人を騙す際の言い方・フレーズ

「批判ばかりせず、対案を出してくれ」 
「自分で選んだ道だろう? 自己責任だ」 
「ウチの会社に不満があるなら、辞めればいい! 」 
「騙されたと思ってやってみてよ。体験すればきっとわかる」

こんな言い回しをする人からは、そっと離れた方が良い。

このことを道徳の授業で扱いたいが、なかなか良い指導案を作らないできてしまった。

そもそも、教員になったらやりたかったことがある。
大きくは次の2つだ。

一つ目が、大声で叱るとか叱責するとかをしない、圧迫しないこと。
これは、すでに校長先生に褒めてもらえるまで実現できた。

二つ目が、信じてしまうことの愚かさを学ぶこと。
東洋大の井上円了先生の話を以前書いたが、人間は信じやすい。特に子どもは批判的精神(岩崎武雄)が未成熟で、自分が思ったことは事実だとしやすく、その危うさを学ぶことが必要だからです。

ポイントは3つ。①権威を無批判で信じ込むな。②過信するな。③常識を無批判で受け入れるな。

肯定したいときほど、あえて自身で否定を選び、本当はどうか、と考えなくてはいけない。肯定のための否定、というのが当たり前にあるのです。

これまでも道徳の「決めつけない」という単元学習では、カルト的思考の危うさを題材にして討論したり、自分の見たものや経験したこと、聞いたことは事実と考えやすいことなどを学んだりしてきました。

(以前書いたカルト学習、という記事もどうぞご参照を)


これは、まだ自分では納得するレベルまで、形にできていない。チャレンジは継続しているけど・・・

なんとか、誰にでも実践できる手引書のようなものを作りたいと思う。
しかし、これは宗教を信じる子どもにも少し影響するから、少しデリケートなんだよね。
誤解されないよう、カルトという狭義の固定的単一思考回路が、いかに非生産的で幸福にならないか、ということです。偏執的なナショナリズムもそうですね。

まだやること多い。志半ばの今であります。

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四年生国語・ごんぎつねで恋バナ

ごんぎつねの中で、意見の分かれる箇所がある。
それは、ごんが、本当に優しい狐なのかどうかと言う点だ。
第1場面から第4場面くらいまでを読むと、ごんが、素直で心の優しいキツネだということがよくわかる。
なぜなら、自分がやってしまったいたずらのために、兵十は母親にうなぎを食わせてやれなかった。それを深く反省し、償いを始めているからだ。
それも毎日のように栗や松茸を持っていってやっている。

怪しくなるのは第5場面だ。
栗や松茸が毎日のように家に届く兵十は、それを神様のお恵みだと認識するようになる。実際は、ごんが持っていってやっているのに、だ。

そこで、ごんはこう思う。

へえ、こいつはつまらないな。おれが、くりや松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼を言わないで、神さまにお礼を言うんじゃあ、おれは、ひきあわないなあ。

ある子が言う。
「本当に心が優しいのなら、兵十は栗をもらって喜んでいるのだから、それを見て満足すればいい。兵十を喜ばせることができた、で、良いじゃんか」

しかし、ごんは欲張ってしまう。
自分がうなぎのいたずらをした償いのために、せっせと栗を運んでいるのだと言うことをわかって欲しくなった。兵十にその献身的な振る舞いを認めて欲しいと思った。褒めてもらいたくなってしまった。

この辺が、だんだんと、読み取りを進めるうちにはっきりしてくる。
すると、ごんという狐は心の優しい狐です、という単純なフレーズでは、間に合わなくなってきてしまう。

いや、そもそも第1場面の初めから、ごんは厄介ないたずらギツネだとして、登場してくるではないか。
畑へ入っていもをほりちらしたり、菜種(なたね)がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家(ひゃくしょうや)のうら手につるしてあるとんがらしをむしり取ったりしている。

ここらへんを、再度、しっかりと読み直す。すると、

【ごんは、◯◯なきつねです】

という単純な言い方では、収まりきれないような感じがしてくるから不思議だ。

「本当は心優しいはずなんだけどなぁ。毎日、栗を拾ってくるし、お母さんのことも心配したり、悲しく思ったりしているんだから。でも、ごんはいたずらするんだよなぁ。そして、僕のことを見て欲しい。わかって欲しいと思ってるんだよなぁ」

教室の中に、ごんというキツネが、なんとも生々しい、生きた存在として、あるいは、非常に複雑な心の状態を抱えた登場人物として、くっきりと浮かび上がってくる。

ひとりぼっち、という叙述に焦点を当てる子もいる。兵十のことを見たごんは、
「おれと同じひとりぼっちの兵十か」
とつぶやいている。
そもそも第1場面からそう書いてある!と、改めて見つける子もいる。

ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に穴(あな)をほって住んでいました。


だから、自分と同じようだから、気にしているのだ。そばに行ってあげたくなるのだ。
第4場面で、わざわざ後をつけるのも、そばにいたいのかも・・・。

さて、第6場面まで、つまり最後までを通して読んでのまとめ、を考えよう。

ごんが第6場面で、兵十に対して思っている事は何だろう。
一番の切ない思いは、「わかって欲しい」だろう。わかってくれなくても構わない、兵十が栗を食べてくれたらそれで良いと、忍んで耐えるごんではない。見て欲しい、気づいて欲しい、とさらに兵十に近づいてゆく。そして、近づき過ぎて・・・

最後まで読み終えて、あらためて

【ごんは、◯◯なきつねです】

としてまとめてもらうと、
子どもたちは、
「ごんは、兵十に、僕を見て欲しい!こっち見て!と構って欲しいキツネ」
と書いた。

かまってちゃんだよ。

誰かがそっとつぶやいた。この一言に、教室中が笑い出した。

そうか!

いたずらばかりしていたのも、こっち見て欲しいサイン、かまってちゃんサインだったのかも・・・

ある子が言った。
決まった女の子だけに意地悪を言う男の子っているよね。他の女の子に対しては全然普通の態度なのにさ!特定の子にだけ、ちょっと意地悪するんだよね。

そしたら女の子が、「なんでそんなふうにイジワル言うの?」って、その子が目の前に来て自分に言うもんだから、その時はもう、心臓がドッキンドッキンしてるんだよ!そういう男の子、いるんだよね!

これで一気に教室中が爆発的に沸いた。

ごんは、一人ぼっちだから、友達が欲しかったんだよ。

という意見が出ると、ほとんどの子が自分も同じ意見だと表明した。
寂しいから、友達が欲しいから、かまって欲しいから、自分が優しいってわかって欲しいから、だから、近寄っていくんだけど・・・

別の子が、それに付け足した。

でも、だからこそ、いたずらをしちゃう時があったんだよね。

ははぁ・・・そうか・・・(笑)


ノートに書かれた、最後のまとめを読むと、こう書いてある。

ごんは、相手が困っていたら、助けてあげたくなるくらいに、本当の本当は、友達思いなんだけど、恥ずかしくていたずらをしてしまう、キツネ。

この授業の後、なんとなく教室の中の雰囲気が柔らかくなりました。そして、男子が女子に、女子が男子に、近くなって話をしているのです。
誰かの冗談に、男子も女子も一緒になって笑っている姿がありました。

みんな、一人ぼっちなんだよ、そして、友達が欲しいんだよ・・・

ごんの姿を通して、子供たちの心に響いた何かがあったのでしょう。 あと、このクラスは半年だ。みんな、なんとなくそれを感じ始めている。5年生になったら、クラス替え。今隣にいて話ができている、この友達と、こんなふうに話ができていることの嬉しさ。
新美南吉さんの物語は、直接的ではないからこそ、やはらかいからこそ、心の琴線にふれたのでしょう。

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『ぼくとおじちゃんとハルの森』(山末やすえ)

これがおすすめなんですわ。
ぜひ、読書感想文を書きましょう!

クラスの仲の良い友達が引っ越ししてしまい、心に穴があいたようになって、ちょっとさみしくなっていた小学4年のぼくが、夏休みに田舎で心のエネルギーをとりもどす話です。

田舎のおじちゃんのところに行って、犬とおじちゃんとしばらく一緒に過ごすのですが、これがたのしくて。

子どもが大人を見つめる視線って、こんなふうだよなあ、というのがよく伝わる本です。
で、実は大人も、子どもに助けられるんですよね。どちらかというと、大人が救われるわけです。
しかし、この

「ああ、これは大人がすくわれていく話なんだなあ」

というのは、大人になってからしかわからないようです。
子どもは、その視点をもたないで読みますから、この本を読んでもそういう感想は出てこない。子どもの感想文にはそんなことは書かれないのですが、大人はこれを読むと、「おじちゃんは嬉しかったでしょうし、ぼくに感謝しているだろう」と思う。

つまり、大人が読むと「おじちゃん視点」で読むことになり、
子どもが読むと「ぼく視点」で読むことになる、という不思議な本です。

どうでしょうか。
こんなふうに本の中身がちょっとわかると、「あ、読んでみたい」と思うでしょう?

朗報です。
ここで、読書感想文を子どもに書かせるコツを伝授しますね。

お子さんが図書館の本棚をぐるぐると回りながら、
「いい本がない〜」と言っていたら、です。

まず、本にはジャンル、というものがある、ということを教えてあげてくだされ。

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文学であれば、

1)日本のもの
2)外国のもの


という2つのジャンルがあります。
日本がいい、とか、外国がいい、とかのように、こっちが( ・∀・)イイ!! ということをすぐに言える子もいます。

「そんなのどっちでもいい」

という子が大多数ですが・・・

3)むかしばなし
で書ける!
という子もいます。なんとなくストーリーを知っているので、とっつきやすい、というのがあるからかもしれません。

4)すでに知っている話
なら書ける!という子は、わりと多いです。
もうすでに読んだことがある、とか。
教室の片隅に置いてある学級文庫で、実は少しだけ読んだ、とか。

5)小学生もの

これは、主人公が小学生なので自分にも身近な存在に思えるから、まあ読んでみるか、と思うのでしょうか。たとえば山中恒さんの「あばれはっちゃく」とか「くたばれかあちゃん」とか。

6)事件・サスペンスもの

名探偵◯◯、とかですね。コナンとか。銭天堂もこのジャンルかと思います。

いずれにしても、本が選べない〜、と図書館で泣いている子、あるいはお父さんに泣きついている子、お母さんと口喧嘩を始める子、については、

「どうこれ?こんな感じのおはなしだけど」
とか
「これいいじゃない?主人公は小学生でね、◯◯と出会ってたいへんなことがもちあがって、◯◯してすごいことになるんだけどね。知恵を出して仲間とね、ハカセがハチベエとモーちゃんに・・・」

みたいなことをおうちの方がお子さんにお話なさると良いですね。
すると
1)予備知識ができてくるので

2)ちょっと安心して

3)興味をもって

4)ぼくにも書けるかも

となって、読書感想文が書けるわけですね。

つまり、ちょいとした「誘い水」が、あるかないか。
物事は、意外と単純ですね。

あとは、

ぼくが読んだこの本の主人公って、こんな特技があって、こんなことになっちゃったけど実はこんな工夫をして仲間と相談してすごいんだよね。

というように、その本の良いところを先生に教えるつもりで書くと筆がすすむでしょう。

プール清掃前に理科・生活科の授業をやること

以前、神奈川の小学校に勤務していた時のこと。
その小学校では、プール清掃をする前に、網を持ってきて、プールに生息している様々な水生昆虫を集める学習があった。

おそらくそれは理科の大好きな先生が始められたことで、科学教育研究会(かきょうけん)という組織に所属していたある先生が私にも声をかけてくださったのだ。

校長先生に許可をもらい、クラス全員でプールに赴くと、既にそのS先生のクラスの子たちは、先にプールに到着しており、先生は子供たちに何かを指示しているところだった。

私は低学年の担任だったし、道具を持ってきていなかったので、ほとんど見るだけであったが、S先生は、自らも網を持ち出して、たくさんの昆虫を救った(掬いあげた)。

「来週このプールは6年生が掃除をしてピカピカにします。その前に、どんな生き物がいるのかを調べてみましょう」

S先生は、最初に見つかった水カマキリを、理科室から運んだ大きめの水槽に入れて我々低学年に見せてくれた。

勤務していた学校は都市部ではなく、まぁまぁ自然も残っている学区だったけれど、それでも子供たちはあまり水カマキリを見たことがないから、子供たちは皆、熱心にその生き物を見つめた。

「タガメがいないかなぁ」

とS先生がつぶやくと、その言葉に反応したうちのクラスの男子がちょっと興奮した声で、

「おれ、タガメ見てえ!」

と叫んだ。

タガメを知っている子はそう多くなかったけれど、それでも何人かは知っていた。タガメは、水中では魚を捕まえる位に、凶暴な肉食の大型昆虫であります。
小さめのフナのような魚であれば、タガメは捕まえてしまうのではないか。がしがしと食べるのではなく、チュウチュウと生き血を吸うのであります。

私がそのことを説明すると、クラスの子供たちのボルテージは、おお!と高まるのでした。

結局、タガメは見つからなかったのですが、ガムシやマツモムシなどはたくさんいました。どこからか飛来してくるのか、1番たくさんいたのは、トンボのヤゴです。大きめのヤンマ系列のトンボは、ヤゴの大きさも大きいです。私はぱっと見てわからなかったのですが、小さなホコリのようなものも、S先生が見たらヤゴでした。

あと、たくさんいたのは、おたまじゃくしです。カエルはどこかに潜んでいるのでしょうか、プールがここにあることを、なぜか知っているらしいのです。
そういえば、学校のちょっとした茂みに蛙が見つかることがあり、こんな街の中でも生きているんやなぁと感心していたのですが、考えてみたら、この蛙たちは、学校のプールで、どうやら大きくなっていたようです。税金でカエルを養っておりました。

S先生は、たっぷり、私たちに昆虫を見せてくれたあと、最後には、捕まえた昆虫たちを水槽に入れて、校長室前で数日間観察会を催してくれました。

私はこの時に良い思いをしたので、次の学校に転勤で異動した時、プール清掃前にS先生の真似をして、昆虫を見つけようとしたことがあります。

ところが、何の昆虫も、そこのプールには見つけられません。子供たちと網ですくって色々と探してみたのですが、ヤゴもおたまじゃくしもほとんどおらず、都会すぎるからだろうか、同じ市内でも住宅街が多いからかなぁ、と不思議に思っていました。
結局、それは、冬の間に藻が発生するのを防ぐために薬を入れていたからなのでした。後で、教頭先生に聞いてわかったのです。何でも先に、管理職の先生方に聞いておくのがいいですよね。

今年は私は理科を担当していないので、昆虫のことを忘れておりました。でも、来年はやりたいなぁ。

今の子どもたちの中には、ガムシもゲンゴロウも、マツモムシも、ヤゴも、見たことがない、という子もいます。

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これは何かしらちょっとまずいことのような気がしています。

教師はますます 教えなくなるが、弊害はなくなっていく

教師の仕事は 一昔前とはもう大いに違ってきております。

早い人で、もう3、40年以上前から、いわゆる【上から下へ知識を流す】と言うような一方通行のイメージはなくなっていると思います。

教師の世界で批判されるのは、このタイプで、もう30年以上前の教師用の教育委員会の資料でも、いわゆる「鵜飼」型の指導は批判されています。

次に現れたのが、トライアングル型で、先生は、どこかの頂点にはいるのですが、他の2つの頂点は、どちらも子どもで、いわゆるこども同士を、お互いにつないでいると言うようなイメージが生まれます。

教師はそこに適切に介在し、子どもたちの討論が生まれるように、あるいはお互いに疑問点や意見を出し合いるように、場を整えていきます。

これは教室のあり方としては、非常に正しく今でもこれは間違っていません。

このことが土台になり、今の教室のイメージはさらに発展しております。
と申しますのは、実は教師子ども以外のものがそこに大きく登場してくるのです。

それが、「データベース(知恵の泉)」です。

子どもは様々な意見を瞬時に把握し、どこにどんな情報があるかを見抜いて、自分の意見のたしからしさを調べる作業に時間を使うのです。

・教科書に書いてあるが、本当だろうか?
・もっと細かなちがいはあるか?
・AとBの比較で、さらに共通と呼べる部分はあるか?

友達の体験に裏打ちされた意見を、電子黒板でサッと判断するのです。
ぜんぶ、いっしゅんで出ますからね。見てわかる。これが早いです。
電子黒板がなければ、一人ひとりに大きな画用紙に書いてパッと差し出してもらうか、あるいは一人ひとりが自分の意見をとうとうと話すことになるのでしょう。そんなことしてたら45分はあっという間に無くなります。

子どもたちはクラス全員が同じように【知識の泉】をとりまくようにして立ち、いっしょの目線でデータベースを眺めながら、意見を交換し合うのです。で、ふと気がつくと先生もいっしょに横に立っている、というような・・・

これが令和の教育における、教師の立ち位置なわけですね。
昭和とはかなりちがうことがおわかりいただけたでしょうか。

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あと、もう一点、考えなければならないことがあります。
調べる際にインターネットを使う場合がありますね。
大切なのは、この、インターネットのデータベースは全て正しいわけではないと言うところが、現代の、本当に現代らしさを反映した部分だと言えましょう。

教室で子どもたちが出会う知識と言うのは、すべからく正しいものである、と言うのが、これまでの常識だったのではないでしょうか。

その最たるものが、昭和初期の教育で、教師の言う事は絶対である、と言うような雰囲気があったそうですね。祖父や父から聞いただけで、実際に体験したわけではないけれど。

ところが、今現在知識と言うのは正しいかどうかと言うことが非常に疑われる時代になってきました。
子どもが何かを知ろうと思ったときに、実はインターネットというものが存在しており、いつの間にか人間社会は、インターネットで検索してみた知識、と言うものを無視することができなくなってきています。

え? 教室でインターネット使うの?心配!インターネットは嘘ばっかりよ!?

と言う皆さん。ご心配なく。
そんなこと子どもだって知ってます。

インターネット初期の時代は、インターネットに書かれていることは、かなり真実なのだろうと考える人が多かったです。でももうすでにほぼ全国民が、インターネットは嘘ばかりと言うことを実は知っています。

なので、子どもも検索したあと、例えばこんな反応をします。

ここにこんなふうに書いてあって、そういうことになってるみたいだけど、ほんとかなぁ?

これが令和6年度の子どもたちの実際の姿です。

しかし、インターネットを無視できないものとして、教育をする事はもうすでにできなくなっています。
なぜなら、教室でありとあらゆることを討論する際に、必ず誰かがインターネットで調べてみたいと思うからです。大人の真似をして・・・。

全国民の大人たちが、インターネットで調べるのを、当然のようにやります。だからなのか、子どももインターネットで調べたい、と思うらしいのです。

嘘ばかり載っているんだから、教室では調べない、と言うことにすると、宿題では無いのに、勝手に家で調べてきたりします。インターネットで。
なので、どうしても教室で何かを考える際に、インターネットの存在を全員の頭の中から消すわけにはいかないのです。

時代は、ここまで進んでしまいました。

開き直ったのは、文科省です。

文科省は、1人1台、タブレットを配りました。そして、子どもたちの意見がまとまらないことを前提に、授業を組むようになったのです。

当然、人間は、一人一人意見が違って当たり前ですから、子どもたちは自分の端末に、自分の意見を書いて提出します。教員はそれを全員に見せます。子どもたちは自分と似たような子どもの意見を探したり、あるいは違う意見を見つけたりします。そして疑問点を直接その子どもにぶつけに行ったり、自分の意見と似たような友達にやっぱりそうだよねと確認をしに行ったりします。そして自分の意見を支える論拠となる部分をさらに練り直すのです。
これが最近の授業の様子です。教師が研修でお互いの授業を見合うことはありますが、どの授業もたいていこんな感じに仕上がっておりますね。


思い返せば、昭和の先生は、みんなありとあらゆることに造詣が深く、ご自身の知識をたくさん授けてくださいました。
それに比べて、令和の教員は、本当に存在感が薄いです。いや、逆に濃いのかもしれませんが。

教員と子どもの間には必ずデータベースの巨大な知識の泉がそこに存在しています。教員は、まっすぐ子どもにアプローチするのではなく、巨大な知識の泉を迂回するようにして、子どもの横側に、そっと現れて、知識の泉を指差して言うのです。

この辺にこんな知識が書いてあるけど、参考になるかなぁ?

どうですか?
これが令和の先生です。
威厳もへったくれもありません。

ですが、誤解がなくなって私はいいと思います。
だって先生だって知らないことたくさんあるんだもの。

昭和の子どものように、純粋な目でキラキラと先生を見つめて、
「先生は何でもご存知だ」
と憧れるような事はありません。
でも、そんな実態からかけ離れたようなポーズは取らなくて良いのです。
それはたくさん知ってたほうがいいかもしれないけど、知識を更新していなければ、価値は無いでしょう。

だから、もう教師はデータベースとは喧嘩しないのです。
データベースと張り合ったって負けるに決まっています。
なので、子どもがデータベースをじっくりと見て、自分の意見を醸成しようとして腕を組んで唸っている、その横にふっと現れるのです。

子どもはふと現れた先生を横に見て言うでしょう。

「あ、先生。何か用?」

すると先生は、もじもじしながら、おずおずしながら言うのです。

「あ、さっき提出されたカード見たんだけど、あれなかなか鋭い見方だよね。感心したよ。でさ、このクラスにもう1人、ちょっと違うけど、似たようなところを調べている子がいたから、話してみたらどうかなと思ってね。◯◯くんなんだけど・・・」

くれぐれも、これ大学の話じゃないですよ?小学生の話です。

先生はもう教室の真ん中にはいません。
これを知らないので、多くの保護者は、誤解をしていまして、授業参観に来ると、先生は何もしないじゃないか!とお怒りになる保護者もいるようです。無理もないけどネー。

変わりすぎだろ!

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マスクで友達の表情や意味がつかめなかった世代の問題点

今、5年生を担任しています。

この子たちは、小学校入学した一年生で、コロナの洗礼を受けました。
つまり、入学した後、1ヵ月間学校に登校することができなかったのですね。
その後も、ほとんどの行事が中止。1年生を迎える会も運動会も中止。水泳プールも中止。
全校の集まる行事はほとんどできず、1年生なのに、5年生6年生と1度も顔合わすことなく、ほとんど教室だけで引きこもったようになって、過ごした世代であります。

これは、大きな視点から見ると、壮大な実験だったようにも思います。
友達の表情を見ないと、どんなコミュニケーションの差が生じるのかと言う点で。

これまでの人類史上、初めてのことかもしれません。
第一次世界大戦の頃のスペイン風邪流行の頃も、マスクは推奨されました。しかし、あの時は、たった1年半で収束しましたし、そもそも、マスクを強要する程度が、今回よりも格段に低かったのです。
その時よりも今回は尚、長期に渡ったのです。
そんなふうに、友達の表情を見ずに、幼少期を過ごしたのが、今の子たちです。

私は、意外と、大丈夫なのではないかなと言うふうに捉えています。
確かに、人間同士がコミュニケーションを取る場合、表情はかなり大きな手がかりになります。
目元がほころんでいたり、口元が緩み、口角が上がっていれば、人に対して、親和性を感じやすくなると言うのはあるでしょう。

もしかしたら、他の学年の子たちに対しては、少し距離があるのかもしれません。昔よりも。

しかし、同じクラスの子どもどうしは、よくコミュニケーションは取れていると思います。マスク越しなので、逆に言葉をよく聞き取ろうとしているようにも思います。だから、必ずしもマスクがあるから、能力が育っていないと言うわけではなさそうです。

ただし、1点だけ気になることがあります。それは行事の楽しさを知らないと言うことです。
今は、行事の楽しさを先生たちだけが知っていると言う状態。兄弟の誰も味わっていません。ここ3年間行事がほとんどなかったのですから、当然と言えば当然ですが。

なので、行事を普通にやろうとすると、子供のテンションは上がりません。
めんどくさい、そんなの嫌だなやりたくないと言う声が多いです。

行事のほかに、もう一つ影響があるのが、総合的な学習の時間。
これもなかなか盛り上がりに欠ける傾向があります。
内容にもよるでしょうが、以前なら、普通にインタビューに行けたことでも、実際に会うことはせずに、資料をみて済ましてきたのですから、全国の小学校で、総合的な学習の時間が、どうしても規模の小さい展開の乏しい内容になってしまっていたのはあると思います。

子供たちに新たなムーブメントとして紹介し、子供たちが多くの人に関わろうとする展開をこれから広げていくしかありません。全校の行事も、これまで以上に人と人とがスムーズに関われるような細かい手順や段階が必要になることと思います。
つまり、規模を急に広げなくても良いのです。
そのかわり、ステップを重視し、細かい段階をつけながら、一つ一つを味わう学習へ変化させていきましょう。

たくさん食べたらおいしいのではないのです。1粒1粒を丁寧に大事に味わうと言うような新しい学習スタイルがコロナ後の小学校が進むべき道なのです。

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朝のスピーチ つたわるか、つたわらないかの差はどこに


毎朝、子どもらは、教室のディスプレイを使って、スピーチをする。
デジカメでうつしてきた写真を、みんなに見せる。
これは、ただ、なにも道具立てがないよりも、はるかにおもしろい。
写真にいったい何が映っているのか、みんなが固唾をのんで、待ち受けている。

教室が、一瞬のちに、シーンとなる。

「ただいまより、ニュースを始めます」

なかには、NHKのアナウンサーを気取って、

「時刻は○時○分になりました。ニュースの時間です」

と始める子もいて、個性があるのがいい。

家でうつしてきた、ちょっとした小物。
お母さんと一緒に作ったホットケーキ。
買ってもらったばかりのプールバッグ。
飼っている犬の姿。
弟の顔、なんてのもあった。

理科で、植物を学んでいるシーズンは、どの子も似たようになる。

登下校中に見つかった、あやしい草。
家の前に咲いている、黄色いきれいな花。
おじいちゃんの、盆栽。
・・・

おそらく、写真のシャッターを押す瞬間、彼や彼女が、なにかを心に宿し、決めて、
「よし、これだ!」
と思い切る。

その、自己決定の「ハラハラ、ドキドキ感」が、ニュースに臨場感を持たせ、おもしろくさせるのだと思う。

だから、なんとなく、ニュースがつまらないとき、

「撮るものがなくて、お母さんがこれにしとき、っていうから撮った」

という場合が、中にはある。
もちろん、
「お、それいいな。お母さんの言ってくれたの、すごくいい!」
と思えて、自ら主体的にシャッターを押す子もいるだろうから、お母さんに教えてもらうこと自体が悪い訳ではない。
ともかくも、その子の内面の、緊張感が出てしまうのが写真というものだろう。


こんな、写真のような道具立てがなくたって、スピーチ自体がおもしろいときもある。


クラスに、スピーチ名人がいる。
なぜかスピーチに臨場感があり、伝わってくる。
それはもう見事で、クラスがその子の声に、すっかりとりこまれてしまう。
教室が、その子の息、呼吸に、すべてぬりつぶされてしまうくらい、面白い。
そう、おもしろい。

なぜかな、と考えてみている。


他の子のスピーチと、一味ちがうところは・・・。


聞く人の目が、すいすいとすいよせられ、いきいきと、
彼女が話すたびに、聴衆に活気がみなぎっていく。

それは、彼女が、自分の中の、「迷い」を出しているからだろう、と思う。

彼女には、まだ小さな、少し変わった弟がいて、姉のやることなすことに興味を持ち、(まあふつうですよね)姉のランドセルにぬいぐるみを詰めたり、朝起きたばかりの姉の上にとびのってきたりする。
姉としてはちょっと、困ることなのだが、そこをまあ、姉らしく、ちょうどよくおさめていくために、彼女なりの工夫でもって、うまく弟くんを、じいちゃんに押し付けたり、軽くかわしたり、あれこれと迷いながら、葛藤しながらも、知恵をしぼる。
これが、話のおもしろいところだ。

たまに、家族をよ~く観察しているからかな、と思って笑っていたが、この間、気がついた。

この子の話は、サザエさんなのだ。

長谷川町子が、気付いて、漫画にしたてあげる。
日常にみえかくれする、人間臭さ、とっぴょうしのなさ、思わずのけぞったアクシデント、ふと口にしたセリフ、意図せず行うこと、力のぬけた感じ。
サザエさんをはじめ、マスオさん、ワカメ、カツオ、タラちゃん・・・。

あの目線が、この子には、ある。
人間くささ。
ひとのうごき、考え、クセ、アホさ。
ひっくるめての、人間の、こと。

それが、そのままで、面白いってこと。


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道徳教材 だれとでも


だれとでも

長谷川あおい


3年生になり、クラスがえがありました。
わたしは、ひかりちゃんと、また同じクラスになれたので、うれしくてたまりませんでした。ひかりちゃんとは、それまで保育園のころからずっといっしょだったのです。同じクラスだとわかったときは、ふたりで大よろこびをしました。

1学期がはじまって、すこしたったころのことです。
あたらしい友だちもできました。ゆみちゃんです。
ひかりちゃんとゆみちゃんは同じはんです。さいきん、ひかりちゃんがゆみちゃんとよくしゃべっているので、わたしもしぜんと話をするようになりました。

ある日、わたしが、休み時間にひかりちゃんとあそぼうと思っていたら、ひかりちゃんは、ゆみちゃんと話をしていました。
ひかりちゃんは、とてもたのしそうにわらっています。
ゆみちゃんも、いっしょになってわらっているし、たくさんしゃべっていて、二人はとてもたのしそうでした。

わたしはそのようすをみて、なんとなくすぐにトイレに行ってしまいました。
トイレからもどってくると、まだひかりちゃんとゆみちゃんはしゃべっています。

けっきょく、その休み時間は、わたしはほかのことをしてすごしました。

---------------------------------
○このときの、あおいちゃんのきもちって?
○おなじようなけいけん、ある人?



つぎの休み時間がきました。
ひかりちゃんが、わたしのところにあそびにさそいにきてくれました。
「あおいちゃん!」
ひかりちゃんが、にこにこして言いました。
「ね、ドッジボールやろうよ」
わたしは、ひかりちゃんがこうやってあそびにさそってくれるところがすきなのですが、ドッジボール、ときいて、ちょっと考えてしまいました。本当は、ひかりちゃんと二人きりであそびたい気分だったのです。

「だれと?」
ときくと、
「ゆみちゃんもいっしょだよ」
とひかりちゃんが言いました。

ボールをもっている男の子が、
「はやくいこう!」
と言うと、ひかりちゃんとゆみちゃんは、
「いまいく!」
と言ってから、
「あおいちゃん、先に行くよ!おいでね」
と走って行ってしまいました。

ゆみちゃんが、ひかりちゃんといっしょに走っていきます。
その姿を見ながら、本当はわたしがひかりちゃんとあそぶんだったのに、と思いました。

「2年生のときだったら、こうじゃなかったのに・・・」

ひかりちゃんのすぐそばにいて、いっしょに走っていくのは、ゆみちゃんではなくて、このわたしだったのにな・・・。そう考えると、なんだかすぐには外へ出て行く気持ちになれませんでした。


---------------------------------
○このときの、あおいちゃんのきもちって?
○おなじようなけいけん、ある人?
○このあと、どうなったと思う?予想しよう。




でも、今日は前の休み時間にもあそばなかったのだし、と思いなおして、外へ出ました。ほかにもいっしょにドッジボールをやる子たちがいて、しぶしぶとわたしはみんなのあとについていきました。

地めんにコートをかいて、ドッジボールがはじまりました。わたしはあまり元気がなくて、すぐに当たってしまいました。
すると、ボールをなげた男の子が、

「あっ、いたくなかった?」

と言ってくれたので、わたしは

「ううん、だいじょうぶ」

と言いました。

それを見て、ひかりちゃんが、

「男の子は、左手でなげてよね」

と言って、わたしの方を見て、にっこりとしてくれました。

また、ゆみちゃんも、

「まだはじまったばかりだから!あおいちゃん、パス、おくるね」

と言ってくれたのです。

わたしはすこし、元気が出て、ボールがとんでくると、その近くまで走ってとろうとやってみました。男の子たちが、がんばってボールをとっているとので、なかなかとるチャンスがありません。でも、何回かに一回、ボールをなげることができました。

わたしはひかりちゃんになげたかったのですが、とどきません。それで、近くにいた、同じチームの男の子になげてボールをパスしました。すると、その子が、すぐにあい手をひとり当てました。
それを見ていた、同じチームのさやかちゃんが、

「あおいちゃん、ナイスパス!」

と言ってくれました。
さやかちゃんのとなりにいたけんじくんも、
「おお、ナイスパス!」
と言ってくれました。

そのあと、またなんどかボールがきて、思い切りなげると、同じチームのコートに、とどく回数がふえました。
わたしは思い切りやれて、なんだか、ドッジボールが楽しくなってきました。

チャイムがなって、休み時間は終わりです。
すると、さやかちゃんやけんじくんが、近くにきてあるきながら、

「けっこう、おもしろかったね」

と話しかけてくれました。

「あおいちゃん、よくパスできるよね。わたしなんかこわくて、にげてばかりだけど!」

さやかちゃんがわらって言うと、

「そうだ。またおいでよ。ドッジ。あしたもやろう」

けんじくんたち、男の子たちも、みんなくつをはきかえながら、そう言うのでした。
それまで話をしたことのない子で、
「あおいちゃん、けっこうとおくまでなげるね」
と話しかけてきてくれた子もいました。

ろうかには、春のあたたかい風がふいています。もうすぐ、じゅぎょうがはじまりそうです。


---------------------------------
○このときの、あおいちゃんのきもちって?
○なぜ、あおいちゃんのきもちがかわった?
○あおいちゃんは、なぜたのしくなってきた?
○ある人とだけなかよし、について、どう思う?




○感想。


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文章が、ちょっと長いから、どう削るかを思案中。

子どもだって、問いを作るのは難しい

なぜ、難しいのだろうか。
大人も問うことが苦手だ。問うことは、エネルギーを使う。合理的な思考を要求される。知的活動だから、脳内でブドウ糖を消費してしまう。

小学生が問うことを苦手とするのは、一つには「問いは与えられるものだ」という思い込みがあるから、かもしれない。
これはこれまでの教育の弊害だろう。

小学生については、次のように進めていくと良いだろう。
まずは、問いを立てる、自分で調べることのできそうなところから、少しずつ調べ始め、わかったことを順に整理していく。1つわかったことがあったら、他にもわかる事は無いかと広げていく。もしわかったことが2つ3つと広がったら、それらを比較してみて、また自分なりの気づきが得られるかどうか探してみる。
最後に結論をまとめるが、その際に、気をつけなければならないのが、これでわかったとおしまいにしないことである。ここまではわかった、であれば、その続きはどうなるのか、と、前に進めたり、環境が変わったら、そういう事象は起きないのだろうか、と条件を変えて考えてみたり、日本以外ではどうか時代が変わったらどうか、と、見る視点を変えてみて、さらに追求できるよう、新たな問いにつなげていくのがコツだ。

しかし、そもそも、そんな問いを立てること自体が難しい。まだ慣れてもいない。ほとんど生まれて初めてのことをすると言う気分になる子だってそうだ。

ではどうするか。

まずは1冊ノートを用意しよう。
そこにすごろくを書いていこう。
昔からの定番だが、すごろく型の思考の進め方、は、非常に小学生に向いている。

大きな丸を描き、その中にふとした疑問をとりあえず1つ入れてみる。
なぜ空は青いのか。
自動運転の車は本当にできるのか。
地震が起きたときに、どうしたらうまく逃げられるのか。
うさぎの賢い飼い方。
うちの猫は一体何を考えているのか。

など、ふと思いついた疑問を、まずはその1つ目の丸に入れてみる。

2つ目の◯も重要だ。
最初の◯から、1本の線を伸ばして、2つ目の丸につなげてみよう。
この2つ目の丸の中には、どうしてそれが気になったのかを書いてみるのが良い。自分の中で特にその気になった原因を探してみると、問いがもう少しだけ咀嚼され柔らかくなる。

例えば、空はなぜ青いのかと言う問題を考えた子。
どうしてそれが気になったのかと言うと、これは、人によって、様々なきっかけがある。
青だけじゃつまらない、もっといろんな色になれば、毎日が楽しそうなのに、と、美術的アート的デザイン的な視点からそのことを考える子は、科学的な光の波長や屈折度についての理解をしたいわけではない。むしろなぜ人がアートを欲するのか、青い色はなぜ清々しい感じを人々に与えるのか、温かみのあるオレンジ色は、なぜ食欲をそそる色になるのだろうかなど、色彩心理学のほうに舵を切った方が興味関心が持続する。

もし緑色の夕焼けがあったら、人々はどんな気持ちになるだろうか。

と、問いを少しだけ変化させてみる方が、その子の調べる意欲をかき立てるかもしれない。

まずは、問いを、自分なりに細かく咀嚼し直すことが必要である。これが2つ目、3つ目、4つ目、5つ目位までの◯の中身である。
つまり、これが問いを大きく咀嚼した段階と言えよう。

次の段階に進もう。
それは、その問題を、もし理解したり、解決したり、深く捉え、直すことができたとしたら、どんな良いことがあるかを考えることである。
難しく考えなくてもいい。これは個人的なことで構わない。
自分がこれからの生活に、その知識を生かせそう、と、思えば良いだけである。

しかし、そのことを調べ、学習の最初に少しだけ考えておくことが、最後の最後に非常に生きてくる。
それは、次の問いを発生させるエンジンになるからである。

正直、問いを立てて考えていくということは、側面から見ると、しんどいことに違いない。
わざわざ調査し、回りくどく考え、わかったと、単純に言わないのが、とてもしんどい。だからこそ、このことを考えたことが、どれだけ自分を高めたのか、と言う視点を入れておくのである。

こうして、当初の、ふとした小さな疑問は、咀嚼し直し、自分なりの意義づけを与えることにより、小学校での学習にふさわしいものとなる。

大人はここまでのことをしない。
SNSやYahoo!のコメント欄を見ても、ほぼ条件反射でいいねを押したり、そんなのはダメだと否定することが多い。
これらは、問いを立てると言う知的な作業では無い。もし可能なら、「関連して新たな問いを作る」というボタンを付けるべきである。

人類は、問いを立てることにより、様々に思考を働かせ、現実の社会問題をよりよく解決する方向に進めることができた。
今のSNS社会では、問いは立てないが、何かしらわかったつもりになりやすい。賛成ボタンと反対ボタンを、条件反射で押してるだけのことである。
このことの意味のなさを、子どもの時から感じられるように、育てていくのが、新しい次の世代に向けての教育だろうと思われる。

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問いを、ともかくたくさん出してみる【小3・モチモチの木】

問いを、ともかくたくさん出してみる。
これが、トレーニングになる、と多くの先生たちは考えます。

例えば「将来、自分は何がしたいのかな」と、考えることがあるとします。

この問いに対して、

では、考えましょう!

と、いきなり進めるのではない。
その辺が、どうやらポイントになりそうです。

「将来、自分は何がしたいのかな」

これを考えるために、考えやすくなるような作戦を立てよう。
というのが、常套手段です。
この問いに迫るための、いわば、ロードマップを計画します。

何がしたいか、

【の前に・・・】

と考えるわけです。

大きな問題をいきなり考えるのでなく、以下のような中くらいの大きさの問題を、考えてみましょう。

例えばですが、
【問い】ぼくの性格は?
【問い】僕が3歳の頃、夢中になったものは?
【問い】好きで得意なものは?
【問い】好きだけど苦手なものは?
【問い】これから10年後の社会はどうなってると思う?
【問い】自分の中で、誰かの役に立ちたいと思う割合は、10点満点で何点?

など。
いろいろ、考えてみよう、とするわけです。

つまり、大きな問いしかつくれない人と、さまざまな、それに近づいていくための中くらいの問いをつくれる人、さらに細かい問いをたてられる人とでは、得られる情報が、当然ながら違ってくる、ということです。

なので、国語でモチモチの木を学習するとき、大きな問いとして、
【問い】この話が好きか嫌いか

というのを、クラスみんなにアンケートを取りたい、という子がいたら、それを大きな問いと考えて、中くらいの問い、小さな問い、として、どんどん子どもに出させる。

すると、
【問い】この物語はハッピーエンドだと思うかどうか。

というのが、意見として出てくる。
好きか嫌いかをいきなり答えようとする前に、ちょっと待てよ、そもそもこれは良い話なのか?そうでもないのか?・・・。どっちだと思う?ということが、気になるわけです。

豆太が臆病を克服して強くなった、とは書かれていない。
最後はこれで、めでたし、めでたし、だと言えるのかどうか?

豆太はせっかく勇気を出せたのだ。
真夜中に、医者様を呼ぶため、たった1人で半道もある麓の村まで、行くことができた。
であれば、お話の最後は、豆太が自分の力を信じ、勇気を持った少年となり、それからはもう二度と、じさまを夜中にしょんべんで起こす事はなくなりましたとさ、で終わるべきだ。

ここまで考えてようやく、
【問い】このお話が好きか嫌いか
について、意見が言えるのでしょう。

あるいは、こんな問いも出されそうです。

【問い】豆太は本当に臆病なのか
【問い】どうして作者は、最後に再び、じさまぁと豆太に言わせるのか
【問い】モチモチの木をなぜ豆太は一瞬しか見ないのか

のように、子どもがどんどんと謎を見つけていく。

それらを討論してからですと、どの子も自分なりに、この物語を、好き!とか、嫌い!とか言えるようになる。それも、根拠を持って・・・。相手を納得させる理由を、胸を張って言えるわけ。

図工の鑑賞授業の手法と似てます。
というか、おそらく、見方や考え方は、かなり共通点がある。

雪がキラキラ光る、満月の夜のモチモチの木を、ぜひ見てみたい、と子どもが思うようになれば、さらに学習は広がりますね・・・。ワタシ、自分が子どもの頃、ホントにそう思ったもの。
ちょっと理科の方角かもしれんけど。

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問う力を育む教育へ、時代は変わる


学習指導要領という大きな義務教育の根幹をなす、ルールがあります。

ご承知の通り、時代とともに、子どもに対する教育の方法や指針は変わっています。
より時代に即した、合理的で社会全体に資するような、指針作りを行うのが国の務めであります。

その最新の動向はどうか。

このような話をすると、多くの方が、プログラミング教育ですか?とか、AIを教育に導入するのですか?のように聞いてくださいます。
今回は、それよりももっと元の部分、より、大元の方針についてです。

ズバリ結論を申し上げましょう。

それは、問題そのものを、子どもが考える。

と言うものです。
いかがですか?
そんなこと、無理だろうと、お思いになりますか?

あるいは、これまで伝えてきた知識はどうなるんだ?軽視してしまうのか?
と不安になる方もいらっしゃると思います。
そんなことをして、誰が一体どのような評価をするのだ?
という疑問を持つ方もおいででしょう。
教師の役割は一体何になるのか?
もしかしたら、パソコンの画面でずっと検索をするだけか?
と極端なことを言い出す方もいます。

国民が混乱してます。
日本は非常に大きな転換点に差し掛かっているのです。
よく考えてみると、大きな転換点に差し掛かっているというのは教育だけでは無い。むしろ、教育や子どもと言うのは、その大きな転換に、巻き込まれた側と見る見方もできます。

社会がこんなに変わるようであれば、教育も変わらざるを得ないよ、と言うのが、文科省の方の本音だろうと思います。

世界には、もうのっぴきならない問題が、目前に差し迫っており、誰か偉い人が解決すれば、それで良いということでは済まず、世の中の人大多数がその問題を認識し、自分の立場で何をすることができるのか、考えなければならないのです。

戦争、紛争、民族のアイデンティティの問題、差別などはもちろん。

環境の課題はもはや緊急事態。
誰か、アイデアのある人は、どしどし実行しないといけない。社会全体で、応援しないと間に合わない。

いわば、革命的な解決を人類は求めています。それも、解が一つではない。一億通りも、解の見つかるような。
多種多様、様々で、誰もが参加できるような、地道で金のかからない持続可能なアイデアと実践を。

日本であれば、トヨタやパナソニック三菱重工、日本石油や住友化学の偉い人たちが、何か良い発明をしたり、仕組みを考えたりしてくれるだろう、と、いうことでは済まないのです。ソフトバンクの孫先生が、良いことをしてくれるよ、では無いのです。もちろん、裏金問題でテンテコ舞いの与党政府の政治家が、国民の将来について考えているとは思えないわけで・・・。

そんな中、中教審と呼ばれる会合が、日本中の識者を集めて、これからの教育について討論をしてくれています。

そこでは。

答えを覚える学習の仕方から、自分で課題を見つける、学習の仕方へ。

と、学習方法の大転換が示されております。

これそんなに新しい話ではなく、もう10年以上前の会議で、示されているんですが、はっきり言ってよく知らないままで、国民は過ごしてしまいました。

学校の先生たちも、実はまだ、よく分かってない。
多くの人が、やはり課題は教師が与えるもの、答えも教師が教えるもの、と考えています。

ところが、答えが無い、という教育を始めなさい、というのです。国が。

問いを、子どもがたてるんですって。

どう思います?

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漢字の指導の変化

教師になりたての頃は、私は漢字の指導がそれほど好きではなかった。

ところが、漢字と言うのは、人類の大した発明と言うべきものであり、大昔の人々の、具体的な、あるいは、抽象的な思考法が、よく見れば、見るほどに浮かび上がってくる題材なのであります。

そのことに気がついたのは、今から10年以上前に、一緒に学年を組んだ、とある先輩の先生のおかげです。その先生は、私に、白川静氏の漢字の本を見せてくださった。白川氏との出会いが、漢字学習を変えた。

今の漢字の授業は、こうである。
1)電子黒板に漢字をでかでかと映し出す。
2)この字について、何かわかる人?
3)部首やつくり、冠などの字形や意味から、この漢字が持つ意味や、成り立ち、どうしてこんな部品が使われているのかなど、子どもが気がついたことをどんどんと発表していく。
4)見当はずれでも全く構わない。確かに、そんなふうに見えるねぇ、と同意しながら、バンバン言わす。
5)最後に、わたしが知ってる代表的な、成り立ちの学説を説明して、後は書き順・熟語の確認・字の練習、で終わり。

これを繰り返していくうちに、子どもたちは、漢字を見た瞬間、アッわかった!と色々と意見を出すようになってきた。つまりなぜその言葉は、その部品を使い、そのような意味を持つ字になったのか、成り立ちについて説明するのである。

これは、具体的なパーツを見ながら、仲間に分類していくことで、似たような字を思い起こしながら、より抽象度の高いグループに分けたり、意味を類推したりして、たくさんの漢字を頭の中に、だんだんと抽象度の高い分布図へと書き換えていくような作業であります。

小学校3年生ともなれば、もう、人生の間に、300字以上を覚えています。なので、新しい字が出てくると、自分の知っている漢字の大きな地図の中の、一番ぴったりするところに付け足していくようなことをします。

この動作や振り分け作業が、瞬時に迷いなく、できる子は漢字を覚えるのが早いです。
瞬時にできる子は、頭の中の漢字地図が、抽象度が高く、極めて論理的に分布されているのです。だから、新しい漢字も、今までのルールに沿ったような形でピタリとはめることができるし、迷わないのです。

同じ意味、同じへん、同じつくり、同じ音(おと)、付け足し、などですね。
共通点を見つけるのが早い。
次に、なぜそれが共通点だと言えるのか、自分の言葉で説明もできる。
高層ビルに例えれば1階部分なのか2階部分にありそうか。もっと高層階にありそうなのか。平面でなく、立体的に頭の中で思考している子もいます。

ところが、頭の中がごちゃまぜで、どう地図の上で配置すればいいのか、ぴんとこないような状態が続くと、やはりその中途半端で、宙に浮いたような漢字は、いずれ記憶のどこかに紛れ込んで消えてしまうのでしょう。

いわば漢字を覚えるということは、漢字一つ一つと言う非常に具体的なものに、抽象的なルールを当てはめて、抽象度を上げていくことによって、初めてマスターできると言えるのです。

教室の中に、「つまり、先生、それって、こういうことでしよ?」という言い方が、癖になっている子がいます。
その子は、生活の中や学習の中で初めて出会ったものを、自分の思考体系の中に、自分の言葉で言語化することによって抽象度を上げて、組み込んでいるのです。つまり、とか、要するに、とか、そういう言い方を補助的に使って、自分の思考をヨイショと支えながら。

そして、結論です。
このような思考の動かし方をしている子は、漢字のテストもほぼ100点が取れます。

漢字練習帳に体力勝負で同じ字を50個書けば覚えるかと言うと、どうもそうでは無いようです。やはり脳みその中を、『具体から抽象へ』と、整理整頓することに尽きるようです。


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総合的な学習の時間に、一考察の論文を書く

論を組み立てるときに、子供たちには便利な言い回しをまず教えることにしている。
すると、苦手な子たちもその言い回しをうまく使って、一応の文を論理的に書くことができるからだ。まずは自分でも書けると言う自信を持つことが必要だ。方にはまった文章しか書けなくても、最初はそれで構わない。そのうちにバリエーションを増やしていけば良い。

まず、結論を先に述べる。
【私は、桃太郎に出てくる鬼は悪者だと思う。】
次に、そう思う理由を明確に述べる。
【桃太郎が命がけで戦ったのだから、そうする理由があったはずで、それは鬼が村人を苦しませていたからに違いない。】
という具合だ。
さらに、続けて「確かに」「しかし」という言葉を使う。ここで反論を封じる用意をするわけだ。
【確かに、鬼ヶ島から、わざわざ村人のいる場所まではるばる鬼が遠征してくるには遠過ぎるかもしれない。しかし、それは、村人の蓄えた、生産物、食料を、たんまりとせしめる為ならば、遠征の苦労も報われるからである。】
と言うふうに。

このように「確かに」と「しかし」を使って、一般的にされる反論を、封じておくのである。この反論を封じることによって、自分の主張を強めることができる。
文章の最終コーナーでは、「だから」を使って、もう一度、自分の主張を明確に述べて論を終える。
【だから、私はやはり鬼たちは悪党で、乱暴や狼藉、強盗をはたらいた悪党だと考える。】

まとめると、①まず私はAだと思う→②なぜならば、こうだからだ→③確かにBという意見もあろう。しかしそれは・・・という理由でおかしい。→だからやはり私はAが正しいと思う。
このような論の立て方を子供たちに伝えていく。


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鬼の正体は?

坂上田村麻呂という人が、その昔、鬼が住むと噂された東北地方に、蝦夷の征伐に出かけた。
この蝦夷というのは、まるで人間扱いはされず、鬼畜同然と言うものであったが、坂上田村麻呂は、その親分であるアテルイを気に入って自分の家来にしようと思い、都まで連れて帰っている。
やはり鬼ではなかったのである。

坂上田村麻呂が、こうして、各地域の首領に出会い、大和朝廷に従うよう説得していくうち、坂上田村麻呂は彼らの人間的な魅力に気づいていったのでしよう。地域の繁栄と幸せを願い、田畑を広げて、勤労を促し、自らも汗水たらして働いている地域の首領に、魅力がないはずがない。
蝦夷の征伐に向かう途中、各地域で、坂上田村麻呂はその土地の豪族と争い戦ってきた。もともとまとまりがなく、忠誠心もない土地では、その豪族すぐに滅んでいった。仲間の裏切りもあったに違いない。
ところが、人々から人望の厚い豪族は、仲間が裏切ることもなく、一致団結して、大和朝廷を退けようとしたために、おそらく坂上田村麻呂がその土地を制圧するのは難しかった。
強いとされ、鬼と言われた各地の豪族が、いかにその土地の人々から慕われていたか。
日本各地に残る伝説のうち、鬼と恐れられた土地の豪族こそ、人々を真に愛する英雄であったのだ。

鬼の正体は、おそらくは地域の豪族であろうというのが1つの定説になっている。
各地の鬼として有名なのが、悪路王、大多鬼丸、天津甕星、八面大王、両面宿儺、名草戸部、大国主などだ。

これらは、ほとんど大和朝廷が全国を統一していく過程で、一方的に鬼扱いされ、その結果、滅ぼされてしまった豪族たちであった。

しかし、上に述べた通り、征夷大将軍であった坂上田村麻呂は、鬼を征伐していくうちに、地域を立派に治め、人望の厚かった豪族の首領たちに、どこかしら人としての魅力を感じ、一目置くようになっていった。

だから坂上田村麻呂は東北のアテルイをわざわざ自分の1番の家来にしたくて、都まで連れ帰っている。

面白いのは、この鬼の伝説の中の、両面宿儺【岐阜県飛騨地方、高山市近辺】と、穂高山や上高地を挟んだ向かい側にある八面大王【長野県安曇野市地方】である。
両面宿儺には、顔が二つあり、八面大王には八つあったとされている。

この両者は境遇が非常に似ている。
両面宿儺は、大和朝廷からは、乱暴狼藉をはたらく盗賊、鬼とされた。
しかし、地元の人たちからは、土地を開拓したパイオニアであり、英雄・偉人として称えられてきたのである。
安曇野市の八面大王も全く同じだ。中央政権からは鬼とされ、退治されたあとにはその体を八つ裂きにされるほどだった。しかし、地元の人たちにとっては、やはり英雄なのであって、武勇にすぐれ、神祭の司祭者であり、農耕の指導者でもあったと言われ、地域を中央集権から守った英雄であったと語り継がれている。
この2面と8面を合わせて10面として、両面宿儺と八面大王の名誉を挽回するサミットを催してはどうだろう。名付けて、十面サミットの開催である。

他にも、両者の入り乱れる物語をミュージカル風にして、和太鼓や踊りなども入れながら子どもたちが上演したらどうだろう。ありがたいことに、両面宿儺と八面大王はどちらも大和朝廷が日本征服を目論んでいた時代に生きた。両面宿儺は400年ごろ、坂上田村麻呂は800年ごろの実在した人物である。

もし私なら、8MEN大王として、8人の子どもをステージに上げる。実際には存在しなかったが、8WOMEN大王もキャストに入れよう。これで男子8人女子8人合計16人は舞台に上ることができる。
両面宿儺の方も、クローンをつくれば、全員で48人くらいを舞台に出せる。

いつか実現してみたい。

ちなみに両面宿儺は、あるお寺に居る。
彫ったのは、美術の教科書にも出てくる円空という彫り仏師であります。

飛騨千光寺(丹生川町下保1553番地)
TEL:0577-78-1021
HP:https://senkouji.com
・円空仏寺宝館 「両面宿儺坐像」
・宿儺堂「両面宿儺の石像」

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「全国統一を目指す大和朝廷が、東北を侵略するに当たり、信濃の国を足がかりにたくさんの貢物や無理難題を押し付け、住民を苦しめていました。そんな住民を見るに見かねて安曇野の里に住んでいた魏石鬼八面大王は立ち上がり、坂上田村麻呂の率いる軍と一歩もひけをとることなくたたかいました。しかし最後は山鳥の尾羽で作った矢にあたり倒れてしまいました。その八面大王があまりに強かったので、再び生き返ることのないように、大王の遺体は方々に分けて埋められました。その胴体が埋められていたとされる塚が農場の中にあったことから、大王農場と名付けました。そして塚は大王神社に祀られています。ここに佇む八面大王は、大王農場の守護神でもあり、安曇野を守ろうとした、勇士でもあります。彼の中に潜む強靭でありながら、人を愛する心は、大王農場を訪れるすべての人々の中にきっとつたわっていくでしょう。」(大王わさび農場による大王の説明)

桃太郎の矛盾

桃太郎の鬼について、子供たちと話し合ったときのこと。
クラスのちょうど半数は、やはり桃太郎の鬼は、悪者であろう、盗みや狼藉、人さらいなどをしたわけだから、悪党に違いないと言う意見であった。
しかし、残りの半数は、もしかしたら結構いいやつかもしれない、と判断をした。

これは、教室の電子黒板に、でかでかと【空からのぞいた桃太郎】を映して、全員で見たからだ。

この
【空からのぞいた桃太郎】は、少し前に評判になった本で、実際にある小学生が自由研究で賞を取った際に、参考にした本らしい。これが面白いと言うので、テレビやラジオでかなり評判になっていた。

鬼の勉強した際に、そのことを思い出して、クラスの子と実際どうかと読んでみた。すると、やはり、視点を一歩引いて客観的に見ていけば、物語の矛盾と言うのはたくさん見つかるものである。クラスの子たちも、先の自由研究の子と同じように、悪者と決めつけて見る事はできないと言う結論に至った。
その記録をここに書こうと思う。

まず、うちのクラスの子どもたちが、1番に矛盾として指摘したのが次のことであった。
1)鬼ヶ島がものすごく遠い。
おまけに海を渡ってようやくたどり着く場所である。これはつまり、鬼達からしても、人間の住む区域まで来て、収奪したものを持ち帰るのに、かなり苦労が要るだろう、ということ。

この意見が出てから、まずペアで、次にはグループで話し合い、何人かの子に意見を言わせてから、もう一度、鬼ヶ島の鬼は悪いかどうかを確認した。
すると、4人から5人ほど、意見を変える子どもが出た。悪者では無いかもしれないというのである。

次に2つ目の指摘があった。
2)おじいさんとおばあさんは、かなりのんびりと暮らしている。

もし鬼が頻繁にやって来るような土地柄であれば、おちおちと芝刈りもしていられず、せめて身を守るための鍬などを持って最低限の防御策を考慮するだろうし、おばあさんも川で洗濯などせず、つまり1人で行動する事なく、大きな瓶(かめ)などに水を汲んでおき、自宅で洗濯をするに違いない。

このことを話し合った後に、2回目の確認をした。挙手させると、さらに3人ほど、意見を変える者が出た。

さらなる矛盾点として指摘されたのが、
3)鬼は、猿やキジや犬よりも弱い。
ひょっとすると、人間の大人が鉄でできた農具、例えば鍬や鎌、ジョレン、お餅つきで使用する杵などでおそいかかれば、もしくは抵抗すれば、容易に撃退できたのではないか、という点だ。

この点については、犬が本気で噛み付くのであれば、鬼はやはり困るのではないかと言う意見も出た。
確かに犬が噛み付いたら、致命傷になることもあろう。だが、鬼は鉄で出来た金棒を持っているではないか。あの鉄の棒は、トゲトゲも付いていて、犬はたった1匹しかいないのに、鬼が数人で犬を取り囲み、トゲトゲでおい回せば、鬼の方が強いはずである。それをしないのは、やはり鬼が優しいからではないか、と言う反論が出た。

おまけに、ある女の子は、「キジはそんなに強くないと思う。お話の中でも、キジは鬼の目を突きましたと書いてあるけれど、それこそ鉄のトゲトゲ棒でひと殴りすれば、キジなどふっ飛んでいくに違いない。」言うようなことを言い、これには多数の賛同者が出た。それを聞いたある男の子は、「キジなんて、HPは1か2しか無い」と言って馬鹿にした。

猿はどうか。子供たちからすると、猿の強さは、HPは5くらい。群れのボス猿であったとしても、せいぜい8か9程度であろう、と言う見立てであった。武器は爪でひっかく、ということだが、たとえ鬼がじっとしていて、おとなしく顔面をひっ掻かれたとしても、致命傷にはなるまい。
今や数少なくなった、鬼はやはり悪党である側の子は、猿は噛み付くこともできる、と反論していたが、やはり鬼の持っている、金の棒にはかなわないであろうと一蹴された。金の棒を持つ鬼のHPはおそらく100以上あるはずだ。

それでも、鬼が負けてしまったのは、きっと鬼が抵抗しなかったせいである。なぜならば、鬼はたとえ正当防衛であったとしても、生き物を殺すなどと言う野蛮な事はしないためであろう。

ここまで来て、再度人数確認をしてみると、クラスに、鬼は悪者であると考える人数が、3人に減ってしまった。

最後に出た、矛盾点の指摘は、
4)オニたちがお互いに助け合って楽しく暮らしている。

「空から見た桃太郎」の本では、鬼ヶ島の様子がこと細かく描かれている。鬼ヶ島の中は非常にたくさんの鬼で賑わっていて、中では、魚屋、鉄の金棒を売る店などがある。奥の方には、劇場のような場所もあり、鬼がチケットを売っていて、子連れのお母さん鬼が看板を見上げている。魚屋が売っている魚は、非常にたくさんの種類や量があり、やはり買い物をしている鬼がいて、本当に、私たちが普段暮らしている街の様子そのものである。
鬼たちの顔は、非常に満足そうで、お祭りをしたり、踊ったり、道端で大道芸をしているような鬼までいる。どの鬼も目的を持って行動していて、その瞳は輝いているのであります。

この、生活に満足をしていそうな鬼たちが、わざわざ、遠くの人の住む村にやってきて、殺戮や強盗をはたらくであろうか。
子供たちが注目したのは、魚屋で、あの魚は、絶対に海で釣ってきたのであろうと言う意見が、何人もの子から相次いで出された。
魚はすぐに腐るから、そんな生鮮品を、遠くの人間界から運べるわけがない。そんな苦労をするくらいなら、あの海で、釣り糸を垂れて、魚を釣る方がどれほど簡単なことだろう。
鬼たちは決して怠け者ではない。なぜなら、このように商売にも懸命に励んでいるし、建物や店の作りは、非常に立派であって、きっと鬼の大工が仲間とともにノコギリや釘、かんななどを使って、せっせと組み立てたものではあろう。人間を働かせたわけではない。鬼たち自身が汗水を流しながら、知恵を出し合い、工夫して、このような店や建物を作りあげたのだ。
怠け者ではない鬼たちが、魚を釣らないわけがない、というのである。

ここで、採決をとると、残りは2人になった。この2人の言い分は、
「たとえ鬼が優しくて、働き者で、犬や雉(きじ)や猿よりか弱かったとしても、それでもやはり桃太郎が退治を思いだったのだから、それにはそれなりの理由があるはずで、懲らしめられるだけの何かしら悪いことをしたに違いない」と言うのです。

そうすると、ある子が次のように言った。
「もしかしたら、桃太郎が奪い取ったたからものは、人間の村から持っていったものではないかもしれない」

みんなが驚いて、根拠を尋ねると、
「だって、魚だって多分鬼が釣ったのでしょう。それに家とか店も自分たちで建てている。桃太郎が鬼から取り上げて、持ち帰ったものを見ると、割と大したものはない。そんなもの鬼なら簡単に自分でこさえることができる。」
と言った。
また、違う子が、続けて言った。
「そうだよ。あれは鬼のものだよ。」ふだんはあまり意見を言わない子。
「だって、もし人の村から盗んだものだったら、きっと桃太郎のお話は、最後に桃太郎が人々に宝物を返してやりました、で終わるはず。でも桃太郎は、その宝物と一緒に、おじいさん、おばあさんと幸せに暮らしました。になっている」

つまり桃太郎は、村人に盗んだ盗品を一つ一つ持ち主を探し確認しながら返品したわけではない。

「お話には書いてないけど、きっと返してあげたんだよ」
と2人は反論したが、
「もし返したなら、村人と一緒に仲良く暮らしたと書くはず。しかしどの桃太郎の本を見ても、おじいさん、おばあさんと一緒に仲良く暮らした、になっている」
言い返されて、2人はもうギリギリまで追い込まれてしまった。

ここで面白いことが起きた。
この2人が困った顔になり、じゃぁもう意見を変えようかなと言った瞬間、何人もの子たちが、

「え?意見を変えるの?変えないでお願い」と言うのです。

つまり、こうやって一つ一つ分析や検証していくと、そのこと自体が面白くなってしまい、論破するのが目的、というのではなくなってきていたのですね。

さて、ここまで分析活動を進めてきて、最終的に桃太郎の鬼だって悪くは無いと言うことになってきたので、これまでに読んだその他の鬼が登場する物語、ほとんどと同じように、鬼と言うのは、実はそんなに悪いものでもなさそう、と言うことになってきた。

ここまで調べてきた鬼は、
・こぶとりじいさん
・ソメコとオニ
・おにたのぼうし
・泣いた赤鬼
・節分の鬼
・大工と鬼六
・千里の靴
・雷さまとクワの木
・地獄のあばれもの
・一人になった鬼の親分
・えんまになった、権十おじいさん
・一寸法師

結局、どの鬼も、本当の悪党と言うには足らず、どこか人間臭く、親しみの湧く存在であることが多かった。一番の悪党であるとされたのが、桃太郎だったので、桃太郎の鬼くらいは悪者であって欲しかった。
ところがどっこい、桃太郎の鬼ですら、悪党にはなりきれなかったのである。


写真は、両面宿禰。(岐阜に住んでいた鬼。ヤマト王権の制圧に抵抗した)
宿禰

なぜ歴史の学習がきらいになるのか(小学生編)

坂上田村麻呂が戦った相手は、地域で愛されていたはずで、大和朝廷という別部族が襲ってきたのであれば、徹底的にふるさとを守るために、一致団結して戦ったことでありましょう。
外敵である坂上田村麻呂。いきなり土足でふるさとを汚しにやってきて、「遠い京の都におられる天皇が君臨する大和朝廷にひれふせ」と訳の分からないことを言って、攻めてきたのですからナ。
ところが勝てば官軍。大和朝廷は、勝った勢いで、「ここにはおそろしい鬼がいたので、田村麻呂が退治した」と言って、歴史書にそう書いてしまう。

昔はそれでもよかったのです。勝つのは強いからで、強いのは正義であろう、というのが昭和から続いた考えでした。
ところが、コロナを経て、今の時代はなぜか、『強い正義』は人気がありません。正義ぶって、厚かましく自分の考えを押し付けてくるような勢力を、どうも世の中の、とくに若い層は嫌っているようです。

その証拠に、パワハラは、不人気です。
ブラック企業も、不人気です。
「24時間たたかえますか」も、不人気です。
ハラスメント全般が、不人気なのです。

だから、坂上田村麻呂が、どうも人気がありません。
授業をしていても、大和朝廷が日本を制覇しました!という部分で、なにか盛り上がらない。
「ひどいなあ」というため息が、教室にもれてしまうのです。
歴史の学習が、とくに若い子どもたちに不人気なのは、こうやってハラスメントで地方を無理やりに傘下に収めようとしたり、武器を持って人を脅し、なびかせようとするようないやらしい政治に対して、吐き気のするくらいに「嫌悪感」を抱くからではないかと思います。
でも、仕方がないのです。当時は、それが当然のことでしたからね。ただ、今の時代の感性には、まったく合わない、というだけで。

わたしは歴史キライの子がでないよう、坂上田村麻呂に焦点をあてるのでなく、むしろ退治された鬼の側に焦点をあてて、授業を行いました。
鬼といっても、当時はその場所にちゃんと住んでいた人間です。実在の人間が、大和朝廷が征服しようとしたときに「いやだ」と反対したために、「鬼ということにされてしまった」わけですね。

坂上田村麻呂の最大の事業といえばやはり東北地方に居住していた蝦夷の討伐だったでしょう。
蝦夷というのは奈良時代後期から平安時代前期にかけて東北地方で朝廷勢力と抵抗した人々のことを指します。
朝廷側はこの蝦夷という勢力を抑えて東北地方にも勢力を築き上げたいと考えていました。
それで、「蝦夷」という人たちは、野蛮でいやしくて獣同然だ、鬼のようなものだ、という風説を流布させて、都の人たちには「東北に鬼が住んでいる」というようなイメージをもたせました。
今でも「北東」の方角は、鬼門だ、ということになってますね、日本は。

坂上田村麻呂は、鬼を征伐する正義の味方だ、ということになっているのですが、子どもたちからは、ただのパワハラ野郎だと思われてしまっています。若い人たち、とくに小中学生には。そのために歴史はパワハラの変態野郎が人を殺すおそろしくてアホな学問だというイメージをもたれ、そのあげくに大量の「歴史なんてキライ」という子どもが量産されてしまうわけです。

坂上田村麻呂は当時としては立派な行いをしたわけですが、時代の趨勢にはさからえないようです。
したがって、わたしとしては、大和朝廷の勉強はあまりしたくありません。子どものテンションが下がり、以後の学習が非常にやりにくくなるからですね。

でもまあ、奈良の大仏をつくるころには、女子もまじめに勉強するようになりますし、天変地異の多かった平安時代の学習は、女性がひらがなを書くようになったり、日本らしさが出てきたりしますから、また好きになってくれるんですが。

今思えば、大和朝廷の方たちは、蝦夷とか他の地域コミュニティについて、ゆるい「連邦制」をとった方がよかったかと思いますね。「制圧」とか「征服」とかでなしに。だって、あまりにもパワハラのイメージが強すぎるので・・・。

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SDGsでトイレのことを考える

総合の時間に、SDGsについて学習を進めている。
17個ある目標のうち、1つめの「貧困」についてからはじまり、17つめの「パートナーシップで・・・」に至るまで、少しずつ子どもたちは意味や目的、具体的な取り組みなどを学習している。

目標の6番目に

「安全な水とトイレを世界中に」

というのがある。

最初に出し合った疑問で、これが話題になった。
ユニセフのパンフレットをみると、「トイレのない人は地球上に6億人以上」と書いてある。
なんでトイレなの?トイレはあるでしょう、ふつう・・・と、子どもたちは考えた。
まさかトイレが『ない』なんて、イメージできなかったわけだ。

そこで、トイレを調べ始めております。
今年から各学級に配備されたIT端末が役に立つ。ありがたいねえ。
わたしの勤務校では「Chromebook」が一人一台、用意されている。
調べ始めると・・・

DIFAR という団体が見つかった。
エコサントイレ、というものをつくり、地域に広めているらしい。
おまけに始めたのは瀧本里子さんという日本人。
青年海外協力隊員でボリビアに渡り、そこで娘のように家族のように接してもらったことからボリビアに恩返しをする形で野菜作り、健康福祉の提案、トイレ事業などを始めたようだ。

現地にトイレがないことはDIFARのホームページからも伝わってきた。
ニュースレターにはそのことが現地の日記のように、里子さん自身の言葉で書いてあり、非常に伝わってくるものがある。

クラスでこのことに興味をもち、自分の卒業論文で扱いたい、と言う子が増えてきた。
しかし、ちょっと資料が足りない。

「トイレをつくって、その後どう生活が改善したのだろうか」

という肝心なことが、くわしく書いていない。

「質問してみたいがどうか」

ということが話合われた。


このあたりは、現代っ子だなあ、と感心しますね。
今ではボリビアに住んでいる人にメールで質問ができる。
瀧本里子さんという方がどんな方かわからないが、質問出すだけ出してみよう、ということになった。

わたしはもちろん

「返事がくるとは限らないよ」

という確認を全員としておいた。
5年生の時も、なぜ広島でりんごをつくっているのか、と尋ねるメールをさまざまな果樹園に対して出したが、返事はほとんどこなかった。

丁寧に返事をいただいたのは、唯一、三次市で観光農園をされている、平田観光農園の平田さんだけであった。今でも感謝しております。(平田さんありがとうございました。おかげで「標高」とか「適温」という、果樹農家の大事な視点を子どもたちは学ぶことができました。)
(※平田観光農園へのリンク)


というわけで、きっとお忙しいと思われるボリビアの瀧本里子さん(DIFARというNPO団体)からお返事が来るとは限らないが、ダメ元で出してみようということになった。
学習の体験としてはメールを出すことも大事な過程だろうし、メールの文面を考えることも大事なことだろうと思ったので、子どもたちとその活動を進めることにした。

以下がその手紙であります。
1)なぜ、里子さんはボリビアという国を選んだのですか。

2)ボリビアの飲み水は、どんなふうに得ているのでしょうか。川の水や雨水などでしょうか?

3)里子さんは世界でも最貧国の一つといわれるボリビアに行き、貧困の対策として最初は野菜づくりについて指導されていたのですが、貧困の解決の前にトイレの問題を解決しなければならないことに気づき、トイレを建設されることをはじめました。なぜ、貧困の解決の前に、トイレの建設が大事だったのでしょうか。

4)実際に里子さんたちがトイレを建設し、みなさんが使うようになって感染症は少なくなってきたのでしょうか。

5)トイレをつくりつづけた時期がすぎ、今は目標を達成して次のステップに進んでいるDIFARや里子さんたちですが、トイレの良さを学んだ現地の方たちは、もしかしたらその後、トイレを自分たちでも増やしたり、作ったりすることをはじめているのでしょうか。もしそうならトイレは増え始めていると思うのですが、どうでしょうか。

6)最初、現地では、トイレをつくるよりも電機や自動車がほしい、と考えるような人の方が多かった、というのをホームページの記事で読みました。しかし、里子さんたちはあきらめずにトイレをたくさんつくりました。でもその場合、「トイレは要らない」と考える人たちの考えを、変えていかなければならなかったのではないでしょうか。要らない、と答える人たちが、「ぜひほしい」と気持ちを変えた瞬間、どんなことがあったのでしょう。なぜ住民の方たちは納得して、「トイレをつくろう」と考えてくれるように変わったのですか。

7)ボリビアで里子さんが暮らしていこうと決めたのは本当に大きな決断だったと思いますが、どうしてそのような大きな決断をすることができたのでしょう。なかなかそんなふうに自分の人生を、生涯をボリビアのためにささげよう、と考える人は少ないのではないでしょうか。里子さんはどうしてそんなふうに考えることができたのでしょうか。

8)ボリビアの暮らしをはじめるころ、苦労したことというのはどんなことでしたか。

さて、どうなるか。

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