あれ以来、各局で引っ張りだこだ。
テレビで漫才を見ながら、ふと思った。
彼らは、
『本当は喋りたくない』という漫才をしてるのではないか。
話題を設定する側のきむらバンドさん。
対する赤木さんは、基本的に「ノーガード」に思える。
きむらバンドさんの振ってくる話題やワードを、慌てながらも必死になって受けて反応する。
観客はその必死さと、とっさにでてくるとっぴでウィットに富んだ返しに笑う。
私が気になったのは、赤木さんだ。
赤木さんは、何かを言いたくて、この場に出てきたのではない。
何故かわからないが、連れてこられたという感じがする。相方から言われるがまま、とりあえず来てみましたけど、という雰囲気がある。
赤木さんは、本来なら、何も話す事は無い、と言う立ち位置だ。
しかし、私たちは、赤木さんの立ち振る舞いに妙に惹きつけられてしまう。
今年のM-1は、この赤木さんが、
「すべて持って行った」
と最高の評価を得ている。
なぜ、私たちは、ここまで赤木イズムに魅力を感じるのだろうか?
ここで私が思い出すのは、竹内敏晴さんだ。

竹内敏晴(たけうち としはる、1925年 - 2009年)さんは、日本の演出家であり、「竹内レッスン」と呼ばれる独自の身体表現・コミュニケーション論を確立した、戦後演劇界の非常に重要な人物です。
彼は「啞(あ)者は最も雄弁に語る」という言葉を残しました。彼の思想の核である「からだ」と「言葉」の関わりを象徴しています。
竹内さんの思想を紐解くと、なぜ赤木さんの姿に私たちが強く惹きつけられるのか、その理由がさらに鮮明に見えてきます。
竹内さんは、プロの役者から、重度の障害を持つ方、不登校の子どもまで、幅広い人々を対象に「レッスン」を行いました。
彼が求めたのは、あらかじめ用意された「上手な演技」ではなく、その人の「からだ」が今、この瞬間に何を感じ、どう反応しているかという生々しい事実でした。
「たくろう」の赤木さんには、「笑わせてやるぞ」というのを一切感じないでしょう?
普通の漫才は、ボケが能動的にボケて、ツッコミがそれを正します。しかし赤木さんの場合、きむらバンドさんの言葉に対して「反応せざるを得なくなって、変な出力が出てしまった」というだけです。
役者が「自分を良く見せよう」と力んでいる間は、その人の本当の姿は見えてこない。その力が抜け、途方に暮れ、ただ立ち尽くしたときに初めて、その人の「存在」が立ち上がる。
竹内さんが「啞者は最も雄弁だ」と言った背景には、彼自身が少年時代に難聴を患い、一時的に言葉を失いかけたという原体験があります。
• 言葉を操れない人は、その分、全身で他者と触れ合おうとし、からだ全体で何かを訴えかけます。
• それは、記号化された「論理的な言葉」よりもはるかに、相手の心の深層に届く「震え」のようなメッセージになります。
• 赤木さんが、言葉が詰まったり、視線を泳がせたりする時、私たちは彼が発する「言葉の内容」ではなく、彼が「そこに必死でいようとするエネルギー」そのものを受け取っているのです。
竹内さんは、コミュニケーションを「情報の伝達」ではなく、「からだ」と「からだ」が出会い、響き合うことだと定義しました。
• 赤木さんの漫才において、相方のきむらバンドさんは、いわば「世界(あるいは社会)」の象徴です。
• 赤木さんがきむらさんに合わせようとして失敗し、戸惑う姿。その「不全感」こそが、観客という「他者」と最も深く共鳴するポイントになっています。
竹内さんの視点で赤木さんを見ると、彼は「舞台上で最も無防備で、最も誠実な存在」と言えるかもしれません。
「何かを表現しようとするのではなく、そこにいることの困難に耐えている姿が、結果として最も強く他者の心を打つ」
小学校の教室にも、赤木さんのようなタイプの子はたくさんいます。うまく言えなくても、うまく伝えられなくても、それでも必死になって自分のあり様を考え、困惑しながら言葉をつむごうとする。
クラスの子たちは、この姿から学ぶことが多いです。上手にスラスラ、だけが、お手本というわけでは、決してないのです。





























