ひな壇に芸人がたくさん集まって、ワイワイとおしゃべりするのが楽しいテレビ番組がある。
私も好きで、ごくごくたまに見ることがある。
ただ、この楽しい雰囲気を学級で真似しようと思うのは、注意が必要だ。
私の失敗をあげてみる。
島田紳助さんが、昔の番組でひな壇に芸人を座らせ、おしゃべりトークをしながら軽快に番組を進行していた。
このときの島田紳助さんの狙いは、芸人一人ひとりのキャラを際立たせて、そのキャラを番組の決まりごと(セオリー)として視聴者に周知させ、いわばお約束のように芸人をいじると言うやり方だった。
島田紳助さんは、磯野貴理子さんをいじるのが得意だった。
これは、紳助さんが磯野さんにどんなキャラ設定をするか、そのキャラをからかうことで、どんな笑いが生まれるのか、計算をしてのことだった。
確かに、キャラ設定がはっきりしていればいるほど、そのキャラをいじったり、意外性に持ち込んだりすらことが出来て笑いが生まれる。また、そのキャラ設定の約束事をその場にいる全員が共有していることで生まれる安心感もあるし、仲間意識を演出することができる。島田さんはそれを狙った。
学級では、これは御法度だ。
一旦できた約束事があれば、その約束事を認識している仲間うちでは、共感の笑いに持ち込める。芸人は、からかい、からかわれることでタレントとしての笑いを生み出す。それが仕事だ。
小学校の学級では、その場にいる子ども一人ひとりにキャラ付けをする事は、担任なら容易にできてしまう。
しかし、相手はタレントではなく、生きている成長過程の子供である。
私は、以前、極真空手を習っている子が話題になったときに、失敗をしてしまった。
ある子が、その空手を習っている少年について、
「だって◯◯君がこうしろって言ったから失敗したんだよ、◯◯君のせいだよ」
と言うふうに、言った。
クラスのみんなが、その発言につられて、話題になった空手の少年を見た。
空手を習っている◯◯くんは、そんなことあったっけと言う顔でみんなの方を見ている。
この時、私は
「え?そんなこと言っていいの?◯◯くんは空手習ってるからね。下手なことを言うと怖いぞ〜」
と、少し面白おかしく言った。
言い方が面白かったのもあって、教室は爆笑になった。
話題を振った当人の子は、とっさに
「マジか、◯◯くん、ごめん!」
と、両手を合わせて大げさに謝罪をしたので、さらに大きな爆笑になった。
空手を習ってる◯◯くんも、爆笑の中心にいることが楽しかったようで、ニヤニヤしながら空手の型を作った。さらに爆笑になった。
後日談があって、彼が卒業するときに昔話をしていると、新間先生が、ぼくの空手についていじるのが、嫌な時があった、と言うのでした。
つまり、空手習ってるからあいつは怖いと言うようなことを、後で面白おかしくネタにする子がいたらしい。
そのことの発端は、おそらく私がその子にキャラ付けをしたことだ。空手を習っているから、強い、と笑いにしたことが、子どもたちの間でも、変な見本のようになってしまい、あぁやって友達をキャラ付けすることが面白いと言うふうになってしまった。
それが6年生の後半は嫌な時があったと言うのである。
私は彼にすぐに謝った。
彼は冗談めかして、それを言ったのだが、本音の部分があっただろう。
キャラ付けをされると言うのが、面白おかしいと楽しい間は良いかもしれない。しかしそうやって、固定化されたキャラ付け苦しむ子も出てくる。特に自分が意図したわけではないのに、周囲に勝手にキャラ付けをされてしまう事は、苦しいに違いない。
妙なタグや妙なレッテルを貼られてしまうようで、実際の自分というよりも、面白おかしいキャラ設定を優先しなくてはいけないように感じる子だっているかもしれない。
◯◯ちゃんって、こうだよね
⬜︎⬜︎さんって、ああだよね
こう言ったタグをつけてしまうような言い方そのものを聞いた時、敏感にそのうさん臭さや怪しさを感じ取って、そのキャラ設定と実際の自分は違う、ということを自覚できるような教室空間にしなければいけない。
タレントと子どもは、違うし、学級とテレビ番組は、違うのである。
もしかしたら大人の空間でもあるかもしれない。職場でも同じようにキャラ付けと言うようなテレビタレントの世界のお約束事が浸透してしまっているところがあるかもしれない。学級やクラスにもそうしたムードや空気があるかもしれない。
敏感になるべきだ。
これはタレントや島田紳助さんが悪いと言っているのではないです。くれぐれも。タレントは商売ですから。シナリオがあり、構成作家が台本を書くのですから。虚構と分かっていて、進めていることですから。
実際には、生きている実際の人間には、キャラ付けは不可能、ということです。
キャラをつけた途端に、そのキャラと実際の人間との違いがどんどんと明らかになるからですね。
AとBは同じだとだれかが言った瞬間に、もうAとBは違うのですから。そうです。昨日の自分と今日の自分は違うし、1分前の自分と1分後の自分は違うのです。目の前の石ころも、次の瞬間には、違う石ころだと言うわけです。
同じって何?
違うって何?
こういった話を子供たちとしていく授業は、面白いですし、こどもが哲学的な顔になりますね。
私も好きで、ごくごくたまに見ることがある。
ただ、この楽しい雰囲気を学級で真似しようと思うのは、注意が必要だ。
私の失敗をあげてみる。
島田紳助さんが、昔の番組でひな壇に芸人を座らせ、おしゃべりトークをしながら軽快に番組を進行していた。
このときの島田紳助さんの狙いは、芸人一人ひとりのキャラを際立たせて、そのキャラを番組の決まりごと(セオリー)として視聴者に周知させ、いわばお約束のように芸人をいじると言うやり方だった。
島田紳助さんは、磯野貴理子さんをいじるのが得意だった。
これは、紳助さんが磯野さんにどんなキャラ設定をするか、そのキャラをからかうことで、どんな笑いが生まれるのか、計算をしてのことだった。
確かに、キャラ設定がはっきりしていればいるほど、そのキャラをいじったり、意外性に持ち込んだりすらことが出来て笑いが生まれる。また、そのキャラ設定の約束事をその場にいる全員が共有していることで生まれる安心感もあるし、仲間意識を演出することができる。島田さんはそれを狙った。
学級では、これは御法度だ。
一旦できた約束事があれば、その約束事を認識している仲間うちでは、共感の笑いに持ち込める。芸人は、からかい、からかわれることでタレントとしての笑いを生み出す。それが仕事だ。
小学校の学級では、その場にいる子ども一人ひとりにキャラ付けをする事は、担任なら容易にできてしまう。
しかし、相手はタレントではなく、生きている成長過程の子供である。
私は、以前、極真空手を習っている子が話題になったときに、失敗をしてしまった。
ある子が、その空手を習っている少年について、
「だって◯◯君がこうしろって言ったから失敗したんだよ、◯◯君のせいだよ」
と言うふうに、言った。
クラスのみんなが、その発言につられて、話題になった空手の少年を見た。
空手を習っている◯◯くんは、そんなことあったっけと言う顔でみんなの方を見ている。
この時、私は
「え?そんなこと言っていいの?◯◯くんは空手習ってるからね。下手なことを言うと怖いぞ〜」
と、少し面白おかしく言った。
言い方が面白かったのもあって、教室は爆笑になった。
話題を振った当人の子は、とっさに
「マジか、◯◯くん、ごめん!」
と、両手を合わせて大げさに謝罪をしたので、さらに大きな爆笑になった。
空手を習ってる◯◯くんも、爆笑の中心にいることが楽しかったようで、ニヤニヤしながら空手の型を作った。さらに爆笑になった。
後日談があって、彼が卒業するときに昔話をしていると、新間先生が、ぼくの空手についていじるのが、嫌な時があった、と言うのでした。
つまり、空手習ってるからあいつは怖いと言うようなことを、後で面白おかしくネタにする子がいたらしい。
そのことの発端は、おそらく私がその子にキャラ付けをしたことだ。空手を習っているから、強い、と笑いにしたことが、子どもたちの間でも、変な見本のようになってしまい、あぁやって友達をキャラ付けすることが面白いと言うふうになってしまった。
それが6年生の後半は嫌な時があったと言うのである。
私は彼にすぐに謝った。
彼は冗談めかして、それを言ったのだが、本音の部分があっただろう。
キャラ付けをされると言うのが、面白おかしいと楽しい間は良いかもしれない。しかしそうやって、固定化されたキャラ付け苦しむ子も出てくる。特に自分が意図したわけではないのに、周囲に勝手にキャラ付けをされてしまう事は、苦しいに違いない。
妙なタグや妙なレッテルを貼られてしまうようで、実際の自分というよりも、面白おかしいキャラ設定を優先しなくてはいけないように感じる子だっているかもしれない。
◯◯ちゃんって、こうだよね
⬜︎⬜︎さんって、ああだよね
こう言ったタグをつけてしまうような言い方そのものを聞いた時、敏感にそのうさん臭さや怪しさを感じ取って、そのキャラ設定と実際の自分は違う、ということを自覚できるような教室空間にしなければいけない。
タレントと子どもは、違うし、学級とテレビ番組は、違うのである。
もしかしたら大人の空間でもあるかもしれない。職場でも同じようにキャラ付けと言うようなテレビタレントの世界のお約束事が浸透してしまっているところがあるかもしれない。学級やクラスにもそうしたムードや空気があるかもしれない。
敏感になるべきだ。
これはタレントや島田紳助さんが悪いと言っているのではないです。くれぐれも。タレントは商売ですから。シナリオがあり、構成作家が台本を書くのですから。虚構と分かっていて、進めていることですから。
実際には、生きている実際の人間には、キャラ付けは不可能、ということです。
キャラをつけた途端に、そのキャラと実際の人間との違いがどんどんと明らかになるからですね。
AとBは同じだとだれかが言った瞬間に、もうAとBは違うのですから。そうです。昨日の自分と今日の自分は違うし、1分前の自分と1分後の自分は違うのです。目の前の石ころも、次の瞬間には、違う石ころだと言うわけです。
同じって何?
違うって何?
こういった話を子供たちとしていく授業は、面白いですし、こどもが哲学的な顔になりますね。