30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

学級づくりあれこれ

あ、そうなの・・・大丈夫?

子供は毎日盛んに話しかけてきます。
これは、小学校の教員の宿命というか、それが仕事です。
子供が話しかけてくる内容はいつも様々ですが、中には相談めいた話もありますね。
あるいは時々は、自分の苦境、陥っている困難な状況を一生懸命説明する子もいます。

話題は多岐にわたり、さまざま、です。

私はほとんど同じ返答です。

「あ、そうなの?◯◯なの・・・だいじょうぶ?」

◯◯の内容は、オウム返しです。

もちろん緊急の内容があれば対応しますが、ほとんど99%は、これですね。

「あ、そうなの?◯◯なの・・・だいじょうぶ?」

大丈夫でなければ、ちゃんと大丈夫じゃないと言いますから。その時は、じゃあこうする?、ああする?・・・と言うふうに選択肢をいくつか提示していきます。

しかし、そうでなければ、

「ああ、そうなの・・・面白いねー」
「ああ、◯◯なの・・・楽しいねぇ」
「あ、そうなの。よかったねえ!」
「あ、そうなの、たいへんだったねえ」

と言うだけです。
この相槌というか、この短い返答に、それこそ自分の全身全霊をかけて参ります。
この一言の価値で、お給料いただいているのではないかと思うほどです。

このとき、1番大切な点は、余計な事は言わないと言うことです。
余計な手助けや余計なアドバイスは無用なのですね。アドバイスばかりしていたら、きっと誰も話しかけに来なくなるでしょう。
子供は子供としてプロとして生きていますから、うまくいかないことも全て自分が経験したいわけですから、余計なアドバイスはうるさいとしか思いません。

ただし、授業となると話が変わります。
180度変わります。
授業は最初から、できたできたできた、の連続であるべきです。
特に算数です。
この間習った、1年生の時に習った、だからわかるよ、その続きから、わかるよ、できるよ、できたよ、簡単だよ、・・・と、進むべきです。

「なあーんだ、今日の算数、ちっとも難しくない!」

と、言わせるようにしていきます。
普段の日常生活では、ほとんど何も教えないのに、授業となると教えるんです。

子ども視点で見てみると、こんな先生が良いわけです。

普段は、余計なことを全然言わない。
でも、授業は飛び切り簡単にわかりやすく教えてくれる。

・・・これに多くの大人は賛同すると思います。何故かと言うと、全員今の大人は子ども時代の記憶を持ってるからですね。
うるさくて、おせっかいな先生って嫌いだったでしょ?
で、授業になると急に難しいことを喋り出す先生、嫌でしたよね。

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学校や公園からジャングルジムが消えるわけ

クレームを入れる人には、決まって、ある寂しさが付きまとっている。

これはクレームを受ける立場になった人の多くが感じ取っていることではなかろうか。

保護者も同じであります。
保護者は特に誰に言うこともできず、すがるような思いで担任に電話をしてきます。
友達とのトラブルがあった場合は、我が子の言葉を100%信じるわけでなくても、やはり、相手にも過失があっただろう、間違いがあっただろうと言う気持ちがあるから、相手を責めるような口調で電話をかけてきます。それがエスカレートすると、学校の対応がまずかったと言うことを言いたい、うちの子だけが悪ものではないと言う気持ちで、どんどんと口調が激しくなっていくことがあります。

クレームを言う人は寂しいんですよね。
自分の今の気持ちをなんと解消したら良いのか、不安で心細くて電話をかけていますから。

この時、電話を受けた学校の先生がやってはいけないことがあります。それは、使ってはいけない言葉を使うことです。
使ってはいけない言葉は、ズバリ、
「自己責任でしょ!」
という雰囲気やニュアンスのある言葉ですね。

クレームを言う人にこそ、包み込んであげて、大丈夫だよと支えてあげる気持ちで言葉をかけなければいけません。

昔に比べて、自己責任論は強くなってきています。昭和の時代は、それでも仲間がいて、それでも家族がいて、それでも親族がいて、長屋の大家さんのような人が周りにいて、その人を放ってはおかなかったのではないでしょうか。だから、お店に直接とか学校に直接とかクレームが届く事はあまりなかったのではないかと思います。

今は他に誰にも相談ができないから、ストレートに直球が飛んできます。自己責任だろと言う社会になったから、もう他にどうしようもなく、そうするしかないんでしょうね。

公園からジャングルジムが消えているそうです。
クレームが多いからだそうですが、これは要するに周りに相談できる人が減っているからだと思います。自分1人でなんとかしなさい。自己責任でなんとかしなさい、と言う社会風潮になってきたから、お互いに怖くなっちゃったんでしょう。

ジャングルジムで怪我をしたら、見かけた近所の人がすぐに救急車を呼んでくれたり、お母さんを呼んでくれたりしたんでしょう。ずっと以前は。

そのような社会の雰囲気がなくなったから、もう怖くて遊ばせられない。行政も、そこまでは面倒が見切れないということでしょう。

ドンドンと人が孤独になっていくことに比例して、先手を打って、安全策を取るわけです。人が孤独だと対処できないものは取り除いていくしかないのです。社会から。

孤独は弱い。一人ぼっちは弱い。
結局、社会全体が弱くなっています。弱い社会では危険なものは取り除くしかない。したがってジャングルジムは公園から消える。

社会の中で、人間が孤独になると、どうしてこうなってしまったのか、もっと人間は協力できる生き物だろうと思うのですが、なんでこうなっちゃったのか理屈がわからない。納得できる理屈が欲しい。そこで、【自己責任論】が唯一の納得のできる回答として浮かび上がってきたに違いありません。一人ぼっちというのと自己責任論は、お互いに相手を納得させられる存在ですからね。

孤独だとあぁこの世は自己責任だからなと自分を納得させようとするし、そんなの自己責任だろ!と、普段から繰り返していると、いつの間にか周囲から人の気配がなくなります。

結局、今の我々が選択している資本主義のような「社会システム」は、何かを強く意識したり、気をつけたりしていなければ、ふと気を抜くと、人間を孤独にするのでしょう。自己責任論は資本主義と、唯一相性が良いですから。

小学校と言う場所は、自己責任論が忍びよらないように気をつけなければいけません。気を抜いて扉を開けっ放しにしておくと、灰色の背広を着た【自己責任論】がふうっと、風のように学校の中に入ってきますから。

唯一できるのは、とにかく話しかけることです。目線を合わせることです。そして、あなたは大丈夫かどうか聞くことです。何かわたしにできる事はないかと聞くことです。あなたがどうしたいか、何を望んでいるのかを、ちゃんと目を見て質問することです。
大丈夫だ。うちはしっかり聞いているよと、伝えながらね。
それが唯一、自己責任論を足元に近寄らせず、人を孤独にしないための処方箋だと思います。

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新しい国家のあり方〜津田出(つだ・いづる)

自公連立が解かれ、新しい時代に、どうやら進みそう。

私が興味があるのは、明治維新です。
新しい国のあり方を探るために、岩倉使節団など猛烈な動きが起きました。モデルを探し回ったのです。青写真が欲しかったんですね。国家の。
これから、新しい国を作っていこうとするときに、いろんな国を見て回って、こんな国家がいいなと言うふうに探し回るわけです。

今の政府にも、もしかしたら、青写真が必要なのかもしれません。国家の。いや、すでにあるんだけど、今だけ見失っているのか、あるいは忘れているのかも。

教科書には載っていませんが、和歌山県から出た津田出(つだ・いづる)という人がいます。
西郷隆盛がこの人のところに行って、あなたの言う通りに国家を作りたいとお願いした話はとても有名です。

この津田さんは、青写真を頭の中にちゃんと持っていたんですね。
偉いですな。こんなふうに先を見通せるというか、ちゃんと理想があると言うのはすごく大事ですよね。方向が見えてきますから。

今のZ世代と呼ばれる若い人たちは、俺たちがこれから目指す世界はどんなんだろうと、ちゃんと考えていると思います。

きちんと話し合いができる国。
少しずつ進むことを軽視しない国。
「あいつのせい」だと他責の思考で進むのではなく、相手と協力できる点を見つけようと日々、努力する国。
勢いと扇動とスローガンで進むのでなく、そのスローガンで置き去りにされてる人がいないかを気にする国。


国、を、クラス、や、学級、と言い換えることができます。
今、小学校では、大きな声で叱りつける先生はほとんどいなくなりました。
ようやく、絶対王政から、脱却できた気がします。16世紀から、21世紀へ。ようやく。

明治の偉人、津田出が取り組んだのは、職業選択の自由を認める、という改革でした。
メガトン級の革命政策だったらしいですが、人々はすんなりとそれに馴染んだそうです。
歴史は、正しい方向に進むと、すんなり、なのですね。誰も苦しくないからだと思います。

苦しい人がいたら、必ず揺り戻し、やり直しが起こるのが、人間の歴史だそうです。

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リンゴスターのYくんの話〜ひとを受容するとは〜


月曜日は、とくべつな日です。

月曜日の朝、子どもたちの様子をみると、その子の土日の過ごし方が、なんとなしに伝わってきます。

最初から、わたしに何かを言いたくて、にこにこしながら、近づいてくる子がいます。

また、そうでなくとも、満足げな子もいます。

なんとなく、眠そうにして、ボーッとしている子を見ると、昨日はいつ寝たのかな~と心配になる。


印象に残る子がいます。

友達とおしゃべりしている子でも、目が生き生きとして、たいへんに友達に丁寧に接している子です。

友達の話を聞いて、目をまるくして、

「○○くん、すごいね」

と話をしている子は、本人の満足度が高いのでしょう。

他の子の話を、聞いてあげられる余裕があるのです。

聞いてもらった子も、うれしかったようで、そこにあっという間に、イキイキとして、明るい楽しげな空間が生まれてきます。

そういう雰囲気をサッとつくってしまう子が、Yくんです。

Yくんは、なかなか利発そうな子で、いつも大きい目をくりくりさせている子です。髪の毛が、ビートルズのリンゴ・スターみたいで、ちょっとかっこいい。

Yくんのことでは、とても興味深いことがありました。

Tくんという子がいるのですが、彼はいわゆる「すぐに友だちを叩いてしまう」子で、女の子からは少し、敬遠されています。

同じ保育園の女の子の口癖は、入学時から、

「もう!Tくんったら!」

でした。

さらに、

「Tくん!やめてよ!」

です。

そう言われると、Tくんもプライドがあるから、そういう女の子の口を封じるために、さまざまに動いてしまうし、それが先生に見つかると、大体はTくんが悪いことになって、思い切り叱られてしまいます。

そういう保育園時代を過ごしていたものだから、Tくんは、入学してからもずっと、さみしいのです。





そのTくんにとって、尊敬できる友だちが、リンゴ・スターのYくん。


「先生、これ、Yくんのと、同じだよ」


と、得意げに、Tくんが自由ノートを見せてくれたことがあります。

お絵かきの好きな1年生ですから、休み時間になると、自由ノートにお絵かきする子がたくさん。
自分のノートに、恐竜やら、ロボットやら、なんでも落書きをしていると、あっという間に、ノートを消費してしまう。

Tくんも、お母さんに言って、新しいノートを買ってもらっていました。
これまでのノートには、白いところがなくなるくらいに、ぎっしりと、恐竜を書いていましたから。

その新しいノートを、朝、わたしに見せにくると、

「これ、Yくんと同じだよ。同じ赤い花があるし、恐竜もあるしね。これ、漢字?これなんて読むの?」

Tくんは、自分で気になったことを、すべて言わずにおれない衝動性があります。だから、私に話す時も、一度に、一気に、3つも4つも、話をします。

Yくんと同じノートを買った、ということが自慢でならないらしく、わたしに見せた後、教室に「おはよう!」と入ってきたYくんに、さっそく見せていました。

「Yくん!赤い花でしょう。このノート、Yくんと同じだよ。昨日、アピタで買ったんだよ。ね、ぼくのお母さん、アピタの近くで働いているから」

そこまでを一気に言うと、Tくんは、嬉しそうにニコニコしています。

ショート・ヘアのYくんも、最後まで聞いてあげると、

「ああ、いっしょだねー、赤い花だしね。ぼくのお母さんも、アピタで買ったんだよ。いっしょだねー」



この対応を聞いていると、Yくんのことが好きなTくんの、感性は正しいのだな、と分かります。

Yくんは、Tくんが話してほしいことを、的確に話している。

コミュニケーションが、正しい。

同じ1年生で、こういうコミュニケーションをとれる子がいるのです。

なぜかな、と私はそこが気になります。

同じ1年生、同じような男の子でも、まったくTくんと、コミュニケーションがかみ合わない子もいるわけですから。




もう少し、Yくんのことを書きますと、

Yくんは、どうやら、人の気持ちが分かるようです。

なぜそう思うか。

時折、教師の私にはすぐにパッと、分からないようなことが、教室で起きるのです。

1年生の教室は、そういうことが、頻繁に起きる。

たとえば、

「座りなさい」

といっても、なんでか、なかなか座らない子がいる。

なぜか、プリントが1枚、余る。

なぜか、Kくんの水筒が、教卓にのっかっている。

なぜか、R太くんが、泣いている。

なぜか、水の入ったバケツが、廊下に出ている。

・・・・・・



私が職員室から帰ってくると、ほとんど毎回、不思議な光景が出現しています。

まあ、それが1年生なのでしょう。


そうしたときに、活躍するのが、リンゴスターのYくん。

「先生、R太くんね、S紀ちゃんが宿題プリントふんじゃったから、泣いてるみたい」


とっくに宿題プリントは机の中にしまわれているから、わたしは何が原因か、見ただけでは分からない。
ホームズじゃないんだし・・・。R太くんが、泣きじゃくっているときは、ちっとも分からない。
プリントが1枚あまったのも、どこかで列がずれて、もらわない子がいたらしいけど、それもYくんが、

「なんか、見てたら、U美さんのところから、ナナメに行ったんじゃないかなと思う」

と、教えてくれない限り、迷宮入りであります。



なかなか座らない女の子、「どうして座らないの?」と聴いても、うまく説明できない。

Yくんが、横から、

「先生、たぶん、うしろのTくんが、さっき鉛筆でつつくまねをしてたから、それがイヤなんだと思う」



女の子は、「Tくんにつつかれた」なら、はっきり述べることができたでしょうが、つつくマネをしていただけですから、ずばりと「イヤ」ということが言えずに、すこし困惑状態だったのでしょう。

それを、ちゃんとフォローしてくれるのが、Yくん。




気を回すとか、気を遣うとか、親切だとか、気働きができる、というの。

そういうニュアンスではない。

Yくんは、人と、ただしく、会話ができる。

相手が、「そうしている」。・・・で、Yくんは、相手の「そうしている」の真意はなにか、と知ろうとしている。

・・・ですね。(それがなかなか難しいわけです)

学級のリーダーを決めない理由

私は転職をして教師になりました。
教師になったのが35歳の時。
18歳で家を離れ、20歳の時から働き始めました。大学は卒業していません。

20歳の時から15年間、リーダーってなんだろうと真剣に考えてきました。
リーダーと言うものを決めない組織にいたからです。一応、リーダーらしき存在はいたのですが、それがまた、コロコロと変わるのが特徴でした。
第一、上司が誰だかよくわからないようなスタートで、上司に対してタメ口をきいても何も言われず、中学や高校で培った「先輩・後輩文化」が自分の中で崩れていくのがわかりました。

そんなことから、私は担任になって、学級長を決めたことがたったの1回しかありません。教師になった最初の年だけです。隣の学年主任の真似を全てしていたので、学級長を決めていました。

私は、どうも、教師になる前の15年間で、リーダーと言うのは、どこかの権威が決めて良いものではないと言うような予感がしておりました。
自然にできたものならいいんです。そういうものは誰しもが納得しているからです。
なんとなく、

「この人が中心だといいな」
「この人がまとめてくれるとすごく安心できるな」

というような存在っているんですよね。
ありがたい存在です。
みんなで支えていきます。

そういう存在が、いない時もあります。それはちょっと寂しいです。でも、組織が、まだ未発達の段階では、どんな組織であっても、よくあることだと思います。まだ、構成員一人ひとりが、個性を出せていない段階で、集団としての方向性もまだ組み立てている最中と言うような時ですね。
そんな未成熟な組織の段階であれば、誰が中心だと良いのか、誰がどんな人なのか、まだお互いに探り合っている段階ですから、この人がいいなと言うものもまだ出てこないんです。また、中心になるのにふさわしい人物本人も、あっ、俺が中心でやればいいんだな、よし、声をかけていこう、とまでみんなの気持ちを受けたり、感じ取ったりすることができていないです。

ですから、リーダーという存在がいるというのは、なかなか奇跡的なことだと思います。

ところが、先生は鶴の一声で、その奇跡が起こせちゃうのですな。

「はい、学級長を決めるよ。◯◯さんにしてもらいます」とか、
「誰か推薦してくれる?多数決で決めていいよ」とか。

これを言えば、ほぼ当日中に決まりますね。クラスのリーダーは。

私は、この点がどうしてもしっくり来ず、仲の良くなった先輩に聞いてみたことがあるんです。

「学級長って決めたほうがいいんですか?」

そうすると、その先輩は正直に教えてくれました。

「そのリーダー役をやった子が、その立場を経験することで、学ぶことがたくさんあるでしょう。うまくいくことだけではないけど、その子自身は随分と学べるでしょう。だからやる価値はあると思うね」

いかがですか?
皆さんはどう思われるでしょうか?

私はそれを聞いて、あっ、だったらやめておこう、と即断しました。

その子が学べるだけと言うのであれば、大した事はありません。大事なのは全員を巻き込んだ40名なら40名の学びが大事なんです。私は1人よりも40名の学びを取りたいと思いました。

そこでその後、一切リーダーや学級長と言う立場を決めることをしてきませんでした。
そのかわり、エネルギーを注いだのは、本音が言えるクラスということです。単純なゲームをたくさんやって、単純によく笑って、友達の気持ちを代弁することをたくさんやって、こんな気持ちだったのかな本当はこうしたかったのかなと言うことをたくさんたくさん話をして。

まぁ、そうしてきますと、リーダーってやっぱ出てくるんですナ。
じわっ、じわっ、とね。
あぁよくそこまで気を遣って考えてくれたんだな。
あぁ、〇〇さんの気持ちをうんと分かろうとしてくれてたんだ。
みんなが良くなるようにって考えてくれて、その発言になったんだね。
もちろん、そうやってフィードバックを返していきます。クラス全体で、話します。

「◯◯くんが言うと、何か知らんけど、説得力あるよね(笑)」と、ひょうきんな男の子が言ってくれたりします。するとそこにそうだよなぁと言う空気が生まれる。

この時が級長と言う名前はなくても、学級長の役割をする人が存在していると言うことです。

これを4月の最初に、じゃあAさんにやってもらうね、と決めていくと、まぁ形はスムーズに流れるかも分かりませんが、役割を背負った本人も苦しむケースがあるし、その子がリーダーの役割を勘違いして、指示や命令を繰り返すようになれば、一気に学級は崩壊していきます。

担任が「長」と名のつく立場に対して、係、という以上のなにかを求めるから、おかしなことになるので、係だと認識しているのであれば、まだ被害は防げると思います。でもまあ、結局はそれを決めない方が、子供たちに誤解を与えずに済むと言う点で、良いことがあると思います。

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世間の考える、理想の先生像は


勤務開始2時間前6時に登校、教室整備、授業準備、早く登校する児童対応。朝の会は児童の心を打つ話からスタート。給食指導、アレルギー対応も抜かりなし。

分かりやすい授業は児童を引きつけ、机間巡視や発問も的確。自作の授業プリント、各テストも児童の理解進捗度を測れる内容。児童の学力は向上し、採点・評価も適切で早い。放課後も個別相談、遅れがちな児童の学習支援。

いじめ対応も完璧。激しく教員を叱責し、責める保護者に対しても冷静に対応。いじめた側、いじめられた側の親子とも円満解決。

日々の指導も公平、ケガやトラブル対応も完璧。

会議は適切な発言、管理職もうなる内容。運動会など行事も中心で企画運営。

児童との関わり方も良く、クラスの児童は笑顔が絶えない。不登校児童も勤務時間外の家庭訪問・家庭連絡も含め、適切に対応。少しずつ登校日数が増え、40人全員が教室に揃う。

これが、理想の先生です。
この境地をめざし、日々の鍛錬です。

決してムリだとは思わない。
しかし、日本中のすべての学校がそうなるには、実現まで、あと300年かかる。

しかし、たった一つの工夫で、これがただちに実現します。

わたしはその奇跡のアイデアを知ってます。

たった一つの工夫。
それは、ずばり教室の人数を最大20人までとして、さらにどの教室にも個々の副担任を配置するのです。1組にはA先生、2組にはB先生と。つまり、単純に教師の数を倍にする、ということですね。
子どもの人数に上限を設けてかつ、教師を倍に増やす。これらを同時にやるだけで、夢が実現しますゾ!

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教室にぬいぐるみがあるかどうか

教室にぬいぐるみを置いています。
教室にぬいぐるみを置いていていいのかどうか?
コレ、ずっと実は悩んでるんですよ。

ほんとにこんなの置いていいのってね。
教室はロンパールームじゃないんだから!
・・・と、いつか、誰かの保護者に言われないかな!ってね。不安なんですよ。

実はこれ私の恩師の真似なんです。
私の小学校4年生の時の担任の先生。ずっと教室にくまのぬいぐるみがありました。そしてそれがなぜか多くの子供たちの心の拠り所だったんですよ。
何かあると熊に話しかけたりしてね。
誰かの誕生日になると、そのクマがちゃんと祝ってくれたり。先生の声でしたけどね。


でも、多分これ保護者には受けが悪いです。教室にそんなもの置いといていいわけがないと多くの保護者が思っていると思います。
子供の気持ちが、たるむんじゃないかと言うことで。

くまなんかと遊んでないで、さっさと算数をやるべきだ!

と、誰かのおじいちゃんに怒られそうな気がしています。

私はこれを文科省に手紙を出して、ぬいぐるみ教育はやって良いかどうか聞こうと思ったんですが、正式にダメですって言われたらやめなきゃいけないので手紙を出すのはやめました。

このぬいぐるみの導入には3時間かけてます。
単発で、ぬいぐるみがあるわけではなく、マインドフルネスと言う長い授業プランの中の1つの材料として存在しているのですね。最終的には、自分自身をマネージメントしていくと言う大きな総合発表につながると言う気の長いプランです。これをしないといわゆるキャリアパスポートも書けないですからね。

キャリアパスポートを本気でやろうと思うと、自己マネジメントと言う世界に踏み込まざるを得ず、そのためにぬいぐるみがその最初の段階で必要となるわけです。まぁ、ライナスの毛布、ということです。自分のことをじっと見つめる時に、ライナスは毛布を必要とするのですが、それを日本の小学生だって必要とするわけです。

今度の学習指導要領の改定に見られるように、子供自身が自分の学びを形成していくと言う流れは、この私の提唱する「自己マネジメントぬいぐるみ教育」を推進するものなので、私は非常に安心をしました。

そのうちに、発表する機会もあろうかと思いますが、実は前からこのブログにおいて、かなりその実態について詳細に書いてきました。
ただ、系統的になってないんです。このブログは、その日、その日思いついたことを書いただけなので。

自己マネジメントぬいぐるみ教育と言うのは何者か・・・!

また夏休み位にまとめてみたいと思います。

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気になる子ども

この記事は、3年以上前に書いた記事の原稿ですが、非常に具体的な事例なので、身近に気にされる方がいると困ると思い、あえて公表を避けてきました。

既に3年以上が経過し、既にその子は小学校を卒業、また私も勤務校が変わったために、長いこと下書き状態であったこの記事を改めて書き直し、新たに編集し直し、初めてアップすることにしました。


では、ここで言う気になる子とは?

実は、その該当児童は、「被害を訴える」ことにたけていたのです。

気になる点は、そのことだけです。
本当にとても良い子で、クラスのために何度も活躍したし、勉強も頑張るし、とても素直な良い子でした。友達もたくさんいて、その子が笑うとみんなもつられて笑うようなコミニケーション能力も高い子でした。

そんな子だったから、あえて気になったことなのかもしれませんが・・・

さて、その子は、被害を、オーバーに脚色してしまうのです。
例えば、

肩を触られた→ 叩かれた
ここに置かないでと言われた→なんでここに置くんだ!馬鹿野郎!と怒鳴られた
椅子の背をトントンとした→椅子の背を思いっきり引っ張られた

と言うふうに、他に言いふらしてしまうのです。
実際に私が見て、これは違うよな、何とかして被害を大きくして言おうとしているんだな、と全てを目の当たりにして思ったことが「何度も」ありました。

ここで私が問いたいのは、
その子がそのように被害を受けた、あるいは被害を大きくして言わなければならなくなる、そういう精神状態に追い詰められているのであれば、なぜそのように追い詰められているのか、という点。

友達とその直前まで仲良くしていたはずなのに、特に何かその子を怒らせるような要素が他にあるわけでもなさそうなのに、誰もその子を責めてはいないのに・・・。

それにもかかわらず、他の子を徹底的に責めようとする。
あるいは自分が被害者だ被害を受けたのだと言うことを切に訴えようとする。

これは、何だろうか?
と、当時、強く思いました。

そして、これは、防衛反応だろうなと直感しました。
責められ責められ、謝罪を要求され、これまでの人生のどこかで否定を受けてきたためでしょう。

誰もクラスの友達でその子自身を非難したり、蔑んだり、恥ずかしめを受けさせたり、責めたりする子どもなんていないのです。
それでも、そのように、振る舞わざるを得ない、彼の心の状態。

彼の人生の中で学んできたことの大きさを思います。

自分が被害者であり、決して自分は加害者ではないと、周囲に常に申し開きしなければならないと言う状態。
自分はシロです、というか、自分は被害を受けた側の被害者です!と、叫んで回らないと、自分の身に何か良くないことが起こると言う予感です。

この子の心が癒され安らぎ。安定してくるために、どんな関わり方をしていけば良いのかな、と考えました。

1番は、彼が【自分が被害者である】と叫ばないでも、周囲から決して責められないと言う安心感です。
2番目に、誰もあなたを責めてないよと言うメッセージを明確にすることです。
3番目は、あなたが被害者だから救うのではないよと言うことです。被害を受けていなくても加害者だとか被害者だとか、そういうお互いの関係以外のところでも十分にあなたの希望には協力するよと言う姿勢を示すこと。人間関係はもっと豊かで、単純な加害者と被害者、どちらかに偏ると言うものではないのです。
4番目は、実際にあなたの希望を教えてね。ぜひ協力させてねと言うことを常に常に伝え続けることです。

具体的には
「僕は、◯◯してほしいです」
「僕は、さっき、◯◯して欲しかったです」
と言う言い方で、あなたの気持ちを教えてね、と言い続けるようにしました。

別に、あなたがかわいそうな身の上で、かわいそうな被害を受けたから、保護するのではなく、あなたがどんな状態であれ、常にあなたを応援するのが周囲の大人ですよと伝えるのです、

あなたは何がして欲しいの?と、とにかくその子に聞いていくのです。
そしてきっちり言わせます。
日本語としてきっちり言わせていきます。
話型を、確実にその子にインプットさせるのです。「〇〇してほしい」

そして、それが言えたら褒めます。
はっきり教えてくれてありがとう。これで協力しやすくなったよ、と。

「ぼく、〇〇して欲しい」
が、使える子供に育つと、どんどんと子育ては優しくなります。簡単になります。僕は被害者なんだ!と言うことを言わなくても協力してくれる。そんな大人が周囲にいることがはっきりとわかるからですね。

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友だちを強く注意する、と言う問題

世の中から、パワハラ問題がなくならない。これは人々の意識の中に「〇〇しなければならない」と言う意識が濃厚なためで、なかなかそう簡単にはなくならない。

怒鳴りつける上司の方にも言い分があり、そうは言ったって得意先のあることだからそうは言ったって締め切りがあるのだからそうは言ったって。さらに上の上司から叱られるのだからそうは言ったって・・・、という部長なら、部長の課長なら課長の言い分があるのです。

そこで、脅し暴力と言うものが使われるようになります。安易に相手がひるみ恐れ言うことを聞き従うからです。
この方法は、あまりにも安易で簡単で、シンプルで効き目が強いために多くの人がこれに頼るようになります。しかし、長い目で見れば、組織は徐々に弱体化し、その組織はそれを続けている限り、長続きはせず、良い人材は離れ、求人にしても、人は集まらなくなり、噂が噂を呼んで、退職者が増え、組織は成り立たなくなっていくのです。

従って、本当の会社の存続を願う社長は、パワハラをする中間管理職の方をやめさせるか、その行動や意識を全て是正していかなければならないのです。

さて、小学校の教室にも、中間管理職が現れます。いわゆる、「学級の中間管理職問題」です。

これは先生のように教師のように強く何々してはいけません。何々しているのはダメだと思いますと言うふうに、同じ子供を、学級の友達を、非難し、なじるということです。

これを放置しておくと、学級が荒れて行きます。問題が地下に潜り込んで、教師の目に見えにくくなることもあります。表面上はおとなしくても、早くこのクラスが終わるといいなと子供たちが考えるようになるのです。

子供が子供に注意するのをそのまま放置しておく事は私は基本的にはありません。注意ではなく、きちんと言葉を使って、「◯◯してほしいです。△△だと⬜︎⬜︎になるので、それよりももっとこうして欲しいです」と言うように、指導します。

あるいは、「◯◯だと嫌な気持ちになってしまうので、そのことをわかって欲しいです」という言い方も教えます。

わかって欲しい、という言い方は、なかなか子どもはしませんね。知りません。

でも、言い方を教えると、便利に使うようになります。

◯◯してほしかった、と過去形で言う言い方も教えます。

これも、ずいぶん使うようになります。
つまり、こっちの心情を慮ってほしかった、というのを、言えるようにするわけ。

これが言えるようになった子で、すぐに手が出たり足が出たりする子が、暴力に依存しなくなったケースは山ほどあります。

◯◯するのは悪いのでダメ!
なんでそんなことするの!
△△しなきゃダメでしょ!

・・・という言い方を覚えた子は、その言い方に依存しているだけなので、依存しなくても良いんだよ。別の言い方があるよと伝えることで、中間管理職を辞めるようになっていくわけです。

これは権力の味と言うものを教えることにもつながっていきます。権力者の言うことだから従わなければならない、権力者の言うことに従わなければひどい目に遭う、権力者の言うことに従わなければ、このグループからつまはじきにされる・・・
いつの間にか、こんな間違った概念が、子供たちに浸透しているのです。
権力者などどこにもいないと言うことを、子供には骨の髄から教えていく必要があります。

「あー!いけないんだ!悪いことしてる!!〜しちゃいけないって校長先生が言ってたんだよ!」
「他の子もみんな、そう言ってたよ!なんでしないの?!」

こんな言い回しをしている子供を見つけたら、教師は本当に気をつけなければいけません。それはパワハラを教えることになり、差別主義を教えることになるからです。ファシズムやレイシズムにもつながる、危険思想です。

小学校の教員は、中間管理職を見つけたら、よほど気をつけなければならないのです。よっぽど気を入れて慎重に慎重に考えなければいけません。権力を笠にきた言葉を使うことで、相手を意のままに操作しようと言う子供を1人でも生み出してはならないのです。

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ドッジボール!勝ち負けにこだわらないルールのまとめ

小学校3年生くらいが、最もドッジボールを楽しめる年頃かもしれない。まだ力の差も少なくて、クラス全員が参加できる。
クラスの半数は、まだ投げる力が足りず、外野まで届かせることができない子も多い。だからこそ、外野まで投げられる子が非常に重宝されるし、憧れの存在になる。
力が足りない子はより、遠くへ投げたいと言う意欲が募ってくる。この憧れに似た気持ちと自信を鍛えたいと言う気持ちの相乗効果で身体能力が伸びる時期だ。

さて、通常のドッチボールだと、頭をあまり使わないので、体力、勝負になって単調になってしまう。
そこで、かなり色々と工夫をして、頭を使ってゲームを進めるように仕向けていく。勝ち負けにこだわらなくなるのがポイントだ。勝った負けたは、時の運も大いに作用する。買ったから、万歳をし、負けたから悔しがると言う、決まりきった態度をとるのが、だんだんと面倒になってくるのが非常に良い兆候だと思う。
勝ち負けに、非常にこだわるタイプの子どもも、時の運や頭の使い方で、どんどんと勝ち負けの状況が変わっていくのであれば、もう勝ち負けなんて、とんでもなくめんどくさいことに思えてくる。これは人生を長くやってくれば誰でも感じることで、同窓会に久しぶりに出てきた友達同士が、履いてきたハイヒールやハンドバック、服装や時計や髪型やらで、相手の持ち物を一瞬のうちに判断して、バチバチと勝った負けたを繰り返していると、疲弊するのと同じである。

さて、ここに一筋縄ではいかないドッジボールのルールをまとめておこう。
低学年にはオススメをしない。なぜなら、ルールが複雑だからだ。

まずは定期定番の、これら。

王様ドッジ、秘密王様ドッジ、コーンドッジ、火の玉ドッヂ、利き手じゃないドッヂ、転がしドッヂ。

コーンドッジは、自分の陣地の真ん中に小さなコーンを立てておき、ともかくも、それが倒れたら負けなのであります。人間に当てるよりも、はるかに多くの子供が、その小さなコーンをめがけてボールを投げますが、なかなか当たりません。人間が狙われにくいので、ドッジボールは嫌だと言う女の子が多い場合は、これで慣れさせていくのが良いでしょう。

火の玉ドッジは、途中で火の玉タイムがありまして、教員が「火の玉タイム!」と叫ぶと、火の玉タイムになります。やがて、火の玉タイムは終了!という合図があると、普通に戻ります。途中で約1分ほどそういう時間をつくります。火の玉をつかめる特別な子供しか、ボールを触れない状態です。中に小さな子が混じっている場合に有効です。その小さな子しか火の玉は触れないわけです。

1番複雑なのは、下記に記すドラクエドッジです。

ドラクエドッジボールは、最初に役職係を決めておきます。王様ドッチボールの亜流ですね。


まずは、👑王様(キング)が一名。

役割: チームの中心人物。
特徴: 当てられるとチームが敗北するため、守ることが重要。

🛡️ 戦士

特徴: 通常のボールでは当たってもアウトにならない。
弱点: 勇者や魔法使いのボールに当たるとアウトになる。

⚔️ 勇者

特徴: 戦士をアウトにできる唯一の存在。
特性: 戦士をアウトにした数だけ、自身が当たってもアウトにならない回数が増える。

🧙‍♂️ 魔法使い

特徴: バウンドや転がったボールでも、触れた相手をアウトにできる。
制限: 魔法使いのボールは、他の魔法使いしかキャッチできない。

※サンソンさんの「レクで学級をHappyに!」を参考に書かせていただいてます。感謝🥲

💧 スライム

特徴: 3人以上で肩を組むと「キングスライム」に変身し、その間は当たってもアウトにならない。
制限: キングスライムが当たると、30秒間合体できなくなる。

🔓盗賊

特徴: 最初に当てた相手の職業や能力を奪うことができる。

🧝‍♀️ 僧侶

特徴: 敵をアウトにすると、仲間を1人生き返らせることができる。

💃 踊り子

特徴: 当てた相手は10秒間コートの外で踊らなければならない。

👻 ゴースト

特徴: 敵の外野に入り、ボールを取って味方にパスできる。
制限: 敵の内野には入れない。当てられるとアウトになり、自陣外野にしかいられなくなる。

💣 ばくだん岩

特徴: 当てられると「爆発」し、周囲のプレイヤーを巻き込んでアウトにする。

どうだろうか。高学年向きだと言うことがわかっていただけたでしょうか?

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教師がゴールデンウィーク明けに話すこと

休み明けに、学校にやってくる子どもたちの表情はさまざま。
眠たそうな子も多い。
なんとなくスッキリした顔の子もいて、そういう子を見ると、ああ、良い充電ができたのだろうなあ、と思う。

ただ、全般的にはまだテンションは低め。

私はよく来たなあ、来たくない子もいるだろうけどなあ、と思うと、感心してしまう。

そこで、朝の会では、子どもの元気が出るような話をしようと思い、ゴールデンウィーク中に読んだ、かこさとしさんの科学の大サーカスの話をした。

子どもたちには、ありとあらゆる魅力的な世界が広がっている。
こちらは、人生の中で何度も繰り返し聞いてきたことでも、それを初めて聞く子どもたちは、目を輝かして聴く。

あまり長々とは話をしないのがコツ。
また、興味がある子は調べてみて、で終わる。

それにしても、小さな子たちが、毎日、毎日遠くからせっせと歩いて学校にやってくる。このことを純粋に静かに考えようとすると、今の私なんかよりも立派な子どもたちはたくさんいると思うし、その熱意と情熱と行動に、何とか応えてあげないと、と思わされる。

本来ならば、学校の教室にたどり着いた時点で、めちゃくちゃ褒めてあげたいレベルだ。今の学校には、それが足りない。教師のエネルギーが足りない。教師は疲弊しきっている。

休み時間になると、さっきのお話だけど、と続きを聞きに来る子もいる。また、「さっきの化学のはなし、僕調べてみる」と、静かな決意を報告しに来る子もいる。素敵だなぁと思います。

また、休み時間は、このゴールデンウィークにどんなことがあったのか、教えてくれる子もたくさんいます。だから、やはり教員は聞き役なのですね。歳をとるとともに、教員の経験を重ねれば重ねるほどに、教員は聞き役だなぁと思うようになりました。どれだけしてあげられるかよりも、どれだけ受けてあげられるか。

その子が一人ひとり持っているユニークさは、掘れば掘るほどにじみ出てくるもので、私はそのセンサーを自然と磨くことができていきます。私の方が磨かないと、それを感知できないのです。そのためには、どんな子なのかを知ろうと、毎日コツコツと、彼らに近づかなければいけません。
まるで長い長いトンネルを掘るような作業です。
スプーンで少しずつ少しずつ掘るから、1年経つと、その子のことがほんの少しわかってきます。そこに、教員としての私の学びがつまっていると言うわけです。

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子どもが主人公になるクラス

教員になって、最初の5年くらいは、自分がどんな授業するのかに力が入っていました。
こんな教材、こんなアイディア、新しい本が出ればそれを買い求めて読みました。多くの実践をできるだけ見たくて、研修にも応募しました。

新しい知識を手に入れると、すぐにそれを試して得意になってましたね。どちらかというと、子どもよりも先生が教室の主人公になっちゃうパターンです。

書物や講座、研修を受けると自分が学んでいる気持ちになれました。

ところが、それだけでは、どうしても到達できないのです。自分の授業アイディアが豊富になったとしても、だからといって、本当に子どもが育ったかというと、違うのです。授業のアイディアは豊富な方が望ましいでしょうが、そもそもの立ち位置が違えば、子どもは教室の主人公にはなってくれないのです。

本当に子どもに主体性が育ってるのか?と問いはじめて、これは努力の方向が違うぞと気がついたのが、15年ほど前でしょうか。

それまでは、自分がまずいわゆる上手な授業をして興味を持たせ、さらに子どもにたくさんの課題を示して、その課題を一生懸命にこなさせようと数を目標にしました。しかしそれだと、今度は子供の顔が険しくなってくるんです。

一人ひとりの顔の表情に柔らかさや、楽しさが消えて、まるでサラリーマンのような、追い詰められた顔になっている気がする。そこで、子どもに何かをさせると言うよりも、教師は一歩引いたところで環境整えることに集中しようと考えました。叱らないと言うのもその環境作りです。

子どもには、何よりも安心できるコミュニティーが必要です。
安心できる居場所があれば、勇気も知恵も力も湧いてきます。

そして、自分が今どこを目指そうとしているかと言うしっかりとした見極め、自分の立ち位置をよくわかるような物差しや地図マップ、俯瞰した上空からの航空写真のようなものが欲しいのです。

つまり、多くの先生方が見通しと呼んでいるものですね。

自分と言う人間を理解するための手がかりや物差し、そしてどっちの方向に進んでいくと良さそうかと言う「見通し」が持てれば、子どもはものすごく力を発揮します。

ところが、これは言葉で伝えようとしても、なかなか伝わらないんですよ。
子ども自身が実行を通して、体での体験を通して実感しなければ、しっかりとは身に付かない。

だから、いつもの授業は欲張らないことにしています。正直、指導書の隅から隅までをやろうとは思っていません。
予定時数をオーバーして、学級や余裕のある時間が減ってしまうと、本当にやりたいことがやれなくなってしまうからです。

本当にやりたい振り返りの時間を確保するには、ほとんどの授業では、欲張らないことにしたのです。
普段欲張らないからこそ、結局のところ、本当にやりたかった目標が達成できるのです。

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先生用の机を教室の後方に置く

春休み、というのは実は裏返し。
3月4月は、先生たちがめちゃんこ忙しい時期です。

その3,4月だからこそ、できることがあるのでして、
すべてリセットするわけで、クラス替えもあるし、担任の異動もある。
環境がガラッと変わります。
校舎も教室も変わると、職員室から教室へ向かう道すじも変わり、景色がすべて変わります。
これを経験すると、春だなあ、と実感しますね。

わたしはこの春、教室が変わったことをきっかけに、あることに挑戦します。
それは、教卓の場所を変える、というやつ。

これまでは黒板の横、先生の道具を置く棚があったので、その前に先生用の机を横付けしておりました。

これを10年以上変えてこなかったのですが。

ふと、なんだかその気になりまして。

今年は、先生用の机を、教室の真後ろにもってきました。
ふだん、保護者のみなさんが授業参観のときに立つ場所ですね。ここに、先生用の机を持ってきた。

それでね、今日はそのシュミレーションで、座ってみたわけですよ。そうじしたりしながら。

すると、やはり景色がちがう。
子どもがなにをするのか、背後から見守る感じになる。
これは、おもしろそうだ、と思いました。

どうなりますかね。

メリットとしては、どんなものがあるでしょうか。
子どもたちを後ろから見渡せる

授業中の子どもたちの様子や、ノート・タブレットの操作など、全体を俯瞰しやすくなるため、見逃しが減るのでは。

「子ども中心」の教室になる

先生の机が前にないことで、前方スペースが広く使えたり、子どもが主役である雰囲気が出ます。先生も“黒板前に立って指導する人”から“近くで伴走する人”という印象になるのでは。

教室前方をフレキシブルに使える

掲示スペース、図書コーナー、朝の会・帰りの会の場など、前方を多目的に使えるようになるのでは。

子どもとの距離感が変わる

休み時間や授業の合間など、後方で何気なく過ごしていると、気軽に子どもが話しかけに来やすくなることも考えられます。


どうでしょうかね。
やってみて、どうか・・・でしょうかね。

世間の多くの方たちと同じく、先生たちは、いつも4月に、新しい気持ちになっています。。

人間にとって、リセットの季節、というのは、大事ですね。
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節分は学校では扱わない方が・・・

私自身は日本の古来から続く良き伝統を大切にしたいと思っていますし、神社のあの静寂さも大好きです。

さて、日本では正式な伝統として名高い「節分」ですが、豆まきは校長先生にはウケが悪いです。

なぜか。

読者のみなさんは、ピンときたかな?

ハイ、ご名答!

「苦情の電話がくるから」

その通りです。
保護者からの電話が鳴る案件は、校長先生としては、厄介なのですね。

「落ちた豆を子どもが食べたらどうなるんだ!」

確かに、不衛生だし、「食べないで」と指導しても子どもは食べちゃう。
落ちた豆を子どもがもし口にしたら、学校としてはマズい。

これ、実は名案がありまして・・・。

ピーナッツでやるんですよ!

それも、殻付きの・・・。
そしたら、豆まきというか、鬼に向かって殻付きのピーナッツを投げた後、回収して、先生が殻をむいて食べれば良いですからね。

そしたら、子どもが言うそうです。

「ズルい!先生だけ食べるなんて!」

ところがこれも保護者からクレームが来たそうです。どんなかって?

「殻付きとはいえ、子どもに落ちたものを食べさせるなんて、ひどい!」
たしかに。
もしかしたら、偶然にも床のホコリになんか良くないものが絡まっていて、殻付きであってもやばいことがあるのかもしれません。

そこで、もう節分に対する解釈をかなり改良?しまして、鬼に向かって投げたフリをする、ということにしました。
実際には投げません。これでクレーム対応はバッチリです。

なにしろ、文科省からはなんとなく、日本の伝統を重んじ、季節を感じる日本の美意識の涵養につながるような行事をやれ、伝統的文化は日本人の心を養う観点からも推奨することが望ましい的な、言葉にならないくらいの圧迫感が現場に降りてくるんすよ。
いや、実際にはハッキリ文書が出てるわけでは無いですがね・・・

そこで、良き日本の伝統文化を子どもに継承するため、今年も先生たちは鬼の面を被って、殻付きピーナッツを浴びようとする。

ところが、これもクレームがはいるのですよ。こうなったらもう、節分には関わらない方が良さそうです。

ピーナッツ・アレルギーの子がいるかもしれないからです。

保護者が知らない、というアレルギーがある。保護者が、そんなにピーナッツを子どもに食べさせたことがなくて、本当にうちの息子がピーナッツアレルギーだと、知らない場合があるんです。滅多にないでしょうが、それでも、あり得る。書類に「ピーナッツアレルギーはありません」で、マルをつけちゃう。

その子は最初、たらん、と鼻水を出しただけでしたが、徐々に呼吸が荒くなって青ざめてきまして、救急車で運ばれたそうです。私も校長先生から聞いた話ですが。

「昔はこういう行事があったらしい」
と、絵本を読む程度にすれば良いのかも。

ちなみに七夕は、起源が中国ということで?の謎クレームが来たことが。

それにしても、かわいそうなのは現場の先生です。

文科省を含めた世間からは、伝統行事を重んじろ!節分も行事もやれ!と言われ、保護者からは、節分行事やめろ!と、はさみ撃ちに・・・
これを、ダブルバインド、と言います。

ダブルバインドって、人を病ませる、一番やってはいけない「価値観の縛り」らしいですな。うつ病の原因らしいです。

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芸人のノリと学級のノリの違い

ひな壇に芸人がたくさん集まって、ワイワイとおしゃべりするのが楽しいテレビ番組がある。
私も好きで、ごくごくたまに見ることがある。

ただ、この楽しい雰囲気を学級で真似しようと思うのは、注意が必要だ。

私の失敗をあげてみる。

島田紳助さんが、昔の番組でひな壇に芸人を座らせ、おしゃべりトークをしながら軽快に番組を進行していた。
このときの島田紳助さんの狙いは、芸人一人ひとりのキャラを際立たせて、そのキャラを番組の決まりごと(セオリー)として視聴者に周知させ、いわばお約束のように芸人をいじると言うやり方だった。

島田紳助さんは、磯野貴理子さんをいじるのが得意だった。
これは、紳助さんが磯野さんにどんなキャラ設定をするか、そのキャラをからかうことで、どんな笑いが生まれるのか、計算をしてのことだった。

確かに、キャラ設定がはっきりしていればいるほど、そのキャラをいじったり、意外性に持ち込んだりすらことが出来て笑いが生まれる。また、そのキャラ設定の約束事をその場にいる全員が共有していることで生まれる安心感もあるし、仲間意識を演出することができる。島田さんはそれを狙った。

学級では、これは御法度だ。
一旦できた約束事があれば、その約束事を認識している仲間うちでは、共感の笑いに持ち込める。芸人は、からかい、からかわれることでタレントとしての笑いを生み出す。それが仕事だ。

小学校の学級では、その場にいる子ども一人ひとりにキャラ付けをする事は、担任なら容易にできてしまう。
しかし、相手はタレントではなく、生きている成長過程の子供である。

私は、以前、極真空手を習っている子が話題になったときに、失敗をしてしまった。

ある子が、その空手を習っている少年について、
「だって◯◯君がこうしろって言ったから失敗したんだよ、◯◯君のせいだよ」
と言うふうに、言った。
クラスのみんなが、その発言につられて、話題になった空手の少年を見た。

空手を習っている◯◯くんは、そんなことあったっけと言う顔でみんなの方を見ている。
この時、私は
「え?そんなこと言っていいの?◯◯くんは空手習ってるからね。下手なことを言うと怖いぞ〜」
と、少し面白おかしく言った。
言い方が面白かったのもあって、教室は爆笑になった。

話題を振った当人の子は、とっさに
「マジか、◯◯くん、ごめん!」
と、両手を合わせて大げさに謝罪をしたので、さらに大きな爆笑になった。

空手を習ってる◯◯くんも、爆笑の中心にいることが楽しかったようで、ニヤニヤしながら空手の型を作った。さらに爆笑になった。

後日談があって、彼が卒業するときに昔話をしていると、新間先生が、ぼくの空手についていじるのが、嫌な時があった、と言うのでした。
つまり、空手習ってるからあいつは怖いと言うようなことを、後で面白おかしくネタにする子がいたらしい。
そのことの発端は、おそらく私がその子にキャラ付けをしたことだ。空手を習っているから、強い、と笑いにしたことが、子どもたちの間でも、変な見本のようになってしまい、あぁやって友達をキャラ付けすることが面白いと言うふうになってしまった。

それが6年生の後半は嫌な時があったと言うのである。

私は彼にすぐに謝った。
彼は冗談めかして、それを言ったのだが、本音の部分があっただろう。
キャラ付けをされると言うのが、面白おかしいと楽しい間は良いかもしれない。しかしそうやって、固定化されたキャラ付け苦しむ子も出てくる。特に自分が意図したわけではないのに、周囲に勝手にキャラ付けをされてしまう事は、苦しいに違いない。
妙なタグや妙なレッテルを貼られてしまうようで、実際の自分というよりも、面白おかしいキャラ設定を優先しなくてはいけないように感じる子だっているかもしれない。

◯◯ちゃんって、こうだよね
⬜︎⬜︎さんって、ああだよね

こう言ったタグをつけてしまうような言い方そのものを聞いた時、敏感にそのうさん臭さや怪しさを感じ取って、そのキャラ設定と実際の自分は違う、ということを自覚できるような教室空間にしなければいけない。

タレントと子どもは、違うし、学級とテレビ番組は、違うのである。
もしかしたら大人の空間でもあるかもしれない。職場でも同じようにキャラ付けと言うようなテレビタレントの世界のお約束事が浸透してしまっているところがあるかもしれない。学級やクラスにもそうしたムードや空気があるかもしれない。

敏感になるべきだ。

これはタレントや島田紳助さんが悪いと言っているのではないです。くれぐれも。タレントは商売ですから。シナリオがあり、構成作家が台本を書くのですから。虚構と分かっていて、進めていることですから。

実際には、生きている実際の人間には、キャラ付けは不可能、ということです。
キャラをつけた途端に、そのキャラと実際の人間との違いがどんどんと明らかになるからですね。
AとBは同じだとだれかが言った瞬間に、もうAとBは違うのですから。そうです。昨日の自分と今日の自分は違うし、1分前の自分と1分後の自分は違うのです。目の前の石ころも、次の瞬間には、違う石ころだと言うわけです。

同じって何?
違うって何?

こういった話を子供たちとしていく授業は、面白いですし、こどもが哲学的な顔になりますね。

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褒められたけど、しんみりする話

校長先生がわざわざ褒めにきてくれました。

私のクラスにいる何人かの子がやたら騒いでいたり関係ない発言を繰り返したりするのを、私がスッと対応して笑いに変え、授業に引き戻して進めているからだと。



私はてっきり、

「ちゃんと叱った方が良い」

というアドバイスなり指導なのかと思ってしまった。



それは長年、私が「叱らない教師」をしてきており、頻繁に経験する代表的な管理職の反応だからであります。

もう20年近く、叱らない教師をやっているため、ときに

「きちんと指導しなさい。叱ることも必要だ」

と、指導を受けてきた。



私も叱らないわけではなく、その都度、改めた方が良い点は指摘し、直そう、と子どもたちには伝えているのだが、それでは叱ったことにならないらしく、管理職の先生の多くは、きちんと叱りなさい、と言う。



「どんなふうにですか?」

と、私ができるだけ下からお伺いすると、その答えはほぼ、強い圧迫を与えて強い大きな口調で言う、ということであった。



私はそれが叱ることとは思えず、あるいはもしそれが叱る、ということであれば、自分は叱らないで教員をやろうとやんちゃにも無謀にもそう考えたわけですね。



このあたりのことはブログの中で常々、折に触れて書いてきました。



若い頃は、「どこまで叱らないでいけるかな?」と、面白がって挑戦するような心持ちでした。



しかし、時代は変わるものです。

発達障害の知識が浸透するにつれて、私のスタイルは意外に褒められることも増えてきました。特別支援の先生たちの方にとっては受けが良く、「叱らないでもいいですか」スタイルに共感してもらえることが多いようです。



それが。

やはり、時代は変わったのですかね・・・

校長先生から、

「あなたのスタイルはスゴい。尊敬します」

と直接、私のデスクまで来て、おっしゃっていただきました。

「◯◯くんが大声でしゃべっていたのに、さっと笑いにして集中させ、引き戻してましたね」

校長先生はちょっとオーバーに褒めてくれました。

嬉しい気持ちもあったけど、それよりも大きな実感は、

「時代が変わってきてるな」

という感慨ですね。



私は20年という期間、世の中の教育現場を、ある一つの定点から観測し続けたわけです。
それは、「子どもというのは、叱らないでもいいか、どうか」、ということです。それを教育現場は許すのかどうか。周囲の先生方の反応から、リアルに観測し続けたのです。


たしかに、時代が変わりました。

昔は、大声で叱らない先生にとっては教育現場は不寛容でした。すぐに注意されました。
今は、管理職から、直々に、感謝までされます。
大声や圧迫をしない先生を、許容する感じが出てきました。
わたしのような叱らない先生にとっても、寛容な世界が広がってきています。


今回、ことの発端は、ある日の校内放送でした。たまたま機器の不具合から、校長先生の講話が聞き取れなかった私のクラスは、後日、校長先生にじきじきに教室に来ていただき、講話を聞くことになったのです。



校長先生が教室に入ると、静かに姿勢を正して待っていた子たちは、お話しをきちんと聞きます。

ただし数人の子を除いては・・・、です。これは教室あるあるでしょう。

教室を飛び出してしまう子や、椅子にしっかりと座れずにアドレナリンをビンビンに出して揺すりながら奇声を出す子は、多くの場合、低学年の時から発達障害の検査を受けたり、医療機関にかかったりします。「この子の特性を知り、われわれ大人がどのような環境を用意すべきかの指針にする」という理由で。



しかし、低学年でWISC検査を受けずに私の受け持つクラスに進級した子は、私のせいで、ほぼ、WISC検査を受けません。私が勧めないからです。

そのため、支援級の先生たちから、

「あらま先生のクラスからは、支援級に上がって来ませんよね。逆に支援級を卒業する子はいるけど」

と言われます。



これは、私の良くない点で、私はどうも昭和の古臭い、色んな子がいて当然だった頃が、忘れられないのです。自分が受けた教育が懐かしいのでしょうかね。昔は特別支援学級もありましたが、本当に車椅子で二階にこられない子とか、事情のある子が在籍してるだけでした。つまり、椅子を揺すって奇声を発し、教室を飛び出す子は、どこの学級にもいたのです。



私は校長先生に褒められたあとに、自分がなぜかしんみりしてることに気づいたのですが、きちんと褒めてもらえるまで、約20年近くかかっているのは、なんだか当初思っていたよりも長かったナ、と。
おそらく、自分にそんな気持ちがあるのに気づいたんでしょう。だから、なんだか嬉しい気持ちと共に、甘酸っぱいしんみりさを感じたわけです。
腹の立たない、自分をしらべる、たよりないくらいがいい、執抹殺なんていう話を若い頃にしていたせいで、わたしは世の中からずれたままで、このまま行くんでしょう。

ま、でも、人間らしい生活を実現しようとしてんだから、ヨシとしましょう。

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やさしいことをふかく・・・

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

これは、井上ひさしさんの言葉です。

小学校や中学校の、すべての営みがこうあると良いなあ、と思わせる言葉です。
もしかしたら、高校もそうかも。

とくに良いなと思うのは、

やさしいことをふかく

という部分ですな。
易しいことを深く、というのは、思いのほか難しいことです。易しいと一見思われることも、それを本当に真正面に据えて、取り組もうと思えば、なんにしてもなかなかに難しいことであることが多いからで、

すべての授業がこうであるべきだと思いますな。

そんなの簡単!
と、子どもに言わせるようでなければいけないと算数をしていると思いますし、国語の物語を読んでいるときは、あれ?意外と裏の解釈もあるぞ、そっちの方がさらにおもしろそうだ、と言わせたいです。

今、4年生ではごんぎつねを習っておりますが、ただ、狐が死んじゃう話、というだけではなく、作者の新海南吉(『あめ玉』の作者)が、なぜ物語の最後で、兵十にぱったりと火縄銃を落とさせたのか、その心の深い動きまで読み込ませたいと思いますね。

本当なら、昔の国語の教科書5年生に掲載されていた、あめ玉を続けて読ませることで、新美南吉と言う作者が、世の中をどう見ていたのか、考えるきっかけにもできると思いました。

あめ玉では、威厳のあるはずのお侍さんが、実は、普通の人と変わらなく、世間体や体裁、恥ずかしさを感じることがあり、強そうに見えるかもしれないが、実際にはただの弱い普通の人間だ、と言うことになっておりました。

ごんぎつねでも、兵十のことが、狐から見ると、大きな力を持つ存在に書かれていますが、実際にはそうではなく、仲間に神様のおかげだとさとされたら、そうかなぁと半分信じたり、火縄銃を持てば、狐を撃つのですが、すぐにしまった。やるべきではなかったと思うことのできるただの普通の人なのです。


それにしても、井上ひさしさんを、久しぶりに思い出すことができました。
あの、くだらない長編、吉里吉里人の作者だと思うと、あのくだらなさと、今回紹介したこの文章との乖離がすごく印象深いです。しかしまた、井上ひさしが、若い頃に、ひょっこりひょうたん島を書いていたのを知ると、この方の才能の豊かさに、改めてリスペクトの気持ちが湧きます。

もう一度文章を掲載します。

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

何度も味わいたい言葉です。

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いよいよ「叱らない」時代へ

このブログを始めた時、タイトルをどうしようかと思って
「叱らないでもいいですか」とつけた。
これは、初任者としてやはりどうしても遠慮がちにならざるを得ない、という正直な感想をもったためでありました。
「叱る」が前提になっている教育現場。そこで何も知らない初任者が、迂闊にも「叱らないで教師をやります」なーんて口走ったら、校長先生にたっぷりと指導を受けそうだったからであります。

しかし、私は妙な人生遍歴から、人に対して「教える」とか「叱る」とか、「相手をコントロールする」という行為がどうしてもできない精神構造になってしまっておりました。
子どもにも、「ふうん、そう思うんだね。そうかなるほど」というスタンスが基本であり、「早くしなさい」というありふれた声がけすら、どうしても違和感があってできなかったのですね。

いやあ、本当に変な精神状態でした。今から思えば。20代に過ごした環境が浮世離れしてたせいで、「早くしなさい」すら、言えない状態でしたね。
そんな状態ですから、叱る、なんてできそうも無い。また一方で、

「叱らないでもやれるんちゃうか」

という思いがありましたから、思い切ってタイトルを、「叱らないでもいいですか」とした。

そしたら、どうも時代がそうなってきてるみたいで、こんな記事を見つけた。



まさに。
学者の方が文章にすると、こうなるんやなあ、と感心しましたね。私の言いたいことが、ドンピシャに書いてある。

私が叱る、叱らない、ということについてこのブログで書いた記事を探すと、たとえはこんな記事がありました。

すべて、叱らない、という教師の思いに関しての、記事、投稿であります。

もし、「叱らない」に興味を持った先生で、このページをご覧になった先生は、ぜひリンク先の記事も見てみてくださいね。

お気軽にお問い合わせください!

ダメは、駄目なのか?という問題

20代のころから、良いものか良い、と言うわけでは無い、という命題に、何とも言えないユニークな楽しさと面白さを感じていました。

ある時、知り合いが30名ほど集まり、良いものが良いのかどうか、と言うことについて、12時間ほど話し合ったことがあります。これは今でも覚えている位ですから、相当楽しかった思い出です。

目を閉じても、その時の会話の雰囲気や、目の前にいた人の表情なども浮かんできて、これは死ぬまでの生涯の楽しみになるだろうと思っています。

いわゆる良いものは良いのでしょう。それには理由が様々あり、Aと言う面から見ればとても良いでしょうし、それはもしかしたらBと言う側面からもCと言う斜め上の角度から見てもとても良いものなのかもしれません。だからといって、今、それは不必要であり、かえってそれがあることで、弊害まで生じると言うことがあるのです。

しかし、大概の場合、それは良いものですし、価値が高く、素晴らしいものなので、多くの人は、それを不要だと言われてしまうことに対して、えっ!と驚くのです。

まさか、こんな良いものをいらないだなんて!

やせ我慢をしているのか、格好をつけているのか、何か別に邪な理由があるのか、なんでこんな良いものを良いと言わないのだろうかと腹を立てる人までいます。

ポルシェか軽トラか、みたいなことです。

畑で草刈りや畝づくりをするために、クワやら鎌やら袋などを詰めていくときに、ポルシェは不便すぎるし、オイル代や部品代や車検代も高すぎて、はっきり言って全く不要なのだ、ということです。馬鹿だなぁ、ポルシェがあれば良いんだよ、という人もいます。ポルシェを売って、軽トラを20台分買えるじゃないか。

そういうことでは無いのですね。ポルシェを売ろうと言うことでは無いのです。ポルシェを売れば、金になるとか、そういうことではないのです。何が必要か、何がこの場合良いかと言うと、ポルシェではなく、軽トラだと言うことなのです。

そういう風に考えていくと、他の人が何をしているかと言う事について、あれは良いあれは悪い、と言う事は一切言えないのではないかと言うことなのです。

その人が、軽トラを購入しようとするのを見て、絶対ポルシェの方がいいんだし、あなたはポルシェを買った方が良い、とは言えないということです。

たとえ口に出して言わないでも、心の中で、ポルシェの方がいいのにな、と思っていることもありますね。
SNSで、ポルシェのほうがいいのに、あの人ったら軽トラ買ってるよw、とつぶやくパターンもあります。

こう考えてみると、何が良いと言うのはあるのかどうか?もしかしたら「良い」と言うものは、ただの言葉だけであって、実体のない言葉概念なのかもしれませんね。だって、その「良い」は、決して「良く」は無いのですから。「良い」には、意味はそれほどあるわけではなく、人々が想像するよりかは、ほとんど意味が無いのです。

しかし、我々は、人間生活をおくりながら、しばしば良いという言葉を使います。このほうがいいよね、と。

教室でも「良い」をよく使います。

そろそろ教室が暑くなってきたので、教室の天井にくっついている扇風機を使うことがあります。

しかし、扇風機を回して欲しくない子も中にはいます。

この場合は、扇風機をつけるのが良いとはなりにくいです。

最終的には、その子は、クラスのみんなに問いかけることになります。

「ねぇ、みんな!教室の中、暑いから扇風機をつけようと思うんだけど、みんなどうかなぁ」

この場合は「良い」からつける、のではありません。扇風機が「良い」から回そうでは無いのですね。

こうしてみると、あまり良いとか悪いと言う言葉には、やはり、実態というか、力というか効力というか、そういう価値はほとんどないのかなと言う気がします。

人間はもしかしたらこの良い良くないと言う言葉に依存したり、頼りすぎているのかもしれません。
良い良くないを使わない方が、子供たちの生活はうんと楽になります。

教室で使うべき言葉は次の3つです。
◯私は何々したい。
◯私は何々してほしい。
◯私は嬉しい(悲しい)。

良い良くないを使わないようになると、子供たち同士の喧嘩や諍い、トラブルは10分の1程度に減っていきます。

これは、子供たち同士で、このような顕著な効果があるのですから、大人同士も、あるいは組織同士、国同士でも行えば良いのにと時々思います。

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朝のスピーチ つたわるか、つたわらないかの差はどこに


毎朝、子どもらは、教室のディスプレイを使って、スピーチをする。
デジカメでうつしてきた写真を、みんなに見せる。
これは、ただ、なにも道具立てがないよりも、はるかにおもしろい。
写真にいったい何が映っているのか、みんなが固唾をのんで、待ち受けている。

教室が、一瞬のちに、シーンとなる。

「ただいまより、ニュースを始めます」

なかには、NHKのアナウンサーを気取って、

「時刻は○時○分になりました。ニュースの時間です」

と始める子もいて、個性があるのがいい。

家でうつしてきた、ちょっとした小物。
お母さんと一緒に作ったホットケーキ。
買ってもらったばかりのプールバッグ。
飼っている犬の姿。
弟の顔、なんてのもあった。

理科で、植物を学んでいるシーズンは、どの子も似たようになる。

登下校中に見つかった、あやしい草。
家の前に咲いている、黄色いきれいな花。
おじいちゃんの、盆栽。
・・・

おそらく、写真のシャッターを押す瞬間、彼や彼女が、なにかを心に宿し、決めて、
「よし、これだ!」
と思い切る。

その、自己決定の「ハラハラ、ドキドキ感」が、ニュースに臨場感を持たせ、おもしろくさせるのだと思う。

だから、なんとなく、ニュースがつまらないとき、

「撮るものがなくて、お母さんがこれにしとき、っていうから撮った」

という場合が、中にはある。
もちろん、
「お、それいいな。お母さんの言ってくれたの、すごくいい!」
と思えて、自ら主体的にシャッターを押す子もいるだろうから、お母さんに教えてもらうこと自体が悪い訳ではない。
ともかくも、その子の内面の、緊張感が出てしまうのが写真というものだろう。


こんな、写真のような道具立てがなくたって、スピーチ自体がおもしろいときもある。


クラスに、スピーチ名人がいる。
なぜかスピーチに臨場感があり、伝わってくる。
それはもう見事で、クラスがその子の声に、すっかりとりこまれてしまう。
教室が、その子の息、呼吸に、すべてぬりつぶされてしまうくらい、面白い。
そう、おもしろい。

なぜかな、と考えてみている。


他の子のスピーチと、一味ちがうところは・・・。


聞く人の目が、すいすいとすいよせられ、いきいきと、
彼女が話すたびに、聴衆に活気がみなぎっていく。

それは、彼女が、自分の中の、「迷い」を出しているからだろう、と思う。

彼女には、まだ小さな、少し変わった弟がいて、姉のやることなすことに興味を持ち、(まあふつうですよね)姉のランドセルにぬいぐるみを詰めたり、朝起きたばかりの姉の上にとびのってきたりする。
姉としてはちょっと、困ることなのだが、そこをまあ、姉らしく、ちょうどよくおさめていくために、彼女なりの工夫でもって、うまく弟くんを、じいちゃんに押し付けたり、軽くかわしたり、あれこれと迷いながら、葛藤しながらも、知恵をしぼる。
これが、話のおもしろいところだ。

たまに、家族をよ~く観察しているからかな、と思って笑っていたが、この間、気がついた。

この子の話は、サザエさんなのだ。

長谷川町子が、気付いて、漫画にしたてあげる。
日常にみえかくれする、人間臭さ、とっぴょうしのなさ、思わずのけぞったアクシデント、ふと口にしたセリフ、意図せず行うこと、力のぬけた感じ。
サザエさんをはじめ、マスオさん、ワカメ、カツオ、タラちゃん・・・。

あの目線が、この子には、ある。
人間くささ。
ひとのうごき、考え、クセ、アホさ。
ひっくるめての、人間の、こと。

それが、そのままで、面白いってこと。


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子どもだって、問いを作るのは難しい

なぜ、難しいのだろうか。
大人も問うことが苦手だ。問うことは、エネルギーを使う。合理的な思考を要求される。知的活動だから、脳内でブドウ糖を消費してしまう。

小学生が問うことを苦手とするのは、一つには「問いは与えられるものだ」という思い込みがあるから、かもしれない。
これはこれまでの教育の弊害だろう。

小学生については、次のように進めていくと良いだろう。
まずは、問いを立てる、自分で調べることのできそうなところから、少しずつ調べ始め、わかったことを順に整理していく。1つわかったことがあったら、他にもわかる事は無いかと広げていく。もしわかったことが2つ3つと広がったら、それらを比較してみて、また自分なりの気づきが得られるかどうか探してみる。
最後に結論をまとめるが、その際に、気をつけなければならないのが、これでわかったとおしまいにしないことである。ここまではわかった、であれば、その続きはどうなるのか、と、前に進めたり、環境が変わったら、そういう事象は起きないのだろうか、と条件を変えて考えてみたり、日本以外ではどうか時代が変わったらどうか、と、見る視点を変えてみて、さらに追求できるよう、新たな問いにつなげていくのがコツだ。

しかし、そもそも、そんな問いを立てること自体が難しい。まだ慣れてもいない。ほとんど生まれて初めてのことをすると言う気分になる子だってそうだ。

ではどうするか。

まずは1冊ノートを用意しよう。
そこにすごろくを書いていこう。
昔からの定番だが、すごろく型の思考の進め方、は、非常に小学生に向いている。

大きな丸を描き、その中にふとした疑問をとりあえず1つ入れてみる。
なぜ空は青いのか。
自動運転の車は本当にできるのか。
地震が起きたときに、どうしたらうまく逃げられるのか。
うさぎの賢い飼い方。
うちの猫は一体何を考えているのか。

など、ふと思いついた疑問を、まずはその1つ目の丸に入れてみる。

2つ目の◯も重要だ。
最初の◯から、1本の線を伸ばして、2つ目の丸につなげてみよう。
この2つ目の丸の中には、どうしてそれが気になったのかを書いてみるのが良い。自分の中で特にその気になった原因を探してみると、問いがもう少しだけ咀嚼され柔らかくなる。

例えば、空はなぜ青いのかと言う問題を考えた子。
どうしてそれが気になったのかと言うと、これは、人によって、様々なきっかけがある。
青だけじゃつまらない、もっといろんな色になれば、毎日が楽しそうなのに、と、美術的アート的デザイン的な視点からそのことを考える子は、科学的な光の波長や屈折度についての理解をしたいわけではない。むしろなぜ人がアートを欲するのか、青い色はなぜ清々しい感じを人々に与えるのか、温かみのあるオレンジ色は、なぜ食欲をそそる色になるのだろうかなど、色彩心理学のほうに舵を切った方が興味関心が持続する。

もし緑色の夕焼けがあったら、人々はどんな気持ちになるだろうか。

と、問いを少しだけ変化させてみる方が、その子の調べる意欲をかき立てるかもしれない。

まずは、問いを、自分なりに細かく咀嚼し直すことが必要である。これが2つ目、3つ目、4つ目、5つ目位までの◯の中身である。
つまり、これが問いを大きく咀嚼した段階と言えよう。

次の段階に進もう。
それは、その問題を、もし理解したり、解決したり、深く捉え、直すことができたとしたら、どんな良いことがあるかを考えることである。
難しく考えなくてもいい。これは個人的なことで構わない。
自分がこれからの生活に、その知識を生かせそう、と、思えば良いだけである。

しかし、そのことを調べ、学習の最初に少しだけ考えておくことが、最後の最後に非常に生きてくる。
それは、次の問いを発生させるエンジンになるからである。

正直、問いを立てて考えていくということは、側面から見ると、しんどいことに違いない。
わざわざ調査し、回りくどく考え、わかったと、単純に言わないのが、とてもしんどい。だからこそ、このことを考えたことが、どれだけ自分を高めたのか、と言う視点を入れておくのである。

こうして、当初の、ふとした小さな疑問は、咀嚼し直し、自分なりの意義づけを与えることにより、小学校での学習にふさわしいものとなる。

大人はここまでのことをしない。
SNSやYahoo!のコメント欄を見ても、ほぼ条件反射でいいねを押したり、そんなのはダメだと否定することが多い。
これらは、問いを立てると言う知的な作業では無い。もし可能なら、「関連して新たな問いを作る」というボタンを付けるべきである。

人類は、問いを立てることにより、様々に思考を働かせ、現実の社会問題をよりよく解決する方向に進めることができた。
今のSNS社会では、問いは立てないが、何かしらわかったつもりになりやすい。賛成ボタンと反対ボタンを、条件反射で押してるだけのことである。
このことの意味のなさを、子どもの時から感じられるように、育てていくのが、新しい次の世代に向けての教育だろうと思われる。

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大谷選手のグローブに思うこと

大谷選手には一つひとつ感心することばかり。
左利き用が1つ、入っていたのもカッコいい、と思った。
ハンサムだし楽しそうだし何よりも真剣にゴミを拾う。
男でも好きになるタイプだ。

今回、大谷選手からNewBalance社を通じて小学校へグローブが届いた。
先生たちはそんなにはしゃがないし、大人だからぐっと抑えたふるまいをするけれど、それでもどこかでウキウキしている気がする。
定年間近の男性の先生方は、嬉しくて仕方がないらしく、自分と野球との関わりをお茶のみついでにお話しされる。

現役時代の金田投手(かねやん)を見た先生はさすがにもういらっしゃらないが、現役時代の王、長島を見た先生はまだ職員室にいらっしゃる。
かく言うわたしも、小学校3年の冬に、2mという至近距離で王さんと目があったことがあり、手を振ってもらった。巨人・中日戦の昼間に、球場近くの喫茶店で番記者と語らうところを、わたしの母親がネットもスマホもない時代に、口コミだけをたよりにそこへわたしをいざなったのであります。昭和の母親はすごいなあ、と今もなお思いますね。

わたしは名古屋の小学生で、当然のように中日ファンでありました。まだ中日が優勝したときの余韻がある時代で、巨人ファンは一切そのことを口に出せず、巨人の帽子を被ってよいのは自宅の押入れの中だけで、外ではぜったいに中日ドラゴンズの帽子をかぶっていなければ、人として許されない空気がありました。

昭和49年(1974年)、中日ドラゴンズが巨人のV10を阻止して20年ぶりに優勝をかざったが、その年にリリースされ、大ヒットしたのが「燃えよドラゴンズ」。これを新しい打順で歌い切ることも当然のようにできなくてはならない。ちょっとでも間違えようものなら、もしかしたらコイツは純粋のドラゴンズファンでないのかもしれない、と邪推される。1時間かかる登下校中の話題も、昨夜のナイターで谷沢がホームランを打ったかどうかであり、大島と谷沢のどちらがえらいか、というのがもっぱらの議題でありました。

しかしどの小学生も、王さんの話題になればもう中日などはどうでもよく、やはり王はえらく、敵ながらアッパレ、という感じになるのでした。

わたしがテレビ放映のジャイアンツ戦をみながら興奮しているのを見て、母は細い人脈を200くらいたどり、なんとかして無料で王さんに会えないかと画策したらしい。ついにわたしは無料で王さんに会うことができ(といってもコーヒーを飲む王さんに近寄っただけ)、一応そのするどい眼光の中に、わたしのヘラヘラした笑い顔を映してもらったのです。ああ、遠い昔の記憶だなー・・・

さて、ゲンダイの子はどうなのか。
50、60代の先生たちの興奮をよそに、小学生たちは、実はそれほど盛り上がっていません。
それもそのはず、大谷選手はなんとなく知っているけれど、野球のルールすらわからない子が多いのですからね。

みんな喜ぶだろう、と思ったら、一部の子たちはさすがに大事だと感じているらしい。スゲー!と喜んでいる!
しかし、わりとあっさりとブームが去りそう。
やはり徐々に、徐々に、野球というものの、社会の中での立ち位置が、変わっていってるのだろう。毎日、本当に毎日のように、ジャイアンツ戦が地上波で放送されていた、ということを、もう若い先生たちも知らない。

「え?ナイター?・・・知らないです。見たこと無いです。そんな毎日、みなさん野球、見てたんですか?」

若い平成生まれの先生がこう言ったとき、60歳定年間近の先生の顔があきらかにひきつっているのを見ました。
長嶋も王も、若い世代の先生ですら知らない。まして子どもは・・・。
さて、どうする。

サッカーはハーフタイム以外に休憩がないので、ビールをゆっくり飲み干したり、隣の席の人とーだこーだと感想を言い合って駄弁る時間がありませんね。その間にシュートが決まっちゃうかもしれないから。サッカーは踊りながら叫びながら一瞬も気を抜かずに見ること。

ところが野球はタイプがちがう。
相撲や将棋や囲碁と同じで一手ごとに間が空く。その間に観客は次の一手を予想して、腕組みしながら待つのです。とにかくスピード、間のとり方がちがうのです。

今の時代は、どちらかというと踊りながら参加する、サッカーのような劇場型スポーツがあうのでしょうね。一手ごとに、あれこれと頭を巡らすような、視聴者参加型のスポーツは、時代のテンポに合わないのかもしれません。寂しいですが。

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政治と経済の失敗は何が原点なのか

自民党が窮地に追い込まれている。
リクルート事件を超える、巨大で組織的な計画性の高い脱税疑獄だそうだ。

安倍さんはどうやら幹事長時代に組織的脱税を知り、やめろ!と指示を出したらしい。しかし首相になったら黙認してしまい、それが横行してしまった。今後、おそらく閣僚や大臣経験者から、逮捕者が出るだろう。英国BBC放送でも、日本の政治の危機を報道した。

岸田内閣が、と言うよりも、今の自民党の体質ややり口が、国民から批判されている。

「政治は今良くないねぇ」
と言うだけならまだいい。
経済はもっとダメである。
ガソリン代増えた、食品の内容量が減った、値段が上がった、景気は落ちた、これが逆ならありがたいが。

どうしてこうなってしまったかと言うと、それはもう原因を一つ一つ、数えれば、何億と言う理由があります。

もし、単純に、その原因を一言で、言い表すと、欲がないと言うことに尽きると思う。

日本人は欲がなくなった。
周りの人を幸せにする欲、大欲がなくなった。
残った欲は、名誉欲やほんの小さな承認欲求、自分だけの欲である。

昔、竹中平蔵という閣僚が、経済の自由を高らかにうたったことがある。人間の欲望のままに、市場原理を信じていれば、正しい競争が行われて、日本はもっと豊かになるということであった。
ところが、完全に失敗したと、最近どの経済誌を見ていても批評されている。

竹中さんは、本当の欲と言うものを持たなかった。彼に本当の欲があれば、必ず、人間の思い違いや思い込み、間違いと言うものを計算に入れたはずだ。人間は、ふとした、見間違いをたくさんする。聞き間違いもする。一度思い込んでしまったら、間違ったことを信じてしまうこともある。10年20年と、勘違いを続けることだってある。死ぬ間際になって、ようやくその勘違いに気づくことだってある。
市場原理を信じよう、本能だけの競争原理に全て任せれば良いと言うのは、大変な思い上がりである。

そのことを小泉内閣の時代から指摘していた学者はたくさんいたが、人気が出なかった。なぜなら、人間は間違いをおかすものだと言われると、誰もが「俺に限っては間違わない」と思うからだ。

残念なことに、実際に人間は思い違いをする。思い込み、決めつけて、数々の失敗をする。そのことを計算に入れないのは、欲が小さいからだろう。本当に欲があるのなら、人間のそういった本質を必ず計算に入れるはず。

原子力発電所を建設しようと言う時、これまた多くの人が反対をした。
中曽根さんが原子力発電所の建設を躍起になって進めたが、中曽根さんは欲がなかった。本当に幸せな社会を作ろうと言う気持ちが薄かったのだろう。
中曽根さんは、
「人間というものは、戦争も起こさず、手順も間違えず、決してサボらず、どんな災害も防ぎつつ、一万年以上、人は原子力発電所を運営してゆける
と、かなり楽観的に考えた。
でも、福島原発は、一万年ももたないまま、数十年で大事故を起こした。

その昔。東海村で、有名な臨界事故が起きたとき。ウランをバケツでリレーしたので、大事件になった。それを聞いて、多くの人が、人間は間違いが多いので、サボりたくなるかもしれないし、焦って手を滑らすかもしれないし、疲れるかもしれない、もしかしたら作業の手順を間違うかもしれない、と、考えた。

そんなことはない、と信じられる人が、作業を進めたが、実際には作業中に被爆してしまい、尊い命が失われた。

人間が必ず失敗をせず、粛々と、何万年もの間、正しく、機械を整備し、装置の異常を点検しながら、金属疲労を完全に防ぎながら、決してどの国とも戦争をせず、ミサイルを打ち込まれるようなこともなく原子力を管理できる、とかんたんに思い込める人は少なかった。

欲の小さな人だけが、それを信じることができる。

なぜなら、そう思い込んだほうがストレスが少ないからだ。大きな欲を持っている人は、その大きな欲を実現するために、ものすごく大きな精神的なエネルギーを使う。もしかしたら、と考えるからだ。
人は、間違うかもしれない、とする。
そのことに耐えられない欲の小さな人だけが、まぁ、大丈夫でしょうと、事柄だけを先に進める。

よく考えることをしない、と、いうのが、欲の小さな人の特徴だと思う。

100年後、200年後の日本を今の政治家が考えているだろうか。
それを考える人は、大欲を持つ政治家だ。
しかし、その政治家を支えるのは、欲深い国民だけだ。目先の小さな欲しか持てない国民が、ポピュリズムに陥る。

さて、私は小学校教員なので、100年後、200年後の日本のために、世界のために、授業をしなければならない。

ただ、欲を持てといっても、そんな国民にはすぐには育たない。
1番大事なのは、人間は間違いをするものだ、どんなに良いと思っても、それが本当に周りのみんなにとって良いかどうかよくよく考えればならない、ということ。これだけを基準にして、学校教育が行われても良い。

したがって、子どもたちは、討論ばかり行う。クリスマス会のゲームは何にしようか。そのことだけで3時間も4時間も話し合っている。
しかし、この3時間4時間が、非常に良いトレーニングになっている。
もういいから決めちゃおうよ、と言う意見が出ると、いや、まだ〇〇ちゃんの意見が出ていない、と声がでる。

この光景を、岸田さんが見たら、どんな感想を言うだろう。派閥政治とは、無関係の思想を、子どもは最初から持っている。

岸田総理の秘書の方、ご連絡お待ちしております。IMG_3829

理由を聞いても貝になってしまう娘。学校に送り出すも「やっぱダメ」と戻ってくる

理由は聞かない。
説明できるようなことではないからだ。
低学年であっても高学年であっても同じ。
子どもの語彙の中には、理由は見当たらないのだ。不登校とはそういうもの。
もし言える子がいたとしたら、ハリーポッター2冊分くらいの字数になる。

あとは、それを言うと親が困る(怒る)のではないか、と子どもが思っている場合がある。
だから、理由を聞かれても

貝になるしかない。

たまに先生になりたての若い先生で、

「なんで来れないの?」

と聞いてしまう先生もいる。

理由を言えるわけがない。
また、先生に責められた、と勘違いをして、ますます来にくくなる子もいるだろう。
ぜったいに、

「なんで来れないの?」

などと、言ってはいけない。

不登校だけではない。
けんかでもなんでも、わたしはまったく

「なんで」

と理由を聞くことはない。
同じく、ハリーポッター2冊分の分量の説明が必要な子もいるからだ。
ただの口喧嘩にしか見えないような事象であっても、当人には、低学年の当人にとっては、理由がハリーポッター2冊分必要な子もいる。高学年でもだ。

わたしはそうは言わない。
このブログで前にも書いたが、

「本当はどうしたかったの?」

と質問をする。
すると、「こうしたかった」とすっきり1行で言ってくれることが多い。

それでも出てこなかったら、こう聞く。

「本当はどうしてほしかったの?」

これだと、ズドーンと出てくる。

◯友達にやさしくしてほしかった。
◯先生にこう言ってほしかった。
◯あのときぼくがこうしたことをわかってほしかった。
◯お母さんに用意してほしかった。
◯昨日のそろばんを休みたかった。
◯友達にこっち側によけてほしかった。
◯じろじろ見てほしくなかった。
◯友達のペンを貸してほしかった。

ああ、人間って、こうも

「してほしかった」

と思う存在なんだなあ、ということがよく分かる。

それが出てくると、憑き物がとれたように表情が良くなる。

繰り返すが、理由はきかない。
子育てに、理由は聞かない。
子どもは忖度もするし、思いやりもする。大人の感情の変化をもっとも嫌う。
だから、理由は言わないし、言えない。

そんな子どもに、理由は聞かない。親も先生も、聞かないでほしい、と思う。

不登校の子が、理由を言えるわけがない。貝になって当然だ。
理由をきこうとするから、さらに貝になる。貝にしているのは大人だ。

このブログは2006年くらいから書き始めたけど、このことは何度か書いている。
わたしのクラスでは、子どもたちどうしが、

「◯◯ちゃん、どうしてそれをしたの?」

とは言わなくなっていく。

そうでなく、

「◯◯ちゃん、ほんとうはどうしてほしかったの?」

と聞いている。

わたしは少し離れた場所で、なんとなくそれを横目で眺めていながら、「ほんとう」という言葉がちいさな子どもの口からこぼれてくるのが、なんとも神々しい気がしている。

ほんとうの教育とは、目の前の人間の、「ほんとう」をお互いにきいていくことだ。

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【卒業までカウントダウン】してもらったことを100個書く

好きだ、という文字は、誤解を生むので使えない。
とくに大人が子どもに対して「好き」なんていう言葉を使っては。

だいたい、「好き」という言葉には、いろんな意味が含まれ過ぎている。
ナターシャ・キンスキーがおしゃれなカウンターでロブ・ロウに向かって耳元でささやく「好き」と、
「ひざこぞう」を怪我してバンソーコーを貼っている小学2年生がグッピー・ラムネを食いながら「このラムネ好き~」というのと、同じ意味であるはずがない。

しかし、あえてこのクラスの全員が好きという以外になかなか他に良い言葉が見つからない。
さらにいうなら、人が人を好きだというのは、これはもうそれ以外にありようのないほどに、当たり前の感情なのでありましょう。また、この場合の「好き」は、もう古来より言い古されていることであるように、ごく人類としても当たり前のように「嫌いの対句ではない」のでしょうな。

そういうことなので、この子たちがあと20数日で卒業だと思うと、またある種の特別な感情が湧き起こってきます。たしかに、新たな、立派な道へ成長していっている、というしずかな喜びもあるのですが、もう日常会えなくなるよなあ、というちょっとした感傷がこころの中を全面的に塗りつぶしてしまうのです。

その感傷をすこし確認した後に、結局さいごにこの子たちに対して思うのは、

ああ、好きだなあ、という感じであります。

もっといい言葉、ふさわしい言葉があればいいのに、と思うけど、まあ単純に、「好き」なんでしょう。人類として、好きなんですわ。

残りの日数で、やるべきことも残してあり、いろいろと計画もしています。
また、これだけはやりたい、と2年前に計画した授業。これらを、きちんと進められてきた、というふりかえりができること。最近はそれがうれしい。

1)自分が好きなものを そうは思わないと言われた時に腹が立つかどうか。
2)きらいなものかどうか
3)羊毛セーターのふるさとを考える
4)電球が光るかどうか~ホントはどうかな~
5)今から北海道に行けますか

これまで考えたことがない、という問いの数々。
おもしろかった、という感想が次の日の日記にたくさん書かれた実践。
2年間、その気でやって、進めてこれた。
ありがたいと思う。

このクラスでしてもらったことを100個書く、というのも、無理ーと言いながらやってくれた。
このクラスでしてあげたことを100個書く、というのも。(←こっちの方が少なかった)

あと給食の回数、20数回。

コロナで無言の給食だけど、顔をみながらおいしく食べよう。

おひなさま

【笑点その2】そのための笑点システム~朝の会特別編~

司会「笑点の時間です。司会の円楽です」

司会は公募。
ふだんは注目されることのない子が意外にもトライしたりする。

あらかじめお題は前の週の金曜日の朝に配布。
班で話し合う時間も設ける。
その際、班のみんなが面白いと判断したものには、赤鉛筆でしるしをつけておく。
このときの会議はネタバレをふせぐために、小声でないしょで行う。
他の班に聞こえないように配慮する。


さて翌週の月曜日が本番である。
黒板前に4つの席を配置。
さらに一つ、端の方に司会者席を設ける。

4つの席には、1班から4班までの班からひとりずつ、有志が座る。
手には班員のメモ用紙をもっている。これは先週末にあたためておいたネタが書いてある。
班の中で受けたネタには赤鉛筆で丸がついているので、それを言うことになっている。
班ではウケたネタなので、ちょっと安心して座ることができる。
まあ、ウケなくてもぜんぜんかまわないし、ウケないことに対して同じ班のメンバーがウケてくれるからおもしろい。
今回のネタは、
『たしかにおっしゃるとおりです。ですが・・・』

お題が出されたら、上記のように発言し、その後につづけて自由にしゃべる。
いつもの「笑点」と、雰囲気は同じだ。

拍手が多い場合は、司会者の判断でざぶとん(カード)が配られる。
カードといってもただのイラスト用紙なのだが、プレゼントとして班員がもらえるためにみんな頑張る、というわけだ。

例)先生のセリフです。「廊下を走ったんだって?」

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、後ろから幽霊が追いかけてきたんです!

のような感じだ。



先生のセリフです。「遅刻したそうじゃないか!」

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、今日にかぎって電車が遅れてしまって。
(徒歩通学でしょ!)

たしかにおっしゃるとおりです。しかし、朝焼けがとても美しく、思わず日ごろの感謝を太陽に向かって拝んでました。今日のぼくがあるのは、先生のおかげです。だから遅刻はナシにしてください。

たしかにおっしゃるとおりです。けれども、朝見た雲の形がユーラシア大陸の形に見えたので、思わずあそこがイタリア、あそこはロシア、と社会の勉強をしていて遅れました。この僕の勉学に対する意欲だけは褒めてください!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、急にぼくの目の前にだけ、雪が降ってきたんです!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、朝ごはんの味噌汁が、ぼくだけめちゃくちゃ熱かったんです!弟はいいんですが、家族でぼくだけ猫舌なんで・・・

たしかにおっしゃるとおりです。だからぼく、めちゃくちゃ走ったんですよ!!ですが、遅いんですよ、足が!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、めざましテレビの占いで、あろうことかぼくが12位だったので、1位だった妹とけんかしてました。

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、名刺を忘れたことにさっき気づいて。
(小学生でしょ!)

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、夢の中ではしっかり登校し、すでに4時間目まで授業を受けてきたんで許してください。

たしかにおっしゃるとおりです。ナイショですが、なんと宇宙人がいたんで、ちょっとだけ話してきちゃいました。こんなチャンスはめったにないんで。

他にも、

友達のセリフです。「あれ?〇〇くん、シャツの後ろ前が反対じゃない?」

とか

近所の人です。「おたくのテレビの音量が大きすぎるんですけど」

のようなお題が考えられます。

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【笑点】言葉を増やすのが第一

言葉を豊かにしたい、と思う。
本を読ませたいが、それだけでもダメで、実際にやりとりができないといけない。
きちんとやりとりをさせたい。
なぜそう思うかと言うと、「言葉を有効に活用する能力をみると、今の子たちは力不足で、現実世界を生き抜くのに足りない」と思うからだ。

といっても、昭和の時代のわたしよりも、ちゃんとしている子がたくさんいる。
どういうことかというと、時代がそれ以上を要求している、ということ。
昭和ならそのまま「そんなものだからあきらめろ」となっていたことが、もうコンプライアンス的にあきらめるわけにいかず、解決しなければならなくなってきていることが多いと考える。

わたしは現代の方が幸福だと思う。
昔は泣き寝入りが多かったのではないかと思う。
また、世の中はそういうもの、で済ませていたことが多かったのだと思う。
たとえばいじめ、パワハラ、シングルマザーへの差別など。
しかし、時代はもう、「一人ひとりを最大に尊重する」ということができるようになってきた。だから、昭和とはちがう。正しいことはどんどんと推し進めるべきなのだ。

というわけで、今の子たちは、
要求されるレベルがこれまでよりも高い。
そのレベルに達することができるように、どの子も支援しなければならない。

その中心になるのは、「言語活動」である。
正しい語彙で、
必要な語彙で、
語彙を選択して、
論理的に、
わかりやすく、
相手に共感してもらえるように

話すこと。

これが求められているわけ。
しかし、こんなことは大人でも難しい。
大人でも、論理的に言語をうまくつかって、冷静に話し合える人の方が少ない。

そのため、学校では四六時中、言語をうまく使う、ということに注力して教育をする。

〇言いたいことが言えているか
〇必要な語彙を選択できているか
〇論理的に話すことができているか
〇(提案したいなら)提案できているか
〇(謝りたいなら)謝ることができているか
〇(励ましたいなら)励ますことができているか

どうしてそう思ったのか、という「理由の説明」はいちばんむずかしい。
大人でも、きちんと理由を説明できる人は少ない。
大人がかんちがいしやすいのは、自分では理由を説明した気になっていることだ。でも実際には、その人の「理由」は伝わっていない。これは子どもも本当に苦労する。

さて、小学生が習うべきなのは、

1)あなたは「〇〇〇」と言いたいのですね
2)そこでわたしは「△△△」と言いたいのです


という、基本的なキャッチボールです。


政治家の答弁などを聴いていると、記者の質問とはまったく無関係のひとりよがりの発言をして、問いに正対しない、という致命的なミスをしています。
これを小学生がやってしまうと、もう社会生活がおくれなくなるくらい、やばい。

相手のボールを、しっかりと受け取り、ああ、こう言いたいのだな、と把握する。
できれば、「あなたのセリフを自分はこう聞いた」、ということを確認するのがいい。
勘違い、聞き違いということも、世の中にはとても多い。リスクも高い。
相手の言い分を聞き、あなたの意見はこうなのですね、あなたはこう言いたいのですね、と。
そうすると、その時点でちがうなら、相手が訂正を出せる。
OKなら、その後、自分の意見を言えばいい。
その「きちんと相手の発言に呼応して、正対した対話をする」ということ。
これが、小学生の習うべき「言語活動」であります。

それを子どもたちが身につけるためのステップとして・・・(つづく)

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「~したい」「~してほしい」が言えるように

小学校の教師をわりと長く務めてきた経験から、今の子どもたちを見ていて思うことを書く。
それは、ちゃんとした喧嘩ができない、ということ。
陰湿で、かげであれこれ、と言う。
背中に回ってこっそりと舌を出す、という感じだ。
決して正面に立たない。

どうして正面切って堂々とできないかというと、自分に自信がないからで、それは自分で自分の行動を選択する、ということをしてこなかったからだ。
では、なぜ自分で自分の行動を選択決定しないのかというと、これも簡単で、これまで強権的に支配されてきた時間が長かった、ということだろう。

要するに、家でも学校でも、強権的な態度の大人に支配され、言うことを聞けばよい、という感じで育ったのではないかと思う。

わたしなどは、すぐに疑問符が出てくるから、
「それでいいの?なぜ疑問をもたないの?反抗しないの?」
なーんて、いろいろと思ってしまう。「支配されている」と感じ取る子もいるはずで、親にも教師にも反抗するのでは、と思うが、それをしない。もしかすると、反抗すると損だ、という「計算高さ」をもっているのかもしれない??

また、親や教師も、強権的に支配をしながら、実際には飴も差し出す。
上手に言葉を選んで、タイミングを選んで、飴(あめ)をうまく使う。
そういうことができる大人が増えてきた。

そこで、反抗せずともおとなしく(よそおって)、言うことを聞く習性になってきている。
たしかに甘い飴を十分にもらえることがわかっているのであれば、まあいいか、と自分をごまかしていさえすれば、それでやりすごすこともできるのだろう。しかし、本質的には満足していないから、顔の表情は暗い。さっぱりして明るい、という表情にはならず、どこか他をねたんだり、うらやんだり、マウントを取りたい、という自信のない表情になっている。

要するにこれは、強権的に支配されてきたからだ。
物心ついたときから、支配されてきてしまった。
だから、それ以外のふるまい方を知らないのである。

したがって、子どもどうしのトラブル、喧嘩になったとき、どうふるまうかも考えられない。
他の命令で生きてきているから、コントロールできないような状況にはまると、どうしても自分で考えるのではなく、周囲を見回すだけになってしまう。
ただめそめそ泣くか、逆上して攻撃するか、友人にしきりに悪口を訴えて広める、という具合だ。

過去、何度もこのブログには書いてきているが、
「結局、自分がどうしたいのか、どうしたかったのか、言えるかな?」
と問うと、そんなことを聞かれるなんて思ってもみななかった、という表情で驚いている子がいる。

これまでの人生で、

「どうしたいか」

を問われたことがなかったのか、とこちらも驚く。

それでも言えないことが多い。なぜなら、自分がこうしたい、というよりも、「相手にこうしてほしい」ということが先にあるから、どうしたいの?と聞かれると、言葉に詰まるのだ。

「わたしは仲直りしたい」

ということさえ、言葉にすることができない。

そこで、「じゃあ、言い換えようか。まずは、〇〇ちゃんに、どうしてほしかったのか、というのは言えるかなあ?」と問う。

すると、これは言える。
しかし、言葉がおかしい。

たとえば、
「〇〇ちゃんが先に△△をしたのはずるい」
というふうに言う。

善悪で早く裁(さば)いてくれ、というのである。
しかし、裁くのが重要なのではなく、ここはお互いが理解するのが大事なので、裁いておしまい、というわけにはいかない。理解なき裁判というのはあり得ないからである。

言い直しをしてもらう。
「ずるいかどうかの前に、どうしてほしかったのか、本当は〇〇ちゃんにしてほしかったことを言ってもらえるかな」

すると、ようやく
「△△をする前に、こっちをみて気づいてほしかったし、先にやってよいかをわたしに聞いてほしかった

ということが言える。

すると、不思議なことに、ようやく安堵した表情になる。
つまり、支配下から抜けるのである。
だれかの支配下にいた自分が、支配下にいてただ恨むことしかできなかった私が、ようやく地上に出てきた感じになる。

ようやく、自由になれたのだ。自由というのは、わたしの意思をはっきりと他に示し、伝えることができるということ。そして、相手の意思をきちんと聞ける自分を用意するということ。

強権的な親や教師のもとで育つと、素の自分を出せないまま地下にもぐる。
そして、他を「ないしょで」「かくれて」批判し、すべてを他のせいにする思考が育つ。
「だって、〇〇しろって言われたんだもん」
「だって、〇〇はダメだって言われてないもん」
これは『支配下の思考』でありましょう。

自由の意味を理解していない子が多い教室では、子どもが、お互いの権利を認め合うのではなく、お互いに権利を主張し合うようになります。
そして、折り合いを付けるため、どんどんルールが増えます。
逆に、ルールで禁止されていないことならどんなことをするのも「自由」だろうという考えが広まります。どんどん悪循環になっていきます。

至るところで諍いが起こります。民主主義が機能しなくなり、いつしか社会は、強力な権力者の出現を求めるようになります。それが自分たちの自由の息の根を止めることも知らずに。

もし仮に、

「先生、学級会なんて時間の無駄です。ぼくたちに考えさせるのでなく、はやく〇〇くんを断罪し、叱ってください!」

なんていう子がいるようなら・・・
身震いがする。
このまま成長したらどうなるか。
おそらく、「独裁者の支配する強権的な社会を待望する大人」に育つだろうと思うネ。

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排除すればいい、という風潮その2

前回の【排除すればいい、という風潮】の記事に、多少の反響があった。当然だろう、という人もいたし、へえ、何故なのだろう、という反応もあった。
ふだん、「何かに失敗すると叱責され、ペナルティを与えられている」という体験を積んだ子どもたちが、そういう発想を自然としているのではないか、という卓見もあった。これには、なるほど、そうかもしれない、と思わされた。

さて、思い返してみると、このようなことはこれまでも多くあった。
これは以前の勤務校での話。

その学校では、午後はこのような流れでした。
【給食】⇒【休み時間】⇒【清掃】

ところで、給食の後、教室の机はどうするか。
多くの学校がこうしていると思う。
つまり、全員が教室の前の部分に、自分の机を動かすのであります。
なぜなら、教室の床をそうじするから。
机を前方に全体に寄せておいて、片側がきれいにできたら、今度は教室の後方にすべて移して動かし、それから残りの半分をきれいにするのであります。

ある子が、その「机の移動」をしないで、遊びに出てしまうことが連続した。

「先生、〇〇くんはまた机を動かしていないよ」

さらにその〇〇くんは、当番もよくさぼった。
給食の当番になると、野菜缶とか汁缶とか、みんなの食器とか、給食室に運ばないといけない。しかし〇〇くんはそういう日にも、休み時間の遊びを優先して、仕事をしないで校庭に出てしまうのでありました。

当然、クラス会議では、このことが議題になります。

すると、この〇〇くんが、声高に叫ぶのですよ。

「ペナルティを与えて、こらしめたらいい!」

わたしは当時、このことがすごく不思議でした。

「ええ?〇〇くん、だって、ペナルティのルールをつくると、〇〇くんが罰を受けることだってあるんだよ?」

わたしが心配して言うと、

「おれは大丈夫!」

と平気な顔です。
逆に、なんでおれのことばかり、先生が言うのか?と、不満そうにしています。
わたしはあまりにびっくりしたので、
「だって、先週だって〇〇くんは野菜缶の当番なのに、外に出ちゃったじゃない」
というと、それも気に入らない様子で、
「なんで先生は俺のことばかり言うの?」
と口をとがらしていました。


結局、このときはペナルティ制度を採用したものの、
いの一番に〇〇くんが机も動かさずにそのまま校庭に行ってしまい、ペナルティの対象者になりました。(正確に言うと、〇〇くんが自分は悪くない、他の子のせいだ、とあくまでもペナルティの実施をこばんだために、なにもしなかったのですが)

このように、自分の姿を客観視できない子、メタ認知できない子ほど、

「ペナルティで罰を与えればいい!」

と叫ぶのです。

〇〇くんは、いつも直感的な行動に走ります。
熟慮が苦手で、自分自身を直視することができない。
だから、自分のことを棚に上げて、平気で人を責めるし、人の不正には厳しく、あくまでも懲罰を下したい、こらしめたい、自分はそのかわり、【よい人】であるはずだ、と思う(思いたい)のです。

これは、世の中は善と悪に分かれるのだ、人間もよい人間と悪い人間がいるのだ、というような、勧善懲悪だけで物事を見通したい、という手抜き思考です。
そもそも、ひとを善と悪だけに分けられるわけがないのですが、ひとを個別に考えたり、善の意味、悪の意味、生きる目的などを考え始めるとなると、それはたいへんな複雑思考なので、ひとはみんなこういう思考が苦手なのでしょう。だからわれわれ人間が

勧善懲悪で決めればいい、深く考えたくない

と思うのも無理はないのです。

しかし、それを現代の小学校の生活に持ち込むのは無理ですね。だって、この子はよいこ、この子は悪い子、と決めるのは、馬鹿げていますから。

道徳の授業で、善悪を超えるような討論が始まると、〇〇くんはとてもめんどうくさそうにします。

「Aが悪いやつで、Bがいいやつ。それでいいじゃん!はやくこんな話し合い、終わりにしようよ!」

そう叫んだ〇〇くんの困惑したような、ゆがんだ表情の悲痛な姿を今でも時々、思い出します。
問題を処理するのが人生の目的ではないですものネ。

majin


自分のミスをあっという間に許しちゃう子

子どもを叱るとき、子どもが下を向いてうなだれていると満足する教師は居ない。
日本中の教師、全員が全員とも、そうではない、と言い切りたい。

わたしは人生のかなり途中くらいから、
それも大きな仕事をやめて、ぜんぶ身に着いたものや肩書や、
持っていたいろんな多くの物を整理したころに教師になった。

だから、わりとなんでも許しちゃうところが根底にある。

これは教員としては弱点であり、きちんと叱るときに
まったくテンションが低くて、子どもから舐められている。

いっしょに叱っている他の先生が、
「あらま先生も叱ってほしい」
と思っているのではないかと思う。

わたしは叱っているつもりなんだけど、ぜんぜんテンションが違うし、
声のボリュームも迫力もなく、ただ
「うーん。どうだったんだろうねえ」
と子どもの前でつぶやいている感じだから、他の先生からみると

歯がゆくて仕方がないらしい。

ところがたいていの先生が私よりも年下で、
わたしが主任だったりするもので、
直接わたしになにか言ってくる先生はいません。

だから上記のことも、「そう思われてそうだなあ」という、ただの想像です。

なんでこんなに叱ることが苦手なんだろうかとつらつら思うに、
要するに、

わざとやってたわけじゃないもの

という気持ちが、考え方の奥の方に、かなりしっかり強くあるのだと気づいた。

わざとやっているのではないか、という可能性も、もちろんある。
だけど、それは子どもがそう言ったって分からないし、
そう言わなくたって、真実はわたしには分かりようがない。

だから、すぐに許しちゃう。

というか、もっとよく見てみると、

わたしはかなり、自分に甘い。

そこがもっとも奥深くの原因かもしれないことに、今さきほど気づいたところ。

いろいろミスがあっても、おそらく0.00001秒ですぐに自分を許してしまう。
というか、許す以前に、まったく自分を責めないところがある。
これはすべて、10代後半から20代のころに身についてしまった、脳みその癖でありましょう。

非の打ちようがないほど、完璧に近いと思われる人物にも、何人も出会ってきました。
でも、考えてみるとどうしてわたしがその人を
「完璧だ」
と思うかというと、はなはだ危ういわけで。

だって、このわたしが判断していることだもの。
わたしが「完璧だ」と思うことが、「完璧」であるはずがない。
わたしはそもそもミスが多いのだから。

その時その時で、最善を尽くす。
最善を選択する。
このことにかけては、自分には嘘をつかない。
だから、ぜんぶ自分のミスは許して当然と考えている。
わざとじゃないのだから。

年越しの寸前に、子どもの作文を読んでいて、こんなようなことを考えた。
子どもに対して、

「どうだった?自分としてはどうだったの?・・・次はどうする?」

と聞くのが教師の仕事だが、そればかりやっていると、

子どもってえらいなあ、と素直に思いますね。
だって、きちんと最善を選んでますから。

宿題さぼっている理由が、イモリに餌をやったら眠くなったから、とか、
ゲームが終わらなくて、とか、他にもっとくだらない理由のときもある。
けれど、きちんと振り返って、どうするか、どうしたいか、
頭がよくなりたいか、授業がわかりたいか、というところからきちんと話すと、
やっぱり前に進もうとする。

2学期の漢字学習が進まなかった子が、3学期はきちんと心をいれかえて(?)、
すぐに3学期の予習をはじめ、わたしに自慢しに来る。

「先生すごいでしょう。おれ、もう3学期の漢字、ノートに2ページもやったで」
「すごいやらー。おれも」
「まだ冬休み前なのにやったんだで」

たったの2ページで自慢しに来るとはいい度胸だ、と思う。

しかし、ちっとも叱らないのに、きちんと3学期に向けて、勉強を始めましたよ。

本当に、子どものミスを、責める必要ってあるんかな、と疑問に思います。
こんなことを2006年からずっと考え続けていて、まだ考えは何も変わりません。

まもなく当ブログ、2006年1月からですから、丸15年が経ちます。
今夜はチラチラと、雪が舞い始めています。

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