30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

学級づくりあれこれ

芸人のノリと学級のノリの違い

ひな壇に芸人がたくさん集まって、ワイワイとおしゃべりするのが楽しいテレビ番組がある。
私も好きで、ごくごくたまに見ることがある。

ただ、この楽しい雰囲気を学級で真似しようと思うのは、注意が必要だ。

私の失敗をあげてみる。

島田紳助さんが、昔の番組でひな壇に芸人を座らせ、おしゃべりトークをしながら軽快に番組を進行していた。
このときの島田紳助さんの狙いは、芸人一人ひとりのキャラを際立たせて、そのキャラを番組の決まりごと(セオリー)として視聴者に周知させ、いわばお約束のように芸人をいじると言うやり方だった。

島田紳助さんは、磯野貴理子さんをいじるのが得意だった。
これは、紳助さんが磯野さんにどんなキャラ設定をするか、そのキャラをからかうことで、どんな笑いが生まれるのか、計算をしてのことだった。

確かに、キャラ設定がはっきりしていればいるほど、そのキャラをいじったり、意外性に持ち込んだりすらことが出来て笑いが生まれる。また、そのキャラ設定の約束事をその場にいる全員が共有していることで生まれる安心感もあるし、仲間意識を演出することができる。島田さんはそれを狙った。

学級では、これは御法度だ。
一旦できた約束事があれば、その約束事を認識している仲間うちでは、共感の笑いに持ち込める。芸人は、からかい、からかわれることでタレントとしての笑いを生み出す。それが仕事だ。

小学校の学級では、その場にいる子ども一人ひとりにキャラ付けをする事は、担任なら容易にできてしまう。
しかし、相手はタレントではなく、生きている成長過程の子供である。

私は、以前、極真空手を習っている子が話題になったときに、失敗をしてしまった。

ある子が、その空手を習っている少年について、
「だって◯◯君がこうしろって言ったから失敗したんだよ、◯◯君のせいだよ」
と言うふうに、言った。
クラスのみんなが、その発言につられて、話題になった空手の少年を見た。

空手を習っている◯◯くんは、そんなことあったっけと言う顔でみんなの方を見ている。
この時、私は
「え?そんなこと言っていいの?◯◯くんは空手習ってるからね。下手なことを言うと怖いぞ〜」
と、少し面白おかしく言った。
言い方が面白かったのもあって、教室は爆笑になった。

話題を振った当人の子は、とっさに
「マジか、◯◯くん、ごめん!」
と、両手を合わせて大げさに謝罪をしたので、さらに大きな爆笑になった。

空手を習ってる◯◯くんも、爆笑の中心にいることが楽しかったようで、ニヤニヤしながら空手の型を作った。さらに爆笑になった。

後日談があって、彼が卒業するときに昔話をしていると、新間先生が、ぼくの空手についていじるのが、嫌な時があった、と言うのでした。
つまり、空手習ってるからあいつは怖いと言うようなことを、後で面白おかしくネタにする子がいたらしい。
そのことの発端は、おそらく私がその子にキャラ付けをしたことだ。空手を習っているから、強い、と笑いにしたことが、子どもたちの間でも、変な見本のようになってしまい、あぁやって友達をキャラ付けすることが面白いと言うふうになってしまった。

それが6年生の後半は嫌な時があったと言うのである。

私は彼にすぐに謝った。
彼は冗談めかして、それを言ったのだが、本音の部分があっただろう。
キャラ付けをされると言うのが、面白おかしいと楽しい間は良いかもしれない。しかしそうやって、固定化されたキャラ付け苦しむ子も出てくる。特に自分が意図したわけではないのに、周囲に勝手にキャラ付けをされてしまう事は、苦しいに違いない。
妙なタグや妙なレッテルを貼られてしまうようで、実際の自分というよりも、面白おかしいキャラ設定を優先しなくてはいけないように感じる子だっているかもしれない。

◯◯ちゃんって、こうだよね
⬜︎⬜︎さんって、ああだよね

こう言ったタグをつけてしまうような言い方そのものを聞いた時、敏感にそのうさん臭さや怪しさを感じ取って、そのキャラ設定と実際の自分は違う、ということを自覚できるような教室空間にしなければいけない。

タレントと子どもは、違うし、学級とテレビ番組は、違うのである。
もしかしたら大人の空間でもあるかもしれない。職場でも同じようにキャラ付けと言うようなテレビタレントの世界のお約束事が浸透してしまっているところがあるかもしれない。学級やクラスにもそうしたムードや空気があるかもしれない。

敏感になるべきだ。

これはタレントや島田紳助さんが悪いと言っているのではないです。くれぐれも。タレントは商売ですから。シナリオがあり、構成作家が台本を書くのですから。虚構と分かっていて、進めていることですから。

実際には、生きている実際の人間には、キャラ付けは不可能、ということです。
キャラをつけた途端に、そのキャラと実際の人間との違いがどんどんと明らかになるからですね。
AとBは同じだとだれかが言った瞬間に、もうAとBは違うのですから。そうです。昨日の自分と今日の自分は違うし、1分前の自分と1分後の自分は違うのです。目の前の石ころも、次の瞬間には、違う石ころだと言うわけです。

同じって何?
違うって何?

こういった話を子供たちとしていく授業は、面白いですし、こどもが哲学的な顔になりますね。

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褒められたけど、しんみりする話

校長先生がわざわざ褒めにきてくれました。

私のクラスにいる何人かの子がやたら騒いでいたり関係ない発言を繰り返したりするのを、私がスッと対応して笑いに変え、授業に引き戻して進めているからだと。



私はてっきり、

「ちゃんと叱った方が良い」

というアドバイスなり指導なのかと思ってしまった。



それは長年、私が「叱らない教師」をしてきており、頻繁に経験する代表的な管理職の反応だからであります。

もう20年近く、叱らない教師をやっているため、ときに

「きちんと指導しなさい。叱ることも必要だ」

と、指導を受けてきた。



私も叱らないわけではなく、その都度、改めた方が良い点は指摘し、直そう、と子どもたちには伝えているのだが、それでは叱ったことにならないらしく、管理職の先生の多くは、きちんと叱りなさい、と言う。



「どんなふうにですか?」

と、私ができるだけ下からお伺いすると、その答えはほぼ、強い圧迫を与えて強い大きな口調で言う、ということであった。



私はそれが叱ることとは思えず、あるいはもしそれが叱る、ということであれば、自分は叱らないで教員をやろうとやんちゃにも無謀にもそう考えたわけですね。



このあたりのことはブログの中で常々、折に触れて書いてきました。



若い頃は、「どこまで叱らないでいけるかな?」と、面白がって挑戦するような心持ちでした。



しかし、時代は変わるものです。

発達障害の知識が浸透するにつれて、私のスタイルは意外に褒められることも増えてきました。特別支援の先生たちの方にとっては受けが良く、「叱らないでもいいですか」スタイルに共感してもらえることが多いようです。



それが。

やはり、時代は変わったのですかね・・・

校長先生から、

「あなたのスタイルはスゴい。尊敬します」

と直接、私のデスクまで来て、おっしゃっていただきました。

「◯◯くんが大声でしゃべっていたのに、さっと笑いにして集中させ、引き戻してましたね」

校長先生はちょっとオーバーに褒めてくれました。

嬉しい気持ちもあったけど、それよりも大きな実感は、

「時代が変わってきてるな」

という感慨ですね。



私は20年という期間、世の中の教育現場を、ある一つの定点から観測し続けたわけです。
それは、「子どもというのは、叱らないでもいいか、どうか」、ということです。それを教育現場は許すのかどうか。周囲の先生方の反応から、リアルに観測し続けたのです。


たしかに、時代が変わりました。

昔は、大声で叱らない先生にとっては教育現場は不寛容でした。すぐに注意されました。
今は、管理職から、直々に、感謝までされます。
大声や圧迫をしない先生を、許容する感じが出てきました。
わたしのような叱らない先生にとっても、寛容な世界が広がってきています。


今回、ことの発端は、ある日の校内放送でした。たまたま機器の不具合から、校長先生の講話が聞き取れなかった私のクラスは、後日、校長先生にじきじきに教室に来ていただき、講話を聞くことになったのです。



校長先生が教室に入ると、静かに姿勢を正して待っていた子たちは、お話しをきちんと聞きます。

ただし数人の子を除いては・・・、です。これは教室あるあるでしょう。

教室を飛び出してしまう子や、椅子にしっかりと座れずにアドレナリンをビンビンに出して揺すりながら奇声を出す子は、多くの場合、低学年の時から発達障害の検査を受けたり、医療機関にかかったりします。「この子の特性を知り、われわれ大人がどのような環境を用意すべきかの指針にする」という理由で。



しかし、低学年でWISC検査を受けずに私の受け持つクラスに進級した子は、私のせいで、ほぼ、WISC検査を受けません。私が勧めないからです。

そのため、支援級の先生たちから、

「あらま先生のクラスからは、支援級に上がって来ませんよね。逆に支援級を卒業する子はいるけど」

と言われます。



これは、私の良くない点で、私はどうも昭和の古臭い、色んな子がいて当然だった頃が、忘れられないのです。自分が受けた教育が懐かしいのでしょうかね。昔は特別支援学級もありましたが、本当に車椅子で二階にこられない子とか、事情のある子が在籍してるだけでした。つまり、椅子を揺すって奇声を発し、教室を飛び出す子は、どこの学級にもいたのです。



私は校長先生に褒められたあとに、自分がなぜかしんみりしてることに気づいたのですが、きちんと褒めてもらえるまで、約20年近くかかっているのは、なんだか当初思っていたよりも長かったナ、と。
おそらく、自分にそんな気持ちがあるのに気づいたんでしょう。だから、なんだか嬉しい気持ちと共に、甘酸っぱいしんみりさを感じたわけです。
腹の立たない、自分をしらべる、たよりないくらいがいい、執抹殺なんていう話を若い頃にしていたせいで、わたしは世の中からずれたままで、このまま行くんでしょう。

ま、でも、人間らしい生活を実現しようとしてんだから、ヨシとしましょう。

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やさしいことをふかく・・・

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

これは、井上ひさしさんの言葉です。

小学校や中学校の、すべての営みがこうあると良いなあ、と思わせる言葉です。
もしかしたら、高校もそうかも。

とくに良いなと思うのは、

やさしいことをふかく

という部分ですな。
易しいことを深く、というのは、思いのほか難しいことです。易しいと一見思われることも、それを本当に真正面に据えて、取り組もうと思えば、なんにしてもなかなかに難しいことであることが多いからで、

すべての授業がこうであるべきだと思いますな。

そんなの簡単!
と、子どもに言わせるようでなければいけないと算数をしていると思いますし、国語の物語を読んでいるときは、あれ?意外と裏の解釈もあるぞ、そっちの方がさらにおもしろそうだ、と言わせたいです。

今、4年生ではごんぎつねを習っておりますが、ただ、狐が死んじゃう話、というだけではなく、作者の新海南吉(『あめ玉』の作者)が、なぜ物語の最後で、兵十にぱったりと火縄銃を落とさせたのか、その心の深い動きまで読み込ませたいと思いますね。

本当なら、昔の国語の教科書5年生に掲載されていた、あめ玉を続けて読ませることで、新美南吉と言う作者が、世の中をどう見ていたのか、考えるきっかけにもできると思いました。

あめ玉では、威厳のあるはずのお侍さんが、実は、普通の人と変わらなく、世間体や体裁、恥ずかしさを感じることがあり、強そうに見えるかもしれないが、実際にはただの弱い普通の人間だ、と言うことになっておりました。

ごんぎつねでも、兵十のことが、狐から見ると、大きな力を持つ存在に書かれていますが、実際にはそうではなく、仲間に神様のおかげだとさとされたら、そうかなぁと半分信じたり、火縄銃を持てば、狐を撃つのですが、すぐにしまった。やるべきではなかったと思うことのできるただの普通の人なのです。


それにしても、井上ひさしさんを、久しぶりに思い出すことができました。
あの、くだらない長編、吉里吉里人の作者だと思うと、あのくだらなさと、今回紹介したこの文章との乖離がすごく印象深いです。しかしまた、井上ひさしが、若い頃に、ひょっこりひょうたん島を書いていたのを知ると、この方の才能の豊かさに、改めてリスペクトの気持ちが湧きます。

もう一度文章を掲載します。

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

何度も味わいたい言葉です。

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いよいよ「叱らない」時代へ

このブログを始めた時、タイトルをどうしようかと思って
「叱らないでもいいですか」とつけた。
これは、初任者としてやはりどうしても遠慮がちにならざるを得ない、という正直な感想をもったためでありました。
「叱る」が前提になっている教育現場。そこで何も知らない初任者が、迂闊にも「叱らないで教師をやります」なーんて口走ったら、校長先生にたっぷりと指導を受けそうだったからであります。

しかし、私は妙な人生遍歴から、人に対して「教える」とか「叱る」とか、「相手をコントロールする」という行為がどうしてもできない精神構造になってしまっておりました。
子どもにも、「ふうん、そう思うんだね。そうかなるほど」というスタンスが基本であり、「早くしなさい」というありふれた声がけすら、どうしても違和感があってできなかったのですね。

いやあ、本当に変な精神状態でした。今から思えば。20代に過ごした環境が浮世離れしてたせいで、「早くしなさい」すら、言えない状態でしたね。
そんな状態ですから、叱る、なんてできそうも無い。また一方で、

「叱らないでもやれるんちゃうか」

という思いがありましたから、思い切ってタイトルを、「叱らないでもいいですか」とした。

そしたら、どうも時代がそうなってきてるみたいで、こんな記事を見つけた。



まさに。
学者の方が文章にすると、こうなるんやなあ、と感心しましたね。私の言いたいことが、ドンピシャに書いてある。

私が叱る、叱らない、ということについてこのブログで書いた記事を探すと、たとえはこんな記事がありました。

すべて、叱らない、という教師の思いに関しての、記事、投稿であります。

もし、「叱らない」に興味を持った先生で、このページをご覧になった先生は、ぜひリンク先の記事も見てみてくださいね。

お気軽にお問い合わせください!

ダメは、駄目なのか?という問題

20代のころから、良いものか良い、と言うわけでは無い、という命題に、何とも言えないユニークな楽しさと面白さを感じていました。

ある時、知り合いが30名ほど集まり、良いものが良いのかどうか、と言うことについて、12時間ほど話し合ったことがあります。これは今でも覚えている位ですから、相当楽しかった思い出です。

目を閉じても、その時の会話の雰囲気や、目の前にいた人の表情なども浮かんできて、これは死ぬまでの生涯の楽しみになるだろうと思っています。

いわゆる良いものは良いのでしょう。それには理由が様々あり、Aと言う面から見ればとても良いでしょうし、それはもしかしたらBと言う側面からもCと言う斜め上の角度から見てもとても良いものなのかもしれません。だからといって、今、それは不必要であり、かえってそれがあることで、弊害まで生じると言うことがあるのです。

しかし、大概の場合、それは良いものですし、価値が高く、素晴らしいものなので、多くの人は、それを不要だと言われてしまうことに対して、えっ!と驚くのです。

まさか、こんな良いものをいらないだなんて!

やせ我慢をしているのか、格好をつけているのか、何か別に邪な理由があるのか、なんでこんな良いものを良いと言わないのだろうかと腹を立てる人までいます。

ポルシェか軽トラか、みたいなことです。

畑で草刈りや畝づくりをするために、クワやら鎌やら袋などを詰めていくときに、ポルシェは不便すぎるし、オイル代や部品代や車検代も高すぎて、はっきり言って全く不要なのだ、ということです。馬鹿だなぁ、ポルシェがあれば良いんだよ、という人もいます。ポルシェを売って、軽トラを20台分買えるじゃないか。

そういうことでは無いのですね。ポルシェを売ろうと言うことでは無いのです。ポルシェを売れば、金になるとか、そういうことではないのです。何が必要か、何がこの場合良いかと言うと、ポルシェではなく、軽トラだと言うことなのです。

そういう風に考えていくと、他の人が何をしているかと言う事について、あれは良いあれは悪い、と言う事は一切言えないのではないかと言うことなのです。

その人が、軽トラを購入しようとするのを見て、絶対ポルシェの方がいいんだし、あなたはポルシェを買った方が良い、とは言えないということです。

たとえ口に出して言わないでも、心の中で、ポルシェの方がいいのにな、と思っていることもありますね。
SNSで、ポルシェのほうがいいのに、あの人ったら軽トラ買ってるよw、とつぶやくパターンもあります。

こう考えてみると、何が良いと言うのはあるのかどうか?もしかしたら「良い」と言うものは、ただの言葉だけであって、実体のない言葉概念なのかもしれませんね。だって、その「良い」は、決して「良く」は無いのですから。「良い」には、意味はそれほどあるわけではなく、人々が想像するよりかは、ほとんど意味が無いのです。

しかし、我々は、人間生活をおくりながら、しばしば良いという言葉を使います。このほうがいいよね、と。

教室でも「良い」をよく使います。

そろそろ教室が暑くなってきたので、教室の天井にくっついている扇風機を使うことがあります。

しかし、扇風機を回して欲しくない子も中にはいます。

この場合は、扇風機をつけるのが良いとはなりにくいです。

最終的には、その子は、クラスのみんなに問いかけることになります。

「ねぇ、みんな!教室の中、暑いから扇風機をつけようと思うんだけど、みんなどうかなぁ」

この場合は「良い」からつける、のではありません。扇風機が「良い」から回そうでは無いのですね。

こうしてみると、あまり良いとか悪いと言う言葉には、やはり、実態というか、力というか効力というか、そういう価値はほとんどないのかなと言う気がします。

人間はもしかしたらこの良い良くないと言う言葉に依存したり、頼りすぎているのかもしれません。
良い良くないを使わない方が、子供たちの生活はうんと楽になります。

教室で使うべき言葉は次の3つです。
◯私は何々したい。
◯私は何々してほしい。
◯私は嬉しい(悲しい)。

良い良くないを使わないようになると、子供たち同士の喧嘩や諍い、トラブルは10分の1程度に減っていきます。

これは、子供たち同士で、このような顕著な効果があるのですから、大人同士も、あるいは組織同士、国同士でも行えば良いのにと時々思います。

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朝のスピーチ つたわるか、つたわらないかの差はどこに


毎朝、子どもらは、教室のディスプレイを使って、スピーチをする。
デジカメでうつしてきた写真を、みんなに見せる。
これは、ただ、なにも道具立てがないよりも、はるかにおもしろい。
写真にいったい何が映っているのか、みんなが固唾をのんで、待ち受けている。

教室が、一瞬のちに、シーンとなる。

「ただいまより、ニュースを始めます」

なかには、NHKのアナウンサーを気取って、

「時刻は○時○分になりました。ニュースの時間です」

と始める子もいて、個性があるのがいい。

家でうつしてきた、ちょっとした小物。
お母さんと一緒に作ったホットケーキ。
買ってもらったばかりのプールバッグ。
飼っている犬の姿。
弟の顔、なんてのもあった。

理科で、植物を学んでいるシーズンは、どの子も似たようになる。

登下校中に見つかった、あやしい草。
家の前に咲いている、黄色いきれいな花。
おじいちゃんの、盆栽。
・・・

おそらく、写真のシャッターを押す瞬間、彼や彼女が、なにかを心に宿し、決めて、
「よし、これだ!」
と思い切る。

その、自己決定の「ハラハラ、ドキドキ感」が、ニュースに臨場感を持たせ、おもしろくさせるのだと思う。

だから、なんとなく、ニュースがつまらないとき、

「撮るものがなくて、お母さんがこれにしとき、っていうから撮った」

という場合が、中にはある。
もちろん、
「お、それいいな。お母さんの言ってくれたの、すごくいい!」
と思えて、自ら主体的にシャッターを押す子もいるだろうから、お母さんに教えてもらうこと自体が悪い訳ではない。
ともかくも、その子の内面の、緊張感が出てしまうのが写真というものだろう。


こんな、写真のような道具立てがなくたって、スピーチ自体がおもしろいときもある。


クラスに、スピーチ名人がいる。
なぜかスピーチに臨場感があり、伝わってくる。
それはもう見事で、クラスがその子の声に、すっかりとりこまれてしまう。
教室が、その子の息、呼吸に、すべてぬりつぶされてしまうくらい、面白い。
そう、おもしろい。

なぜかな、と考えてみている。


他の子のスピーチと、一味ちがうところは・・・。


聞く人の目が、すいすいとすいよせられ、いきいきと、
彼女が話すたびに、聴衆に活気がみなぎっていく。

それは、彼女が、自分の中の、「迷い」を出しているからだろう、と思う。

彼女には、まだ小さな、少し変わった弟がいて、姉のやることなすことに興味を持ち、(まあふつうですよね)姉のランドセルにぬいぐるみを詰めたり、朝起きたばかりの姉の上にとびのってきたりする。
姉としてはちょっと、困ることなのだが、そこをまあ、姉らしく、ちょうどよくおさめていくために、彼女なりの工夫でもって、うまく弟くんを、じいちゃんに押し付けたり、軽くかわしたり、あれこれと迷いながら、葛藤しながらも、知恵をしぼる。
これが、話のおもしろいところだ。

たまに、家族をよ~く観察しているからかな、と思って笑っていたが、この間、気がついた。

この子の話は、サザエさんなのだ。

長谷川町子が、気付いて、漫画にしたてあげる。
日常にみえかくれする、人間臭さ、とっぴょうしのなさ、思わずのけぞったアクシデント、ふと口にしたセリフ、意図せず行うこと、力のぬけた感じ。
サザエさんをはじめ、マスオさん、ワカメ、カツオ、タラちゃん・・・。

あの目線が、この子には、ある。
人間くささ。
ひとのうごき、考え、クセ、アホさ。
ひっくるめての、人間の、こと。

それが、そのままで、面白いってこと。


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子どもだって、問いを作るのは難しい

なぜ、難しいのだろうか。
大人も問うことが苦手だ。問うことは、エネルギーを使う。合理的な思考を要求される。知的活動だから、脳内でブドウ糖を消費してしまう。

小学生が問うことを苦手とするのは、一つには「問いは与えられるものだ」という思い込みがあるから、かもしれない。
これはこれまでの教育の弊害だろう。

小学生については、次のように進めていくと良いだろう。
まずは、問いを立てる、自分で調べることのできそうなところから、少しずつ調べ始め、わかったことを順に整理していく。1つわかったことがあったら、他にもわかる事は無いかと広げていく。もしわかったことが2つ3つと広がったら、それらを比較してみて、また自分なりの気づきが得られるかどうか探してみる。
最後に結論をまとめるが、その際に、気をつけなければならないのが、これでわかったとおしまいにしないことである。ここまではわかった、であれば、その続きはどうなるのか、と、前に進めたり、環境が変わったら、そういう事象は起きないのだろうか、と条件を変えて考えてみたり、日本以外ではどうか時代が変わったらどうか、と、見る視点を変えてみて、さらに追求できるよう、新たな問いにつなげていくのがコツだ。

しかし、そもそも、そんな問いを立てること自体が難しい。まだ慣れてもいない。ほとんど生まれて初めてのことをすると言う気分になる子だってそうだ。

ではどうするか。

まずは1冊ノートを用意しよう。
そこにすごろくを書いていこう。
昔からの定番だが、すごろく型の思考の進め方、は、非常に小学生に向いている。

大きな丸を描き、その中にふとした疑問をとりあえず1つ入れてみる。
なぜ空は青いのか。
自動運転の車は本当にできるのか。
地震が起きたときに、どうしたらうまく逃げられるのか。
うさぎの賢い飼い方。
うちの猫は一体何を考えているのか。

など、ふと思いついた疑問を、まずはその1つ目の丸に入れてみる。

2つ目の◯も重要だ。
最初の◯から、1本の線を伸ばして、2つ目の丸につなげてみよう。
この2つ目の丸の中には、どうしてそれが気になったのかを書いてみるのが良い。自分の中で特にその気になった原因を探してみると、問いがもう少しだけ咀嚼され柔らかくなる。

例えば、空はなぜ青いのかと言う問題を考えた子。
どうしてそれが気になったのかと言うと、これは、人によって、様々なきっかけがある。
青だけじゃつまらない、もっといろんな色になれば、毎日が楽しそうなのに、と、美術的アート的デザイン的な視点からそのことを考える子は、科学的な光の波長や屈折度についての理解をしたいわけではない。むしろなぜ人がアートを欲するのか、青い色はなぜ清々しい感じを人々に与えるのか、温かみのあるオレンジ色は、なぜ食欲をそそる色になるのだろうかなど、色彩心理学のほうに舵を切った方が興味関心が持続する。

もし緑色の夕焼けがあったら、人々はどんな気持ちになるだろうか。

と、問いを少しだけ変化させてみる方が、その子の調べる意欲をかき立てるかもしれない。

まずは、問いを、自分なりに細かく咀嚼し直すことが必要である。これが2つ目、3つ目、4つ目、5つ目位までの◯の中身である。
つまり、これが問いを大きく咀嚼した段階と言えよう。

次の段階に進もう。
それは、その問題を、もし理解したり、解決したり、深く捉え、直すことができたとしたら、どんな良いことがあるかを考えることである。
難しく考えなくてもいい。これは個人的なことで構わない。
自分がこれからの生活に、その知識を生かせそう、と、思えば良いだけである。

しかし、そのことを調べ、学習の最初に少しだけ考えておくことが、最後の最後に非常に生きてくる。
それは、次の問いを発生させるエンジンになるからである。

正直、問いを立てて考えていくということは、側面から見ると、しんどいことに違いない。
わざわざ調査し、回りくどく考え、わかったと、単純に言わないのが、とてもしんどい。だからこそ、このことを考えたことが、どれだけ自分を高めたのか、と言う視点を入れておくのである。

こうして、当初の、ふとした小さな疑問は、咀嚼し直し、自分なりの意義づけを与えることにより、小学校での学習にふさわしいものとなる。

大人はここまでのことをしない。
SNSやYahoo!のコメント欄を見ても、ほぼ条件反射でいいねを押したり、そんなのはダメだと否定することが多い。
これらは、問いを立てると言う知的な作業では無い。もし可能なら、「関連して新たな問いを作る」というボタンを付けるべきである。

人類は、問いを立てることにより、様々に思考を働かせ、現実の社会問題をよりよく解決する方向に進めることができた。
今のSNS社会では、問いは立てないが、何かしらわかったつもりになりやすい。賛成ボタンと反対ボタンを、条件反射で押してるだけのことである。
このことの意味のなさを、子どもの時から感じられるように、育てていくのが、新しい次の世代に向けての教育だろうと思われる。

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大谷選手のグローブに思うこと

大谷選手には一つひとつ感心することばかり。
左利き用が1つ、入っていたのもカッコいい、と思った。
ハンサムだし楽しそうだし何よりも真剣にゴミを拾う。
男でも好きになるタイプだ。

今回、大谷選手からNewBalance社を通じて小学校へグローブが届いた。
先生たちはそんなにはしゃがないし、大人だからぐっと抑えたふるまいをするけれど、それでもどこかでウキウキしている気がする。
定年間近の男性の先生方は、嬉しくて仕方がないらしく、自分と野球との関わりをお茶のみついでにお話しされる。

現役時代の金田投手(かねやん)を見た先生はさすがにもういらっしゃらないが、現役時代の王、長島を見た先生はまだ職員室にいらっしゃる。
かく言うわたしも、小学校3年の冬に、2mという至近距離で王さんと目があったことがあり、手を振ってもらった。巨人・中日戦の昼間に、球場近くの喫茶店で番記者と語らうところを、わたしの母親がネットもスマホもない時代に、口コミだけをたよりにそこへわたしをいざなったのであります。昭和の母親はすごいなあ、と今もなお思いますね。

わたしは名古屋の小学生で、当然のように中日ファンでありました。まだ中日が優勝したときの余韻がある時代で、巨人ファンは一切そのことを口に出せず、巨人の帽子を被ってよいのは自宅の押入れの中だけで、外ではぜったいに中日ドラゴンズの帽子をかぶっていなければ、人として許されない空気がありました。

昭和49年(1974年)、中日ドラゴンズが巨人のV10を阻止して20年ぶりに優勝をかざったが、その年にリリースされ、大ヒットしたのが「燃えよドラゴンズ」。これを新しい打順で歌い切ることも当然のようにできなくてはならない。ちょっとでも間違えようものなら、もしかしたらコイツは純粋のドラゴンズファンでないのかもしれない、と邪推される。1時間かかる登下校中の話題も、昨夜のナイターで谷沢がホームランを打ったかどうかであり、大島と谷沢のどちらがえらいか、というのがもっぱらの議題でありました。

しかしどの小学生も、王さんの話題になればもう中日などはどうでもよく、やはり王はえらく、敵ながらアッパレ、という感じになるのでした。

わたしがテレビ放映のジャイアンツ戦をみながら興奮しているのを見て、母は細い人脈を200くらいたどり、なんとかして無料で王さんに会えないかと画策したらしい。ついにわたしは無料で王さんに会うことができ(といってもコーヒーを飲む王さんに近寄っただけ)、一応そのするどい眼光の中に、わたしのヘラヘラした笑い顔を映してもらったのです。ああ、遠い昔の記憶だなー・・・

さて、ゲンダイの子はどうなのか。
50、60代の先生たちの興奮をよそに、小学生たちは、実はそれほど盛り上がっていません。
それもそのはず、大谷選手はなんとなく知っているけれど、野球のルールすらわからない子が多いのですからね。

みんな喜ぶだろう、と思ったら、一部の子たちはさすがに大事だと感じているらしい。スゲー!と喜んでいる!
しかし、わりとあっさりとブームが去りそう。
やはり徐々に、徐々に、野球というものの、社会の中での立ち位置が、変わっていってるのだろう。毎日、本当に毎日のように、ジャイアンツ戦が地上波で放送されていた、ということを、もう若い先生たちも知らない。

「え?ナイター?・・・知らないです。見たこと無いです。そんな毎日、みなさん野球、見てたんですか?」

若い平成生まれの先生がこう言ったとき、60歳定年間近の先生の顔があきらかにひきつっているのを見ました。
長嶋も王も、若い世代の先生ですら知らない。まして子どもは・・・。
さて、どうする。

サッカーはハーフタイム以外に休憩がないので、ビールをゆっくり飲み干したり、隣の席の人とーだこーだと感想を言い合って駄弁る時間がありませんね。その間にシュートが決まっちゃうかもしれないから。サッカーは踊りながら叫びながら一瞬も気を抜かずに見ること。

ところが野球はタイプがちがう。
相撲や将棋や囲碁と同じで一手ごとに間が空く。その間に観客は次の一手を予想して、腕組みしながら待つのです。とにかくスピード、間のとり方がちがうのです。

今の時代は、どちらかというと踊りながら参加する、サッカーのような劇場型スポーツがあうのでしょうね。一手ごとに、あれこれと頭を巡らすような、視聴者参加型のスポーツは、時代のテンポに合わないのかもしれません。寂しいですが。

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政治と経済の失敗は何が原点なのか

自民党が窮地に追い込まれている。
リクルート事件を超える、巨大で組織的な計画性の高い脱税疑獄だそうだ。

安倍さんはどうやら幹事長時代に組織的脱税を知り、やめろ!と指示を出したらしい。しかし首相になったら黙認してしまい、それが横行してしまった。今後、おそらく閣僚や大臣経験者から、逮捕者が出るだろう。英国BBC放送でも、日本の政治の危機を報道した。

岸田内閣が、と言うよりも、今の自民党の体質ややり口が、国民から批判されている。

「政治は今良くないねぇ」
と言うだけならまだいい。
経済はもっとダメである。
ガソリン代増えた、食品の内容量が減った、値段が上がった、景気は落ちた、これが逆ならありがたいが。

どうしてこうなってしまったかと言うと、それはもう原因を一つ一つ、数えれば、何億と言う理由があります。

もし、単純に、その原因を一言で、言い表すと、欲がないと言うことに尽きると思う。

日本人は欲がなくなった。
周りの人を幸せにする欲、大欲がなくなった。
残った欲は、名誉欲やほんの小さな承認欲求、自分だけの欲である。

昔、竹中平蔵という閣僚が、経済の自由を高らかにうたったことがある。人間の欲望のままに、市場原理を信じていれば、正しい競争が行われて、日本はもっと豊かになるということであった。
ところが、完全に失敗したと、最近どの経済誌を見ていても批評されている。

竹中さんは、本当の欲と言うものを持たなかった。彼に本当の欲があれば、必ず、人間の思い違いや思い込み、間違いと言うものを計算に入れたはずだ。人間は、ふとした、見間違いをたくさんする。聞き間違いもする。一度思い込んでしまったら、間違ったことを信じてしまうこともある。10年20年と、勘違いを続けることだってある。死ぬ間際になって、ようやくその勘違いに気づくことだってある。
市場原理を信じよう、本能だけの競争原理に全て任せれば良いと言うのは、大変な思い上がりである。

そのことを小泉内閣の時代から指摘していた学者はたくさんいたが、人気が出なかった。なぜなら、人間は間違いをおかすものだと言われると、誰もが「俺に限っては間違わない」と思うからだ。

残念なことに、実際に人間は思い違いをする。思い込み、決めつけて、数々の失敗をする。そのことを計算に入れないのは、欲が小さいからだろう。本当に欲があるのなら、人間のそういった本質を必ず計算に入れるはず。

原子力発電所を建設しようと言う時、これまた多くの人が反対をした。
中曽根さんが原子力発電所の建設を躍起になって進めたが、中曽根さんは欲がなかった。本当に幸せな社会を作ろうと言う気持ちが薄かったのだろう。
中曽根さんは、
「人間というものは、戦争も起こさず、手順も間違えず、決してサボらず、どんな災害も防ぎつつ、一万年以上、人は原子力発電所を運営してゆける
と、かなり楽観的に考えた。
でも、福島原発は、一万年ももたないまま、数十年で大事故を起こした。

その昔。東海村で、有名な臨界事故が起きたとき。ウランをバケツでリレーしたので、大事件になった。それを聞いて、多くの人が、人間は間違いが多いので、サボりたくなるかもしれないし、焦って手を滑らすかもしれないし、疲れるかもしれない、もしかしたら作業の手順を間違うかもしれない、と、考えた。

そんなことはない、と信じられる人が、作業を進めたが、実際には作業中に被爆してしまい、尊い命が失われた。

人間が必ず失敗をせず、粛々と、何万年もの間、正しく、機械を整備し、装置の異常を点検しながら、金属疲労を完全に防ぎながら、決してどの国とも戦争をせず、ミサイルを打ち込まれるようなこともなく原子力を管理できる、とかんたんに思い込める人は少なかった。

欲の小さな人だけが、それを信じることができる。

なぜなら、そう思い込んだほうがストレスが少ないからだ。大きな欲を持っている人は、その大きな欲を実現するために、ものすごく大きな精神的なエネルギーを使う。もしかしたら、と考えるからだ。
人は、間違うかもしれない、とする。
そのことに耐えられない欲の小さな人だけが、まぁ、大丈夫でしょうと、事柄だけを先に進める。

よく考えることをしない、と、いうのが、欲の小さな人の特徴だと思う。

100年後、200年後の日本を今の政治家が考えているだろうか。
それを考える人は、大欲を持つ政治家だ。
しかし、その政治家を支えるのは、欲深い国民だけだ。目先の小さな欲しか持てない国民が、ポピュリズムに陥る。

さて、私は小学校教員なので、100年後、200年後の日本のために、世界のために、授業をしなければならない。

ただ、欲を持てといっても、そんな国民にはすぐには育たない。
1番大事なのは、人間は間違いをするものだ、どんなに良いと思っても、それが本当に周りのみんなにとって良いかどうかよくよく考えればならない、ということ。これだけを基準にして、学校教育が行われても良い。

したがって、子どもたちは、討論ばかり行う。クリスマス会のゲームは何にしようか。そのことだけで3時間も4時間も話し合っている。
しかし、この3時間4時間が、非常に良いトレーニングになっている。
もういいから決めちゃおうよ、と言う意見が出ると、いや、まだ〇〇ちゃんの意見が出ていない、と声がでる。

この光景を、岸田さんが見たら、どんな感想を言うだろう。派閥政治とは、無関係の思想を、子どもは最初から持っている。

岸田総理の秘書の方、ご連絡お待ちしております。IMG_3829

理由を聞いても貝になってしまう娘。学校に送り出すも「やっぱダメ」と戻ってくる

理由は聞かない。
説明できるようなことではないからだ。
低学年であっても高学年であっても同じ。
子どもの語彙の中には、理由は見当たらないのだ。不登校とはそういうもの。
もし言える子がいたとしたら、ハリーポッター2冊分くらいの字数になる。

あとは、それを言うと親が困る(怒る)のではないか、と子どもが思っている場合がある。
だから、理由を聞かれても

貝になるしかない。

たまに先生になりたての若い先生で、

「なんで来れないの?」

と聞いてしまう先生もいる。

理由を言えるわけがない。
また、先生に責められた、と勘違いをして、ますます来にくくなる子もいるだろう。
ぜったいに、

「なんで来れないの?」

などと、言ってはいけない。

不登校だけではない。
けんかでもなんでも、わたしはまったく

「なんで」

と理由を聞くことはない。
同じく、ハリーポッター2冊分の分量の説明が必要な子もいるからだ。
ただの口喧嘩にしか見えないような事象であっても、当人には、低学年の当人にとっては、理由がハリーポッター2冊分必要な子もいる。高学年でもだ。

わたしはそうは言わない。
このブログで前にも書いたが、

「本当はどうしたかったの?」

と質問をする。
すると、「こうしたかった」とすっきり1行で言ってくれることが多い。

それでも出てこなかったら、こう聞く。

「本当はどうしてほしかったの?」

これだと、ズドーンと出てくる。

◯友達にやさしくしてほしかった。
◯先生にこう言ってほしかった。
◯あのときぼくがこうしたことをわかってほしかった。
◯お母さんに用意してほしかった。
◯昨日のそろばんを休みたかった。
◯友達にこっち側によけてほしかった。
◯じろじろ見てほしくなかった。
◯友達のペンを貸してほしかった。

ああ、人間って、こうも

「してほしかった」

と思う存在なんだなあ、ということがよく分かる。

それが出てくると、憑き物がとれたように表情が良くなる。

繰り返すが、理由はきかない。
子育てに、理由は聞かない。
子どもは忖度もするし、思いやりもする。大人の感情の変化をもっとも嫌う。
だから、理由は言わないし、言えない。

そんな子どもに、理由は聞かない。親も先生も、聞かないでほしい、と思う。

不登校の子が、理由を言えるわけがない。貝になって当然だ。
理由をきこうとするから、さらに貝になる。貝にしているのは大人だ。

このブログは2006年くらいから書き始めたけど、このことは何度か書いている。
わたしのクラスでは、子どもたちどうしが、

「◯◯ちゃん、どうしてそれをしたの?」

とは言わなくなっていく。

そうでなく、

「◯◯ちゃん、ほんとうはどうしてほしかったの?」

と聞いている。

わたしは少し離れた場所で、なんとなくそれを横目で眺めていながら、「ほんとう」という言葉がちいさな子どもの口からこぼれてくるのが、なんとも神々しい気がしている。

ほんとうの教育とは、目の前の人間の、「ほんとう」をお互いにきいていくことだ。

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【卒業までカウントダウン】してもらったことを100個書く

好きだ、という文字は、誤解を生むので使えない。
とくに大人が子どもに対して「好き」なんていう言葉を使っては。

だいたい、「好き」という言葉には、いろんな意味が含まれ過ぎている。
ナターシャ・キンスキーがおしゃれなカウンターでロブ・ロウに向かって耳元でささやく「好き」と、
「ひざこぞう」を怪我してバンソーコーを貼っている小学2年生がグッピー・ラムネを食いながら「このラムネ好き~」というのと、同じ意味であるはずがない。

しかし、あえてこのクラスの全員が好きという以外になかなか他に良い言葉が見つからない。
さらにいうなら、人が人を好きだというのは、これはもうそれ以外にありようのないほどに、当たり前の感情なのでありましょう。また、この場合の「好き」は、もう古来より言い古されていることであるように、ごく人類としても当たり前のように「嫌いの対句ではない」のでしょうな。

そういうことなので、この子たちがあと20数日で卒業だと思うと、またある種の特別な感情が湧き起こってきます。たしかに、新たな、立派な道へ成長していっている、というしずかな喜びもあるのですが、もう日常会えなくなるよなあ、というちょっとした感傷がこころの中を全面的に塗りつぶしてしまうのです。

その感傷をすこし確認した後に、結局さいごにこの子たちに対して思うのは、

ああ、好きだなあ、という感じであります。

もっといい言葉、ふさわしい言葉があればいいのに、と思うけど、まあ単純に、「好き」なんでしょう。人類として、好きなんですわ。

残りの日数で、やるべきことも残してあり、いろいろと計画もしています。
また、これだけはやりたい、と2年前に計画した授業。これらを、きちんと進められてきた、というふりかえりができること。最近はそれがうれしい。

1)自分が好きなものを そうは思わないと言われた時に腹が立つかどうか。
2)きらいなものかどうか
3)羊毛セーターのふるさとを考える
4)電球が光るかどうか~ホントはどうかな~
5)今から北海道に行けますか

これまで考えたことがない、という問いの数々。
おもしろかった、という感想が次の日の日記にたくさん書かれた実践。
2年間、その気でやって、進めてこれた。
ありがたいと思う。

このクラスでしてもらったことを100個書く、というのも、無理ーと言いながらやってくれた。
このクラスでしてあげたことを100個書く、というのも。(←こっちの方が少なかった)

あと給食の回数、20数回。

コロナで無言の給食だけど、顔をみながらおいしく食べよう。

おひなさま

【笑点その2】そのための笑点システム~朝の会特別編~

司会「笑点の時間です。司会の円楽です」

司会は公募。
ふだんは注目されることのない子が意外にもトライしたりする。

あらかじめお題は前の週の金曜日の朝に配布。
班で話し合う時間も設ける。
その際、班のみんなが面白いと判断したものには、赤鉛筆でしるしをつけておく。
このときの会議はネタバレをふせぐために、小声でないしょで行う。
他の班に聞こえないように配慮する。


さて翌週の月曜日が本番である。
黒板前に4つの席を配置。
さらに一つ、端の方に司会者席を設ける。

4つの席には、1班から4班までの班からひとりずつ、有志が座る。
手には班員のメモ用紙をもっている。これは先週末にあたためておいたネタが書いてある。
班の中で受けたネタには赤鉛筆で丸がついているので、それを言うことになっている。
班ではウケたネタなので、ちょっと安心して座ることができる。
まあ、ウケなくてもぜんぜんかまわないし、ウケないことに対して同じ班のメンバーがウケてくれるからおもしろい。
今回のネタは、
『たしかにおっしゃるとおりです。ですが・・・』

お題が出されたら、上記のように発言し、その後につづけて自由にしゃべる。
いつもの「笑点」と、雰囲気は同じだ。

拍手が多い場合は、司会者の判断でざぶとん(カード)が配られる。
カードといってもただのイラスト用紙なのだが、プレゼントとして班員がもらえるためにみんな頑張る、というわけだ。

例)先生のセリフです。「廊下を走ったんだって?」

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、後ろから幽霊が追いかけてきたんです!

のような感じだ。



先生のセリフです。「遅刻したそうじゃないか!」

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、今日にかぎって電車が遅れてしまって。
(徒歩通学でしょ!)

たしかにおっしゃるとおりです。しかし、朝焼けがとても美しく、思わず日ごろの感謝を太陽に向かって拝んでました。今日のぼくがあるのは、先生のおかげです。だから遅刻はナシにしてください。

たしかにおっしゃるとおりです。けれども、朝見た雲の形がユーラシア大陸の形に見えたので、思わずあそこがイタリア、あそこはロシア、と社会の勉強をしていて遅れました。この僕の勉学に対する意欲だけは褒めてください!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、急にぼくの目の前にだけ、雪が降ってきたんです!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、朝ごはんの味噌汁が、ぼくだけめちゃくちゃ熱かったんです!弟はいいんですが、家族でぼくだけ猫舌なんで・・・

たしかにおっしゃるとおりです。だからぼく、めちゃくちゃ走ったんですよ!!ですが、遅いんですよ、足が!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、めざましテレビの占いで、あろうことかぼくが12位だったので、1位だった妹とけんかしてました。

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、名刺を忘れたことにさっき気づいて。
(小学生でしょ!)

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、夢の中ではしっかり登校し、すでに4時間目まで授業を受けてきたんで許してください。

たしかにおっしゃるとおりです。ナイショですが、なんと宇宙人がいたんで、ちょっとだけ話してきちゃいました。こんなチャンスはめったにないんで。

他にも、

友達のセリフです。「あれ?〇〇くん、シャツの後ろ前が反対じゃない?」

とか

近所の人です。「おたくのテレビの音量が大きすぎるんですけど」

のようなお題が考えられます。

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【笑点】言葉を増やすのが第一

言葉を豊かにしたい、と思う。
本を読ませたいが、それだけでもダメで、実際にやりとりができないといけない。
きちんとやりとりをさせたい。
なぜそう思うかと言うと、「言葉を有効に活用する能力をみると、今の子たちは力不足で、現実世界を生き抜くのに足りない」と思うからだ。

といっても、昭和の時代のわたしよりも、ちゃんとしている子がたくさんいる。
どういうことかというと、時代がそれ以上を要求している、ということ。
昭和ならそのまま「そんなものだからあきらめろ」となっていたことが、もうコンプライアンス的にあきらめるわけにいかず、解決しなければならなくなってきていることが多いと考える。

わたしは現代の方が幸福だと思う。
昔は泣き寝入りが多かったのではないかと思う。
また、世の中はそういうもの、で済ませていたことが多かったのだと思う。
たとえばいじめ、パワハラ、シングルマザーへの差別など。
しかし、時代はもう、「一人ひとりを最大に尊重する」ということができるようになってきた。だから、昭和とはちがう。正しいことはどんどんと推し進めるべきなのだ。

というわけで、今の子たちは、
要求されるレベルがこれまでよりも高い。
そのレベルに達することができるように、どの子も支援しなければならない。

その中心になるのは、「言語活動」である。
正しい語彙で、
必要な語彙で、
語彙を選択して、
論理的に、
わかりやすく、
相手に共感してもらえるように

話すこと。

これが求められているわけ。
しかし、こんなことは大人でも難しい。
大人でも、論理的に言語をうまくつかって、冷静に話し合える人の方が少ない。

そのため、学校では四六時中、言語をうまく使う、ということに注力して教育をする。

〇言いたいことが言えているか
〇必要な語彙を選択できているか
〇論理的に話すことができているか
〇(提案したいなら)提案できているか
〇(謝りたいなら)謝ることができているか
〇(励ましたいなら)励ますことができているか

どうしてそう思ったのか、という「理由の説明」はいちばんむずかしい。
大人でも、きちんと理由を説明できる人は少ない。
大人がかんちがいしやすいのは、自分では理由を説明した気になっていることだ。でも実際には、その人の「理由」は伝わっていない。これは子どもも本当に苦労する。

さて、小学生が習うべきなのは、

1)あなたは「〇〇〇」と言いたいのですね
2)そこでわたしは「△△△」と言いたいのです


という、基本的なキャッチボールです。


政治家の答弁などを聴いていると、記者の質問とはまったく無関係のひとりよがりの発言をして、問いに正対しない、という致命的なミスをしています。
これを小学生がやってしまうと、もう社会生活がおくれなくなるくらい、やばい。

相手のボールを、しっかりと受け取り、ああ、こう言いたいのだな、と把握する。
できれば、「あなたのセリフを自分はこう聞いた」、ということを確認するのがいい。
勘違い、聞き違いということも、世の中にはとても多い。リスクも高い。
相手の言い分を聞き、あなたの意見はこうなのですね、あなたはこう言いたいのですね、と。
そうすると、その時点でちがうなら、相手が訂正を出せる。
OKなら、その後、自分の意見を言えばいい。
その「きちんと相手の発言に呼応して、正対した対話をする」ということ。
これが、小学生の習うべき「言語活動」であります。

それを子どもたちが身につけるためのステップとして・・・(つづく)

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「~したい」「~してほしい」が言えるように

小学校の教師をわりと長く務めてきた経験から、今の子どもたちを見ていて思うことを書く。
それは、ちゃんとした喧嘩ができない、ということ。
陰湿で、かげであれこれ、と言う。
背中に回ってこっそりと舌を出す、という感じだ。
決して正面に立たない。

どうして正面切って堂々とできないかというと、自分に自信がないからで、それは自分で自分の行動を選択する、ということをしてこなかったからだ。
では、なぜ自分で自分の行動を選択決定しないのかというと、これも簡単で、これまで強権的に支配されてきた時間が長かった、ということだろう。

要するに、家でも学校でも、強権的な態度の大人に支配され、言うことを聞けばよい、という感じで育ったのではないかと思う。

わたしなどは、すぐに疑問符が出てくるから、
「それでいいの?なぜ疑問をもたないの?反抗しないの?」
なーんて、いろいろと思ってしまう。「支配されている」と感じ取る子もいるはずで、親にも教師にも反抗するのでは、と思うが、それをしない。もしかすると、反抗すると損だ、という「計算高さ」をもっているのかもしれない??

また、親や教師も、強権的に支配をしながら、実際には飴も差し出す。
上手に言葉を選んで、タイミングを選んで、飴(あめ)をうまく使う。
そういうことができる大人が増えてきた。

そこで、反抗せずともおとなしく(よそおって)、言うことを聞く習性になってきている。
たしかに甘い飴を十分にもらえることがわかっているのであれば、まあいいか、と自分をごまかしていさえすれば、それでやりすごすこともできるのだろう。しかし、本質的には満足していないから、顔の表情は暗い。さっぱりして明るい、という表情にはならず、どこか他をねたんだり、うらやんだり、マウントを取りたい、という自信のない表情になっている。

要するにこれは、強権的に支配されてきたからだ。
物心ついたときから、支配されてきてしまった。
だから、それ以外のふるまい方を知らないのである。

したがって、子どもどうしのトラブル、喧嘩になったとき、どうふるまうかも考えられない。
他の命令で生きてきているから、コントロールできないような状況にはまると、どうしても自分で考えるのではなく、周囲を見回すだけになってしまう。
ただめそめそ泣くか、逆上して攻撃するか、友人にしきりに悪口を訴えて広める、という具合だ。

過去、何度もこのブログには書いてきているが、
「結局、自分がどうしたいのか、どうしたかったのか、言えるかな?」
と問うと、そんなことを聞かれるなんて思ってもみななかった、という表情で驚いている子がいる。

これまでの人生で、

「どうしたいか」

を問われたことがなかったのか、とこちらも驚く。

それでも言えないことが多い。なぜなら、自分がこうしたい、というよりも、「相手にこうしてほしい」ということが先にあるから、どうしたいの?と聞かれると、言葉に詰まるのだ。

「わたしは仲直りしたい」

ということさえ、言葉にすることができない。

そこで、「じゃあ、言い換えようか。まずは、〇〇ちゃんに、どうしてほしかったのか、というのは言えるかなあ?」と問う。

すると、これは言える。
しかし、言葉がおかしい。

たとえば、
「〇〇ちゃんが先に△△をしたのはずるい」
というふうに言う。

善悪で早く裁(さば)いてくれ、というのである。
しかし、裁くのが重要なのではなく、ここはお互いが理解するのが大事なので、裁いておしまい、というわけにはいかない。理解なき裁判というのはあり得ないからである。

言い直しをしてもらう。
「ずるいかどうかの前に、どうしてほしかったのか、本当は〇〇ちゃんにしてほしかったことを言ってもらえるかな」

すると、ようやく
「△△をする前に、こっちをみて気づいてほしかったし、先にやってよいかをわたしに聞いてほしかった

ということが言える。

すると、不思議なことに、ようやく安堵した表情になる。
つまり、支配下から抜けるのである。
だれかの支配下にいた自分が、支配下にいてただ恨むことしかできなかった私が、ようやく地上に出てきた感じになる。

ようやく、自由になれたのだ。自由というのは、わたしの意思をはっきりと他に示し、伝えることができるということ。そして、相手の意思をきちんと聞ける自分を用意するということ。

強権的な親や教師のもとで育つと、素の自分を出せないまま地下にもぐる。
そして、他を「ないしょで」「かくれて」批判し、すべてを他のせいにする思考が育つ。
「だって、〇〇しろって言われたんだもん」
「だって、〇〇はダメだって言われてないもん」
これは『支配下の思考』でありましょう。

自由の意味を理解していない子が多い教室では、子どもが、お互いの権利を認め合うのではなく、お互いに権利を主張し合うようになります。
そして、折り合いを付けるため、どんどんルールが増えます。
逆に、ルールで禁止されていないことならどんなことをするのも「自由」だろうという考えが広まります。どんどん悪循環になっていきます。

至るところで諍いが起こります。民主主義が機能しなくなり、いつしか社会は、強力な権力者の出現を求めるようになります。それが自分たちの自由の息の根を止めることも知らずに。

もし仮に、

「先生、学級会なんて時間の無駄です。ぼくたちに考えさせるのでなく、はやく〇〇くんを断罪し、叱ってください!」

なんていう子がいるようなら・・・
身震いがする。
このまま成長したらどうなるか。
おそらく、「独裁者の支配する強権的な社会を待望する大人」に育つだろうと思うネ。

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排除すればいい、という風潮その2

前回の【排除すればいい、という風潮】の記事に、多少の反響があった。当然だろう、という人もいたし、へえ、何故なのだろう、という反応もあった。
ふだん、「何かに失敗すると叱責され、ペナルティを与えられている」という体験を積んだ子どもたちが、そういう発想を自然としているのではないか、という卓見もあった。これには、なるほど、そうかもしれない、と思わされた。

さて、思い返してみると、このようなことはこれまでも多くあった。
これは以前の勤務校での話。

その学校では、午後はこのような流れでした。
【給食】⇒【休み時間】⇒【清掃】

ところで、給食の後、教室の机はどうするか。
多くの学校がこうしていると思う。
つまり、全員が教室の前の部分に、自分の机を動かすのであります。
なぜなら、教室の床をそうじするから。
机を前方に全体に寄せておいて、片側がきれいにできたら、今度は教室の後方にすべて移して動かし、それから残りの半分をきれいにするのであります。

ある子が、その「机の移動」をしないで、遊びに出てしまうことが連続した。

「先生、〇〇くんはまた机を動かしていないよ」

さらにその〇〇くんは、当番もよくさぼった。
給食の当番になると、野菜缶とか汁缶とか、みんなの食器とか、給食室に運ばないといけない。しかし〇〇くんはそういう日にも、休み時間の遊びを優先して、仕事をしないで校庭に出てしまうのでありました。

当然、クラス会議では、このことが議題になります。

すると、この〇〇くんが、声高に叫ぶのですよ。

「ペナルティを与えて、こらしめたらいい!」

わたしは当時、このことがすごく不思議でした。

「ええ?〇〇くん、だって、ペナルティのルールをつくると、〇〇くんが罰を受けることだってあるんだよ?」

わたしが心配して言うと、

「おれは大丈夫!」

と平気な顔です。
逆に、なんでおれのことばかり、先生が言うのか?と、不満そうにしています。
わたしはあまりにびっくりしたので、
「だって、先週だって〇〇くんは野菜缶の当番なのに、外に出ちゃったじゃない」
というと、それも気に入らない様子で、
「なんで先生は俺のことばかり言うの?」
と口をとがらしていました。


結局、このときはペナルティ制度を採用したものの、
いの一番に〇〇くんが机も動かさずにそのまま校庭に行ってしまい、ペナルティの対象者になりました。(正確に言うと、〇〇くんが自分は悪くない、他の子のせいだ、とあくまでもペナルティの実施をこばんだために、なにもしなかったのですが)

このように、自分の姿を客観視できない子、メタ認知できない子ほど、

「ペナルティで罰を与えればいい!」

と叫ぶのです。

〇〇くんは、いつも直感的な行動に走ります。
熟慮が苦手で、自分自身を直視することができない。
だから、自分のことを棚に上げて、平気で人を責めるし、人の不正には厳しく、あくまでも懲罰を下したい、こらしめたい、自分はそのかわり、【よい人】であるはずだ、と思う(思いたい)のです。

これは、世の中は善と悪に分かれるのだ、人間もよい人間と悪い人間がいるのだ、というような、勧善懲悪だけで物事を見通したい、という手抜き思考です。
そもそも、ひとを善と悪だけに分けられるわけがないのですが、ひとを個別に考えたり、善の意味、悪の意味、生きる目的などを考え始めるとなると、それはたいへんな複雑思考なので、ひとはみんなこういう思考が苦手なのでしょう。だからわれわれ人間が

勧善懲悪で決めればいい、深く考えたくない

と思うのも無理はないのです。

しかし、それを現代の小学校の生活に持ち込むのは無理ですね。だって、この子はよいこ、この子は悪い子、と決めるのは、馬鹿げていますから。

道徳の授業で、善悪を超えるような討論が始まると、〇〇くんはとてもめんどうくさそうにします。

「Aが悪いやつで、Bがいいやつ。それでいいじゃん!はやくこんな話し合い、終わりにしようよ!」

そう叫んだ〇〇くんの困惑したような、ゆがんだ表情の悲痛な姿を今でも時々、思い出します。
問題を処理するのが人生の目的ではないですものネ。

majin


自分のミスをあっという間に許しちゃう子

子どもを叱るとき、子どもが下を向いてうなだれていると満足する教師は居ない。
日本中の教師、全員が全員とも、そうではない、と言い切りたい。

わたしは人生のかなり途中くらいから、
それも大きな仕事をやめて、ぜんぶ身に着いたものや肩書や、
持っていたいろんな多くの物を整理したころに教師になった。

だから、わりとなんでも許しちゃうところが根底にある。

これは教員としては弱点であり、きちんと叱るときに
まったくテンションが低くて、子どもから舐められている。

いっしょに叱っている他の先生が、
「あらま先生も叱ってほしい」
と思っているのではないかと思う。

わたしは叱っているつもりなんだけど、ぜんぜんテンションが違うし、
声のボリュームも迫力もなく、ただ
「うーん。どうだったんだろうねえ」
と子どもの前でつぶやいている感じだから、他の先生からみると

歯がゆくて仕方がないらしい。

ところがたいていの先生が私よりも年下で、
わたしが主任だったりするもので、
直接わたしになにか言ってくる先生はいません。

だから上記のことも、「そう思われてそうだなあ」という、ただの想像です。

なんでこんなに叱ることが苦手なんだろうかとつらつら思うに、
要するに、

わざとやってたわけじゃないもの

という気持ちが、考え方の奥の方に、かなりしっかり強くあるのだと気づいた。

わざとやっているのではないか、という可能性も、もちろんある。
だけど、それは子どもがそう言ったって分からないし、
そう言わなくたって、真実はわたしには分かりようがない。

だから、すぐに許しちゃう。

というか、もっとよく見てみると、

わたしはかなり、自分に甘い。

そこがもっとも奥深くの原因かもしれないことに、今さきほど気づいたところ。

いろいろミスがあっても、おそらく0.00001秒ですぐに自分を許してしまう。
というか、許す以前に、まったく自分を責めないところがある。
これはすべて、10代後半から20代のころに身についてしまった、脳みその癖でありましょう。

非の打ちようがないほど、完璧に近いと思われる人物にも、何人も出会ってきました。
でも、考えてみるとどうしてわたしがその人を
「完璧だ」
と思うかというと、はなはだ危ういわけで。

だって、このわたしが判断していることだもの。
わたしが「完璧だ」と思うことが、「完璧」であるはずがない。
わたしはそもそもミスが多いのだから。

その時その時で、最善を尽くす。
最善を選択する。
このことにかけては、自分には嘘をつかない。
だから、ぜんぶ自分のミスは許して当然と考えている。
わざとじゃないのだから。

年越しの寸前に、子どもの作文を読んでいて、こんなようなことを考えた。
子どもに対して、

「どうだった?自分としてはどうだったの?・・・次はどうする?」

と聞くのが教師の仕事だが、そればかりやっていると、

子どもってえらいなあ、と素直に思いますね。
だって、きちんと最善を選んでますから。

宿題さぼっている理由が、イモリに餌をやったら眠くなったから、とか、
ゲームが終わらなくて、とか、他にもっとくだらない理由のときもある。
けれど、きちんと振り返って、どうするか、どうしたいか、
頭がよくなりたいか、授業がわかりたいか、というところからきちんと話すと、
やっぱり前に進もうとする。

2学期の漢字学習が進まなかった子が、3学期はきちんと心をいれかえて(?)、
すぐに3学期の予習をはじめ、わたしに自慢しに来る。

「先生すごいでしょう。おれ、もう3学期の漢字、ノートに2ページもやったで」
「すごいやらー。おれも」
「まだ冬休み前なのにやったんだで」

たったの2ページで自慢しに来るとはいい度胸だ、と思う。

しかし、ちっとも叱らないのに、きちんと3学期に向けて、勉強を始めましたよ。

本当に、子どものミスを、責める必要ってあるんかな、と疑問に思います。
こんなことを2006年からずっと考え続けていて、まだ考えは何も変わりません。

まもなく当ブログ、2006年1月からですから、丸15年が経ちます。
今夜はチラチラと、雪が舞い始めています。

2

子どもの顔がよく分からず、先生の顔もよく分からない一年

ふりかえると、今年4月に、新しい学校に転勤になった。
コロナ禍のなかでの転勤で、最初に職員室でみたのはマスク。
校長もマスク、教頭もマスク、他の職員もみんなマスク。
もちろん、わたしもマスク。

学校がはじまって子どもたちを見たら、みんなマスク。
自己紹介のときだけ一瞬だけ外したけど。
あとはみんな、いつもマスク。

だから、素顔をほとんど見ないまま、12月になった。
もちろん、今までにこんな年はなかったから、
「お互いに、顔をろくすっぽ、見ないままで、よくここまで暮らしてこれたなあ」と感慨深い。

子どもの表情は、目でみるようになった。
ああ、うれしいんだな、よろこんでいるな、真剣だな、考えているな、迷っているのかな
マスクをした口元では分からないから、「目」で判断する。

これは、日本人でよかった。もともと、日本人はマスクは得意だもの。もとから、目もとで心を読む癖がある。相手が口元でいかに笑おうが、目で笑っていなかったら、本気じゃないことがすぐわかる。

最近、5年生が2年生のところへ行くことになった。
ペア学年ということで、縦割りの遊びをするわけだ。
ところが、ペアの子の顔がよく分からない。

「先生、顔を覚えてない」

当然だろう。マスクしたところしか見てないから、相手の印象が薄いのだ。
まだ分散登校になる前のころ、たった一度、体育館で握手をしただけだもの。
そのあとは「密を避けるように」と言われてたし、他学年のところへ行けなかった。

だから名前を呼んで、返事をしてもらって、そこへ5年生が駆けつけるふうにした。
2年生の先生が、気を利かせて名簿順に並んでいてくれたから、すぐにマッチングさせることができた。

「いやあ、顔を見たけど、覚えていなかったからあせった」

と子どもが言っていた。
校内全員、マスクだもの。2年生の子なんて、かおの7割がマスクで見えないから、おでこと目しか見えない。本当によく分からない。

クイズをしているようなものだ。わたしはだれでしょう?という感じ。
赤白帽子を目深にかぶって、マスクをしていたら、本当にだれがだれやら区別がつかない。

もうすぐクリスマス、冬休み。
ここまで暮らしてきて、わかったことがある。

学校でもやめられることがたくさんある、ということ。
プールの授業もやめられた。
校長講話もやめられた。
全校集会、やめられた。
運動会もやめられた。
遠足もやめられた。
キャンプもやめられた。
研究授業もやめられた。
夏の研修やめられた。
授業参観やめられた。

その代わりの企画を、すべて、一からつくるから、何倍も疲れた年だったけど。
頭はけっこう、やわらかくなってきたかな。

今やっていることも、今あるモノも、
消えていくもの、なくなっていくもの、多い。

まあ、もともとはなかったものだからネ。
そこから発想していかないと。

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クラスから児童会長候補を選ぶ方法について

米国で大統領選が行われたが、こちらもあと2ヶ月で、選挙だ。
5年生は4クラスあるから、各クラスから立候補者が1人ずつ出る。
まずは、その立候補者をクラスの中で擁立しなくてはならない。

たった一回の人気投票では、なんだかな、と思う。
つまり、じっくりとみんなで考えあって、クラスの温度が高まって、納得してみんなで笑顔で進める感じにはならないような気がする。
そこで、リーダーをいろんな子に経験してもらいながら、みんなでリーダー像、というのを考えることにした。

一週間に一度、リーダーを経験してもらう。
リーダーは席替え、掃除の班決め、朝の10分活動の内容企画推進、その他の権限が与えられる。

席替えを決められる、と聞いて、ウォーーーー、という地鳴りのような声が聞こえた。
相当、期待しているようだ。

「先生!その席替えの方法は、どうやって決めるんですか?」
「リーダーが決めます」

ざわざわ

「席替えは、リーダーがみんなに聞きながら決めるのですか?」
「みんなに聞くかどうか、自分で全部決めてもいいし、それもふくめて決めるのがリーダー」

ざわざわ

「え、先生、確認ですけど、リーダーが勝手に決めてもいいんですか」
「いいです。リーダーが責任もちます」

ざわざわ

これはかつてないことになった。
これまで先生が決めてきた席替え。
くじ引きで決めたこともあるけど、自由にはならなかった。
それが、このリーダーになることで、どうやら『勝手に決められるらしい』。

クラスでいちばんのお調子者、兼、やんちゃくん、兼、ドッジボールの審判を買って出るタイプの男子が、目の隅をキランと光らせながら、ドスのきいた声で確認してくる。

「先生、男子同士でとなりになっても、いいんですか」
「リーダーが責任もって決めるのであれば」

ざわざわ

信託システムを使うことにした。
自薦、他薦、白紙。
どれでもOKだ。
票を勝ち得た人で決まるのではなく、票を受けた人、票の入った人が、さらにだれを推薦するかで決まる仕組みだ。

たとえば、AくんがBくんをリーダーとして信託したとする。
BくんがCくんを選んだ。この時点で、Cくんには、Bくんの票とAくんの票の2票が入る。

さらに、CくんがDくんを選んだ場合は、Dくんに3票入ることになる。
つまり、AくんとBくんが信託したCくんが、自分を含めた3票をDくんに信託したことになる。

このとき、Dくんが自薦したとしよう。
Dくんは、自分こそリーダーにふさわしいと考えて、自分に票を入れたとする。
すると、このDくんには、すでに3票があるため、そこに自分の1票を加えて、4票が入る。
つまり、先の3票にくわえて、4票が入るのだ。合計7票。

この信託システムによって、もっとも得票数の高い人物がリーダーとなる。


信託システムの最初は、子どもたちからアンケートをとることだ。
下記の3つを書くカードを配布して、回収する。

①自分の名前
②自分が信託する人の名前
③理由


これを教師が集計するのだが、とても面倒だ。
ぜんぶ手計算するのがめんどうなので、途中までエクセルを作ってみた。

(信託システムを少しだけ楽に入力するエクセルシート)←右クリックでリンク先を保存

本当にかんたんな関数しか使っていないために、ざんねんなことに途中までしか使えない。
最後の結果までは、このエクセルでは出ない。
しかし、それでも最初の1からスタートするよりも楽だ。

【使い方】
1)児童名を黄色いマスに入力します。
2)番号は、出席番号です。
3)一番左側のピンク色のマスには、その児童が信託した子の出席番号を入力します。


信託システム1


「キレる」が正当化されない、ということ

学校で、わたしが堅持しているのは、
「キレる」を正当化しない、ということ。
これを認めてしまったら、まあちょっとひどいことになるだろうと思う。

ドラえもんを見ていて、昭和には実際によくあったのかもしれないが、ぜったいに許されないのはジャイアンが周囲の人物をお気軽に殴るシーン。
ジャイアンは、自分の機嫌をそこねる相手にたいして、実にお気軽に手を出してしまう。
これを「いい」としてしまうなら、人間が人間ではなくなっていく。
人間は知的に活動できるからこそ、その価値が出てくるのであって、相手を殴るのを正当化していては、人間としてはまったくもう、負けである。
戦争は、手を出したら負け、である。
何も残らず、何も得られない。
終わった後に残るのは、深い悔恨の念と自責の念、そして傷ついた同胞と焼け野原である。
「キレる」は、人として異常なこと、としていかねばならない。

これを子どもに徹底させるのは、最初は容易なことではない。
なぜなら家で親にそう教育されている場合もあるからだ。
「やられる前にやれ」と教えている家庭もある。
そこに一教師や担任が、「手を出したら負け」と教えるのだから、子どもは混乱する。

しかし、学校で生活していると、その意味がだんだんに分かってくる。
子どもたちが納得していく。
手を出した子は、どうしてもレッテルを貼られるのである。
「手を出す子」として。

相手が傷ついて苦しんでいるのに、それを見てニヤッと笑っているのである。
それを見て、平気でいるのである。
同じクラスで生活している子にとっては、そういったクラスメートは、『気持ち悪い』としか思えないのだ。だから、だんだんに、しずかに、しずかに、孤独にさせられていく。子どもは実に、そのあたりの運び方が自然である。

わたしは教師になって15年。この間に、「友達に手を出す子」ほど孤独な存在はいないと思うようになった。例外なく、孤独である。そして、その子の小学校生活は、例外なく、暗い。
本当の仲間は、だれひとり、いないのである。

そのことを子どもに伝えると、それはそうだろう、と納得する。
だから、家で親になんと習っていようが、実感が勝つ。
つまり、「手を出したら負けだな」と思うのである。

そして、その前に、手を出す前に、「キレる」を正当化しない、というのが出てくる。
キレるのは、戦略としては悪手であり、キレる必要もない。
そう思えるように、学級を育てていかねばならない。
そのためのたった一つの方法が、

「車座での話し合い」

である。
車座は、だれも中心がいない。
そのことがビジュアルで子どもたちに実感される。
全員が同格になっての、意見の出し合いなのである。
それも、しつこく、何度も何度も、毎朝のように車座、である。
そして、どうしたら解決できるか、と何度も話し合う。

これをやっている限り、「キレる」必要はない。
その場で、「困っているから相談に乗ってほしい」と一言いえば、キレる必要がなくなるのである。

そこまでを全部、ひとつのセットにして、指導のワンセット、とするのである。

手を出したら、負け、である。
これを何度も何度も、学級のさまざまなシーンで、わたしは言っている。

手を出すな。手を出したら、負けだ。
手を出したら負け

小学生は自治体験を積むが大人になったら忘れる件


前回の記事について、BLOGのメッセージ機能を使って、コメントをいただいた。
コメントをいくつか読む中で、あらためて次の疑問がわいてきた。

大人になったら、どうして「話し合い」ができなくなるのか。

子ども時代に「話し合い」を体験し、クラスの運営について経験を積んだはずだ。
自治についての困難さもわかり、責任や言論の重さもわかったはず。
そして、なによりも、「だれかに服従するのではない自由さ」の良さ、そして「仲間とともにつくりあげていく社会のだいご味」を知った。

「自分たちが仲間であり、仲間は知恵をだしあうことができる」ということ。
そして、「仲間の知恵が危機を救い、その知恵と相手を思うやさしさが、自分をこんなにも元気にしてくれる」ことを知った。

パワハラ体質の先生の言うことに服従するのではなく、自分たちお互いを一人残らず良くするための知恵を出して、自分たちが解決していく心地よさは、なににも代えがたいことを知ったはず。

ところが、大人になるとどうしてそれができなくなるのか。

土曜日の朝から、遠くの山をみて、いろいろと思いつつ、気づいたことがある。

「大人は自治をさぼっているからだナ」

小学生は、毎日、自治を現実にすすめている。
なによりも、クラスという35~45人の組織があり、構成員はすべてが仲間意識でつながっている。一人残らず発言が許され、その発言はお互いに尊重しあって、みんなが聴きあう。

また、クラスだけのことであれば、すぐに、アイデアが生かされる。

給食の配膳に関して、疑問点が出されたらすぐにそれを解決しようとする。
解決するためのアイデアが出されたら、それをすぐに実行しようとする。
また、実行したら、次の日に「やってみてどうか」をすぐに意見交換しあう。

このくりかえしをしているから、どんどんと生活が、具体的に変わっていく。
この、ダイナミックな生活の実体験があるから、手ごたえがあるから、子どもはみんな、やる気に満ちている。だって、自分の意見がすぐに通るんだもの。あるいは、みんなが聞いてくれるんだもの。そしてどんなアイデアも、「言わないよりは、言ってくれた方がいい。どんな意見も、あとでみんな財産になる」という考えのもと、全員に笑顔で迎えられるのだから。

この自治の実態があり、それをまさに実現しているという具体的な

腹の底からの実感

があるから、子どもはみんな、自治を全身全霊ですすめている。

ところが、大人にはそれがない。
だから、大人になると、

「話し合いはダサい」

と考える人が徐々に増えてくるのではないだろうか。
そして、具体的に目の前の事実や生活のこまごましたことを話し合うよりは、なにか大きなイメージやふわふわした幻影を夢想するようになるのではないだろうか。

これを打破するには、小さな町や村などの単位での、自治意識の高揚が必要だ。
しかし一般の行政区割の上での、村や町は、すでに緻密なシステムでがんじがらめ。
だからそれ以外の、コミュニティ意識が芽生えてくるような、ゆるやかな地元意識を大切にしたつながりをつくるべきだ。
今の公民館では、なかなか難しい。今の公民館はすでに既存の仕事でいっぱいだから・・・。

今の公民館とは別の、ニュータイプの

ジェネラル・パブリックのための広場、学び舎。

これをあちらこちらに乱立させよう。

そうすれば、夢見がちな「ニッポンすごい。オレは日本人だからオレもすごい人間なのだろう」という雰囲気は解消し、足元にしっかりと根付いた、等身大の自分や、実際の自分自身の生活に向かい合い、話し合うことのできる人が増えてくるのではないだろうか。

「自治ができないのはダサい」

という雰囲気が、小学生の生活には、かなりむんむんと、ありますよ。

祇園絵

学級目標をどう考えるか

学級目標をつくる時期になった。
毎年より、コロナの関係で1か月ほど遅いかな。

さて、この学級目標をみんなで考える前に、実はもうやることがあります。
そして、学級目標をつくるころまでには、すでに子どもたちの中にめざすものがあるようにしておきましょう。

めざす姿があると、なんだかイキイキしますね。
そして、そのめざす姿を、おそらく自分は実現していけるだろう、という自信。
その自信は、めざす姿が、聖人でなければとうていなしえないものではない、というところからきます。

やっちゃいけないのは、聖人君主でなければ絶対に到達しえないような「悟りの境地」をめざしてしまうことです。
これを目指すと、ほぼ、学級目標の意味がなくなってしまいます。

学級目標は、学校によっては黒板の一番見える場所に貼るように、と指示されることもあります。
また、学校によっては逆に、一番前の見える場所には貼ってはならないと真逆の指示をされることもありますね。

長い教員人生、波乱万丈あるのですが、できるだけスムーズにこの荒波をのりきっていくためには、その学校の「暗黙の了解」をただちに知って、その通りに実行することです。
とくにわたしのように、転任、赴任してきて1年目、という教員は、職員室でできるだけ目立たないことが生きていく重大なコツとなります。
前の学校と比較しない、というのが大原則です。
あれ?と思っても、まずは黙ってみんなの様子をみる、というのが1年目のオススメ。
学校というのは1万を超えるピースでできた巨大なジグソーパズルのようなもの。1つのピースをみて、あれこんなところに、なんでだろう?と疑問が湧いても、なぜそこにその妙なピースが置かれているのか、実は背景にさまざまに入り組んだ無意識の配慮と合理的な配慮があるからです。1年をこえたころ、ああ、あれでいいのだな、みんな相当悩んだだろうなあ、というのが分かってきます。それまで、新入りは黙ってみているべきなのです。

今回、わたしの赴任した学校は、黒板の前には「できるだけ学級目標なども貼らない」という指示でしたので、安心しました。

さて、聖人君主でなければとうていなしえない学級目標とは、次のようなものです。

「笑顔で〇〇」
「元気に〇〇」
「仲良く〇〇」

これらは、タブーとされています。
教員を10年以上勤めると、これを避ける知恵が出てくる。
なぜか。だって、1年間ずっと笑顔を目標にするって、できますか。できません。
ずっと元気に・・・無理です。ずっと仲良く・・・無理。

だから、これを目標にすると、いつの間にか学級目標というのは、ただそこに貼られているだけ、というものになります。そのうち、だれも意識しないことになります。壁のシミのようなもので・・・。

さて、笑顔で〇〇 というのは、はたして目標になるのでしょうか。
いいえ。

実は、笑顔になるのは、ある目標をめざしていろいろと取り組んだ結果にもたらされるものですワね。どうでしょう・・・?いかがですか。みなさんもそう思われますでしょう?
笑顔はめざすものではなく、めざしたあとに、まるで熟した果実が地面に落ちてくるようにして、ふっと手に入るもの。

また、仲良い人間関係というのも、あるものをめざして日々を積み重ねていくと、いつの間にか、あの人は信頼できるな、またあの人は自分を頼ってくれるな、というのが分かってくる、実感できてくる、というものでしょう。めざすものではないわけです。

ではなにがめざす姿なのでしょう。
何が、目標なのでしょう。

それは、
〇だれでもやれることで
〇どうやればよいかが具体的にとても簡単で
〇そんなことなら、ぜひやりたいと思うことで
〇やることによって自分が助かる、自分が良くなると実感できるもの
〇そのことによって自分もそうだが、みんなもよくなるだろうとわかるもの

うちの学級目標は、かんたんです。
たくさん意見を出すクラス

これがすぐに決まった。満場一致です。
なぜなら、この1か月間、ずっと、

「意見がたくさん出てくると、みんな賢くなれるし、お互いにすごいなと思い合えるし、友達の意見がいいなと思えるし、いい意見はいいねと言ってもらえて嬉しいし、たとえ間違ってもその間違いがあったからうんとよく分かったと言ってもらえるし、意見を言いながら頭が整理できるし、よく聞くからその子のことが良くわかるし、いいことばかりだよねえ」

ということを、これでもか、これでもか、と話し合って話題にするからです。
だから、学級目標を決めるころになって、まったく焦る必要がありません。

「今から学級目標を決めよう」
「みんなで知恵を出し合うクラスがいい」
「いいね」

3分で決定です。
その知恵を出し合う、という言葉に、いったいどのような意味が込められているのか、もうそこにいる38名が全員、わかってきている、というのが前提です。

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立派に見えると泣けてくる

「大の男が泣くものか」

大人の男は泣かないのが当然。
男はだまって、サッポロビール。
・・・昭和生まれなので、そういう雰囲気は知っている。
わたしの父も、まあわたしの目の前では一切泣かなかった。
泣いたところはチラリとも見せないままだった。

わたしもふだんは、そうだ。
じっと目を伏せるくらいで、涙はこぼさない。
今日も、そのはずだった。


ところが泣ける。
涙腺がゆるんできているのか?
涙腺を、ぐっと抑える、というのが、できない。
年齢(とし)をとったのだ。
くやしいけれど、堪(こら)えるのができなくなってきた。
ドッとこみ上げてくると、そのままこみ上げてしまう。
ふたが閉まらないのですね。抑えが、効かない。
あーっと思ったときには、もうすでに声が出るくらい泣いてしまう。


まず、教室に入ってみたら、見事にみんな制服姿。
制服というの、なんでこんなに立派に見えるんだろう。
6年間ずっと半ズボンだった子が、学生服を立派に着こなしている。
「おおお、長ズボン履いてる!履いてるんだね!」
「うん。でも先生、これ、暑いんだけど」
ぴらぴら、と上着をゆすって見せた。
卒業式の15分前なのに、学ランの上着を脱いでしまい、腕まくりもしている。
ちょっと待って。脱ぐのが早すぎだ。せめて終わってからにしてくれ。

先生が来た、というので、みんな席についてこっちを見た。
全員が、ワッとわたしに目線を向けると、これは迫力がある。
おまけに、みんな、小学生っぽくない。もう確実に中学生の雰囲気。
「うわー、大人だ・・」

わたしの涙腺はもう60%くらい、開いてしまっている。

前のクラスに続いて階下に降りた。
今回はコロナウイルスの騒ぎで、ひとクラスずつ。
体育館の手前で待ち、前のクラスが終わって退場するときに、別の入り口から入った。
すると、ここでやばいことに、前のクラスの退場に合わせて音楽が流れ、それが耳に聞こえてきてしまった。10月、6年生が全員で歌った、あの合唱曲だ。
「♬ 生きていることの意味 問いかけるそのたびに胸をよぎる 愛しい人々のあたたかさこの星の片隅で めぐり会えた奇跡はどんな宝石よりも たいせつな宝物・・・」

あかん。
これで、涙腺が90%、と思ったらもうあっけなく泣けてきた。
残り10%を歯をくいしばって泣くものか、とこらえようとしたが、年齢に負けた。
「♪ ねーんー、れいにー、負けたー ・・・いいえ、なみだに、負けたー・・・」
必死になって、頭の中で『昭和枯れすすき(さくらと一郎)』をリフレインしようとしたがダメだ。
「♬ 泣きたい日もある 絶望に嘆く日もそんな時そばにいて 寄り添うあなたの影二人で歌えば 懐かしくよみがえる・・・」

あの、透き通るような歌声までもが、思い出されてくる。
これはもう・・・

保護者席に向かって一礼するが、

「ああ、泣いているのがばれるな」

と思う。
しかし、もうそのへんも、この年齢になってくると、まあいいや、と思ってしまう。

そのまま涙をこらえながら入場し、一人ずつ名前を呼んだ。
苗字と名前の間が、無意識のうちに、少し空いてしまう。
一気に呼んでしまうと、もったいない、という気がして・・・。

ゆっくり、ゆっくり、一人ずつを呼ぶ。

子どもは、「ハイ」と言って、校長から証書を受け取ってゆく。

練習が一切無かったのに、上手だ。
子どもたちはたぶん、これまでに在校生として何度か見てきた先輩たちの姿を、なんとなしに思い浮かべて受け取っているのだろう。きちんと両手で受け取って、しっかり返事もして、お辞儀もして、堂々と歩いている。ドキドキしているのは担任だけ。子どもたちは、ちゃんとわけがわかっている。一番大事なのは、堂々と受け取り、堂々と歩き、堂々と卒業することだ。それを、みんなやっている。

証書の授与が終わると、すぐに教室に戻って、すぐに解散・・・。
コロナ情勢を鑑みて、ということだが、あっけない。

その代わり、子どもと一緒に外に出てみると、いつもの卒業式後の風景になった。
カーネーションを一輪ずつ、子どもたちが手にしていて、

「先生、ハイ」
「先生、これあげる」

一人ひとりが近づいてくるだけで、もうこれでまた泣ける。
いろんなことを話しかけたくなる。が、もう時間がない。
ああ、もう話せないんだ、と思うとまた泣ける。

たちまち花束ができあがり、全員分を手にしたところで写真を撮った。
ありがとう、ありがとう、とばかり言って写真を撮り、お別れをする。
校庭に「最後のチャイム」が流れ、またとめどなく涙が出る。

「先生、ずっと泣いてるなー」
と、やんちゃ坊主が少し怒ったように言うと、また別のやんちゃくんが
「まあまあ、しょうがない。先生は今日は、しょうがない」
と、とりなそうとする。
そのセリフを聞くと、また泣けてくる。
「今のFくんので、また泣けた」とわたしが言うと、周りの保護者がどっと笑った。

泣きながら笑いながら、だんだんに潮が引くように、さざなみが消えるように、人が去っていく。

泣くのは似合わない、と自分では思う。
どちらかというとにやにやしながら、くだらない冗談を言っていたい。

ところが6年生をもつと、ちょっと年に一度くらい、そういうことが起こる。
みんなが立派に見えると、泣けてくる。

飛び出せ青春

忽然と子どもの姿だけが

金曜日は本当に不思議な一日でした。

「今日でお別れ、ということになりました」

から始まり、

〇すぐに製作途中の卒業製作の図工作品を仕上げる
〇自分のロッカーを整理
〇荷物をまとめる
〇遊ぶ(以前から計画していた遊びをまだやってない)
〇クラス写真を撮る
〇大量のプリントと課題を配布→説明する
〇やってないテストがある⇒(結局やれず)
〇教室中の掲示をはがす
〇靴箱の各自のネームテープをはがす
〇棚の国語辞典を配布
〇図書館の本を返却
〇児童会で使った備品を片付け
〇その中で給食を食べる
〇サイン会をしあう

なんだかまだ終わることが身近に感じられず、ぼーっとしている子もいた。
給食の献立予定表を掲示板からはがしながら見ていた子が、

「あ、最終日は卒業生のお祝い献立だー。ケーキがでるよ」

と言って喜んでいたが、隣の子が

「え、それ食べられないよ。だって今日で終わりだもん」
「あ、そうか!」

という会話をしていた。

当然、これだけのことを一日でやれるわけもなく、
教室中に荷物が残っているし、掲示も中途半端、まだ来週も子どもたちは来る雰囲気を残してる。

職員も子どもたちも、まだ本当にこれでお別れなんだ、ということをよくのみこめないまま、突然の・・・

最後に、引き出しやらなにやら、大量の荷物を背負った子どもたちが来て、

「先生、サインして」

という。

ランドセルの背中側の白いところに油性ペンで書け、という。
一人ひとりに書いていたら、自分でも不思議な感じで、ちがうメッセージが湧いてくる。
この子にはこれを書こう、この子にはこれ、と次から次へと文章が湧いてくる。
わたしがにこちゃんマークを日記に書くのが常だったので、

「先生、日記に書いてたにこちゃんマークを書いて」
「あ、うちも」

何度もハイタッチをして、がんばれよ、とそのたびに声をかける。
これでおしまい、というが、また来る。
また、ハイタッチ。
順番にやって、終わりがない。だって今日がお別れだと思わないんだもの。
本当にこれで最後なのかなあ、とお互いに不思議な気持ちになりながら、それを確認するかのようにハイタッチを何度もする。

今はただ、数週間後の卒業式が無事に行われることだけを願う。

教室へもどってきてみたら、誰もいなくて、がらーんとしている。
黒板には、子どもが書いた落書き。

荷物は、机の上にたくさんのっている。
子どもだけが、忽然と、いなくなった。

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学校に行ってもよいし、行かなくてもよいとは本当か

前回の記事のつづき。

人間にとって、学校というのは何か。
「学校」のあり様は、歴史的にも、ものすごく工夫構築されてきた。
ち密に考えられているし、なにより国が本腰を入れてつくってきた。
国民の人生を、幼少時~少年少女時代~青年期、大人まで、微細に詳細に、考え尽くしたもの。
人材育成、国家繁栄、という目的を果たす巨大な装置、であります。
今でも一部の人が唱えている、税金を使っているのだからみんな行け、という論法は、
その前提が「人間は国のための生き物」という考えなのでしょう。

ところが、本来的には「国」のあり様を0ゼロから考えていけばいい話しなので、
「国は人間のための道具・装置」と考えれば、その税金を使っていかような学校を用意すればよいか、ということになる。

そこを考えようと思うと、多くの人間は、「待てよ」と思って震えることなりますね。
なぜなら、

「人間のための」学校・・・をつくった経験

が、無いからです。

歴史的にはそこが逆転で、「国のための人間をつくる学校」を長年かけ、執念と根性でつくってきたが、「人間のための学校をつくる国」をつくってきた経験はまったくない。
だから、「人間のため」ということになると、はた、と思考停止するわけです。

そんなことはない、という人もいる。
「自分たちは、人間のための学校をつくるために、試行錯誤してきた」
たしかに、私学の一部や、公立であっても「みんなの学校」のように、人間のため、ということを考えて実際の教育を直接的に責任をおいつくってきたところもある。

ところが、どこかぼやけている。
自信が持てない。

やはり、稼げる人にならないと、大人になって就職できない。

という前提を、考え直すまでにはなかなか至らないから、でありましょう。

ゴールは、大人になって稼ぐ、税金を払う、ということ。

そうなるための学校。

じわじわとそこから考えていくと、やはり就職に有利なような教育、経済界の求める人材像、会社に気に入られるように、というゴールになっていくのでは。

ゴールはどこか。
人間としてのゴールはどこか。
そもそも、ゴールをめざす、とはどういうことか。
人間と言うのは、ゴールをめざす生き物、ということでいいのか。

目的、かな。
そこは「分かっているもの」として、みんな話を始めるのが普通。

もしもそこを、丁寧に考えていくとしたら・・・

時間がかかってしょうがないから、
ゴールとか目的とかは、『はしょって』いきましょう!


ということか。

水ごけ

スキーウェアを持ってきた子の話し

.
ある女の子が、スキーウェアをもって学校へやってきた。
久しぶりに雪が積もったからです。
そして、ふだん仲の良い学友たちがスキーウェアを持ってきていないのを知り、
「えー、今日はみんなウェアを持ってくるかと思ったのに」
と言って残念がっている。

すると、ふだんはそれほど一緒にいることはないけど、同じクラスの女子1人が、声をかけてくれたのです。
「うちは大丈夫だから一緒に外に出よう」
防水性のジャンパーを着た子だったので、彼女もその気だったのかもしれません。
その2人は、まあ特別に仲が良い、というわけでもない間柄でしたが、ともかく2人で外に行こう、ということになったらしい。

わたしは最初の子が、いつも横に居る仲良しの子に向かって何度も、
「〇〇ちゃん、外に行こうよ~」
と言ってたこともあって、
内心、残念がっているのではないか、と思いながら、
表情をじっと見ておりました。

すると、ですね。
あまりふだん遊んだことのない相手と一緒になって、
なんだか、お互いに、いつもの調子が出ないのでしょう、
彼女の表情からは、まだ残念そうな雰囲気が、抜けきらないのです。

まあ、それでも誘ってくれた子と2人で、廊下から外に出て行きましたわ。
静かに、何かしゃべりながら。



さて、遊び時間が終わる頃、校庭の隅の方から、
2人が校舎の方へ、歩いて帰ってくるのを見つけました。
わたしは、
「どうかなー、楽しんだかなあ」
と思いながら、様子を見ていますと、
こっちへ歩いてきながら、二人とも大きな口を開いて、笑っています。

それはそれは、本当に幸福そうに見えました。

笑っているから、幸福、というわけではないけれど、
「うちら、一緒に遊べるやん」
という発見が、愉快なんだろうか。

うちの友達は、AさんとBさんとCさんで・・・、という思い。
ところが、Dさんもいた。
なんや、これまでの、「うちの友達は・・・」、というの、ただのキメツケじゃん。

ふだん、一緒にはなかなか行動しない2人が、ひょんなことから共にお散歩してみたら、意外なことに楽しくて、なんだかいい時間を過ごせた、ということ。

キメツケは外れた方が楽しいね。

yukigassen

言葉を使う弊害

言葉があるのだから、通じて当たり前、なのかどうか。
人と話をするんだけど、なんかわかってもらえてないな、伝わっていないな、おそらくずれてるだろうな、というコミュニケーションもありますね。

よくありますのは、子どもが
「先生!〇〇くんが急に椅子を動かして、指に当たりました!」
とか、訴えてくるとか・・・。

彼女の希望は何なのか。
あるいは要望、というより、なにか別のことがいいたいのか。
もしかしたら、なにも言いたくはないのか。

怒っているのか、残念なのか、何なのか。
それともその事象を万事受け入れた上で、報告だけをしたいのか。
びっくりしたから、そのことを分かってほしいだけか。

このあたりの微細な感じは、なかなか言葉にでもできない、のが普通じゃないかと思うね。

前述の、「指に当たりました!」のとき、私も含め、多くの先生たちは、何かしなければ、と思う。しなくてはならないのは、その子の思いにできるだけ沿うこと。ところが、先生だけがどこか関係のない方向へ突き進んでいく場合が・・・。

教師「なに?〇〇が椅子をぶつけただと?・・・〇〇くん!こっちに来なさい!!」

Aさん(え?そんなこと言ってないのに・・・)

だれも望んでいないのに、先生が暴走することだってある。
言葉を聴いたから、気持ちがわかった、と勘違いしやすいのかも。

教師は、こういう場合はこう対応するのが良い!

って、指導法というスキルをいくら身につけたとしても、人間の心ってものを知らないから、ずれまくって結局、子ども社会をややこしくしているのかもしれない。

つくえ

あいさつ

.
あいさつを強要すると、どうなるか。

これ、あいさつをしない子が育つのですわ。
教員になってしばらくは、どうしてそうなるのか、分かりませんでした。

学習すればするほど、きちんと身につく、と思っていたから、

まだ指導が足りんのか!まだ、足りんのか!

と思うしかなかった。

ところが、よく自分に照らして考えてみると、ボーッと、見えてくることがある。


あいさつを強要される。
あいさつをしないと、ペナルティがある。


こういう状況になると、人間は2つのどちらかの行動をとりますね。

つまり、あいさつをする、あるいは、しない。
このどちらか、です。(当たり前だけど)


ところが、このどちらも、地獄なのです。

あいさつをする場合⇒⇒ペナルティを避けられた、という安堵と次への不安⇒心の中で、ペナルティがどんどんと重要なことになる⇒前よりももっとペナルティを避けたくなる⇒あいさつに対する恐怖が増す

あいさつをしない場合⇒ペナルティを受ける⇒いやだなと感じる⇒自分もしくは誰かを責める⇒責めることを正当化する⇒いつも自分や相手を責める⇒あいさつがきらいになる


あいさつを強要することほど、滑稽な指導はない、というのは、誰しも分かっていること。

だから、どの学校でも、あいさつを強要などしません。
それは、指導、ではないからですナ。


しかし、あいさつを、静かに強要する、というのは、あります。

あいさつをしない子を立たせてから、「あいさつは気持ちいいはずだよね」とか。
あいさつした子だけに、あからさまに機嫌よくふるまう、とか。
あいさつしないと、「ほら、あいさつは?」と要求するとか。


これも、似たり寄ったり。
まあ、強要に近いと思う。



そこで、先生たちは苦心するのですが。

これは、もう、やり方は一つしかない。

とにもかくにも、「やってみたい」とおもうように、子どもの内面がそうなるしかない。

子どもにさせるのではなく、そうなる、ということ。
子どもが、そうなる。

先生たちは、子どもがあいさつしたら、

「ああ、気持ちいい。ありがとう」

となるしか、ないのでは。それも、本心から。


教師の本心がそうなっているか、どうか。


これは厳しい。


ついでに、

「あいさつをしない奴のことが、気にくわない」

なーんて思ってたら、ダメですぜ。

「ああ、気持ちいい。ありがとう」なんて、絶対に出てこなくなるから。

あまつさえ、それより先に、

「よし、俺より先に、向うからあいさつしたな。合格」なんて、

評価しちゃったりして・・・。



肝心な、根底にあるのは、

「あいさつしてもしなくても」

ということじゃないだろうか。

これも、うわっつらでない、本心がそうなってること。



あくまでも、本心のこと。
繰り返すけど、本心よ。
どう考えても揺るぎのない、明快な本心が、そうなっているかどうか。それで。

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運動会前、子どもへの語り

いよいよ、運動会がはじまります。多くの人が来られます。小学校全体の大きなお祭りです。
みんなの成長した姿を地域の方ご家族の方、いろいろな方が見に来られる。

そのときに、一番大事なことがある。
それは、かけっこで一番になるだとか、綱引きで勝つとか、そういうことではない。
それは、大事な順番でいったら、3番目か4番目のことだ。
もっと大事なことがある。
ひとつめ。

負けたり、失敗したりしたときに、○○くんのせいだ!とか、○○さんがこうしたから負けたんだ!とか、こういうことを言う人がいる。

先生が、こういう言葉を聞いたときに、どんな気持ちになるか、分かりますか。

こういうことを言うチームは、ぜったいに強くならない。
負けるチームが、こういうことばっかり、言う。
なかの悪くなる、気分のがっかりするような、心が暗くなるようなことを言う人がいると、チームぜんぶが、きっとそうなる。そのチームのまわりの空気が、必ず、そうなっていく。くらーく、なっていく。
そうなると、チームの一人ひとり、本当の元気、本当の力がでてくるようになると思いますか。
ぜったいに出ない。だから負ける。とうぜんです。わかりきっている。これまでもずっと、そんなチームをよく見てきました。

○○くんがこうしたから、負けた!
遅くなったのは、○○くんのせいだ!

ぜったいに、負けます。
運動会、ちっとも楽しくない。
くらーくなる。
残念な気持ちだけがのこる。
言う人も、言われた人も、みんな暗くなる。
チームの全員が、楽しくない顔になる。
その顔のままで、運動会が終わる。
家に帰る時も、くらーい。
家に帰ってからも、くらーい。
家に帰って、おうちの人と運動会の話をするときも、くらーい。

へんなことを言う人が一人でもいれば、それを言う人も、聞いている人も、みんなこうなる。ざんねんな運動会になってしまいます。
一番くらくなる人はだれか、分かる?

(言った人)

そう。言った人が、一番大きなボリュームで聞くんだ。そうだよね。自分の言った、いやーな、暗ーい言葉は、自分の耳が一番よく聞こえる。自分の口から出てきた声が、一番近い、自分の耳に入る。(ここは身ぶり手ぶりで、耳や口を指で指しながら)・・・だから、言った人が一番、くらーい気持ちになる。


だから、○○くんのせいだ!とか、言わないのが本当です。

つぎ。

逆に、勝ったとき。

勝ったときに、「やったー」くらいならいい。
それだけでなく、「やーい、勝ったぞー。お前たちは弱いなあ。オレは一番だったぞー」
とか、勝負した相手に向かって、そういうよけいなことを言う人がいる。

自慢、という言葉を知っている?

(知ってる)

自慢をするのです。相手が闘ってくれて、それで勝ち負けを決めることができた。相手がいっしょに戦ってくれて、勝負をしてくれた。そのことを、ぜんぜん、わかっていません。その相手に向かって、勝手な、余計なことを言う。こういうのを、お子ちゃま、というのです。保育園にもどってほしいです。保育園でも、自慢なんてへんだ、とわかっている子がいっぱいいるよ。保育園でもそんな人来たら迷惑だと言われるかもしれんけど。

よろこぶのはいいです。
でも、それは、いい勝負ができた、自分たちの力がたくさん出せた、ということを喜ぶのです。それは、相手もいい力を出していたから、こっちも力を出せたのです。まだよちよち歩きの赤ん坊とすもうをとって勝って、うれしいですか?
勝つのが当たり前。そんなのじゃない。相手も同じ年代で、同じくらいの力で、それで戦って、いい勝負ができたことをよろこぶんです。
戦ってくれた、その相手を、「やーい弱い弱い」って。
そんなの、この小学校の運動会ではやらないでください。どうしてもやりたければ、どこかほかでやってください。

だから、勝って喜んでもいいけど、よく力を出してくれて、いい競技ができた、今回はこっちが勝ったけど、次はどうなるかわからない。またいい勝負ができるように、またお互いにがんばろう、というのが本当です。そういう態度でいてください。そういう、堂々としたふるまいをするのが、勝った方の役割なんです。


大事なことを言いました。
このことをまもって、運動会を本当にいいものにしてください。自分の心が、「やってよかったなあ。思い切りやって、力を出して、気持ちいいなあ」そう思えるように、自分でしていくのです。

大丈夫。みんななら、できます。
ここまで練習してきたことを思い出せば、だいじょうぶ。
終わった後、みんなが笑顔で、「やった!」って顔になっているのが今からとても楽しみです。




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席替えをした直後、なぞの一体感が

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競争もいいけど、競争でない活動を取り入れてみたいな、と常々思っている。

社会全体が「競争の礼賛」に染まっている雰囲気もあるから、まあ、学校で、それも時々であれば、「競争以外」もよろしいのではないか、という考えだ。

そこで、時間を相手に、みんなで頑張る活動を入れる。

席替えをしたあと、うちの学級でやったのは、タイムぴったり30秒、というゲーム。

学級の人数が35人だから、30秒で終わらせるには、1人あたり

0.85秒

でやればよい。

一人ひとりがやることは単純で、たんなる、『拍手』です。


学級35人のうち、最初の一人からはじまって、最後の子まで、席順でわかりやすい一筆書きの順を示しておきます。
全員が前を向いていると難度が高いので、最初は椅子の方向を自由にさせ、自分の拍手をしている姿が、前後の子に、きちんとわかるような向きに座るようにします。

教師はストップウォッチを手にして、

「みんな、ぴったり30秒でやろうね!」

と構えます。

用意スタート、で一人目の拍手が始まり、拍手が連続していきます。前の子が拍手をしたら、次の子もやってよいことにします。あまり速すぎるようだと、少しゆっくりに調整する子が出てきます。またその調整が遅いように感じると、今度はきちんと急ぐ子も出てきます。肝心なのは、どの子の調整がうまくいったか、だれにも正解が出せないことです。だから、責める子もでてきません。

何度かやるうちに、作戦が立てられるようになります。

「ともかく、あとから急ぐのは大変だから、最初の方の子たちは、できるだけ早くやろう。でも、一番最後の列の子だけ、ちょっとゆっくりめにして、心の中の数と合わせよう」

今だけ、席を代えてよい、ということにすると、なぜだか算数の秀才が選ばれて、もっとも最後のアンカーを務めることになりました。

選ばれた秀才君が、みんなの期待を集める中、目を閉じて、心の中でゆっくりと数をかぞえていきます。いよいよ30秒が近づいてくると、拍手の順番も徐々に近づいてきて、秀才君の番です。

秀才君が満を持して、ゆっくりと拍手をした瞬間、わたしがストップウォッチを押す。

「せんせい、何秒?!」


しーん、とする教室。


わたしは少しじらしてから、

「お見事!29.78、ほぼ30秒ジャストです!」

みんな、大はしゃぎになります。


これも、「楽しくやれた人!?」と声をかけて、挙手して終わります。

hakusyu

運動会前のきびしい訓練に耐える

.
あなたの地域の小学校では、運動会は、いつ開催されるだろうか。
わたしの地元の岡崎市では、運動会を春に行う学校も出てきている。
今年、わが勤務校も、この5月の終わりに運動会をすることになった。
市内の小学校を見渡してみると、定番の体育の日のある10月はもちろん、まだ暑い9月に行う学校もあるようだ。

さて、運動会前なので、6年生が組体操を練習している姿が目に入る。

「せんせい、6年生の練習すごいね」
「来年、俺たちって、あのワザやるの?」

など、子どもたちなりに興味を持ってながめている様子。


そこで、5年生の今から、どしどしと身体を鍛えることにした。

朝の会で、宣言する。

「あなたたちはこれから1年間かけて、身体をつくっていかねばなりません。それが5年生の大事な仕事です」

朝のいつもの雰囲気より、かなり厳かに、厳格なイメージでこれを伝えると、それまで怪しんでいた子もなんだか真剣な雰囲気に。

「そこで、空気イスじゃんけんをやりますよ」


1)ペアになる
2)気を付けの姿勢から、じゃんけんを連続で10回行う。(その都度、先生の指示で、ゆっくりやる)
3)勝てばそのまま、負けたら、ひざをかるく曲げる。
4)最終的にしゃがんだ状態になったり、転んだりしたら、負け。
5)曲げる角度は、その人のさじかげん。
6)もし相手が転んでしまったら、「だいじょうぶですか」と声をかけて、そっと手をさしのべる。


このコツは、みんな変な姿になって一生懸命に耐えているので、それを見て教師が、全力で応援すること。
気を付けのままの子には目をくれない。
がんばって、ひざをまげて、苦しんでいる子に、「〇〇くん!がんばれ!!」と声をかける。

すると、なんだかじゃんけんに勝っても、楽しくない。
これ、ひとつの不思議。
じゃんけんには勝つのが良い、という頭の中の公式が、崩れます。


つぎ。
最後に、時間で終わらせる前に、

「楽しくやれた人!」

で終わらせる。
これは、どのゲームにもいえることだね。授業もそうかも。

楽しくやろうとする姿勢の人

に、関心を向け続ける。
その方が、可能性が広がる。

janken_boys

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