フランスの高名な人類学者クロード・レヴィ=ストロース。
彼は、かつて南の島やアマゾンの先住民たちのなかに、私有も支配もない、等身大のまま誰も傷つけずに生きる「野生の思考」を発見した。
さらに、ニュージーランドのマオリ族の間には、贈り物に宿る霊的な気配を「ハウ」と呼ぶ文化があったという。
あなたはこれを、面白い感覚だと思わないだろうか。
贈り物そのものに、「霊」が宿るというのだ。
その霊は、その贈り物を受け取った人間に、次のような気持ちを起こさせる。
「あいつからもらったから、今度はあいつにお返ししなきゃな」
「あいつはどんなものをもらったら喜ぶんだろう?」
「よし、家にあるあれとあれを使って、こんなものができないかな。それを贈ったら、あいつはきっと喜ぶだろう。」
このような気持ちが自然と湧き起こるので、この自然と湧き起こる心の動きや感覚は、「霊」か起こした、と考えたのです。
この「ハウ」の響きが、実に素晴らしい。これは近代的な「お返しをしなきゃ怒られる」という怯えの義務(圧)ではない。贈り物を受け取った人間が、次のように感じることなのだ。
「おやおや、世界の心地よいキャッチボールを自分のところで止めてはマズいぞ。自分ばかり美食を楽しんでいては気が引けるな」
これは、お腹の底からソワソワ、ワクワクすることだ。自発的に次の人へバトンを投げ返したくなるような、生き生きとしたリズムのことだ。クラ交換の本質には、他者をコントロールするようなギスギスした「圧」など1ミリも存在しない。あるのはゲームの順番が回ってきたときの、「ニヤリ」とするような心地よい緊張感だけである。
そんななか、現代の文化人類学者・松村圭一郎氏は、私たちが国や市場の「圧」に頼らなくても、日々の暮らしの貸し借りや気遣いのなかで、十分に平和な秩序を作っていけるのだと優しく説いた。
しかし、松村さんの作戦には、致命的な「うっかりミス」があった。彼はその美しい営みを、あえて「アナキズム」という物属しい劇薬のラベルを使って説明してしまったのである。
「暮らしのアナキズム」――インテリのウィットとしては座布団の一枚もあげたくなるが、社会の冷酷な監視システムをナメてはいけない。
私はそれを恐れる。
現代の高度なアルゴリズムや世間の目は、文脈など一切読まずに「アナキズム」という不穏な文字だけを検出し、ある日突然、一網打尽に「排除・削除」のレッドカードを突きつけてくるかもしれない。
これでは本当にその知恵を必要としている誠実な人々が警戒して逃げ出してしまうではないか。松村さんは、戦略として、完全にやらかしてしまったのではないか。
かと言って、他の学者たちが好む「ケア」や「福祉」「共生」といった言葉に逃げてもダメだ。
それらの言葉には「牙」がない。
資本主義の富裕層から「おやおや、弱者をいたわる優しいボランティア(チワワ)だね」と、上から目線の慈善事業として都合よく処理されて終わりである。
さらに日本人が昔から使っている「お互い様」なんていう言葉にいたっては、昭和以降の「お前も我慢しろ、俺も我慢するから」という陰湿な同調圧力の道具として使われすぎて、もはや手垢まみれの説教臭いゾンビワードに成り下がっている。
私たちに必要なのは、新しい言葉だ。
新しいフレーズが必要なのだ。
劇薬の「アナキズム」でも、牙の抜けた「ケア」でも、ゾンビの「お互い様」でもない。
マオリの「ハウ」のように人間の野生の活力を爆発させ、「お上」の検閲網を「真面目な優等生の顔」をしてすり抜ける、まったく新しい言葉の創作(ブリコラージュ)が必要なのだ。
そこで、あれこれ考えた。
新しい言葉を考えました。
日常の地べたから立ち上ってきた生命力を、誰もが「それだ!」とニヤリと納得できる、5つの言葉として今、発明しました。
これらのことを、日常的なコミュニティーの中で、少し意識するだけで、おそらく人間社会から格差とか、貧富の差とか、メジャーとかマイノリティーとか、そうしたものが少し薄くなります。
つまり、人々は、実態のあるもの、自分の気持ちに正直なものを信頼するようになり、頭の先だけで考えたことや、どこからか与えられた世間のルールと言うものには、縛られなくなるのです。
① 【 湧還(わっかん) 】
自分の持っている能力や富を「自分の所有物」として囲い込むのではなく、井戸の水がコンコンと湧き出るように、ただ自然にその場の共有財として流し出し、巡り巡ってまた自分に還っていく生命のリズム。「ケア」のような偽善っぽさはゼロ。水が湧いて流れるのは自然の摂理であり、そこにお説教の圧は存在しない。「ちょっとこれ湧いちゃったから、みんなの場所に還しとくね」と、等身大のままでニヤニヤしながら使える言葉である。
② 【 息合(いきあわせ) 】
「息が合う」を能動的に起こすこと。誰かがフッと息を吸ったら(困っていたら)、もう一人がサッと息を吐く(差し出す)ように、あ・うんの呼吸で生み出す自発的な調和。「お互い様」の我慢比べとは無縁だ。ルールで縛るのではなく、ただ同じ空間に生きる生身の人間として「呼吸のテンポを合わせるだけで、勝手に平和な空間になっちゃうよね」という、究極に無理のない身体感覚の言葉である。
③ 【 巡良(じゅんら) 】
「巡ることで、みんなが良く(心地よく)なる」の意。「自分ばかり美食では気が引ける」という、あの健康的なソワソワ感をエネルギーに変換したもの。「溜め込まずに巡らせた方が、結果として自分が一番安全で心地よい」という打算と知恵を含んでいる。弱者を救うお高くとまった姿勢ではなく、全員が「そっちの方が楽しいし、得じゃん」とニヤリと笑い合えるパワーがある。
④ 【 添流(そえながし) 】
自分の能力や富を「自分の実力だ」と威張るのではなく、「たまたま天から預かって、いま手元に余っているだけだから、サッと場に流す」という、所有の概念を根本からハックする作法。現代の「ギブ&テイク(等価交換)」という決済の圧力を完全に無効化する。「これ、今の俺の余りだから、流しとくわ」と言うだけで、受け取った側も過剰な感謝を強いられず、ただ「次は俺の番だな」という心地よい「ハウ」の余韻だけを宿すことができる。
⑤ 【 空地(くうち / あきち) 】
国家の管理(圧)も、資本主義(独占)も、理不尽な道徳も1ミリも立ち入れない、自分たちの手の届く範囲に勝手に作り出す「心理的・物理的なシェルター(防衛圏)」のこと。「アナキズム」が持つ破壊 of イメージを、完璧に無害な子供の遊び場の風景(カモフラージュ)へと反転させている。検索システムには「ただの空地」としてしか引っかからないが、その内実では、等身大の命がニヤニヤしながら交差する究極の聖域を意味している。
言葉のラベル(名前)なんてものは、外のシステムを騙すためのただの飾りだ。松村さんのように言葉のウィットに溺れて劇薬の看板を出す必要はない。本当に賢い戦略家は、外の目(検索や管理職、世間)に対しては、どこからどう見ても完全に無害で、真面目で、従順な「スーツ」を着てやり過ごす。しかし、その無害な看板の裏側で、誰にも気づかれないようにひっそりと、これらのシステムを淡々と駆動させるのだ。
これは、小学校の教室での「コミュニティづくり」にも全く同じことが言えるだろう。教室から教師の「上からの圧」を完全に消し去り、子どもたちと地続きの信頼のなかで、誰も傷つかない空間を当たり前のように作ってしまうこと。それは本来、人間として当たり前の、最も心地よい「野生の調和」のはずである。
しかし悲しいかな、これをまだ世間(大半の管理社会)は「よし」としていない。彼らは「ちゃんと圧をかけてコントロールしなさい」と迫ってくる。
だからこそ、私たちは不穏な名前など一切名乗らず、完璧に無害な顔をして、名無しのままで、この足元から世界をひっそりと、術中にはまった大人たちを尻目にニヤニヤしながら、世の中の常識を書き換え続けていくのである。
