「合理的」という言葉を子供たちと共有する。
そうすると、合理的かどうかが、話題になる。子供たちは、物事を「合理的かどうか」で捉えて、考え始める。
しかし、すぐに合理的と言うのは、よくわけのわからない言葉になってしまう。
何が合理的か?
それは大人でもよくわからないのです。
たった1つ、それを測ることのできる定規があるとすれば、
「自分や周りのみんなにとって本当に良いかどうか」
と言うたった1点。
1部の人だけ良くて、他の人が傷ついてしまうのであれば、それは本当にコミュニティー全体の利益にはならない。
あるいは、たった今、みんなが気分良くなったとしても、1ヵ月後に全員が傷つくのであれば、それは合理的とは言えない。100年後でも、1000年後でも同じだ。
と、いうわけで、私はしょっちゅう合理的、合理的と教室の中で繰り返すのであります。そして、そのたびに教室には不思議な空気が流れて、「みんなが良くなるってどういうことだろう?」という、人間のコミュニティーが、ぶつかる最大の問題が、いつも目の前に立ちはだかるわけです。
この問いからは、逃げると損です。
面倒だからとか、時間がかかるからと言う理由で逃げてはいけません。損をしてしまうからですね。
コミュニティーの将来にとっては、この問題から遠ざかったりこの問題を無視したりすることは、全体の不利益になることが決まっています。
あるいは、問題を先送りすることで、じわじわとコミュニティーの体力や健康さが失われていくわけです。
そもそも、この問いから逃げているから、30代になっても40代になっても、自分探しを続けなければいけない人が多いのではないでしょうか。
子ども時代にしっかりと毎日この問いに向き合っていれば、おそらく日本人は迷走しないでしょうね。
私は、自分自身が高校生の時に、むさぼるようにして、文化人類学の本を読み、レヴィ:ストロースの本なんぞ読みふけっておりました。
それは人間とは、何かということについて、自分なりに模索する途中だったからで、とにかく落ち着いて大人になるためには、「そもそも人間って、なんなの?」と言う問いに対して向き合う必要があったからです。
あらゆるシステムやプロパガンダに踊らされる前の人間とは。
太平洋の島に住むひとが、どのようなコミュニティーを作り、他のコミュニティーとは、どのような関係を結ぼうとしていたのか。レヴィストロースは、独自の解釈で解き明かしていくわけです。
今、私は、ふてぶてしいほどに態度が大きくなってしまいましたが、その原因は、こうした人間研究を自分ながらに、35年以上は続けてきたからでしょう。
そのために、1年生に対する態度と校長先生に対する態度が、ほぼ同一になってしまいます。どうしても同じ人間だと言う感覚が正面に出すぎてしまうからです。
合理的と言うことについて考えれば考えるほど、あの人とこの人が対等だと言う風な気分が増えてしまいます。
有名な人ほど偉くて、身分が高い方が良いのだと言う考えは、レヴィ、ストロースの本を読めば、消えてしまいます。
そして、教室にいるありとあらゆる子供が全て対等だと言う事と、私自身も含めて対等だと言う気分が、あまりにも当たり前のようにして存在するのです。
そして、もし学級で、「合理的」と言う言葉で、何かを判断しようとするのならば、お互いが一寸の狂いもなく対等だ、というところから始めなければ、その合理的の意味はなくなってしまいます。
合理的だと叫ぶ人の、内面が試されるわけです。

そうすると、合理的かどうかが、話題になる。子供たちは、物事を「合理的かどうか」で捉えて、考え始める。
しかし、すぐに合理的と言うのは、よくわけのわからない言葉になってしまう。
何が合理的か?
それは大人でもよくわからないのです。
たった1つ、それを測ることのできる定規があるとすれば、
「自分や周りのみんなにとって本当に良いかどうか」
と言うたった1点。
1部の人だけ良くて、他の人が傷ついてしまうのであれば、それは本当にコミュニティー全体の利益にはならない。
あるいは、たった今、みんなが気分良くなったとしても、1ヵ月後に全員が傷つくのであれば、それは合理的とは言えない。100年後でも、1000年後でも同じだ。
と、いうわけで、私はしょっちゅう合理的、合理的と教室の中で繰り返すのであります。そして、そのたびに教室には不思議な空気が流れて、「みんなが良くなるってどういうことだろう?」という、人間のコミュニティーが、ぶつかる最大の問題が、いつも目の前に立ちはだかるわけです。
この問いからは、逃げると損です。
面倒だからとか、時間がかかるからと言う理由で逃げてはいけません。損をしてしまうからですね。
コミュニティーの将来にとっては、この問題から遠ざかったりこの問題を無視したりすることは、全体の不利益になることが決まっています。
あるいは、問題を先送りすることで、じわじわとコミュニティーの体力や健康さが失われていくわけです。
そもそも、この問いから逃げているから、30代になっても40代になっても、自分探しを続けなければいけない人が多いのではないでしょうか。
子ども時代にしっかりと毎日この問いに向き合っていれば、おそらく日本人は迷走しないでしょうね。
私は、自分自身が高校生の時に、むさぼるようにして、文化人類学の本を読み、レヴィ:ストロースの本なんぞ読みふけっておりました。
それは人間とは、何かということについて、自分なりに模索する途中だったからで、とにかく落ち着いて大人になるためには、「そもそも人間って、なんなの?」と言う問いに対して向き合う必要があったからです。
あらゆるシステムやプロパガンダに踊らされる前の人間とは。
太平洋の島に住むひとが、どのようなコミュニティーを作り、他のコミュニティーとは、どのような関係を結ぼうとしていたのか。レヴィストロースは、独自の解釈で解き明かしていくわけです。
今、私は、ふてぶてしいほどに態度が大きくなってしまいましたが、その原因は、こうした人間研究を自分ながらに、35年以上は続けてきたからでしょう。
そのために、1年生に対する態度と校長先生に対する態度が、ほぼ同一になってしまいます。どうしても同じ人間だと言う感覚が正面に出すぎてしまうからです。
合理的と言うことについて考えれば考えるほど、あの人とこの人が対等だと言う風な気分が増えてしまいます。
有名な人ほど偉くて、身分が高い方が良いのだと言う考えは、レヴィ、ストロースの本を読めば、消えてしまいます。
そして、教室にいるありとあらゆる子供が全て対等だと言う事と、私自身も含めて対等だと言う気分が、あまりにも当たり前のようにして存在するのです。
そして、もし学級で、「合理的」と言う言葉で、何かを判断しようとするのならば、お互いが一寸の狂いもなく対等だ、というところから始めなければ、その合理的の意味はなくなってしまいます。
合理的だと叫ぶ人の、内面が試されるわけです。
