「〇〇ちゃんが、⬜︎⬜︎すべきでしょ!」
これ、小学校3年生の発言です。
私は、混乱して不思議な気持ちになりました。
9歳でも、〜するべき、という、【言い回し】をするんや・・・
私は、ここでちょっと、気を引き締めないとなと思ったのを覚えています。つまりこういう言い方をする子は、何かしらの救助要請サインを出しているわけですよね。そのサインをしっかり受け止めないと、と。
大人の世界でも、〇〇すべきだ、とか、〇〇であるべきだと言うことがありますよね。
この言い方をする場合は、かなり精神的には弱い状況であることが想定されます。何かストレスを感じていたり、心的不安を抱えていたり、無力感を抱えている場合に多い言い回しだと思います。
「〇〇であるべきだ」
これは合理的精神とは呼べません。
〇〇であるべきだ、と、いうものが、先に来てしまうと、目の前のことを正確に正しく把握する必要がないと言う状態になるからです。
目の前のものが、丸であろうが、三角であろうが、そんなものはどうでもよくて、「四角であるべきなんだ」と言えば良くなってしまうからです。
自分のクラスメートに対して、
「〇〇くんは、⬜︎⬜︎するべき」
と高々と宣言をする子。
この、9歳の子も、結局はこのロジックの罠に、ハマっております。自分では気がついていないんですけどね。
合理的精神と言うのは、丸のものを丸だと認識することです。三角ものを三角だと認識することです。合理的精神はまずそこから始まるのです。
具体的には、
「なんで、腹が立つんや?」
ということかと思います。
「自分の感情を相手のせいにする」
のは、なぜか?
私はおそらく30年以上考え続けてるんですけど、今のところこの2つかかな、と。
① 自分の内面を観察する力(自己共感)が育っていない
②「感情は外から来るもの」という世界観を刷り込まれている
そしてこれらはすべて「共感能力」の問題と直結しています。
なぜなら、
他者に共感する力と、
自分の感情を客観的に見つめる力は、同じ能力の表裏だから、ですね。
共感される経験 → 自分の感情を認識できる → 他者の感情も認識できる → 共感できる
・・・ということ。自分の感情を認識できるから、相手の気持ちも認識できて共感できるわけですね。
国語の授業をしていても、読み取りの深さは、ものすごく違うことがわかります。モチモチの木でも、主人公の少年に、うんと共感できる子もいれば、「へえ、大変だったね」としか思わないレベルの子もいます。
感情の認識と言うのは、かなりレベル差がある話、なわけですな。
「共感する」は、なかなか、誰でも簡単にできる話ではない。
それを共感できないなんてと怒るのも、まったくの的外れです。共感できるってエベレストの山を登る位長く過酷なストーリーなんですよ。それを誰でも簡単にできると思ってもらっては・・・
共感するためには:
① 自分の感情を正確に識別できる
② 相手の感情を正確に読み取れる
③ その感情に適切に応答できる
と言うステップが必要になります。
保育園の先生が若いお母さんに向かって、色々と助言しているシーンを見たことがあります。
それはね、保育園の先生は鍛えられてますから、子どもへ共感することができるんですよ。しかし若いお母さんはなかなか共感できないわけです。当たり前ですよ。訓練してないんですから。
どうでしょうか?
コレが普通です。
ただし、訓練次第で、子供の鳴き声は不快にはならなくなります。不快な感情よりも先に、共感が先に来るから、ですね。
というか、「なんで!」というような、相手につっかかるような気持ちが雲散霧消すると、残るのは共感しかなくなります。

これ、小学校3年生の発言です。
私は、混乱して不思議な気持ちになりました。
9歳でも、〜するべき、という、【言い回し】をするんや・・・
私は、ここでちょっと、気を引き締めないとなと思ったのを覚えています。つまりこういう言い方をする子は、何かしらの救助要請サインを出しているわけですよね。そのサインをしっかり受け止めないと、と。
大人の世界でも、〇〇すべきだ、とか、〇〇であるべきだと言うことがありますよね。
この言い方をする場合は、かなり精神的には弱い状況であることが想定されます。何かストレスを感じていたり、心的不安を抱えていたり、無力感を抱えている場合に多い言い回しだと思います。
「〇〇であるべきだ」
これは合理的精神とは呼べません。
〇〇であるべきだ、と、いうものが、先に来てしまうと、目の前のことを正確に正しく把握する必要がないと言う状態になるからです。
目の前のものが、丸であろうが、三角であろうが、そんなものはどうでもよくて、「四角であるべきなんだ」と言えば良くなってしまうからです。
自分のクラスメートに対して、
「〇〇くんは、⬜︎⬜︎するべき」
と高々と宣言をする子。
この、9歳の子も、結局はこのロジックの罠に、ハマっております。自分では気がついていないんですけどね。
合理的精神と言うのは、丸のものを丸だと認識することです。三角ものを三角だと認識することです。合理的精神はまずそこから始まるのです。
物理的な事だけではありません。人間の感情も、そうです。
さて、ここからが人類の大きな問題に差し掛かるんですナ。なぜなら、感情と言うのは自分が引き起こしているんですが、それを相手の責任だと、感じることがとても多いわけです。具体的には、
「なんで、腹が立つんや?」
ということかと思います。
「自分の感情を相手のせいにする」
のは、なぜか?
私はおそらく30年以上考え続けてるんですけど、今のところこの2つかかな、と。
① 自分の内面を観察する力(自己共感)が育っていない
②「感情は外から来るもの」という世界観を刷り込まれている
そしてこれらはすべて「共感能力」の問題と直結しています。
なぜなら、
他者に共感する力と、
自分の感情を客観的に見つめる力は、同じ能力の表裏だから、ですね。
共感される経験 → 自分の感情を認識できる → 他者の感情も認識できる → 共感できる
・・・ということ。自分の感情を認識できるから、相手の気持ちも認識できて共感できるわけですね。
国語の授業をしていても、読み取りの深さは、ものすごく違うことがわかります。モチモチの木でも、主人公の少年に、うんと共感できる子もいれば、「へえ、大変だったね」としか思わないレベルの子もいます。
感情の認識と言うのは、かなりレベル差がある話、なわけですな。
「共感する」は、なかなか、誰でも簡単にできる話ではない。
それを共感できないなんてと怒るのも、まったくの的外れです。共感できるってエベレストの山を登る位長く過酷なストーリーなんですよ。それを誰でも簡単にできると思ってもらっては・・・
共感するためには:
① 自分の感情を正確に識別できる
② 相手の感情を正確に読み取れる
③ その感情に適切に応答できる
と言うステップが必要になります。
保育園の先生が若いお母さんに向かって、色々と助言しているシーンを見たことがあります。
それはね、保育園の先生は鍛えられてますから、子どもへ共感することができるんですよ。しかし若いお母さんはなかなか共感できないわけです。当たり前ですよ。訓練してないんですから。
子どもが泣く
→ 親の中に不快感が生じる
→ その不快感を処理する能力がない
→ 「この不快感の原因=子どもの泣き声」と認識
→ 「泣き声を止めれば不快感が消える」
→ 「泣くな!」と怒鳴る
どうでしょうか?
コレが普通です。
ただし、訓練次第で、子供の鳴き声は不快にはならなくなります。不快な感情よりも先に、共感が先に来るから、ですね。
というか、「なんで!」というような、相手につっかかるような気持ちが雲散霧消すると、残るのは共感しかなくなります。
