その日、事件は昼休みのあとに起きた。


一人の小さな人間が、汗だくで、息を切らして、両手を丸めて駆けてきた。

「先生! これなんて虫!?」

手のひらの隙間から、なにやらモゾモゾしたものが覗いている。触覚が一本、ぴょこっと出ている。正直に言おう。私にはわからない。わからないし、今はちょっと、面倒くさい。

だから言った。

「名前なんて、勝手につけたら?」

私としては、軽い一言だった。お茶を飲みながらの、片手間の発言だった。

ところが。

その子は、目を丸くした。

まるで私が「明日から学校は火曜だけ休みにする」とでも言ったかのように。まるで物理法則が変わったかのように。あの顔を、私は忘れない。驚愕。困惑。そしてかすかな——恐怖。

「……勝手につけたら、ダメでしょ?」

ダメ。

この七歳が「ダメ」と言ったのだ。虫に名前をつけることが、ダメだと。誰が決めた? 文部科学省か? 昆虫学会か? お母さんか? Googleか?

私は少し身を乗り出して言った。

「ダメじゃないよ。あなたが勝手につけても、平気だよ」

その子の目は、さらに丸くなった。もうこれ以上丸くなったら球体である。


        *


そのとき、教室の反対側から声がした。

「見てー! モシャモシャ虫だー!」

同じクラスの別の子が、同じような虫を高々と掲げて、満面の笑みで走り回っていた。モシャモシャ虫。学名も和名もない。図鑑のどこにも載っていない。だが、その子にとっては、それはもう確定的に、絶対的に、宇宙の真理として、モシャモシャ虫だった。

同じ教室。同じ年齢。同じ虫。

片方は「名前をつけてはいけない」と怯え、
片方は「モシャモシャ虫だー!」と叫んでいる。

私はそのとき、お茶を持ったまま、ふと思った。

——この違いは、いったいなんだ?


        *


ドイツに、ハルトムート・ローザという社会学者がいる。

イエナ大学の教授で、やたらと分厚い本を書く人だ。彼の代表作『共鳴(Resonanz)』は約800ページある。800ページかけて、彼が言いたいことを乱暴にまとめると、こうだ。

「世界と、ちゃんと響き合えていますか?」

800ページを一行にしてしまって申し訳ないが、本質はここにある。

ローザによれば、現代社会は「加速(Beschleunigung)」の病に冒されている。もっと速く、もっと多く、もっと効率的に。私たちは走り続けている。だが、走れば走るほど、世界は「ただの背景」になっていく。風景は車窓を流れるだけ。食事は胃に収まるだけ。虫は「正しい名前で分類されるべき対象」になるだけ。

世界が、黙るのだ。

ローザはこの状態を「疎外(Entfremdung)」と呼ぶ。世界が私に何も語りかけてこない。私も世界に何も語りかけない。すべてが、ただ「処理」される。

その反対が、「共鳴(Resonanz)」だ。

共鳴とは、世界が私に呼びかけ、私がそれに応答し、その結果、お互いが少し変わること。一方通行ではない。コントロールでもない。予測不能で、壊れやすくて、だからこそ美しい、双方向の振動。


        *


さて。あの教室に戻ろう。

「モシャモシャ虫だー!」と叫んだ子。

この子は、虫と共鳴していた。

虫のモゾモゾした動き、触覚のぴょこぴょこ、手のひらに感じるくすぐったさ。それらが子どもに呼びかけ、子どもはそれに全身で応答した。その応答の結晶が、「モシャモシャ虫」という名前だ。

この名前は正確か? いいえ。
学術的か? いいえ。
図鑑に載るか? 絶対に載らない。

だが、この名前には、世界との出会いの震えが刻まれている。この子とこの虫の間に、一瞬、共鳴の軸が通ったのだ。

モシャモシャ虫という名前は、その子だけの、その瞬間だけの、かけがえのない共鳴の記録である。


        *


一方。

「勝手につけたらダメでしょ」と言った子。

この子を責めることは、誰にもできない。なぜなら、この子は正しく学習したのだ。現代社会のルールを。

ローザ風に言えば、この子はすでに「加速社会の文法」を内面化している。

モノには正しい名前がある。間違えてはいけない。調べなさい。確認しなさい。Googleしなさい。正解は一つ。それ以外は「間違い」。知識とは、世界にすでに貼られたラベルを正確に暗記することだ——。

七歳にして、この子はもう、世界を「攻略すべき対象」として見始めている。

虫は、出会うものではなく、同定するものになった。
名前は、つけるものではなく、調べるものになった。
世界は、響き合う相手ではなく、正解が書かれたデータベースになった。

これは、七歳の責任ではない。

これは、私たち大人が作った世界の反映だ。


        *


ここで、私は思う。

私たち大人——消費者として生きている大人たちは、全員、あの「目を丸くした子」の側にいないか?

車を買うとき、私たちは「名前をつける」だろうか?
しない。
服も、食べ物も、暮らし方も。
すべてに「正式名称」がついていて、私たちはそれを正確に覚え、正確に比較し、正確に購入する。レビューを読み、スペックを比べ、コスパを計算する。

それは「モシャモシャ虫」の対極にある行為だ。

私たちは、モノに名前をつける権利を、いつの間にか明け渡してしまった。メーカーに。ブランドに。市場に。アルゴリズムに。

ローザなら、こう言うだろう。

「あなたたちは、世界中のモノに囲まれながら、何一つと共鳴していない。」

厳しい。だが、たぶん、正しい。


        *


ただし。

ここに一つ、希望がある。

私のクラスには、二種類の子どもがいた。「ダメでしょ」の子と、「モシャモシャ虫」の子だ。そして、「ダメでしょ」の子は、私が「勝手につけても平気なんだ」と言ったとき、目を丸くした。

あの「目を丸くした」瞬間。

あれこそが、共鳴の扉が開きかけた瞬間だったのではないか。

驚きとは、世界が突然、予想外の声で語りかけてきたときに起こる。あの子の中で、何かが揺れた。「え、いいの?」という驚きの奥に、「もしかして、私が名前をつけても、世界は怒らないの?」という、小さな、おそるおそるの問いが芽生えた。

共鳴は、強制できない。ローザ自身がそう言っている。共鳴は、「起こる」か「起こらない」かであって、スイッチのようにオンにはできない。

だが、「起こりやすい場」を作ることはできる。

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