サンタクロースに関しては、1年生を担任した時が一番面白かった。
クラスで2時間くらい討論した。
どこから家に入るのか?
問いの立て方が、具体的だった。
サンタって、何だろう?というような、ふわっとした問いなら、あんなに盛り上がらなかったと思う。
ところが、この時の問いは違った。
「サンタはどこから家に入るのか」
この問いは、とても具体的だった。
私が問いを立てるときに気をつけていることがある。
数学者の岡潔が本で書いていたことだ。
「問いを静かに3回繰り返して唱えろ。その間に複雑化するようであれば良い問いだとは言えない。しかしその間にシンプルに定まるようであれば良い問いだ」
色々と注釈をつけたくなったり、頭の中で解説が始まったり、枝葉の部分が増えるようであれば、それはまだ吟味されていない問いなのだ。
そして、問いと言うのは、自分の中心から発するものであるべきで、よそからの借り物ではまずい。岡潔は数学者だから、思考そのものに美しさを求めた。
さて、「サンタはどこから家に入るのか」という問いは、「サンタは何者か」という問いとは大違いである。それは、whatやwhyを問うような、東洋的な思想ではなく、How toを問う。近代の合理性に基づく、西洋的な科学的な思考であります。
従って、非常に教室の中での討論には向いている。
実際に教室の中で問うべきなのは、こういった西洋的なハウツーを話題にするのが良い。様々なアイディアが出てきても、合理性と言う1点で、全員の納得を得られる【解】が存在するからだ。
ところが、教師側が誤って、東洋的な思想を用いて、「サンタとは何者だろうか?」と言う問いを立ててしまうと、それはどこにも合理性を見出すことができず、全員が合理性と言う1点を指針にすることができなくなり、どんな解でも、それぞれの納得と言うものがあれば、それで良いと言うことになってしまう。つまりこの時の討論は、話題は広がるが、収束はしなくなる。
以前の記事に、小学1年生がこの討論をしたときのことを載せた。反響がずいぶんあり、先生の仲間から、「私もやってみました。面白かったです。」と言ってもらったりして、なるほど。問いの立て方は大事だなぁと勉強になった。
3年生の教室で、給食の時間にふと話題になったのが、サンタのそりは、なぜ飛べるのかと言う点であった。
これは、「サンタのソリは、どのような仕組みで飛んでいるのだろうか」と言う問いにすることができる。これはかなりシンプルである。岡潔のように、静かに3回繰り返しても、心の中で複雑にはならない。
これを言い出した子は、ただの面白いことを言った、ちょっと受けた、と言うだけでおしまいにするつもりだったようだ。話題にして30秒も持てば大丈夫、と言うつもりだったと思う。
ところが、私は、その問いが面白すぎて、次の時間に、15分ぐらい使って、みんなに紙を配ってその理由を書いてもらうことにした。
クラスの半数以上が、西洋的な魔法を信じていることがわかった。サンタが主体的な態度により、ソリとトナカイに、ある魔法をかけているのです。それは、魔法の粉とも言うべきもので、実際にディズニーの映画もしくはアニメの中で、サンタが、魔法の粉をふりかけたのを見ている子が何人もいました。
ここからが大事なんですが、多くの子がその行為によって、「あ!だから、そりは飛ぶことができているのだー」と納得をしたということなんです。彼らは西洋的な理解の仕方をしています。ソリは自分の知っているソリと同じです。しかし、そのソリには、具体的に粉を振りかけられたので、デバイスが、その能力を得たということです。
さらに、3割ほどの子は、理由はないが、なんとなくサンタの存在ってそんなもんなんでしょ、なんか神がかってるんでしょサンタって。
・・・という、東洋的な理解を示していました。天女が飛ぶのと、同じ納得の仕方です。あるいは浦島太郎で亀が喋るのと同じで、なんかそういったもんなんでしょと言う理解です。
ソリというデバイスに、何か具体的な、納得のできるような工夫があるのかどうかは問わないのです。「なんかそうらしい」と言う、曖昧模糊とした納得の仕方でも、大丈夫だと言う層が3割いるわけです。
少数派でしたが、クラスの1割ほどは、よくトレーニングされたトナカイが、生体デバイスとしてグレードを上げるのだと言っていました。
「にんじん食べるでしょ?」
私は古い人間で昭和生まれなので、このことを知らなかったのですが、何か、クリスマス・イブの夜ににんじんを屋外に吊り下げると言う風習があるんですか?
イブの夜、西洋の子どもたちはトナカイのために「ニンジン」を外に置いておきます。これを食べることでトナカイが超人的なパワーを得る、という説明です。
この子たちも、ただ単に、いきなりトナカイが、重たいそりとともに、空中に飛ぶわけがないと信じているわけです。
これを納得させる何かしらの処方が必要となったわけで、そこで西洋の大人社会は、イヴの夜にイベントを仕掛けます。窓の外ににんじんをぶら下げるのです。すると、世界中の子供たちがにんじんをぶら下げることになり、その子供たちの夢の詰まったにんじんを食べることにより、デバイスに変化が生じ、トナカイは空を飛べると言うことです。これは西洋理解です。
そのため、こんなふうには思わないのです。
「トナカイってのは、たまには空を飛ぶんだよ」
サンタとはそういうものだ、と言う理解はしないんですね。というかできないのです。これは西洋の合理的知性が、「そんなわけないだろう」と、否定するからですね。
ところが、東洋の子供たちは納得を先にします。天女は空を飛ぶんです。そして、龍は、風と雲をあやつって、自在に空を飛べるんです。羽がなくても。
今、クラスには、西洋的な理解で納得する子が半分、東洋的な理解で納得する子が半分。
つまり、2025年のクリスマス時点では、日本と言うのは、ちょうどその半々、中間の地点に、国民性としては位置しているんではないかと思います。
西洋の子供たちは、Howを問うことを鍛えます。
東洋の子供たちは、どちらかと言うとそうではなくて、どうしてプレゼントを配るんだろう、というような哲学、サンタの存在意義は何か、という問いをもち、全体的なストーリーとして「理解」しようとすると思います。まずは不思議な存在を受け止め受容しようとする気がします。
昭和の子どもも、TBSで放送していた、まんが日本昔ばなしで、龍の子太郎がでんでん太鼓を持って、龍の背中に乗って飛んで行きますが、あの龍には羽根なんて生えてません。それでも飛ぶことにみんな納得していたわけです。
これは合理性とは言えませんね。龍の持つ精神性と、神通力と、雲や風と言う自然の力と、「気」の流れで、ストーリーとして、龍が飛ぶのは、あり得る、と納得するのが、昔からの日本人の性質です。
「あの龍、羽が無いのに、飛ぶわけねーだろ」
と、騒ぎになった事はありません。
ところが、西洋の子供たちは違います。あくまでも合理性を追求したくなる心理性を持っております。だから、アメリカ合州国の子どもに、あのオープニングの動画を見せると、
「このドラゴン、羽が生えとらんやんけ」
と言うそうです。
確かに、エルマーと龍でも、あのドラゴンには羽根が生えていますもんね。デバイスのほうに、何か仕掛けがない限り、飛ぶわけないだろと思うわけです。だからエルマーとりゅうの挿絵では、龍はしっかりと羽を動かして飛んでおります。
東洋的理解と西洋的合理性、どちらが優れているかは分かりません。
風と気をあやつる龍と、羽を動かすドラゴン。
どこに重点を置くかが異なる国民性なわけです。
ここが、トヨタとテスラの違いです。
Appleは、東洋思想を重視したスティーブ・ジョブズがいましたので、その中間に位置します。
話が長くなったので、トヨタとテスラの違いはまた今度しますね。

クラスで2時間くらい討論した。
どこから家に入るのか?
問いの立て方が、具体的だった。
サンタって、何だろう?というような、ふわっとした問いなら、あんなに盛り上がらなかったと思う。
ところが、この時の問いは違った。
「サンタはどこから家に入るのか」
この問いは、とても具体的だった。
私が問いを立てるときに気をつけていることがある。
数学者の岡潔が本で書いていたことだ。
「問いを静かに3回繰り返して唱えろ。その間に複雑化するようであれば良い問いだとは言えない。しかしその間にシンプルに定まるようであれば良い問いだ」
色々と注釈をつけたくなったり、頭の中で解説が始まったり、枝葉の部分が増えるようであれば、それはまだ吟味されていない問いなのだ。
そして、問いと言うのは、自分の中心から発するものであるべきで、よそからの借り物ではまずい。岡潔は数学者だから、思考そのものに美しさを求めた。
さて、「サンタはどこから家に入るのか」という問いは、「サンタは何者か」という問いとは大違いである。それは、whatやwhyを問うような、東洋的な思想ではなく、How toを問う。近代の合理性に基づく、西洋的な科学的な思考であります。
従って、非常に教室の中での討論には向いている。
実際に教室の中で問うべきなのは、こういった西洋的なハウツーを話題にするのが良い。様々なアイディアが出てきても、合理性と言う1点で、全員の納得を得られる【解】が存在するからだ。
ところが、教師側が誤って、東洋的な思想を用いて、「サンタとは何者だろうか?」と言う問いを立ててしまうと、それはどこにも合理性を見出すことができず、全員が合理性と言う1点を指針にすることができなくなり、どんな解でも、それぞれの納得と言うものがあれば、それで良いと言うことになってしまう。つまりこの時の討論は、話題は広がるが、収束はしなくなる。
以前の記事に、小学1年生がこの討論をしたときのことを載せた。反響がずいぶんあり、先生の仲間から、「私もやってみました。面白かったです。」と言ってもらったりして、なるほど。問いの立て方は大事だなぁと勉強になった。
3年生の教室で、給食の時間にふと話題になったのが、サンタのそりは、なぜ飛べるのかと言う点であった。
これは、「サンタのソリは、どのような仕組みで飛んでいるのだろうか」と言う問いにすることができる。これはかなりシンプルである。岡潔のように、静かに3回繰り返しても、心の中で複雑にはならない。
これを言い出した子は、ただの面白いことを言った、ちょっと受けた、と言うだけでおしまいにするつもりだったようだ。話題にして30秒も持てば大丈夫、と言うつもりだったと思う。
ところが、私は、その問いが面白すぎて、次の時間に、15分ぐらい使って、みんなに紙を配ってその理由を書いてもらうことにした。
クラスの半数以上が、西洋的な魔法を信じていることがわかった。サンタが主体的な態度により、ソリとトナカイに、ある魔法をかけているのです。それは、魔法の粉とも言うべきもので、実際にディズニーの映画もしくはアニメの中で、サンタが、魔法の粉をふりかけたのを見ている子が何人もいました。
ここからが大事なんですが、多くの子がその行為によって、「あ!だから、そりは飛ぶことができているのだー」と納得をしたということなんです。彼らは西洋的な理解の仕方をしています。ソリは自分の知っているソリと同じです。しかし、そのソリには、具体的に粉を振りかけられたので、デバイスが、その能力を得たということです。
さらに、3割ほどの子は、理由はないが、なんとなくサンタの存在ってそんなもんなんでしょ、なんか神がかってるんでしょサンタって。
・・・という、東洋的な理解を示していました。天女が飛ぶのと、同じ納得の仕方です。あるいは浦島太郎で亀が喋るのと同じで、なんかそういったもんなんでしょと言う理解です。
ソリというデバイスに、何か具体的な、納得のできるような工夫があるのかどうかは問わないのです。「なんかそうらしい」と言う、曖昧模糊とした納得の仕方でも、大丈夫だと言う層が3割いるわけです。
少数派でしたが、クラスの1割ほどは、よくトレーニングされたトナカイが、生体デバイスとしてグレードを上げるのだと言っていました。
「にんじん食べるでしょ?」
私は古い人間で昭和生まれなので、このことを知らなかったのですが、何か、クリスマス・イブの夜ににんじんを屋外に吊り下げると言う風習があるんですか?
イブの夜、西洋の子どもたちはトナカイのために「ニンジン」を外に置いておきます。これを食べることでトナカイが超人的なパワーを得る、という説明です。
この子たちも、ただ単に、いきなりトナカイが、重たいそりとともに、空中に飛ぶわけがないと信じているわけです。
これを納得させる何かしらの処方が必要となったわけで、そこで西洋の大人社会は、イヴの夜にイベントを仕掛けます。窓の外ににんじんをぶら下げるのです。すると、世界中の子供たちがにんじんをぶら下げることになり、その子供たちの夢の詰まったにんじんを食べることにより、デバイスに変化が生じ、トナカイは空を飛べると言うことです。これは西洋理解です。
そのため、こんなふうには思わないのです。
「トナカイってのは、たまには空を飛ぶんだよ」
サンタとはそういうものだ、と言う理解はしないんですね。というかできないのです。これは西洋の合理的知性が、「そんなわけないだろう」と、否定するからですね。
ところが、東洋の子供たちは納得を先にします。天女は空を飛ぶんです。そして、龍は、風と雲をあやつって、自在に空を飛べるんです。羽がなくても。
今、クラスには、西洋的な理解で納得する子が半分、東洋的な理解で納得する子が半分。
つまり、2025年のクリスマス時点では、日本と言うのは、ちょうどその半々、中間の地点に、国民性としては位置しているんではないかと思います。
西洋の子供たちは、Howを問うことを鍛えます。
東洋の子供たちは、どちらかと言うとそうではなくて、どうしてプレゼントを配るんだろう、というような哲学、サンタの存在意義は何か、という問いをもち、全体的なストーリーとして「理解」しようとすると思います。まずは不思議な存在を受け止め受容しようとする気がします。
昭和の子どもも、TBSで放送していた、まんが日本昔ばなしで、龍の子太郎がでんでん太鼓を持って、龍の背中に乗って飛んで行きますが、あの龍には羽根なんて生えてません。それでも飛ぶことにみんな納得していたわけです。
これは合理性とは言えませんね。龍の持つ精神性と、神通力と、雲や風と言う自然の力と、「気」の流れで、ストーリーとして、龍が飛ぶのは、あり得る、と納得するのが、昔からの日本人の性質です。
「あの龍、羽が無いのに、飛ぶわけねーだろ」
と、騒ぎになった事はありません。
ところが、西洋の子供たちは違います。あくまでも合理性を追求したくなる心理性を持っております。だから、アメリカ合州国の子どもに、あのオープニングの動画を見せると、
「このドラゴン、羽が生えとらんやんけ」
と言うそうです。
確かに、エルマーと龍でも、あのドラゴンには羽根が生えていますもんね。デバイスのほうに、何か仕掛けがない限り、飛ぶわけないだろと思うわけです。だからエルマーとりゅうの挿絵では、龍はしっかりと羽を動かして飛んでおります。
東洋的理解と西洋的合理性、どちらが優れているかは分かりません。
風と気をあやつる龍と、羽を動かすドラゴン。
どこに重点を置くかが異なる国民性なわけです。
ここが、トヨタとテスラの違いです。
Appleは、東洋思想を重視したスティーブ・ジョブズがいましたので、その中間に位置します。
話が長くなったので、トヨタとテスラの違いはまた今度しますね。
