認知と言うのは、非常に大きなテーマ。
同じ現象を見ても、1人はAを見ていて、もう1人はBを見ているから、結論が真反対になることもある。
子供時代にこういったことをしっかりと勉強しておくのは、その子の人生にとって非常に役に立つと思う。

そこで道徳の授業では、認知理論を取り入れることにする。といっても、そんなに難しいことではなく、盲人が象を撫でるときの例えを何度も繰り返すだけです。
しかし、子どもにはこの授業は非常にウケが良い。本当だ、この間もこんなことがあったと言うように、子ども同士で話が尽きないように盛り上がってくる。

給食のカレーは辛いかどうかでも、それぞれの主張が異なる。同じものを食べてるんでしょう。どっちかに決めてよ、同じものなんだから、同じ結論が出るでしょう、と私は煽る。
ところが、最初は、そのセリフを素直に聞いていた子供たちが、

「同じものを食べても、人によって感じ方は違うんだから、このカレーは辛い、ってわけじゃないよ」

と、小学校3年生でも全員が全員、そう言うようになってくる。

給食の時に、ミルメーク、というのが出た。
これを牛乳の中に溶かして飲むと最高においしい(甘い)。

ところが、これが苦手だと言う子が、クラスには1人いる。これがなんとも不思議だ。

その子に全員が全員不思議そうに尋ねている。
「えっちゃんなんでミルメイク残すの?」
すると、その子は、何とか苦労して、その理由らしきものをひねり出す。
要するに、あんまり美味しくないと言う意味の言葉だ。

これも道徳の授業の時に取り上げると、様々な意見が出てくる。

おいしいとか美味しくないとか、そんなのは人の感覚なんだから、ミルメークがおいしい、と言ってしまってはダメで、私はおいしいと思うと言う意見なら言えるはずだ、と認知についての考えをしっかりと整理できる子が出てくる。

「だから、ミルメークは美味しい、というのは良くないんだよ。そうじゃあないんだから」

とか、言う。

それを聞いて私は黒板に大きな図を書き、ミルメークをど真ん中に書いて、これはなあに?と尋ねる。

「それはミルメーク!」

わたしが
「では、これは美味しいものとは・・・」
と水を向けると
「そうは言えない!」
「あ、そう。じゃあまずいものと・・・」
「それも言えない!」

世の中のすべてのものって、みんな良いものだとか、悪いものだとか、おいしいものだとか、まずいものだとか、青いとか黄色とか、難しいとか簡単とかいろいろ言うよね。じゃあ、そういうのって・・・

「それがそうと言うわけでなくって、自分はそう思ったってこと」

この授業の後に、子供たちがまとめた振り返り用紙が面白かったです。

ある子か書いたのは、

「自分は大きな丸いシャボン玉のようなボールの中にいるみたいです。それがからいかどうかは本当はわからないのに、私はからいとか辛くないとか言います。だから本当はシャボン玉の外の事はよくわかってないと思います」

これは、プラトンの洞窟の例えに少し似ていて面白い。
小学校3年生だから、もちろん哲学の話をしたり、勉強したりは一切ない。
でも、その中身とよく似たような事はちゃんと考えることができている。私はなぜこのカレーを辛いと言っちゃうんだろう。私はそう思ったと言えばいいのに・・・。つい、このカレーは辛いよね、と言ってしまっている。

それだけでも小学校3年生で45分間の授業は白熱する。イデアの世界への本の入り口が道徳の授業にはある。

道徳の教科書の中身を見てみると、ほとんどがこういう話が多い。Aさんにとっては丸く見えるものがBさんにとっては四角く見えると言うものだ。

こういう授業を繰り返していると、私は一切そんな言葉を使ってないのに、子供から出てくる言葉があります。それが・・・

キメツケ。

私はこの4文字の言葉を聞くと、なんだかしばらく、遠くの景色を眺めていたくなる。

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