東京の、とある公立小学校は、夏休みの宿題を全廃したらしい。
また日本中を見渡すと、全校児童とまではならなくとも、学年単位で先生たちが話し合って、止める学年があったり、継続する学年があったりと、そういう学校は、かなり多くあるらしい。

小学生中学生の子どもを持つ親にとっては、この問題はなかなかに、気をやきもきさせる問題である。

私は、この宿題問題は、文科省が裏で手を回していると思う。
従来のような知識の量や正確さを問うことを学力と言うのではないことにしたいのは、なんといっても文科省である。

中教審で、多くの大学の先生たち、アカデミックな先生たちが、文科省で提言していたのも、学力という言葉を、従来の色から変えていこうと言う話ばかりであります。

文部科学省が提唱する「学力」は、いわゆる教科の点数、という意味ではない。
単に知識を暗記していることだけでなく、より幅広い能力を含んだもの。これを文科省では「確かな学力」と呼び、以下の3つの要素から構成されると説明している。
 * 知識及び技能: 「何を知っているか、何ができるか」という、基礎的・基本的な知識や技能のこと。
 * 思考力・判断力・表現力等: 「知っていること・できることをどう使うか」という、知識や技能を活用して課題を解決したり、自分の考えをまとめたりする力のこと。
 * 学びに向かう力、人間性等: 「どのように社会や世界と関わり、よりよい人生を送るか」という、学ぶ意欲や、自ら課題を見つけて主体的に学習に取り組む態度、多様な人々と協働する力などのこと。

ところが、一向に世の中に浸透しない。
「学力」といえば、多くの人はこれまで通り、教科のテストの点数を思い浮かべる。

それは当たり前だ。これまで100年以上ギチギチにそのシステムで進めてきてしまったからだ。戦時中の軍隊のシステムもすべてそうであった。高度経済成長も全てそうであった。脳髄に染み込んだこの考え方を根底から変えていこうと言うのだから、大変に決まっている。

手元にスマホがあれば、いわゆる知識にすぐにアクセスできる。
これからの世の中、コンピューターを手元に持って、AIと一緒になって仕事をしていくようになる。それが世の中の人の当たり前、スタンダードになっていく。
このことに、まだ、学校社会や人間社会全般がついていけてない。

だから、保護者がしっかりとドリルをやらせましょうと言うことに対して、どちらかと言うと賛成になるのはうなずける。
実際に宿題をなくした学校は、保護者から大いなる突き上げをくらったらしい。「なぜ宿題を出さないのか、出すのが当たり前じゃないか」と。

ところが、この問題の難しいところは、そうではない親もまた多いと言うことだ。

ある親は言う。
「子どもは、社会の中のある課題に対してどのようにアプローチし、その解決方法を探るのか、すべてひっくるめてまなぶべきた」と。
子どもは、問題提起の仕方やアプローチの仕方、情報の集め方確認の仕方、計算の仕方、パソコンの使い方、全てひっくるめて勉強していけば良い。それがまさに実践的なのだ、と。

こんなふうに、様々な考えで、喧々諤々と社会全体が騒いでいる最中に、学級担任が何かを言えるわけがない。様々な解釈を持った保護者に対して、これだという【答え】を示すことはできない。

これは日本中の保護者を巻き込んだ、あるいは日本社会全体を巻き込んだシステム改変の問題だからだ。根本の人間の哲学に関わる問題だからだ。たかが夏休みの宿題なのだが、哲学の根本につながる大問題なのだ。

そこで私はこうすれば良いと思う。
宿題は用意はする。ドリルも用意はする。
しかし、やるかやらないかはその子に任せるのである。その家庭に任せるのである。

夏休みに時間のできたお父さんが、こんな時こそ子供に2桁の掛け算のやり方を教えてやりたいと言うのもうなずける。その時に問題を用意するところから、お父さんが獅子奮迅しなければいけないのは確かに気の毒なことだ。

「学校は、宿題を用意はするが、しなくても良い」と言うふうに文科省の1番の大臣が言えば良いのである。
そうしたら、あっという間にこの問題はカタがつく。

そして、だんだんと、世の中全体で、大臣が一声言えば、それでいいのかと言う問題を深掘りしていけばいいのだ。

さらに、「なぜしなくても良いと言う当然のことを、しなければならないと言うふうに、いつの間にか思い込むようになってしまったのか」を、お昼のワイドショーでみんなで考えていけば良いのだ。

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