ここでいう「こうけんこうていのごびゅう」は、ちょっとむずかしい言葉ですが、例えば「見た目で決めつけるのはちがうよ」ということが、その一例です。
より具体的に言いますと、
* 雨がふると地面がぬれるかもしれません。でも、地面がぬれているからといって、雨がふったとはかぎりません。
(ホースで水をまいたのかもしれないですね)
* かけっこが速い子は、運動会で一番になるかもしれません。でも、運動会で一番になったからといって、かけっこが速い子とはかぎりません。
(転んだ人がたくさんいたのかもしれない)
このように、見た目のことだけを見て「きっとこうだ!」と決めつけるのは間違いです。そう見えた原因はたくさんあるのであって、他にも色々な理由があるかもしれないからです。
真面目に勉強する生徒は、いつも宿題を完璧に提出するかもしれない。しかし、宿題を完璧に提出するからといって、真面目に勉強する生徒とは限りません。
つまり、ある結果(後件)だけを見て、その原因(前件)を決めつけるのは誤り、なのです。
他人の気持ちを思いやれる子は、公共の場で静かにできるかもしれません。しかし、公共の場で静かにできるからといって、他人の気持ちを思いやれる子とは限りません。
ここで、ちょっと振り返ってみましょう。
我々教師は、静かにしている子を見ると、立派な子だ。この子は周囲の人々の気持ちを思いやれるのだ。思慮深くて、思いやりのある子だ、と判断しやすいのです。私自身を含めて、教師はこういう癖があるのです。そのため表面的に静かにすることをすぐに求めてしまいます。そして静かになったらあぁ心まで成長したと勘違いしやすいのです。教師が教室内をパッと見、静かにさせたいと願うのは、その裏にこういった心理が隠されている場合があるわけです。
成績が良い生徒は、授業中に積極的に発言するかもしれません。しかし、授業中に積極的に発言するからといって、成績が良い生徒とは限りません。
ところが、われわれ教師はよく、「手を挙げなさい、手を挙げて発言しなさい」と指導しがちです。なぜそう指導しがちかと言うと、見た目としてたくさん手を挙げている子が増えたら、全体的に学力が上がっていると感じやすいのです。担任はそう感じたくなってしまい、見た目(め)的にに手を挙げる子を増やしたいと言う心理が働いてしまうのです。
確かに、まだ手を上げたり発言したり自己表現したりと言う、アウトプットの苦手な子はたくさんいて、手を挙げる、と言うことを促す指導は必要です。しかし、手を挙げるようになったらこれで良いのだと安心してしまうのは間違いです。それはただのワンステップに過ぎないのです。
同じように、
* 引き出しの中がいつも片付いているからといって、その子の心身が安定しているとは限りません。
* 自分の持ち物を大切に扱うからといって、責任感が強いとは限りません。
この辺も、教師は、少しずれた指導をしがちです。引き出しの中をしっかり片付けなさい。きれいにしなさいと言う指導をして、机の中がきれいになったら、その子自身の心や知性があたかも成長したかのように受け取ります。しかし、それはただ単に机の中をきれいにしたと言うだけのことに過ぎず、やはりただのワンステップなのです。きれいになったらおしまいではなく、きれいになったことを喜んだり、使いやすくなったことを実感して、その良さを話し合ったり、これからそれを続けていけそうかどうか本人の見通しを聞いてあげたり、どうしたらそれが続けられそうか。作戦を立てたり、やる事はまだまだ続くわけです。
さらに、学校教育に関する事例をいくつか。
* 塾に通っているからといって、学習意欲が高い生徒とは限りません。
* 先生の話を静かに聞くからといって、授業内容をよく理解している生徒とは限りません。
その他
* 試合に勝ったからといって、練習熱心とは限りません。
* 友達が多いからといって、コミュニケーション能力が高いとは限りません。
* 絵や物語に深く感動するからといって、感受性が豊かな子供とは限りません。
* 一つの遊びを長時間続けるからといって、集中力が高い子供とは限りません。
こうしてたくさんの事例をあげてみると、結果だけを見て原因を決めつけるのは誤りであるという点が、より明確になるかと思います。
「AだからB」という因果関係を考える際には、「本当にAが原因でBが起こっているのか?」「Bの原因はA以外にもあるのではないか?」と、立ち止まって考えることが大切。
同じ結果に見えても、その背景にある原因は人それぞれで、一つに決めることはできません。
こういうことは、人生の初期、つまり小学生の段階からわかっていることが結構大事です。
ところがこれを学習するとなると道徳なのかなぁと思うんですが、道徳の教科書には、こんな論理性の勉強は無いわけです。つまり、文部科学省としては、後件肯定の誤謬を学習する際は、教科書で論理を教えなさいとはしていないのです。
おそらく子供たちにより実感しやすいように、生活の中の事例や、道徳の教科書の中のわかりやすい事例などから、自身の多くの体験と合わせて考え、話し合いを通じて、後件肯定の誤謬を教えなさいとしているのだと思います。
ところが、多くの先生たちは、こんなこと教えてないと思います。
私は、これをちゃんと、【後件肯定の誤謬】として、きっちりと道徳の教科書に載せるべき、と思います。(もしかしたら道徳ではなく、算数なのかなぁ?)
(※ちなみに、ChatGPTの回答にも、前提に誤謬が含まれた場合があるので、おそらく人間社会全般がそうなのでしょう。ChatGPTは、それらから情報をたくさん進めてくるので、結果として、ChatGPTが論理の誤謬を含んだ表現をしてしまうのでしょうな)
写真は、まだ朝の温度。
(午後は37度まで上がりました。それも日陰で)

より具体的に言いますと、
* 雨がふると地面がぬれるかもしれません。でも、地面がぬれているからといって、雨がふったとはかぎりません。
(ホースで水をまいたのかもしれないですね)
* かけっこが速い子は、運動会で一番になるかもしれません。でも、運動会で一番になったからといって、かけっこが速い子とはかぎりません。
(転んだ人がたくさんいたのかもしれない)
このように、見た目のことだけを見て「きっとこうだ!」と決めつけるのは間違いです。そう見えた原因はたくさんあるのであって、他にも色々な理由があるかもしれないからです。
真面目に勉強する生徒は、いつも宿題を完璧に提出するかもしれない。しかし、宿題を完璧に提出するからといって、真面目に勉強する生徒とは限りません。
つまり、ある結果(後件)だけを見て、その原因(前件)を決めつけるのは誤り、なのです。
他人の気持ちを思いやれる子は、公共の場で静かにできるかもしれません。しかし、公共の場で静かにできるからといって、他人の気持ちを思いやれる子とは限りません。
ここで、ちょっと振り返ってみましょう。
我々教師は、静かにしている子を見ると、立派な子だ。この子は周囲の人々の気持ちを思いやれるのだ。思慮深くて、思いやりのある子だ、と判断しやすいのです。私自身を含めて、教師はこういう癖があるのです。そのため表面的に静かにすることをすぐに求めてしまいます。そして静かになったらあぁ心まで成長したと勘違いしやすいのです。教師が教室内をパッと見、静かにさせたいと願うのは、その裏にこういった心理が隠されている場合があるわけです。
成績が良い生徒は、授業中に積極的に発言するかもしれません。しかし、授業中に積極的に発言するからといって、成績が良い生徒とは限りません。
ところが、われわれ教師はよく、「手を挙げなさい、手を挙げて発言しなさい」と指導しがちです。なぜそう指導しがちかと言うと、見た目としてたくさん手を挙げている子が増えたら、全体的に学力が上がっていると感じやすいのです。担任はそう感じたくなってしまい、見た目(め)的にに手を挙げる子を増やしたいと言う心理が働いてしまうのです。
確かに、まだ手を上げたり発言したり自己表現したりと言う、アウトプットの苦手な子はたくさんいて、手を挙げる、と言うことを促す指導は必要です。しかし、手を挙げるようになったらこれで良いのだと安心してしまうのは間違いです。それはただのワンステップに過ぎないのです。
同じように、
* 引き出しの中がいつも片付いているからといって、その子の心身が安定しているとは限りません。
* 自分の持ち物を大切に扱うからといって、責任感が強いとは限りません。
この辺も、教師は、少しずれた指導をしがちです。引き出しの中をしっかり片付けなさい。きれいにしなさいと言う指導をして、机の中がきれいになったら、その子自身の心や知性があたかも成長したかのように受け取ります。しかし、それはただ単に机の中をきれいにしたと言うだけのことに過ぎず、やはりただのワンステップなのです。きれいになったらおしまいではなく、きれいになったことを喜んだり、使いやすくなったことを実感して、その良さを話し合ったり、これからそれを続けていけそうかどうか本人の見通しを聞いてあげたり、どうしたらそれが続けられそうか。作戦を立てたり、やる事はまだまだ続くわけです。
さらに、学校教育に関する事例をいくつか。
* 塾に通っているからといって、学習意欲が高い生徒とは限りません。
* 先生の話を静かに聞くからといって、授業内容をよく理解している生徒とは限りません。
その他
* 試合に勝ったからといって、練習熱心とは限りません。
* 友達が多いからといって、コミュニケーション能力が高いとは限りません。
* 絵や物語に深く感動するからといって、感受性が豊かな子供とは限りません。
* 一つの遊びを長時間続けるからといって、集中力が高い子供とは限りません。
こうしてたくさんの事例をあげてみると、結果だけを見て原因を決めつけるのは誤りであるという点が、より明確になるかと思います。
「AだからB」という因果関係を考える際には、「本当にAが原因でBが起こっているのか?」「Bの原因はA以外にもあるのではないか?」と、立ち止まって考えることが大切。
同じ結果に見えても、その背景にある原因は人それぞれで、一つに決めることはできません。
こういうことは、人生の初期、つまり小学生の段階からわかっていることが結構大事です。
ところがこれを学習するとなると道徳なのかなぁと思うんですが、道徳の教科書には、こんな論理性の勉強は無いわけです。つまり、文部科学省としては、後件肯定の誤謬を学習する際は、教科書で論理を教えなさいとはしていないのです。
おそらく子供たちにより実感しやすいように、生活の中の事例や、道徳の教科書の中のわかりやすい事例などから、自身の多くの体験と合わせて考え、話し合いを通じて、後件肯定の誤謬を教えなさいとしているのだと思います。
ところが、多くの先生たちは、こんなこと教えてないと思います。
私は、これをちゃんと、【後件肯定の誤謬】として、きっちりと道徳の教科書に載せるべき、と思います。(もしかしたら道徳ではなく、算数なのかなぁ?)
(※ちなみに、ChatGPTの回答にも、前提に誤謬が含まれた場合があるので、おそらく人間社会全般がそうなのでしょう。ChatGPTは、それらから情報をたくさん進めてくるので、結果として、ChatGPTが論理の誤謬を含んだ表現をしてしまうのでしょうな)
写真は、まだ朝の温度。
(午後は37度まで上がりました。それも日陰で)
