休み明けに、学校にやってくる子どもたちの表情はさまざま。
眠たそうな子も多い。
なんとなくスッキリした顔の子もいて、そういう子を見ると、ああ、良い充電ができたのだろうなあ、と思う。
ただ、全般的にはまだテンションは低め。
私はよく来たなあ、来たくない子もいるだろうけどなあ、と思うと、感心してしまう。
そこで、朝の会では、子どもの元気が出るような話をしようと思い、ゴールデンウィーク中に読んだ、かこさとしさんの科学の大サーカスの話をした。
子どもたちには、ありとあらゆる魅力的な世界が広がっている。
こちらは、人生の中で何度も繰り返し聞いてきたことでも、それを初めて聞く子どもたちは、目を輝かして聴く。
あまり長々とは話をしないのがコツ。
また、興味がある子は調べてみて、で終わる。
それにしても、小さな子たちが、毎日、毎日遠くからせっせと歩いて学校にやってくる。このことを純粋に静かに考えようとすると、今の私なんかよりも立派な子どもたちはたくさんいると思うし、その熱意と情熱と行動に、何とか応えてあげないと、と思わされる。
本来ならば、学校の教室にたどり着いた時点で、めちゃくちゃ褒めてあげたいレベルだ。今の学校には、それが足りない。教師のエネルギーが足りない。教師は疲弊しきっている。
休み時間になると、さっきのお話だけど、と続きを聞きに来る子もいる。また、「さっきの化学のはなし、僕調べてみる」と、静かな決意を報告しに来る子もいる。素敵だなぁと思います。
また、休み時間は、このゴールデンウィークにどんなことがあったのか、教えてくれる子もたくさんいます。だから、やはり教員は聞き役なのですね。歳をとるとともに、教員の経験を重ねれば重ねるほどに、教員は聞き役だなぁと思うようになりました。どれだけしてあげられるかよりも、どれだけ受けてあげられるか。
その子が一人ひとり持っているユニークさは、掘れば掘るほどにじみ出てくるもので、私はそのセンサーを自然と磨くことができていきます。私の方が磨かないと、それを感知できないのです。そのためには、どんな子なのかを知ろうと、毎日コツコツと、彼らに近づかなければいけません。
まるで長い長いトンネルを掘るような作業です。
スプーンで少しずつ少しずつ掘るから、1年経つと、その子のことがほんの少しわかってきます。そこに、教員としての私の学びがつまっていると言うわけです。

眠たそうな子も多い。
なんとなくスッキリした顔の子もいて、そういう子を見ると、ああ、良い充電ができたのだろうなあ、と思う。
ただ、全般的にはまだテンションは低め。
私はよく来たなあ、来たくない子もいるだろうけどなあ、と思うと、感心してしまう。
そこで、朝の会では、子どもの元気が出るような話をしようと思い、ゴールデンウィーク中に読んだ、かこさとしさんの科学の大サーカスの話をした。
子どもたちには、ありとあらゆる魅力的な世界が広がっている。
こちらは、人生の中で何度も繰り返し聞いてきたことでも、それを初めて聞く子どもたちは、目を輝かして聴く。
あまり長々とは話をしないのがコツ。
また、興味がある子は調べてみて、で終わる。
それにしても、小さな子たちが、毎日、毎日遠くからせっせと歩いて学校にやってくる。このことを純粋に静かに考えようとすると、今の私なんかよりも立派な子どもたちはたくさんいると思うし、その熱意と情熱と行動に、何とか応えてあげないと、と思わされる。
本来ならば、学校の教室にたどり着いた時点で、めちゃくちゃ褒めてあげたいレベルだ。今の学校には、それが足りない。教師のエネルギーが足りない。教師は疲弊しきっている。
休み時間になると、さっきのお話だけど、と続きを聞きに来る子もいる。また、「さっきの化学のはなし、僕調べてみる」と、静かな決意を報告しに来る子もいる。素敵だなぁと思います。
また、休み時間は、このゴールデンウィークにどんなことがあったのか、教えてくれる子もたくさんいます。だから、やはり教員は聞き役なのですね。歳をとるとともに、教員の経験を重ねれば重ねるほどに、教員は聞き役だなぁと思うようになりました。どれだけしてあげられるかよりも、どれだけ受けてあげられるか。
その子が一人ひとり持っているユニークさは、掘れば掘るほどにじみ出てくるもので、私はそのセンサーを自然と磨くことができていきます。私の方が磨かないと、それを感知できないのです。そのためには、どんな子なのかを知ろうと、毎日コツコツと、彼らに近づかなければいけません。
まるで長い長いトンネルを掘るような作業です。
スプーンで少しずつ少しずつ掘るから、1年経つと、その子のことがほんの少しわかってきます。そこに、教員としての私の学びがつまっていると言うわけです。
