私は20代の頃、何をやっても
「やってみて、どうでしたか」
と、問われる、という日常を送っていました。
まるで禅の修行のようですが、まさに今考えるとよくやってたなと思う位です。
その時に身に付いたものがあり、私は今でも学級クラスで、
「やってみて、どうだった?」
と聞きます。
時折、自分でも不思議に思いますね。
三つ子の魂百まで、じゃないですが、20代の頃に、耳の奥にこびりついた言葉と言うのは離れないもののようです。
ところが忙しくなると、このやってみてどうかをやらない。
次から次へとこなすようになる。
そうすると、子どもの顔は疲れていきます。
私は4月は特に遊びまくります。
教室でゲームばっかりやります。
そして、やってみて、どうだったかと、問うのです。
「友達の顔見ると、よくわかったんだね」
「友達にちゃんと伝えようと思ったら伝わったんだね」
「めんどくさいなぁと思っていると楽しめないんだね」
子供が色々と感想言うので、それを整理していくだけです。
ゲームと言うのは、奥が深いです。
集団で目的を共有すると言うことですから。
気持ちが1つになっていくと、ものすごく盛り上がるし、楽しいのに、少しでも心が離れると途端にめんどくさいものになってしまうのがゲームです。
ゲームを1つやるだけで、そしてそのことをつぶさに見て取ることで、自分の心の状態や友達の心の状態までしっかりと整理されて、俯瞰できるのがゲームの醍醐味です。
ときにはゲーム自体より、その振り返りの時間が長いことすらあります。
その振り返りの時間こそが楽しいのです。私はゲームの時はそれほど力を入れません。ゲームの進行は淡々とやります。でもゲームが終わった途端にみんなにどうだったかと全身全霊で聞くようにしています。

「やってみて、どうでしたか」
と、問われる、という日常を送っていました。
まるで禅の修行のようですが、まさに今考えるとよくやってたなと思う位です。
その時に身に付いたものがあり、私は今でも学級クラスで、
「やってみて、どうだった?」
と聞きます。
時折、自分でも不思議に思いますね。
三つ子の魂百まで、じゃないですが、20代の頃に、耳の奥にこびりついた言葉と言うのは離れないもののようです。
ところが忙しくなると、このやってみてどうかをやらない。
次から次へとこなすようになる。
そうすると、子どもの顔は疲れていきます。
私は4月は特に遊びまくります。
教室でゲームばっかりやります。
そして、やってみて、どうだったかと、問うのです。
「友達の顔見ると、よくわかったんだね」
「友達にちゃんと伝えようと思ったら伝わったんだね」
「めんどくさいなぁと思っていると楽しめないんだね」
子供が色々と感想言うので、それを整理していくだけです。
ゲームと言うのは、奥が深いです。
集団で目的を共有すると言うことですから。
気持ちが1つになっていくと、ものすごく盛り上がるし、楽しいのに、少しでも心が離れると途端にめんどくさいものになってしまうのがゲームです。
ゲームを1つやるだけで、そしてそのことをつぶさに見て取ることで、自分の心の状態や友達の心の状態までしっかりと整理されて、俯瞰できるのがゲームの醍醐味です。
ときにはゲーム自体より、その振り返りの時間が長いことすらあります。
その振り返りの時間こそが楽しいのです。私はゲームの時はそれほど力を入れません。ゲームの進行は淡々とやります。でもゲームが終わった途端にみんなにどうだったかと全身全霊で聞くようにしています。
