ブラック企業しか経験してないために、私の評価軸はかなり狂っているのかもしれません。
二十代は、本当に土日という概念がありませんでした。だって休日が無かったからね。

というと、大げさだという人がいますが、本当に1日も休まなかったのですから、これは他と比較しても誰も文句の言えないレベルのブラックだと思います。

さて、三十代は、ブラックでお馴染みのIT業界。その後もブラックの代名詞であります教員と。
ブラック街道を渡り歩いて参りました。

1番のブラックは、教員ですね。IT業界よりも畜産よりも編集よりも販売営業よりもイベント企画よりもブラックです。全部経験して、私自身が証人であります。なかなか世間に居ないかもね、それ全部経験、やった人は・・・。

いや、意外といるのかも?(いらっしゃったらコメントくださいませ。同じ教員という仕事について語りたいです)

さて、ブラック、の本質って何でしょう?

私が考える、ブラックをブラックたらしめるポイントとは何か。

一つは、しない方が良い努力をする、という点。
誰の得にもならない努力があり、正直に言えば、やればやるほど別の方向に行く、ということ。

で、長い人生を考えると、おそらくですが、その「ただしい方向」というのが怪しいのです。それも、Aの方向が正解なのにBを目指してしまった、ということではなくて。
そもそも、「ただしい方向がある」という強迫というか思い込みがすでに間違っている、というわけです。

多くの人は
なにか成し遂げると素晴らしいことがあるんや、この方向や!これがワイの夢なんや!
ということがあって、努力をしていると思います。

で、その方向を間違うと、えらく目的地から離れた場所に行ってしまい、こんなはずではなかった、と思うらしいですな。ブラック企業では、毎日、それが常態化してるのでしょう。

ところが、ブラックとは縁のない生き方をする限り、こんなことは「起こり得ない」のです。
無駄な努力をしない人は、方向なんて考えないのかもしれないんです。

どれだけ働いてもブラックにならない人は、わりと直観で、人間として間違ってない、という程度のことで進んでいる。

やるべきだ、で進まないから、自然に進みたくなるから、間違わないのですね。したがって、後から、こんなはずではなかった、とは断じてならない、というか、非常にそうは、なりにくい。最初から、後悔とは無縁なのです。最初から無縁、というのがポイントかなぁ。

つまり、多くの人が考えるところの、ああ成し遂げた!というのは、一体何を成し遂げたと言うのか、なかなか難しいということです。
もしかしたら、まったく成し遂げてはいない、ってことだってあり得る。
世の中を見てみると、後者の方がどちらかと多いのパターンなのかもしれません。

こう考えると、おそらく人間は、努力、という、なんだか野蛮で、はしたないことを、すればするほど、ズレるのかもしれなくて、

ただ、美味しい飯を食って、家族がいれば家族をささえながら、気分よく何かに取り組む、ということが進み方としては一番良いのかも。

私は血眼になるのは、人間としては面白いですから大好きで、血眼の人を見るのは好きです。
血まなこと言うのは、ある種のトランス状態に近い。
それに、自分も血眼になることは愉快なので時折、それをするんですが、それでも何かを成し遂げるために血眼になるのは、どこか強迫的で品がなく、拒否したい気持ちがありますね。病的な感じがして。「オレは大物にならなくては・・・!」という雰囲気の子が、ごくたまーにいるのですが、ハッキリいって、病的な感じがします。それがブラック、ということですからね。

美味しいカフェ・オ・レを飲みながら、気分よく勉強するのが、ブラックではない人の過ごし方であり、名誉か褒美か、そういう自分以外の何かになるための働き方をするのは、ブラックだと思います。

その意味では、私の二十代は、面白すぎました。もっとも洒落ていた、と今でも思います。
IMG_8623