私がおいしいと定義するコーヒーのポイントは、単純に言えば

際立つ印象的な風味特性があり、爽やかな明るい酸味特性があり、持続するコーヒー感が甘さの感覚で消えていくこと。

最後の「甘さの感覚で、コーヒー感が消えていく」と言うのは、1番大切な部分で、この余韻を楽しむために、コーヒーを1口1口大切にすすっている。

職場でコーヒーの話になり、どのコーヒーが1番おいしいの?どう違うの?と聞かれたが、これは非常に子育てに通じることだ、と思った。

こちらに、正しいセンサーがあるかどうか。

小学生の担任となって、はや20年。この間、様々な子供とめぐりあい、一人ひとりと濃厚な時間を過ごしてきたが、どの子も同じだろうと言うのは間違いである。その個性や特徴は、ハリーポッター1冊では及ばない位の文字量が必要になる。

コーヒーも同じで、どれだけ言語化できるかというのは1つの目安になる。
コーヒーを飲んだときに、おいしい以外の表現ができるかどうか。
違うのはわかるけれど、どう表現をすれば良いかわからないと言うのが私の最初の出発でした。
コーヒーの風味の表現は、フルーツやナッツなど、他の食べ物に例えられたり、余韻の長さ、口当たりの感覚、甘さの周囲など様々なコメントをつけることができる。
正確なコメントをつけるには、訓練も必要。

◯柑橘系のフルーツの酸味に似てる
◯チョコレートみたいな香りがする
◯蜂蜜みたいなトロットした感覚がある
◯透明感がある

ただし、言語化する際には、いつもつきまとうのが、その言語が100%合致する事はないということ。
その豆の風味や味わいについて、できるだけ近づこうとして言うことはできるけれども、言語にした瞬間に、少し外れてるなと直感するのがオチなのだ。

子供についてもそうだ。
よく職員室で、あの子はこんな子だね。この子は、こんな特徴があるね。
話題にする事はあるが、言葉にした瞬間に、やはり本当の事実実態としてのその子の本性はもう少し違うところにあるだろうなと予感がされる。

言葉と言うものは、人間の気持ちや、感覚をできるだけ事細かに説明しようとして、発達していった部分があるが、やはり言葉と言うものは、最後の最後にはちょっとズレるものなのだろう。

だからといって、言葉を全く信頼しないと言う事はまずい。
言葉が信頼できなくなったら、もう対話することを諦めてしまうからだ。
100%通じなくても90%位は伝わったら上出来だし、残りの10%は、本当はどうかなとさらに突き詰めていくためのエンジン燃料添加剤になる。

ひとは、ことばを信じることができなくなると、自暴自棄になりやすい。
パワハラや各種ハラスメントが話題になるが、言葉の力を諦めた人が、相手を意のままに操ろうとしたときには、ハラスメントになってしまうだろう。

コーヒーを飲む時も、できるだけ自分自身が正直に言語化してみる。
しかし、そのおいしさを本当に言語化する事はできないので、改めて謙虚になる。この繰り返しが1番良いのだろう。

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