校長先生がわざわざ褒めにきてくれました。
私のクラスにいる何人かの子がやたら騒いでいたり関係ない発言を繰り返したりするのを、私がスッと対応して笑いに変え、授業に引き戻して進めているからだと。
私はてっきり、
「ちゃんと叱った方が良い」
というアドバイスなり指導なのかと思ってしまった。
それは長年、私が「叱らない教師」をしてきており、頻繁に経験する代表的な管理職の反応だからであります。
もう20年近く、叱らない教師をやっているため、ときに
「きちんと指導しなさい。叱ることも必要だ」
と、指導を受けてきた。
私も叱らないわけではなく、その都度、改めた方が良い点は指摘し、直そう、と子どもたちには伝えているのだが、それでは叱ったことにならないらしく、管理職の先生の多くは、きちんと叱りなさい、と言う。
「どんなふうにですか?」
と、私ができるだけ下からお伺いすると、その答えはほぼ、強い圧迫を与えて強い大きな口調で言う、ということであった。
私はそれが叱ることとは思えず、あるいはもしそれが叱る、ということであれば、自分は叱らないで教員をやろうとやんちゃにも無謀にもそう考えたわけですね。
このあたりのことはブログの中で常々、折に触れて書いてきました。
若い頃は、「どこまで叱らないでいけるかな?」と、面白がって挑戦するような心持ちでした。
しかし、時代は変わるものです。
発達障害の知識が浸透するにつれて、私のスタイルは意外に褒められることも増えてきました。特別支援の先生たちの方にとっては受けが良く、「叱らないでもいいですか」スタイルに共感してもらえることが多いようです。
それが。
やはり、時代は変わったのですかね・・・
校長先生から、
「あなたのスタイルはスゴい。尊敬します」
と直接、私のデスクまで来て、おっしゃっていただきました。
「◯◯くんが大声でしゃべっていたのに、さっと笑いにして集中させ、引き戻してましたね」
校長先生はちょっとオーバーに褒めてくれました。
嬉しい気持ちもあったけど、それよりも大きな実感は、
「時代が変わってきてるな」
という感慨ですね。
私は20年という期間、世の中の教育現場を、ある一つの定点から観測し続けたわけです。
それは、「子どもというのは、叱らないでもいいか、どうか」、ということです。それを教育現場は許すのかどうか。周囲の先生方の反応から、リアルに観測し続けたのです。
たしかに、時代が変わりました。
昔は、大声で叱らない先生にとっては教育現場は不寛容でした。すぐに注意されました。
今は、管理職から、直々に、感謝までされます。
大声や圧迫をしない先生を、許容する感じが出てきました。
わたしのような叱らない先生にとっても、寛容な世界が広がってきています。
今回、ことの発端は、ある日の校内放送でした。たまたま機器の不具合から、校長先生の講話が聞き取れなかった私のクラスは、後日、校長先生にじきじきに教室に来ていただき、講話を聞くことになったのです。
校長先生が教室に入ると、静かに姿勢を正して待っていた子たちは、お話しをきちんと聞きます。
ただし数人の子を除いては・・・、です。これは教室あるあるでしょう。
教室を飛び出してしまう子や、椅子にしっかりと座れずにアドレナリンをビンビンに出して揺すりながら奇声を出す子は、多くの場合、低学年の時から発達障害の検査を受けたり、医療機関にかかったりします。「この子の特性を知り、われわれ大人がどのような環境を用意すべきかの指針にする」という理由で。
しかし、低学年でWISC検査を受けずに私の受け持つクラスに進級した子は、私のせいで、ほぼ、WISC検査を受けません。私が勧めないからです。
そのため、支援級の先生たちから、
「あらま先生のクラスからは、支援級に上がって来ませんよね。逆に支援級を卒業する子はいるけど」
と言われます。
これは、私の良くない点で、私はどうも昭和の古臭い、色んな子がいて当然だった頃が、忘れられないのです。自分が受けた教育が懐かしいのでしょうかね。昔は特別支援学級もありましたが、本当に車椅子で二階にこられない子とか、事情のある子が在籍してるだけでした。つまり、椅子を揺すって奇声を発し、教室を飛び出す子は、どこの学級にもいたのです。
私は校長先生に褒められたあとに、自分がなぜかしんみりしてることに気づいたのですが、きちんと褒めてもらえるまで、約20年近くかかっているのは、なんだか当初思っていたよりも長かったナ、と。
おそらく、自分にそんな気持ちがあるのに気づいたんでしょう。だから、なんだか嬉しい気持ちと共に、甘酸っぱいしんみりさを感じたわけです。
腹の立たない、自分をしらべる、たよりないくらいがいい、執抹殺なんていう話を若い頃にしていたせいで、わたしは世の中からずれたままで、このまま行くんでしょう。
ま、でも、人間らしい生活を実現しようとしてんだから、ヨシとしましょう。

私のクラスにいる何人かの子がやたら騒いでいたり関係ない発言を繰り返したりするのを、私がスッと対応して笑いに変え、授業に引き戻して進めているからだと。
私はてっきり、
「ちゃんと叱った方が良い」
というアドバイスなり指導なのかと思ってしまった。
それは長年、私が「叱らない教師」をしてきており、頻繁に経験する代表的な管理職の反応だからであります。
もう20年近く、叱らない教師をやっているため、ときに
「きちんと指導しなさい。叱ることも必要だ」
と、指導を受けてきた。
私も叱らないわけではなく、その都度、改めた方が良い点は指摘し、直そう、と子どもたちには伝えているのだが、それでは叱ったことにならないらしく、管理職の先生の多くは、きちんと叱りなさい、と言う。
「どんなふうにですか?」
と、私ができるだけ下からお伺いすると、その答えはほぼ、強い圧迫を与えて強い大きな口調で言う、ということであった。
私はそれが叱ることとは思えず、あるいはもしそれが叱る、ということであれば、自分は叱らないで教員をやろうとやんちゃにも無謀にもそう考えたわけですね。
このあたりのことはブログの中で常々、折に触れて書いてきました。
若い頃は、「どこまで叱らないでいけるかな?」と、面白がって挑戦するような心持ちでした。
しかし、時代は変わるものです。
発達障害の知識が浸透するにつれて、私のスタイルは意外に褒められることも増えてきました。特別支援の先生たちの方にとっては受けが良く、「叱らないでもいいですか」スタイルに共感してもらえることが多いようです。
それが。
やはり、時代は変わったのですかね・・・
校長先生から、
「あなたのスタイルはスゴい。尊敬します」
と直接、私のデスクまで来て、おっしゃっていただきました。
「◯◯くんが大声でしゃべっていたのに、さっと笑いにして集中させ、引き戻してましたね」
校長先生はちょっとオーバーに褒めてくれました。
嬉しい気持ちもあったけど、それよりも大きな実感は、
「時代が変わってきてるな」
という感慨ですね。
私は20年という期間、世の中の教育現場を、ある一つの定点から観測し続けたわけです。
それは、「子どもというのは、叱らないでもいいか、どうか」、ということです。それを教育現場は許すのかどうか。周囲の先生方の反応から、リアルに観測し続けたのです。
たしかに、時代が変わりました。
昔は、大声で叱らない先生にとっては教育現場は不寛容でした。すぐに注意されました。
今は、管理職から、直々に、感謝までされます。
大声や圧迫をしない先生を、許容する感じが出てきました。
わたしのような叱らない先生にとっても、寛容な世界が広がってきています。
今回、ことの発端は、ある日の校内放送でした。たまたま機器の不具合から、校長先生の講話が聞き取れなかった私のクラスは、後日、校長先生にじきじきに教室に来ていただき、講話を聞くことになったのです。
校長先生が教室に入ると、静かに姿勢を正して待っていた子たちは、お話しをきちんと聞きます。
ただし数人の子を除いては・・・、です。これは教室あるあるでしょう。
教室を飛び出してしまう子や、椅子にしっかりと座れずにアドレナリンをビンビンに出して揺すりながら奇声を出す子は、多くの場合、低学年の時から発達障害の検査を受けたり、医療機関にかかったりします。「この子の特性を知り、われわれ大人がどのような環境を用意すべきかの指針にする」という理由で。
しかし、低学年でWISC検査を受けずに私の受け持つクラスに進級した子は、私のせいで、ほぼ、WISC検査を受けません。私が勧めないからです。
そのため、支援級の先生たちから、
「あらま先生のクラスからは、支援級に上がって来ませんよね。逆に支援級を卒業する子はいるけど」
と言われます。
これは、私の良くない点で、私はどうも昭和の古臭い、色んな子がいて当然だった頃が、忘れられないのです。自分が受けた教育が懐かしいのでしょうかね。昔は特別支援学級もありましたが、本当に車椅子で二階にこられない子とか、事情のある子が在籍してるだけでした。つまり、椅子を揺すって奇声を発し、教室を飛び出す子は、どこの学級にもいたのです。
私は校長先生に褒められたあとに、自分がなぜかしんみりしてることに気づいたのですが、きちんと褒めてもらえるまで、約20年近くかかっているのは、なんだか当初思っていたよりも長かったナ、と。
おそらく、自分にそんな気持ちがあるのに気づいたんでしょう。だから、なんだか嬉しい気持ちと共に、甘酸っぱいしんみりさを感じたわけです。
腹の立たない、自分をしらべる、たよりないくらいがいい、執抹殺なんていう話を若い頃にしていたせいで、わたしは世の中からずれたままで、このまま行くんでしょう。
ま、でも、人間らしい生活を実現しようとしてんだから、ヨシとしましょう。
