全国の花火大会が、実は稼げる商業イベントなのだと自治体は認識し始めた。

昔は早い者勝ちだったためにいわば誰でも根性があれば見られたのに、今はS席、A席などに区分けされて料金を支払って観るようになった。
つまりお財布の事情によって、子どもたちは花火が見られる子と、見られなかった子に分けられることになる。

次の日の学校ではきっと、
「俺、花火見たー」
と無邪気に喜ぶ子と、
「うちはお金がかかるから行かなかった」
と残念がる子の、両方がいるのでしょう。

公共の場が、マネーの世界に飲み込まれ始めたわけで、これは国鉄がJRに変わったように、民営化の流れがある以上、確定した流れであります。
郵便局は株式会社ゆうちよ銀行になり、田舎のATMはどんどん維持費削減のために撤去されています。
昔、住民のため、と用意された『公共』は、今では、マネーのため、と撤去されているのです。この流れは、新たな哲学が生まれるまでは、さらに進んでゆくでしょう。

いずれ、学校も、マネー主義に飲み込まれるかもしれません。いや、すでに私立校があるではないか、と思うかもしれません。しかし、それ以上の世界が近くまで来るのではないかと私は恐れています。

琵琶湖の花火大会のように、教室の座席も、自治体がマネーになる!と発想を変えていくのではないか。
これからの新しい時代に取り残されないために、マネーを導入し、新自由主義の風を吹かそうとするのではないか、と危惧します。

教室もコンサート会場のように、S席、A席ができるのでは。
そして意識の高い消費者はスマホで申し込むのでは、と。

ところが、そうはなりません。
なぜか。
実は、人の繋がりを感じられる空間では、新自由主義は居心地が悪いのです。マネーの病理は蔓延しないのですね。
教室は、小学校は、まだ人の繋がりを感じられる空間ですから、マネー主義の壁を作ってマネー主義の板かなんかで公共空間を囲い込んでしまおうと意図しても、人の体温でボンドが溶けてしまい、穴が空いてしまうのですね。完全なマネー主義を構築するのは無理で、資本主義だけのマネー純粋主義は実現できないのです。

「S席を買ったの、俺だけかよ」

となった花火会場があったら、楽しいでしょうか?というのが、どうも人間の心理のようで、

自分だけ美食では気が引ける

というのが、人間という生き物。

知り合いばかりのクラスで、金の力で他の子を差し置いて、自分は
「金を払ったんだから良い席で当然!」
と、大きな顔をできるか、ということね。

これ、他の人が全部知らない他人ばかりなら、成り立つのですよ。マネーは、人間関係が希薄だとパワーを持ちますから。

でも、人間同士が知り合いだったり、お互いが親しく振る舞おうとするコミュニティなら、俺は良い席、お前は遠くの席、金の力で決まるんや!・・・とはなりにくい。

マネーは、人の繋がりの薄さに、つけ込むわけです。

ゆうちょ銀行のATM撤去も、そこに他人しか住んでないから、撤去しよう、となるわけで。
田舎のJRも、路線バスも、どんどん撤去されていくけど、都会人からすると他人だからでしょうね。

IMG_7750