タイトルに有るようなことは、実際にある。
教室でも、そういうことを言う子がおり、わたしは感心してしまった。
本当にそうだと思うからだ。
「え、すごい!そうなんだよね、感想なんで、事実はわからないよねえ!」
わたしが目をキラキラさせてそういうと、ちょっと不思議な空気ができる。
わたしは最初、この有名なセリフ、
「それってあなたの感想ですよね」が、世間で有名なフレーズになっていることをよく知らず、へえ、この子は事実と思いを分離させて考えているのかな、と考えて、ほとほと感心した。
事実はどうなのか。
どうなのか、というよりも、なんなのか。
今、わたしたちが事実ととらえているものは、事実と呼べるのだろうか。
そして、いろんなことがわからないことだらけで、こうじゃないか、ああじゃないか、と思って事実をまわりをぐるぐるとしている。
そのうえで、肝心なこと、つまり私達は、今どうすることが願いを実現することになるのだろう?
「事実に焦点をあてて、考えてみようじゃないか!」
と興奮するわたしの前で、
「先生、知らないの_?◯◯◯◯のこと!」
有名なインストラクターの人がいて、その人がユーチューバーらしく、インターラクティブでインベーダーらしいが、イノベーターでインフルエンザの私にはよく分からない。
ともあれ、子どもは敏感で、事実と感想、ということについて、なにかしら鋭敏な感性をもっており、
◯事実と思いをわけて考えてみる
というようなことにも、実際にはかなり前向きなのだろうと思う。
そのうえで、真正面から「幸福」というものを、子どもなりに考えてみるのも、今の時代には合っているかもしれない。
いわゆる快楽とか気分を消費することが、「幸福」だとは、Z世代は考えないような気がする。
薬物中毒の状態が幸福と言えるかどうか、スーパーに陳列されたものをその場でいきなり食べ始めるようなことが幸福なお互いになる道筋なのかどうか。
道徳の教科書にはお涙頂戴的なおはなしがいくつも掲載されているけれど、実際には真正面から
「幸福」
という2文字を相手にする時代が来ている気がする。というか、今の子たちは、そういう直接的なアプローチしか、効かない精神になってきているように思う。
今はユーチューブなどで、「ほぼ無料で見放題の動画を見て過ごす」ことが人間の一日の主な行動になりつつある。もはや、そのサービスがなければ、人間は快適に暮らすことができなくなりつつあるようだ。一度スマホを手にしたら、幼児も小学生も、大人も老人も、ユーチューブを大きな楽しみとして消費し始めている。
そして、今や表に見えている表面的な出来事の、さらに裏事情までが即座にアップロードされて話題になり、どちらが表の情報なのかすら曖昧になってきた。
こういう時代だからこそ、
「それってあなたの感想ですよね!」で一本とった気になる子が出てきて当然だし、うわべのとりつくろったような化粧や常識は、あっという間にはがされてしまって、その裏の裏までが話題になっていくから、カーブやスライダーを投げたって、子どもに鼻で笑われてしまう。
勝負するのは、もう、直球、ど真ん中、だけであろう。
おりしも、地球環境の問題は、あとにひけない余裕のない課題になってきた。
政治も経済も戦争も、人口の減少まですべて、冷や汗の出るような切迫感がでてきた。
もう道徳の授業は、
幸福はいずこにありや
というド直球でしか、子どもの心情には響いていかないのではなかろうか。
ほんの5年ほど前までは、
幸福、という言葉が、いかにもうさんくさくて、人をだましているようで、本気ではないような気がして、それこそ化粧で包まれたおかしな言葉にも聞こえていた。
それは、今振り返ってみると、心の何処かに、「幸福というものを、心のどこかできちんと把握している」というような自負があったからだろう。だからあえてそんな大仰な言葉を用いなくても、幸福についてさりげない会話やスマートな所作で、とらえることができると信じていたから、使いたくなかったのだ。
しかし、今の子たちはちがう。
ド直球で、「事実とはなにか」「思いや感想とはどうちがうのか」「人間らしさとは」「幸福とは」と、考えていくべき時代だという予感がする。
教室でも、そういうことを言う子がおり、わたしは感心してしまった。
本当にそうだと思うからだ。
「え、すごい!そうなんだよね、感想なんで、事実はわからないよねえ!」
わたしが目をキラキラさせてそういうと、ちょっと不思議な空気ができる。
わたしは最初、この有名なセリフ、
「それってあなたの感想ですよね」が、世間で有名なフレーズになっていることをよく知らず、へえ、この子は事実と思いを分離させて考えているのかな、と考えて、ほとほと感心した。
事実はどうなのか。
どうなのか、というよりも、なんなのか。
今、わたしたちが事実ととらえているものは、事実と呼べるのだろうか。
そして、いろんなことがわからないことだらけで、こうじゃないか、ああじゃないか、と思って事実をまわりをぐるぐるとしている。
そのうえで、肝心なこと、つまり私達は、今どうすることが願いを実現することになるのだろう?
「事実に焦点をあてて、考えてみようじゃないか!」
と興奮するわたしの前で、
「先生、知らないの_?◯◯◯◯のこと!」
有名なインストラクターの人がいて、その人がユーチューバーらしく、インターラクティブでインベーダーらしいが、イノベーターでインフルエンザの私にはよく分からない。
ともあれ、子どもは敏感で、事実と感想、ということについて、なにかしら鋭敏な感性をもっており、
◯事実と思いをわけて考えてみる
というようなことにも、実際にはかなり前向きなのだろうと思う。
そのうえで、真正面から「幸福」というものを、子どもなりに考えてみるのも、今の時代には合っているかもしれない。
いわゆる快楽とか気分を消費することが、「幸福」だとは、Z世代は考えないような気がする。
薬物中毒の状態が幸福と言えるかどうか、スーパーに陳列されたものをその場でいきなり食べ始めるようなことが幸福なお互いになる道筋なのかどうか。
道徳の教科書にはお涙頂戴的なおはなしがいくつも掲載されているけれど、実際には真正面から
「幸福」
という2文字を相手にする時代が来ている気がする。というか、今の子たちは、そういう直接的なアプローチしか、効かない精神になってきているように思う。
今はユーチューブなどで、「ほぼ無料で見放題の動画を見て過ごす」ことが人間の一日の主な行動になりつつある。もはや、そのサービスがなければ、人間は快適に暮らすことができなくなりつつあるようだ。一度スマホを手にしたら、幼児も小学生も、大人も老人も、ユーチューブを大きな楽しみとして消費し始めている。
そして、今や表に見えている表面的な出来事の、さらに裏事情までが即座にアップロードされて話題になり、どちらが表の情報なのかすら曖昧になってきた。
こういう時代だからこそ、
「それってあなたの感想ですよね!」で一本とった気になる子が出てきて当然だし、うわべのとりつくろったような化粧や常識は、あっという間にはがされてしまって、その裏の裏までが話題になっていくから、カーブやスライダーを投げたって、子どもに鼻で笑われてしまう。
勝負するのは、もう、直球、ど真ん中、だけであろう。
おりしも、地球環境の問題は、あとにひけない余裕のない課題になってきた。
政治も経済も戦争も、人口の減少まですべて、冷や汗の出るような切迫感がでてきた。
もう道徳の授業は、
幸福はいずこにありや
というド直球でしか、子どもの心情には響いていかないのではなかろうか。
ほんの5年ほど前までは、
幸福、という言葉が、いかにもうさんくさくて、人をだましているようで、本気ではないような気がして、それこそ化粧で包まれたおかしな言葉にも聞こえていた。
それは、今振り返ってみると、心の何処かに、「幸福というものを、心のどこかできちんと把握している」というような自負があったからだろう。だからあえてそんな大仰な言葉を用いなくても、幸福についてさりげない会話やスマートな所作で、とらえることができると信じていたから、使いたくなかったのだ。
しかし、今の子たちはちがう。
ド直球で、「事実とはなにか」「思いや感想とはどうちがうのか」「人間らしさとは」「幸福とは」と、考えていくべき時代だという予感がする。