若い時は、得られるものがどんどんと増えていく。
ものも資格も仕事も立場もどんどんと増えていった。

知り合いも同僚も増え、家族まで増えていく。
人間関係がどんどんと広がっていく。

ところが50代になるとだんだんと、そのあたりが整理整頓・淘汰され、厳選されたものになっていく。

これは必ずしも、悪いことでもない。
自分が人生に求めるものが明確になったとともに、質も形もシェイプアップされ、昇華したのだとも言える。

自分が手放すものに気づくと、さみしいという気持ちも湧く。
と同時に、日常の些細なことが心に刺さるようになる。

例えばコンビニエンスストアのレジの人とちょっとした会話で、お互いに笑顔で別れたりすることが嬉しくなったりする。

本を読むときに、この本を書いた著者の考えが心に染みたりより近く感じたりするようになる。

映画を見ても、ストーリーそのものもそうだが、この作品を撮った監督や役者と言うものに目が向き、それらの人々と一緒にいるかのような感覚や、その人と自分との関係を考えたりする。

教員は職業柄、毎日図書館に通っているようなものであり、私は学校の図書館を図書委員の仕事を確認しながら、好きな本も見て回るのが好きだ。

そして本当に自分がタイムスリップしたかのような気持ちになる。

この間は、モモちゃんとプー、モモちゃんとあかねちゃん、などの名作を図書館で見つけ、しばらく、立ち読みをしたところ、目頭が熱くなってきて困った。作者の、大人としての、親としての、一保育者としての気概を感じるからだ。

また、ミヒャエル・エンデの様々な作品、ジムボタンの冒険や、果てしない物語などを見つけたり、ドリトル先生のシリーズ、いぬいとみこさんの名作、北極のミーシカムーシカ、その他の本ともなれば、背表紙で本を見つけた瞬間に、心が躍る。

そして、明確な違いを感じる。
子供の時や若い時に読んだ本は、本そのもの、作品そのものに関心があった。

しかし、今は違う。

その物語を書いた当時の作者の気持ちや考えや、人生観と言うものに、どうしても興味が湧いてくる。この文章を少しずつ書き進めていく最中の、作家の心持ちや考えや、日々の暮らしと言うものに興味が湧いてきて、どんな食べ物を誰とどんなふうに食べながら、どんな街をどんなふうに散歩しながら、この物語の着想を得たのだろう、と考えているのだ。

これは、人生と言うものを、ある程度経験してきたから、いつの間にか、そんなふうな所作が身に付いてしまったのだろうと思う。

一朝一夕で身に付いた所作ではない、ということやね。いいのか悪いのか、中年になると、人生を見る見方が変わるということですな。

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