教師の仕事は 一昔前とはもう大いに違ってきております。
早い人で、もう3、40年以上前から、いわゆる【上から下へ知識を流す】と言うような一方通行のイメージはなくなっていると思います。
教師の世界で批判されるのは、このタイプで、もう30年以上前の教師用の教育委員会の資料でも、いわゆる「鵜飼」型の指導は批判されています。
次に現れたのが、トライアングル型で、先生は、どこかの頂点にはいるのですが、他の2つの頂点は、どちらも子どもで、いわゆるこども同士を、お互いにつないでいると言うようなイメージが生まれます。
教師はそこに適切に介在し、子どもたちの討論が生まれるように、あるいはお互いに疑問点や意見を出し合いるように、場を整えていきます。
これは教室のあり方としては、非常に正しく今でもこれは間違っていません。
このことが土台になり、今の教室のイメージはさらに発展しております。
と申しますのは、実は教師子ども以外のものがそこに大きく登場してくるのです。
それが、「データベース(知恵の泉)」です。
子どもは様々な意見を瞬時に把握し、どこにどんな情報があるかを見抜いて、自分の意見のたしからしさを調べる作業に時間を使うのです。
・教科書に書いてあるが、本当だろうか?
・もっと細かなちがいはあるか?
・AとBの比較で、さらに共通と呼べる部分はあるか?
友達の体験に裏打ちされた意見を、電子黒板でサッと判断するのです。
ぜんぶ、いっしゅんで出ますからね。見てわかる。これが早いです。
電子黒板がなければ、一人ひとりに大きな画用紙に書いてパッと差し出してもらうか、あるいは一人ひとりが自分の意見をとうとうと話すことになるのでしょう。そんなことしてたら45分はあっという間に無くなります。
子どもたちはクラス全員が同じように【知識の泉】をとりまくようにして立ち、いっしょの目線でデータベースを眺めながら、意見を交換し合うのです。で、ふと気がつくと先生もいっしょに横に立っている、というような・・・
これが令和の教育における、教師の立ち位置なわけですね。
昭和とはかなりちがうことがおわかりいただけたでしょうか。
------------------------------
あと、もう一点、考えなければならないことがあります。
調べる際にインターネットを使う場合がありますね。
大切なのは、この、インターネットのデータベースは全て正しいわけではないと言うところが、現代の、本当に現代らしさを反映した部分だと言えましょう。
教室で子どもたちが出会う知識と言うのは、すべからく正しいものである、と言うのが、これまでの常識だったのではないでしょうか。
その最たるものが、昭和初期の教育で、教師の言う事は絶対である、と言うような雰囲気があったそうですね。祖父や父から聞いただけで、実際に体験したわけではないけれど。
ところが、今現在知識と言うのは正しいかどうかと言うことが非常に疑われる時代になってきました。
子どもが何かを知ろうと思ったときに、実はインターネットというものが存在しており、いつの間にか人間社会は、インターネットで検索してみた知識、と言うものを無視することができなくなってきています。
え? 教室でインターネット使うの?心配!インターネットは嘘ばっかりよ!?
と言う皆さん。ご心配なく。
インターネット初期の時代は、インターネットに書かれていることは、かなり真実なのだろうと考える人が多かったです。でももうすでにほぼ全国民が、インターネットは嘘ばかりと言うことを実は知っています。
なので、子どもも検索したあと、例えばこんな反応をします。
ここにこんなふうに書いてあって、そういうことになってるみたいだけど、ほんとかなぁ?
これが令和6年度の子どもたちの実際の姿です。
しかし、インターネットを無視できないものとして、教育をする事はもうすでにできなくなっています。
なぜなら、教室でありとあらゆることを討論する際に、必ず誰かがインターネットで調べてみたいと思うからです。大人の真似をして・・・。
全国民の大人たちが、インターネットで調べるのを、当然のようにやります。だからなのか、子どももインターネットで調べたい、と思うらしいのです。
嘘ばかり載っているんだから、教室では調べない、と言うことにすると、宿題では無いのに、勝手に家で調べてきたりします。インターネットで。
なので、どうしても教室で何かを考える際に、インターネットの存在を全員の頭の中から消すわけにはいかないのです。
時代は、ここまで進んでしまいました。
開き直ったのは、文科省です。
文科省は、1人1台、タブレットを配りました。そして、子どもたちの意見がまとまらないことを前提に、授業を組むようになったのです。
当然、人間は、一人一人意見が違って当たり前ですから、子どもたちは自分の端末に、自分の意見を書いて提出します。教員はそれを全員に見せます。子どもたちは自分と似たような子どもの意見を探したり、あるいは違う意見を見つけたりします。そして疑問点を直接その子どもにぶつけに行ったり、自分の意見と似たような友達にやっぱりそうだよねと確認をしに行ったりします。そして自分の意見を支える論拠となる部分をさらに練り直すのです。
これが最近の授業の様子です。教師が研修でお互いの授業を見合うことはありますが、どの授業もたいていこんな感じに仕上がっておりますね。
思い返せば、昭和の先生は、みんなありとあらゆることに造詣が深く、ご自身の知識をたくさん授けてくださいました。
それに比べて、令和の教員は、本当に存在感が薄いです。いや、逆に濃いのかもしれませんが。
教員と子どもの間には必ずデータベースの巨大な知識の泉がそこに存在しています。教員は、まっすぐ子どもにアプローチするのではなく、巨大な知識の泉を迂回するようにして、子どもの横側に、そっと現れて、知識の泉を指差して言うのです。
この辺にこんな知識が書いてあるけど、参考になるかなぁ?
どうですか?
これが令和の先生です。
威厳もへったくれもありません。
ですが、誤解がなくなって私はいいと思います。
だって先生だって知らないことたくさんあるんだもの。
昭和の子どものように、純粋な目でキラキラと先生を見つめて、
「先生は何でもご存知だ」
と憧れるような事はありません。
でも、そんな実態からかけ離れたようなポーズは取らなくて良いのです。
それはたくさん知ってたほうがいいかもしれないけど、知識を更新していなければ、価値は無いでしょう。
だから、もう教師はデータベースとは喧嘩しないのです。
データベースと張り合ったって負けるに決まっています。
なので、子どもがデータベースをじっくりと見て、自分の意見を醸成しようとして腕を組んで唸っている、その横にふっと現れるのです。
子どもはふと現れた先生を横に見て言うでしょう。
「あ、先生。何か用?」
すると先生は、もじもじしながら、おずおずしながら言うのです。
「あ、さっき提出されたカード見たんだけど、あれなかなか鋭い見方だよね。感心したよ。でさ、このクラスにもう1人、ちょっと違うけど、似たようなところを調べている子がいたから、話してみたらどうかなと思ってね。◯◯くんなんだけど・・・」
くれぐれも、これ大学の話じゃないですよ?小学生の話です。
先生はもう教室の真ん中にはいません。
これを知らないので、多くの保護者は、誤解をしていまして、授業参観に来ると、先生は何もしないじゃないか!とお怒りになる保護者もいるようです。無理もないけどネー。
変わりすぎだろ!

早い人で、もう3、40年以上前から、いわゆる【上から下へ知識を流す】と言うような一方通行のイメージはなくなっていると思います。
教師の世界で批判されるのは、このタイプで、もう30年以上前の教師用の教育委員会の資料でも、いわゆる「鵜飼」型の指導は批判されています。
次に現れたのが、トライアングル型で、先生は、どこかの頂点にはいるのですが、他の2つの頂点は、どちらも子どもで、いわゆるこども同士を、お互いにつないでいると言うようなイメージが生まれます。
教師はそこに適切に介在し、子どもたちの討論が生まれるように、あるいはお互いに疑問点や意見を出し合いるように、場を整えていきます。
これは教室のあり方としては、非常に正しく今でもこれは間違っていません。
このことが土台になり、今の教室のイメージはさらに発展しております。
と申しますのは、実は教師子ども以外のものがそこに大きく登場してくるのです。
それが、「データベース(知恵の泉)」です。
子どもは様々な意見を瞬時に把握し、どこにどんな情報があるかを見抜いて、自分の意見のたしからしさを調べる作業に時間を使うのです。
・教科書に書いてあるが、本当だろうか?
・もっと細かなちがいはあるか?
・AとBの比較で、さらに共通と呼べる部分はあるか?
友達の体験に裏打ちされた意見を、電子黒板でサッと判断するのです。
ぜんぶ、いっしゅんで出ますからね。見てわかる。これが早いです。
電子黒板がなければ、一人ひとりに大きな画用紙に書いてパッと差し出してもらうか、あるいは一人ひとりが自分の意見をとうとうと話すことになるのでしょう。そんなことしてたら45分はあっという間に無くなります。
子どもたちはクラス全員が同じように【知識の泉】をとりまくようにして立ち、いっしょの目線でデータベースを眺めながら、意見を交換し合うのです。で、ふと気がつくと先生もいっしょに横に立っている、というような・・・
これが令和の教育における、教師の立ち位置なわけですね。
昭和とはかなりちがうことがおわかりいただけたでしょうか。
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あと、もう一点、考えなければならないことがあります。
調べる際にインターネットを使う場合がありますね。
大切なのは、この、インターネットのデータベースは全て正しいわけではないと言うところが、現代の、本当に現代らしさを反映した部分だと言えましょう。
教室で子どもたちが出会う知識と言うのは、すべからく正しいものである、と言うのが、これまでの常識だったのではないでしょうか。
その最たるものが、昭和初期の教育で、教師の言う事は絶対である、と言うような雰囲気があったそうですね。祖父や父から聞いただけで、実際に体験したわけではないけれど。
ところが、今現在知識と言うのは正しいかどうかと言うことが非常に疑われる時代になってきました。
子どもが何かを知ろうと思ったときに、実はインターネットというものが存在しており、いつの間にか人間社会は、インターネットで検索してみた知識、と言うものを無視することができなくなってきています。
え? 教室でインターネット使うの?心配!インターネットは嘘ばっかりよ!?
と言う皆さん。ご心配なく。
そんなこと子どもだって知ってます。
インターネット初期の時代は、インターネットに書かれていることは、かなり真実なのだろうと考える人が多かったです。でももうすでにほぼ全国民が、インターネットは嘘ばかりと言うことを実は知っています。
なので、子どもも検索したあと、例えばこんな反応をします。
ここにこんなふうに書いてあって、そういうことになってるみたいだけど、ほんとかなぁ?
これが令和6年度の子どもたちの実際の姿です。
しかし、インターネットを無視できないものとして、教育をする事はもうすでにできなくなっています。
なぜなら、教室でありとあらゆることを討論する際に、必ず誰かがインターネットで調べてみたいと思うからです。大人の真似をして・・・。
全国民の大人たちが、インターネットで調べるのを、当然のようにやります。だからなのか、子どももインターネットで調べたい、と思うらしいのです。
嘘ばかり載っているんだから、教室では調べない、と言うことにすると、宿題では無いのに、勝手に家で調べてきたりします。インターネットで。
なので、どうしても教室で何かを考える際に、インターネットの存在を全員の頭の中から消すわけにはいかないのです。
時代は、ここまで進んでしまいました。
開き直ったのは、文科省です。
文科省は、1人1台、タブレットを配りました。そして、子どもたちの意見がまとまらないことを前提に、授業を組むようになったのです。
当然、人間は、一人一人意見が違って当たり前ですから、子どもたちは自分の端末に、自分の意見を書いて提出します。教員はそれを全員に見せます。子どもたちは自分と似たような子どもの意見を探したり、あるいは違う意見を見つけたりします。そして疑問点を直接その子どもにぶつけに行ったり、自分の意見と似たような友達にやっぱりそうだよねと確認をしに行ったりします。そして自分の意見を支える論拠となる部分をさらに練り直すのです。
これが最近の授業の様子です。教師が研修でお互いの授業を見合うことはありますが、どの授業もたいていこんな感じに仕上がっておりますね。
思い返せば、昭和の先生は、みんなありとあらゆることに造詣が深く、ご自身の知識をたくさん授けてくださいました。
それに比べて、令和の教員は、本当に存在感が薄いです。いや、逆に濃いのかもしれませんが。
教員と子どもの間には必ずデータベースの巨大な知識の泉がそこに存在しています。教員は、まっすぐ子どもにアプローチするのではなく、巨大な知識の泉を迂回するようにして、子どもの横側に、そっと現れて、知識の泉を指差して言うのです。
この辺にこんな知識が書いてあるけど、参考になるかなぁ?
どうですか?
これが令和の先生です。
威厳もへったくれもありません。
ですが、誤解がなくなって私はいいと思います。
だって先生だって知らないことたくさんあるんだもの。
昭和の子どものように、純粋な目でキラキラと先生を見つめて、
「先生は何でもご存知だ」
と憧れるような事はありません。
でも、そんな実態からかけ離れたようなポーズは取らなくて良いのです。
それはたくさん知ってたほうがいいかもしれないけど、知識を更新していなければ、価値は無いでしょう。
だから、もう教師はデータベースとは喧嘩しないのです。
データベースと張り合ったって負けるに決まっています。
なので、子どもがデータベースをじっくりと見て、自分の意見を醸成しようとして腕を組んで唸っている、その横にふっと現れるのです。
子どもはふと現れた先生を横に見て言うでしょう。
「あ、先生。何か用?」
すると先生は、もじもじしながら、おずおずしながら言うのです。
「あ、さっき提出されたカード見たんだけど、あれなかなか鋭い見方だよね。感心したよ。でさ、このクラスにもう1人、ちょっと違うけど、似たようなところを調べている子がいたから、話してみたらどうかなと思ってね。◯◯くんなんだけど・・・」
くれぐれも、これ大学の話じゃないですよ?小学生の話です。
先生はもう教室の真ん中にはいません。
これを知らないので、多くの保護者は、誤解をしていまして、授業参観に来ると、先生は何もしないじゃないか!とお怒りになる保護者もいるようです。無理もないけどネー。
変わりすぎだろ!
