日本人が美徳としてきたものに謙虚と言う態度がありますね。
これは、頭の良い人の証拠で、実際、様々に学び続けている人は、どうしたって態度が謙虚になってしまう。
これを逆に考える人もいますが、そうではありません。謙虚を目指し、謙虚っぽい振る舞いをすると頭が良くなるかというと、全くそんな事は無い。逆は真ならず、です。
頭が良くなると、ごく自然に態度として謙虚になってしまうと言うことなのです。
ただ、その場合、実際には、自画自賛する力と言うものも持っているのが普通であります。謙虚と自画自賛は両立するのです。
頭の良い人は、自分の欠点を理解していることが多いです。そのことが人格とは一切関係ないことを知っているからですね。人物の価値と、能力のなさや欠点とは無関係。何かができたり、パワーを持っていたり、影響力が強いと言うことが、その人の人格や、人間の尊厳や価値とは、無関係だということが、ごく自然に自明な状態なのです。
こういう人は、能力のなさを指摘されたときに、あるいは、自分で気がついたとき、それらがどの程度不足しているのか、どの種類の能力が不足しているのか、冷静に分析します。そしてそのことを公表します。
それと、同じ程度で、自分が周囲に良い影響与えた場合に、そのことの価値や喜びをしっかりと味わうことができるのです。
つまり、価値があるとか、ないとか言うことについて、冷静に分析し、忖度をしないのです。
なので、自画自賛をたっぷりして、自己肯定感を保つことができるのです。そして自己肯定感を保つことができる人は、能力が人格とは無関係だということがわかりますから、失敗や欠点を正確に見つめる強さを持っています。
この強さの計測をする方法がありますが、それは、失敗を人のせいにするかどうかということです。
〇〇さんのせいで失敗した、と言うふうに人のせいにする人は失敗を正しく見つめることをしません。成績が上がることもないでしょう。
頭の良い子どもが、割と、自分の非をあっさり認めるのはなぜでしょうか。また、人のせいだと言うふうに、他人に責任を転嫁しないのはなぜでしょうか?
その必要がないからです。
教室で頭の良い子どもをたくさん見てくると、ある振る舞いが共通していることがだんだんに見えてきます。
それは、他人のせいにせず、自分のアイディアや工夫で乗り切ることができるんじゃないかと言うふうに、ゲーム感覚で捉えていることです。
そして、あたかもゲームの主人公のように、自分の持ち物アイテムのリストをずっと眺めてみて、これが使えるのではないか、あれと、あれを組み合わせたら、こんな効果が出るのではないか、先に、あれをしておけば、次の場面で良い展開になるのではないか、と試したくてうずうずしています。
ゲームに登場するある村の、ある村人が、自分の意図するように活躍しないからといって、何も困らないのです。そんな、自分にとって好都合過ぎる登場人物が、おいそれといるわけがないですから。
というか、頭の良い子どもは、自分がこのゲームの主人公だと言うことをきちんと知っています。
どの順序で、どの村を訪問するのか?
誰とどんな装備を持って乗り込むのか?
どんなイベントを先にこなしておくのか?
全部決めるのが自分だとわかっているから、村人がちょっと気に入らないことを言ったとて、全く意に介さないのです。
自分が主人公だと言う感覚を薄くしか持っていない子もいます。その感覚が、とても薄いのです。
そして、その薄さは、どうせコントローラーを持っているのは、お母さんだものと思っていることに、起因しています。
精神的に親離れをしないと、子供は本当の意味で頭が良くなる事は無いのです。

母の日、おめでとう!ありがとう!
これは、頭の良い人の証拠で、実際、様々に学び続けている人は、どうしたって態度が謙虚になってしまう。
これを逆に考える人もいますが、そうではありません。謙虚を目指し、謙虚っぽい振る舞いをすると頭が良くなるかというと、全くそんな事は無い。逆は真ならず、です。
頭が良くなると、ごく自然に態度として謙虚になってしまうと言うことなのです。
ただ、その場合、実際には、自画自賛する力と言うものも持っているのが普通であります。謙虚と自画自賛は両立するのです。
頭の良い人は、自分の欠点を理解していることが多いです。そのことが人格とは一切関係ないことを知っているからですね。人物の価値と、能力のなさや欠点とは無関係。何かができたり、パワーを持っていたり、影響力が強いと言うことが、その人の人格や、人間の尊厳や価値とは、無関係だということが、ごく自然に自明な状態なのです。
こういう人は、能力のなさを指摘されたときに、あるいは、自分で気がついたとき、それらがどの程度不足しているのか、どの種類の能力が不足しているのか、冷静に分析します。そしてそのことを公表します。
それと、同じ程度で、自分が周囲に良い影響与えた場合に、そのことの価値や喜びをしっかりと味わうことができるのです。
つまり、価値があるとか、ないとか言うことについて、冷静に分析し、忖度をしないのです。
なので、自画自賛をたっぷりして、自己肯定感を保つことができるのです。そして自己肯定感を保つことができる人は、能力が人格とは無関係だということがわかりますから、失敗や欠点を正確に見つめる強さを持っています。
この強さの計測をする方法がありますが、それは、失敗を人のせいにするかどうかということです。
〇〇さんのせいで失敗した、と言うふうに人のせいにする人は失敗を正しく見つめることをしません。成績が上がることもないでしょう。
頭の良い子どもが、割と、自分の非をあっさり認めるのはなぜでしょうか。また、人のせいだと言うふうに、他人に責任を転嫁しないのはなぜでしょうか?
その必要がないからです。
教室で頭の良い子どもをたくさん見てくると、ある振る舞いが共通していることがだんだんに見えてきます。
それは、他人のせいにせず、自分のアイディアや工夫で乗り切ることができるんじゃないかと言うふうに、ゲーム感覚で捉えていることです。
そして、あたかもゲームの主人公のように、自分の持ち物アイテムのリストをずっと眺めてみて、これが使えるのではないか、あれと、あれを組み合わせたら、こんな効果が出るのではないか、先に、あれをしておけば、次の場面で良い展開になるのではないか、と試したくてうずうずしています。
ゲームに登場するある村の、ある村人が、自分の意図するように活躍しないからといって、何も困らないのです。そんな、自分にとって好都合過ぎる登場人物が、おいそれといるわけがないですから。
というか、頭の良い子どもは、自分がこのゲームの主人公だと言うことをきちんと知っています。
どの順序で、どの村を訪問するのか?
誰とどんな装備を持って乗り込むのか?
どんなイベントを先にこなしておくのか?
全部決めるのが自分だとわかっているから、村人がちょっと気に入らないことを言ったとて、全く意に介さないのです。
自分が主人公だと言う感覚を薄くしか持っていない子もいます。その感覚が、とても薄いのです。
そして、その薄さは、どうせコントローラーを持っているのは、お母さんだものと思っていることに、起因しています。
精神的に親離れをしないと、子供は本当の意味で頭が良くなる事は無いのです。

母の日、おめでとう!ありがとう!