学校と言う教育機関にいるために、どの子もできるようにしていくと言うことが教師の使命である。そのために研修も受けるし、個人的な勉強も行うし、もうほとんどすべてのエネルギーをそこに費やしてゆく。

ただ、一方で、いわゆるできない子、やれない子について、教員がそれをだめなことと認識してしまうと、そう思ったことが顔に出てしまう。
会社では、上司がいかに腹を立てても良いし、パワハラもあるようだし、できない社員に対して、全くお前はどうしようもないなというのを表情に出しても良いのでありましょう。古い話になるが、映画の釣りバカ日誌などはそういう場面もありましたね。

しかし、その表情に出すのは、小学校では絶対にしてはいけない。逆上がりが失敗した子に、お前はダメだなぁと言う表情を浮かべては絶対にいけない。

次に、表情にさえ出さなければ思っても良いのかと言う問題が生じる。
このことについて、文献を調べてみたが、結局、唐十郎の演劇論や、舞台芸術、俳優論などに行き着いた。

ルビーの指環で大ヒットした寺尾聰のお父さんである
宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年大正3年〉9月27日 - 1988年昭和63年〉1月9日
が、究極の演劇理論を口にしている。
それは、思えば出る、と言うたった5文字のことでありまして、すべての演劇は、このたった5文字に帰結すると言うので、まぁ、深い言葉であります。

例えば、価値がないなぁと思ってしまうと、やはりどんなものを見ても、それは顔に出てくると言うのであります。
逆に言うと、すげえなぁとも思ったなら、どんなに大したことがない、という表情を浮かべようとしても、どこかにすげえなぁと言うものがにじみ出てくると言うのです。宇野重吉はすごいことを言いますね。

教師に置き換えてみると、教師は、できない子に対して、なんだできないなぁ、大した事ないなぁ、だめだなぁと思ってはいけないと言うのです。

教師はできるようになってほしいと願いを持って子供に接しますが、その子がやってみて、できなかったとしても、だから、価値がないとは思わないのです。

その頑張ろうとしている態度や、あるいは頑張ろうとしていなくても、興味関心を少しでも振り分けたのなら、あるいは、興味関心を少しも持たずとも、学習対象に対して、ちらりとでも見たのなら、あるいはちらりと見ないで、無視したとしても、学校に来たのであれば、あるいは、学校に来なくても、学校に来ようと言う気持ちを、少しでも持ったのなら、あるいは、学校に来ようなど、微塵にも思わなくても、学校から電話をしたときに、受話器を取って反応してくれたら、それで大満足をするのが教師と言う生き物なのです。

これを会社の経営者に、同じ気持ちになれと言っても無理でしょう。資本主義なのですからあり得ません。

つまり、教員は、資本主義には生きていないのです。これは、宿命であり、運命なのですから、職業として仕方がないことなのです。

この資本主義の世の中で、資本主義の中に組み込まれていない職業があったということなのです。

やばいですね。しかし、私たちはそれを引き受けなければいけませんし、受容しなければならないのです。

問題は、文科省の偉い人だけでなく、政治家がそのことをわかってないことですな。いいえ、ちゃんと理解している方もたくさんいますから安心してください。

IMG_5903