ケーキを三等分できない、という少年たちの実情を書いた本を読んだ。ケーキに対して、まず一本の線を引いてしまう。衝動的にひく。考えが無いので、2本目に困る。それで、2本目も無理やり引く。結局、三等分ができない。
こういうことは非常によくあること。しかしこれまでは、そんなに話題にしてこなかった。
子どもの能力とは何だろうか。
大人は子どもの何を伸ばそうと考えるか。
乱暴かもしれないが、これは結局次の一つに集約されそうだ。
それをするとどうなるかを予測する力。
特に考えもなしに、子どもはさまざまに物を転がし、何かに乗せたり、自分が乗ったり、ぶら下がったりする。
それが当たり前で、子どもの仕事であり、遊びなのだが、ともすると怪我をする。
高い場所から落ちれば、痛いし、怪我になる。
そのうちに誰もが学習するから、回避できるコトなのだが、一部の子は、学習をしない。というか、「することができない」。だから、しょっ中怪我をするし、その怪我の程度が大きくなっていく。
ケーキを三等分することができない子の多くが、実は学習障害の側面を持っている。
まさに、「それをするとどうなるかが見えない」という状態のままで、生活しているのだ。
少年刑務所で講義をする先生がいて、お話を伺ったことがある。
少年刑務所は、少年受刑者を成人受刑者から分離して拘禁し、悪風感染を防止するとともに、特別な教育的処遇を行うことを目的としている。
だから、松本市にある少年刑務所のように、中学校を併設するところもある。
その先生が少年たちと話して一番に感じたのが、やはりそのこと。つまり、それをするとどうなるのかが、想像できない、という特性についてだった。
その先生は、歯磨き粉をチューブから下敷きの上に絞り出させてから、
「それを元に戻せる?」
と聞いた。
少年は、戻せるよ、と言うのだそうだ。ところがやってみると戻せない。
ダメだ、というその子に向けて、先生は、
「戻せないって、そういうことよ」
と教えた。
この世の中には、一旦元に戻せることもあるが、一方で取り返しのつかないことがある。それを、少年たちが、できるだけ実感の湧くように、何度も体験させるそうだ。
先生は、少年に、
「それ、元に戻せることかな。それとも、戻せないかな」
と聞く。また、
「それ、そのことをやり続けると、どうなると思う?どんなことが起きそう?」
少年が床を掃除すると、
「それすると、床がどうなるの?」
「それをすると、どんな人が喜んでくれるかな」
やってることは、小学校の先生と変わらない。しかし、すごく重要な指導なのだ。それをすると、あなたのその行動が、社会にどう影響するの?と、聞くことは。
親だって、これを繰り返しながら、子育てをする。
私もあなたも、ずっとそうして、周囲の大人に問いかけられて、考えることを促されたから、成長したし、自分で計画を立てたり、修正したり、できるようになったのだ。
それをするとどうなるのか、考えること。そして、その力。
まさに、教育の担う1番の目的はこれで、大人は絶えず、この問いかけを子どもにしていくことが大切だ。
教育現場で教師がよく、子どもに対して問いかける。
「それをすると、どんな良いことがあるの?」
この問いかけなどは、まさにそれだ。
「そうすると、どうして(なにが)分かるの?」算数でよく言うセリフだ。
「そうすると、どうして(なにが)出来るの?」
体育でよく言うセリフ。
算数の授業も国語も体育も図工だって、考えてみれば、全部同じで、根幹はコレでありましょう。
こういうことは非常によくあること。しかしこれまでは、そんなに話題にしてこなかった。
子どもの能力とは何だろうか。
大人は子どもの何を伸ばそうと考えるか。
乱暴かもしれないが、これは結局次の一つに集約されそうだ。
それをするとどうなるかを予測する力。
特に考えもなしに、子どもはさまざまに物を転がし、何かに乗せたり、自分が乗ったり、ぶら下がったりする。
それが当たり前で、子どもの仕事であり、遊びなのだが、ともすると怪我をする。
高い場所から落ちれば、痛いし、怪我になる。
そのうちに誰もが学習するから、回避できるコトなのだが、一部の子は、学習をしない。というか、「することができない」。だから、しょっ中怪我をするし、その怪我の程度が大きくなっていく。
ケーキを三等分することができない子の多くが、実は学習障害の側面を持っている。
まさに、「それをするとどうなるかが見えない」という状態のままで、生活しているのだ。
少年刑務所で講義をする先生がいて、お話を伺ったことがある。
少年刑務所は、少年受刑者を成人受刑者から分離して拘禁し、悪風感染を防止するとともに、特別な教育的処遇を行うことを目的としている。
だから、松本市にある少年刑務所のように、中学校を併設するところもある。
その先生が少年たちと話して一番に感じたのが、やはりそのこと。つまり、それをするとどうなるのかが、想像できない、という特性についてだった。
その先生は、歯磨き粉をチューブから下敷きの上に絞り出させてから、
「それを元に戻せる?」
と聞いた。
少年は、戻せるよ、と言うのだそうだ。ところがやってみると戻せない。
ダメだ、というその子に向けて、先生は、
「戻せないって、そういうことよ」
と教えた。
この世の中には、一旦元に戻せることもあるが、一方で取り返しのつかないことがある。それを、少年たちが、できるだけ実感の湧くように、何度も体験させるそうだ。
先生は、少年に、
「それ、元に戻せることかな。それとも、戻せないかな」
と聞く。また、
「それ、そのことをやり続けると、どうなると思う?どんなことが起きそう?」
少年が床を掃除すると、
「それすると、床がどうなるの?」
「それをすると、どんな人が喜んでくれるかな」
やってることは、小学校の先生と変わらない。しかし、すごく重要な指導なのだ。それをすると、あなたのその行動が、社会にどう影響するの?と、聞くことは。
親だって、これを繰り返しながら、子育てをする。
私もあなたも、ずっとそうして、周囲の大人に問いかけられて、考えることを促されたから、成長したし、自分で計画を立てたり、修正したり、できるようになったのだ。
それをするとどうなるのか、考えること。そして、その力。
まさに、教育の担う1番の目的はこれで、大人は絶えず、この問いかけを子どもにしていくことが大切だ。
教育現場で教師がよく、子どもに対して問いかける。
「それをすると、どんな良いことがあるの?」
この問いかけなどは、まさにそれだ。
「そうすると、どうして(なにが)分かるの?」算数でよく言うセリフだ。
「そうすると、どうして(なにが)出来るの?」
体育でよく言うセリフ。
算数の授業も国語も体育も図工だって、考えてみれば、全部同じで、根幹はコレでありましょう。