雪山の山岳ガイドをしていると言う人の話を聞いた。
最も伝えたいのは、ネット情報を見て山に登るなと言う警告であった。

ネットには丁寧に情報を載せる人がいる。持ち物は何か、いつから何時から登ったのか、計画した時期はいつか。

丁寧に道順や道筋を示す写真やポイントまで載せている人がいる。
「わかりにくい印ですが、こうなってる方が正解です」
「ここの目印はピンク色のリボンです、ピンク色を見たら右に曲がりましょう」

本当に詳しく載せている。つまり、載せた人は、自分の真似をして登る人が迷わないように親切で載せている。

これを見て、自分もこうしたら登れるのだと思いこむ人が出てくる。

ところが、その情報を載せた瞬間とは、当たり前だがズレがある。ブログを読んだ読者の1人が思い立って、これの真似をしようとして登った日時は、記事を書いた人の日時とは、違うのであります。

あると思ったピンク色のリボンは当日は無い可能性だってあり得る。
当日の気温も違う、天候も違う。
何しろ、登る人の、そもそもの経験年数や体力まで全て違う。
持病を持っている人か、あるいは、以前、腰を痛めたことがあるか。
履いている登山靴の種類も違う。歩幅も違うし、スピードも違う。血糖値が上がったり下がったりしやすい人なのか、普段から肉体的な労働仕事についている人なのかどうなのか。若い頃に雪山に登ったことがあるのかどうか。最近雪山に登ったのかどうか。

全然違う人の違うデータをもとに作ったガイドをみて、

「この通りやれば、真似をすれば、俺も登れる」

と、考える。

これは実はどうしようもない仕方のないことである。なぜなら、人間の脳は思い込むようにできているし、決めつけるようにできているから。
どうしてかと言うと、人間の脳は、省エネのため、複雑な情報をできるだけ簡単にまとめようとして覚える傾向がある。「要するにこういうことなんだろう」「ああ、分かった!」という処理の仕方は、人間が生まれ持ってたくさんの情報を処理するために見出した知恵なのであります。

そして、わかったと言うふうに自分を納得させないと、新しい新規の出来事に対してチャレンジする勇気も湧いてこないのが人間。本当はわかっていないのにわかったと言わなければ、不安遺伝子が邪魔をして実行できない。
だから、全人類が決めつけて思い込んで暮らしている。この事は誰も責めようのない事実なのです。

インターネットを通じて、気軽に誰もが山の情報を載せられるようになってから、雪山の遭難は飛躍的に増えてしまったと、前述の登山家がぼやいておられるのは、そう言うことのようです。

山岳ガイドは、遭難者が出たときに要請が出て現場に向かう。救助と言うのは、推理と安全確保と体力の勝負。救助隊員は、たとえ自分が30回以上登っている山でも、もしかしたら、はじめての体験をするかもしれない、と考えて準備をする。

万が一、万が一、万が一を考えて準備をする。
普段と違うロープの縛り方、紐の縛り方は絶対にしない。
決まった場所に必ず決まったものをしまう。
2つのものを同時に手に持って2つの作業をするような事はしない。炎の上で、何かする事は無い。机の端に、落としたら割れるものは絶対におかない。落としたら割れるものの上を、自分の肘や袖が通過することがない。体の向きを変えても、絶対に当たらないようにする。

要するに、訓練を積んでいるのである。

ふと思いついた都会のサラリーマンが、ネットで取り寄せた山の道具を持って、冬山に1人で登ってしまうのと、救助隊員が万が一を考えて準備を行うのとではレベルが違う。

世の中は今、専門家を軽んじる時代になっている。ありとあらゆる専門家とその知識や経験が、大切にされていない。
その代わり、簡単に書いた情報や、軽く紹介されたYouTube動画で、「こんな感じでやれます」と情報は拡散されている。

今や健康に関する情報も、専門家より、もしかしたらYouTuberの一言の方が重視されているかもしれない。

専門的な知見が軽く見られているのは、日本だけではなく、世界中の傾向らしい。インターネットの発祥元であるアメリカ合衆国においても、専門的な知識はどんどんとその社会的地位を落としていると言われている。先日、そのことをビルゲイツが嘆いていたようだ。「インターネットの発明により、私が思い描いて望んでいた未来とは、違う方向へ進んでしまっている」と。

専門的な知見よりも素人の感想のようなものが社会を動かす時代。

この傾向はますます強まっていくだろう。となると、現代の子育てでやるべき方向は定まってくる。

知識を教えるのではなく、研究的な態度の大切さを教える教育に方向転換するのだ。

正解はどれかを教えるのではなく、答えはこれだこれ1つだと、安易な考えに陥ることの愚鈍さを伝えるべきだ。

小学生に人気の、ヨシタケさんの描いた絵本に、「りんごかもしれない」と言う作品がある。
この絵本では、目の前にりんご、のようなものがあり、これはリンゴだろうか?と問いかけるところから始まる。

しかし、それがりんごだと言うふうに断言する事はなかなか難しい。
目で見たものは全て事実か、と、問うているのである。

事実とは何か。
目で見たものは事実と言えるか。
耳で聞いたものは事実と言えるか。
A = Bだと言い切れるだろうか。

こうした思考訓練を、すべての日本国民が、小学生時代から綿密に行っていけば、軽くて安くて、ペラペラの知識に、人生を翻弄されて無駄に過ごしてしまう国民は減るだろう。
しかし残念なことに文科省がこれを学校でやるとは思えないし、学校はすでにやるべきことでキャパオーバーしている。


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