2016年に、わたしは下記のような記事を書いた。
そこに、三年寝太郎のことが書いてある。
要するに、「だれにだって本当の価値があり、実力主義は間違いである」ということが言いたいようだ。
今から8年も前の記事なので、わたしは久しぶりに読み返して、まったく覚えていないから新鮮だった。三年寝太郎についてググッていたら、まさかの自分の記事が出た、というわけ。
その記事の最後は、
どうしてそんなことを書いたかと言うと、学校へ来ることを努力とよび、努力できない人を責める風潮を感じたからだ。
もともと、努力の得意な人と、努力することができない人と、両方いるんですよ。
まあ、一般的に、努力が得意な人は、わりと社会の中で目に見える成果を出しやすいために高評価を得ることが多い。そしてその人は、パッと見てわかりやすい成果を出さない人を、『責めやすい』。
わたしはこんなに努力しているのに、なんであのひとはしないのだろう!
パワハラはこれが原因ではないだろうか。
しきりに価値を語りたい人のことを、価値依存、と呼びますが、まさにパワハラは価値依存の状態から生まれたモンスターであり、実力主義もまたそうでしょうね。価値をさけぶ人のほとんどは、同時に「努力が必要であり、あなたは努力をしていない。努力をスべきだ。そして努力の結果である『価値』をあがめなさい」と言いたいわけ。
ところが、価値依存の人が忘れていることがある。
それが三年寝太郎であります。
だって、用水路の価値を、当時むらに住んでいた誰も、理解できなかったんだから。
そして、太郎が目の前の土を少しずつ掘っている、そのクワの先についた土をみても、価値がわからないのです。つまり、価値を叫ぶ人こそ、価値が見えなくなるパラドックスがあり、価値を知っているぞ、といえば言うほど、今努力していないようにみえるぐうたらな人だって、まだ世の中に無い価値をみつけることができる、ということを忘れているのです。
価値を知っている人、かしこい人のほうが、より忘れやすいのですね。三年寝太郎の価値を。
今回書こうとしたのは、
『三年寝太郎は学校に3割くらい居る』
ということ。
残りの7割は、ふつうにある程度は、目に見えやすい努力ができるタイプでありましょう。
成果は、目に見えやすいものだけではありません。
世の中には多くの人がまだ気づいていない価値があり、その価値に気づくことは、IQの高さや、努力ができるできない、という人間の特性や、体の状態やコンディションの状態に関わらず、だれにだって可能性のあることです。
そのことに気づいた国から、国を上げて「多様性をみとめよう」という動きを取り始めています。
これからは、多様性よりも実力主義だ、という国は没落し、常に他国の後塵を拝する、ということになりましょう。
そうではなく、社会に埋もれたアイデアや宝が、どの人にも存在する可能性があり、だからこそ多様性を認めることで本当に人間社会に役立てることができるのであり、いわゆる「目に見える努力ができる人だけを優遇する」国家は、実は宝を捨てているアホ国家だ、ということを知ることが大切なのでしょうね。
そういえば、アフガンを緑化したことで有名な中村医師も、寝太郎のように水路を掘ろうと思って土を掘り出したら、始めたばかりの頃は特に、周囲からあいつはアホだと言われ、なにか悪いことをしているのではないか、と相当な邪魔や悪意を受けたらしいですね。
日本人の多くは、実力主義では生きにくいDNAを持っているのではないかなあ。
おそらく日本人の多くは、三年寝太郎のようなタイプなのではないかと思いますネ。
だって、通常のノーベル賞はなかなかとれないけど、イグノーベル賞は世界で日本人だけが、かなり長期間、13年連続かなにかで受賞しているでしょう。あれ、アホなことには価値を認めない、という世界の常識に抗する賞で、アンチ実力主義の最たるものですよね。まさに三年寝太郎的な。
日本人は実力主義をやめたほうがいい気がするなあ。努力ができる人を重用するのでなく、努力できない人をも大事にする社会のほうが、日本人には向いているように思います。
わたしが教室で三年寝太郎を読み聞かせたあと、
「自分はどっちタイプだと思う?」
ときくと、クラスの3割は、手をあげました。
残りの7割の子に、どうして自分は三年寝太郎ではないと思うのかと聞くと、わたしはそんなに100年後、1000年後のことまで考えられるような人間の器がないので、三年寝太郎のような立派な人にはとうていなれない、わたしはせいぜい、毎日宿題をコツコツとこなして、寝太郎を手伝うしかない、と言ってました。
子どもは、コツコツ努力をする人よりも、寝太郎のほうが価値があると思うらしいです。大人とはまったくちがいますな。
そこに、三年寝太郎のことが書いてある。
要するに、「だれにだって本当の価値があり、実力主義は間違いである」ということが言いたいようだ。
今から8年も前の記事なので、わたしは久しぶりに読み返して、まったく覚えていないから新鮮だった。三年寝太郎についてググッていたら、まさかの自分の記事が出た、というわけ。
その記事の最後は、
「学校の価値を語らずとも、となっている。
価値があるかどうかを問わなくても、
Aくんが学校へくることを喜び、大人はそこでもっとも人間らしくふるまいながら、Aくんと共にすごす、ということだろう。なにしろ、われわれは、生きていること自体がヨロコビであるのだから。」
どうしてそんなことを書いたかと言うと、学校へ来ることを努力とよび、努力できない人を責める風潮を感じたからだ。
もともと、努力の得意な人と、努力することができない人と、両方いるんですよ。
まあ、一般的に、努力が得意な人は、わりと社会の中で目に見える成果を出しやすいために高評価を得ることが多い。そしてその人は、パッと見てわかりやすい成果を出さない人を、『責めやすい』。
わたしはこんなに努力しているのに、なんであのひとはしないのだろう!
パワハラはこれが原因ではないだろうか。
しきりに価値を語りたい人のことを、価値依存、と呼びますが、まさにパワハラは価値依存の状態から生まれたモンスターであり、実力主義もまたそうでしょうね。価値をさけぶ人のほとんどは、同時に「努力が必要であり、あなたは努力をしていない。努力をスべきだ。そして努力の結果である『価値』をあがめなさい」と言いたいわけ。
ところが、価値依存の人が忘れていることがある。
それが三年寝太郎であります。
だって、用水路の価値を、当時むらに住んでいた誰も、理解できなかったんだから。
そして、太郎が目の前の土を少しずつ掘っている、そのクワの先についた土をみても、価値がわからないのです。つまり、価値を叫ぶ人こそ、価値が見えなくなるパラドックスがあり、価値を知っているぞ、といえば言うほど、今努力していないようにみえるぐうたらな人だって、まだ世の中に無い価値をみつけることができる、ということを忘れているのです。
価値を知っている人、かしこい人のほうが、より忘れやすいのですね。三年寝太郎の価値を。
今回書こうとしたのは、
『三年寝太郎は学校に3割くらい居る』
ということ。
残りの7割は、ふつうにある程度は、目に見えやすい努力ができるタイプでありましょう。
成果は、目に見えやすいものだけではありません。
世の中には多くの人がまだ気づいていない価値があり、その価値に気づくことは、IQの高さや、努力ができるできない、という人間の特性や、体の状態やコンディションの状態に関わらず、だれにだって可能性のあることです。
そのことに気づいた国から、国を上げて「多様性をみとめよう」という動きを取り始めています。
これからは、多様性よりも実力主義だ、という国は没落し、常に他国の後塵を拝する、ということになりましょう。
そうではなく、社会に埋もれたアイデアや宝が、どの人にも存在する可能性があり、だからこそ多様性を認めることで本当に人間社会に役立てることができるのであり、いわゆる「目に見える努力ができる人だけを優遇する」国家は、実は宝を捨てているアホ国家だ、ということを知ることが大切なのでしょうね。
そういえば、アフガンを緑化したことで有名な中村医師も、寝太郎のように水路を掘ろうと思って土を掘り出したら、始めたばかりの頃は特に、周囲からあいつはアホだと言われ、なにか悪いことをしているのではないか、と相当な邪魔や悪意を受けたらしいですね。
日本人の多くは、実力主義では生きにくいDNAを持っているのではないかなあ。
おそらく日本人の多くは、三年寝太郎のようなタイプなのではないかと思いますネ。
だって、通常のノーベル賞はなかなかとれないけど、イグノーベル賞は世界で日本人だけが、かなり長期間、13年連続かなにかで受賞しているでしょう。あれ、アホなことには価値を認めない、という世界の常識に抗する賞で、アンチ実力主義の最たるものですよね。まさに三年寝太郎的な。
日本人は実力主義をやめたほうがいい気がするなあ。努力ができる人を重用するのでなく、努力できない人をも大事にする社会のほうが、日本人には向いているように思います。
わたしが教室で三年寝太郎を読み聞かせたあと、
「自分はどっちタイプだと思う?」
ときくと、クラスの3割は、手をあげました。
残りの7割の子に、どうして自分は三年寝太郎ではないと思うのかと聞くと、わたしはそんなに100年後、1000年後のことまで考えられるような人間の器がないので、三年寝太郎のような立派な人にはとうていなれない、わたしはせいぜい、毎日宿題をコツコツとこなして、寝太郎を手伝うしかない、と言ってました。
子どもは、コツコツ努力をする人よりも、寝太郎のほうが価値があると思うらしいです。大人とはまったくちがいますな。