子どもたちは、昭和の頃とそう変わってない。子どもだからしょっ中熱を出すし、宿題も忘れる。
ここで話題にしたいのは、そういうことではない。子どもの、いわゆる一般的な属性や特質、ではない。
小学校の教員が、炭鉱のカナリアとしての役割を果たすとしたら、これか、と感じているのである。
今、気付いたことを書いておくのが良いと思ったことがあり、ここに書いておく。
それは、いわゆる個性とか競争、という不変かと思われた概念が、もしかしたら過去のものになりつつあるのでは、という思いだ。
児童会の選挙が、つい先日行われた。
個性的で優秀な子が児童会長に立候補するかと思いきや、なかなかそうはならない。以前からこの傾向はあったが、最近は本当につくづくそうだと思う。長と言う役職にはなかなかつきたがらないのである。
子どもたちは 「長はイヤだ」とはっきり言う。
そこで、児童会役員だとか長だとか言う特別な感じを、「薄める」作戦に出た。
人数を各クラス1人でなく、各クラスから2名ずつ選ぶようにし、その集団が、あたかも合議制のようにして、児童会の運営を行っていくように変えることにした。そうして初めて、各クラスから立候補者がでてくれた。
もともと、児童会は、各委員長ごとに〇〇委員長、と言う役割があり、その委員長が集まって会議を行います。今回は、その会議をリードし、束ねるはずの児童会長的な立場のメンバーをさらに増やしたのです。
かつて、〇〇委員長というのは、児童会全体からすると部長のような立場でした。今ではせいぜい課長が係長クラス。
そして、児童会間の方針やイベントの性格、実施の仕方にいたるまで、音頭をとって旗を振り、進める立場だった児童会長や副会長は、今や、8人ほどの大所帯を構成して、文化人類学者のレヴィストロースが研究した南の島の村の長老たちのようになって、ゆっくりと喋りながら合議制を行うのであります。
今、上へ上へと這い上がろうとするハングリー精神を持った児童は1人もいません。なんせ、Z世代ですから。個性を磨き、競争力をつけて、社長になろう!とする子はほとんどいない。時代が変わりつつある。
振り返ると、今からもう既に40年ほど前には、シラケ世代と言う呼び方があった。また、30年ほど前には、新人類と呼ばれる時代があった。今のような雰囲気へと変わっていく予感は、すでにかなり以前からあったのですね。
とはいえ、これまではやはり、一定数の上昇思考を持ったメンバーはいて、力を持ち、カリスマになることに憧れて、周囲の注目を得て、活躍することを望んでおりました。社会全体としても常識として一応、若い世代はだれしも社会のピラミッドの上流に這い上がっていくのを望んでいるはずだという前提条件が存在していたのです。
しかし、今はそんな前提も崩れている。誰も管理職にはなりたくない。ブラック企業を回避したいのと同じで、気持ちをすり減らすようなことはしたくないんです。上を目指すのではなく、自分の周りの小さな心地の良いコミュニティーとの、ゆるいつながりと共生を目指しているだけのようです。そこでは、すでに【個性】のアピールはあまり必要なことでもなくなっているし、価値はなくなってきています。個性はアピールするものでなく、じわじわと周囲に理解されていくもの、自然に浸透していくもの、黙っていても現れてくるもの、という感じでしょうか。
私の息子はちょうど20歳になるのですが、彼や、その彼の友人たちを見ていても、人生をかけて大きな城を構えようだとか、上昇気流に乗って、トップダウン型・上位下達の組織の上位を目指そうとか、そういう雰囲気は微塵も感じません。
私自身は、学生の頃に昭和が終わり、社会人となる頃は平成となっておりました。象徴であった天皇が逝去して、君主が統治した昭和の時代は終わったのですね。
考えてみると、長い歴史です。 江戸時代には、そのへんの人は、ただの『民』でありました。それが明治大正昭和の時代には、民が国民となります。昭和が始まると世界大戦があり、国民は、国の犠牲となって自分たちの命を放り出したので、戦後はその反動で国民は市民へと変わりました。民→国民→市民、という変化です。
思い返すと、しみじみしますね。
昭和から平成に変わり、国民という言葉は徐々に意味をなくしていきます。われわれ団塊ジュニア世代は、国の政治に期待などせずに成長した世代でした。そして、同世代の人たちの中には、自分の国の政治家の、下手な失政の尻拭い、後始末のために、戦争で大切な誰かの命を奪ったり自分の命捧げたりする人は、おそらくほとんどいないと思います。
そこからさらにさらに、時代はさらに進んだわけでして。
今の若者は、大きなコミュニティーを志向しません。その大きなコミュニティーの、まさか管理運営など絶対にしない。そんなことに神経をすり減らすなんてまっぴらごめんなのです。だから、組織を運営する側になろうと言う気もない。
今の若者が望むのは、足元の小さなコミュニティー。そして、そのコミュニティーですら、管理する側には、なりたくない。バイトリーダーになることでさえ拒む子が多いそうですね、今は。やろうと思えばできるのに。
こうした動きを社会の女性化とか、現代社会が男性性を失い始めたためだ、と批評する文化学者もいます。ところが、私はそう思わない。
いつしか時代は、人間の元の姿に立ち返ろうとしているだけだと思います。
人間はもともと、競争を目的に生まれたのではないですから。競争する生命体は、今や地球上では絶滅寸前です。虎やオオワシはとうの昔にレッドブックデータに入っており、最適化できる動物は子孫を繁栄させる。
うさぎは地球上で、爪を持たないのに子孫を増やし、タイガーは巨大な爪を研ぎながら絶滅するのです。
レヴィストロースが研究した文化人類学においては、南の島で、長老たちは、ゆっくりとのんびりとおしゃべりをしながら、合議を行います。けっしてそこには「腹を立てたり、みけんにシワを寄せて大声を出す人」はいません。長と名のつく立場の人もいません。長老というのは、研究者がそう記録に書いただけで、現地では、ただのおじいさん、です。
今回の児童会選挙や、児童会の形の変化をみていて、イヴァン・イリイチの「脱学校論」を思い出す先生もいたでしょうが、わたしは同時にモースの「贈与論」あるいはクロード・レヴィ=ストロースのさまざまな研究を思い出す。
昨今の児童会選挙の変化は、今年の5年生にはたまたまそういう子が多かったんだろう、というのでは説明がつきません。平板な個々の児童の志向やクセにおとしこんでしまえるものではない。おそらくはこの社会全体の構造的な変化であり、社会の性質の如実な変化が、【ここにも】現れてきたのだ、と考える方が腑に落ちます。
これからの児童会は、おそらくは【脱児童会】を志向するものとなるでしょう。それはビジネスの世界や政治の世界で長く使われてきた、児童会長をトップにおく組織図で説明できるものではなくなり、文化人類学で【純粋贈与経済】とよばれる南の島の世界の、資本主義社会とはまったく別の匂いがする、ああいった文化がぴったりとくるような、ゆっくりとした長老の合議の世界でありましょう。
そこでは、大きなイベントをやる必要も志向も消え失せてしまう。覇気は無いように思えます。しかし、それは上の世代の勝手な誤解にすぎません。そこには、Z世代がのぞむような、小さなコミュニティの、小さな安心があり、確実な安心があるでしょう。そして、一つのゴミを拾うことさえも、十分に味わっていくような、わびさびの世界にも通じる児童の姿が想像できるのです。そういう子どもたちが行う児童会は、これまでのような児童会でなくても、かまわないわけです。
きっと、その意味や価値すらも、古い世代にはわからないのかもしれません。

クロード・レヴィ=ストロース/中沢新一『サンタクロースの秘密』
ここで話題にしたいのは、そういうことではない。子どもの、いわゆる一般的な属性や特質、ではない。
小学校の教員が、炭鉱のカナリアとしての役割を果たすとしたら、これか、と感じているのである。
今、気付いたことを書いておくのが良いと思ったことがあり、ここに書いておく。
それは、いわゆる個性とか競争、という不変かと思われた概念が、もしかしたら過去のものになりつつあるのでは、という思いだ。
児童会の選挙が、つい先日行われた。
個性的で優秀な子が児童会長に立候補するかと思いきや、なかなかそうはならない。以前からこの傾向はあったが、最近は本当につくづくそうだと思う。長と言う役職にはなかなかつきたがらないのである。
子どもたちは 「長はイヤだ」とはっきり言う。
そこで、児童会役員だとか長だとか言う特別な感じを、「薄める」作戦に出た。
人数を各クラス1人でなく、各クラスから2名ずつ選ぶようにし、その集団が、あたかも合議制のようにして、児童会の運営を行っていくように変えることにした。そうして初めて、各クラスから立候補者がでてくれた。
もともと、児童会は、各委員長ごとに〇〇委員長、と言う役割があり、その委員長が集まって会議を行います。今回は、その会議をリードし、束ねるはずの児童会長的な立場のメンバーをさらに増やしたのです。
かつて、〇〇委員長というのは、児童会全体からすると部長のような立場でした。今ではせいぜい課長が係長クラス。
そして、児童会間の方針やイベントの性格、実施の仕方にいたるまで、音頭をとって旗を振り、進める立場だった児童会長や副会長は、今や、8人ほどの大所帯を構成して、文化人類学者のレヴィストロースが研究した南の島の村の長老たちのようになって、ゆっくりと喋りながら合議制を行うのであります。
今、上へ上へと這い上がろうとするハングリー精神を持った児童は1人もいません。なんせ、Z世代ですから。個性を磨き、競争力をつけて、社長になろう!とする子はほとんどいない。時代が変わりつつある。
振り返ると、今からもう既に40年ほど前には、シラケ世代と言う呼び方があった。また、30年ほど前には、新人類と呼ばれる時代があった。今のような雰囲気へと変わっていく予感は、すでにかなり以前からあったのですね。
とはいえ、これまではやはり、一定数の上昇思考を持ったメンバーはいて、力を持ち、カリスマになることに憧れて、周囲の注目を得て、活躍することを望んでおりました。社会全体としても常識として一応、若い世代はだれしも社会のピラミッドの上流に這い上がっていくのを望んでいるはずだという前提条件が存在していたのです。
しかし、今はそんな前提も崩れている。誰も管理職にはなりたくない。ブラック企業を回避したいのと同じで、気持ちをすり減らすようなことはしたくないんです。上を目指すのではなく、自分の周りの小さな心地の良いコミュニティーとの、ゆるいつながりと共生を目指しているだけのようです。そこでは、すでに【個性】のアピールはあまり必要なことでもなくなっているし、価値はなくなってきています。個性はアピールするものでなく、じわじわと周囲に理解されていくもの、自然に浸透していくもの、黙っていても現れてくるもの、という感じでしょうか。
私の息子はちょうど20歳になるのですが、彼や、その彼の友人たちを見ていても、人生をかけて大きな城を構えようだとか、上昇気流に乗って、トップダウン型・上位下達の組織の上位を目指そうとか、そういう雰囲気は微塵も感じません。
私自身は、学生の頃に昭和が終わり、社会人となる頃は平成となっておりました。象徴であった天皇が逝去して、君主が統治した昭和の時代は終わったのですね。
考えてみると、長い歴史です。 江戸時代には、そのへんの人は、ただの『民』でありました。それが明治大正昭和の時代には、民が国民となります。昭和が始まると世界大戦があり、国民は、国の犠牲となって自分たちの命を放り出したので、戦後はその反動で国民は市民へと変わりました。民→国民→市民、という変化です。
思い返すと、しみじみしますね。
昭和から平成に変わり、国民という言葉は徐々に意味をなくしていきます。われわれ団塊ジュニア世代は、国の政治に期待などせずに成長した世代でした。そして、同世代の人たちの中には、自分の国の政治家の、下手な失政の尻拭い、後始末のために、戦争で大切な誰かの命を奪ったり自分の命捧げたりする人は、おそらくほとんどいないと思います。
そこからさらにさらに、時代はさらに進んだわけでして。
今の若者は、大きなコミュニティーを志向しません。その大きなコミュニティーの、まさか管理運営など絶対にしない。そんなことに神経をすり減らすなんてまっぴらごめんなのです。だから、組織を運営する側になろうと言う気もない。
今の若者が望むのは、足元の小さなコミュニティー。そして、そのコミュニティーですら、管理する側には、なりたくない。バイトリーダーになることでさえ拒む子が多いそうですね、今は。やろうと思えばできるのに。
こうした動きを社会の女性化とか、現代社会が男性性を失い始めたためだ、と批評する文化学者もいます。ところが、私はそう思わない。
いつしか時代は、人間の元の姿に立ち返ろうとしているだけだと思います。
人間はもともと、競争を目的に生まれたのではないですから。競争する生命体は、今や地球上では絶滅寸前です。虎やオオワシはとうの昔にレッドブックデータに入っており、最適化できる動物は子孫を繁栄させる。
うさぎは地球上で、爪を持たないのに子孫を増やし、タイガーは巨大な爪を研ぎながら絶滅するのです。
レヴィストロースが研究した文化人類学においては、南の島で、長老たちは、ゆっくりとのんびりとおしゃべりをしながら、合議を行います。けっしてそこには「腹を立てたり、みけんにシワを寄せて大声を出す人」はいません。長と名のつく立場の人もいません。長老というのは、研究者がそう記録に書いただけで、現地では、ただのおじいさん、です。
今回の児童会選挙や、児童会の形の変化をみていて、イヴァン・イリイチの「脱学校論」を思い出す先生もいたでしょうが、わたしは同時にモースの「贈与論」あるいはクロード・レヴィ=ストロースのさまざまな研究を思い出す。
昨今の児童会選挙の変化は、今年の5年生にはたまたまそういう子が多かったんだろう、というのでは説明がつきません。平板な個々の児童の志向やクセにおとしこんでしまえるものではない。おそらくはこの社会全体の構造的な変化であり、社会の性質の如実な変化が、【ここにも】現れてきたのだ、と考える方が腑に落ちます。
これからの児童会は、おそらくは【脱児童会】を志向するものとなるでしょう。それはビジネスの世界や政治の世界で長く使われてきた、児童会長をトップにおく組織図で説明できるものではなくなり、文化人類学で【純粋贈与経済】とよばれる南の島の世界の、資本主義社会とはまったく別の匂いがする、ああいった文化がぴったりとくるような、ゆっくりとした長老の合議の世界でありましょう。
そこでは、大きなイベントをやる必要も志向も消え失せてしまう。覇気は無いように思えます。しかし、それは上の世代の勝手な誤解にすぎません。そこには、Z世代がのぞむような、小さなコミュニティの、小さな安心があり、確実な安心があるでしょう。そして、一つのゴミを拾うことさえも、十分に味わっていくような、わびさびの世界にも通じる児童の姿が想像できるのです。そういう子どもたちが行う児童会は、これまでのような児童会でなくても、かまわないわけです。
きっと、その意味や価値すらも、古い世代にはわからないのかもしれません。

クロード・レヴィ=ストロース/中沢新一『サンタクロースの秘密』