さて、わたしは今、カルト問題に関心が強く、この夏はいてもたってもいられないほどであった。
自分の受け取った印象を事実だととらえることは日常にあり、いちいち「事実とは何か」とさぐりさぐり進む人はめったにいない。
カルトについて考えるうえで、もっとも懸念されるのは、「信じる」ことである。
「信じる」という言葉もかなり意味の幅が広く、限定していかないと現代では話はひとつもできないと思う。運動会で1番をとる、と息巻いている子に、「信じているよ」と声をかけて励ますときの「信じる」と、マザームーンの超能力を「信じる」は、同じ意味としてとらえてはいけない。区別して、別の言葉に言い換えをしないと、本当にこのことを吟味することができない。
もう一つ、懸念していることがある。
あの世の存在についてである。
少し昔話を。
統一教会の信者はかつての大学にもいて、私はわりと親しい友達にもなったことがある。
なぜなら彼はなかなかのコーヒー通で、わたしにタダで、「これはなかなかお高い珈琲なのだが、新間には飲ませてやろう」と、かなりもったいぶって飲ませてくれたからだ。
さて、彼はあの世の先祖たちと自身のために、献金をしていた。
バイトに励みながら、かなりの金を献金したと聞いている。
彼に一度だけ、本当に一度だけ、(興味を持ったと思われないように)聞いてみたことがある。
すると、彼はまっとうな顔つきで、不幸には先祖の因縁がある、だから因縁転換をしなければならんのだ。と言った。
実際に、彼の妹は病弱で心臓に病をかかえており、母親も病弱なのだった。
それは彼によると、先祖に関係がある、だから俺ががんばる、ということであった。
彼の頭の中には、
1)あの世はある
2)先祖の怨念というものがある
3)その怨念は今の自分に影響する
4)怨念は今の自分に不幸をふりそそぐ
5)妹が病弱なのはその怨念がそうしたのである
6)母親の病気もその怨念がそうしたのである
7)献金をするとその怨念は晴れていく
8)その献金額はまだ不足しているために自分が払わねばならない
というように、少し考えただけでも8つの層(レイヤー)がある。
ひとによって、どこまで信じるか、ちがっている。
1)だけは信じる、という人。
1)と2)を信じる人。
1)から3)までを信じる人。
アンケートをとったら、おれはここまでだな、とか、わたしは4)までだけど、5)はそう思わないな、という感じで、差があることがわかるだろう。
要するに人間は、8つすべて信じなくともかまわないわけだ。信じるレイヤーの数は7つでもいいし、6つでもいいし、1つでもいいのであり、どの層を信じてもかまわない。一つも信じないことだってできる。事実、世の中に生きる人間はこの8つの層(レイヤー)を一つも信じていない、という人が多数でありましょう。
あの世はある、という、最初の1番目から信じないけど、ということを簡単にわたしは彼に対して述べた。しかし彼はもうすっかり私を洗脳することはあきらめており、話題はコーヒーの味のことに移ったのであります。
さて、あの世はある、ということを信じるためには、A=Bである、と考えなくてはならないが、実際にはA=Aであります。A=Bではなく、A=Aなのであります。
実際のりんごの味と、わたしがとらえた脳内のりんごの味は、まったく別のものであります。
(☆と☆とは別)
あの世はある、と私が仮に考えたとしても、あの世が実際にあるかどうかとは、まったく別です。
それは、分からないのです。で、肝心なのは、
わからない、という状態でかまわないのであり、あの世はあるから→先祖の怨念というモノもあるであろう、とは考えてはいけないのです。それは、分からないのですから。レイヤーの1番も分からない、2番もわからない、3番もわからない、4番もわからない、層(レイヤー)すべて分からない。
もっと極端にいえば、もし私の頭がそれを信じたとしても、実際にあの世があるかは、分からないのです。献金をして、それで解怨ができるかどうかも、分からないのです。解怨ということがあるかどうかすら、分からない。あの世があるかどうか、わたしが確信したとしても、あなたが確信したとしても、マザームーンさんが確信したとしても、だれにも分からないのです。
カルトの問題は、信者のみならず地球上の一人ひとりが向き合わなくてはいけない問題だ。
教師としては、子どもたちにどんな授業をすればいいのか、と思う。
事実を事実だとする、ということですら、子どもたちと共に学ぶ時間を確保するのは非常に困難である。とくに高学年になればなるほど、「そんなひまないよ」という空気が濃厚になる。
どうすれば、そういうことを学べるのだろうか。
授業の組み立てを、考えていきたい。
わたしは、この、「たとえだれが確信したとしても、事実については分からない」ということについて、道徳の授業で教えるべきだと考えます。
自分の受け取った印象を事実だととらえることは日常にあり、いちいち「事実とは何か」とさぐりさぐり進む人はめったにいない。
カルトについて考えるうえで、もっとも懸念されるのは、「信じる」ことである。
「信じる」という言葉もかなり意味の幅が広く、限定していかないと現代では話はひとつもできないと思う。運動会で1番をとる、と息巻いている子に、「信じているよ」と声をかけて励ますときの「信じる」と、マザームーンの超能力を「信じる」は、同じ意味としてとらえてはいけない。区別して、別の言葉に言い換えをしないと、本当にこのことを吟味することができない。
もう一つ、懸念していることがある。
あの世の存在についてである。
少し昔話を。
統一教会の信者はかつての大学にもいて、私はわりと親しい友達にもなったことがある。
なぜなら彼はなかなかのコーヒー通で、わたしにタダで、「これはなかなかお高い珈琲なのだが、新間には飲ませてやろう」と、かなりもったいぶって飲ませてくれたからだ。
さて、彼はあの世の先祖たちと自身のために、献金をしていた。
バイトに励みながら、かなりの金を献金したと聞いている。
彼に一度だけ、本当に一度だけ、(興味を持ったと思われないように)聞いてみたことがある。
すると、彼はまっとうな顔つきで、不幸には先祖の因縁がある、だから因縁転換をしなければならんのだ。と言った。
実際に、彼の妹は病弱で心臓に病をかかえており、母親も病弱なのだった。
それは彼によると、先祖に関係がある、だから俺ががんばる、ということであった。
彼の頭の中には、
1)あの世はある
2)先祖の怨念というものがある
3)その怨念は今の自分に影響する
4)怨念は今の自分に不幸をふりそそぐ
5)妹が病弱なのはその怨念がそうしたのである
6)母親の病気もその怨念がそうしたのである
7)献金をするとその怨念は晴れていく
8)その献金額はまだ不足しているために自分が払わねばならない
というように、少し考えただけでも8つの層(レイヤー)がある。
ひとによって、どこまで信じるか、ちがっている。
1)だけは信じる、という人。
1)と2)を信じる人。
1)から3)までを信じる人。
アンケートをとったら、おれはここまでだな、とか、わたしは4)までだけど、5)はそう思わないな、という感じで、差があることがわかるだろう。
要するに人間は、8つすべて信じなくともかまわないわけだ。信じるレイヤーの数は7つでもいいし、6つでもいいし、1つでもいいのであり、どの層を信じてもかまわない。一つも信じないことだってできる。事実、世の中に生きる人間はこの8つの層(レイヤー)を一つも信じていない、という人が多数でありましょう。
あの世はある、という、最初の1番目から信じないけど、ということを簡単にわたしは彼に対して述べた。しかし彼はもうすっかり私を洗脳することはあきらめており、話題はコーヒーの味のことに移ったのであります。
さて、あの世はある、ということを信じるためには、A=Bである、と考えなくてはならないが、実際にはA=Aであります。A=Bではなく、A=Aなのであります。
実際のりんごの味と、わたしがとらえた脳内のりんごの味は、まったく別のものであります。
(☆と☆とは別)
あの世はある、と私が仮に考えたとしても、あの世が実際にあるかどうかとは、まったく別です。
それは、分からないのです。で、肝心なのは、
わからない、という状態でかまわないのであり、あの世はあるから→先祖の怨念というモノもあるであろう、とは考えてはいけないのです。それは、分からないのですから。レイヤーの1番も分からない、2番もわからない、3番もわからない、4番もわからない、層(レイヤー)すべて分からない。
もっと極端にいえば、もし私の頭がそれを信じたとしても、実際にあの世があるかは、分からないのです。献金をして、それで解怨ができるかどうかも、分からないのです。解怨ということがあるかどうかすら、分からない。あの世があるかどうか、わたしが確信したとしても、あなたが確信したとしても、マザームーンさんが確信したとしても、だれにも分からないのです。
カルトの問題は、信者のみならず地球上の一人ひとりが向き合わなくてはいけない問題だ。
教師としては、子どもたちにどんな授業をすればいいのか、と思う。
事実を事実だとする、ということですら、子どもたちと共に学ぶ時間を確保するのは非常に困難である。とくに高学年になればなるほど、「そんなひまないよ」という空気が濃厚になる。
どうすれば、そういうことを学べるのだろうか。
授業の組み立てを、考えていきたい。
わたしは、この、「たとえだれが確信したとしても、事実については分からない」ということについて、道徳の授業で教えるべきだと考えます。
ほんとうはどうかわらかない。
分からないからこそ、謙虚に検討し回りの意見にも耳を傾ける気持ちになるのでしょうね。
あらまそうかい
がしました