小学生の担任としては、今回の事件は残念でならない。
なぜなら子どもに対して、暴力を肯定することになるから。
「だって大人だって暴力に頼っているじゃないか」
こう考える子に対して、教師はひるんでしまう。
人間はどうやら、うまくいかなかったりなにか原因があり、手間のかかる道筋をたどることができなくなると、
「もうやめた」
と思ってしまう生き物らしい。
一つひとつ、他の意見と比較したりすりあわせたりと、民主主義の進み方は手間がかかる。
その手間がかかる、という一点にものすごい価値があり、だからこそ冷静になって暴力を避けることができるのだが、それを忘れて「自分の思い通りにことを運びたくなる」。
そこで、「だったらもういっそのこと暴力で」と考えてしまうようだ。
メディアが安倍批判をくりかえすから、それに影響された犯人が一線を越えて撃ってしまったのだ、という人もいる。(のちの報道で、それは事実ではなく特定の宗教団体への恨みから、ということがわかりまました)
ところがこの筋道はおかしくて、安倍批判ができるのであればむしろ暴力は抑えられます。
安倍批判ができなくなったので、「批判が無理ならいっそのこと暴力で」となったと考えるほうが筋道が通るでしょう。
安倍批判がしっかりできて、その批判や言説がきちんと取り上げられ、安倍さんの方もその批判に向き合ったことがよく分かるのであれば、もしくはそれに対する反論がきちんとした形で(あいまいな答弁や正対しない答弁だったのでなく)なされたのであれば、むしろテロは起きません。
ところがそうでなかった。
黒塗りだらけの資料、まともに答えない答弁(国会中継をみると非常によくわかります)、「仮定の話にはお答えをいたしません」という回避、資料の改ざん、法に定められた保管期間を無視してシュレッダーにかけてしまうというような証拠隠滅行動など、言論を馬鹿にするかのようなことが次々と起きたために、
「ああ、もう言論では無理なのかも・・・だったらいっそのこと暴力で」
と考えるような思考になってしまう人も、おそろしいことですがあるかもしれない。
議会制民主主義を人間が選択するようになった背景には、王という絶対権力者の横暴を避けるため、独裁という暴力を避けるため、どうしたら暴力で双方が滅亡する道をたどらずにすむか、ということを真剣に考えてきたという歴史がある。
日本の民主主義も、太平洋戦争という大きな代償を払って、ようやく「暴力以外」の選択肢をとることしかない、というふうに育ってきた。
ところがここで、戦後の努力をかなり減らしてしまうような暴力事件である。
犯人は「言論よりも暴力」という、戦前の軍事思想をわれわれに押し付けてしまった。
たしかに権力をにぎった政治家が暴走することはある。
権力側に居る人間がその権力をかさにきて好き放題してしまう、私利私欲に走ってしまう、ということがあるかもしれない。権力があればそういうこともできてしまうわけですが、それを言論がなんとか歯止めをかけることができた、それが戦後の民主主義国家の前提でした。
しかし、政権への自由な批判、内閣政府への自由な批判をひるませるような世の中の空気が醸成されてしまえば、これは「いくら言ってもだめだ、だったらもういっそのこと暴力で」と考える一定の人達を生むことになってしまう。
小学生の教室も、まったく同じ民主主義国家の中の学校であり、同様に言論が自由に行われ、それらが保証されていなければならないし、言論が保証されているからこそ、けんかをふせぐことができている。教師は、児童がなにを話してもいい、話す内容を保証し、その機会を与えなければならない。
頭ごなしの指導は、その言論を封鎖することになる。
土台、民主主義というのは根性も必要だし、ねばりも必要、自制心も必要、論理的な思考も必要であり、かなり難しい高度なことである。だが逆に言えば、これらを目指し、これらに準拠さえできていれば、最悪の事態は避けることができる。殺し合わずに済む。
大人も民主主義に慣れていない。民主主義が地球全体で機能するためには300年かかる、という人もいる。大人ですらそうなのに、子どもが中心となる教室はさぞかし難しいだろう、という人も多い。
しかし、大人がすぐにあきらめて「言えないのなら、いっそのこと暴力で」と考えるのにたいし、子どもは案外と「◯◯ちゃんといっしょに考えて相談したほうがいい」と考える。
それは世の中をそれほど諦めていないという点、すてきなことがたくさんあるという元来の肯定感、期待感、友達はやさしくしてくれるものだという信頼感など、大人にとっては忘れ去られた道徳を子どもはなぜか持っているからだ。
教師はそれがあるからこそ教室の秩序を保てていたのに、今回のような事件がおきたら、子どもを不安にさせ、その不安が子どもの本来の安心感を損なうことになるかもしれない。そこが残念だし心配だ。
かくなるうえは、子どもにたくさん気持ちを出してもらい、語ってもらうしかない。
ふだんから安心して話ができる教室、ふだんから安心して友達と遊んだり学んだりできる空間。
安心感、信頼感。
さいごに頼るのは、こういう人間の根幹にあるものに突き当たる。
これらはやはり、「政治家が口で言うことと実際に行うことの両方のうち、実際にやっていることをみる」という基本的な国民の姿勢があれば、みえてくるし、醸成されてくる。
勇ましい口ばかり、リップサービスばかり、希望的なイメージを語るだけの儲け話ばかり、ではだめ。
実際に弱い立場にすぐに落ちてしまう国民すべてを大切にする行動をとっているかどうか。
さあ、明日は投票だ。行こう。
なぜなら子どもに対して、暴力を肯定することになるから。
「だって大人だって暴力に頼っているじゃないか」
こう考える子に対して、教師はひるんでしまう。
人間はどうやら、うまくいかなかったりなにか原因があり、手間のかかる道筋をたどることができなくなると、
「もうやめた」
と思ってしまう生き物らしい。
一つひとつ、他の意見と比較したりすりあわせたりと、民主主義の進み方は手間がかかる。
その手間がかかる、という一点にものすごい価値があり、だからこそ冷静になって暴力を避けることができるのだが、それを忘れて「自分の思い通りにことを運びたくなる」。
そこで、「だったらもういっそのこと暴力で」と考えてしまうようだ。
メディアが安倍批判をくりかえすから、それに影響された犯人が一線を越えて撃ってしまったのだ、という人もいる。(のちの報道で、それは事実ではなく特定の宗教団体への恨みから、ということがわかりまました)
ところがこの筋道はおかしくて、安倍批判ができるのであればむしろ暴力は抑えられます。
安倍批判ができなくなったので、「批判が無理ならいっそのこと暴力で」となったと考えるほうが筋道が通るでしょう。
安倍批判がしっかりできて、その批判や言説がきちんと取り上げられ、安倍さんの方もその批判に向き合ったことがよく分かるのであれば、もしくはそれに対する反論がきちんとした形で(あいまいな答弁や正対しない答弁だったのでなく)なされたのであれば、むしろテロは起きません。
ところがそうでなかった。
黒塗りだらけの資料、まともに答えない答弁(国会中継をみると非常によくわかります)、「仮定の話にはお答えをいたしません」という回避、資料の改ざん、法に定められた保管期間を無視してシュレッダーにかけてしまうというような証拠隠滅行動など、言論を馬鹿にするかのようなことが次々と起きたために、
「ああ、もう言論では無理なのかも・・・だったらいっそのこと暴力で」
と考えるような思考になってしまう人も、おそろしいことですがあるかもしれない。
議会制民主主義を人間が選択するようになった背景には、王という絶対権力者の横暴を避けるため、独裁という暴力を避けるため、どうしたら暴力で双方が滅亡する道をたどらずにすむか、ということを真剣に考えてきたという歴史がある。
日本の民主主義も、太平洋戦争という大きな代償を払って、ようやく「暴力以外」の選択肢をとることしかない、というふうに育ってきた。
ところがここで、戦後の努力をかなり減らしてしまうような暴力事件である。
犯人は「言論よりも暴力」という、戦前の軍事思想をわれわれに押し付けてしまった。
たしかに権力をにぎった政治家が暴走することはある。
権力側に居る人間がその権力をかさにきて好き放題してしまう、私利私欲に走ってしまう、ということがあるかもしれない。権力があればそういうこともできてしまうわけですが、それを言論がなんとか歯止めをかけることができた、それが戦後の民主主義国家の前提でした。
しかし、政権への自由な批判、内閣政府への自由な批判をひるませるような世の中の空気が醸成されてしまえば、これは「いくら言ってもだめだ、だったらもういっそのこと暴力で」と考える一定の人達を生むことになってしまう。
小学生の教室も、まったく同じ民主主義国家の中の学校であり、同様に言論が自由に行われ、それらが保証されていなければならないし、言論が保証されているからこそ、けんかをふせぐことができている。教師は、児童がなにを話してもいい、話す内容を保証し、その機会を与えなければならない。
頭ごなしの指導は、その言論を封鎖することになる。
土台、民主主義というのは根性も必要だし、ねばりも必要、自制心も必要、論理的な思考も必要であり、かなり難しい高度なことである。だが逆に言えば、これらを目指し、これらに準拠さえできていれば、最悪の事態は避けることができる。殺し合わずに済む。
大人も民主主義に慣れていない。民主主義が地球全体で機能するためには300年かかる、という人もいる。大人ですらそうなのに、子どもが中心となる教室はさぞかし難しいだろう、という人も多い。
しかし、大人がすぐにあきらめて「言えないのなら、いっそのこと暴力で」と考えるのにたいし、子どもは案外と「◯◯ちゃんといっしょに考えて相談したほうがいい」と考える。
それは世の中をそれほど諦めていないという点、すてきなことがたくさんあるという元来の肯定感、期待感、友達はやさしくしてくれるものだという信頼感など、大人にとっては忘れ去られた道徳を子どもはなぜか持っているからだ。
教師はそれがあるからこそ教室の秩序を保てていたのに、今回のような事件がおきたら、子どもを不安にさせ、その不安が子どもの本来の安心感を損なうことになるかもしれない。そこが残念だし心配だ。
かくなるうえは、子どもにたくさん気持ちを出してもらい、語ってもらうしかない。
ふだんから安心して話ができる教室、ふだんから安心して友達と遊んだり学んだりできる空間。
安心感、信頼感。
さいごに頼るのは、こういう人間の根幹にあるものに突き当たる。
これらはやはり、「政治家が口で言うことと実際に行うことの両方のうち、実際にやっていることをみる」という基本的な国民の姿勢があれば、みえてくるし、醸成されてくる。
勇ましい口ばかり、リップサービスばかり、希望的なイメージを語るだけの儲け話ばかり、ではだめ。
実際に弱い立場にすぐに落ちてしまう国民すべてを大切にする行動をとっているかどうか。
さあ、明日は投票だ。行こう。