原康男さんという人は、十八歳の時から二十年間あまり、いくつかの共同体を放浪してきた」~『気流の鳴る音』真木悠介著より~

この方が厚木市につくったのが『ふりだし塾』という場所である。

どんな人でも、幾日でも幾年間でもそこに寝泊まりしていくことができる。
それぞれの力に応じた仕事を与えられながら、毎日の生活そのものの中で人間を形成していくという「塾」である。
一時は何十人もの若者たちがここに集い、独特の集団を形成していたという。

おもしろいのは、ここに集う者のうち、少し能力のあるものは、そのうちにペアをつくったり集団を別に作ったりし、結局は飛び出してしまうらしい。

それを聞いた人は、
「居心地がよくないからだろう。あそこは理想とは程遠いのだ」
ととらえる。

そうなのだ。
残るのは、別にだれにも好かれず、とりえもないような人物ばかりが残る。
これではコミューンとしては大失敗だ。

ところが、当の原さんは、その話を肯定する。
「能力の少しある人、魅力のある人はいいんです。なにも無い人がいられる場所が人間としての理想の居場所だからです」
どこにもいけない。そういう人物が生きていかれる場所をつくりたい、というのが原さんの野望である。

この話を聴くと、コミューンとか、村とか、居場所とか、およそ人の集まる場所についての理想というのは何か、と考えたくなる。

わたしは職業柄、いつも常に、学級集団のことを考える。
それは同時に学年の集団でもあり、学校の児童集団、そして教職員も含めた全員の集団をさす。

集団の魅力とはなにか、というのが、教師の永劫の「問い」である。

子どもたちは一人ひとりをみれば、必ずそこに魅力が宿り、ユニークさが宝のように見える。
教師はそれらを重ね合わせる学級集団という「組織」をつかさどっており、個が輝くと同時に、さらにお互いがその魅力を増すような仕組みがないものか、と常に妄想している。

良い集団と言うのは、いつまでもいたくなるような場所であるにちがいない、というのが通常の考えだ。しかし、原さんだけはちがう。
「能力のある人がそこから去ってしまう場所、しかし、能力のない人がそこに残っても良いような場所をつくりたい。それがおよそひとの居場所としては最高の場所だからです」というのだ。

果たして、そうだろうか。

能力のない人がそこに残って「居てよい」。
最後の、「居てよい」が、「居てはいけない」に変われば、それはファシズムであろう。

それゆえに、学級には床に寝そべる子がいても良いし、「先生、〇〇くんが寝ちゃってます」があっても良い。その子は、「そこに居ても良い存在」である。

ただし、それは本人の意思、おうちの人の意思にも支えられて、という条件のもとだ。
本人がその教室にいたいのであれば、それはもう1mmも、問題はない。
他の親や、他の大人がまゆをひそめようが、「彼のために」と親切心をはたらかせようが、本人がいたいのであれば、1mmも、問題は生じない。だれも困らない。

〇〇くんが寝そべったまま、教室の床の模様を紙に写している。
他の子はみんな算数をしているから、ときおり席を立って相談したり、歩いたりもする。
しかし、SちゃんもFちゃんも、みんな〇〇くんを上手によけながら歩いて、別に邪魔にも思わないのである。

下は、原さんの唯一の書物『ふるさとの本』。主婦と生活社から出版された。
生活を成り立たせる方法、仕事の仕方などについて、ていねいに綴っている。
ひとの生活とは何か、暮らしとは何か、それを支えるひとの所作とはどういうものか。
「だれも理想とは思わない場所こそがひとにとっての理想の場所だ」という、一見急進的でラディカルにすら見えるその思想は、こうしたひとの生きる様式を具体的に、つぶさに見ようとする視点から生まれた。都会でワーワーと人を扇動するような政治家には、こうした視点をもつことは不可能だろう。

ちなみに、この本の挿絵を担当した遠藤ケイ氏は、図鑑や民俗、山の暮らしのスケッチを描かせたら天下一とよばれる人物である。

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