子どもたちにウクライナをどう説明するか。
卒業式も近いのに、なぜか「戦争」の話題になる。
本当にげんなりする。

「日本も核を持てばいい」と子どもが言い出す。
広島長崎、そして福島の原発まで勉強したのに、そういうことを言う子もいて、どういう情報がこの子の頭にINPUTされたんだろう、と素直に不思議に思う。

私が不安なのは、プーチンが最初に軍を動かして占拠したのが原発だった、ということ。
これが重要な作戦になる、という意味らしい。
わたしは軍事のことは分からないけれど、やはりこれで「原発のある地域」には心情的には住みたくな、と正直に心の内情をうちあけると、そう感じてしまう。

また、テレビで日本も核保有をする議論をしているのが、ちょっと不思議な異世界のことのように感じる。タレントで、「潜水艦に原子爆弾の核弾頭をのせて配備する」と勇ましく意見を述べている人もいるらしい。

勇ましい、というのは、妙にこころをくすぐる言葉だ。
勇ましさ、そして武勇、雄々しさ。
これは本来であれば、人間がめざすべき世界を示しているように思う。

わたしが史上最も勇ましいと思ったのは、武器に頼らない姿に、だ。
軟弱ものはすぐに核だとか、武器に頼ろうとする。
ところが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの動画をみると、
手に手に警棒や犬の鎖などを持った白人警官の部隊へ向かって行進していくマーティンたち黒人の列は、本当になにも持っていないのだ。
これほど勇敢な姿はないだろうと思う。

わたしは昔読んだ書物で、
「真のヤマトダマシイがあれば、武器などに頼らない」
という文章に出会ったことがある。
たしか、太平洋戦争末期、日本軍人で上記のようなセリフを言った将校がいたのだった。
わたしはこれを真実だと思う。この日本男児は、本当の勇ましさを知っていたのだ。

さて、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、そのまま白人の近くまで歩いていき、目の前に行くと跪(ひざまづ)き、白人の目をみながら懸命に祈りはじめる。
その姿を見て、警官たちは最初の列をなぐりはじめるが、なぐってもなぐってもだれもそこを立ち去らない。黒人たちは、ますます懸命に祈るばかり。

白人はついにその場を明け渡し、黒人は感謝の言葉を口々に発しながら、警棒でなぐりつづけた白人をだれも責めることなく、そのまま行進をつづける。

さて、以下はちょっと知人に聞いた話。
核弾頭を付けた巡航ミサイルについて、もしもアメリカと同様の技術を日本がもち(開発できたと仮定した場合)それを製造し、ミサイルを搭載した潜水艦をつくり、潜水艦を保持点検修理する施設をつくったとしたら、まっさきにそこが攻撃されるだろう、ということでした。

「そういう設備を〇〇市につくります」
と言ったら、その〇〇市の方たちは果たして賛成するのかどうか。

賛成する人もいるかもしれないが、ほぼいないだろうなあ。
そこが敵にとって、作戦上もっとも重要な攻撃対象となるからだ。
要するに、日本に対する核の脅威を増大こそすれ、減らすものとはならない。

まあ、こんな記事を載せる時代がくるとは思わなかった。
しかし、テレビで子どもが見るからね。「核を持とう」と話す大人の姿を。
これは教室でも話題になってしまう、ということ。

学校は、学校教育に忍び寄る社会的分断に対して、なにができるかを問わなければならないというのは、すでに何度も言われてきたことです。
しかし、それがこんな「軍事の話」で、いともかんたんに「国と国とを分断する話」になっていき、人間と人間はしょせん分かり合えないのだ、となっていくのが残念でたまりません。

子どもがずっとつちかってきた、「話し合ってわかりあっていく、人と人とは協力していく」という信念も、たった一度、大人のコメンテーターがテレビで

日本も戦争ができるようになればいい

とつぶやくだけで、あっという間に瓦解する。

一方で、ヒトラーなどの狂人政治家に対しては、どうにもできない、とも思う。
非暴力も何も通じないような気がする。
非暴力が通じるのは、まともな人、良心のある「世間一般」に対してであって、ハナから人を殺す気出来ている人の前で「非暴力」もなにもない。

今、なぜ時代そのものが「重くなっている」かというと、
狂人が政治をしているから、ということなのだろうと思う。
これに対抗するには、どうしたらいいのか。
大人だって答えをもっていない。
社会の仕組み自体を、「戦争する気になれない」ように変えていくしかないし、
そうした仕組み、システム、お互いの関係そのもの、を新たに「発明」するしかない。
これは、ただ「戦争しないようにしましょう」と言うだけではダメだ。

これは教育界はどうするか、試されている時代に入ったなあ。

MOON